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2020-03-18

社会は対戦ゲーム 女社会共闘ゲーム

男が女を人間扱い云々の話題を読んでて思うが、そもそも共同体ルールが違うんだよな。

社会は対戦ゲームで女社会共闘ゲームじゃなかろうか。

社会が内部で争うことも男社会が内部で協力することもあるだろうけど、傾向をぼんやりといえばそんな気がする。

2020-03-17

本物を超えてる偽物

たとえばカニカマなんかは「所詮カニの偽物だからショボい」みたいな意識結構あって、それが味への正当な評価を妨げてるんじゃないかと思うことがある。

カニ、味はぼんやりしてるしなんか臭えし食べにくいし、言うほどいいものか?カニの足の中に入ってるのがカニカマですり身を加工して作られるのが蟹の身だった場合俺たちははたして蟹の身の方をありがたがるのか?

本物ってだけで無条件に偽物より上ってことはないんだよな

オナホだって刺激では本物に勝ってるって話だし、ゲームだって現実人生より面白い(やりすぎて死ぬ人がいるくらいだ)

やめたほうがいいよ 本物信仰

マックグリドル

マックグリドルって最初一口でうまっ!って感動して

食べていくうちになんか甘いけどしょっぱくてぼんやりしてきて

半分食べたところでパンズと肉を分離させて食べてみるんだけど

そうするとパンズはそんな甘くないし肉はしょっぱいしでやっぱ一緒に食べるのがいいんだなって

ぼんやりしてたあの頃が良かったんだなって思って


マックって分かってるんだよね俺らを

お前らの朝なんて起きてぼんやりした頭で飯食ってあーねみーと思いながらTwitterして電車乗って出荷されてくんだろ

その間にな~んも考えてなくて電車ん中で立ちながら寝てやろうとかそんなことしか考えてないんだろ

だったらその頭に寄り添ってやるよ、甘いのかしょっぱいのかわかんねーこの味がお前らに一番寄り添ってやれるんだよ

って、分かってんだよね

流石だよマック


まぁ朝にマック駆け込むなんてめんどうなことしたかねえから流行らねんだけどな朝マック

2020-03-15

anond:20200315213757

個人カフェ提供時間が遅い店が多いので40分から1時間くらいはいるな

1. 提供までぼんやり待つ 20〜30分前後

2. 食べる飲む 15〜20前後

3. 身支度するトイレ行く 5〜10前後

4. 用は済んだので出る

2020-03-14

価値存在

からも関心を持たれたことがないし最近自分自身さえ自分に対する興味を失いつつある 今まで楽しいと思ってやってたことも最近は何一つ楽しさを感じられなくなってきた

自分客観視することには慣れていて、世の中の全員にとって自分がいてもいなくてもいい無価値存在であることはちゃん認識できているし、今まではなんとか自分かわいさで生きるモチベーションを出せていたんだなと思う ただ残念ながらそれを直視し続けてそれでもなお自分自分人生への興味を保つことは俺には難しかった そのうえ楽しさを感じる回路までぶっ壊れて、つらさしんどさとかの負の感情だけは全然まらない 最近仕事しながらでもぼんやり死にてえなあとしか思っていない 仕事に関してもなんで生きてても意味ないのに生きるための稼ぎをやってるのか意味がわからない 早く死を怖がらなくなって本当の意味で誰にとっても意味価値もない人生を終わらせたい

2020-03-13

過去のつらい思い出の話をする。

おはようございますこんにちは。こんばんは。

わたし最近になってやっと意識を獲得した人型の動物です。

などとおかし自己紹介になってしまったのには理由がありまして。

というのも、わたし人生を振り返った時、そのうちの半分は「自らがおかれた環境下で生きることにいっぱいいっぱいだった動物」だったというのを最近になって自覚したタイプの生き物だったからです。

この気付きから過去記憶フラッシュバックが止まらなくなり日常生活が滞ってしまった為、こうして書き出すことにしました。ネットの海に流して供養することが目的記事になります

友人や知り合いに吐き出せるような話ではないし、読んでいて気分が良くなるものでは決してないのと、あくまで「わたし」の為のごくごく個人的文章であることを理解された上で読み進めてください。

また、精神的なネグレクトを受けたと感じた側からお気持ちなどがあるので、そこら辺を見て落ち込みそう/気分を害しそうな人は見ない方がいいと思います

書こうとしたはいもののどこから話せばいいのかな……そうだ、きっかけですね!

これを思い返すことになったきっかけは兄を相手家族の話をしたことだと思います

わたしは兄と二人兄弟で、小さなころから同じ家で過ごしました。兄もわたし所謂オタク趣味にしていて、いつも何かしら共通話題があり、この日もひょんなことから幼いころに感じていた家族についての話になりました。

この書き方だとあまりそういう風には見えないと思うのですが、兄とわたしが話すとき父についてのシリアスな会話はタブーのようなものでした(少なくともわたしはそう感じていました)。なのでこのときわたしは、もう2人で擦り合わせをする機会はこの先訪れないかもしれないと思い、勇気を出してシリアスな話を切り出しました。

真っ暗な井戸の底のほうまで下ろしたと重い桶を、慎重に引き上げていくような心地でした。

家族構成するメンバー祖母、父、母、兄、わたしの5人。祖父もいましたがわたしが幼いころに亡くなった為、「わたし家族」と聞いてまず頭に浮かぶのはこの面子です。

兄と話していて思い出したのは毎晩の食卓のこと。始まりはいつも概ね穏やかな食事でしたが、時間が進むにつれわたしの緊張感は高まりました。

それはなぜか?

答えは「父と祖母の怒鳴りあいがいつ始まるかわからいから」です。

間に母が入り両者を宥めるところまでが1セットの物騒なコミュニケーションは、晩ご飯時間中にどんなきっかけで始まるか、どのくらい続くか、何回起きるかなどわからない尽くしのハリケーンみたいな現象でした。

簡単喜怒哀楽にうっすらとした自我ふりかけただけの「小さなわたし」にとって、父と祖母が行う激しい親子のコミュニケーションは「こわいこと」として分類されたんだと思います。それがほぼ毎日続くうち「一日の終わりに起こるうんざりすること」にもなったのは自然な流れだったんじゃないかな。繰り返し体験するうちにその特殊コミュニケーションに巻き込まれるのも、火種になるのも嫌で、食卓の上で誰かに会話を振られても可もなく不可もない答えを返していたし、誰かの琴線にふれてしまわないよう、割とつねに気を張っていました。

自分食事が終わるとすぐに「ごちそうさま」と言って食器を下げて、兄と一緒に別の部屋へ退散しました。まあ古い家だったので別の部屋へ逃げても怒鳴り声が聞こえてくるわけですけれども。

なぜにこにこと笑っている父や祖母が、一瞬で鬼の形相になってしまうのか。

「それはそういったコミュニケーションの形なんだよ。二人はちゃんと仲が良いか大丈夫心配いらないよ。」

などとハグしてもらったり、教えてもらうきっかけもないまま体験する毎夜の嵐は、わたしの心を大変疲れさせたのではないでしょうか。(ないでしょうかってなんだよって自分でも思うんですが……そのころにあったであろう学校行事や友人とのこまかい記憶などがうすぼんやりしか残っていない為「ないでしょうか」としか言いようがない……)

また怒鳴りあいコミュニケーション祖母と父の間だけではなく、父と母の間でも行われていました。父母の特殊コミュニケーションの日程は決まって土曜日祝日開催。つまり顔を合わせて長く話すようなことがあると、口論としてヒートアップしていったわけです。

小学校から帰ったら夜ご飯と共に家族口論。土日祝日は両親の口論ランダム勃発、のちに夜ご飯タイフーン上陸

以後、このうんざりするようなタイムスケジュールわたし高校卒業してから少しするまで延々、ずっと毎日、十数年続いていきます

たここまで読んでうっすらとお気づきの方もいるかと思いますが、これはコミュニケーション値が大変低い家族の中でなるべくしてなり、起こるべくして起きた地獄しかない日々の思い出を吐き出す記事でもあります。この先も気をつけてください。

そうなんですこの家族、全員が全員ともコミュニケーション数値がおそろしいほど低かった。

ここでいうコミュニケーション値が低いというのは「人との関わり方が上手くない」ということで、人に頼る方法での問題解決能力が著しく低いことを指します。

別の言い方をすると「感情を消化させることが不得意」であったり「困ったことは大体自分一人で解決しようとすること」にあたるのですが。なんとこの家族祖母、父、母の3人が3人とも「本当に困った時は家族相談せず自分一人で決断するタイプ人間」だったのです。

少なくとも小さい子供の前で困ったときに「困ったな~」と息抜きにでも呟くような人間がいませんでした。口下手なので子供の前でふざけることとか本当になーんにもしないの。かっこいい大人背中を見て育てってか?え?口から言語を扱ってから言え!バーカバーカ!

失礼、話が逸れました。

それで、そんな大人の姿を見て育った「わたし」という子供はどうなったのか?

家庭内で困ったことがあっても家族相談してはいけないんだ」とすっかり思い込んでしまいました。

するとどうでしょう自分が困ったときにどうしたらいいのかわからなくなり、解決の糸口がガチでわからず、何かあると問題には触れず解決を先送りにし、心に不安わだかまりを抱えたまま癒し時間に任せて過ごしていくことばかりを覚えていったのでした。

おしまい

……いやもちろんおしまいなんてことはなく、「わたし」の人生はそこで終わらず続いていったので、普通に人との接し方がよくわからない人型の喋る動物が大きくなっていっただけなんですが。(なんですかこれ、言葉にするとめちゃくちゃ怖いな……)

途中でなんとかならなかったのか?という問いには「残念ながら……」という回答しか差し上げられないんです。本当に。残念ながら。

そもそもなぜなんとかならなかったのか。

それは「わたし自我形成される期間中、親への信頼なくなったこと」が多分大きく関係しています

わたしの両親は共働きで、週休2日の週5勤務。母は帰宅したら少し休憩をしてご飯作りを始め、父は帰ってきたら風呂に入ってご飯の前の晩酌をする。まさにひと昔の夫婦って感じでした。

これだけ書いたら「なんだ、普通家族じゃん」って感じなんですが。ここに「夫婦はどちらも自分一人の時間がないとしんじゃうタイプ人間で、作業趣味息抜きも一人で没頭したいタイプ」、「なお2人は仕事クタクタ疲れたコミュ障」という特性が加わると、どうなると思いますか?

結果をお伝えすると、2人の隙を見ては今日の出来事や楽しかたこと、悩み事などを話そうとしていた幼いわたしが、見えないシールドにはじき返されて転ぶばかりになりました。あと癇癪持ち酔っ払い相手(酔った時に話したことは覚えていないタイプ)にする真剣な悩み相談ほど、面倒で参考にならないものはないですよね…。(遠い目)

また、このインターバルにも思える時間を逃すともうだめです。チャンスはありません。最初の方に書いた、いつ雷が落ちるかな?ドキドキ☆晩ご飯タイム()になってしまう為、まともにお話しできるような時間おしまいです。解散

そして「何よりもただただ話を聞いてほしかったわたし」はこのころの経験から、そういった方面での親への信頼をじわじわと減らしていきました。もともとの内向的性格と、両親からいつ発せられるかわからない大きな声への苦手意識ゆえに、その不満を爆発させるような機会もなかった為だと思われます。我が子からのそういった信頼値がマイナスに傾いているなんて事実、両親は知らずに生きていることでしょう。わたしも今更そのころのことを知らせて、改めて地獄を見る気はまったく以てありません。

ちなみに、わたしは小さなころから「手のかからない」と評されてきたタイプなのですが、実情は「親への信頼度の低さゆえに何も話さなくなった子供」になります

忘れられない話なのでついでにここに書きますが、高校性のころ三者面談で割と信頼していた担任

おたくのお子さんのように子供を育てるにはどうしたらいいですか?」

と父を持ち上げたとき

「いやあ、放っておいただけですよ。」

と照れ臭そうに答えた映像がいまだ焼き付いて離れないんですね。「心の底からやめたほうがいい。」と思ったけど、そのときにはもう心の開き方がよくわからない動物になっていたので(あと不意打ちのショックで)、そのことを担任には伝えられなかったことが心残りでならないです。

(他にも、親がわたし子供のころの「手がかからなかったエピソード」を良き思い出のように話すのを聞く機会があると、心が荒れ狂って獣のようなかたちになってしまうんだよなあ。いつか本物の虎にならないよう注意します。)

あとこの記事を書くきっかけとして兄との対話がありましたが、兄曰く

高校大学くらいまでの記憶がとんとない。」

ということだったので擦り合わせのようなものはかないませんでした。ちょっと残念でしたね。



閑話休題

こんな環境の下でグレる気力もなくしたわたしが、体だけはすくすくと立派に育ち、高校生くらいになった時の話でしょうか。

父が仕事で体調を崩し、自宅で過ごすことが多くなっていたころです。

いつものように休日を家で過ごしていた両親とわたしが昼食を食べていたときわたしにとって衝撃的な事件が起きました。

ふいにしゃっくりを出てしまった母、それを見た父が

「母のしゃっくりは相変わらずかわいいな。」

と言ったのです。

…………h、?は?

ハァ????????????????????????????????(フォントサイズ最大)(太字)(赤色)

と、そのときは思わず内心ではバチクソにブチ切れる若者になってしまいました。その後「えへへ…(照れ)///」みたいな態度を返した母に対してもです。

突然のことに(非常に残念ながら)体は驚き固まり動かず。突然見せつけられるリアル夫婦の惚気(十数年間生きていて初めての!)とのにテンションの差でしにそうになりながら、息をするのがやっとだったわたしは、心の底から思いました。

お前ら仲悪いのんちゃうかい、と。(太字)(赤色)

その後わたしの遅めでささやか反抗期挨拶や会話を振られてもちゃんと返さない(面倒な人間相手にぶつかり合うのが面倒になっている為こうなりました)」が発動されることとなりました。

また、今思い返してみればという話ではありますが。

わたしの両親は「限りなくマイペース自分のペースが保てないとストレスを溜め爆発する」、「一人の時間がないとしんでしまタイプ」、「作業趣味息抜きも一人で没頭したい人間」、「疲れるとコミュニケーションの余裕がなくなる(もともとのコミュニケーション許容量が多くない)」という属性のほか、

「親である前に恋人

という隠れ属性を持っていたわけですね!すごい!

もっと早くに知らせてほしかったな~~~~~~~~~~泣きそう!!!!!!!!!!!!!(もう泣いてる)

幼い子供の前で十数年!ガチシリアス雰囲気で怒鳴りあい時に片方と見ていた子供不安で泣くようなギスギスした特殊コミュニケーションが?!痴話喧嘩だったなんてことあるか?!?!?!?!?!?!!!知るか~~~~~~~~い!!!!!!!も~帰らせていただきますわ~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!(実家が住む家)(秒で顔合わす)

ハァ……ハァ……

すみません、取り乱しました。

冒頭に書いた通りですが、最近になってやっと比較ちゃん人間としての心が正しく揺れ動くようになったので、これが「怒り」であり「悲しみ」だというのを”理解”して”発露”してしまいましたね。フフッ ウッカリウッカリ☆(棒読み)

そんなこんなでややダウナー気味の反抗期を迎え、両親との溝を更に深めたわたしですが、更なる問題が発生します。

私が大学に入ってすぐのころ、父が亡くなりました。

大病の末の結果なので、家族として心の準備はできていたと思っていたのですが、それでも誰かがいなくなるのは悲しいですね。

などと心から人間味のある言葉が出てくればよかったのですが、そんなことはなく。ただただ日々感じていたひとつ大きなプレッシャーから解放された自分の心を、不思議な目で眺めるわたしがいるだけの生活になりました。

特に大きく日常が変わることはなく、このまま過ごしていくと思っていました。しかしそのときわたしは気づいてしまった。

「あれ?もしかしてこの先もずっと生きなくちゃいけないのか……????」

そう、そこでわたしは「自分人生真剣に向き合うということをおろそかにしていた」ことに気づいてしまいました。

「家でプレッシャーを放ち続ける父母祖母のご機嫌を伺いその日その日を生きること(解放されるのは外出時と寝る時)」に人生の大半を費やしてきたわたしはどうも「自立する」、「新しいことに挑戦する」、「ペットを飼いたいと交渉する」など、両親との長めの話し合いが発生する場を悉く避けて通ってきたようです。本当に、ここまでまったくの無自覚でした。

まあ気づいたところで急に何かに目覚めるわけでもなく、まずもって気力がないので出来るわけでもありませんでしたが。「このままじゃいけない気がする」という漠然とした焦りから映画漫画アニメなどの創作物に対し、心新たに触れるようになりました。(もともと漫画アニメなどは好きで小さいころから見ていたんですが、日常からの逃避先がそこだった為か、内容を覚えていたりいなかったりするんですよね……記憶がない状態で楽しむアニメ漫画、めちゃくちゃ面白いよ!ヤッタネ☆)

その後なんやかんやで就職できて、何年か社会人経験し、先輩や同僚にもまれたり気の合うゆかいオタク友達との出会いがあったお陰で、やっと「人語を話すけど意思の疎通がはかれない人型の動物から「たどたどしいがやろうと思えばなんとか意志の疎通がはかれる人型の動物」にクラスチェンジできました。

こんなクソ重いありがとうを直接伝えることは憚られるので、ここで叫ぶことをお許しください。

特にかいオタク野郎のみんな~~有難うな~~~!!!これからも仲良くしてくれるよう頑張るよ~~~~!!!!!

相変わらず親に似てコミュニケーション容量が低いままではあるけど、それも含めてなんとかやってます。(しかしここまで来るのがあまりに長かったので、これまでに大変なご迷惑をお掛けした人のことを思うと、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいです。本当にすみません。もうこんな(わたしを始めとした)人間未満みたいなもの出会わないようにと祈っております。日々が穏やかで良いものでありますように。)

自分では上記にある辺りの激しめの感情はとっくに昇華されたものだと思っていたのですが、疲れて余裕がないときバラエティなどを見て笑っている母をみると無性に苛立ち、シリアスに泣き出したくなってしまときがありますちょっと危険だなぁと思っています一種ボーダーラインだと思ってそういう時は寝て回復に努めるのですけれども。

この文章を書きながら全然昇華されてなくて自分でも笑ってしまいましたし、いつか本当に追い詰められた時に有事引き起こししまうようなぼんやりとした予感がありますお金が貯まったらちゃんと離れて暮らそうと思います。お互いの為にもね。

また未だに「健康精神状態運営された家族という団体」への憧れは強くあるようで。

誰かが手掛けた創作物キャラクターが心通わせる表現にふれると、あまりに眩しく尊く感じ涙を流したり、TLで健全コミュニケーションが成立し、信頼関係が成り立ったご家族アカウントを見かけると「本当に実在し(ていてくれ)たんだ」と感動してしまます。なんか、アレだ……太陽の光に当たってぼんやりと、あたたかく眩しいなと感じるような瞬間に似ています存在していてくれて本当に有難うございますわたし勝手に救われています

繰り返しますがこの文章は、それなりに情緒が育ちその当時の感情言語化、過去の振り返りおよび分析ができるようになってきた「わたし」が、その気づきとともに過去自分感情に圧し潰され、溢れだす記憶に涙が止まらなくなり、座り込んでしまった「わたし」のための個人主観記事です。

今何かに苦しんでる「あなた」を追い詰めるためのものではないので、もしもここまで読んでちょっと苦しくなっちゃった人は、とりあえず体をあたたかくしてゆっくり休んでほしい。休んで。寝て忘れてね。どうぞお大事に。

ときどき思い出に苦しめられつつ、寝ずに一気にこれを打ったので、ところどころぐちゃぐちゃな文章になっていると思うのですが、ここまでお付き合いいただき本当に有難うございました!

こんなところまで読んでくれたあなたにも、ちょっと良いことがあるといいですね。

それでは。

2020-03-12

フリーランス給付金4100円に怒る当事者ってどうなの

私はフリーランス(だった)。

フリーランスから法人成りをしたが、まだ自分一人だけの法人なので別に仕事の規模も拡大しているわけでなく、世間的にはほとんど同じだ。

そんな立場として、SNSや実際に自分の周りで

フリーランス給付金が4100円で少ない!」

と怒っているフリーランスがいるのに驚く。

というか、あきれる。

 

外的要因で収入減もありえることを100も承知フリーになったんじゃないのか?

なんでぼんやり休んで文句ばっかいってるんだ?

仕事が途絶えたら、日雇いでも何でもしてその間をしのぐという覚悟フリーになってないのだろうか。

組織に守られないで、守られないからこその自由を手に入れて、上手くいけば大きく稼げるというリスクをとったんじゃねえのかと。

  

儲かっていない私だってそうだ。

からしょぼい売上をやりくりして、不測の事態に備えた保険にも入ったし、独立から蓄えもして、いつも1年くらい仕事がなくても生きていけるよう必死だ。

 

もちろん、自分法人化してるので今回の給付に当てはまらないが、もし該当すればたぶん申請してお金はいただくとは思う。

制度としてあるのに、わざわざ回避すべきだとまでは全く思わない。

「すいませんね、そういうのに期待しないでやってきたんですけど、くれるんならもらっちゃいますね」

という感覚はじゅうぶんわかる。

そうではなく

「少ない!不公平だ!」

とわめきちらす精神構造理解できないのだ。

自分自由意思で雇われることから逃避してだらしない独立をした責任について、他人(おもに政府)に転嫁していないだろうか。

強引な施策で、政府あなたフリーランスになるように導いたことはないはず。

せいぜい「なりたい人のために支援制度を作っておくよ」という程度だ。

そしてその制度ですでに間接的・直接的に補助金をもらってる人も多いじゃないか

 

そもそもフリーランス給付金がこんなかんたんに決まったこ自体にびっくりする。

そんなことに税金を廻さずに、医療崩壊を招かないことと、株価経済を下支えすることに、政府は金を使って欲しい。

※ちなみに個人的与党安倍政権もまったく支持してはいない。

 

「これまでしっかりと税金を払っている!(だから当然私は補償をもらって当たり前なのだ!)」

と息巻いている人もいるが、それもよけい恥ずかしいからやめてくれないか・・・

おそらくあなた確定申告でなんでもかんでも経費化して納めた程度の税金やら社保であれば、

社会の側からすれば収支はマイナスであり、もともと社会に養ってもらっている程度だとわかっているのだろうか(もちろんそれ自体は悪ではないが)。

 

が、指摘するとぜったいにヒステリーを起こされるので言えない。

からここで吐き出させてください。

 

 

■■2020.3.13 12:18追記■■

みなさん、コメント本当にありがとうございます

増田になるのが初めてなのでなにか変な書き方とかあればすみません

いくつか気になったコメントについて、ご返答しますね。

 

自己責任論で一刀両断してやろうというクズが湧くのは ちょっと我慢できない

 

どこまでも自己責任をとれという話ではないよ。

責任をとる・とらないの限度があるだろってこと。

もらうこと自体はべつにいい。

でも「額が少ない!格差だ!」とまで騒ぐのは恥ずかしくねえの?っていう線引きを言いたかったのです。

収入が途絶えることなんて余裕でありえるんだから、そのくらい織り込んでフリーになってないのかよって。

 

 

>同じ労働者なのに企業に属してるか属してないか支給格差をつけるから怒ってるんだろ

 

いや、「同じ労働者」じゃないよ。

そこまで拡大したら「ぼくたちみんな地球人」みたいな話じゃないでしょうか。

もしそれがわからんのだったら、フリーランスになるのはやめて、雇われて、会社文句ばっか言って仕事しないポジションをゲットして老いていくのがおススメ。

  

 

個人事業主賃金労働者と同じにする必要ないって人いるけど、確かアニメーターとか声優とかの特殊職種はただでさえ不安定やりがい搾取の真っ只中にあるんだが政府が更に格差付けてええんですか?と。

 

やりがい搾取とは全然別の話だよ。

フリーランスなら、稼動してない時間自分賃金が発生するわけないじゃん。

給付が少ない!もっとよこせ!」じゃなくてさ、稼動がなくなればフットワーク軽く日雇いバイトでもなんでもして収入を穴埋めするっていう気持ちすら無いの?って話。

2020-03-11

疲れてだるいから自炊やめてなんか食べに行こうと思ってたのに

もうこんな時間外食もできない

ぼんやりした不満でもやもや

2020-03-10

ワイドショーぼんやり見てるけど別に嘘は言ってない

しろそんなもん報道しなくて良いってのを報道してるのが悪影響与えている気はするが

トイレットペーパーの件とか、最初熊本?で売り切れたのを報道したせいで全国に広まった形だし)

嘘言ってるとかデマばかりってやつは、むしろ自分ネットデマに踊らされてるだけなのに

そのデママスコミでは報道しない!つってるだけじゃね

2020-03-09

10年前の痴漢さん

蒸し暑い日だった。天気は良く覚えていない。満員電車の中で誰もが汗ばんでいた。その日私は、GAPジーンズTシャツを着ていた。大学に行く途中の出来事だったのだ。

ホームにいる時点から痴漢に目をつけられていたのは知っていた。注意していればわかる。痴漢の顔(この場合表情)つきは一種類だ。本人は気がついていないかもしれないけれど、慣れてくるとわかる。どういう表情とは言えないんだけど、本当に皆同じような表情をしている。だからから離れた。

しかしなるべく離れてもついてくる。あの人たちは「まだ並ぶ列を決めていません」みたいな態度で獲物を狙っているのだ。

電車が来たので私はそれに乗った。行先が違う電車が何本もくる路線なので、痴漢は今来た電車に乗らない理由がある。時間を遅らせるのは意味がない。

痴漢痴漢にとってのベストポジションに貼り付けた。私の斜め前だ。私はがっかりした。大勢が乗りこむなかで、なんとか身をよじっていると、痴漢の手がズボンの、そして下着の中に入ってきた。最悪の気分だ。

ところが痴漢がさあこれから!と動きを開始しようとしたその時だ。なんと私の後ろ側からズボンに手を入れてきた痴漢がいたのである。当然股の間で別人の手がかち合う。あまり出来事に声を上げられなかった。ショートしたような頭の中で、これは一周回ってBLなのではないか、と考えていた。

痴漢痴漢同士で驚き、両者ともサッと私の股から手を引いた。抜ける時の手の感覚(両者とも腕毛の薄い痴漢であった)が忘れられない。最低な出来事だったが、その時の私には声を上げる術はなかった。

その時ぼんやり思ったのは「痴漢痴漢が怖いのではないか」ということだった。私は大学で授業を受けることなく家に帰った。その日は酒を飲んで寝た。しばらく悲しい気持ちだった。GAPジーンズは履けなくなった。

現在痴漢には合わない。老いたのもあるが、一番効いたのはブランドものを持つことだ。お洒落なやつである必要はない。ただ一目で「このブランドだ!」とわかるものを持つ。これだけで周りの男からあの表情が消える。あの気持ち悪い顔。あのねっとりした視線から逃れられる。

2020-03-08

初めて大麻使用したのでその感想

初めて大麻使用したのでその感想

大麻はい匂い ハーブみたい ピザの上に乗せて食べたらとっても美味しそう

火をつけて煙を吸い込む

タバコと一緒

ゆっくり吸い込んで、ゆっくり吐き出す

タバコよりいい匂い イタリアンのような匂い 少し煙たくてむせる

一回吸い込んで様子を見る 何も変わらない

二回め吸い込む 何も変わらない 眠かったので元々頭はぼんやりしている

3回目吸い込む 目がぼやぼや」してくるが、普段眠いときと変わらない 相手は決まり始めている 自分の体に何も変化が起きないため、少しがっかりする

電車乗って帰れそうだなと思いながらぼーっとする

いきなりくる

わず「うわアアアアアアア」と声をあげる 体が今まで体感したことのない感覚に襲われる 一気に現実から遠くなり、どこにいるのか一瞬で分からなくなる

目は開いているものの、この状況を理解できない

体に波が打っており(体の中に波ができる 下に向かっている)、どんどん体が重くなる 床に体がめり込んでいく感覚

アアアアこれはやばいこれはヤバイとかなり焦り始める 心臓が異常なくらいバクバクし始める 何が起きているのか全くわからない 現実なのか夢なのかも分からない、とにかく焦る

相手いるから良かったものの、1人だったらパニックになっていたと思う

想像はるかに超える作用

酒なんかと比べ物にならない、全くの別物 息が吸えるのに溺れそうな感覚 ヤバイしか口に出せない 落ち着かない

波の方向が上に変わる

体が浮き始める 体が浮いて、波が心臓の部分を通るたびに、息が苦しくなる 口はずっと動いていて、何か喋っているのだが、自分が喋っているのを自分認識するのが数秒後の為、頭が混乱してくる 目を閉じると実家玄関にいる 目を開けると部屋が広くなっているように感じる 壁がどんどん遠くなる

あぐらをかいて座っているのだが、元々苦手な体制なのに何も辛くない

頭が円を描き始める 機械のようにルートが決まっており、その流れ レーンに頭を乗せると自動で回り始める 楕円状の逆向きのハート形に頭が動く

力を入れなくても勝手に動いてしまう、止まっても、少し待つとまたレーンに頭が乗り、周り始める

音楽がよく聞こえるようになる

立体的、色までついて聞こえるようになる 耳の真横で聞こえる(スピーカーは少し遠い位置においてある)

大きな丸が頭の周りにあるような感覚 このなkで音楽が聞こえる

一度笑い始めると、止まらなくなる

どうでもいいことで息が詰まるほど笑い転げてしま

サルを思い浮かべただけで涙が出るほど面白い この状態お笑いを見たら死ぬと思う

とてもじゃないが外を出歩くことができない状態 根本的なことは分かっているのに(明日のこと、来週の予定、掛け算もできる、住所も言える)、もっと大きなところがダメになっている 家に帰ることは不可能 なんで不可能なのかはよく分かっていない 

眠たいと言う訳でもないが、目を瞑っている方が楽しい 音楽がよく聞こえる

でも目を開けていても楽しい、部屋がどんどん広くなるし、何をしているのか余計わからなくなる

気がついたら眠っている

作用は2時間くらいか?起きたらもう戻っていた

いつもと何も変わらない状態のため、帰る

2020-03-07

悪口言われても嫌なことがあっても うすぼんやりぽかんと口あけて流すべき

どれだけエスカレートしても止めろと言わずにぽかんと口を開けてぼんやりして流すべき

これがはてなー、いや男の総意ってこと

男の方が自殺率が高いのは声を上げるくらいなら死ぬって言う思慮深い人が多いか

2020-03-03

男を泣かせる女に生まれてきたかった

現世でどんなに頑張っても無理そう

結局私はフラれる運命しか見えない

フラれて泣いてる冴えない男のブログ読んだ

タイプ

まさにこんな感じの人と付き合いてー!って感じの男性だった

ももし付き合えても、私はこの人にフラれる運命なんだろうなーと今ぼんやり思って悲しくなった

2020-03-02

anond:20200301173451

なんかブコメ読んでると「研究したいこともないのに研究したいとか舐めてんの」的なのが多くて、ええっ!てなったので思わずトラバ

大学入る前に「この研究がしたいか大学入りました!」なんて人はかなり少数派だと思うし、現役の研究だってそんな奴そうそういない…と思う。

ぼんやりと「この分野おもろそう」って大学学科決めて、大学で学んでみて初めて「この研究したいな」「もっと知りたいな」と思う方のが自然じゃない?

まだ本格的に学ばないうちに「この研究したい」と言ってる子はすごいとは思うけど、それはそれで実態を知らずにイメージだけでその分野を志そうとしてるんじゃないか不安になるよ。

自分自身のことを一応言っとくけど博士持ちです。アカデミアではないけど、研究開発的なことやってる。

研究自分で仮説を立てたり問題解決したりと楽しいよ。思ったのと違ってるとちょっとがっくしくるけど、それはそれで面白い想像してたメカニズムと違うってなんで?何がこのデータをこうしてるの?ほほう、興味深い…ってなるから

自分筆記試験は苦手だったか大学の成績はボロボロだったけど、レポート課題をじっくり考えたり、知識を深めたり、周りや本に影響受けたりと知的探究心を軸に行動してたらそれなりに研究できる力は身についた。

増田がどういうタイプか知らないけど、今は「研究やりたい」でいいんじゃないかなーと思うよ。

アカデミアの研究者は苦しいってのはあると思うけど…まだそんな段階じゃないでしょ?

まり思いつめすぎないでがんばれ。

絶叫タイヤ交換おじさん

今朝、絶叫しながらタイヤ交換をするおじさんをみた

私の部屋の窓からは、うちのアパート駐車場が見える。

朝起きて外を見ていたら駐車場でおじさんがクルマタイヤ交換をしていた。

タイヤボルト?を十字の金具で回してるんだけど、それがかなりきつくしまってるのか鬼のような形相。脳の血管千切れそうな顔で力んでるの。

私はなんだかおかしくてぼんやりその様子を眺めていた。

そうしたらおじさん、りきむあまりに「オォォオオオオオ…!」って声を上げはじめた。その声が結構とんでもない声量で窓越しでも聞こえるんです。

しかも声上げて回すとどうやら上手くいくらしく、残りのボルトを全部絶叫しながら回していた

平日早朝から1人絶叫するおじさんを初めて見たねわたし

月曜日の朝から大変良いものを見せていただきありがとうございました

2020-02-29

ぼく厨2病

小さい頃から度々変な現象に遭っていた。

小学校入る前から、度々、目の前に写ってる景色とは別に記憶を思い出す時のように、いきなり映像が出てくる事があった。後々同じ光景が目前に現れるので、仮称デジャヴとする。

目の前の事よりも、デジャヴの方が面白いので、デジャヴばかりに気を取られるようになっていったら、親が自閉症検査を何度も受けさせるようになり、デジャヴは異常なんだと知る。

それ以降、ほぼデジャヴを見るのが少なくなったが、後々の試験問題予想や馬券を当てるのに使えて、数回は得した。

大人になってから、この話を親しい人に言ってみるのだが、だいたいが、なんとなく通った事のある道とか、なんとなく会った事のある人とか、ぼんやりした記憶らしい。自分のは、もっとクリアな、過去を見るような鮮明な未来記憶。同じ体験を持つ人に会った事が無い。

そうこうしてるうちに、霊が見えるという人と知り合いになった。

その人でも、やっぱり不鮮明な未来記憶らしいのだが、あれこれ話しているうちに、徐々に能力感染したのか、居ない筈のものの気配を感じたり、聞こえる筈の無い声が聞こえてきたり、何も匂わない筈の臭いがしたり、妙なもの五感が反応するようになった。

五感の中でも視覚いまいちなのだが、親の死期には黒い影が見えるようになり、とある人物黒い霧のようなものが渦を巻いていたのを見かけ(もやしもん大学教授黒い霧をまとっていたあん映像)、その数ヵ月後、全身転移の癌で死んだのを知った。

黒い霧とは別に神社の奉られてる神や古墳の埋葬者や土偶の持ち主ともコミュニケーション取れるようになってきた。博物館の展示品は、五分五分で、たまにイライラしてるのも居る。


でも、いずれにしても、結局、これらで得する事が無い。使い道のない能力。こういう能力あっても使い道が分からない。おみくじ大吉出しても、それだけじゃ幸せにはならないのと同じ。未来記憶なら使い道あったかもしれないけれど、出し方わからなくなったから、今ほとんど使えない。

同じような人いないでしょうか?

または、これって脳がどうなってる状態なのでしょうか?

副業として、何かに使えないかなあ。

2020-02-28

anond:20200228010716

底力とか人間力かいわれるものがあれば一点豪華主義にしなくいいぞ」

はい要約してやったぞ

ただ実際には人間力なんていうぼんやりしたものなんて

文科省くらいしかどうにかできるとおもってないけどな

2020-02-27

anond:20200226015326

司法書士受けようと思ってしばらく勉強してた(なお2回受けて落ちて諦めた)。

ほとんど役に立ってないけど、うすぼんやり違和感がある、くらいには法律センスついた気が…する…?

だいたい増田かに現れるやたら詳しそうな人の見解見てから判断になるな。

2020-02-26

anond:20200226125748

しろXXオタク自称するのならそれが自然

2020年なっても昔語りしかしないのは寂しい

ワイは音楽オタクではなくぼんやり音楽好きだけど

何年も前の音楽だけ聴き続けるとかない

メンヘラ彼女と付き合ってる奴は今一度ちゃんと考えてほしい。

2ヶ月ほど前、3年くらい付き合ってた彼女と別れました。

ごたごたが収束して僕にも新しい気になる女の人ができたので今これを書いています

まず僕の元カノについて説明したい。

容姿は下の中から下の下

発達障害らしいが、それを言い訳に使って僕に家事をさせたり金を出させたりする。

・聞いてもいない自分アピールがうっとおしい。

ちょっと休んだだけですぐ「私のこと放置した!どうでもいいの?」と鬼電(夜寝かせてくれない日も何日もありました。そのせいで今は僕が精神科にかかる羽目に......)

メンヘラってかわいいイメージあるよなw」とか抜かしてきた僕の友達、見てるか?

メンヘラ可愛いんじゃなく、可愛い子がメンヘラだと許せるだけ

これに尽きます。見た目の伴わないわがまま殺意を向けざるを得なくなる。

では、なぜ僕がそんな彼女とお付き合いしていたのか。思い返すと、あの頃の自分はいわゆる「オタ仲間」に飢えていたように思います。同じジャンルキャラクターを愛するフォロワーさんにはそこそこ恵まれていたのですが、いまいち話のピントが合わない。そんな時にツイッター上で出会ったのが彼女だったのですね。ツイッターアイコンを本人にする義務がないので、顔が基本的にわかりせん。まあ、ツイート内容のキモさと言うか、オタクとしての"濃さ"みたいなものがにじみ出ていて、よく考えられたらその時にこじらせたブスが背景にいるアカウントであることは察してしかるべきだったのです。僕のミスです。

愚かだった僕は、その子(元カノ)にコンタクトを取りました。「〇〇さんのツイートほんと共感性高い!」みたいなことを言って褒めちぎりました。彼女頭が悪い上、一度もモテたこともない汚い女だったので、すぐ僕になつきました。深い話を通話でするようになりました。

ここが騙されたポイントで、彼女気持ち悪いツイートばかりする「限界オタク」のようでしたが、初めて一対一で通話した時には「意外と声が可愛いな」と思わされる声質だったのですね。通話では顔は見えません。僕は彼女もっと自分好意を持つように、「かわいい声」「お話おもしろい」などと褒めちぎりました。これが大きな過ちの一つだった。

男でも女でも陰気なブサイクモテない。分かりやすい言い方をするならちやほやされたことがない。彼女もまたそうで、「かわいい」の一言を両親以外から言われたことがなかったようでした。(もちろん交際経験ゼロ)そうなると、毎日馬鹿みたいにそいつを褒めてやっていた僕は、ブスの片恋の的にされてしまうわけです。

複雑な事情があり、大きく端折りますが、結果的に僕とそのメンヘラブスは付き合うこととなってしまいました。

僕は幼い頃のさまざまな経験や育ちから自己承認力が弱く、汚いメンヘラの女からでも優しい言葉をたまにかけられるだけで依存してしまうほど弱い存在でした。

いつしか思考は「この子を手放したら自分には誰もいなくなってしまう」という強迫観念に囚われていました。

彼女を引き止めて置くためならなんでもしました。

働かない彼女ご飯を食べさせる。誕生日花束を贈る。汚いメイクのようなものを頑張ったね、上手になったね、と褒める。自分に優しくしてくれる存在であればどんなことでもしてあげよう、と思っていました。今考えると完全に病んでいますね。

余談ですが、僕の好みはボーイッシュ系が映えるショート美少女、体型はスレンダーが好きです。しかしこのメンヘラ彼女真逆で、手入れされていないボサボサの黒髪をだらりと流し、大会ババアかよって何度も言いそうになるくらいブヨブヨでした。そんな彼女必要に応じて何度も抱きました。頑張って自分を奮い立たせ、彼女失望されないようにそれだけを考えていました。そうしていたら、別れる間際から別れた直後あたりはセックスという単語を見るだけで彼女を思い出して具合悪くなるまでになってしまいました。

そうまでしてなぜ繋ぎ止めたのか?やはりこれは僕の自己肯定感の決定的な不足だったと思います。あとは周囲に本音で語れる人がいなかった。いか関係作りが大切かその頃の僕は気づいていなかった。本当に、恋人以外に本音を話せる友人を作ることは大事ですよ。

そんな彼女との縁の切れ目が見えたのが交際して2年半ほどのころ。

毎日僕が先に眠ると、明日仕事から寝かせてくれと何度伝えても暴れて起こされます。まるで赤んぼうのようですが、彼女20代の太ったブス。僕の精神は完全に疲弊していました。

その日も、僕が明日に備えて早めに床に着くと、「あたしがブスだから逃げるんでしょ!」「あたしのこと嫌いだから寝るんだ」等の支離滅裂言葉を叫ばれました。彼女はこのように「自分のせいなんでしょ」というスタンスこちらを攻撃してくるタイプ人格障害者でした。

その次の日は本当に大事仕事があったので、つい「そうだよ。だから寝かせて」と曖昧な返答をしてしまいました。

当然メンヘラ彼女はショックを受けて、黙ったのち彼女の鍵アカウント(僕も当時は相互でしたが)に勢いよく愚痴を書き込んでいるようでした。その日はその光景を横目に寝ることができました。

次の日の朝、いつものように彼女が「ごめんね、昨日暴れちゃって......」と誤ってきます。そうです、迷惑をかけるだけかけておいて、そのあとついでのように謝ることで自分は悪くないと思いたいクズ人間なのです。

僕は寝ぼけながらいつものように「〇〇さんは悪くないよ」と優しく言いました。重ね重ねですが、当時の僕は初めてできた"恋人"を何が何でも失いたくなかったようです。

そんな言葉を交わして僕が会社へ行き、帰ってきて通知を確認すると彼女から「ごめんね」「ブスで」

とだけメッセージが。これは「ブスじゃないよ待ち」です。しかし、夜中に大騒ぎされ、就業の後で疲弊している僕は優しく対応する気力はなく、つい「そうだね」と返してしまいました。常日頃から醜い姿(顔だけではありません、体型や体毛の処理の甘さなども辛かったです。)を見せつけられ続けているストレスも溜まっていたのでしょう。

そうすると、彼女から「え、やっぱりブスってことでいいんだよね」

という返信。そうだっつってんだろ

「正直かわいいと思ったことはない」

これを送った瞬間、「終わった」という気持ちと「言ってやった」という気持ちが混在した不思議気持ちになりました。

そしてしばらく連絡が途絶えた彼女しかし1週間後に「ごめん、かわいくなるから。捨てないで」というメッセージが届きました。

しかし、こちらとしては一週間距離を置いたことで彼女に対して実に冷静な対応ができました。

「それは聞き飽きた。誰のお金で可愛くなろうとしてるの?たぶん〇〇さんじゃ無理だよ」

突き放すことができたのです。自分自分を褒めてあげたかった。

「見た目も問題かもしれないけど、〇〇さんの性格の荒さにはもう付き合えないよ」

ときっぱりと追い討ちをかけることができました。

その後彼女から鬼のようメッセージや着信が来たので、すぐに全ての連絡先とツイッターアカウントブロック。だいぶ端折っていますが、そういう感じで彼女とは切れました。

「意外とあっさり別れたんじゃん」

と思われるかもしれませんが、生々しいので省略している箇所が多々あります彼女から受けた暴言、軽い暴力メンタル的なハラスメント金銭搾取......etc.

それでも、しばらくは喪失感ぼんやりする日々が続いていました。

僕が今現在素敵だなと思っている人は、またツイッター上にて知り合うことのできた同じジャンルオタクの方です。彼女とも話が合い、なんども通話を重ねていっているのですが、やはりあいつ(元カノ)はおかしい。今の方は人の話を聴くのが上手だし、僕の話を遮ってどうでもいい自分の自慢をしない。すごく大人な方に感じます

依存体質のままで、まともに恋愛はできません。狂った恋愛をするか、別のもの依存するかです。僕の場合、「新しい爽やかな出会い」が腐らせないでいさせてくれましたが、「メンヘラモラハラ恋人とは別れましょう」と言ったところですぐに分かられられないのが依存カップルです。

からこそ、今一度関係や、相手のことを見直してほしい。たいして好きでもない相手に、自分大事リソースを割かないでほしい。若いうちに考えましょう。意外と、自分のことを理解してくれたり、受け止めてくれたりする人なんて結構いるもんです。

2020-02-25

anond:20200225235157

ぼんやりネットしてて勝手に目にはいるのはって意味だよ

興味もって能動的に調べればまた別なのはあたりまえ

翳(原民喜

センター試験話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)

底本:原民喜戦後小説 下(講談社文芸文庫1995年8月10日第1刷発行

     I

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老い母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。

 その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかにもっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。

 彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。

 岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものノートし、まず文体研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。

 それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。

 私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのもの顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人同棲した暁には、染料の会社設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである

 日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞第一面、つまり雑誌新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見ものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。

 岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。

 たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京文化方面役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズ役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。

 既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活飛込んだのだった。ところが、その相手資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである

     II

 私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇ほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。

 私は妻の遺骨を郷里墓地に納めると、再び棲みなれた千葉借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃であるサイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである

 私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉借家へ移った時のことである私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それから殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。

 私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラ千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴム長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。

「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。

「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、

「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。

 その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。

 私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好おかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。

 目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたそっくり写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。

 冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。

 翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。

 その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである

 そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服青年歯医者挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。

 それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲吏員就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後消息であった。その後私の妻の病気悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。

 その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。

 あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅作品の暗い翳を思い浮べるのであった。

 終戦後、私は郷里にただ死にに帰って行くらしい疲れはてた青年の姿を再三、汽車の中で見かけることがあった。……

30を前にしていきなり自殺現実的選択肢として現れてきた

友達も知り合いもほとんどいない陰キャ典型例みたいな人生を送ってはきたけど、まあ生きてればそのうちなんかいいことあるだろと思ってうすらぼんやり生きてきたもので、自殺なんて我が身のこととして考えたことはなかった。でも最近さすがにそんなことは自分人生には起き得ないということが実感としてわかってきた。ただ家と職場を往復しているだけで身体精神も疲れ果てていて、現状を変える行動を起こそうという気持ちは一切湧いてこない。昔はもっと色んなことに執着やこだわりがあった気がするが今はだいたいのことについて「まあ、どっちでもいいんじゃないかな」という気持ちしかならない。そういう状態にあって、最近急に「もしかして自殺って別に他人事じゃないのでは?」という考えが頭に浮かんできた。別に今すぐ死にたいとかの強烈な希死念慮があるわけじゃないけど、ただただ「無」なのに身体精神の物凄い疲労感だけがずっと付き纏ってくるような現状においては、普通にそれが自分にとってありえる選択肢であるという実感。逆になんで今まで自分とは関係ないことだと思っていたんだろう?生きてても死んでてもいちばんどうでもいい存在なのに

2020-02-23

[] #83-13「キトゥンズ」

≪ 前

どうやら攻撃を受けたらしい。

至近距離だったせいで前足の動きを捉えきれず、身構えるのが遅れたんだ。

凄まじい勢いで、顔に掌底を打ちこまれた。

一瞬、自分の身に何が起きたかからなくなるほどの衝撃。

いきなりモロに食らってしまった。

奮い立たせた戦意が、途端に削ぎ落とされていくのを感じる。

早く反撃しなければ。

半ば朦朧としたまま右足を突き出す。

「……貴様!」

攻撃クリーンヒットしなかったが、意外にも相手の顔は歪んだ。

爪が絶妙に、相手の古傷をなぞったらしい。

これはラッキーパンチ……そう解釈するのは甘かった。

「よくも、よくぞ本気にさせたなっ!」

相手の勢いは衰えることなく、むしろ増大させてしまったようだ。

前足による攻撃が、左右から交互に襲ってくる。

「ふ、ぐ……」

今度はしっかりと意識から攻撃を食らったにも関わらず、その威力は驚くものだった。

わず息が漏れる。

「このっ!」

反射的に殴ったが、まるで効いている素振りがない。

マズいぞ、こいつ予想以上にケンカ慣れしている。

実力に差があるのは分かっていたが、まさかここまでとは。

勝てる気がしない。

どんどん血の気が引いていくのを感じた。

キトゥンー!」

だが、その時、仲間たちの声援が俺の耳に届いた。

おそらく、ずっと前から応援してくれていたのだろう。

それが聴こえないほど、さっきまで追い詰められていたんだ。

「頼むー!」

なけなしの戦意鼓舞されていくようだった。

大丈夫だ、まだ戦える。

俺は相手パンチを受けながら、あえて前のめりに突っ込んだ。

「うっ……!?

足でだめなら、今度は口だ。

相手の古傷めがけ、俺はガブリと噛み付いた。

「やめろ、この野朗!」

相手も反撃してくるが、俺は意に介さず、しつこく同じ場所に牙を突き立てる。

みつきを避けてくれば、今度は爪で、爪を避けられたなら今度は噛みつく。

どれほど効いているのかは実感がなく、正直いって勝てる気持ちは沸き起こらない。

それでも俺はひたすら攻撃を続けた。

「負けないでくれー!」

そうだ、今の俺に必要なのは“勝てる気”じゃない。

“負けない”という絶対的意思だ。

「こいつ、いつまで、やるんだ……!」

ネコ喧嘩ってのは倒れるまで続ける、なんてことはまずない。

体がボロボロになる前に、どちらかが降参して終わる。

逆に言えば、気力が続く限りは終わらない。

俺に意思がある限り、決して負けることはないんだ。

「いけー! キトゥン!」

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「……はっ?」

目を開けて、まず視界に入ったのは壁。

次に捉えたのは、本の山だった。

なんだ、頭が回らない。

それに、全身にけだるさを感じる。

「あ、おはよう兄貴

状況を理解するまでに数秒を要した。

「夢って……ふざけてんのか」

どうも俺は、いつの間にか眠っていたらしい。

課題による疲れと、ガイド意味不明SF講義のせいだろう。

変な姿勢で寝てしまったようで、身体の節々が悲鳴をあげている。

「いてて……ガイドは?」

「さっき帰ったよ」

しかも直前の話題に引っ張られて、キトゥンになった夢を見るとは。

内容も我ながらナンセンスものだ。

自身が猫になれば気持ちが分かるだろうと、どこかで考えていたのだろうか。

思い上がりも甚だしい。

あんな夢を見ているようじゃあ、俺もあの動物番組の仲間入りだ。

「あ、キトゥンおかえり」

自己嫌悪に苛まれていると、なんとも微妙タイミングキトゥンが部屋に入ってきた。

あんな夢を見てしまった後だから気まずい。

「ニャー」

当事者はそんなことを露知らず、部屋に入ってくるや否やこちらに擦り寄ってきた。

畜生が、こんな時に限って。

俺は仕方なくキトゥンを抱きかかえると、おもむろに膝の上に乗せた。

いつものように撫でながら、それとなくキトゥンの体を調べる。

正夢なわけはないが、一応だ。

パッと見は大丈夫なように見えるが……これ以上まさぐると嫌がるしなあ。

明日、念のために病院に連れて行こう。

兄貴、なんか調子悪そうだね」

「ああ……嫌な夢を見たからな。動物を、自分とは違う存在を、自分尺度で決め付けて、言ってもいないことを勝手に喋らせて……」

「うーん? それ、人が他人に対してやってることと何か違うの? 割と見たことあるけど、そういうのやってる人」

弟が何か言っているが、まだ夢うつつだったので上手く聞き取れない。

血圧の煩わしさから、俺はぼんやりと相槌を打った。

「……それもそうだな」

(#83-おわり)
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