はてなキーワード: リハビリとは
大学5年生だったころに経験した日雇いアルバイトを夜中に読んで
今では連絡先も知らない色んな人の事を朧げながら思い出したので少し書いてみる
自分は今から10年前くらいから日雇い派遣労働の事が問題になるくらいまで
きっかけは就活もせずに大学卒業して、色々あって精神的にやられてしまい
手っ取り早く社会と関われるものとして、まぁ簡単に言えばリハビリ感覚で登録した。
日雇い派遣労働者はその名前の通り、毎日色々な工場、倉庫やらの配送や検品、オフィスの移転作業などで都内近郊に派遣されて
肉体労働、単純作業をする。
仕事を終えたら事務所に連絡して、また次の日の派遣先を確認して次の日そこで働く。
その繰り返しの毎日。
体動かせたり、余計な事考えずに出来たのでその時期の自分にはちょうど良かった。
ある日、家から1時間半程かかる都内の工場、倉庫しかない島に派遣された
オフィス移転などの現場では大人数で同じ事務所の派遣労働者と仕事をするので、その現場で
「あそこは体力キツいよ 人も長年入っている派遣と変な社員しかいないから新しいのが派遣されても
続かない」と噂に聞いていた。
肉体的にキツいのは大なり小なり様々な現場があったが、人は派遣労働者にも派遣先にも変な人が択山いたので気にも止めなかった
当日倉庫の最寄りの駅で長年そこに派遣されている大きなピアスをいくつかしているAさん26才と待ち合わせ
特に嫌な感じのする人ではないが日雇いの暗黙のルールで身の上話等しないし、今までどこに派遣されたのかを話すくらいで
自分も精神的にやられた直後だったのでうまく会話も続けられず倉庫へ
倉庫内にいる人は
倉庫のお偉いさんのBさん 昔チワワが出ていた消費者金融のcmの男性俳優が白髪になった感じの神経質そうな人。
日雇い派遣のCさん 20代後半で倉庫内にギターを持ち込んだりして、たまに気ままに弾いているパーマの掛かったイケメンで
捕らえ所のなく飄々としていて力持ちな人。
社員のDさん いつもニコニコしている30代後半くらいで 倉庫内を高速でフォークリフトを乗り回し
社員のEさん 40代前半いわゆる身体障害者の人で障がい者枠で働かれていて
体は180近くある自分より体格も身長もデカくて 顔は厳つい人。
初めにピアスのAさんに作業内容を軽く聞いたら
整理したり積み込んだりしてEさんと一緒に行動を共にする
かなり重い物だったので初めはうまく運べずEさんに良く怒鳴られた
それをEさんは軽々持ち上げて運んでしまう。
障害が原因なのかとても滑舌が悪くて言葉は聞き取り辛く、食事の食べ方は汚かった。
注意も良く聞き取れない時があった。
Eさんはずっとそっけなく やたら冷たかったが自分はそういう人だと思って仕事をした。
派遣先の社員の人は派遣を見下してると感じさせる人が多かったので特に気にしなかった。
初日最後に「もう来ないでしょ?」っとEさんにそっけなく言われるが
自分は分からないです。という風に軽く首を捻る事をするだけしてその日は帰った。
だが、その後事務所から頼まれたら断らずそこに行くようになった。
今まで他の派遣されてきた学生やニート、リストラされたおっちゃん達にEさんが陰で色々言われているのは想像がついた。
案の定、その帰り道にEさんの悪口を聞かされる事になる。
作業はキツかったが、そこの倉庫の人達はジメジメした空気感もなく、かといって変にベタベタしたり
お互いに干渉する訳でもないのでその時期の自分にはとても居心地がよかった。
後々、Eさんは若い頃のヤンキー時代のすごい剃り込み入った写真を見せてくれたり
フォークリフトを走らせながらエロ動画を再生した携帯を不意に見せて笑わせたりしてくれたり
お互い下ネタを話したりしながら作業して、いつのまにか仲良くなっていた。
自分は殆ど笑う事のない時期だったのがおかげでいつの間にか少し笑える様になっていた。
大学5年生だったころに経験した日雇いアルバイトのブログのような
最後は自分の就職先が決まり特に誰に最後ですとも言わずにフェードアウトした。
遅刻する時などの為に倉庫内の人たちとアドレス交換していたがその事について
特にお互い連絡することもなかった。
良くも悪くも個人的には派遣で妙にスレてしまった部分と感情を少し取り戻せた部分両方がある。
そんな時期やあの人達はどうしてるのかと少し思い出した。
日雇い派遣ではちゃんと働きだしてから出合う事がなくなった人を見たり、
いろんな事があったので、自分の原点再確認じゃないけど
また気が向いたら書いてみようかとも思う。
1年くらい前、http://anond.hatelabo.jp/20130323224626を書いた増田です。
この後、「いろんなところが出来損ないですが、よろしくおねがいします」と付き合い始めたのが、4月。
「出来損なってるところなんてないよ、ちょっと調子が悪いだけだよ」と言われました。
相変わらずデートは人の少ないところ、開放感のあるところ、に限られていましたけど、
今まで手を繋いで歩いたりなんかしなかったのに(歩調は合わせてくれていたけど)、
「手、繋いでいい?」と言われて、そうか、彼氏彼女だと手を繋ぐんだ! と思いました。
そんなこんなで、9月頃から私も、いつまでも引きこもりの身に甘んじていてはいけない、と思い、
病院の先生に相談して、障がい者就労支援施設B型事業所、というところに行き始めました。
そこは、私のように引きこもりで外になかなか出られない人や、周囲とうまくコミュニケーションが取れない人などが集まるところで、
とりあえず、リハビリ的に「毎日外に出る」を目標にがんばりました。
彼は、「無理だと思ったらすぐやめるんだよ」と言いながらも、応援してくれました。
外に出るとなると、それなりにお金がかかるし(服が必要だったり、化粧品が必要だったり)、
朝は洗濯物干したりっていう時間が取れるけど、帰りが5時な上、外に慣れないのでぐったり疲れて、
洗濯物の取り込みや、夕飯の支度が出来なくなったりしてしまって・・・。
でもそこを、「出来る人がやる」(うちは、父、母、兄なのですが、みんな家事が出来るので)というふうにして、
乗り切ることが出来ました。
薬は、相変わらず飲んでいます。
そこのことで、彼の両親には最初、反対されました。
当然だと思います。
でも、彼が熱心に両親を説得してくれて、最終的には彼の両親が納得してくれました。
義母になる方は、レザーを使ってバッグや小物を作っている方で、
彼とお揃い(形は少し違うけれど、デザインはお揃い)のバッグを記念に作ってくれました。
彼の両親に会った後、うちの両親に報告しました。
両親は、
と、彼に頭を下げていました。
彼は、
「ぼくは彼女といて、楽しくなかったことがないので、大丈夫です」
と笑っていました。
結婚式は、両親と祖父母だけ呼んで、小さなチャペルでしました。
結婚後のことを考えて緊張したりで、当日、痩せてしまっていて、用意していたドレスのサイズが合わなくなってました。
(それで急遽、下のサイズを用意していただいた・・・)
ドレスは、ビスチェ+首から袖部分がレースになっている、Aラインのものを着ました。
母より父がものすごい泣いてて、鼻がずるずるでした。本人は、花粉症だ! って言い張ってました。
披露宴はなしで(なにせ、私にリアルの友達がいないので・・・)、家族でレストランで食事をしました。
今週末には、彼と共通の友人たちが、お祝いパーティをしてくれるらしいので、楽しみです。
飛行機に乗れないし、新幹線も長時間はまだ無理なので、車で、京都嵐山の温泉と、神戸に行ってきます。
桜が咲いていると、うれしいなと思います。
前に書いた記事にレスくれた方、見てくれるかどうかわからないですけど、ちょん、と背中を押してくれて、ありがとうございました。
ようやく今月で退職する。しがない非正規だったけど、一応専門職。
契約更新できたけど、もう限界かなーと思ってしばらく失業手当で暮らすよ。
自分のとこが一番だとおもってる
私以外の職員は全員そこの市民。
ちなみにわたしはけっこう遠くから通ってて、噂には聞いてたけどこんなに閉鎖的とは知らなかった。
何年も前に職場をやめた人でも市民だからってことなのか、しょっちゅう訪ねてくる。
来るだけなら別にいいけど
「毎年○○って業者から年末に送ってくるカレンダー、そろそろ届いてる?あれ使いやすいから頂戴!」とか
「息子のノルマを助けてやって!」と、年賀状だかゆうぱっくだかの押し売りに来たり。
で、その協力費ってことなのか、まんじゅうやらケーキやらを一応持ってくるんだけど、
それは自分がうちの職場で食べる分も入ってるから、忙しくてもコーヒー入れたりして接待しないといけない。
同僚の知り合いは自分の知り合い、ってことで、いざというとき何かを頼める!ていう思考回路なのか、
職場では全員の身内、親族、子どもがいればその彼氏に至るまで学歴やら勤務先に至るまですべて情報交換して把握され、
定期的に「今どうなってるの?」と現状把握もしっかり。
家は実家までグーグルのストリートビューで検索され、おまけに今の売値まで調べられる。
プライベートはすべて職場で公開が原則で、身内の結婚式のビデオは昼休みに上映会をしたり。
子どもの卒業式に着ていく服もわざわざ職場に見せに来てから出席する同僚もいた。
空き時間には常に子どもの彼氏や自分の夫の現状報告アンド情報交換会。
子どもの就職先の斡旋も職場の同僚や知り合いを総動員して大騒動。
ついでに、とっくの前に辞めたパートさんの子どもの有名大学合格にも大騒動。
こういうのって、なんていうんだろう?パワハラでもないし、セクハラでもないけど、
そういうのになじめない部外者としては本当に嫌で嫌でたまらなかったな。
やめることになってすっとした。
http://anond.hatelabo.jp/20140302150113
いまの職場になって、2年弱
ネットネガティブ()なパートのおばちゃんらと話すようになって
おばちゃんと話すってのは
んでもって
「なんで生まれてきたんだろう、なんで生きてるんだろう」という中2病的な感覚が
おばちゃんにはまったくもって皆無なので、
んな悩みなんてどんどん薄まってって
とりあえず、今日生きてみるか、って感じで
毎日過ごしてる
おばちゃんたちの生きてる理由は、生き甲斐ってには
そら、敵わんわ
その勢いに巻き込まれたら、
なんか、しゃーない、もう少し、生きとくかぁ~ってなってくる
おばちゃん、ありがとう
引きこもってた時期がある
部屋に一人で居ると脳内で会話したりするようになって
独り言みたいな事を言うようになった
街でちょっとオカシイ人が一人で喋ってるのを見かけた事があるけど
あれに近づいていってるのか、と自分でも恐怖を覚えた
1年くらい前にまた社会復帰に挑戦し始めた頃に
そこに小さいおばちゃんが働いてた
ジュディマリのボーカルの30年後みたいな可愛らしいおばちゃん。
そのおばちゃんはやたら話をしたがる人で
俺の必要最小限以下の相づちでも不満そうにする事無く、話しかけて来た
暇な店なりに他のお客さんが来た時には
無職の時期があると全てにおいて自信がなくなる。
友達の数も片手で足りる状態になった
その気持ちはよくわかるけど、寂しい。そして気が滅入る。
おばちゃんはそんなこと無視。自分の話したい事だけ話して来る。
「朝ご飯なに食べたの?」「スケートのまおちゃん知ってるでしょ」「こないだ膝が痛くなってね」「そこに○○医院ってあるでしょ」「スマーホって何が出来るの」「私はね、冬が好きなの」
適当に相づち打ってただけなんだけど
俺にとっては、これがリハビリみたいになってた
目の前の人の言葉を聞いて、気持ちのいい返事をする。それだけ。
ただ揚げ足とったり、メタ視点から「お前も同じじゃね?」なんて返事したり、
誤字やら日本語の間違いばかりに目がいったり、陰謀論にこじつけたり、
そういったネット(大部分は2chだった)での歪んだコミュニケーションで染み付いた悪いクセが
おばちゃんに返事するだけ、って時間を繰り返すうちに抜けていって
同世代の人とも昔と同じように会話できるようになった
全員に効果あるとは思わないけど
鬱っぽいヤツはネット文化に触れてないお喋りなおばちゃんと喋ると
改善するかも知れないよ
もしかしたら小説を書いたりするのも同じ効果があるのかもな、って今思った。
思っただけ。試してない。
どっかの誰かの役に立ったら嬉しいな、と思って書きました
私は「料金のしくみについて説明を受けたか?」という意味で貰っていないと言いました。
すいません。
そういう意味ならリハビリのやり方や指導法に関しては説明は受けています。
こんなにカッチリしたフォーマットではなかったような気はしましたが。
厚生省の問い合わせリンクありがとうございます。
厚生省を引き合いに出したのは、
この料金の徴収の仕方のしくみが変だ¥なので医者に文句を言ったら、
市役所に問い合わせてみたら、
この「リハビリテーション総合計画評価料」という決りを作って運用しているのが厚生省と聞いたからです。
電話で問い合わせしようと思っていたのですが、
仕事で平日は無理なので問い合わせできずじまいでしたので、
いやいや、計画の説明受けてないんじゃ、そもそも払う必要無いんじゃないの?って話。
リハビリの計画たてて、計画に基づいて評価するのにかかるお金なんだから。
なんでいきなり厚労省を悪者にしたがるのさ。
質問してみりゃいいじゃん。
貰ってないです。
ただ、貰っていたとしても、
期間として一ヶ月に一回での料金の徴収ではなくて、
日付の月が変わるタイミングで料金を徴収可能とするシステムということに変わりはないです。
この徴収の方法だとリハビリ開始から一ヶ月経たなくても私のように月末にリハビリを始めたりすると、
月をまたぐのでたった三日間でも2回同じ料金を徴収されてしまいます。
期間で徴収じゃなくて、
それは整形外科に行って首の牽引とかのリハビリ治療を行う際に取られる料金。
こないだ1月30日に椎間板ヘルニアで診察してもらって、
腰の牽引の治療してもらった際にこの料金を取られた。
そして、翌日また牽引してもらおうと1月31日に行った時は、
この「リハビリテーション総合計画評価料」というのは取られなかった。
ところが、その次の日の2月1日に行ったら、
一昨日取られたばかりのリハビリテーション総合計画評価料をまた取られた。
「なんで?」
と思って聞いたら月が変わると発生する料金なんだそうな。
「はあ?」
おかしくない?
だったら月終わりに整形外科で診断してもらうと損ってことじゃん。
今現在は離れた場所で暮らしているが、昔から仲のよかった友人がいた。
地元に帰るといつも笑顔で迎えてくれたが、2年前にその友人は大切な友人を事故で失っていた。
当時は彼はショックで毎日泣いていて、食事も取れないほどやつれていた。
友人とは言ってもそれほど仲が深くなかった自分もできる限り友人を慰め元気付けてあげていた。
その後別の友人から「元気になった」との話を聞いて少しばかり安心していたのだが・・・
つい2ヶ月程前、再度地元に戻った折私は事故にあってしまった。
ひき逃げではなかったが、歩行していた時に車にぶつけられ意識を失い病院搬送。
1週間後に意識は回復したが、家族に聞くと重体でかなり危ない状態だったらしい。
脳に損傷があったので右半身に若干の麻痺が残ったが、幸いにもリハビリで回復可能だとの事。
今現在は別の病院に通院しながらリハビリしているが回復は順調で、今月中にも仕事復帰できそうだ。
リハビリ通院中に地元の別の友人が見舞いと称して自宅に来てくれた。
今現在彼は、競艇で1000万円の大当たりが出て豪遊状態だという。
「幸せだね」と友人に言葉を返すと、「それが・・・」と口ごもりながら話し始めた。
実は彼は私の事を理由はわからないがねたんで恨んでおり、近くの神社に行っては私が死ぬようにと呪詛をかけていたらしい。
それと共にお金が手に入る様にと祈願もしていたらしい。
別の友人は彼がその話を笑いながらしていたので、私には話しづらく辛かったと言った。
疑問に思い私は、「私をのろい出したのはいつから?」と聞いたら。
その話をしはじめたのは5年前からだとの話だった。ただ、大切な友人が死んでからはそんな事は言わなくなったみたいだ。
なるほど・・・
願いの半分以上はかなったが、私は死ななかった。
呪詛は叶ったのかもしれないが、何か引っかかった。何せ彼と彼の大切な友人とは恋人になる寸前だったのだ。
人を呪わば穴二つと言うがよくできたものだと思った。
入社して半年、おかげさまで上司に気に入られ、ペーペーから一つ上の管理職へと昇格させていただいた。
今年の正月までニートだったことを考えれば、最低賃金700円弱の地域で1000円頂けるというのは実に光栄なことなんだと思う。
しかし、結局時給が上がるということは責任も増えるわけで、毎日がつらい。
上には指導されっぱなし、下は手が掛かりすぎる。
今が一番つらいときだと、時間が経てば慣れも出てくるはずだ、今踏ん張れ、と自分に言い聞かせている。
正直仕事辞めたいと思うこともある。
でも、だ。
この職に着く前、ニートからのリハビリを兼ねて銭湯のアルバイトをした。
地域の中でも特段利用料が安く、お世辞にも客層は良いとはいえない。
マナーの悪い客も多く、たった数百円で神様気取りの人達も少なくは無かった。
安い時給で良し悪しも判断できない客から見下され、社長すら「お前らは何処も雇ってくれないような低層なんだから、ここで働けるだけ幸せだと思え」と平気で言うような環境。
自分でなくても出来る仕事。いうことを聞けばいいだけのコマ役だ。
こんな安い時給で、従業員も大事に出来ない経営者の下で、お客にこんな扱いをされるのは真っ平だ!
そう思って一ヶ月半で辞めてしまった。
でも、今の仕事はどうだ。
少なくとも、自分を多少なりとも価値のある人材として扱ってくれる。
時給だって決して悪くは無い。
さらに従業員として認め、成果を生むようにサポートもしてくれる。
仕事内容は複雑でマニュアルどおりに行っても成功することのほうが少ない。
常に臨機応変に立ち回り、状況を判断し、そのとき一番良いと思う判断をしていかなければならない。
自分にしか出来ないことを、自分でやっていく権限をもらっている。
自分も若くは無い。
年齢的に出来ないことのほうが多くなってきた。
自分を価値あるものとして迎え入れてくれる今の会社こそ、大事にしなければならないのではないか。
いやになったら辞めればいいと、どこかこの仕事と向き合うことを避けていたのだが、そろそろ本気で腹を括らねばならないような気がしている。
結局、楽に生きていくことなんか出来ないんだ。
本当にそれを、痛感している。
都内勤務なのだが、少し前から、今にして思えば些細なことでうつ病にかかって休職している。
今はだいぶ立ち直っていて、復帰のためのリハビリ段階。
会社に行くわけじゃないが、ちゃんと朝起きて、外に出て、夕方家に帰って、夜遅すぎない時間に寝る生活を続けている。
勤務に支障がない生活が可能だと医師に判断されれば晴れて復帰というわけだ。
で、その中で久々に通勤の真似事もやっているわけだが、これに尋常じゃないストレスを感じた。
そもそものうつ発症の理由だったわけではないが、こういったストレスが積み重なっていたのも原因の一端だったんじゃないかと思った。
言うまでもなくすし詰めの車内。一本逃したら死ぬと言わんばかりにホームを駆ける人々に、
いっそ引っ張れよと言いたくなる混雑なのになんとか押し込んでドアを閉めようとする駅員。
外はもう涼しい季節なのに車内は蒸し暑く、もともと汗をかきやすい体質の俺にはつらい。
座席はおろかつり革を掴むことすら運が必要で、届かなかったら隣に倒れこまないよう神経を尖らせる必要がある。
べつに今は始業時間に間に合わないといけないわけではないから、何本か見送りながら休み休み目的地に辿り着いたが、
休職前はこれを毎日続けていたのかと思うと自分にびっくりするし、今後の復帰も少し不安にならざるを得なかった。
以前はどうやって耐えていたのだろうと思い起こすと、不快感を紛らすために自分を押し殺していたような気がする。
とにかく耐えるために気を逸らすのだ。Twitterでも文庫本でも今日の仕事でも音楽でも自殺願望でもなんでもいい。
「死にたいなーこの電車事故らねーかなー」と頭の中で唱えて小一時間過ぎ去れば、オフィス自体は快適だ。
同じようにホームを歩き、車内に詰め込まれる他のサラリーマンも、多かれ少なかれ自分と似たような体験をしているんじゃないか。
この癌がなくなれば、いや少しでも軽減されれば、みんなもっと気持ちよく働くことが出来るんじゃないか。
そんな当たり前のことに、今になって気付いたのだった。
6年前、父が脱サラしたのを機に、両親は小さな店を開いた。オープン当時、学生だった私は授業の合間をぬってアルバイトとして店を支えていたが、大学卒業後は他で正社員として就職をしたので、現在は主に週末に手伝っている状態だ。
幸い店の業績は順調に推移している。開業時の借入資金は3年目で完済し、5年目には法人成りもした。突き抜けて大きく儲けてはいないものの、近隣の同業種の店舗の中でもトップの収益を稼いでいるようだし、満足のいくレベルの収入も得ている。今の時点ではそこそこ成功している方だと思う。
「やっぱり経営の鍵は‘人’だよ。収益率がどうのこうのというのも大事だが、最後に経営の軸になってくるのはどれだけ質の高い人材を確保できるかだな」
と父は言う。
うちの店では、家族の他に常時30人ほどの従業員を雇用している。全員アルバイトで、正社員は一人もいない。余談だが、正社員を雇えるくらいには余裕が出来た2年ほど前、顧問税理士と相談の上、ずっと働いてくれているオープニングスタッフの内の一人に「うちで正社員にならないか」ともちかけたのだが、条件が折り合わず断られてしまった。なので現在、あまり焦らずに、会社としての実績を積みつつ、もう少し好条件で雇える環境を整えてから改めて正社員化への声かけを行うつもりだ。
アルバイトという雇用形態で求人をかけると、大体以下のような人が募集してくる。家計の足しに働きたい主婦、学費や小遣いの足しにしたい学生、とりあえずお金が欲しいシングルマザーやフリーター、売れない無名の芸能業界人、売れない無名の文筆業界人、不景気でダブルワークをせざるを得なくなった低収入のサラリーマン、世間に出るリハビリ代わりに仕事をしたい元ひきこもりやメンタル関連の病気を患っている人、離婚やDVから逃げてきたりなどで自立しなければならない女性など。
もちろん、アルバイトだからといって、人手が不足しているような時でも、誰でも採るというような適当な真似はしていない。不適切だ、と思った人は淡々と不採用にしている。万が一変な人を雇ってしまい店の中が混乱に陥るくらいなら、人手不足の方がマシなのだ、ということを我が家はこの7年のうちに身をもって学習した。
うちの店では毎回真剣に選考をしている。採用面接を行った日から数日間は、夕食を食べつつ、一家で履歴書を見ながらああだこうだと意見を出し合って採用するか否かを吟味する日々が続く。最終的な人事の決定権は父が握っているが、家族経営の小さな店ということもあり母や私の意見もかなり取り上げてくれるので、私自身も採用した人についてはなんとなく責任を負った気分になる。採用に賛意した身として、また一緒に働く同僚として、その人には出来るだけ長く、かつ良いパフォーマンスで働いて貰うようにしなければならない。
匿名の増田だから自慢するが、私たちは結構人を見る目があるんじゃないかと思う。現在の従業員約30名と既に辞めていった人たちを思い返してみても、とんでもなく酷い人というのはほとんどいなかったし、従業員とのトラブルや従業員同士のトラブルというのも無きに等しい。真面目で堅実でかつお金を稼ぐ必要性のある人を採る、という我が家のモットーは非常にシンプルでベーシックなものだが、やはりベーシックなものが一番大事なのだ。
「うちの店って従業員さんたちには本当に恵まれているよね。みんな優秀だし、よく働いてくれてるし、店の雰囲気もとても良いもんね。」
と母も頻繁に言う。
店で働く学生が進学や就職などでバイトを続けられなくなった時、その親から、後釜としてその子の弟妹をバイトさせてくれないかとお願いされたことが何回かあった。うちの店はきちんとした店なので未成年の子供をバイトさせていても安心なのだそうだ。従業員の家庭から健全な職場として信頼されるのは、とても嬉しい話である。
地域住民からも信頼を得ている手応えを感じている。3年前、近隣の中学校から「総合学習の時間に、こどもたちに職場体験をさせているのだが、そちらのお店で受け入れてもらえないか」という依頼を初めて受けた。以来、毎年、1年に1週間程うちの店には中学生が研修に来る。さらにその中学校からは「PTA総会に地域を代表してオブザーバーとしてゲスト参加してくれないか」という依頼を受けた。出店するまで我が家はその地域にまったく地縁が無かったのだが(自宅は店から車で1時間ほど離れた場所にある)、せっかくなので父は何回か参加させてもらった。ありがたい話である。
さて、話を元に戻す。
採用を議題に家族会議をすると、両親がどのような属性の人を好み、どのような属性の人を嫌うのかを目の当たりにすることになるのだが、それは子供としてはなかなかに不思議で複雑な体験である。我が親ながら「そりゃ偏見だろ。やっぱおっさん/おばさんだなぁ。保守的過ぎる」と文句を言いたくなったり、逆に「えっ、OKなの?案外リベラルなんだな……?」と思わぬ寛容さに面食らったりする。
例えば、父が嫌悪するのは「チャラチャラしているヤンキーとギャル男/ギャル女」だ。脱サラする前は堅めの職業に就いていた影響なのか、父はケバくてナンパな男女が大嫌いである。ガングロや顔面ピアスの人について問答無用で不採用を主張するし、金髪の人には採用の条件として頭髪の色を黒か濃い茶に戻すことを突きつける。さすがに私は「中学校の風紀係じゃあるまいし、いまどき金髪くらい許したれよ」と思うのだが、父は絶対に譲らない。ついでに、ある一定の偏差値以下の学校出身の人は、いくら面接での受け答えが明快で信用できそうであっても、落としたがる。私はこういうケースに関しては短絡的過ぎていかがなものかと思うので、毎回反対意見を言うようにしている。
母が嫌悪するのは「セックス産業にまつわる人」である。以前、面接の場での自己PRで、「私は粘り強いです。なぜなら、皆が辛くてどんどん辞めていくソープで私だけ7年間も働き続けたからです」と堂々と言い切った23歳の女性がいた。私などは16歳からソープ嬢として働いていた経験をPRに話すという所業に度肝を抜かれ絶句してしまったのだが、母は後々までも異様なまでに執拗に彼女に否定的に言及をした。不採用にしたのだから、不快ならさっさと忘れてしまえばいいのに。さらに母は、とある男性従業員が雑談の中でポロリとソープに行ったことがあると漏らしたその日の夜、夕食の場で彼のクビを真顔で主張したことがある。「女の人をお金で買う人が店の中にいるなんて気持ち悪い。売春は違法なのに。ねえクビにできない?」と。確かに売春は褒められたことじゃないがそれは潔癖すぎる、と周囲の男性陣から宥められて母は訴えを取り下げたが(現在ではほとぼりもさめたようだ)、件の男性従業員はまさか自分が影で解雇の危機にあったとは想像もしていないだろう。
では、私の嫌悪の対象とは?
たぶん4年くらい前の話だと思う。父がある日、こんなことを言い出した。
「この前○○さんが辞めたから、その空いたシフトを埋めなきゃいけない。ちょうど新しい人から面接の申込があったんだよ。ただし、今度面接に来た人は外国人なんだ。でもこの仕事の経験はあるそうだし、テキパキしてそうな人だったから雇おうと思う。まぁ、外国人といっても日本で生まれ育ってるから日本語はペラペラだった。在日なんだよ。ああ、在日って知ってる?昔、戦争があったときに朝鮮半島から来た人たちで…」
――――在日。もちろん、知っていた。それくらい知っている。説明されるまでもない。家が北陸の田舎にあり、ほとんど周囲に外国人がいない状況で生まれ育った私だったが、義務教育期間中に歴史の授業で「強制連行」や関東大震災時の虐殺、創氏改名等については習っていた。
さらに高校生のときにテレビで大々的に拉致被害者の報道をしているのも見ていたのだ。小泉首相の訪朝。平壌宣言。「8人の死亡者」。拉致の事実を北朝鮮が認めたと国内に伝わった後「まさか祖国がそんなことをするなんて……!私たちは知りませんでした!!」と大泣きしていた人達。
「世界中に言いたい、日本には来るな!」「哀れな国!」在日の東京都職員が強い声で言い放ったシーンの強烈さも覚えてる。何度もテレビでリプレイされていたから。日本には来るな!日本には来るな!哀れな国!哀れな国!
都内の大学に入ってからは在日というアイデンティティを持つ人をテレビや新聞を通してではなく直接見ることになった。「私の名前はリムです。林(はやし)とよく間違えられますが、リムです。リンでもありません」東アジア現代史を受け持つ助教授(当時はまだ准教授という言い方はしていなかった気がする)は、新入生ガイダンスの教授紹介の場面で壇上から確かそう名乗ったのだった。いつもテレビの向こうの在日の人は大声をあげていたが、この先生は静かに普通に喋っていた。
そして何より、ネットを開けば在日にまつわる言説はいつでも容易にかつ膨大に読むことができるのだし、書籍でも在日に関するものは大量に出回っているではないか。
かねてから経験者を採用したがっていた父は、おもねるような顔をして私を見た。
「国籍は韓国だけど、日本生まれで日本育ちだ。日本人と一緒だよ。なあ、だからいいでしょ?」
日本人と一緒? 本当にそうか? 違うんじゃない?そりゃ人間なんだからどこかしら似てる部分はあるだろうけど彼らは日本に在って日本人と違うところも認めろ、受け入れろ、と言いたいんじゃないの。
高校2年生くらいから大学2年くらいの間、私はあえていくつか在日の人が執筆した書籍を読んでみた。つかこうへいの『娘に語る祖国』。姜尚中の『在日』。鷺沢萠の『ケナリも花、サクラも花』。李良枝の『由熙』。イヨンスクの『「国語」という思想――近代日本の言語認識』。一番最後のイヨンスクの本は大学時代レポートを書くため参考文献として読んだだけだ(難しかったのでそれほど理解できたわけじゃないが)。だが、前者4作は私自身の興味によって自ら手にとったものだった――――書店ではなく、図書館で。なぜか、私は自分のお金でそれらの本を買って自分の部屋にそれらの本を置いておくのは、避けなければならないという気がした。
それらの本を図書館で読み進めるたび、私はいつもイライラを感じた。モヤモヤもした。言葉にしきれないなんだか澱んだものが湧いて出る気がした。リービ英雄の本を何冊か読んだことがあるが、似たようなテーマを扱っていても、在日の人が書く文章に感じる程のモヤモヤやイライラは感じなかった。なんで在日の言葉にはこんなに敏感になってしまうんだろう。
しばらく黙って父と私の顔を見比べていた母が、唐突に聞いてきた。
正直、ぎくり、とした。なんで知ってるんだ?
私は、自分が韓国や北朝鮮や在日というものに対して差別的であることを自覚している。レイシストという言葉を知ったのは中学のときだ。ゼノフォビアという言葉を知ったのは大学に入ってからだった。
そして、差別的であることはいけないことだ、という建前があることも知っている。たとえ心の中で思ったとしても口に出してはならないのだ、抑制的であるべきだ、と。
私はその規範に従順だった。今までどれほど内心はグルグルとしたものを抱えていても、人前では韓国や北朝鮮や在日というものに対して無関心を装い言及してこなかった。学校でも家庭でも職場でもネット上でも。相手から話題をふられれば、当たり障りの無い一般論を返すが、自分からはその話題は出さない。言及してしまえば、ボロが出そうだからだ。しかし、母は知っていた。いや、母だけじゃなくて父も知っていたのか。殊更無関心を装い言及しない態度が不自然で逆にあやしまれたのかもしれないが、なぜ両親が私の胸中を知っていたのかは今もって謎である。
父も母も政治への関心は薄い人だったが、だからこそなのか、あるいは何か別に理由があるのか、私には窺い知れなかったが、とにかく彼らは外国人を雇うことに躊躇するつもりはないようだった。これは私にとって驚きだった。彼らは私よりも約25~30歳ほど年老いているのである。てっきり、私よりも保守的で、私よりも頑固で、私よりも新しいものや外のものを受け入れるのに時間がかかるものだと思っていた。
「在日」「韓国」「北朝鮮」はタブーであって、もし語ってしまったら自分の人間性の醜いところを晒すことになる、という恐怖を抱え込んでいた私は、この話題について語る言葉を持たなかった。自分の言いたいことがなんだかよく分からなかった。だから私は、両親に私の気持ちがバレているのは承知の上で、それでも無関心を装い、いつも通りのあたりさわりのない言葉を吐くしかなかったのだ。
「いいんじゃないの。雇ってみれば」
つづく
顕名でやっている自分のブログで書く元気がまだないので、リハビリを兼ねて、増田に書いてみるか。
私は40代前半のこの歳になって、いままでの人生の矛盾が一気に噴き出してきて、にっちもさっちもいかなくなってしまった。
仕事も手につかなくなり、ニート同然の生活をして数年。貯金も底をつきはじめて、いよいよ自分の人生の方向性を決定しなければならないことになった。
二つほど選択肢はあるのだが、どちらも一長一短で、決め難い。
ここで、選択Aと選択Bとしておこうか。
いままでの自分なら、Bを迷わず選んでいただろうが、最近、加齢に伴う体力の衰えを実感し、また親もめっきり年老いていくのを見ると、ひるむ気持ちがある。
情けない話だが、それも正直なところ。
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退屈な田舎で生まれて、自分と気の合う子供も大人も見つけられなかった。学校の成績だけはよかったが、なんで自分が生きているのか、その意味を見いだせなかった。学校行事も死ぬほど退屈だったし。同級生たちは成績のことで悩んでいたけど、あまり勉強しなくても成績のよかった私には彼らの気持ちを理解するのが難しかった。…そんなこんなで、ほとんど友人もいなかったね。
大学を卒業するときも、やりたいことが特になくて、たまたま内定が取れた大企業に入ったけど、もともとやりたいこともなかったから、すぐに辞めてしまった。その後、アルバイトを転々としながら、IT技術者となって飯が食えるようになったけど、IT技術者も別にやりたいことではなかった。というか、年齢を重ねるごとにつらくなっていった。受託開発の関係者間の調整の難しさは、本当に厳しいね。
ただ、私にはある種「趣味」といえるようなものがあって、それが自分が生きる気力の源になった。それについては具体的には言わないことにするけど、この「趣味」に私は29歳の時に出合った。この「趣味」に没頭している限り、私は生きているという感覚を味わうことができる。
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私は、この半年間、諸事情でこの「趣味」に没頭できない状態にある。そのせいで最近の私はまるで生きる屍みたいになっている。上の選択Bは、この「趣味」に生きる選択肢だ。ただ、この「趣味」はカネばかりかかって、なかなかそれで飯が食えるかというと怪しい。それとは距離を置いて、無難な選択Aに生きるほうが合理的なのもわかっている。
===
…と書いてきてよくわかったけど、やっぱり私は選択Bをとるしかないね。選択Bで生きていけるかどうかはわからないけど、少なくとも選択Aをとれば、この先死ぬまで「生ける屍」状態が続くことははっきりしている。だったら、まだ可能性のあるBで行くしかない。
やれやれ…。選択Bをとるのはかなりいろいろ面倒くさい。自分が年を取ってきたことは認めざるを得ず、以前ほどのエネルギーもなくなってきている。でも、やるしかないんだろうね。いったん、一歩踏み出せばふたたび勇気や元気が湧いてくるかもしれない。そんな気がする。
完全に自分語りで恐縮なんですが、あまりに辛かったのでここに書かせてください。
26歳♂ 。一応ちゃんとした地方の国立大を出てITベンチャーに新卒入社。
ウェブディレクターとしてサービス残業、休日出勤上等という感じで自分なりに一生懸命働くも過労で4年目に心身を病み、去年の12月に退職。
現在、千葉の実家で療養しながら大したお金にはならないけど一日数時間リハビリ程度にフリーランスの仕事をしている。
まだ人に会うのは少ししんどいんだけど、2週間前に何を血迷ったか地元の中学の同窓会に行ってきた。
集まったのは今も地元の近くにいる20人。高卒で家族持ちとか、こういう書き方はよくないけどイマイチな大学出て契約社員とか色々。
同窓会に出るのは久々だったので「お前今なにやってるの?」と聞かれた。
それは適当にやりすごしたんだけど、中学のとき親しかった友人数人には、この2〜3年何があったか伝えた。
それがいけなかった。
「お前身体弱すぎだろ、うける」「PCばっか見てるからだろ。これだからオタクは」
「その歳で実家に引きこもりとか絶対彼女できない。気持ち悪い」
「俺らにいじってもらえるだけありがたいと思えよ」
その他色々言われて散々だった。思い出すのも辛いような言葉も。まじで泣くかと思った。
実家にいるのは病気だったから、といっても全然理解してくれない。仕事を頑張りすぎて心身を壊す、ということが想像できないらしい。
それに自分は引きこもりといっても、仕事してるし社会と接点はある。
とある新興ウェブサービスの運用に携わっていて今も自分のやり方で世の中と関わっている。
それにそもそも、そんなお前らはどうなんだ。リア充気取って偉そうにしてるけどそんな大した人間なのかと。
あと、自分は大学の友達とはよく会うんだけど、そっちの人たちはみんな優しい。
「一年ぐらい働かないでゆっくりしろよ」とか「IT系はきついって言うよね」とか言ってくれる。
地元の友達というか自分の古い友だちは、「この人にも色々事情があるんだろうな」と想像することができない。
自分と異なる価値観の世界にいる人のことを理解しようとしない。村社会的というか。
そういう人の方が幸せなのかも知れないけど、当分は会いたくないなと思った。
2週間経った今も結構辛くて、まだ夜中に思い出してうわあああってなる。
で、その度に大学時代からの親友に電話して気持ちを落ち着かせている。
<追記>
勢いで書いたのに朝起きたらはてブがたくさんついててうわあああってなってる。
「お前が回りを見下していたから嫌われてるんだろ」というコメントもあって、
仮にそうだとしても、比較的仲のいい連中で集まった非公式な同窓会だし……。
一次会終わった後も一部と二次会でカラオケに行ってちゃんと盛り上がったし。楽しいと感じるときもあったし……。
参加時は学歴云々とか価値観がとか全然考えてなくて会いたい友達も何人かいたし、
単純に楽しんで、できれば誰か優しくしてくれると嬉しいなといった風に考えていた、と思う。
多分変に期待しすぎていたというか、なんというか。
あと、前回5年ぐらい前に行ったときはそこそこ楽しかったです。
うーん。
<追記2>
はてブが伸びまくってビビってます。ずっとウェブ界隈で仕事してたけど300超えは初めてです。
優しい言葉をくれた方、ありがとうございます。
また、「お前は何様のつもりだ」とお叱りの言葉をくれた方、ごもっともです。
同窓会でひどいことを言われ、文章に怒りをぶつけてしまいました。かなり一方的な文章だと思います。
やはり自分が精神的に余裕がない状態で参加したことがいけなかったのだと思います。うかつでした。
2ちゃんのラブ嬢プラススレにチラ裏で書こうと考えたが、長文と自分語りが過ぎてウザがられるだけだと思い増田に書く。パチンコ用語ばかりだからわかる人少ないけど別にいいや。
ラブ嬢プラスは平和のパチンコ機だが、説明は省く。スペックは、まあMAXタイプによくある一撃機だと思ってもらえればそれでいい。
激アツすらろくに来ず何事もなかったかのように4万、750回転。やっと1/399の当たりを引くが、50%の抽選に外れる(ヘソからの電サポ次回確変までの確率が50%。残りは電サポなしで潜伏確変と通常が半々)
携帯でセグを確認するとどうやら潜伏確変で、まあ仕方ないと約1/40の潜伏状態で回す。
当たらない。だいたい140回転して当たった時には当たりの出玉もなくなり余裕の追加投資。そして再び50%の抽選に外れる。
ここから計6回連続で、50%の抽選を外すこととなる。そして潜伏も、1度20回転程で当たったが他は全て80回転以上当たらず、潜伏中の投資だけで1万円を超えた。
4回目までは携帯でセグ(確変か通常かわかる)を確認していたが4回目の潜伏中に電池切れ。充電設備のないホールのためセグの確認ができなくなり、この辺で頭がボンヤリとしてきた。
5回目の潜伏(家で確認したところ確変だった。100ハマったけど)はただ確変かどうか不安なまま発狂しそうになりながら打っていた。
大丈夫だろうと思っていた手持ちの予算も1万円を切りそれが精神を更に追い詰めることとなった。
結局6回目の当たり後150回程回した所で手持ちの資金も全て使いきり茫然自失となって退店。今家に帰ってきて通常セグだったことを確認した。
打っているときは実際発狂していた。6回目当たり後通常での激アツ外しの連続(今考えれば30回転以内に激アツ3回外したってのは平和お得意の釣り通常状態だなあ)でボタンバンバンしていて、ホールの他の人には迷惑をかけたと思う。
まあ自己責任だ。50%引けなかったのも自分のせいだし、資金尽かしたのも自分のせいだし、携帯の電池切れされたのも充電してなかった自分が悪い。パチンコ台に当たっても仕方がない。
帰り道、自分はなんで遊戯として楽しむつもりで打ち始めたパチンコで最終的に発狂して茫然自失になっているんだろうとふと冷静になって色々考えた。
パチンコを打っている時の自分は猿だ。何も考えていない。そして帰り道も、今日は勝った負けたとボンヤリ回顧しながら帰宅するだけだった。
しかし今日の結果を受けた帰り道、やたら頭が巡り色々と考えることが出来た。そして認識できた。パチンコを打っている自分がどんどん思考停止してバカになっているということを。
思考停止したバカだからパチンコへ行こうという気持ちを止めることができずホールへ足を運び、思考停止したバカだから何も考えずボンヤリとサンドへ金を突っ込み、思考停止したバカだから勝っても負けても明日もホールへ行こうという気持ちに異議を唱える脳がない。
思い当たる節はある。最近自分の集中力、そして思考力が目に見えて落ちてきている気がしていた。仕事をしていても頭の中はパチンコの脳汁が出る()と言われている演出や連チャンする想像ばかり。そして実際ここ最近ほぼ毎日ホールへ足を運んでいる自分。
さらに、アニメを見たり本を読んでも、まったく感動しなくなっている自分がいることにも気付かされた。泣けるストーリーより確変大当りして玉がドバドバ出るほうが感情が高ぶる体になってしまっているのだ。本当に思う。バカじゃないの。
今日の帰り道は久々に色々と頭が回った。例えば時間の無駄な浪費とかかな、色々な反省点が出てきた。少し目が覚めた気がする。その回る思考で出した結論で、帰宅後嫁に自分のキャッシュカードを一時的に預かって欲しいと手渡した。
とりあえず自分の手元に現金を置かずにホールへ行けない状態にはした。今はこんな糞みたいな文章書くほど自省しているが、一晩寝たら「どうやって嫁に嘘ついて軍資金得ようか」とばかりボンヤリと考える思考停止状態に陥る事は十分に考えられる。
偉そうに言うがパチンコ依存とはそういうものだと思う。今やっと少しだけ目が覚めそうな状態になれた。ありがとうラブ嬢プラス。2ちゃんでひたすらこき下ろすつもりだったのに感謝してたとはどういうことだ。
最早自分はパチンコ依存によって失われた感情と思考力を取り戻すリハビリが必要なレベルだと今は考えている。また依存状態にならないよう何かできないか考えたリハビリの1つが、文章に書き起こすことだった。
下手くそな文章をここまで読んでくれた人、ありがとう。よければ、パチンコの魅力に勝てるような面白い本やアニメを教えて下さい。
二日酔いにより目覚めは最悪。
隣のテントで寝泊まりする人々と軽く会話するも、気分悪すぎてどうにも調子が出ない。
前日多大なる迷惑をかけた方々とYo La Tengoにて待ち合わせをしていたため、けだるい体に鞭を打ち、なんとかグリーンステージへ。
3ピースながら曲ごとにパートチェンジを行うという器用さを見せつけていた。
そして極めつけはこれぞ90's USオルタナ!って感じのノイズギター。
しかしながら全体的に音量不足で、折角のノイズギターが後ろまで届いていなかった。
普通のアメリカ人が、まるで灰野敬二かのようにノイズギターを弾きまくる姿は面白かった。
今年一月に「ガンとはもう闘病しないことにしました!おそらく最後の来日!」と称して南青山レッドシューズにて行ったライブは記憶に新しいが(行けなくて口惜しい思いをした)、なんとフジロックでは二回もステージに立っているではないか!!
前日深夜にはクリスタルパレスでもライブを行なっていたが、入場制限&長蛇の列で諦めた。
満を持して迎えたグリーンステージでのライブだったが、期待通り演奏されたのは全てドクター・フィールグッドの曲!
演奏内容も、ウィルコ・ジョンソンが歌っているだけで他は昔と変わらず。
ギターソロではキチガイ風ダンスをし、ライブはJohnny B. Goodeで終わるところまで、私が普段聞いている37年前に録音されたライブ盤とほとんど変わらず。
ライブ中盤では、女に見立てたギターを抱きしめ語りかけた後に腰を振り始めるなど、元気すぎる一面すら見せていた。
・Jazzanova feat. Paul Randolph
実はJazzanovaを見るのは本年二回目であり、前回はチケット3500円のフェスにてDJの横でPaul Randolphが歌うだけというクソみたいなライブであった。
今回はちゃんと管楽器も含めた10人編成であり、迫力の生演奏。
安定感抜群のJazzanovaの演奏がなかったら憂鬱すぎてどうにもならないほどの豪雨もなんとか精神的にはしのげた。
そして、改めて日本のバンドに足りないのは電子ドラムのパッドだなぁと痛感。
もちろん、テクノロジーによって表面的な個性を演出するのは本質的でないが、Jazzanovaの様にフィジカルなプレイとテクノロジーを共存させているバンドを見る度に電子ドラムや管楽器へのエフェクター使いなども選択肢として考えるべきだと感じる。
・Toro Y Moi
今年のフジロックで一番期待していたし、期待を裏切らないベストアクトだった。
直前に見たJazzanovaと同様にフィジカルなプレイとテクノロジーを完璧なバランスで共存させているバンド。
予習としてライブ映像を見た時から上述のバランス感は素晴らしいと思っていたが、生で見ると改めてその完璧さに惚れ惚れとしてしまった。
編成はToro Y Moi本人がボーカルキーボード、そしてギター・ベース・ドラムという四人組であった。
そう、編成だけ見ると通常のロックバンドとなんら変わらないのである。
しかし、この4人によって生み出されるサウンドは現代版にアップデートされたディスコサウンドであり、編成からは想像もつかないものだ。
どのようにしてそれが達成されてるか考えてみると、ギターの役割が象徴的であったように思える。
というのも、通常のロックバンドにおいてギターはリズム(バッキング)ギターもしくはリードギターと呼ばれることが多いが、Toro Y Moiにおけるギターはその両者とも言い難い役割を果たしていた。
つまり、通常のロックバンドにおいて固定化されている、パートごとの役割が解体されてつつあるのだ。
それはまるで「ジャコ・パストリアスはバンドにおけるベースの立ち位置を変えた」といわれるように、ロックバンドの様式をアップデートするものだ。
いやー、Toro Y Moiまじですごいよ。
Toro Y Moiはチャズ・バンディックによるソロプロジェクトなわけだから、バンドはワンマン化してもおかしくないはずが、ライブでは個々人のプレイアビリティが絶妙に生かされていた。
この点において後述するThe XXとは対照的。
The XXはバンドの形式をとっているにも関わらず完全にJamie XXのワンマン化していた。
ワンマン化というのはつまり、他のメンバーは言われたとおり楽器が弾ける人なら誰でも代替可能ということ。
実際は曲作りの段階であったり人間関係の上で代替可能なんてことはありえないのだが、ライブ演奏においてはワンマン化していた。
さらに言えば、フィジカルなプレイとテクノロジーのバランスという意味でも、The XXはテクノロジー寄りで、ステージに立っている人間は割と置物寄りと言わざるを得ない。
そんな感じで最高だったToro Y Moi、唯一ケチを付けるとしたら演奏が予定より13分も早く終わってしまったこと。。。
やはり、PCで作成した曲をバンドアレンジしているため、持ち曲が少ないのだろうか。
そういえば余談だが、Toro Y Moiのルックスは若かりし頃アフロだった釣瓶にそっくりであるということに気づいてしまった。
個人的にはツボな発見だったのだが、どうやらこの話はウケが悪いようなのでここまでにしておく。
とりあえずEasyという曲が完全に小西康陽サウンドだったのと、Heartbeatの時だけ盛り上がりが尋常じゃなくその他新曲中心の演奏はウケが悪気味だったのは覚えている。
あと、レッドマーキーは屋根があり、音が篭っているためしゃがんでしまうと上ものが全く聞こえなくなってしまうことに気づいた。
恐らくTAHITI 80はボーカルの声も高いし、上ものたちがバンドの個性を演出しているから気づいたんだろう。
まぁHeartbeatはよかったよ。
文句をつけるとすれば、カッティングギターの音作りが悪かった。弾くのが下手くそなのと相まって、16分のカッティングが全然気持よく感じられない。
・Vampire Weekend
ライブ音源を聞いて知ってたけど、A-PunkはCD音源よりもテンポが遅く踊るにはちょいと物足りない感じ。
CDでは1stのヌケ感がだんだんなくなって壮大な曲作りになってしまい残念だなーとか思っていたが、いざライブで聴いてみると初期の曲ですら壮大に感じられ、「なるほど、もともとこういうバンドだったのか」と思わされた。
Vampire Weekendでも上述のバランス感は感じられたが、Vampire Weekendは従来のバンドであり、やはりゼロ年代のバンドという感じ。HURTSもTAHITI 80もそう。
そういう意味ではJames Blakeとかもやっぱり10年代を感じさせる。
・LETTUCE
大学の先輩と合流し、The XXまでのつなぎとして一応見る。
ジャズファンクとかあんあり好きじゃないんすよねーとか言いつつ見ていたが、思いの外よい、というかよさがわかった。
あの手のものは工芸であって美術じゃないだよなーみたいな風に思っていたのだが、ギタリストは芸達者で素晴らしかった。
でもやっぱり管楽器とかはどれも同じに聞こえてしまう。それは単に自分がやってるかやってないかの違いかもしれないが、Jazzanovaみたいにエフェクトかけてみたりすりゃいいのにーとか少し思ってしまう。
とはいえ全体的に楽しく、アパッチを演奏し始めた時にThe XXへと移動したのだが、なかなかに後ろ髪を引かれてしまった。
・The XX
上述したが、Jamie XXのワンマン感がすごかった。
どういうことかというと、フロントでは女性ギタリストと男性ベーシストが共にボーカルをとっているのだが、それぞれ楽器の演奏はしていたりしていなかったりという感じ。
対照的に後ろにはMPCが二台、電子ドラムパッドが4つ、シンバル、スネア、極めつけにはスティール・パンが並んでおり、これら全てを演奏していたのがJamie XXだ。
バンドの世界観をショウとして演出するという面では完璧だった。
全員恐らくKOMAKINOの服を着て、ステージは照明を落とし、白いフラッシュとレーザーが空間を埋める。
すごかったのは、レーザーを反射させてステージ全体に広がるスモークの中に巨大なXを描く演出。
そういえばホワイトステージにおいても聞く位置によるサウンドに良し悪しは顕著で、ちゃんとした音で聞こうと思ったら人混みをかき分けてセンターのPA前くらいまではいかないとダメだなと思った。
最初は左サイド後ろで聞いてたが、これではモノラルイヤホンで聴いているようなものだ。
まぁ屋外フェスで音がどうこうとかうるせーよって話だが。
なんとアンコールを40分もやって日付が変わっても演奏し続けていたそうで。
The XXが終わってから戻ってきてもゆうに30分以上見られましたし、ちゃんとBoys don't cryも聞けた。
個人的にはメンバーのルックスが気になってたのだが、白髪をワックスで固め昔と変わらぬ化粧を施したボーカルの姿はそれだけで泣けるレベルであった。
演奏に関しては、CD音源をハイエンド・オーディオで聴いているかのような解像度で驚いた。
各楽器の音が完璧に分離しててすっげーと思いながら踊っていた。
・GOMA and The Jungle Rhythm Section
ディジュリドゥ奏者GOMA、ドラム、ジャンベとコンガ、その他パーカスみたいな4人編成。
ディジュリドゥは普通にすごいんだけど(循環呼吸が必要で、音出せるだけでちょっとすごいらしい)、ずーーーっとアフリカンなパーカスたっぷり4つ打ちで若干退屈であった。
しかしこれまたしゃがむとディジュリドゥとキックしか聞こえないというw
部分的に聞けばめちゃくちゃ踊れるし最高なんだが。
そういえばGOMAさんは未だ高次脳機能障害のリハビリ中であり、MCはカンペを見ながらだった。
GOMAさんが音楽の力を信じて病と戦うというか克服していく様はドキュメンタリー映画にもなってるし、インタビューとかで読んでも普通に感動できる。
・Jamie XX(DJ)
The XXの曲もかけつつアフロビートとか80'sディスコとかまでかけて見識の広さとセンスの良さを見せびらかすかのようなDJ。
こいつあってのThe XXだよなーと感じさせる。
・石野卓球
富士山とかかけるのかと思ったら、おふざけ要素一切なくガチテクノをストイックにかけ続けるDJスタイルだったので途中で退場。
僕のフジロックはここで終わりました。
途中でCan you dance tonight?という声ネタを何度も挟んでいたが、もう既に朝だったw
俺よくここまで頑張ったよ…と思いつつテントに帰る。
まだうまく話せない、伝い歩きしかできない。咀嚼がうまくできないその子に対して
自分ではできないので、プロの理学療法士や作業療法士や言語聴覚士に自分の子を「ちゃんと」「普通に」して欲しいんだと。
主治医は、親の気持ちを壊さないように、医療機関でじんわり自閉症を受け入れていく誘導の必要があると判断していた。
でもねでもね。
はっきり言って小児リハビリ病院は満員で、しかも自閉症を治療するようなリハプログラムなど設定がない。
よって紹介どころか、受け入れさえもしてくれないのが現状
そもそも自閉症は治らない。無理してひとつの動作ができたとして、そんなもの親のエゴでしかない。
無理やり強制練習させられて、できればもっともっと、と厳しく締め上げられるように行われるリハビリ??
ナンセンスです。
そんな施設ないです。
杖をついた老人が、キャンプできるくらい元気になるリハビリがないように、その人それぞれにあったプログラムがある
これが必要。
子供に帰れ。
飯を食べて太れ。
お母さんに添い寝してもらえ。
また服買ったり、運動したり、バイトしたりしたいと思える日がくる。
必ず来る。
私も、就活鬱、自殺未遂、解離性記憶障害(たしかそんな名前の病気)だった。
最終面接までは何社かこぎつけたが、結局100社ほど落ちた。
詳しくは省くけど、あなたとよく似た状況だと思う。
いまだって、そう思ってる節はあるけど、ちょっと大袈裟だったと思う。
大学は休学した。
結局一年引きこもった。
ちゃんとご飯を食べれるようになってきた頃、リハビリがてら社会的に免責されそうな資格を撮ろうと思った。
特に欲しいと思った資格ではなかったけど、必死で頑張って色々忘れようとした。
いきなり始めると、ストレスがかかるらしくて、過食で10kg太った。
資格も取れた。
大学に復学して少したった頃、電車に乗っていたとき、突然それは起こった。
隣に座った60代位の紳士の指に、鈍く酸化した銀の結婚指輪がはまっているのをみた。
瞬間、その人の長い愛の歴史に気づいて、なんかよくわからんけど涙が溢れてきた。
アホなこととか考えて、涙を止めようとしたが止まらなかった。
次の駅で降りて、ホームで涙が止まるまでポカリを飲んだ。
あり得ないくらい景色が眩しくて、それから一週間くらい見えるものすべてに感動した。
生まれ直したみたい。いま考えるとおかしな話だけど。
大学生活最後のころから自活したくて、接客業のアルバイトをしている。
お客様のありがとうが染みる。接客業なんてあんなにやりたくなかったのに。
体脂肪率40%のくそでぶだが、最近ジムに通い出して、少し痩せた。
物欲もでてきて、昨日パルコのセールでワンピースを買ってしまった。
いまだって就活していたときの記憶は曖昧だ。ひとに話せる過去じゃない。
でも、生きている。自活できている。あと少しで正社員になれる。
結局、社会で受けた傷は社会で役立つこと、活動することでしか癒せないと思う。
■追記
まさかはてブされるとは思わなかった。人に言えない過去がすこし洗われたきがします。
就活した時は接客なんてブラックだと思っていたけど、そうでもない会社も存在し、巡り合えたことはありがたいと思っています。
その場で書いた文章で、自分語りばっかだった思うのでアドバイスをみっつほど。
空っぽになった人が、いきなりバイト用でも履歴書書いて面接に行くことはできない。
私は、少し前までは履歴書前にすると涙で視界がにじむし、呼吸が荒くなったり手が震えたりした。
いきなり社会に出るのは無茶なので、ほかの人が書いているような職業訓練所なり大学なりで慣らしが必要。
間違えても許される、毎日出席しなくても大丈夫なリハビリ環境として大学はもってこいなので、中退ではなくて休学にしたほうがいいと思う。
次に、ちゃんとごはんを食べたほうがいいと思う。
私は拒食になったので筋肉がなくなり、そのあと過食したので脂肪になって体についた。
くっそでぶになると痩せるのに苦労するし、見栄えも良くない上に、頑張る体力も無くなってさらに精神的に負担が掛かる。
せめて筋肉を生命維持カロリーとして削らないように飯はちゃんと食べるべき。飯は美味い。
私は羨望と焦りと劣等感で就職した友達との連絡を絶った時期があった。心配してくれた友達には申し訳ないと思っている。
そんな人間として終わっている私に、連絡をくれつづけた友達がごくごく少数だがいた。(私に見切りをつけた友達もたくさんいた。)
具体的に言うと、まずは「俺は両親のことで劣等感をため込んだり思い悩んだりしない」という決心をした方が良い。
実際には縁を切るのも難しいだろうしつきあいはあっても良い。でも、それで色々苦痛を覚えなくても良い。俺だって苦しいのはいやだけどどうしても感じてしまうんだ! って思うかもしれないけれど、「もう感じない」って決心するだけでけっこう変わる。そもそも苦痛は増田の義務ではないし、そんな事で苦しむ必要はあなたにはない。別に増田が苦しんだって、増田も両親も含めて、世界中の誰も得なんてしない。
関係ないって思って良いんだ。そんな事で悩むのは俺の人生の目的じゃない、俺はそんな事はしないよって捨てて良いんだ。時間がかかるかもしれないけどすぐにでもこれははじめられる。
2番目のステップ。
大事な人とかありがたい人にはさっさとそれを言葉で伝えた方が良い。たぶんだけど増田の両親はそれがとてつもなく下手なのじゃないか。そしてそれは増田も同じ教育を受けている。そんな伝統はさっさと捨てて、自分のポジティブな感情はさっさと伝えた方が良い。とりあえず大事な人とかありがたい人には感謝を伝えるべき。
手始めに祖父母はどうだろうか。大学の時は援助してくれて非常に助かった。そのおかげでいまは安定した暮らしが出来ていると伝えるのが良いと思う。一度伝えたことがある手土産が無いと失礼とか距離が遠いとかそういうことじゃない。感謝や好意を伝えるのは相手のためじゃない。増田自身のリハビリのためにも意識してやるべきだ。
増田はしつけの良い普通の家庭に育った友人達の暖かさについて触れてるけれどそれは獲得不可能なものじゃない。彼らは子どもの頃からそういう感謝を自然にやってきて増田はスタートでちょっぴり出遅れただけだ。まだまだ人生の先は長い。ありがとうも言えないで壁を蹴り飛ばす中年になるのはとても不幸なことだ。孤独な老人になって余生を送るのは増田にとって先が長すぎる。
大事な人とかありがたい人に感謝を伝えられたら身近な人の日常のさりげない美点を探すと良い。「わざわざ探すのはなんか偽善っぽい気がする」かもしれないけれど、これはすべて訓練なのだ。自分のためにやってるんだ。偽善でも良いんだ。むしろ善悪とは関係なく、自分の将来を幸せにするために他人を利用させてもらってるくらいで良いんだ。相手の良いところを探して、なにかしてもらったら感謝の言葉を言うだけで良いんだ。その当人がいないところでも「あいつは、これこれこういうところが良い点で、実は目立たないけどこういう美点があるんだよ」って言って良いんだ。人間はそういう目で見れば増田の大好きだったゲームと同じくらい面白いんだ。ちゃんと歴史があっていろんな理由で動いてるし、それらは背後で繋がり有ってるし。
それに感謝は往々にして手遅れになる。言えるうちに言っておいた方が良い。次の機会はないことの方が多い。メール一本出すだけで良いんだ。たいしたものじゃなくて良いんだ。
三番目。増田は非常にコンプレックス持ってるしそれはすごくよくわかるんだけど、家族はもう一回作れるんだ。
だって、もし、悪い親子関係が遺伝のように、あるいは毒のように伝播して、増田が人を愛せない人間になっちゃって家族が作れないのだとすれば、確率的にみてとっくに人類は滅びてる。一回ダメな家系になったらその子孫は全部ダメなんて有るわけがない。
ここで言う家族は結婚をして子どもを産んでということには限らない。一緒の家に住んで隠し事が出来ない至近距離で人間関係を長期間維持できればそれで家族だ。それは、もう一回作れる。
最初っからハードルあげなくても良い。友だちとどっか遊びに行ったり旅行に行ったりとかでも良い。というか友だちじゃなくたって良い。同僚程度で言い。どうせ「どのラインから先が友だちか?」なんて設問に明確な答えを返せるやつなんかいやしない。後から振り返って「ああ、あの時俺らは友だちだったんだな」なんてよくあるし、社会人における友だちづきあいはそんなに親密でもべったりじゃなくてもあたりまえだ。
ともあれ、家族はもっかいつくれる。ステップ1とステップ2を5年続けてみてほしい。ぜひ。それらをやる前が思い出せなくなるくらい自然になったら、家族を作る準備が増田にはきっとできてる。いまから5年じゃ適齢期に間に合わないと思うかもしれないけれど、歩き出さなければゴールもない。増田は大学進学から世界が変わったんだとおもう。もう一回世界を変えても良い時期じゃないか。
家族って言うのは、それが悪い記憶であれば、スティグマのように残っていつまでも苦しめてくるけれど、上書きできないものじゃない。上書きしながら前に進むエンジンにもなり得る。
もちろんこの時代だから結婚や家族が人生のすべてではないと思うけれど、でも確かなのは、増田が家族の記憶にいつまでも苦しめられる必要はないって事だし、家族の記憶は新しい家族の記憶で上書きも祝福も出来るって事だ。
なんだか、非常に乱暴な記事になっちゃったけれど、似たような人生を歩いた年寄りの書き込みでした。望めば絶対幸せになれるよ。
以下は釣り。
*
自分は先年、事故に遭ってベッドで寝たきりの生活を半年近く続けた後3ヶ月リハビリして、先日やっと退院できた。
もう一生走れなくなったし足先には(おそらく)一生痺れが残るらしいが、でも自力で立って歩けるところまでは回復した。
トイレがちょっと不便で、男なのに立って用が足せない(和式便器は二度と使えない)のを除けば、日常生活にもそんなに困ることはない。
でも、いわゆる不能になった。
医者によるとこれもおそらく元に戻ることはないそうだ。
自分は“彼女いない歴3*年”の人間(いわゆる非モテ)な上に風俗に一度も行ったことがない人間だったので、結局一生リアルSEXを
しかしショックはあまりなく、ただ「人生って残酷だけど面白いな」ということだけが頭をめぐった。
今はこの「肉体が反応しない性欲」を楽しんでおります。
性欲って肉体と直結してない、つまりは生理的欲求や本能ではないんだなということを身を持って知った。
そういうものらしい。
*