はてなキーワード: 青年とは
別に変だと思わない。というか、他人の好きなものを自分も好きになったらいけないってのがまずよくわからない。
その女の子がストーリーを呼んで手のひら返しするのが気に入らないのはわかるけどさ、知らないものを好きになんてなれなく無いか?
なんとなくFGOかなと思って読んでたけど、違ったらごめんね。
FGOなんかはまさにストーリーを読んでようやくキャラが好きになるゲームの典型だと思う。
だって、FGOから入った人間にとっては征服王と諸葛亮孔明は、むさいおっさんとショタ(もしくは青年)でしかないけど、Zeroみた人間からしたら王子(またはナイト)と王女ぐらいに映ると思う。
外見だけで判断なんかできないよ。逆に外見だけで瞬時に判断できるほうが見てくれだけしか評価してないんじゃないか。
FGOの話じゃなかったらごめんね。
序盤とラストはよかった
中盤がすっごい中だるみした
綾瀬はるかのプロモーションビデオだった
ありがちだけど映画の中から飛び出してくるって設定だけでかなり好き
なぜかというと、彼らの世界とのギャップに右往左往するのが面白いから
でもこれに出てくる綾瀬はるかは、モノクロ世界からカラフルな世界にきたっつーことで色には驚いたけどそれ以外にはほぼカルチャーショックを受けず、
淡々と受け入れて前知識すらあるような感じがして、興ざめだった
あと言葉づかいがお姫さまってよりは精霊のもりびとのバルサっぽかった
こじんてきには さかぐちけん・・・といえば「じ」なんだけども
あと向井リにも見えた
あーゆーのなんていうんだろう
社長令嬢役が本田翼だったけどなんか秋元ファミリーのえっとあれだまゆゆににてるなと思った
演技もあんまうまく見えなかったからほんとまゆゆみたいなアイドル枠かと思った
序盤のつかみとラストのラストはよかったけど、中盤がすっごい中だるみした
なんか構成がいろいろ残念な気がした
あとなあ・・・坂口健太郎と綾瀬はるかだけがでてくる話ってのでよかったのに、
じーさんが回想する形での映画でラストもじーさんと綾瀬はるかっていう絵面になってるのが、
ちょっとうーんという感じ
老夫婦とかが見るならいいかもだけど、若いカップルが見る映画としてはちょっと微妙だと思った
でも繰り返すけど最後はなんだかんだでいい演出でいい終わり方だった
2)⇒金持ちになるために有利だと判断したのでヤクザになった。
3)⇒一目置かれたいので、ヤクザになった。
2.なんとなく気づいたらなってた。
1)⇒グレてマチズモを追及しているうちにヤクザになっていた。
2)⇒知人がヤクザになった後も付き合いを続けていたらヤクザになっていた。
3.なりたくはなかったがなってしまった。
1)⇒フロント企業で働いているうちに強引に勧誘されてなってしまった。
2)⇒不良少年が雑用を手伝わされて、抜けられなくなってしまった。
大きく分けたらこんな感じか。今時、愚連隊がヤクザの看板を掲げることはほぼないけど、戦後は珍しくなく、不良少年や青年の集団が丸ごとヤクザになることもあった。
あと、ヤクザになっては絶対にいけません。かかわりを持つだけでもその先にヤクザとしての人生が待っているかもしれないので、そもそもヤクザと親しく付き合うこともやめましょう。
秋葉原に行ったんだけどとらのあなで同人誌物色してたらいきなり気の弱そうな男に声をかけられた。
ちょうど見ているジャンルの話だったので会話が弾み
近くのマックで話し込んでいたら突然謎のさわやかそうな青年が登場し
それでもしばらく会話していたところいきなり「仏法って知ってる?」
逃げるのに2時間位かかった。
なんつーか俺のオアシスが無慈悲に踏みにじられた気分だ、見ず知らずのオタクとおちおち雑談も出来ないなんて軽く人間不信になりそう
あとで調べたら秋葉原はヨドバシやトラ、メロンを筆頭に顕正会の狩場になってるようなのでみんな注意してくれ
お付き合いをしている人がいる。
私はおそらく世間一般で言うオタクというやつで、創作物、創造物の類が好きだ。
ゲーム、アニメ、映画、演劇、絵画、模型、音楽。私にいろいろな感情を教えてくれたそれらのなかでも、ことさらに本が好きだと思う。
飽きっぽく節操の無い性格のためか、活字なら小説から詩集新書専門書、漫画なら少年少女青年成年、雑誌に写真集、攻略本に設定集、映画や舞台のパンフレット等、およそ統一性の無い本たちが、広くはないワンルームの隅に鎮座している。縦に横に雑多に、しかし私のなかでは理路整然と。
最近遊びに来た友人に、積みすぎると床が抜けると脅された。賃貸でそれはまずかろうと、恐る恐る電子書籍に手を伸ばしている最中だ。
さて、冒頭に出てきた彼の話だが、おそらく少なくとも、漫画やアニメのオタクではない。ハリウッド版攻殻機動隊を視聴するにあたって概要を説明した折、第一声が「それはガンダムとは違うの?」だった男だ。
興味の無い人間にとって、電脳化・義体化とモビルスーツによる宇宙戦争は同じに思えてしまうらしい。お前話聞いてなかっただろ。
「ガンダムとはちょっと違うかなー」「あれ、前見たガンダムと同じ監督って言ってなかった?」「ガンダムと同じ監督?何見たっけ?」「見たじゃんあのアニメの、警察のやつ」
ある日のこと、きっと遊馬とカイの区別もつかないであろう彼奴から突然「3月のライオンって知ってる?」とラインが来た。
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『3月のライオン』(さんがつのライオン)は、羽海野チカによる日本の漫画作品。将棋を題材としており、棋士の先崎学が監修を務める。(Wikipediaより)
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知っている。
漫画は単行本を既巻全巻持っている。アニメも見た。実写映画も見た。
好きな物語だ。
正直すごく嬉しかった。自分の好きなものに興味を持ってもらえると一気に親近感が沸くオタクの生態よろしく、結構、いやかなりテンションがあがってしまった。チョロいもんである。
とはいえ相手は小泉花陽ちゃんと三村かな子ちゃんの区別もつかない甲斐性なし野郎だ。ここは慎重にフラットに対応すべしと自分に言い聞かせつつ話を聞いてみると、どうやら彼の友人がアニメを見てハマったらしく、自分も気になった、ということらしい。
漫画を所有していることを伝えると、貸してほしいとの返信。もちろん了承の旨を伝え、既巻13冊をすべて手渡した。重くなるが、スピンオフの灼熱の時代も紙袋に詰めた。
3ヶ月ほど経った頃だったか、デートをした日、そういえば漫画全部読んだよ、と彼が言った。晩ごはんを食べようと入った居酒屋でメニューを見ていたときだった。
もちろん私はすぐさま感想を聞いた。そうなんだ、どうだった?と、期待を込めて聞いた。
彼は笑ってそう言った。
びっくりした。ショックだった。
面白くなかったのだろうか。そう聞けば、面白かったという。続きも読みたいという。実写映画も漫画も見てみたいという。
けれど、一番に口をついて出た感想が「現実にはあり得ない」だった。
そこで初めて思い知った。
世の中には、現実というフィルターを通して物語を読んでいる人が、あるいはそう読むことしかできない人がいる。少なからず今、目の前にいるのだと。
私自身は、幼い頃から随分本に触れてきたと思う。特にフィクションの物語を好んで読んできた。読むたび私は空想にふけてきた。
こんな魔法が使えたら、こんなドキドキするような恋愛が出来たら、こんな力を持って世界を救うヒーローになれたら。
そりゃそうだ。私は本を読むとき、その物語という未知の世界の扉を開けて、体ひとつで飛び込んでいるようなものだ。
本を読んでいるとき、現実は扉の向こう側にある。現実は戻ってくる場所なのだ。
みんなそうなのだと思っていた。それが当たり前なのだと思っていた。
でも、そうではなかった。
私は何にショックを受けたのだろう
彼に自分が好きな世界を否定されたように感じたからか。自分の好きな物語にケチをつけられたように感じたからか。あるいは、単に同調してもらえないことに傷ついたのか。
おそらく全部あてはまる。けれど核心ではない気がする。
いまだによく整理できていないが、私はあのとき直感的に、嫌だと感じたのだと思う。
きっとこの人と私では、心の奥底のほうで、物語を共有することができないと、そう感じたのだと思う。
立ち位置が違う。視点が違う。同じものを見ているはずなのに、見えているものが違っている。
考えれば考えるほど当然だ。彼と私は他人で、好みも違えば趣味も違う。育ってきた環境も、考え方も違うだろうし、感じ方も違うだろう。
けれど私は、「物語」に関しては、その差異が許せなかった。直感的に、嫌だと感じるほどに。
これがいわゆる価値観の違いってやつなのか、とも思った。
これを理由に離れてしまうペアは多いと聞く。価値観が違うのは当然だと以前は不思議に思っていたのだが、今はなんとなくその気持ちがわかるような気がする。
自分のなかの大切な、染み付いてしまってどうしようもない根っこの部分を、きっとこのひとには理解してもらえない。それがわかってしまった。
ただそれだけなのに、その瞬間、彼が異質なものに思えてしまった。
ガンダムと攻殻機動隊が同じに見えるらしい彼と私は、何かが決定的に違っている。
以来私の心は、彼の前では、私の大切なものをそっと奥に、彼の手が絶対に届かないところにしまいこむことにしたらしい。
一緒に映画を見たいと思わなくなった。見ても感想を言いたいと思わなくなった。本を貸したいと思わなくなった。本屋には着いてこないでほしいとすら思うようになった。
理性のコントロールが効かない部分の、なんとまあ厄介なことか。辟易する。
追記
西暦2040年。東京では新種の難病「細胞硬化症」に罹患した青年・水原怜人が、兄・龍、妹・まひる、幼馴染・橘絵理沙に見送られ、治療のためのコールドスリープに入る。5年後、目覚めた怜人の前に絵理沙似の専属担当官・周防美来が現れ、新種のウイルス「MKウイルス」によって男性の99.9%が死滅したことや、その免疫を持つのは細胞硬化症を治療した怜人たち5人「ナンバーズ」のみであることを告げ、女性たちとの子作りを要請する。
先に目覚めた青年・火野恭司が子作りにセックスのみで成功したことも告げられた怜人は、龍がコールドスリープ中、絵理沙が行方不明であることを、「UW日本支部」の施設で再会したまひるにそれぞれ知らされたうえ、コールドスリープ中の男性たちがあと1年でMKウイルスによって死亡することを、美来に知らされる。怜人が絵理沙を捜し出すまで1か月間の猶予を求める一方、早々に現状を受け入れていた恭司は、施設内で美女たちとの優雅な子作り「メイティング」の日々を満喫する。
そんな恭司の姿に複雑な思いを抱く怜人のもとには、大柄のナース・龍造寺朱音や小柄のボディーガード・翠が現れる。翌日、動物研究所で何者かによって解放されたクマに襲われるも翠に助けられた怜人は絵理沙の研究を知り、自分がMKウイルスの特効薬を作ることを決意する。
この「女が好きなAV女優アンケート」http://zerokkuma.hatenablog.com/entry/2018/01/21/020623をうけて、わたしとわたしの好きなAV女優さんの話をします。
ひらりささんは自分の名を模したアカウントで誠実にやってるのに対してわたしは増田でごめんなさい。
佐倉絆さんのこと凄い好きだけど邪な目でしか佐倉絆を見てないから「コイツ、佐倉絆で抜いてるんだ」と思われながら生きるのは自意識的に死にそうなくらい辛い、というかまあ厳密に抜いてはないんですけど…抜くという概念?性欲処理の作業を「抜く」の一言で片付けられる男性諸君が羨ましいです。まーーーえっちな目で見てるんだけどね!
わたしと佐倉絆さんとの出会いは、「徳井義美のチャックおろさせて〜や」という番組内の企画「手コキカラオケ〜90点以上とったら100万円〜」である。
最初は佐倉絆目的ではなく、挑戦者側に「某アイドルグループの手●くんに憧れている青年が出ている」という呟きをTwitterで友人が呟いていたのがすべてのはじまりであった。
わたしも友人も別に手●くんのファンというわけじゃないけど、彼はめちゃくちゃ面白いですよね。人間として面白い。男としての性的魅力は全く感じないけどとかく面白くていい奴だと思う。たまに見ると元気が出る。なんでモテるのか(よく噂は聞きます)1mmもわかんないけど、定期的に「手●見てえ」ってなる、不思議。
でだ、その手●くんを目指してるってんだからそれなりに歌が上手いかチャラくてちょっとかっこいいかって思うじゃん、すっげえブサイクだった。ブスだけど格好付けて手●風の発言をして、手●を模した髪型をして、手●みたいな歌い方をするわけよ、手コキされながら。イきながら手●くんの決めポーズすんの。最高に面白いじゃん。しかも「恋を知らない君へ」(割としっとりした曲)ってチョイスがもう最高すぎて腹わたちぎれた。歌詞的に切ない曲なのでこの曲を歌いながらきったなく喘いでる姿はファンの人が見たら絶対怒るだろうけどわたしはあの映像より笑える映像をその前もそのあとも見たことがない。(手●と手コキってなんか似てるね)
そうして定期的に見るようになった手●カラオケ、手●以外の挑戦者も「おもしれーなw」って見てるうちに運命の出会いが訪れるわけです。「よく見たら手コキしてる方の女の人めちゃくちゃカワイイ……!」って。
篠田麻里子似で、女子アナみたいに清楚なのになんかすっげえエロい。
しみけんのお墨付きだもんそりゃ上手いわ
必殺技「絆のしずく」というくらいあって、唾液の量が半端ないんですよ、とろっとろ。ちゅーしたら絶対気持ちいいの。
きったねえ歌声なんか耳に入らないくらい佐倉絆の「いっちゃうぅ?」しか聞こえなくなった やばい。大体の挑戦者より背が低いきずぽんは挑戦者の肩に腕を乗せながら上目遣いでじぃっと見つめて来るんだけど、それがまた最高なんだ。手コキ部分は映らないからカラオケしてる挑戦者ときずぽんが着衣でうっとり見つめ合う図が映るんだけど、そこだけ見るとほんと月9みたいなんだよね……まあ手コキしてるんですけど。
細い指が、甘い声が男性器を握りながらわたしの脳みそを握って溶かした。性的対象は男性のみのはずだったのにえっちな気分になると「佐倉絆」、こときずぽんのことしか考えられなくなってしまったのだ。
気づいたらネカフェできずぽんの動画を夜通し見ていた。終電逃して夜中にネカフェに入ったはずなのにまた終電間際だった。笑えねえ。
手コキ物はもちろん、上原亜衣ちゃんとの百合モノがマジで最高。っていうか百合プレイって言ってんだからきずぽんと亜衣ちゃんがひたすらヤッてんのがこっちは見たいんですよ、「百合だーーー!」って飛びついたのに時々何が悲しくてきずぽんと亜衣ちゃんが2人してオッさんのちんぽ舐めてんの見なきゃいけないんだ、羨ましい、そこ代わってくれ。
(もちろん手コキが見たくてAVを見てる時は男性ありきだけど、百合が見たくてAV見てる時は男性器求めてないじゃん…?いちごパフェが食べたいのにトンカツを出される胸焼け感……)
あと、個人的にあの真っ白なきずぽんが水着の形に日焼けしたやつ、意味わかんないけど意味わかんないくらいドツボですね……
で、だんだん見進めるうちにわたしは、気づいてしまったのだ。「きずぽんの手コキを見たいんじゃなくて、きずぽんに手コキして欲しいんだ」って。あの細い指で、ねっとりとした視線で、意外とサバサバした声で、きずぽんに触られたい、きずぽんの手で陥落したい。私が男だったらAV男優にならなくとも件の「手コキカラオケ」に出演エントリーすれば、100000分の1くらいの確率でその施しを受けることが出来るかもしれない。けれど、わたしには生えてないのだ、男性器が。いくら願ってもわたしはソレを持ち合わせない。その時点で佐倉絆に手コキをしてもらえる確率は0.000000001からゼロになるのだ。こんなに悲しいことはない。
世の中の男性という生き物は実にずるい。実際にきずぽんと触れ合うことができなくたってAV男優に自らを投影することが出来る。その時点で5割くらいはきずぽんとセックスしてるようなモンじゃないか。
ずるいずるい、超ずるい。短小だろうが包茎だろうがついてる時点で全部男性器なんだから、憎くて羨ましくて仕方ない。
お前もどうせ包茎だろ?とか思うことで日常の不条理を自己消化してきたのに(男性諸君からしたら実に理不尽な話だろうが、直接そういった表現で他人を罵ったことはないので許して欲しい)きずぽんに出会ってからは「でもこんな男でも“付いてる”んだもんなあ……」と悲しくなってしまうのだ。
そう、VRである。
http://www.dmm.co.jp/digital/videoa/-/detail/=/cid=84kmvr00001/
これね、マジすごい。VRが見れるビデオ店のVR機器は他の人の汗や精子の臭いがすると聞いて迷いあぐねた結果、このためにAmazonでVR装置買ってよかった……なんと、きずぽんとわたしが結合してるんですよ、きずぽんもわたしも付いてないのに。どこからともなく現れた空想ち●こがわたしときずぽんを繋いでるという限りなくファンタジーなフィクション。
でも、今までわたしがきずぽんに手コキして貰うためには知らないおじさんとか到底自己投影なんか出来そうにないマッチョな黒人とかその他諸々エクストラとにかく「わたしではない何か」を通さなくちゃいけなかったのに、VRきずぽんはわたしの知らないおじさんではなくて、「限りなくわたしに近い男」を見てくれるわけです。もう8割くらいわたしときずぽんがヤッてるじゃん。
わたしのファンタジー男性器を這うきずぽんの指。ファンタジー男性器にかかるきずぽんの唾液、そしてファンタジー男性器がきずぽんの小さな口の中へ………
実際は誰も居ないけれど、確かにわたしの隣に温もりはあった。今まで体験したどんなセックスよりもきずぽんとの擬似セックスは夢心地で、とろけるように甘い時間だった。
でも、やっぱりきずぽんの手コキをよりリアルに体感するために本物の男性器が欲しくて欲しくてたまらないのである。
VRは所詮VR、VR機器は汗だくで湿っていてもきずぽんが抜いてくれて華々しく散ったハズの証拠が現実には存在しない。だからわたしは佐倉絆でえっちな気持ちになったとき専用のわたしの男性器を諦めない。
もし、天変地異が起こったり白い生物と魔法少女の契約を交わして男性器が生えてきたら、わたしは金髪に染めて手●くんのソロ曲「I’m coming」(すげえやばい)を歌ってきずぽんとにっこり見つめ合いながら手コキカラオケするのだ。絶対100万円獲ってやるわ。
なろうにおける「おっさん」っていうのは、意味的には「少年でも青年でもない」程度の意味だと思うよ。「少年主人公を希望する読者」や「青年主人公を希望する読者」をフィルタリングするための装置であって(なお老人主人公ってのはそもそもラノベ的には射程に入ってなかった。いまはおっさんの延長線上でまま存在する)、そのものの獲得形質は存在しないんだと思う。
もうすこし補足すると、「少年性や青年性の喪失」であっても「おっさん性の獲得」ではないってことになる。
まあ、そもそものはなし、現実のおっさん(中年)も、現代においてはままそうなんじゃないかな。
少年期の全能感や幸福感や無限の体力はもはやなく、青年期の情熱や異性に対する期待や将来に対する不安と希望ももうなく、じゃあ、その代わりに何かを獲得できてるか? と問えば手に入ったものは少ないのではないかな。少なくとも自分は、日々を大過なく過ごすための惰性めいた処世術とか、職を時間内にこなすための小器用さであるとか、その程度のものしか身についたとはいえない。
その程度のおっさんでしかない自分が、少年や青年そのものが結晶化したような主人公や、彼らの物語を直接摂取してしまうと、内臓に負荷がかかってしまう(お腹痛くなる)ってのはある。出来が良ければフィクションとして切り離して楽しめるけれど、私小説としてそれを読んでしまうと痛い。
カリオストロの城において、ルパンはクラリスとらぶらぶちゅっちゅにはならんでしょ。ルパンは「おっさん」だから。おっさんだから父性の混じった誠意をクラリスに向けられたし、あの物語において、あれこそが美しい。ただしくおっさんの物語だ。
だから「おっさん」というタグは「エビや卵成分は入ってません」みたいな、食品におけるアレルギー表示みたいなものなんじゃないかな。
もちろん、なろうっていう場所は混沌そのものなので、書き手によってはそこまで考えてもいなく、ただ単純に少年青年主人公で展開された物語の骨子を、おっさんというテクスチャで再梱包しただけのものもあり、その場合アレルギー表記はむしろ罠として読者に襲いかかる。
秒速5センチメートルみたいなのを、主人公おっさんに差し替えてやったらどうなるかって、それはなんかキモくなるだけだって話だね。
「おっさん」というタグの物語を巡るいろんな問ってのはまだまだあるんだけど、個人的には、当面は以上のような理解で良いんじゃないかと思っております。
はじめて使うので、おかしいところが多々あるかと思うが勘弁してほしい。
私は14~22歳の約9年間くらい精神科にお世話になった。その間に何度も精神科に入院する経験をしたので、ここに書くことで成仏させたい。
家は小金持ちで、中学から私立だった。中学3年のある日、左半身が突如として麻痺しだした。色んな病院と検査をたらい回しにされ、最終的に児童青年精神科に行き着いたのが精神科との長い付き合いの始まり。
だんだんと不登校になり、家にこもりだした。主治医が好きだったから病院には通った。そんである日「家から離れようか」と入院が決まった。
病棟はナースステーションを中心に左右に別れてた。左は小学生以下幼児まで。右は中学生から高校生かな。もちろんそれぞれの入口に鍵がかかってた。
総合病院だったからキレイだし、小児病棟みたいに明るい病棟だった。
・親とは専用の面会室で話す
・おやつは3時のみ
そんな感じの入院生活だった。看護師さんは優しかった。たまに左ゾーンの子達と一緒にレクもあった。めっちゃ暇だったけど、いま思えば入院生活はこんなもんだ。
長いから切る。
たぶん続くと思う。
歴史上で公にはされていないが、
身体的特徴はどんな光も吸収する点
カラーコードで表すと常に #000 となる。
紀元前5世紀頃は、アフリカの有力部族の奴隷として取引をされていた。
現代のアフリカ社会でも、時々タブーを犯して暗黒人のネタを放り込む芸人が存在する。
アフリカ人の人権派は公共電波を利用した差別助長に目を光らせている。
そのため、黒い画面、夜のシーン、暗い部屋は放送することが出来ない。
アフリカ国内でも、このような過激な差別規制に対し疑問を投げかける人は多い。
ーーー
日本の年末番組で、ホラー演出の一環として暗い部屋を放送するシーンがあった。
ムーやTOCANAを熱心に読み、アセンションや陰謀論に意識が高くなってるリベラル派が、番組を一斉批判し始めた。
ーーー
昼間は寝ているだけに見えた青年は、
夜中に目を覚ました。
昨年彼の父が腰を痛めてしまったため、
「神話の崩壊」が喧伝され、あらゆる種類の「変わり者」たちが警戒の対象となり、単なる迷惑化はおろか法的な意味での予防検束を可能にするさまざまの改「善」がおこなわれる。欧米では男尊や女卑が主な警戒対象となっているが、もともと同調圧力の強い日本社会では、21世紀以降、ほとんどありとあらゆる「変わり者」たちが狩られ始めた。
「○○ハラスメント」や「○害」といった造語が急速に浸透して“犬も食わぬ”ものであったはずの体罰や子供の大声や騒ぎ声に行政が容易に介入できるようになり、喫煙者や飲酒者や公務員は迫害され、某国の工作員や左翼や右翼の存在がクローズアップされ、裏社会は合法活動の領域からも締め出され、成人犯罪はおろか少年犯罪にも厳罰が要求され、昔であれば迷惑に過ぎなかった行為が軽犯罪扱いされ、中流はすでに貧乏に等しいような貧困予備軍の扱いを受け、もちろん鉄道や学校に対しては「空港や基地にだけ例外的に適用」されているはずだった「迷惑施設対策」だの「誘致地域への経済的優遇」だのといったバッシングや炎上事態が恒例化した。「アニメや漫画の青年趣味を卒業しない」とか「車やバイクを成人後も敬遠する」とかのちょっとした「小さな変わり者」すら断固とした批判の対象となった。監視カメラyや精神科が街じゅうに設置され、「コンプライアンス」「モラル」「マナー」が叫ばれ、小心者に何か用事があるとは思えない中小企業にも「脱ブラック企業」の標語が掲げられるようになった。
それらのすべてが字義どおり「戦乱行為」として展開されているのだが、「反戦」の文脈でそれらに異議を唱えている者はたぶん今なお日本では少数である。「戦争したくなくて震え」たりすることもあるらしいリベラル派は、全体主義やエコロジーや反自由主義運動と親和的で、「その意味での戦乱政策」のいくつかに関しては積極的な推進勢力であったりさえする。むろんリベラル派どものみならず、国民の多くが「戦乱政策」の数々に諸手を挙げて賛成していよう。
好戦的な国民感情に迎合し、戦意高揚を煽り、それに煽られてますます好戦的になる国民感情に迎合する、2001年の9.11以来の新聞やテレビの報道は、私の目には「戦時報道」にしか見えないのである。そういうものに私は感化されたくないし、もちろん感化されない自信もあるけれども、とにかくちょっと接するだけでも不愉快になって、心の健康に悪いので意識的に遠ざけるようになってしまった。
学校の底辺と言えばいじめられっ子、運動音痴、学力底辺のブサメンだが
まあ創作物というものがヒエラルキー下位に好まれがちだから分かる
こういうの、ヒエラルキー上位陣はどう見ていたのだろう?
学校における陰キャはそのまま社会人底辺にスライドするケースよりも、ある程度普通ラインに収まるだろう
私も実際のところ底辺というほどではないので、社会人の底辺物語を見せられてもうーんとなる
学校においては、ここ20年は徐々に「ふつう」キャラが主人公になるケースが出てきたが
社会人のふつう主人公はあまり見ない、出てきても「普通のサラリーマン」という設定くらいだ
まあ書きにくいのはわかるが
(この前マツコのなんたらで見た)
男性向けは一歩遅れている感がある
か、知らないだけか
最近、深夜に起きているとよく流れているCMがある。それがこちら。
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『キリン 午後の紅茶』「あいたいって、あたためたいだ。17冬」篇
https://www.youtube.com/watch?v=n2ii6Vyv5ME
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最初は何気なく聞き流していて、「きれいな声だな」とか「スピッツの曲だっけな」とか、ふわっとした感想しか持っていなかったのだけど、よくよくCMを見てみると妙な違和感を覚えた。何だかこう、脳裏がざわつく感じがしたというか。
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CMの流れとしては、以下の通りだ。
・夕暮れ時。田舎の駅で電車を降りた女子高生が、ホームの自販機で午後の紅茶(ホットミルクティー)を買う。そのまま帰り道を歩く。
・歌いながら帰り道を歩くうちに、星の見える夜になる。立ち止まって、空を見上げる。
・東京のどこか。高架を走る電車を見上げる、厚着の純朴そうな青年が映る。片手にはスーツケース。
・再び女子高生。星空の下のあぜ道でスピッツ「楓」のサビを歌い続ける。
・女子高生が鼻をすするカットの次には、青年が「会いたい」と呟くカット。
・「あいたいって、あたためたいだ」のキャッチコピーとともに、商品の大きな画像。ここでCMは終わる。
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シーズン的には「大学入学をきっかけに地元を出る青年と、彼を田舎から見守る女子高生」を示唆していると思う。「楓」のサビは「さよなら 君の声を 抱いて歩いていく」だが、映像からすれば「さよなら」して「抱いて歩いていく」と宣言しているのは女子高生だし、「君」のフレーズで映るのは東京に降り立った青年だ。とすれば、二人の境遇はそう考えるのが妥当だろう。
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CMの終盤、歌声だけがフェードアウトして「会いたい」と呟く青年の声に被さるくらいの勢いで「あいたいって、あたためたいだ」のキャッチコピーが続くことでノスタルジーを演出したいのだと思うのだけど、私はそう受け取ることができなかった。おそらく冒頭で述べた「違和感」のせいで。
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その違和感を簡潔にまとめるとすれば、「別に男だけが田舎から『外(敢えて都会とは言わない)』に出るわけじゃないじゃん?」ということになる。
※ここでは「女子高生は後輩であり、青年のほうが先に大学生になったのでは?」という単純な疑問はここでは置いておくとする。論点から逸れてややこしいから。
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何故そう思うかって、私自身が「田舎から『外』に出た女」だからだ。「外」に出て、もうすぐ3年ほどになる。
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私の出身はとある片田舎で、田んぼと畑と幹線道路に囲まれて育った。このCMに出てくるほどの田舎ではないが、まあたぶん「田舎」と形容して差し支えないだろう、くらいの田舎。どのあたりが田舎なのかと訊かれればいろいろと答えられそうだけど、特筆すべきは「保守的で閉鎖的」なところだと思う。
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それを自覚したのは高校生の頃だった。元々県外への進学を希望していた私は、模試で記入する志望校欄に地元の大学を頑なに書かなかった。けれど、当時の担任は「第5希望でも第6希望でもいいから『とりあえず』××大学(地元の国立大)か△△大学(隣県の国立大)って書いとけ」と再三念押ししてきた。
最初は不思議に思っていたが、周囲の友達に志望校を訊くと、決まって「『とりあえず』××大学か△△大学かなあ」と返ってきた。その答えには男女差がなく、受験期になると滑り止めの私立がどこか訊いても県内の私大や短大の名前を返されることが多くなった。
そもそも地元国立大信仰が強い傾向があって、それもある種のムラ社会の名残のようなものなのかもしれないけれど、だからってみんながみんなして目指す必要なんてなくない? というのが私の持論だった。模試にも進路希望調査にも地元国立大の名前は最後まで書かなかった。
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その後、私は第一志望ではなかったが県外の大学へ進学が決まり、地元へは長期休みと年末年始だけ帰省する生活が続くこと、1年と少し。「成人式出る?」「同窓会出る?」といったLINEが送られてくる季節になっていた。中学校単位で開かれる成人式と、高校の同窓会。どちらにも出席はしたが、金輪際同窓会には行かないなと思った。単純に「合わない」と感じたからだ。
私が県外の大学に行くことは仲の良い友人たちくらいにしか伝えてなかったとはいえ、それ以外の「それなりに仲は良かったが連絡をしていない」人や、「元クラスメイト」ぐらいの人たちに会うたび、「いまどこにいるの?」と訊かれ続ける。「○○大学ってところ」と愛想笑いで答えるのにも骨が折れた。
久しぶりに会ったのだから普通の質問だと思うかもしれないが、そうじゃない。田舎は閉鎖的だ。普通に暮らしていれば、どこかで知り合いに遭遇するのだ。ましてや大学生。地元の大学に通っていれば誰かしら中学や高校の同級生に会うだろうし、電車通学をすれば遭遇率はさらに高まる。だから、この「いまどこにいるの?」は「『最近見かけないけど』いまどこにいるの?」という意味だ。何だこの怖い質問。そう訊いてくる人たちは大抵××大学か△△大学、もしくは県内の私大に通っていて、「外」に出た人は一クラスでも片手で数えられるくらいだった。
それぐらい、田舎(というと主語が大きいが少なくとも私の地元の場合)から「外」に出る人は少ない。田舎は保守的だからだ。
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「外」に出た人間が偉いとか、田舎から出なかった人間が偉くないとか、そんな話をしているわけではない。ある友人は県外の大学に進学して馴染めずに今期休学を選んだし、彼女の母親は地元から一度も出ずに働いている。そんなのは人それぞれだ。
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感情に任せて書き殴っているせいで言葉がまとまっていないが、「『外』に出て勉学に励むのは男で、女は田舎に残るものだ」みたいな安直なジェンダー観を当該CMから受信してしまってどうにもならなくなってしまっただけだ。そんなわけない。「外」に行くのは女だっていい――――いつの時代の発言みたいなこと言ってんだろう。勉学にジェンダー差なんて必要ないのに。
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今更だけどそこは論点じゃないんだよ。
緊急時に躊躇も恐怖もなく自動で行動できるなら、危機から脱出できる確率が上がるとして、その他の諸々を考慮してその刃を鈍らせるべきなのか、と。
刃は切れてこそ、という話もあるし、技は習熟するに越したことはないと思うんだ。
ただ、善意の酔っ払いが絡んできたときにも技が発動してしまうのがどうなのかと。
もちろん、悪意を持った相手なら殺してでも退けろと思う。
いま、幼児から少年になり、青年になる中で判断はできるようになるだろう。
というか、危険な攻撃を使わずとも相手を制圧できるようになったり、そもそも危険に近づかないなんかも教えていける。
でも、今なんだよ。
それでまあ、技を仕込んだんだけど、中身は幼児ながら、体格が少年という微妙なアンビバレント。
危機に襲われたとき(知らない大人につかみかかられたときだけ、と言い含めてある)に幼児なりに攻撃していい相手か見定めろなんて言って、結局被害に会うのなら、とにかくつかみ掛かられたら逃げろとも思う。
まあ、正解はないのかね。
思い出す。
強く押しすぎて、
向こうの終端に勢い良くぶつかり、
弾みでその子が地面に叩きつけられた。
「やべえっ」と急いで駆け寄ったが、
その子は泣かなかった。
ぐっと涙をこらえていた。
強い子だなあと思った。
上の事を思い出して「やっぱり強い子だったんだな」と思った。
そのショックで配送車ごとバックレた。
自分も死のうと思ったが、
祖母の事も思い出した。
そう考えてた。
祖母は女学校に通っていて、結婚するまで農作業は経験しなかったそうだ。
慣れない仕事だし、ヒルが脚に張り付いて血を吸うのが嫌だった。
何度か実家に逃げ戻ったが、その度に義父(私の曽祖父)が優しく迎えに来た。
この曽祖父は、昔聞いた話では競輪にのめり込んで借金を作ったらしい。
ろくでもない人だったんだろうなと思っていた。
が、今回の話で印象が変わった。
父は曽祖父に懐いていたというし。
そして、押しも押されぬ(訂正: 「押しも押されもせぬ」)オフクロといった風格の祖母が、
嫁いだばかりの頃は何度も逃げ出していたということに驚いた。
親戚の青年に話を戻す。
「周りに相談していれば」「いったん逃げていれば」
などと簡単には言えない。
だが…。
地面に叩きつけられても涙をこらえていたあの強さが、
いさぎよすぎる早まった行動に結びついたのでは、と感じる。
恥ずかしくて情けない体験談は、やはり人前では話せない。
だが、ここなら書ける。
その前に、ここに失敗談を書き残したい。
「死にたい…」と口にしただけで
「開き直ってもいいかもよ」と
助言してくれるようになるかもしれない。
そんな未来のために、
たくさんのコメント、ありがとうございます。
感情に任せて投稿した後、後悔したり疲れ果てたりで、しばらくこのページを開くことができませんでした。
祖母が私に話した時点では、曽祖父はもちろん祖父も亡くなっていました。
この話は、私が職の定着に失敗し続けていた時期に、祖母と私の2人だけの場で話してくれたことです。
そのような状況で嫁ぎ先に遠慮して、本当は強引に連れ戻されたのに「優しく迎えに来てくれた」と嘘をつく必要はないと思います。
また、私がその場で「ひいじいさんは競輪で借金を作ったって、昔、聞いたことがあったから、ろくでもない人なんだと思ってた」と言うと、祖母が「そんなことないよー。優しい人でね。あんたの父さんもよく懐いてて、じいさんが死んだ時はワンワン泣いてたもの」と話してくれたので、やはり、強引な感じで連れ戻したのではないと私は思います。
ただ、曽祖父が迎えに来た反面、祖父は夫として家の長男としての立場のため迎えには来なかったそうで、「ああ、昔の社会はそういうものだったのか」とは感じました。
その青年は私よりも背が高く、体つきも良く、身びいき抜きでイケメンでした。
しかしどうしても、彼の死について、とやかく言いたくなります。
自分の能力を過大評価したり、目標を高く設定したり、「こうしなければ」と自ら重荷を背負うことは、誰にでもあると思います。
私は今でもそうですが、長い引きこもり期間と心療内科への通院を経て、ようやく自分のペースを掴んできたと思います。
そして自分の若い頃を振り返ってみると、能力のないくせに自信過剰で、何でも真に受けて深刻に捉えてしまう人間だったと感じます。
暴走して職場に迷惑をかけて、辞めて、死のうとして、それを何度も繰り返して、ようやく「根本の価値観に無理があった」と気づきました。
嫁いだばかりの頃は何度も逃げていた祖母は、結婚2年目に子供が生まれてからは落ち着いたそうです。
それは、祖母が農作業に慣れて体を鍛えて強くなったおかげもあるでしょう。
ただ、私の想像ですが、1番の理由は祖母なりのペースを掴んだおかげではないかと思います。
私が小さかった頃、盆暮れ正月に帰省するほかに春に田植えを手伝うこともありました。
その時の祖母は、よく休憩を呼びかけていました。
もちろん歳のせいもあるのでしょう。
しかし、急がず焦らず、しかしたゆまずに働き続けるあの姿勢が、祖母がたどりついたマイペースだったのではないかと、今、そう考えています。
私の父についても話します。
私はそのおかげでこの歳でも自室に引きこもっていられるのですが、昔はその働きぶりを真に受けて真似しようとして、調子を崩すことがありました。
ただ、ずっと働き通しに見える父も、時折休憩したり、ふらっと散歩に出かけたり、洗車したり、夜には酒を飲んだり、夜中まで仕事した時は遅く起きたりして、極端に疲れないように気をつけているそうです。
私と違って立派に働いている兄も、つらい時は酒を飲むと言っていました。
私の周りの人々の「無理のないマイペースな生き方」を思い出すと、あの子はマイペースを掴む前に亡くなってしまったのではないかと、そう考えてしまいます。
借金を抱えた段階ではどうしようもなかったとしても、経営状況が悪くなり始めた時、出店する前、大学を中退する前などに、彼が悩みを打ち明けやすい環境を整えられなかったのかと考えてしまいます。
心を病んだ私のような人間が親戚にいるのに、なぜ私はその方面での支援ができなかったのかと悔やまれます。
…ただ私は、調子がいい時は無職のくせにお節介を焼きたがって、のめり込みすぎて疲れ果てることがよくあるので、どこまで役に立てたのかは分かりませんが。
上のような事情があり、「親戚の連絡を密にして再発防止を!」などの分不相応な行動を起こすのは控えて、ウェブの力を信じて、この話が誰かの役に立つことを願って投稿しました。
批判的なコメントもいただきましたが、「確かに、自分の思い込みが強すぎる」とうなずくことも多く、自分の手綱を引くことができました。
また、「押しも押されぬ」が誤用だとは知らず、びっくりしました。 ( ×「押しも押されぬ」→○「押しも押されもせぬ[=しない]」 | ことば(放送用語) - 放送現場の疑問・視聴者の疑問 | NHK放送文化研究所 )
現在の群馬県と長野県の県境、地図も当てにならないような山中にひときわ目立つ石碑が無造作に転がっているのを知る者はあまりいない。石碑には「強力零」とだけ力強く彫られている。
群馬大学の研究チーム9名が1999年に調査したところによると、その力強さは同年代に彫られた石碑の文字に比べて約9%増しであることが判明した。これが何を意味するのか、当時の知見では解明されることはなかった。
零戦を強力に改良した航空機の開発が推し進められていたことは周知の事実だろう。その名称はもちろん「強力零」であり、従来型よりも戦闘力を9%向上させる設計となっていた。アメリカ側も当然にその事実を握っていた。英語での呼称は、言うまでもないだろう。
「そういえば」と強力零作戦に配属されたばかりの青年が言った。「じいちゃんが言ってましたよ」
「何?」と上官。
「その昔、祭りでは酒が振る舞われていたって」
「酒くらい飲むだろ」
「いやいや、その酒ってのが特別な代物で、強烈な多幸感をもたらすんだそうです。それがあったからこそ、暮らしに活力がみなぎって、明日から頑張るかって気になるとか。先祖代々伝わる話ですよ。もはや伝説ですよね」
人類の歴史は密造酒との戦いであるとも言えるだろう。無法者が蔵を構えたのは監視の行き届かない山奥であった。違法であるからこそ享楽は9%増しになる。当時、日本で最も人気のあった密造酒はアルコール度数99%の「強力零」。ここから認知バイアスによって陶酔が9%増しになるということは、アルコール度数108%。ハレの日には「強力零」が大量に振る舞われ、人々は「酒が飲めないなんて人生の9%を損している」とその幸福に酔いしれた。
999年、その酒蔵は忽然と姿を消した――。
未来と過去を行き来するストロングゼロの正体とは。その陰謀に巻き込まれた九条強と山鳥・アッパラッパー・幸子。生存確率は9%。果たして彼らは999人の政府関係者と9999人のギャングから本物のストロングゼロを取り戻し、ハレの日にアッパラッパーすることができるのか。
性教育が『子供にセックスを教えるなんてけしからん』という声に押されて消えて十年以上が経つ。
今の大人が習った当然のことを今の子供から青年にかけては知らない。
セックスの仕方を早々に覚えてしまうことと避妊や性病の知識がないボンクラとを並べて後者の方が誰かにとって価値があるのだろう。
そんなわけだが、性教育はきっちりした方がいい。
アダルトビデオやポルノ雑誌は教科書にならないし、故意に間違った知識を流布されても正解も不正解も判断がつかない。
実際、この社会では流通網にのって割とどこででも売っている嗜好品としての商品を、まるで子供には無いものの様に振る舞うのは無理があるし、結局大人になってからいくらかの人間はこれに耽溺するのだ。
タバコは体に悪いとか、そういうことももちろんだが、吸うにあたっても屋外では法律で禁じられた場所があるとか、屋内でも多くの公共性の高い施設では吸えないとか、吸う前から教えておいた方がいい。
さらに、喫煙マナーとして妊婦や子供の前で吸うなとか、歩きたばこはダメとか、吸殻を捨てる携帯灰皿を所持するとか。
価格とかもね。
酒はさ、本当に飲み方を知らない子が突然、未熟な飲み方の集団に入っていくから一気飲みで死人が出る。
金もない、頭も悪い、口も回らない、コネもない、顔もよくない、運動もできない、性格も悪い
こういうないない尽くしの底辺がリア充やエリートの男女を恨んで復讐するぞ!みたいなのあるけど、それって復讐ですらなく性根の腐った底辺の逆恨みじゃねって思ったが
何か創作一つとっても乙女ゲーとかBLとか、ラブコメや青年男性漫画とか見てたら、男と女で考えが全然違うから創作でも気色が変わるのが普通だけど
一番見てて感心したのは、クラス転生だとか悪役令嬢物っていうのって、男か女の違いはあれど、こういういじけてて性根の腐った、なるべくしてなった救いようがない底辺でクズの思考回路って男も女もみんな同じになるんだってことだった