「神話の崩壊」が喧伝され、あらゆる種類の「変わり者」たちが警戒の対象となり、単なる迷惑化はおろか法的な意味での予防検束を可能にするさまざまの改「善」がおこなわれる。欧米では男尊や女卑が主な警戒対象となっているが、もともと同調圧力の強い日本社会では、21世紀以降、ほとんどありとあらゆる「変わり者」たちが狩られ始めた。
「○○ハラスメント」や「○害」といった造語が急速に浸透して“犬も食わぬ”ものであったはずの体罰や子供の大声や騒ぎ声に行政が容易に介入できるようになり、喫煙者や飲酒者や公務員は迫害され、某国の工作員や左翼や右翼の存在がクローズアップされ、裏社会は合法活動の領域からも締め出され、成人犯罪はおろか少年犯罪にも厳罰が要求され、昔であれば迷惑に過ぎなかった行為が軽犯罪扱いされ、中流はすでに貧乏に等しいような貧困予備軍の扱いを受け、もちろん鉄道や学校に対しては「空港や基地にだけ例外的に適用」されているはずだった「迷惑施設対策」だの「誘致地域への経済的優遇」だのといったバッシングや炎上事態が恒例化した。「アニメや漫画の青年趣味を卒業しない」とか「車やバイクを成人後も敬遠する」とかのちょっとした「小さな変わり者」すら断固とした批判の対象となった。監視カメラyや精神科が街じゅうに設置され、「コンプライアンス」「モラル」「マナー」が叫ばれ、小心者に何か用事があるとは思えない中小企業にも「脱ブラック企業」の標語が掲げられるようになった。
それらのすべてが字義どおり「戦乱行為」として展開されているのだが、「反戦」の文脈でそれらに異議を唱えている者はたぶん今なお日本では少数である。「戦争したくなくて震え」たりすることもあるらしいリベラル派は、全体主義やエコロジーや反自由主義運動と親和的で、「その意味での戦乱政策」のいくつかに関しては積極的な推進勢力であったりさえする。むろんリベラル派どものみならず、国民の多くが「戦乱政策」の数々に諸手を挙げて賛成していよう。
好戦的な国民感情に迎合し、戦意高揚を煽り、それに煽られてますます好戦的になる国民感情に迎合する、2001年の9.11以来の新聞やテレビの報道は、私の目には「戦時報道」にしか見えないのである。そういうものに私は感化されたくないし、もちろん感化されない自信もあるけれども、とにかくちょっと接するだけでも不愉快になって、心の健康に悪いので意識的に遠ざけるようになってしまった。
理屈としては特に反対する気もない、むしろ同意する部分の方が多いくらいなんだが どっかのカリスマ教祖様がよほど上手いことやるでもしない限り、まー広まらないだろうなって 理屈...