『幸色のワンルーム』(以下、「幸色」)放送中止騒動について、弁護士・太田啓子氏の記事を読んで思ったこと。
この日記は、以下の記事を読んでの感想である。筆者が、他所での議論をほとんど追えていないことについては、ご容赦願いたい。
以下では、当該記事の内容について適宜要約し、筆者なりの疑問点を整理していく。
【元記事の要約①】「幸色」放送中止への批判として、『ルパン三世』や『名探偵コナン』は放送中止にならないのに、なぜ「幸色」だけが、というものがある。この批判に対して、太田氏は、現実における殺人犯と誘拐犯の認知の違いを説明することで応答している。すなわち、殺人犯は自身の行為を殺人であると認識している一方で、誘拐犯はその限りではない、という。また、この認識の違いは、これらの犯罪行為を受け止める側の人々の認識の違いと並行している。
→<①への疑問>太田の応答は、“現実における殺人犯は自己の行為を殺人であると認識しており、それを受け止める側の人々もそうなのだから、殺人にまつわる番組を放送したところで問題はない」というものであり、確かに「ルパン」や「コナン」が放送中止にならない理由を説明しようとはしている(内容の是非は置いておいて)。しかし、この議論から導き出せるのは、せいぜい“誘拐のテーマは殺人よりも注意して放送すべきである”程度のところまでであり、副題の「なぜ殺人はOKで、誘拐はNGなのか」はミスリーディングである。
【元記事の要約②】太田氏いわく、『幸色のワンルーム』は、加害者や一部の人が事件に抱いたであろう妄想を作品にしたものであり、「実在の被害者に対する中傷そのものだと思う」という。
→<②への疑問>言いがかりに過ぎない。
【元記事の要約③】太田氏は、ドラマ公式SNSの“盗撮ハッシュタグ”に触れた後、「公共の電波に乗せるのは、表現者の社会的責任を伴い、おかしな社会規範を作ることに寄与することは、やはりやってはいけないと考えます」と述べる。
→<③への疑問>“盗撮ハッシュタグ”に眉を顰める気持ち、そして“公共の電波に乗る表現には社会的責任が伴う”、という点には同意できる。ただ、もっとも議論されるべきは、“「幸色」の表現者が十分な社会的責任を果たしていない、と言えるのかどうか”という点である。問題は、瑕疵の有無ではなく、その大きさなのである。太田氏の記事では、この点についてあたかも自明のことであるかのようにほとんど触れられておらず(太田氏が、別の場所で議論しておられるのであれば、申し訳ない)、実際問題、この点についてほとんど議論がなされないまま放送中止が早々に決定されてしまった。
【元記事の要約④】誘拐の被害者は「助けを求めなかったからといって、誘拐犯と一緒にいることを望んでいたということではあり得ない」。しかし、今の日本社会では「女性が被害を訴える声を歪曲して捉える空気が強すぎる。このような空気の社会の中で、『女児を誘拐したが実はその女児はその「誘拐」を喜んでいた』という言説を肯定的に描くことは、女児誘拐についてのそのような歪んだ認知を肯定し強化することにならないでしょうか。」
→<④への疑問>まず、「助けを求めなかったからといって、誘拐犯と一緒にいることを望んでいたということではあり得ない」についてだが、“必ずしもあり得ない”という意味なら同意できるが、“絶対にあり得ない”という前提であるならば、疑問である。“人間が何を望んでいて何を望んでいないかはっきりとひとつに決定できる”という素朴すぎる人間観は置いておいて、実際のところ、実親からの虐待から逃れるための緊急の避難が、結果として誘拐事件というかたちをとってしまうケースはままあるように思われるからである(筆者は、それを肯定している訳ではない)。ただ、「誘拐犯と一緒にいることを望んでいたということではあり得ない(というのが常識になるべきだ)」という太田氏の見解は、客観的な事実の認識というよりはむしろ、弁護士としての倫理を加味したものであるように思われるし、そのこと自体に対しては、筆者は敬意を表する。次に、「女児誘拐についてのそのような歪んだ認知を肯定し強化することにならないでしょうか」であるが、これに対しては、“それは本当なのか、本当ならどれほどのものなのか”“それは果たして放送中止に足る理由なのか”という二つの疑問が浮かぶ。前者の疑問は、そのままの意味で、「幸色」の放送によって“歪んだ認知の強化”が本当に起こるのか、起こるとしてそれはどれほどの強化なのか(微々たるものではないか)、という疑問である。また、後者の“それは果たして放送中止に足る理由なのか”という疑問は、もし「幸色」によって引き起こされる“強化”が微々たるものであるならば、それは「幸色」の表現者が果たすべき社会的責任の範疇を超えているのではないか、という疑問である。そもそも、社会というのは、何かひとつのドラマによって大きく変わったりするようなものではないだろう。もしそういうことがあったとすれば、それは社会のなかで変化への準備が潜在的に進んでおり、作品が最後の一押しになったということにすぎない。そうだとすれば、個々の表現に過敏に反応する態度は、社会の本質的な領域から目を背けた盲目的な“水際作戦”であり、また作品への“責任の押し付け”になりかねないようにも思われる。
【元記事の要約⑤】表現の自由は「公共の空間で何をやってもいい権利ではない」。『表現の自由への弾圧』という批判は的外れであり、太田氏は、公共空間のあり方や、社会規範の作り方の話をしているのだという。
→<⑤への疑問>表現の自由は「公共の空間で何をやってもいい権利ではない」、という点については同意である。しかし、繰り返しになるが、もっとも大事な論点は“「幸色」は本当に許されない表現なのか”ということであり、元記事では、その点について一方的な議論しかなされていないように見える。放送中止を批判している人々も、太田氏と同様に、「公共空間のあり方や、社会規範の作り方の話をしている」ことは明白であり、「『表現の自由への弾圧』という批判は的外れ」という応答は、それこそ的外れの揚げ足取りではないか。
【筆者の意見とまとめ】
「幸色」放送中止騒動について、筆者が問題視しているのは、公的な権力による弾圧ではなく、むしろ<私的な検閲>と呼べるようなものである。公的な検閲によって作品が発禁になった、という過程ではなく(すなわち、行為主体の種類の問題ではなく)、あるイデオロギーによって「幸色」が放送中止に至った、という実際的な結果に注目しなくてはならない。元記事には「作品が“世間にどう受け取られるか”を熟考することも重要」とあるが、「幸色」を放送中止に至らしめた“世間”とは、決して“世間一般”のことなどではなく、特定のイデオロギーをもった少数の人々にすぎない。少数の人々からの批判にテレビ局が過敏に反応し、“本当に許されない表現なのか”を議論する機会が十分に設けられないまま、放送中止の決定が下される。“事実上は”の次元では、特定のイデオロギーによる“世間”を無視した検閲が行われているのである。それが果たして「公共空間のあり方」として正しいのだろうか?
ここまで筆者は、「幸色」の表現の瑕疵はそれほどまでに大きいのだろうか、という疑問を発してきたが、一方で、「幸色」の表現にはプラスの面もたくさん存在するだろう。生きづらさを抱える少女少年に希望を与える(例えそれが幻想にすぎないとしても)ことはもちろんのこと、適切にテロップを入れるなどすれば、虐待問題への啓発にもつながる。そんな大きなことを言わなくても、普段何気なく接してる表現がいかに我々の人生を豊かにしているか、考えるまでもないだろう。表現の瑕疵ばかり取り立てるのではなく、“望ましい表現”か“許されない表現”かの二分法に訴えるのでもなく、光る部分にも目を向けていくべきではないだろうか。“100%良いもの(表現)”というのは、それが人間の営みにおいてほとんど存在しないということもあって、薬にも毒にもならない(ただ筆者は、そんな“何の役にも立たない”ような表現にも、発表の機会が与えらるよう願いたい)。
「幸色」は、本当に“許されない表現”だったのだろうか。そして、<私的な検閲>が事実上機能している現在の状況は、果たして公共空間・公共の表現の場として、望ましいものであると言えるのだろうか。
弁護士と言っても別に中立な正義の代理人では無く、自分の政治性と一致する限りいくらでも綺麗ごとを言うし、こじつけるし、都合が悪い事は極力触れないか無視するんだなぁ…とい...
そもそも弁護士の仕事は、依頼人の為に白を黒と言う…は大げさでも、少しの白を見つけたらそこを極限まで広げ、他の黒は極力触れないか存在していないかのように誤魔化すのが仕事...
こいつは、依頼人の為だけでなく自分の正義のためにその手管を使う。
この弁護士らが「幸せのワンルーム」は批判弾圧して「万引き家族」を批判しないのはなぜか?twitterに書いている人がいた。 こういうヤツらが白黒付ける役になるなら、ますますヘイ...
ポリコレが万人にとっての正義であるなら、その基準には常に批判の目が向けられてしかるべきだし、 それが嫌で自分の好き勝手に決めたいのであれば、そんな恣意的な線引きに強制力...
万人にとっての正義なんてあるはずがない。 この弁護士の様な人間の望む先は、「自分たちがすべての表現を検閲できる世界」だが、 実際に訪れるのは「表現のない世界」になるだろ...
極小まで表現の分類が減少するだけでその範囲内での自由度は大して変わってなさそう モールス信号文学とか読んでみたい
極小まで表現の分類が進んだ結果、人目に触れなくなって死ぬ表現が山ほど出てくる。
今だっておちんちんダンスみたいなこと人前でやれないしあんま変わんなくない?
あなたの好きなコンテンツも、「おちんちんダンスみたいな表でできない表現」と同列にされてしまうということ。 そもそも、なぜ「おちんちんダンス」は表でできないのだろうか。 ...
モールス信号は語彙自体が制限されるわけじゃないから。 キャラクターが棒人間や球体だけの漫画とか、小学校低学年までの語彙の文学とかでどこまで高度な表現が可能か見てみたい。
元記事には「作品が“世間にどう受け取られるか”を熟考することも重要」とあるが、「幸色」を放送中止に至らしめた“世間”とは、決して“世間一般”のことなどではなく、特定の...
世の何割が賛成して何割が反対した、というソースでもあるの? これこそ、作品批判側が出すべきソースだろ。 むしろ、ソースもないのに多数派気どりかよ。 それに反対する人が...
作品批判側は別に多数派だから自分たちは正しい、などと言ってるの見た事ないが。 放映中止を決めたテレビ局側も、単純な数では判断してないだろうし。 そのために「賛成する人...
数云々はその前の増田への反論で、私も重要とは思ってない。 問題は、 ・作品批判側が「個人の正義」を振りかざして作者やファンに迷惑をかけたこと この一点に尽きる。 「被害...
「被害者をセカンドレイプするドラマ」というレッテルがそもそも万人の同意を得たものではなく、 作品を批判するのに万人の同意を得る必要はない。表現の自由なので。 作品批判...
中止に追い込むほどバッシングしといて、「勝手に止めただけ」などと言い張るヤクザの理屈 ドラマを見てからならともかく、始まる前からバッシングしてるので擁護の余地はない
だから、批判するのは自由だし、中止するのも自由。 表現の自由戦士は何故批判の自由は認めないんだろうか。 批判の自由がない国の方が恐ろしいわ。
こういうこと言ってる人に限って自分の好きなものに火の手が回るとまぁ発狂するわけだw
批判はいい。自由だ。 しかし、批判のあまり「放映中止にせよ」というのは、相手の表現を殺すことだ。 殺人の自由がないのと同じく、許されてはならない。 この作品には未だ「関...
放映中止を訴えるのも表現の自由だよ。
それは違う。 他人の人権を損ねる権利はない。 他人の表現を殺そうという主張は、ヘイトスピーチ。
ふーん、 まあどちらも自分勝手、自分本位の批判からはまぬがれないんでクローンみたいなもんですわな https://anond.hatelabo.jp/20180625174620 表現の自由戦士は何故批判の自由は認めない...
「自分勝手」「自分本位」って... それ自分に帰ってくるん分かってるか?他人の表現を「俺は見たくない」が「自分勝手」「自分本位」以外の何だってんだ そして「批判」の自由は認...
楠木先生の表現を「許さない」と批判?していた人にしちゃトーンダウンですな おまえって本当進歩がないよね なおこれが自分の増田だったら探すのにもうちょっと苦労しないですむん...
なんで自分の増田をずっと言及してるの?
「特定のイデオロギーを持ったごく僅かな人々が」「激しいバッシングをしたから」「中止に追い込まれた」 って見方こそ特定のイデオロギーなんだよなー 「批判する人が多く」「そ...
ブラックペアン云々はなんの話だか知らんけど、批判者が少数でないことを証明する責任があるのは批判者の側だろうな。署名なりなんなりしてさ。
そんなもん証明しなくてもテレビ局は批判を受けて中止を決めているので、そんな事する必要がない。
批判の正当性も定かじゃないのに通したテレビ局も、開き直る規制派もクソ
そもそも、他人の表現を殺そうとする行いに「真っ当な指摘」などない。 あと、最近では目立つネットいなごの方がフツーに影響力あるので。 ま、せいぜい貴方の好きな作品が表現...
ネットの力とやらをやたら過大視している人か ネットいなごにしろ、それが「特定のイデオロギーをったごく僅かな人々」ではないから問題になるんだけどねえ。 どんなにネトウヨが...
ならば、覚えておくといい。 あんたの好きな作品もいずれ、数の力で潰されるだろう事を。 その時に後悔しろ。 私は嫌だから、今規制を訴える奴らを徹底的に叩く。
人の命が奪われる作品は好き勝手に楽しんでおいて、人の貞操が奪われる作品は嫌というのは、単なる好き嫌いの結果でしかない ただ嫌いなものを潰したいだけなのに、無駄に主語ので...