はてなキーワード: 五感とは
三日ほど前に彼女と待ち合わせをした際、三十分ほど遅刻される。
(親と恒例の買い出しに出て色々アクシデントの後にご飯食べてたら遅くなったとの弁明)
俺は一切責めず、笑顔で、逆に彼女を賞賛しておいた。いつものように来てくれてありがとうと。
ただし当初予定していたプログラムには間に合わず、既に受付が終了し入れなかった。(彼女は受付よりもトイレを探すのに執心していた)
この時点で大きく予定は崩れたのだが、その後で食べようと話していたスイーツの店についても俺が調べてあったので、場所を教え、お互いの車で向かった。
その店はたまたま彼女の大学時代のバイト先のそばだったので、スイーツをつつきながら大学時代の話などし、時間が余ったので近くのデパートへ。
ブランドショップやら本屋やら二時間くらいウインドウショッピングして、さて日も暮れてきたので解散、となったところで、
縁談という事で紹介を受けながらも縁談を進めたがらずに普通の男女交際から始めたがった彼女が、その男女交際すらあまり積極的でない様子がずっと続いており、さらに変化の兆しすら見えなかったので、「そろそろ縁談相手として見られるようになってきたかな」と別れ際のジャブを打ってみたところ、「結婚相手としては不安がある」との返答が返ってきた。
不安って何ぞ、と思ったので言うように促すが、どうにも言い渋る。
言い渋る理由を尋ねると、俺が彼女に一切ダメ出しをしないのに、彼女が俺にダメ出ししてばかりいる形になるからだ、との事。
とは言えそこで「うんそうわかったじゃあね~」で帰るのも不実なので、大丈夫!ボクは気にしないよ!言ってごらん!さあさあ!と、受け止めるレシーブ姿勢を見せた。
そしたらまあ。
堰を切ったように。
出てくること出てくること。
1:一番ひいたのは車、なぜあの車に乗り続けているのか、年収の事とか言う割には身の回りに気を使わない人なのかと思った
俺は地元から乗ってきた車にもうかれこれ12年乗り続けている。もともとが事故中古車で30万くらいの値段だったから入手時点で既に数万キロ走ってる中古車な上、自分でも事故も一度やってるし、バンパーもエンジンも一度換えている。
なんでそんな真似をしているのか。このあたりは、まず共感してもらえないだろう俺独自の価値観による行為の結果だという自覚はあるのだが、
ずっとこの車に乗り続けているのは、地元就職が叶わず、やむなく僻地に連れてくる事になってしまった愛車に申し訳ないという思いを抱えているためだ。こんなクソド田舎で廃車を迎えるのは忍びない。異郷の土となる愛車の姿を思うと、いずれ田舎で腐り果てていくだろう自分の姿が重なるので踏み切れない。
ま、地元でずっと安定職に就いて暮らす彼女にとっては知ったこっちゃない感傷だろうな、確かに。
2:あと一番初めに会った時に背広の上を着てこなかった、TPOをわきまえられない人なのかと思った
見合いの時、太りすぎてて背広の上着に袖が通らなくなっていた。んで、どうせ室内で会うしいいだろとスルーした結果。
かつて在職した職場では上着を着ない人も多かったのだが、彼女の職場は上着必須で、しかもなぜかそれを、病的なまでに絶対に堅守すべき常識と思い込んでいるので、目について仕方がなかったとの事。
仕事帰りの人が、ネクタイにワイシャツ、スラックス姿で見合いの場に出てくるのってそんなにおかしくて異常で不自然で非常識きわまる行いなのかねぇ。俺にはとてもそうは思えない。
背広の上着てないくらいで病的に粘着して、これまでにもたびたび何度も言及してきた彼女が正直こわい。上着無いと死んじゃう病か。
3:私を乗せて店に向かうとき、知らない横道にあっさり入っていって迷ったのが怖い
彼女は外食とかしない家の人なので地元の店を全然知らない。俺の生活地から彼女の地元まで数十キロ離れているが、案内役はいつも俺。
数十キロ離れた土地の事なんてインターネットで一生懸命調べてあとは現地で本番時に五感をフルに使って案内するしかない。こっちも仕事してて下見行く時間なんかない。
そりゃ迷うのが当たり前で、そもそも注文つけられるレベルじゃない。が、その苦労は知ったこっちゃないらしい。俺はナビじゃない。
4:毎回毎回会ってくれてありがとうとか言われるのが居心地悪い、私はそんな大した存在じゃない
いや、ワタクシタチは婚活をしているのですが…。相手を罵倒するより感謝をした方が建設的なのは当たり前の事じゃあないのかな?
会ってくれたくらいで感謝すんなや、って話なのかも知れないが、そもそも彼女は一切話を振ってこないので話題がないから、こういう話の切り出し方になるのですよ。
あとこれから結婚しようと考えて接している相手は、(たとえ候補といえども)そいつにとっては大した存在、じゃないかな普通。
5:あといつも決定を委ねられるのがイヤ、将来も大事な決定を全部私任せにされそう
あなたがデートプランを気に入らないと連れて行ったところで意味がないから必ず承認を求めているだけですよ女王陛下。
自己中心的な俺様野郎に振り回されたい願望でもあるのかな。絶対に自分の意見を必ず提示する彼女の性格からして、まずそういう相手には反発するだろうに。
6:私に対して低姿勢過ぎて仕草が女の子みたい、きっと自分に自信がないんだと思った、もっと自信を持って欲しい
プライドの高そうなあなたが高圧的な態度の人間は毛嫌いしそうなタイプだからこういう態度取ってるんですよ閣下。
とても話しかけづらいオーラを放っている婚活相手だから、こちらが随分年上でも下手に出ているんですよ閣下。
閣下もご覧になった事のある『清洲会議』でも言ってたでしょう。“年上の女房は年下に扱い、年下の女房は年上に扱え、それが夫婦円満の秘訣だ”と。役所も「うむ、肝に銘じておく」とか言ってたでしょう。
7:食う時の姿勢が悪い
お母さんか。
8:太っていて油っこいものが好きそうに見えるので食生活が合わないんじゃないかと思った
閣下。閣下の前で俺、一度も大食いとかしてないでしょう。というか俺別に大食いじゃないですからね。
というか閣下は俺の作ってきた弁当とか食べた事ありますよね? 和風野菜炒めだけ「これは美味しい」って言って完食してましたよね?
9:そもそも私はやせている方が好みなので
一度会えばどれくらい太ってるかなんてわかるだろ…。じゃあ最初の見合いの後でキッパリ断れや…。
これだけの事をおおよそ三十分に渡って淡々と訴える閣下は絶対上司に持ちたくないタイプだと思いました。
ここまでの言葉を相手に向かってぶつけている以上は、やはり閣下にも相応のご聖断とかあらせられる上での事だと思ったので、
ああやっぱり破談かな、と思う。
ので、最後に握手くらいしてみようかと思い、理由を言わずに握手の提案をしてみるも、
「いや、握手の理由がわからないのでしたくないです、そもそも人に触られるの好きじゃないです」
男女交際は初めて、装身具も身につけない主義、との謎のフォローが後から入れられるが正直どうでもいい。
で、その後、「来週は職場の送別会の飲みがあるので再来週に」と予定を交わして別れる。
あれ?
ああ、これは後日相談所から「今回のお話は残念ながら・・・」という連絡が来るパターンかな、と思って身構えるも
(実は最初の見合いの時も破談になる雰囲気満載の態度だったので、覚悟するのはすでに二度目)
連絡来ない。
あれ?
「二週間後までに痩せて車買い替えて態度をオレサマ男子風に改めとけや」
かな?
ここまでの要求を平然と相手につきつけるその神経も疑うが、ここまで合わないと思っていて実際に「合わないのかなって思ってるんです」とまで相手に実際に告げておきながら、破談にしない理由も謎のままだ。
ともあれ、突きつけられた要求の大きさとこれまでの常識の通じない相手の怪物ぶりに、仕事の繁忙期ながら二日前からどうも意識がボヤけたままだ。
もちろんこの二日でダイエットなぞしていないし、車を買い替える手配もしていない。そんな気力すら湧いてこない。
閣下からは「発言はあまり気にしないで下さい」みたいな返信メール(いつも会って貰った後には必ず丁寧なお礼メールを送っているのでその返事)が来ていたが、アレを、あの発言群を、なかった事にするのは重すぎる。
ああ…破談にするのも続けるのも、どちらもとんでもなく苦痛だ。
死霊術師としてのすべては、今は亡き祖母から伝習した。大学では文学部に進学した。これはもともと歴史学に興味があったことと、死霊術師としていつか遭遇するかも知ない事態に備えるためだった。
大学3年生の終わりころ、死霊術師としていよいよその事態を迎えることになった。
ある日テレビを見ていると、旅番組のようなものがやっていて、滋賀県の西部の山林地帯をいつも見る芸能人が歩いていた。何の変哲もない番組だった。しかし、テレビを介しても充分過ぎるほどに、死者が放つ霊の波動が伝わってきた。もちろん、普段生活していてもその種の死者の波動を感じることはある。霊波は一般に、腐ったり火葬したりして身体が失われると弱まる。またたとえ身体があっても、時間経過によっても霊の波動は弱まる。人間やその他の生き物は、その場にとどまろうという意志を長くはもちえないのだ。恨みだとか、一般に強そうと言われる意志ですらそうだ。こういうのは仏教的に言うと成仏していくってことなんだろう。魂は残らない。めったには。
テレビで知った、滋賀県の霊波は別次元と言えるほど古く、そして強力だった。おそらく、亡骸がある程度そのままの、古い死体があるのだろう。そして、強靭な意志を21世紀でも保っている。
死体と強い意志。これが重要だ。死者蘇生の用件を満たしている。そしてかなり古い。
腕試しにはちょうどいい。見つけてしまったらもう止められない。死霊術の行使者として、その興味関心を止めることはできない。
祖母から習った作法で、霊波の質から霊が生きた(死んだ?)時代のおおよその年代を感じとった。520年+-30年前くらい? 手元の『日本史辞典』を紐解く。室町後期? 手が震える。研究室で『国史大辞典』にかぶりついた。
その頃の近江は一般に長享・延徳の乱と呼ばれる動乱期にあった。守護の六角氏討伐のために将軍足利義尚が長く近江に陣を設けていた。どうやら死体はこの時期のものらしい。
私は大学の研究室の院生の先輩に聴いてその時期の文献を学んだ。また隣りの言語学研究室と国文学研究室に行って、室町時代の言語やその発音について質問した。かなり難しい。筆談の方がいいかもしれない、と祖母のアドバイスを実感をもって思い出した。まさか室町期の死体に会えるなんて。せいぜい行って天保期くらいだと思っていた。古い死体なんてものは時代を遡るにつれて加速度的に少なくなる。祖母は明治4年に死んだ男の死体を蘇生したことがあると言う。これでもだいぶん古い方だ。室町期の死体なんて、祖母からもきいたことがない。後で聞けば、先輩方は私が卒論で室町時代後期を扱うから一生懸命調べていると勘違いしていたそうだ。
春休みに近江に旅した。大きなスーツケースを持って。蓬莱なんてお誂えむけの地名だ。山の方に入っていく。山は静かだった。ほどなくして現場に到着した。霊波は強い耳鳴りのような形で私の身体に具現する。こんな古くて強い霊波、他の死霊術師が気付かなかったのはちょっと不思議だ。まぁ波長が合う、合わない、はかなり厳密だから。私にもってこいのチャンスなのだ。私は女ながらオリエンテーリング部で体を鍛えていたから山歩きは結構得意なのだ。オリエンテーリングなんて全然興味が無かったんだけど、新人歓迎コンパで迎えてくれた先輩方の雰囲気がすごく良かった。サークルでは、大学生なりだけど、人との付き合い方、間の取り方を学べたと思う。高校生の時にはあまり意識できなかった、人間(じんかん)の距離感や発話。
山道から沢に下りる。死体が残った理由が、何となくわかった。日本では死体はすぐ腐って亡くなってしまう。しかし沢下にはぽっかりと、知られざる洞窟が顔をのぞかせていた。多分ここに死体がある。相違ないだろう。もしかしたら近年はずっと埋まっていて、最近になって地震などで再び穴が地表に現れたのかもしれない。だから今まで波動に誰も気づかなかったのかも? 洞窟は沢が近く低温が保たれ死体が保存されたのかも。あるいは永久凍土なんかがあって風穴で涼しいのかも。ま、これを考えても詮無い。とにかく、死体があるのは明らかなのだから。
ひんやりした洞窟に足を踏み入れる。かなり急だ。いよいよだ。震えるほどだ。周囲には驚かれるけれど、死霊術の技術は、実は私にとってはとても簡単なものだ。血も継いでいるし、祖母と言う佳き師もあったから。祖母もいっていたことだが、基本的に死霊術師は技術的な部分はそんなに問題にならない。むしろ重要なのは、死者と会い、契約する時の対話の仕方だ。死者が生きた時代の言語や常識を、こちらが把握してしっかり対話せねばならない。そうしないと蘇生に応じないこともあるだろうし、蘇生したい旨すら伝えられないこともあるだろう。死霊を怒らせてしまっては、あるいは成仏させてしまっては元も子もない。死霊術師の実力はここで決まる。このことを上手くやるために、私は大学では文学部へ行ったのだ。もし死霊術師に生まれなかったら、稲の光合成の研究をしに理学部か農学部へ行きたかった。
洞窟の奥にややひらけた場所があり、その壁によりかかるように木製の箱型の人工物が見える。…ああ、かなり古い牛車だ。小八葉の牛車? 公家が移動手段として用いていたもの。八葉の大きさ、小さい? 大きい? これで身分が大体分かるのだが…肝腎の大きさが、大きいのか小さいのかわからない。そんなの文献に載ってない。牛車なんて初めて見るんだ。そもそも近江に牛車。やや不可解? 足利義尚の近江出陣の際には公家も近江まで出向いたというから牛車できてたのか? それにしたって牛車で近江まで行くの? なにもかも自信が無くなってくる。
これではだめだ。祖母の言によれば、まずはその人をそのまま、そのままに感じるのだ。先入主観は退けるのだ。牛車の文様が大八葉だろうが小八葉だろうが、なかに居る主こそを見るべきなのだ。
精神を澄ませる。霊とは頭の中で会話する。結局、『太平記』のテキストをメインに準備を進めていた。『太平記』は南北朝時代を描いた軍記物で、室町後期には往来物として身分を問わず人々に広まっていた。死体の教養がいかほどであっても『太平記』の語調なら大丈夫ではないか、と考えた。とうぜんテキスト変わっているんだろうけど…。
「私はあなたよりも後世を生きる人間で、その間に人間が語る言葉も変わってしまった。この言葉があなたにどの程度通じるか私にはわからないが、どうか話を聞いてほしい」。ここまでテンプレ。国文学研究室の富田先輩ありがとう。
…牛車がガタガタと動く。御簾が超自然的な動きを示し、内の暗闇をあらわにする。お化けが怖い人はびっくりするんだろうけどもちろん私はそんなことはない。打掛の裾が見える。小袖が二重? そして茶色く干からびた手のひらが…暗くてよく見えない…が、死者に話しかけた段階で幽界との淡いが生起し、この世ならざる強烈なイメージが五感以外から五感を経由し認知される。死体は髪の長い公家の女性が見える。平安時代のオカメで十二単のイメージがあるけど、それより軽装だ。でも相当めかしこんでいる。この時代の人間は小さいしガリガリだな。さぁ、いよいよだ。頑張って蘇生の素体になってくれるよう語りかけよう。
「…私の寂滅からどれくらいの時間が経過しましたか?」むむ、なんとかこれくらいなら聴き取れる。うほっ、「太平記読み」専攻の坂田先輩ありがとう! 高校の非常勤やりながら大変でしょうけど博論頑張ってください。
「五百有余年でございます。『太平記』を読んであなたの時代の言葉を学びました」「…私も『源氏物語』で古の言葉の遣いに触れました。」「実は、…今日はあなたにお話しがあって武蔵国から参ったのです」いよいよ本題だ。
「あなたは強い心をお持ちで五百有余年をお過ごしになられました。そして幸いにしてお体も崩れず残されております。私はあなたの精神と身体とを結び付かせ、再び現し世に復することができます。再び洞窟の外に出て暮らしてみるのはいかがでしょうか」
「たしかに私はまだ黄泉の食物を口にしておりませんね」さすが公家の娘だけある。当意即妙にこたえねば。「私なら黄泉比良坂をあなたを連れて戻ることができます。」「どうして私を選ぶのです」「あなたのように長らく意識と身体とを保つ例はめったにないことなのです。」実はこれはあまり理由になっていない。死霊術師の衝動を説明するには、私には言葉が足りない。彼女が尋ねる。
「当時(筆者注:ここでは現在の事を指す)は死者を供養する作法は未だ仏式を用いますか?」意外な質問だ。自らの供養を望んでいるのか? 「ええ、大分形はかわっておりますが仏の教えは今でも通用しております」「ならば既に死んだ者を私なりのやり方で供養して、意味があるということですね」…あやうく意味を取り損ねるところだった。ちょっと不可解な質問だ。彼女は何を考えているのか。彼女の事を深く知った今になって考えると、これは彼女なりにかなり考え抜かれた、ある種の哲学のようなものだった。彼女の培った供養の作法。そのルールがもし現代で途絶えていたら。つまり仏教が現代に伝わらなくて、もし私たちが何か違う祈りの作法で死者を弔っていたら。きっと彼女は蘇生に応じなかっただろう。彼女の知っているルールで現代でも供養ができる。これが彼女にとって重要だったのだ。
「私は京都の六角富小路に邸宅がある公家(筆者注:ここでは「こうけ」って読んでね!)に生まれました。大乱(筆者注:ここでは応仁の乱を指す)の後の騒擾の世でありますから、私は近江を根拠にする武家の御仁に嫁ぐことになりました。いよいよ渡嫁のとき、牛車が谷に落ちて私は命を落としたのです。嫁ぐことが決まってから、武家奉公人の生活が如何様であるか、主人が如何なる稟性を持つのか。和歌は読めるのか古典は存じているのか。いつも想像していました。」死霊術師の常識から考えれば、それだけでここまで精神は保てない。私はほとんど確信をもって尋ねた。「もちろんそれだけで想いを保つことはできなかったでしょう。どうして。」
彼女はここで初めて表情を私に感じさせた。「実は洛中で一度彼の人をお見かけ申上げたことがあるのです。私の生家は上って四位の家柄ですから、ふらふらと外にでてもあまり咎められることは有りませんでした。ある日京師が物騒になり武家の人が20騎ばかり邸宅の前を過ぎりました。颯爽と武者を連れていたのが、後々判ったことですが我が主人となる方でありました」え? それだけ。うーん恋愛感情ってわからないけど、そんな単純な感情で何百年も持つのかな? 単純だからこそ長持ちする? わからんね。すると彼女が続ける。
「死んだあとはずっと新しい生活の事を考えていました。武家の生活。今まで見知った知識や噂話全てから、ひとつひとつ、未だ来ぬ時の先をずっと、ひとつひとつ限りなく。一日の起きてから寝るまで。衣服の糸先から世情に至るまで。とにかくひとつひとつ。世に現れるであろう現象をすべて想像しうる限り、ひとつひとつ。彼や周囲の人間との交わされたであろう会話をひとつひとつ。彼の人とのありうべき時と出来ごとの全てをひとつひとつ想像していたのです。そうしたら、ええと、五百有余年過ぎ去っていたというわけです。」そうして彼女は莞爾した。私は一発でこの女性を好ましいと思ってしまった。こんな偏執的で叮嚀な思考回路を持った人があるだろうか。この人なら。彼女に21世紀の平成の世の中で夫となるはずだった人の菩提を弔わせたり、あるいは彼の一族についてその後どうなったか調べさせたりすることは、彼女の心性をおそらく負に傾けることはないだろう。ひとつひとつ、彼女には想像したことの自分なりの答え合わせをしてもらえたら。私がそのお手伝いができたら。ちょっと身勝手か。とにかく、この人なら大丈夫だ。
好奇心とイマジネーションとを併せ持って、平成の世まで意識を有した五条顕子姫の死体は、その意識と共に、こうして私の赤羽のマンションにやってきた。
インスタント食品がそれほど好きでない。
そんな中、10年ほど前にタイ土産にもらったトムヤムクン味のカップヌードル(日清食品の現地法人が出している)は、驚くほど自分の口に合って美味かった。
元々辛いものが好きなのもあるが、現地人向けに作っているだけあって本格的な酸味と辛味が際立っており、それがカップヌードルの臭みも上手い具合に消してくれている。
個人輸入等で買うことも考えたがけっこう割高だ。いつかタイに行く機会があったらまとめて買い込もう。
……と誓ってからしばらく経つうちに、ご存知のとおり、日本でも正式に「カップヌードル トムヤムクン」が発売された。
待ちに待った商品。待ちに待った味。
本場の味をよく知る人にはもしかしたら物足りないのかもしれないが、俺の記憶にある味とは寸分違わない。美味い。
販売不振で早々に生産終了しては困るので、応援の想いも込めてたくさん買った。
一時品薄な時期もあったが、その時も日清直営の通販サイトからなダース単位で注文できたので、箱買いした。
日本国内で広く売るにはなかなか挑戦的な味なので心配していたが、俺のように夢中で食べた人が多かったのだろう、「カップヌードル トムヤムクン」は今も店頭に並んでいる。
いつものように近所のスーパーのカップ麺売り場を見ていたら、ある商品が目についた。
即座に買い物かごへ放り込んだ。
作り方の基本は「カレーメシ」なんかと同じだ。蓋を開けて規定量の水を入れてよく混ぜて蓋を被せてレンジでチン。あと、こいつの場合は食べる直前に入れる「トムヤムクンペースト」が付いている。
作った。
レンジで温める5分間がとても待ち遠しく感じた。
食べた。
慌てて口に入れたら熱い熱い熱い。熱すぎて味もよくわからない。
よく混ぜてよく冷ましつつ、ゆっくりと香りを楽しみながら味わった。
暖かい。
酸っぱい。
辛さは控えめ。
米はスープを吸って粘り気のある食感。
ひと口、ふた口と食べ進めるうちに、
妙な、感覚を覚えた。
……この匂い、この味、この食感。覚えがある。
麺ではなくリゾットだからこそ呼び出された、別の記憶の引き出し。
あ。
あ、ああ……。
あ、あ、あーーー!!
ま。
ま、ままま。
ま ん こ だーーーーー!!!!
まんこだ!
これ、まんこの味がするよー!!
生暖かさといい複雑な香りといい酸っぱい味といい、ヴァジャイナそのものだよ!
なんで俺は会社の食堂で女性器そっくりの食べ物を口に運んでいるんだ!
韻を踏んでいるようでさほど踏めてなかった!
まだ8割くらい残ってるけど、俺このおめこ味の食品をこの調子で完食できるか!?
もうね、手元のカップの中身が陰核と大陰唇と小陰唇の織りなす小宇宙にしか見えない。
五感のうち、嗅覚と味覚と触覚の3つがぼぼそのもので占拠されてるんだぜ?
視覚「あー、これに見えるはしとどに濡れそぼった秘裂ですわ」
聴覚「せやせや、クレバスからとめどなく溢れる愛液がいやらしい音を立てとる」
出ましたよ、五感の総意が。
数分後。
全身全霊をもって女陰と認めた代物を、苦労して完食。
正直きつかった。
職場の昼休みにNHKニュースをBGVにして擬似クンニ体験なんてするもんじゃない。
でも。
もし俺が童貞真っ盛りの中高生だったら、間違いなく箱買いしてただろう。
手のひらと指全体を使ってカップの温もりを感じつつ、肺が破裂しそうなほど深呼吸しつつ、総入れ歯を失くした老人でも咀嚼できるくらいに柔らかくなるまで口内で味わい尽くすでしょう。
いや、それだけじゃ済まないな。
突っ込んでるな。
ちんちんを。
突っ込んでるな、ちんちん。
間違いなく。
そんで火傷してるな、温度調整を誤って。
世にはカップヌードルを用いた自慰行為があると聞くが、それは一度も実行しようと思わなかった。
そいじょそこらのオナホで再現できているのは精々、形状とか触感とか温もりとかでしょう?
こいつは次元が違う。匂いと触感の域にまで踏み込んだ前代未聞のジョークグッズである。
もし、この増田を読んだ中高生男子がコンビニやスーパーのレジへうつむき顔で「カップヌードルリゾット トムヤムクン」を持ってきたとしても、店員さんには優しく接していただきたい。
取り急ぎこちらからは以上です。
DVとかブラック企業とかギャンブル中毒とかバカにしてる人間ほど洗脳されやすいので洗脳について勉強して欲しすぎる
http://aonooo.hatenablog.com/entry/2016/02/01/225804
この記事が話題になってたんで、前々から思ってたことを吐き出してみる。
まあ、それ言っちゃあおしめえよみたいなことでしかないんだけど。
オカルト乙!で切って捨てて、非リアの戯言として潰されるのがオチなんだけど。
>例えば「知り合いの中だとマシだから」「選べる企業の中だとマシだから」とか周りとの相対で良さを感じるんじゃなくて、
>絶対的な観点で良いと思える点が無い人、無いもの、無い組織とはとにかく関わらない事。
>大変かもしれないけどろくな事にならないから選択肢を広げられる様に力を身につけていって欲しいと思います。
これってさ、この社会、ひいてはこの世界そのものだと思うんだよね。
べつにオカルト的なことを言うつもりはないんだけど、生きてるってだけで世界によって洗脳されてる感がものすごいある。
だって、世界という枠組みの中ではある程度の自由は保障されてても、そもそもこの世界に望んで生まれてきたっていう確信は普通ないじゃん。
この家族、この社会、この国、だったらまだ気に入らなければ逃げる余地はあるけどさ、この世界から逃げるには、少なくとも今のところは自殺とか解脱ぐらいしか方法ないよね。
でも、その自殺はなんだかんだといろいろと理由を付けられて、人間的にも社会的にも圧倒的な間違いとして繰り返し認識させられ続ける。
でも今のところ人間が認識できる共有世界って一つだけなわけで、実質的には人間社会=世界みたいなものじゃん。
SFみたいな完全な仮想世界なんてまだまだ遠い未来の話だし、それだってやっぱり物質世界の中での話に過ぎない。
もっと言ってしまうと、生き物に限らず特定の種として存在してる時点で、牢獄というかね。
ここまでくると完全にオカルトな領域なんで、俺もちょっとどうかと思うけど。
ぶっちゃけリアルってさ、楽しいと思わなきゃ楽しめないものじゃん。
これってすごく怖いことだと思うのは俺だけなのかな。
人間の五感で感じとれる世界だけがすべてなのがデフォルト状態で、事あるたびに自我が自分を否定して肯定してを繰り返して、
私は五感全てが過感覚なんだけど、一つそれとは別に気になる感覚がある。
うちの一箇所が務めている会社の裏側で、コンビニへのショートカット地点なので不便だ。
静電気の強いバージョンといった感じだけど、そこでは常にパリパリしている。
しかし、他の誰も感じないという。
と思ったが、左手にバチッと感電したような感覚があり、実際音も鳴った。
それは隣に居た人間も聞こえたらしいので実際に電気はあるようだ。
検索もしてみたけど見つけられなかったんだよね。
■追記■
うろ覚えなので記載しなかったんだけど、一応残りの二箇所を書いておく。
銀座六丁目のナチュラルローソンの裏(銀座並木通り店かもしれない)
昔、野村萬斎の陰陽師を観に行った映画館の入り口(ちょっとググったけどどこかわからん)
イメージ的にはラムちゃんが電撃を放つ前にパリパリさせるじゃん?
あれが目に見えないけどずっとそこにある感じ。
ちなみにモスキート音は聞こえない。
でも、もしかしたら感じるのかもしれない。
キーンと言うよりはやっぱり「パリパリ」って感じで、全身で感じる。
超音波でぐぐったら出てきた、ここ↓の人たちは仲間っぽいから、やっぱ超音波かな。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2004/0710/007304.htm
後、関係するかしないか、多分しないけどリモコンの誤作動が多い。
AVやオナホール、二次元、風俗。こんだけネタができてくると、供給過多になっちゃうんじゃないか?
ってか多分、最低限の供給は終わってると思う。
つまり、現在さらにAVや二次元が供給されてるってのは、過剰に供給してるわけだ。嗜好品なわけだ。
っと思うんだけど。男達の彼女強奪戦は毎年加熱してるように思える。どうしてだ?
もしかして、既婚者が不倫枠で女をゲットしまくってるからか?少子化で、本当に女を必要としてる20~35くらいの男達より、40代、50代の人口のボリューム層かつ金のあるおっさんが女をゲットしまくってるのか?
俺自身、どの程度なら性欲に満足できるかを考えてみた。
ある程度使用に耐えうるセクサロイド、二次元を十全に体験できるバーチャルリアリティー技術、五感に訴えられるオナホール。
このあたりが完成すれば性に対して欲求不満になることは多分なくなると思う。
出すんだったら医療系だったな
医療系は実際妙なことが立て続けにおきてもそんなの構ってられないから放置するけどな
シニカルに言って理系がいちばん不思議を信じてるって思ってるんだろ
①不思議を当然のこととする日常を描画している様子を見るのが好き
②当然とするべき事柄を当然と受け止める立場からみた超常的な空想が好き
③関連性のない事柄を混ぜ合わせると新しい認識が生まれるという空想好き
⑤’破壊された事柄について他者が再構築に勤しむ姿を傍観するのが好き
最近まったく見かけない
⑥無知なものが世界を認識していく空想が好き(古い童話作家タイプ)
もあるが ほんとこれは絶滅したな
奈良県で行方不明となっていた小6女児が無事見つかり、ほっと一安心。
ただ、空白の32時間に、何をされていたのかは推して知るべしであるので、続報が待たれる。
そんな時には、同じ子をもつ親として、本当にいたたまれない気持ちになる。
犯人が捕まった所で、亡くなった子供は元にもどらないし、犯人への量刑も軽すぎる。
そこで、私は断言しておく。
もし、自分の娘が同じ目にあったとしたら、警察や弁護士には頼らない。
どうせ大した罰は与えられないし、あらゆるものから護られてヌクヌクと刑務所で養生するのだ。
そんなことが許されるわけがない。
私は、私刑を断行する。
犯人には実刑がくだされて、一度は司法の手に落ちることになるがそんなことは関係ない。
いつの日か刑務所から出てくるであろうその時を必ず見逃さない。
私は元受刑者を尾行・追跡し、場合によっては探偵でも雇い、居場所を把握する。
機会を狙い、拉致監禁する。
叫び声は上げさせないつもりだが、ドタバタ音をたてられては困るので、外部との接触を遮断する。
元犯人には、自殺ができないように、口に詰め物をし、両手を縛る。
栄養剤を適宜点滴にして与えてやり、しばらくは死なないように調整してやる。すぐには殺さない。
まずは思う存分なぐる、蹴る。生爪を剥がす。生殖器はまだ攻撃しない。五感もある程度残しておきたいので、顔は避ける。
死なない程度にやる。まだ死んではいけない。
栄養剤を与えて、怪我をしたら手当もしてやり、何日も何週間もかけて、何度もやる。
そのうち体が慣れてくるかもしれないので、手法を変えていく。
例えば、虫を大量に体に這わせるとか、自分の体が動物に食べられるところを見せるとか
精神的に追い詰めれる作業を延々と続ける。
だんだんと精神が蝕まれ、もう死にたいと願うようになるだろうが、殺さない。
http://anond.hatelabo.jp/20150612210459
考えさせられたけど、整理できたので書く
一つ目の問題
その行為が「相手から見て美しくない行為」と認識しているかどうか。
反対派は化粧の姿を見て美しくないと感じる。
中立、賛成派は、美しくないと感じる人とそうでない人に分かれる。
以降「化粧の姿を見て美しくないと感じる人」を「化粧姿嫌悪者」と呼ぶ。
電車内は閉鎖空間。閉鎖空間は逃げ場がない。よって皆が不快さを感じずに過ごすには、協力が必要。
どんな協力?
五感で考える
味覚→問題なし
触覚→極力触れない、体重をかけない
そして視覚
これが難しいんだけど、かっこ悪い行為をしない、ということかと思う。
例えば、奇妙な動き、ハナホジ、化粧など、最初の問題で考えた美しくない行為をとにかくやめようぜ、ということ。
皆が協力することで、「何もない乗車」を無事に終えられるから。
よって化粧姿嫌悪者に対して協力するのなら、化粧をすべきでない。
化粧姿嫌悪者は同じ車内に居ないと確信しているならやっても良い。
(余談:化粧姿嫌悪者は圧倒的に男性に多そうだ。女性専用車両でガンガン化粧してるのはそのためかも?)
もうちょっと考えたい
考え
→化粧する人は、せめて電車内くらいは、イエとして行動させてくれと思うのではないか
でもその時間使わないと生活が回らない(一分でも寝ていたい)。
という気持ちは分かる。
化粧姿が美しくないと思いながらも生活が回らないのでやっちゃう人は、せめて恥だけ持っていて、と願う。
自分はADHD傾向のため、遅刻しそうで電車内で身なりを整える人の気持ちは分かる。
でもやっぱり社会人なら、玄関出たらソトって意識は必要だったと感じるから、頑張って家で化粧終わらせようぜと思う。
そもそも化粧する姿が美しくないと思っていない人には、それ恋人とのデート中に目の前でやんの?って聞きたい。マジで君の魅力激減だよと伝えたい。
↑これは俺の意見でちょっと過激だけど、元記事のブコメとか見る限りは化粧姿嫌悪者は半数近くいるんじゃないかな。
電車内が他人の美意識に協力すべき場所ではないと考える人に対しては、お手上げです。
ロスの地下鉄はそうだった気がする。
好きか嫌いかの問題で、俺は嫌いだった。
最後に
それは信仰の問題では全くない。あなたがセンスを磨いていないというだけ。もし憧れがあるならば今は簡単に自分のセンスを磨くことができる。方法は外を回って好きなものを写真に撮るというだけです。
センスとは感じるということ。街中のビル群の向こうに赤い夕暮れを見る。それをなんだかいいものと思う人もいるし、そうでない人もいる。写真家や画家は、一面の青空にふわふわと雲が漂っているのが好きだ。なぜかは分からない。後付けで考えるならば、一面に広がる青空に雲が動いていることは、太陽の豊かさ、大気の豊かさ、十分な水を表しているだろうし、それが我々人間にとって命に関わる大事であることに疑いはない。おそらくそういう経緯で人は物事に好きと嫌いを感じ取る。しかし、重要なことはまず自分が感じるということが先にあって、根拠が先にあるのではないということだ。宇宙や太陽、大気について人類が知ったのは人類の歴史から見れば最近のことであって、その昔の人類は全くの知識なく生きていたのである。重要なのは好き嫌いであって、その好き嫌いが淘汰されるという形で現代に残っているのかもしれない。
私達は私達のことについてほとんど知らない。全く知らない初めての食べ物を食べる時は気後れがするし、もし舐めてみて不味かったり苦かったりしたら、それは危険かもしれない。あるいはそうでないかもしらない。細かいことは分からないし五感が全能であるわけもない。しかし、その中で私達は身体全身によって生きている。
どうかわかってください。人間の精神は身体抜きに考えることはできないのです。また我々は何が身体にとって良いのか悪いのかについても未だわからないのです。少なくとも視覚的な美(最も私達が見るに値するもの)ですら完成してはいません。
科学などのロジックは人間の主観的な感性を排することによってその能力を先鋭化させていきます。一方、文章から察するにあなたに豊かな感受性があることを私は疑いません。先も言ったように、外を歩いて周りいいと思ったものを写真に集めて回るだけでも少しずつあなたの心は開かれてくるでしょう。