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はてなキーワード: 五感とは

2015-03-24

[]アナル存在

http://anond.hatelabo.jp/20150324030603


存在定義問題ですね。

視覚などの五感から認識できるもののみが存在なのか、脳が認識できれば存在なのか。

例えば『愛』なんかは、五感認識できないが、脳はその存在、というか概念認識できる。

ということで、存在すると言ってもいいのかもしれない。


じゃあアナルは?

アナルとは実体を伴う概念なので、脳がその概念認識しただけでは、存在するとは言えないのではないか?

そういう概念が頭の中にあるというだけで。

例えると、『幽霊』という概念は頭の中にある。じゃあ、存在するのか?

その前に実体あるの?目で見えるの?触れるの?

実際に「見た」と言っても、見間違いじゃないか?って話になる。

逆に、「はっきりとこの目で見たんだ!」と思っていれば、その人には幽霊はいるのだろう。

アナル存在すると思っていれば、その人の中には存在しているのではなかろうか。


もちろん私の頭の中にもアナルという概念存在する。しかし、想像はつかない。

実際に見ても、シールだ、幻だ、と信じない。

幽霊見ても気のせいだろう、と思うのに似ている。

そんな感じです。私の中のアナルは。


アナル増田

2015-03-15

[]アナル

アナル五感で味わうことで、その魅力を100倍にすることができる。

見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触る

AVアナルを堪能するのは限界があるのである

見るだけだから

そこで登場するのが第六感であるアナルである

アナル感は全ての感覚を補うことができる。

研ぎ澄まされたアナル感は画面に広がる映像しかないAVアナルをひたすらリアルに感じさせてくれる。

さらには妄想により、見ずとも鮮明に具現化できるようになり、

いつしか、街中で可愛い女の子を見るだけで肉々しい熟れた生アナル脳内に蘇ることだろう。

脳内であれば、ほじろうが、舐めようが、アナルfuckしようが、やりたい放題だ。

この素晴らしきアナルであるが、妄想だけではたどり着けない境地である

実際に見て触れて嗅いでみて、はじめて体得できる感覚なのだ


アナル感を養うには実戦あるのみ。

風俗でもなんでもいいから、ひたすら生アナルを見よ!

そのときアナルだけでなく、女の裸体を触り、嗅ぎ、舐めまわし、その質感を脳内に叩き込め!

全身をくまなく堪能することにより、さらアナル感に磨きがかかる。

可愛い女の子を見つけたら口説け!アナルのためだったら何でもしろ

アナルに魂を売るのだ!


アナル増田

2015-01-06

http://anond.hatelabo.jp/20150105210606

大事なのは五感を全部使って、おいしくて満足のいく食事をするってことなんだ!

焼肉ゴリ押しするのは、五感をフルに使うからだ!

そして、眉唾だけど、漫画の「おおきく振りかぶって」の1巻か2巻あたりの合宿顧問先生が語る食事の仕方は効果あるぞ!

・食事をするときすぐに箸をつけず、一旦おいしそうという期待を持つ

・食事をするときは食べることに集中をして味わって食べる

・食べ終わった後においしかったーと満足感に浸る

こんな感じだったと思う。

おおきく振りかぶって 食事 ホルモン とかで検索すると出てくるから騙されたと思って試してみるといい。

眉唾っていうのは、根拠となってる学説とか論文とかのソースが見つからないから。でも、自分の体験としては効果はあった)

あとは無理をしないで、しんどかったらなにがしんどいかっていうことを口に出して、ときには休むこと

困っていることとか辛いこと、助けてほしいことはきちんと言葉にしないと伝わらないって、夜回り先生の女版の人だったかが言ってたけど、

本当にその通りだと思う、察してほしいとか察してくれとかいうのは無理がある。

感情を素直に受け止めて、言葉表現できるようになると問題解決の糸口もつかめると思う。

2015-01-05

カジュアル瞑想のすゝめ

 現代ストレスを抱える人々に勧めるカジュアル瞑想時間です(ここ笑うところです)。

 現代人は様々な情報五感論理野などで処理しなければならず、論理野や脳に非常に多くの負担を抱えています


 これらの負担を解消する為にもっとも適しているのが、質の良い適切な長さの睡眠なのですが、中々そういった睡眠を得ることは難しいのが実情です。というわけで、この質の良い睡眠代替物としての、「カジュアル瞑想」を勧めていく次第です。


 人間情報処理の為に普段から脳を酷使しているので、その処理を一時的ストップ、あるいはスローダウンさせ、そして休憩を行わせるというのが、この「カジュアル瞑想」の主旨でございます

 して、そのような処理のストップ・スローダウン・休憩はいかなる方法で、いかなる瞑想で達成されるのかと言えば、大したことをする必要はありません。


 要するに、目を閉じ、呼吸を深くし、できるだけ言語による思考をしないようにする、という、この三つです。この三つを守れば、自ずと脳の休憩は達成されるでしょう。

 同時に、そのような瞑想の際に、できるだけストレスが掛からないようにする、というのも重要です。


 瞑想というのは、何かを悟る手段のものとして使われる場合があります

 これを、カジュアル瞑想に対して、「フォーマル瞑想」と名づけましょう。

 しかし、そのような瞑想真剣味を帯びるあまり人間ストレスを掛けてしまます。「どうしても言葉が浮かんでくる! これじゃダメだ!」とか、「もっと集中しなきゃダメだ、こんなんじゃ真理に辿り着けない」とか、そんな具合に己を追い込む瞑想になりがちです。


 しかし今回紹介する「カジュアル瞑想」は、そういったストレスとは切り離された形のものです。

 要するに、上記の三つ、目を閉じ、呼吸を深くし、できるだけ言語による思考をしないようにする、を行っていて、消そうとするところの言葉が浮かんでくるようでも、別に気にしなくていいし、更にそのような瞑想を続けていてストレスが掛かるようであれば、すぐに瞑想を停止して構わない、というのが、この瞑想の主旨なのです。


 言葉が流れていてもいいのです。どんな言葉が浮かんでくるか、観察する(*)くらいの余裕を持ちましょう。

 ストレスを感じるようなら、パッと目を開けてしまいましょう。別に自分を追い込む必要はないのです。


 そうすることによって、脳は然るべき休息を得ることができますストイック瞑想とは違い、あくまで今回の主旨は、「情報処理一時的に停止し、脳を休憩させ、そして脳の能率(……)を上げていく」ということなのです。


 この瞑想は、ストレスが掛からない限りで、心ゆくまで続けてもらって構わないのですが、ただ、個人的には、普通、そこまでストイックにではなく目を閉じ、呼吸を深くし、思考を停止させようとすると、長くて三分後くらいには、目を開けたくなる欲求を感じることになるんじゃないかと思います。短くて十五秒とか、三十秒とかでも、そういう欲求を感じるタイミングがやってくると思います

 あるいは、寧ろそういう「欲求」を意識するまでもなく、自然と目が開いてしまう時があると思います


 そういう時には、特にその欲求に抵抗する必要はありません。

 ぱっと目を開けてしまいましょう。なんたってカジュアルなんですから


 というわけで、脳を然るべき形で休憩させることの効果は、欧米研究でも盛んに取り上げられており、多くのメリットを持つと言われています

 貴方ちょっとした安らぎの為に、カジュアル瞑想をしてみては?



(*)更に余裕があれば、『「言葉を観察している自分」を客観的に、一歩引いた視点から観察する』、というのもいいかもしれません。「俺は今言葉を観察してるんだなー」と、ぼんやりと考えてみて下さい。

http://anond.hatelabo.jp/20150105074214

肉を食え!肉!!

セロトニンの分泌にはタンパク質必要から肉食え!

プロテインとかで済ますなよ!

味わって食事をすることが大事なんだ!

から焼肉いってジュージュー焼いて、モクモクして、

五感をフルに刺激して肉食ってこい!

そして、米は食うな!ひたすら肉食え!

そうすりゃ元気でるぞ!

2015-01-02

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰4

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記を始めとして分割投稿されたものである

原稿

原稿の段階においてはこれまでより表面的な文章それ自体に関する事柄が重要となる。冲方はこの段階を「肉書き」「皮書き」の2段階に分けるが、原稿執筆推敲をそれぞれ意味しているに過ぎない。本稿では表現上の混乱を招くだけであるため、特に冲方の分類には従わない。

さて、西谷のように本一冊を使ってこれを解説したているもの存在するが、その内容は全て基礎的な日本語文法の復習であり、独自の知見は少なく、例えばうなぎ文などを交えた日本語文法それ自体に関する細やかな議論があるわけではなく、また修辞技法に関する詳細な分類と効果について言及しているわけでもない。会話文の閉じカッコの前に句点は付けない、中黒ではなく三点リーダ偶数個使う、といった些末な作法をめぐるこれらの内容について本稿では特に言及しない。

文法、作法上の間違いではないが避けた方が好ましい表現についても、断片的ながらそれぞれの作家ごとに主張されている。例えば水島の「同じ語尾を連続して使わない」「台詞以外で「である」「なのだ」という語尾を使わない」「三点リーダ感嘆符の多用を避ける」、榎本の「三行以上にわたる一文は避ける」「会話の順番を固定し、誰がしゃべっているのかフォローの文なしでも理解できる方が良い」、西谷の「物事が起こった順番に書く」などである

はいえこれらは絶対に避けねばならないものではない。例えば同じ語尾を重ねることは畳語法として効果的に機能しうる一つの技術である。会話の順番を固定する、というのも、例えば5人の登場人物の会話順が完全に固定されて順に発言しているような状態が自然な会話文として望ましいとは思えない。それぞれ場合によって使い分けられるべきであろう。

よって本項では各作家によって提案されたいくつかの修辞技法についてを断片的ながら俯瞰するにとどめる。

水島の「ラノベ文体」と榎本の「ガイド

水島は「明るい文」「ラノベ文体」として、「難しい表現を使わず、何が起こったのか一目でわかる」こと、「読者がハイスピードかつリズミカルに読める」ことが望ましいとする。

具体例として次の例を挙げている。

「すごい美少女だ!」

俺は驚き、つい声を上げた。と、同時に……、

――ドカーン

背後で、謎の爆発が!

なぜ難しい表現を避けるのかといえば、「読者は気合いを入れて読んではくれない」「メインターゲットとなる読者である中高生学校の登下校、勉強の合間などに読むので、集中して読んでくれない」からだとする。「ラノベは読み飛ばされるのが宿命」だと水島は言う。これに近しい意図を持つ指摘としては、榎本による「ガイド」の提案がある。ガイドとは榎本独特の表現であるが、「シーン冒頭に「これがどういうシーンなのか」がわかる描写を書き込む」もので、つまりそのあとの文を読み飛ばされても何が起きたのかざっくりとは理解してもらえる、という効果が期待されているものである

何が起こったのかわからないような文章を避けるべきなのは当然だろうし、テンポ悪くだらだらと薀蓄を書き連ねたようなものは(それをウリにしている作家もいることは事実だが)大体の場合避けるべき、というのはさほど違和感のない話である

はい学校の登下校、勉強の合間などに遊ぶテレビゲーム携帯ゲームは集中されないのか、といえばそうではないだろう。読者が集中してくれないのではなく、読者の集中を誘うだけの内容が無いからではないのか。

読者はバカからバカでもわかるように書きましょう、というのは、逆に言えば中身の無さ、文才の無さを読者に責任転嫁しているに過ぎないとも考えられる。筒井は様々な実験小説を書いてきたが、それは「読者の理解力に対する理解があってこそであった」と自分の読者ならわかってくれるという確固たる自負が見て取れる。もちろんそれは既に作家としての名声を確立した後だからこそ、という面は否定できないが、作家から読者をバカにしていく、という水島姿勢はいささか理解に苦しむところである

第一文と冒頭からの3ページ

クーンツ作家に与えられたチャンスは最初の3ページだという。第一文から始まる3ページで面白いと思わなければ読者はそこで読むのをやめる。そして読者を3ページで魅了するための技術として、過激なアクションに始まること、ユーモアを含ませ、一度冷静に状況説明をしてから再度緊迫した場面展開に話を戻す、という手順を紹介している。

一方で西谷は望ましい書き出しについて、いくつかのラノベの冒頭を並べてその傾向を述べており、主人公描写自己紹介、考え方から始まるタイプと、主人公の目に映るもの描写する書き出すタイプの2通りのいずれかが望ましいとしている。

また忌避すべき典型例として「壮大な書き出し」を挙げている。例えば人類の9割が滅んだ世界であることを厳かに説明するような文章は避けるべきと言い、それくらいなら他愛もない会話からはじめ、その途中で人類の9割が滅んだことを明かす方が望ましいとしている。

人類の9割が滅んだ、とは物語背景となる情報であり、重大だが具体的な動作を連想させる情報ではない。それに比べると会話文は動作とひもづくものであり、その意味ではクーンツの「アクションに始まる」という内容と大きく矛盾するものではない。

しかしながら、これも絶対的忌避されるべきかといえば難しい。

例えば名作と名高い「猫の地球儀」は

あれから七百年と半分が過ぎた。

朧はもちろん猫で、牡で、おいぼれで、最後スカイウォーカーだった。

と、まさしく壮大な書き出しで始まる。「同じ語尾を連続して使わない」に余裕で違反する3連続接続助詞「で」に加え、何の説明もなく独自専門用語を第二文目で出すなど言語道断である

しかし筆者は、上述の水島のドカーンはるか凌駕する圧倒的な魅力をこの書き出しに感じる(もちろんそうは思わない人もいるだろうし、それを否定する意図はない)。

作家に与えられたチャンスは最初の3ページだ、というクーンツの主張には、一読者としての経験則的に筆者も同意できるところではある。しかしではどういった書き出しが望ましいのか、といえば一概にこうでなければダメだ、というのは難しいように思われ、筒井による「いい書き出しかどうかは結局のところ作品全体の出来に左右される」という指摘がもっと妥当であるように思われる。

従って、アクションから入ろうが主人公身の回りから入ろうが壮大な書き出しで始まろうが、3ページで読者を作品世界に没頭させる内容が実現できればそれで問題は無いと言えるだろう。

情景描写臨場感

頭に浮かんだ順に適当に書いていくと散漫な記述になりがちであるとして、西谷は「自分が描こうとする場面を実際に図に書いて、どういう順番で描写するかを決める」のが効果的だとする。この主張はその場に存在する様々なものを具体的に詳細に想定しているかどうかの事前確認という意味合いが強い。

また、「目に見えるものだけを書いていると、リアリティーのない文章になってしまう」として五感への意識を促す。嗅覚については言及されることが少ないが、特に音については場所、方向、登場人物存在を示す役割を果たす効果的なものだとする。また西谷独特の主張として、足下の変化は触覚という点で効果であると主張する。

こうした西谷の指摘に加えて榎本による「静止したものだけでなく動作する物を混ぜる」という指摘を考慮すると、情景描写臨場感とはその情景における時間経過ではないか、と筆者は考えている。

止まった絵ではなく、音や匂いを含めた一定時間の流れを含めた「図」が望ましいという意味では、作家西谷の言うような「図」ではなく「絵コンテ」を書くべきだと言ってもいいだろう。

仮に作家自分想像を完全に文章化でき、そこから読者が作家想像通りに完全に場面を想像できるとした場合、静止画が再生されるよりも動画再生された方が臨場感が高いのは言うまでもないし、そこにに音や匂い付与されているのであれば、臨場感さらに高くなるだろう。

絵コンテという考え方はまたカメラワークへも影響すると考えられるが、映像作品におけるカメラワークセオリーとこうした娯楽小説における情景描写の順序や方法類似点、相違点については十分な調査検討必要と思われ、本項では今後の検討課題として割愛したい。

場面の切り替え

より良い場面の切り替えについて、クーンツによる指摘に触れておきたい。クーンツは「ひとつの場面が終わったら、すぐさま読者を次の場面へ案内しなければならない」こと、そして簡潔さを重視する。例えば主人公は一人自室でテスト勉強をしている場面Aと、学校テストを受けている場面Bを連結させるとする。この間にはもちろんさまざまな出来事、例えば寝て起きて朝ごはんを食べて家を出て電車に乗って学校に到着する、といった過程があるはずだが、それらをだらだら書くべきではなく、場面Aが終わった次の文ではテスト中の主人公を描くべき、という。

これは場面の切り替えにやっつけ仕事めいた過程を描く必要は無い、という単純な指摘に留まらず、各場面はプロット必要不可欠な要素であるべきで、必要のない場面を含めるべきではない、とも理解できる。例えば場面Aのあと電車ヒロインと遭遇させる必要があるのであればそれを場面Cとして独立させ、プロット上場面AとBの間に配置すべきである

会話文

クーンツは会話は全体の20~30パーセント必要だとする。一方で30ページ以上続く会話文も問題であるとしており、当然であるバランス必要である

その場に登場人物が2人しかいないときに、いちいちどちらの発言か説明しないと読者が理解できないようならその会話が悪い、という指摘や、「「言った」という動詞が連発しないよう、表現を工夫する、などというのは過ちである」というのはなかなか面白い指摘と言えるだろう。クーンツ発言内容が重要なのであれば、それ以外の「言った」という表現を「尋ねた」「口を開いた」「聞いた」など必死に工夫する価値はないとする。一方でアクションシーンでは動詞の選択は重要だとしており、その場で強調すべき要素とそうでない要素を区別することを要求している。英語日本語の違いはあれど、これは文章のメリハリを付ける上では面白い指摘と言いうるだろう。

ヒックスは会話の機能として、「ストーリー前進させること」と「登場人物を明らかにすること」を挙げるが、特に後者については人物の性格を読者に理解させる重要な要素だ、と換言できるだろう。

このようにクーンツヒックスはともに会話文を重要な位置づけにあるとみなすが、一方でラノベ作家からの指摘として、榎本は「キャラクターの会話ばかりで「そのシーンはどういう状況なのか」「今どうなっているのか」が全く書かれていない作品」を批判する。

この点については筒井が「描写や展開が面倒なのですべて会話で片付けようとする」ことを批判しており、何のために会話文を書いているのか、という目的意識に違いがあるように考えられる。すなわち情景描写が苦手だから、間が持たないから、といった問題を正面から解決するのではなく、会話文で埋めることでごまかすようなことが榎本筒井批判するところと言いうるだろう。

人称の効果と神の視点

説明するまでもないが、小説では一人称体、もしくは三人称体が多く用いられる。この人称に関しては、どの創作技術本でもありがちなミスとして、一人称体にも関わらず語り手の知り得ない情報記述してしまう、という点がよく指摘されるところである

一方で三人称体は登場人物の知りえない情報記述することができるという利点があるが、一人称体がその語り手が同化する先の人物への感情移入を惹起しやすいのに対し、三人称体はその点で劣ると言えるだろう。

このことから水島は、「楽しさ重視のコメディ一人称」が望ましく、「複雑なストーリー三人称が向いている」としている。では一人称体と三人称体を組み合わせて書けばいいのではないか、という意見については、それは読者の理解の混乱を招く手法として否定し、また三人称体においても実質的には「主人公が今どうなっているか」を中心に描くことが望ましいとしている。

一方で飯田三人称体をとるメリットは「キャラクターそれぞれの内面が描ける」点にあるとしている。実際「インフィニット・ストラトス」を例に、飯田一人称体と三人称体の混濁を否定せず、それどころか「主人公一人称視点と、ヒロイン寄りの三人称視点を使い分けて全ヒロインからの愛され感をもたらしている」と高く評価している。

はい三人称体として振る舞いつつ登場人物それぞれの視点に入ったり、といった視点を「神の視点」と表現し、これは避けるべきものだとする論調は少なくない。

一切言及されていないが、現実には三人称体に一人称表現が入り込む技法自由間接話法と呼ばれて存在し、主人公の知る由もない情報を描けるという三人称メリットと、感情移入を容易にする一人称メリットを同時に享受できる極めて強力な技法である

なぜ言及がないのかといえば、これを多用する作家はさほど多くなく、むしろ全く使わない作家の方が多いことから、おそらくはプロ作家自身、これを人に説明できるほどうまく扱える自信が無い、ということが原因ではないかと思われる。

他方、これと似て非なる技法に「神の視点」があり、これについて触れたものとして、クーンツは「ストーリーの途中で作家登場人物批評したり意見を述べるのは19世紀時代遅れ手法」としており、もはや使うべきではない技法だとしている。

端的に言えば「あぁ、神よこの男を憐れみたまえ」といった大仰なそれに対する指摘であるが、例えばH.P.ラヴクラフトなどは意図的かつ効果的にこの神の視点を用いていたように筆者は考えているし、町田康の有名な「あかんではないか」などは見事にこれを活用した好例と言いうるだろう。

筒井はこれを「劇化された語り手」であるとしているが、これについてはまた詳細かつ精密な議論必要であることから本稿では割愛する。

過去の回想/夢

水島は夢や過去の回想について、これらは今誰が何をしているのかがわかりにくくなる、述べており、またこの点についてはヒックスも同様の指摘をしている。「バック・ストーリー情報提示するのに最も効率が悪く気の効かない方法が、フラッシュバックである」と、フラッシュバックドラマの勢いを失わせるものだと注意を促している。

一方で、筒井による「遅延・妨害」に関する記述ある意味でこのフラッシュバック効果を逆用したものとも言いうるだろう。具体的内容としては、「読者の疑問を宙づりにしたまま進行させる」ものである特にクライマックスの直前など、いよいよ事態が緊迫し抜き差しならない状況であることを描いたところで、突如穏やかな場面に切り替えて「あれはどうなっているんだ」と読者の不満をあえて買い、じらした上で緊迫した事態の展開に再度移る、ということでより大きな満足感を読者に与える効果があるとする。

クーンツもその冒頭において、過激なアクションの次に一度冷静な場面を挟み、再度戻る、という手法を提案しているが、効果としては似たようなものだろう。

推敲

推敲重要性を否定するものは一つとしてない。しかしどう推敲するか、という点について具体的に述べているものはそれほど多くは無い。例えばキングによる6週間空け、そして1割削減する。ワナビにとっては6週間も余裕がないことの方が多いだろうが、一定時間を空けて自分自身で読み直すことの効果は少なくないだろう。

冲方推敲の要点として、「冒頭とラストインパクトと引きを作る」「事件とはあまり関係のない人間の登場を減らす」「専門用語は前半は少なく、後半は多くする」という推敲の指針を挙げる。最初の2点はプロットレベルでの書き直しが要求される内容でもあるだろうし、そもそも事件物語)に関係ない人物を登場させる意味はなにか、という疑問もあるが、専門用語の配分などは参考になるだろう。

最後に、推敲は一度で終わるものではない。アイディアプロット原稿まで順に進めるとこれまで述べてきたが、推敲によって再度プロットへ、またはアイディアまで戻ることはいずれの説においても当然のこととして主張される。

投稿文字数上限により、下記へ続く

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰5

2014-12-25

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰2

ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰1

※本稿は上記の続きとして分割投稿されたものである

作家人格登場人物人格

西谷は「主人公作家分身」であり、それは「五感を共有していること」、「心の奥底まで共感しあうこと」だとするが、だからといって「主人公作家の思うように考え、行動することを意味するのではありません」と警告する。五代/榊もまたありがちなワナビラノベについて「キャラクターが作者を代弁するただのお人形になってる」と揶揄している。

このように見てみると登場人物作家関係について、作家が主なのではなく登場人物が主である、と主張しているように見える。しかし当然ながら各場面における登場人物の言動や思考作家によって執筆されるのであり、作家が考えないのであれば誰も考えてはくれない。

この点でヒックス登場人物作家の一部であるとして、作家のある面を誇張したものであることを求めている。つまり嫉妬深い人物を描くならば自分嫉妬深い側面を誇張した人格創造する、というもので、全くの新たな人格創造するのではなく、そのベースあくま自分自身だとする。

これに基づけば「キャラクターが作者を代弁する」状態とは、その人物を描くにあたり作家の誇張が無い状態、いわば作中に作家自身名前だけを変えて登場した状態だと言える。作中に登場する作家自身がどれだけ失笑を買うかはくぅ疲の例を見るまでもないだろう。

登場人物作家自身である主人公は間違いなく作家の思うように考え、行動する。しかしその作家の「思う」主体作家人格そのままではなく、登場人物それぞれの設定によって歪められ誇張された人格であり、その結果時に作家人格そのままであれば決して選択することの無い言動に出ることになる。

キャラクターはある瞬間、勝手に動くものです」とは大塚の言だが、逆に言えば登場人物はだいたいの場合作家の想定通りに行動する、ということでもある。当たり前だが一定合理性をもって人間は行動するものであるし、他人ならまだしも登場人物人格ベース自分自身である以上、ほとんど常に作家想定外の行動を登場人物がするんです、という状態はありえない。もしそうだとすればそれは単に何も考えておらずその場しのぎで適当に考えているからか、もしくは薬物でもやっているからだろう。

なお突如として想定外の動きを登場人物がした場合ヒックスはそれにあわせてプロットを書き換えるべきだとする。ヒックスは後述するようにプロットを重視するが、それ以上に登場人物を「愛さなければならない」という。

ヒックス登場人物創造する際、その登場人物の将来の夢は一体何なのかと作家に問いかける。これは夢を作家が事前決定しろという意味ではない。それではヒックス否定する「組み立てられた登場人物」にしかならない。

ここでいう「夢」はその登場人物人格依存して考えだされるべきものである。これは大塚世界設定で指摘した、ある条件を前提にしてそこからどうなるのか、ということを演繹的に導き出していく方法とよく似ている。

もちろん何の事前設定もなく人格を作れと言われても作家当人人格しかなりえない。ゆえにいくつかの設定は事前定義必要である。それは主題や、もしくは世界による必然性を伴った定義であることが望ましいだろうが、それら断片的な設定に後付で作家適当にどんどん設定を付け足していくのではなく、演繹的に設定が導出されていくべきだ、というのがヒックスの考え方であると筆者は理解している。

西谷ヒロインブラジャーの形状にこだわった逸話はしょーもないの一言で済む話だが、そこに人格から来る必然性があるのであればわからなくもないと言えよう。

読者による登場人物への感情移入

以上のように作家登場人物関係について述べてきたが、一方で主人公を決して困難な状況に陥らせないワナビにそれを指摘したところ「だってかわいそうじゃないですか」と反駁したという事例を西谷が挙げている。この点だけ見ると作家主人公に同化し過ぎたり、感情移入し過ぎることに問題があるように思えるが、西谷がここで問題にするのは、ワナビとは裏腹に読者がまったく感情移入できていないことにある。読者も同様に感情移入しているのであれば、徹底して登場人物への虐待作家が行うことに逆に嫌悪感を覚えることすらあるだろう。

西谷同様、筒井は「自分作品感情移入しているからといって、読者も必ず感情移入してくれるだろうと思うのは間違い」と指摘する。

本格ミステリSFなど、感情移入必要とせずとも最後まで読ませる魅力を持った小説存在する。しか感情移入が読者に続きを読ませる原動力として強く機能することは言うまでも無く、感情移入できないという状態は読むのをやめようという動機になりうる。読者が感情移入をしてくれるに越したことはない。

さて、基本的に読者の感情移入物語の中心を担う主人公に対してなされるべきであるが、ではどのような要素が感情移入を誘うことができるのか、という点について各説を整理する。

まず榎本水島主人公年代ターゲットとなる(と下読みや編集部が想定する)読者層と重ねるべき、としている。すなわちラノベ主人公中高生であることが望ましいと言う。同じ理由性別男性の方が好ましいと言いうるだろう。スレイヤーズブギーポップのように女性主人公成功例はもちろんあり、水島のようにそれを地雷ジャンルとまで言うのもいかがなものかと筆者は思うが、女性より男性の方が主たるターゲットである男子中高生感情移入を誘いやすいことは想像に難くない。

まず作者自身モデルとして主人公に据えるやり方について、「基本的に失敗する」「ナルシズムか自虐に陥るのがオチ」と榎本は断言する。もちろんそれで成功している例もあるが((森博嗣などは成功例と言えるだろう))、分の悪い賭けであることは確かだろう。

主人公に求められる特質について、西谷榎本飯田は読者の憧れを具現化していることであるとする。憧れとは立場的、能力的、性格的に秀でていることでもたらされるものだと榎本は言い、クーンツもまた「高潔」「有能」「勇気」「好感」という要素を挙げ、これらを満たしていることが必要だとする。

そして最も重要な点は、完璧超人では読者の共感が得られない、という点である。「ジェームズボンドのような例外はあるが」とクーンツは言いつつ、共感を得られやす主人公には上記の要素に加えて「不完全さ」が必要だとしている。これは人によって「欠点」「弱点」と表現は異なるが、いずれも同じ意味である

一方で「低スペックで卑屈、無個性へたれ」な主人公像については、飯田は「マスな読者のニーズとはマッチしない」として、そういった主人公ラノベは「実売数千部のマイナー作品」に見られる傾向だという。榎本もまた、読者が作品を読む理由の最も大きなものは「自分とは縁遠い出来事を手軽に楽しく疑似体験するため」であり、現実の平凡な中高生に近い主人公像ではそれが得られない、という。

しかしながら水島は「平凡な主人公」でも問題ないとする。超人能力を持った主人公像を否定することはないが、榎本飯田のように平凡さを否定することもない。西谷も同じであり、憧れへの言及最近のヒットしたラノベを見ているとそのような傾向がある、と言うにすぎず、読者の分身として機能する平凡な主人公像も肯定している。

さて、筆者はこれらの各説は人物の能力精神倫理区別せず論じていることで生じた混乱だと考えており、ここで対立があるとみることは無意味だと考える。

能力とは例えば「直死の魔眼」のような、その人物だからこそ実行可能な、常人には実行不可能行為名称である。この点での超人性を主人公が備えているかべきかは物語上の必要性によって判断されるべきであって、主人公がそうした点で無能であることは全く問題なく許容されるし、また絶対に負けず死ぬこともない完全無欠の超人能力を持っていても(それが物語必要ならば)問題ない。

次に主人公精神についてであるが、これは完璧であってはならず、平凡でなくてはならない。あらゆる誘惑に対して微塵も揺らぐことなく、確固とした信念を持ち理性と知性に溢れた決断をし続ける聖人君主はご立派すぎてうさんくさく、クーンツが言うところの「好感が持てること」という要件を満たさない。飯田にしても「ヒーローは悩む存在である」としてこの点での超人性を否定する。自分の将来や恋愛といったわかりやすく、読者が共感できる悩みを主人公は持つべきであり、さらに「何を考えているのか、わかりやすく書くほうがよい。感情オープンにならないキャラには感情移入しづらい」とする。

最後主人公倫理は、読者の倫理に反してはならない。主人公への感情移入によって「あらゆる女の子モテまくる存在であるという全能感」を読者は得るのだと飯田は言うが、しかしどれだけモテようとも複数同時並行で交際することは一般に許容されない。「主人公は鈍感でなければならない」とする指摘は、倫理的正しさを保ったままその状態を維持する点で(安直だが)効果的に機能する。

一方で木刀を持って不法侵入の上傷害沙汰を起こした同級生に対して警察を呼ぶことなく、彼女の空腹を察してチャーハンを振る舞い、自分の恥を晒しながらも穏やかに話し合いで事態を解決する主人公は、まさしく完璧超人と言うべき存在である

Unlimited Blade Worksとかマジカコイイ!憧れる!といった読者もいるだろうが、失笑する人も少なくないだろう。しか倫理的にそうすべきと読者が思い、また自分にも物理的には不可能ではないだろうがしかしなかなかそうはできないと思うことを主人公がやってのけることにこそ、多くの読者は「憧れ」を抱くのではないかと考える。

さて、憧れは感情移入の要素として極めて強力に機能するが、冒頭からいきなりその段階に持ち込むことは容易なことではないだろう。まず最初主人公へ興味を抱き、好感度を稼いで少しずつ感情移入を誘い、そして上述のような行為によってその感情移入を一気に深め、確固たるものとして確立する、というのがより無難戦略だと言える。

こうした興味喚起、好感度向上に役立つ要素として、例えば西谷は「肉体的な苦痛を与える」ことを有力な手法だとしている。クーンツの「主人公を冒頭で過酷な困難に放り込む」も同様の指摘と考えられ、冲方による「苦しい場面での感情移入成功すると、自然ハッピーな場面ではそのまま感情移入してもらえることが多くあります」というのも、苦痛を伴う場面は幸福な場面よりも感情移入効果が高いという指摘だと言えよう。

西谷が肉体的苦痛をあえて挙げている点は特に説明はないものの、おおむね誰にとっても明確でわかりやすいという点で精神的苦痛よりもメリットがあるからだろうと筆者は理解している。

そしてもう一つ効果的と思われる方法が、飯田が指摘する登場人物ギャップである

登場人物ギャップ

本項では「キャラ」と「登場人物」を区別しないが、新城はそれぞれ異なる意味定義しており、曰く登場人物を「内面があって葛藤と選択をする人格」、キャラを「こういうシチュエーションではこういう言動をみせそうな、いかにもそんな外見の人物」とする。

飯田は「人間は意外性のある物語に弱い。とくに、内面なんてなさそうな人物に内面があった、というパターンに弱い」と述べ、人物の外面と内面ギャップを設けるべきだとしている。すなわち新城がいうところの「キャラ」としてまず描かれ、それが物語を通して「登場人物であると描いていくことで読者の感情移入が誘えるのだ、とする。

ところで飯田は良いツンデレと悪いツンデレがあるとして、良いツンデレ多面的感情の一つにツンとデレがあるが、悪いツンデレにはツンとデレの2面しかない。だからハルヒは不人気でルイズは大人気なのだ、とする。筆者はツンデレに良し悪しがあるとすれば、それは新城の言う「キャラ」と「登場人物」であろうと考えるため、飯田の説には同意しない。

ツンデレ」は言動まで類型化された属性である本来内面であるはずの照れ隠しの典型的言動はまさしく「こういうシチュエーションではこういう言動」であり、そこに人格を読者は感じられず、むしろ「お人形」として認識されると考える。

良いツンデレがあるとすれば、同じ典型的発言をするにせよ、そこに「葛藤と選択をする人格」があると読者に理解されることが要点と考える。ツンデレ喫茶バイト事務的発言する様を見て「ツンデレ萌え!」と興奮できるオタクがいないとは言わないが、ドン引きするオタクの方が多いだろう。

さて、さら飯田ギャップは「属性」についても適用できるとする((「属性」についての議論としては東のデータベース消費論などがあるがどうでもいいので無視する))。登場人物へは二つの落差のある「属性」を付与することが効果的だと飯田は言う。例えば「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」における「モデル」と「オタク」という組み合わせを挙げ、「モデル」が持つ華やかでリア充イメージと「オタク」が持つ根暗コミュ障イメージを同一人物に同居させることで意外性を与え、興味を喚起できるとする。なお当然ながらこの手の単純な「属性」の組み合わせはそれ以上工夫する余地が無く、すぐに陳腐化する点は飯田自身が指摘するところである

このギャップについては、陳腐化しやすい「属性」の組み合わせよりもその個別の設定においても有効機能する。

例えば「とらドラ」における「目つきが悪いヤンキー」かつ「家庭的で親切」という主人公の設定、「小柄で可愛い」かつ「家事は苦手で暴力的」というヒロインの設定はそれぞれ落差のある設定だと言えるだろう。これは個人的レベルでのギャップであり、また同時に登場人物間のギャップにもなっている。

西谷主人公ヒロインを組み合わせると完全な人格になるよう相互補完関係を持たせること、また主人公には対照的な人を親友として持たせるのが好ましいとする。しか主人公ヒロイン親友という限定した関係に留まらず、主人公格として機能する集団を想定し、それぞれは別の仲間とその設定にギャップをつけること、というように拡大解釈可能だと筆者は考えている。

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ワナビに向けたラノベ創作技術論の整理と俯瞰3

2014-12-18

真実とは一体何なのか。

皆さんはお気づきでしょうか?この世にはおっさんしかいないことを。まず、信じないでしょう。そして、信じがたいことでしょう。しかし、それが現実なのです。

一番身近な例としては、アニメがあります美少女可愛い事をしてくれる様を描いた夢の様な作品。あれの制作者のほとんどがおっさんであり、おっさん妄想を元におっさんが描いた絵でおっさん萌えるという、おっさん無限機関とも言える物であることは、詳しい方ならご存知のはずです。

実は、それだけに留まらないのです。インターネット上で女性自称している人ばかりか、日々生活する中で出会女性らしき人物のほとんどは中身がおっさんなのです。衝撃的でしょう。信じられないでしょう。信じられなかったとして、何か一つでも確証があったでしょうか?

そして最悪なことに、2014年12月現在日本からはほぼ女性絶滅してしまいました。何よりもの証拠は、アレにモザイクが掛かっていることや、アレの名前を言うと伏せられてしまうこと、アレを造形しようとすると逮捕されることからも明白です。そう、アレの本当の造形が知れ渡ってしまえば、女性絶滅したことがバレてしまい、日本から男がいなくなってしまう恐れがあるため、政府陰謀によってこれを隠そうとしているためです。完全に隠れていない?無修正を見たことがある?それが無修正だと何故言えるんですか?全てがCGでないと言えますか?

 「高精細なCGを描画する技術最近やっと獲得したものであって、それ以前に技術存在していない」と言い切れる根拠は何ですか?たとえば、PS3スーパーコンピュータ並みの処理能力を発揮しましたが、その技術進歩のみが現実の姿であると言えますか?人工衛星ファミリーコンピュータに搭載されたCPUが同じものだと本当に信じているのですか?それは全て、政府陰謀によって企てられたブラフであり、裏で行われた開発競争を覆い隠すための罠だったのです。そうでもなければ、有害ゲームばかりを出すあの忌々しい箱を作ろうなどと何故思うのでしょうか?即ち、実際にはこれよりも処理能力の高いコンピュータが既に開発されていてもおかしくないということです。

 では、何故子供が出来るのか。人間絶滅してしまわないのか。疑問ですよね?この日本には既に女性はいません。たとえ男性が生き残っていたとしても、ツガイとなる存在がいなければ、子供なんて出来ないはずです。なのに出来ている。その子供、本当に人間でしたか?もう既に日本ほとんどがアンドロイド化しているのです。そのアンドロイドはもちろん、おっさん操作しているのです。アンドロイド駆動原理はもちろん、秘密裏に開発された最新のコンピュータですから人間と見間違えて当然なのです。

 スーパー銭湯にいってアレやソレが付いている子供を見たことがあるし、甥や姪にもあったかアンドロイド化は嘘?それはきっと幸せパターンです。あなたの周りが最後の人集落なのです。その他は全てアンドロイドですが、その事実絶対に知れ渡ることはありません。何故ならば、その真実を知った瞬間にアンドロイドを通じてそれを秘匿とするための遺伝子破壊プログラムが注入され、事実を口走ろうとした瞬間に死んでしまうからです。また、不自然な死者数が観測されないのは、発ガンの危険性や急病といった言葉で片付けられているためです。

 そう、誰も死にたくはありませんから、その事実を秘匿しようと躍起になっているため、どうにかしてその不適切真実を覆い隠すため、アニメ漫画表現規制を推し進めているのです。その正体とは、アンドロイドを見てしまったおっさんと、アンドロイド操作してるおっさんであると考えれば合点が行くはずです。表現規制が完成すれば、改めてアンドロイドの不自然さはなくなり、それが常識となるでしょう。この時が、本当の女性絶滅ということになります。しいては全人類絶滅となり、地上には人型のアンドロイド人間のつもりで生きていくことでしょう。

 まだ信じられない?何を以ってそう言うのでしょうか?雑誌テレビ新聞?それとも…。気づいて下さい。全てが作り物なんです。あなたはそれらが作り物でないと言い切れる自信が果たしてあるでしょうか?あなたが直接確認することのできた真実というのが、どれだけあったことでしょうか?

 "テレビが映した商品を利用したことがあるし、真実を語っていると思う"?それこそがブラフなのです。それ以外の事は見たことも聞いたことも無くても本当だと言えるのですか?あなたは既に嘘に侵されているのに、その真偽の判断が出来ないまでになっていないと、どうやって否定しますか?ましてや、発信源もろくに特定できないインターネット上の情報信頼性があると、何故言えるのでしょうか?

というのは全て嘘です。

あなたが信じている「真実」というものはもしかしたら、「信じたかった理想」に過ぎないものかもしれません。揺るぎない「真実」と言えるのは、身体に宿った五感で感じ取れること。それだけのはずです。

インターネットを止めて、テレビも消して、新聞も折りたたんで、旅に出ましょう。あなたが直接感じた事こそが、あなたが勝ち取れる真実のものなのですから

2014-12-16

モミモミロイ

ロイ子(18)ちゃんは現在高3の受験生。特技は生体防御。


いまこんな状況を想像してみよう。受験生受験生活に最低限必要ものしかない部屋に閉じ込める。すると勉強効率が良いだろうという、そういう思考実験があるのだ。


人は刺激を求める生き物である。刺激のない環境に閉じ込められると激しい苦しみを覚え始める。

精神的苦痛だけかと思いきや、身体もズキズキ痛み始めたりと大変だ。女の子にそんな思いをさせるのは可哀想だという意見もあろう。

しかしあの悟空達も殺風景精神と時の部屋には苦しみ抜いた。仏教の高僧らも同様の修羅場を乗り越えてきたのだ。

確かに刺激に慣れっこの現代っ子にはキツかろうが、それを耐え抜いてこそ強靱な精神が鍛えられるのだ。


一応効能書きを言っておくか。効果は早い段階(3日程度)で現れる。猛烈な刺激への渇望とスポンジのように速やかな刺激の吸収である

電話漫画ゲームネットお菓子もない空間に閉じ込められると、猛烈に刺激が欲しくなる。

モノと情報にあふれた日常ですらすぐ刺激を求めがちな現代人のことだ、無味乾燥空間に閉じ込められればそれはもう猛烈に刺激が欲しくなる。

その猛烈に刺激を渇望した状態で、試しに参考書ではなく用語集を読んでご覧。驚くほどスムースに知識が脳に吸収されていくのが分かるだろう。

しか面白い、ただの用語集のくせにクッソおもろい。山川出版の『世界史用語集』『日本史用語集』『政治・経済用語集』『地理用語集』

現代社会用語集』『倫理用語集』と6冊一気に読破できるであろう。受験科目じゃないのに置いてあったからいつの間にか読んじゃったっていうね。

面白い漫画を6冊読むなんてあっという間だろう。そんな感じで一気に読めちゃうしかも内容をよく覚えてる。


さら長期間続けると、また違った効果が現れる。刺激への執着が無くなってくるのだ。

パソコン触りたくてたまらない、友達とも話したい、美味しいご飯だって食べたい、そんな強い欲求は段々と薄れてくる。

それだけではない。閉鎖空間存在するわずかな刺激以外のあらゆる刺激への執着は全て、見事に薄れていくのである

こうして些末なノイズに惑わされにくい心が養われる。ノイズに惑わされないということは、合格という目標に向かって日々集中できる。

また長期軟禁後も、集中力が高くスポンジのように速やかに知識を吸収できるスーパーサイヤ人状態がしばらくは保たれるのだ。


軟禁には危険性がないわけではない。ただし、それは刺激不足というより運動不足によるものである

確かに刺激不足は度を超すと危険だ。五感を完全に奪う感覚遮断実験では精神病のような認知能力低下も認められたという。

しか軟禁五感自体を奪うわけではない。ましてやこのケースでは参考書という脳へのご褒美まである

それでも人によっては精神を病むかもしれないが少数派であり、しかも多くは一時的ものである

長期軟禁の大半のケースでは、運動不足による衰弱のほうが問題である。衰弱に起因した身体の故障を一生抱えるケースもある。

したがって、被験者には運動(くれぐれも過酷労働ではない)が義務づけられるべきである。それだけで随分と軟禁リスクを低減できる。

最低限のモノと情報提供され、健康留意する監視者がいれば、軟禁生活は意外とラクなものであることは知っておいてほしい。

身を引き裂かれるように辛いのは最初だけで、すぐに順応する。苗木こまるだって順応してたではないか。


念のために言うが、決して誰かを軟禁することを勧めるものではない。また、俺がそのような蛮行に及んだわけでもない。

それでも、年端も行かぬ小娘を軟禁する想像してド変態かという謗りは免れないだろう。気持ちはよくわかる。

しかしそうは言っても、ロイ子は女の子ではない。いや女の子ではあるかもしれないが白血球である心配無用というものだ。

2014-12-09

若者シャイ改善しないと少子化は止まらない

草食系だとか言われていますけど本当にそう思う。

かくいう俺も童貞卒業24歳。経験人数1人。彼女なし。

異性との出会いがどう、とかではなくて、

基本的コミュ力が低いシャイ10代、20代をどうにかしないと少子化は止まらない。


シャイ理由は明らか。子供時代コミュニケーション不足だ。

一人でコンシューマゲームアーケードゲームを嗜んでいた世代シャイが顕著な傾向がある。(出典俺)

外でお友達と遊ぶことで相手がどう思うか、どう考えるか、人と五感を使ってコミュニケートしてこなかった場合

人とどう会話して良いか分からない妄想癖のモンスターが出来上がる。

結果、街コン合コンカフェに出没する1020代

ぬすっとウサギくさった死体ギガンテスばかりだ。



じゃあどう改善すればよいかと言うと、なるべく関係フラットな、素人の異性や同性と今からでもたくさん喋ることだ。

お金が絡んではいけない。お金が絡むと関係が対等ではなくなるからな。

もう友達もいないとかって言うのであれば、コンビニの店員に会計後に「どうも」と言うことから始めて欲しい。

多少は自信がつくんじゃないだろうか。


まー安倍さんは色々物ともしなさそうな超人からこういった庶民シャイだとは分からないとは思うけれど、

結構根深問題で、そもそもネットを繋げば「◯歳童貞の俺が××」のような2ちゃんまとめが散見されて

自分はまだ大丈夫」だと錯覚し、更に拙い情報源から女のことを分かった風な量産型シャイ

まりキョロ充以下がたくさん出来上がってしまっている事については、何かしらの対策必要なんじゃないだろうか。

小学校スマホ禁止にするとかの、顔を見て話す機会を増やすといった対策が良いのではないかな。

そして今の若者会社大学自由参加型のディスカッションの機会を増やすとか

フェイストゥフェイスもっと大事にしてもらいたいね

ただ、無理矢理誰かとマッチアップさせれば良いとかっていう問題でもない。

始めに気持ちの良い会話はこうしましょうっていうガイドライン必要だと思うけどね。



(妄想癖を思い切り拗らせて振りきれると芸人になる。現代クリエイティブ職にとって良い土壌かもしれない。)

2014-10-30

http://anond.hatelabo.jp/20141030020525

注意欠陥だけど多動ではないんじゃない?

割と自分と似た感じ。診断は受けてないから不快なら読み流してくれ。

たぶん、就活分析とかでは、「芸術分野に向いている」って出てくると思う。

からといって、クリエイティブ関連の仕事全てが合っているというわけではない。締め切りがあるから

あと、苦手な五感ってない?

自分場合視覚全然だめで、ちょっと離れたものサイズや形をうまく比べられない。

次に聴覚がアレで、雑音の中から音を拾えない。

その五感が深く関わる仕事だと、ミス発見できなくてつらい思いをするから避けたほうがよいかも。

2014-10-06

http://anond.hatelabo.jp/20141006132935

五感に訴える不快要素を持つ奴は全員隔離すべきだよな。

アトピー体臭ハゲデブブサイククチャラー、鼻すすり、などなど。

こいつらに死ねとは言わないが、住む世界を変えることは差別ではない。

2014-08-28

魂を削って書いている人は宗教必要なのかもしれない

自分ホッテントリにある色々なブログを見ながら、この人の文才はすごいな、こんな深い考察豊富な知識が透けて見えるような

スマート面白い文章は書けないなと毎日考えている。この人達に比べると自分は間違いなく文才のない凡人で、それを認めるのはとても怖い。

そんなモラトリアンが始めたのは、魂を削って書くことだ。魂を削って書くとは、自分の恥ずかしいところ、嫌なところと向き合って書き出す作業だ。

なぜそんな事を始めたかというと、文才のない自分でも、自分と似たような人から多少は反響のある文章が書けるのではないかと思ったからだ。

これは書いている最中とても辛い。

ロリコンかもしれない、尼や価格反響を調べないと買えない、ある程度出来たら満足する性格向上心が持続しないなど、

自分の恥ずかしいところ、嫌なところはたくさんある。こういうものと向き合って書く作業は苦行だ。

が、なぜかは知らないが、書き終わるととても楽になるし読み返して面白い

削られた魂を吸い取られたような気持ちになるが、そもそも嫌な部分なので増田に置いていけるのであればありがたい。

ただ、これでは形式が違う懺悔だ。

最近反響副産物になりつつある。

しかしたら、いまの自分必要なのは増田よりもキリスト教かもしれない。

キリスト教って懺悔だけでも入信しても良いのだろうか、、、増田よりも五感を駆使して懺悔するあたり、

楽な気持ちになる効果は多そうだ。敬虔増田信者自分にとって、適正はある気がするのだけど。

2014-08-15

トイレットペーパー

トイレットペーパーを買いに行く時によく思うこと。

『おしりの汚れを落とすことに特化したようなトイレットペーパーってないのか?』

ほんとによく思う。

香り付きとか、柔らかさを謳い文句にしているものはよく見かけるが、

「おしりの汚れが落ちやすさ」を謳い文句にしたものがない。

こういうふうに思うのには理由があって、

しりを拭く行為は、ひとつの「不完全情報ゲームであると思っているため。

※「不完全情報ゲーム」については、ググってみてください。

鏡でも使わない限り、おしりの周りが見えないため、「不完全情報ゲーム」と思っている。

しり vs 自分五感 というプレイヤー同士のゲームである

ただひとつ情報としては、おしりを吹いたあとのトイレットペーパーへの汚れのつきぐあい臭い

なんとか拭き切れたら、自分五感の勝ち。

パンツを履いた時に、パンツにモノがついてしまった時は、おしりの勝ちである

自分五感を勝たせるためにも、汚れが取れやすトイレットペーパーがあったらなと思っている。

2014-07-29

女子高生の白いセーラー服も汗に濡れその若く活発な新陳代謝結晶である滴を夏風の中にキラキラとまき散らす七月下旬のいま私は女子高生猛暑のなか今日一日分の汗を存分に染みこませた裾をバタバタと揺らしてうっすら湿った双丘に新鮮な外気を送り込もうとする姿が見られるのではないかという期待のもとに午後六時頃に都心から郊外へと向うサラリーマンキャリアウーマンその他あらゆる暑苦しい面々を新幹線で売ってる押し寿司のような要領でぎゅうぎゅうと圧縮させた仄かに押し寿司香りさえ漂う列車に乗り込んだのであるが列の後ろのほうでぼんやり立っていたためホームの駅係員のたくましき腕によってメタボ中年の下腹に押しつけられた上に私の身体の押しつけられた部分が中年の服から染みだしてくるなにかによって水分の感触をおぼえ私は思わず声を上げかけたがそんなことで音を上げるようでは女子高生など夢のまた夢と思いなおし眼球をあたう限り上下左右に動かして周囲の状況を観察してみると車内の人間ほとんど成人のようであったからああ来る時間を間違えたかと気落ちしかけたそのとき右目の視界の端っこ眼鏡のツルに隠れて見にくい辺りにわずかに女子高生の姿がありしかもそれは私が待望していた白いセーラー服に黒光りする合皮の鞄をもった女子高生だったので私は欣喜雀躍し彼女のとこまで雀のごとく跳躍していこうかと思ったのだが常識的に考えて無理だったので鷹のごときつぶらな瞳でもって観察してみると吊革を握る女子高生の指はその何気ない動作においても柔らかであって腕は白くそしてその奥にある腋の下は一本の黒線が入ったカフスに遮られて見えないのであるが私が想像するに制汗デオドラントの鼻に抜ける香りの背後にカバーしきれない膨らみをもった濃厚な汗の香りが混じり合ったものであるだろうというのも彼女がたとえ部活のあとに自分の身体にスプレーをかけたとしてもその汗は今朝通学電車に駆け込んだとき腋の下の汗腺から滲みだしたものであって数時間ものあいセーラー服の中という狭く通気性の悪い空間の中で発酵したものであるから制汗スプレーのようなもので軽く糊塗したからといって消しきれるものではなく私の眼は五感の一つとしての視覚という枠組みを超えてその臭いをたしかに感じ取るのであったがそれにも増して注目すべきは通勤電車のなかで際立って輝く白いセーラー服のその生地の上にまで確かな存在感をもって浮かび上がってくる淡い緑色あれはたしかに下着の色であろうぞ少女わずかな動きに合わせてその緑色は細やかな陰影を生じその下にある膨らみの形状を間接的にしかしそれゆえ本質に迫った形で示すのであったがそれを見た私は触りたい吸いつきたいという強い衝動を感じたその瞬間私の押しつけられていたドアが突然開き私は大きな毬のようにころころと線路の上に転がり落ち危ないと車掌が絶叫したのも遅し早し上り電車が運悪く地を撼かしてやってきたのでたちまちその黒い大きい一塊物はあなやという間に三四間ずるずると引き摺られて紅い血が一線長くレールを染めた。

2014-07-22

http://anond.hatelabo.jp/20140722031512

絶望成分が足りないなあ。

詰むまでにはまだ何手もあるよ。

その辺すっ飛ばして詰む直前まで行きたいなら、

目と耳を潰してから頸椎の3番目くらいを器用に折るとあら不思議即身仏の一歩手前まで行けちゃうよ。

発狂しても動けないから自傷行為もできないし、五感も首から上の触覚と嗅覚が残ってるだけだからね。

味覚は残るけど、口に食べ物入れても飲み込めないし。

もっともっと詰めていこう。

2014-06-07

最近技術文化が停滞していないか? アイデア教は終わった

最近文化 技術の停滞感がすごい。

10年前と比べて文化技術はどう進化しただろうか?

携帯電話液晶解像度、通信速度、処理速度くらいではないか。

しかし、携帯電話進化しても何も進化はしていない。家庭用ゲーム機デジタルカメラカーナビゲーションを取り込んだだけだ。

人々は毎日広告がベッタリ貼られたウェブサイトや、小綺麗なアプリをよろこんで見ている。

こんなものiモードでやろうと思えば出来たものだ。くだらないアプリスタートアップ界隈で持て囃されすぎではないだろうか?

ゲームネタ切れ感が酷い。

国内海外ともにグラフィックに突き進むだけである

では、アイデア重要なのだろうか? それは違う。

アイデアなんて初代PS時代に出尽くした。

今後、ゲームコンタクトレンズモニターや脳につないで五感を乗っ取るようなデバイスが出てこないと先は真っ暗だろう。

アニメネタ切れだ。もう作らなくていい。

枯れた技術のウンタラカンタラの方が楽に決まっている。

しかし、楽で多くの人間が出来ることなのでやり尽くされている。

そこにみんな気づけよ。

追記

人工知能ロボットの発達が20世紀に騒がれたいたほどではない、ネットは発達しているのに地球温暖化環境汚染などの解決策などのつまらなく、時間がかかり、お金もあまり望めないものは全く進化していない

2014-06-05

ロボット仮想現実に期待出来ない。

はてなーの皆さんが使えるような技術にはならそう。

ロボットは恐らくパワードスーツまりな気がする。

介護ヘルパーさんがパワードスーツを着て老人の世話をする。

セクサロイドなんか登場しないだろう。

登場しないっていうのは嘘かもしれない。

しかし、はてなーが満足するような美しい少女のようなセクサロイドは恐らく登場しない。

技術進歩も遅い。マネタイズも難しい。

仮想現実の話にいこう。

これも期待出来ない。五感を使って異性を体感したりは無理だ。

ゴーグルモニターまり気がする。既存技術を組み合わせてばかりの仮想現実メーカーだ。ゴーグルモニター限界だ。

そしてセカンドライフの二の舞になるだろう。

世の中、自分未来は凄い暗い。

2014-05-27

http://anond.hatelabo.jp/20140526214345

わかるよ。

お前の娘はその三十路越えてだらしない腹出してる加齢臭もそれなりの男のチンポに虜になっちゃったんだもんな。

会うたびホテルで男の抽送にanan嬌声をあげて、男の体躯に股を押し当て、腿と乳房と腕とを絡ませ、男の低い声が耳元で囁き、甘咬みされ、濃厚なキス五感がすべて男のもの

お前もそういうことを妻にやってその親父から恨みを買ってるんだ。よくもうちの娘と交わったな、覚悟はできてるんだろうな、と思ってるのさ。俺が手塩にかけて育てた大事な娘だ、小さい頃はお風呂に一緒に入って、川の字になって寝て、年頃になればうっとおしがられて、気持ち悪いからやめてと真顔で言われて、でもそれがどことなくイヤじゃない。愛してるからそういう拒否も悲しくはあれど成長したものとして受け入れられる。いつかこいつも男と結ばれる。親元を離れる。そういう虚しさと嬉しさが同居しているんだ。

そういうお前が妻にしたのと同じように、三十路越えてビールっ腹の赤の他人が、お前の娘とセックスしてるんだよ。お前に見せたこともないような顔で、お前に聞かせたこともないような声で、お前にさせたこともないようなことをしてるんだよ。


飽きた。

2014-05-25

地味な能力

自分は超常的な能力を扱った作品に触れることが多いんだけど

そういう作品の中に、ことごとく戦闘に特化した派手な能力ばかりが登場するとき

逆に、生活に則した能力とか、一見して役に立たなそうな能力比較的地味な能力を考えたりする。

そして、そうやって考え出した地味な能力物語の中に溶けこませて楽しむという妄想遊びをしている。

そんな自分が一番最初に考えた地味な能力は「筋肉痛自分意志で和らげる能力」というものだった。

地味な能力への覚醒(めざめ)

そもそも、そういう地味な能力を考えて妄想遊びをするようになったのは中学生の時。

きっかけは部活でひどい筋肉痛を味わったことだった。

中学に入るまでは激しい運動をしたことがなかったのもあって、最初は本当にひどかった。

脚全体が激しい筋肉痛になってしまって”階段を降りる時”が一番痛かった記憶がある。

下の段に足を着く瞬間って、体重ほとんどすべてを片足にかけるわけだから、すごく痛い。

そっと足を着こうとしても、激しい痛みが脚全体を駆け巡るからタチが悪かった。

しかもその時期は足の皮もボロボロで、爪もほとんど剥げて無くなっていたので何重にも痛かった。

でも信じがたいことに、練習になるとアップ前後から徐々に痛みが引いていって

いざ本練が始まると嘘みたいに痛みを感じなくなくなるということがよく起こった。

めちゃくちゃ激しい運動をしているにもかかわらず、不思議ほとんど痛みを感じなくなった。

たまたまではなく、いつもそんな事が起こってたもんだから不思議しょうがなかった。

そして、練習が終わってしばらくすると、ちゃんと痛みが戻っているのもまた不思議だった。

無意識の内に脳からそういう分泌物が出てるのかは分かんないけど

そんな経験があったか意識的に痛みを和らげる事できればいいなと思うようになった。

そういうレベルの地味な能力(ちから

痛みを和らげる能力以外にも、そういうレベルの地味な能力を中二のときから色々と考えていた。

五感の鋭敏化やパワー・スピードとかの強化はわりとありそうだから、そうじゃないやつを考えていた。

しかも、まるっきり超能力っていうものではなく、あくまでも人間の本来持っている能力をイジる系のやつ。

薬とか食事でなんとかできそうなのも含む。

痛みをイジる能力

さっきも出たけど、痛みを自由自在に調整できるって相当に憧れる。

完全に遮断するんじゃなくて、あくまでも”和らげる”っていうのがそれっぽくて重要だと思ってるけど

場合によっては完全遮断できるってのもアリなんだろうなと思う。

食欲をイジる能力

意識的に食欲を抑制したり増進したりするやつ。

痩せたい人とか、病気で食事を控えなきゃいけない人はもちろんだけど

太りたい人とか、体を鍛えてる人にとってもありがたい能力だと思う。

代謝をイジる能力

食事とか生活習慣によらず自分意思でなんとかしたかったやつ。

代謝を高めて体温を上げることで寒冷地を凌ぐとか、傷の治りを早めるとか

代謝を低めて食事をなるべく摂らなくてもいいようにすることで過酷な状況を生き延びるとか

そういうサバイバル的な状況を想定した妄想をよくしていた。

記憶をイジる能力

ホント食パンとかでなんとかなんないかなと思っていたやつ。

記憶力抜群になりたいとか、いっそ直観記憶的なのが身につかないかなと思ってたけど

忘れたいことを完全に忘れられるとか、記憶をいい感じに改編できるとかもありだと思うようになった。

感情をイジる能力

緊張したり恐怖を感じたりするような状況に打ち勝ちたいという願望からのやつ。

不良にカツアゲされそうになったり、授業中に左翼ゲリラが押し寄せてきたりしても

一切動揺せずに素早く対処できたらカッコイイと思っていた。

睡眠をイジる能力

制御できたらどんなに助かるかというやつ。

好きな時にすぐ深い眠りにつくことができて、ショートスリピングでもスッキリ目覚められるようになりたかった。

いっそ一週間は眠らなくても平気っていうぐらいの能力を身に着けたかった。

アルコール分解能をイジる能力

『GHOSTS IN THE SHELL』で草薙素子が言ってたやつ。

お酒の味とか、ほろ酔い気分だけを味わいたいだけの時にほしい。

しこたま呑んでも30分ぐらいで完全に抜けるよう調整ができればいいのにとも思う。

ついでにアルコールだけじゃなくて疲労物質をさっさと取り除いてくれる能力もほしい。

これ書いてて思ったけど、脳をイジればなんとかなるものが多い気がした。

その他にも、派手さがない程度に人間をはみ出してる能力(?)も考えていた。

ミトコンドリアの活動を活発化させるとか、美形とそうでない人間区別がつかないとか、

肉眼で赤外線を知覚できるとか、足音だけでその人物の体重が正確にわかるとか、

どんだけぶっ叩かれても骨折だけは絶対にしないとか、そういうのも面白いと思っていた。

地味なだけでは物足りない

自分の思いついた地味な能力をひたすら列挙したけど

生活の中であったらいいな」とは思っても、そのままで物語に登場するとやっぱり物足りないと思う。

なんか、地味な能力が単体で存在してるだけだとそんなに魅力は感じないし

作品にもよるけど、地味な能力だったらなんでも良いとか好きだとかいうわけでもない。

現実との地続き感

そういう地味な能力って、ほどよい説得力というか、ほどよい現実感があるとなんか良い。

物語自体現実との地続き感があってもいい。

ただし、現実に照らしあわせたときの正しさも大事だけど、そればっかりで無くてもいいというか

あくまでもそれっぽい感じとか、それっぽい説得力で、それっぽく納得できればいいと思ってる。

ほどよく足を引っ張るそれっぽい制約(弱点含む)とか

発現した能力を実際に使いながら検証していって、どんな事がどの程度できるのかを把握する展開とかも好き。

あんまりカッチリしなくていい

能力をいつでも確実に正確に使えなくてもいい。

そういうカッチリした能力者ばっかり登場するとどうしても「ヌッ」ってなる。

現実との地続き感の話にもなるけど、例えばスリーポイントシュートの達人だって

現実だと100パーセント決められるわけじゃないし結構いろんな要素に左右されるしね。

要は、ちゃんと失敗したり、上手いこといかなかったり、机上の空論通りにならんのがいいって感じ。

そういう不確定で不安定な描写がちゃんと物語に組み込まれてるとなんか安心するし

しろ地味な能力効果的に引き立たせてくれる。

見せ方にもよるよね

地味な能力と知力と体力の合わせ技で派手な能力を打ち負かす展開とかが好き。

地味な能力者たちが、個々の力を合わせて強敵撃破するのも好き。

地味な能力者同士が、ジリジリとした攻防戦を繰り広げる話も好き。

能力自体は地味だけど、使いようによっては強力になるというか、本人の資質と相まって強力なものなるみたいなのも好き。

気持ちよさも大事

地味な能力の話ばっかしたけど、そもそも自分は派手な能力も好き。

そういう派手な能力を使って派手に活躍する作品も好きになることが多い。

というか、気持ちよく活躍するなら能力が派手でも地味でも良いという場合もある。

要は派手な能力でも地味な能力でも「気持いいかどうか」っていうところも大事なんだと思う。

でも、そういう条件を満たしていたら何でも良いかというとそうではないし、色々と複雑な感じはある。

地味な能力王様

自分がそういう能力を考えるようになったのって、乙一の影響も少なからずあると思う。

乙一の考える能力の設定とか使い方って、いい感じに地味で、かつ物語に上手く溶け込んでるし

正直、地味な能力物語界の王様だと思うぐらいには尊敬している。

ちょっと前に読んだ乙一作品だと”THE BOOK”は、やっぱりその感じがよく出てて面白かった。

ちなみに”THE BOOK”っていうのは、ジョジョの奇妙な冒険四部ノベライズ作品なんだけど

タイトルのものが、劇中に登場するスタンド名にもなってる。

スタンド能力ネタバレになるから書かないけど、なんかすごく良かった。

能力自体はわりと地味なんだけど、すごく便利で生活にも役立つし

もともと戦闘に特化しているわけではないけど、”戦闘にも使える”っていう側面もある。

それになにより、能力のもの能力者の人間性に深くよりそっているあたりも乙一らしさを感じた。

作品全体を通してジョジョらしさと乙一らしさがうまいこと溶け合ってることに乙一ジョジョ愛を感じたし

そこらへんが単なるジョジョノベライズに留まっていなかった。

なにはともあれ、そういう地味な能力が出てくるオススメ作品があったら教えてください。

2014-04-23

http://anond.hatelabo.jp/20140423150621

いやいやいやいや、痛覚あるよ。めっちゃある。もちろん現実のそれとは違うけど、核の炎に焼かれてめっちゃ熱くて目が覚めたこともあるし、歯が抜けてめっちゃ痛かったこともある。痛覚だけじゃない、夢の中で匂いも味も五感全て存在してるよ。夢で食ったシュークリームが美味しすぎて、目が覚めた瞬間シュークリームがたまらなく食べたくなったことあるし、トイレが臭すぎて用がたせなくて困ったこともある。視覚だけしかないなんてことは絶対にない。

2014-04-21

パイマン論争

パイパイマンマンどっちが好き?って議論があるよね。

中学生くらいになると誰もがぶつかる難問。

「僕はパイパイ派かな」「俺はマンマン派だな」とか、はっきり答えられる人もいれば、「それは今後検討すべき課題だ」なんてお茶を濁しちゃう人もいる。

ぼくはそのときの気分によって「絶対パイパイだよ!」と言ったり「マンマンに決まってるだろ!」と断言したりしたけれども、いま年を重ねて冷静になってみると、なかなか決められずに戸惑う自分に気づく。

それじゃいけない。

この問題についてとっくり考えてみて、そろそろ結論を出さなきゃ!


まず、パイパイの魅力はどこにあるのか?

パイパイの一番いいところは、「千差万別」であることだとおもう。

ひとめ見ただけで目ん玉が飛びでちゃうくらい大きな人もいれば、逆にびっくりするくらいまな板の人もいる。

真ん中の色についても同じで、墨をぬったように黒い人もいれば、桜のようにうるわしい色をした人もいる。

おっきいのも、ちっさいのも、まっ黒いのも、ピンク色も、ぜんぶぜんぶ最高!パイパイ世界に優劣なんかあるわけない。

もしぼくがパイパイを好き放題にできるとしたら、両手でわしづかみにして、ぷるぷる揺らしながら、真ん中のところに突進して、お鼻からいっぱい空気を吸って、からだじゅうの五感を総動員。一時間でも二時間でもそのままでいられちゃうだろうな。

パイパイってすごい!


じゃあマンマンはどうだろう。

マンマンの一番いいところは、お返事をしてくれることだとおもう。

ドアをノックすると中の人が開けてくれるみたいに、こっちが上手にアプローチすれば応えてくれるんだ。

でもやっぱり人それぞれで、すぐに扉をあけてくれるマンマンもいれば、かたくななマンマンもいる。

素直なマンマンもうれしいけれど、かたくななマンマンを説得して観念させようとする醍醐味もまたいいんだよねえ。

「おーい、開けてくれよう」「まだだめ。もっとがんばって」「こんな感じ?」「う、うん、いいかも、でもだめよ、まだだめ、あ、うん、そのまま、つづけて」

うっひょーぼくもマンマンと会話してみたいなあ。


さあ、パイパイマンマンのどっちがいいか、ついに結論を出すときがきた!

いやーこうやって書いてみると、パイパイマンマンはどちらにも長所があって、捨てがたいんだよなぁ。

うーん。

パイパイかなぁ

いやマンマンかなぁ

うわーーーーむりむりどっちもだいすきあいしてるえらべないよおおおおおおお

2014-04-15

価値のないコンテンツ価値を無理やり出す不快感

「人は五感で感じないと感動しない」:アマナグループ CEO 進藤博信に訊く、ヴィジュアルコミュニケーション未来

http://wired.jp/2014/04/12/amana-ceo-interview/

この違いは何だろうって思いますよね。みんながいいっていう写真が3万円で、片や、パッと見でいいとは思われない写真が2,200万円。なぜこんなことが起こるかというと、それは、いま風に言うと「コンテンツコンテクスト化されている」からだとぼくは考えています。(中略)そういったコンテクストは人がつくり出していくもので、この先アマナは、コンテンツばかりではなく、コンテクストをつくり出していく仕事もっと担うべきだと思っているんです。

これってみんなが価値のないと思っているもの、つまり真の価値がないものに対して、コンテクストやらブランドやらで価値を無理やりつけて高く売ろうぜってこと?

ビジネスとしてはそうすべきだと思うけど、それって彼らが言う"アートフォト"じゃないよね。それこそコマーシャルフォト(商業写真)だと思う。こうしてつまんない写真日本にあふれていくんだろうな。

2013-10-05

さようなら

落ち込んでる訳じゃない、欠けてるだけ。

頑張りたくないわけじゃない、頑張れないだけ。

傍に居てほしいわけじゃない、愛していたいだけ。

うそ、ほんとは傍にいたい。

全部が、幸せだったんだね。

めんどくさかったり、怒ったり、嫌になったり。

それは全部幸せが見せる側面だった。

一緒にいたいよ。

たぶん一番辛いのは、「僕のことを好きじゃない彼女がいる」 ということ。

今まで神さまみたいに確かだったものが、 一瞬で消えてなくなってしまった。

きっと、離れた方がいいんだね。

ごめん、知ってたよ、知ってたけど。

たまに見せてくれる優しさに縋って、救いを見出して、勝手に落ち込んで。

たぶんずっと変わらないのは彼女は僕のことをもう好きじゃないし好きにならないということ。

そしてひょっとしたら、僕を好きでいた過去の"彼女"というものも消え去ってしまった

元カノ、って言葉を使うのが下手くそで悲しいね

前までの恋愛では未練を持てなくて悩んでた。

それがどうだ、今はこんなに寂しい。

でも未練じゃない。

ただ、そこに穴があるだけ。

色んな風景を見る度にその穴を通る風が吹く。

色や臭い、声や肌、キスの味。

五感を通じて思い出が僕を攻める。

まるで出来たばかりの傷跡を撫でるみたいに、ひりひりしちゃう

当たり前みたいに明日が来るけど、そこにあるのは今までの当たり前じゃない。

でも、やらなきゃいけないことは相変わらず僕の前に横たわっていて、そいつらが煩く自己主張を繰り返す。

全部捨ててしまいたい。

たぶん、人生すらも。

わかってる、その先に色んな形の幸せがあることは。

でも、今を耐えられない。

痛みを乗り越えればそこには云々なんて、痛みを知らない、若しくは忘れた奴の戯言だ。

2013-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20130905033313

女性には言いにくいのを承知で敢えて言う。自分の陰部の臭い、嗅いだことある

逆に男のアレを愛でるときに、自分が抵抗を感じているとすれば、抵抗を感じている点(主に五感)は、男が女のアレを愛でるときにも男側が抵抗を感じていることが多い。

男側の性癖だという確信があるなら仕方ないが、「相手が自分のモノを愛でやすい状態か」を少し考えてみるといいかもしれないね

@過去シャワー前に「舐めろ」と言ってきた彼女のアレの臭い嘔吐した男より

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