「自己意識」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 自己意識とは

2017-10-15

安倍氏 (奥州)

Nuvola apps important orange.svg

この記事には複数問題があります改善ノートページでの議論にご協力ください。

出典は脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2015年8月

脚注による出典の参照が不十分です。脚注を追加してください。(2015年8月

安倍氏

No image available.svg

本姓 安倍氏

家祖 安倍忠頼

種別 武家

出身地 陸奥国

主な根拠地 陸奥国衣川

凡例 / Category:日本氏族

安倍氏(あべ し)は、平安時代陸奥国(後の陸中国)の豪族

目次 [非表示]

1 出自

1.1 「俘囚長」を巡る議論

1.2 軍事貴族としての安倍氏

2 前九年の役安倍氏の滅亡

3 末裔

4 系譜

5 脚注

6 参考文献

7 外部リンク

出自[編集]

そのルーツは明らかでない。

神武天皇に殺された畿内の王長脛彦の兄安日彦をその始祖とする説。『平泉雑記』が伝える安倍氏自身の家伝によれば、安日彦津軽亡命をもって安倍氏発祥としている。「藤崎系図」にも同様の記述が見られ[1]、真偽は別にして安倍氏の後裔はそのような自己意識を持っていたことは確かである。ただし、長脛彦を出自に関連づけているのは、平将門藤原純友の後裔と称した武家が多数発生したのと同様に、武勇を尊んでの仮冒の結果とも考えられる[2]。

奥州に下った中央豪族である安倍氏のいずれかが任地で子孫を残したとの説。秋田蝦夷の帰順を得た阿倍比羅夫につながる系図もある[3]。これを受けて、明治期に編纂された華族類別録で安倍氏の子孫は、土御門家等阿倍氏と同じ孝元天皇皇子大彦命の後裔である位置づけられている。また、鎮守府将軍安倍比高の後裔とする説がある[4]。

奈良時代陸奥国勢力を広げた阿倍氏から陸奥南部の諸豪族阿倍を冠した複姓(阿倍陸奥臣・阿倍安積臣、ほか)を賜与され支配関係を築かれたが、その子孫との説。ただし復姓下賜が奥州南部にとどまり奥六郡のような北部に及んだ例がないこと、奥州安倍氏にはこのような復姓を称した伝承が全く伝わっていないことをもって否定する見解もある[2]。

朝廷に従った蝦夷俘囚)とする説。後世の研究では、蝦夷アイヌ祖先と同一視する立場からabeapeと読み替えて完全な土着の先住民とみる説もある。

俘囚長」を巡る議論[編集]

安倍氏俘囚長俘囚の中から大和朝廷権力によって選出された有力者)であったとの説が広く流布している。文献上では、康平7年の太政官符に「故俘囚安倍頼時」との記載がある。

軍事貴族としての安倍氏[編集]

従来、安倍氏東北地方の在地の土豪と捉え、前九年の役中央による辺境支配への反乱と見る解釈が主流であった。しかし近年の軍事貴族研究の進展とともに、安倍氏王朝国家特有の「兵(つわもの)」[5]と見る考え方が登場している。

関幸彦は、平氏源氏秀郷流藤原氏のような中央貴族の末流の軍事貴族とは別にして、在地の土豪中央権力に従って軍事貴族化したもの存在したであろうと指摘し、安倍氏もこの中に含まれるのではないかと論じている。その傍証として関は、『陸奥話記』において安倍頼時が「大夫五位官位を持つ者の通称)」と呼ばれていることを指摘している。一方で、安倍忠良が陸奥権守に任命された記録を理由に、中央官人末流とする説もある[4][6]。また、元々は京都から下向した官人出身である安倍氏祖先が現地の有力者(俘囚末裔)の婿となってその勢力を引き継いだのが奥州安倍氏の始まりで、在庁官人であった平永衡藤原経清安倍氏の婿となってその勢力基盤を築いたのもそれと同じ構図であるとする説もある[7]。

前九年の役安倍氏の滅亡[編集]

安倍氏婚姻などによって勢力を拡大し、忠良の子安倍頼時の代に最も勢力を広げた。安倍氏は奥六郡(現在岩手県内陸部)を拠点として糠部(現在青森県東部から亘理・伊具(現在宮城県南部)にいたる地域に影響力を発揮していた。しかし後に頼時が朝廷対立し、源頼義率いる官軍との間で前九年の役が起こる。頼時は途中で戦死し、その後を子の安倍貞任が継いだが、仙北俘囚清原氏が度重なる頼義の要請に応えて参戦すると支えきれず安倍氏は敗れ貞任も戦死して安倍氏勢力を失った。

頼時の三男・安倍宗任、五男・安倍正任はそれぞれ、伊予(のちに筑前宗像)、肥後に配流された。また、亘理宮城県亘理町)の豪族で、安倍氏に加担して没落寸前となった、奥州藤原氏当主藤原経清の妻となっていた頼時の娘(有加一乃末陪)は清原武貞の妻となり、息子(後の藤原清衡)も武貞に引き取られ、養子となった。清原氏安倍氏地位を受け継いだが、後三年の役で滅亡し、清衡がその地位継承して奥州藤原氏興隆することとなる。

末裔[編集]

奥州藤原氏最後当主・泰衡の次男秀安から良衡→信衡→頼衡と続いた後、頼衡嫡男・孝衡から安倍氏を名乗り、現代まで血筋が残っている。

他にも、安倍貞任の子孫を名乗る津軽安東氏安藤氏、その後裔で戦国大名秋田氏、安倍宗任の子孫を名乗る九州松浦党がいる。総理大臣経験者としては米内光政安倍晋三安倍氏末裔自称している。

https://ja.wikipedia.org/wiki/安倍氏_(奥州)

岩手には安倍姓が結構いるらしく声が安倍普三と似てる安倍がいて殺したくなったことを思い出す

2017-08-17

意識高い友人が車メーカー調達職で悪魔に魂を売っていた

もう何年か前の話になるけど,とりあえず書き出してみる.

ある程度脚色があるけど,どうせ増田だし皆さんの信じたいところまでお読み下さい.

あらまし


新卒就職して1年位たったある日,学生時代の同期たちと飲み会があった.

そこに,世間一般にいうところの意識高い系学生生活を送った文系女の子がいた.

の子は,国内自動車メーカーで,国内の協力会社相手とする調達職をしていた.

 

 

飲み会の途中で,各自が今やっている仕事の話になった

の子は,調達価格を下げて事業に貢献していると言っていた.

「今年は去年よりも値下げ率上げられたの?」と聞いてみると

「下げられた.下請けに買わないよって言うと下げてくれる」と.

 

 

下請企業の存続を左右できるほどの発注量のある企業が,

発注の停止を提示して値下げ要求することは,買い叩きとして下請法で禁じられている.

「以前から継続して発注してる部材を一方的に買い叩くのは違法じゃなかったっけ?」

「えーそんなことないよー,だってあの人達ウチらいるからやってけてるんじゃないの?」

 

 

自分は車に対しては下位サプライヤーとなる,基幹部品寄りの企業に勤めている.

『そういう立場にある発注元が,値下げを強要するのが違法だ』という言葉を飲み込み,

その日の会は和やかにお開きとなった.

この日感じた違和感


自動車メーカー調達にちゃんとした教育をしないのかよ」といった思いよりも,

彼女がとても生き生きと,下請けの値下げの話をしていた事が気になった.

 

 

しかしたら,彼女は,「下位カースト人間」を

与えられたから,あんなに生き生きしていたのではないだろうか. 

意識高い系努力教産業構造の融合

 

努力教人間は,「努力をしてこなかった人たち」に対しては,いくらでも残酷になれる.

彼らにとって,海外の貧しい人たちは,めぐり合わせの悪かった「施すべき人たち」だが,

国内にいる下位カースト人間は「努力をしてこなかった人たち」だ.

 

 

もちろん,努力教自己意識が有ることと,自分が実際に努力してきたことは別問題である

まれ環境によって,満たされた地位にある大学生は,学生活動()等を通じて,

互いに努力しあっている(切磋琢磨している!)集団演出し,自分以外の学生や,

他の集団に対する優越感を得ているように感じる.

 

 

彼女は,海外留学経験もあり,国際理解が深く,それなりに教養もある.

それは,現在日本では,恵まれ環境に生まれ育たなければ,与えられないものではあるのだが,

彼女は現状を「自分努力で獲得した」と思いたかったのではないか

   

  

そして彼女は,下請けに対して「努力をしてこなかった人間自分らが施している」と認識したのではないか

零細のサプライヤは,努力をして来なかったから現状があると思っているのではないか

そして自動車メーカーは,彼女自意識を見抜いて,現状を肯定してやり調達職として利用したのではないか

そんな疑問が,年月のたった現在でも,湧き上がってくる.

 

 

意識の高い若者が,得られなかった優越感,選民意識を,下請けと言う名の「下位カースト」を与えてやる事で満たしてやる,

これは,自動車に限らずサプライチェーン上位のメーカーとしては,全く適材適所の采配だ.

きっと,下請けに対していくらでも残酷になれると思う.薄ら寒い

2017-04-18

http://anond.hatelabo.jp/20170418233011

おっしゃるとおり、奴らは「自分は偉い、周囲が私に尽くすべき」って思ってると思うよ

でもそんな物言いしたら支持されないどころか、クソミソにぶっ叩かれるに決まってるだろ?

からあいつらもそんなストレート物言いはしないわけさ、

私たちは困窮している、そして社会私たちを助けるべきだ」っていう理屈に持っていくわけだ

そのためには弱者的な属性を持っていた方が遥かに都合が良い

でも「自分は偉い」という自尊心だけは絶対に譲れないから、

私たちを助けてください」とは死んでも言えない、

私たちを助けるべきだ」ってなるわけ

確かに間違いなく選民意識はあるとは思うが、

案外自己暗示かけてて「私たちこそ社会から虐げられている被害者」という自己意識に半ば浸かってるんじゃね?という節も随所に見受けられる

指摘のとおり、男性社会から虐げられているという鬱屈とした精神もあるだろうな

からあんだけ捻くれ曲がった要求を平気で通せるんだと思う

結局のところは、

「私は偉いはずなのになぜこんな惨めな思いをしなければならないのだ!」という中二病的全能感からくる勘違いってことじゃないのかね

エリート意識を持った無能ほどこの世で惨めな生き物はないのだが、

その惨めさから必死で逃げるために、

あいう「社会運動」に血道を上げてるんじゃねえか?

2017-01-28

http://anond.hatelabo.jp/20170128005434

この増田についたブコメがひでえな

言葉遣い文体おかしいからただひたすらそれだけ批判して済まそうとしている

日本死ね死ね部分を責められたら顔真っ赤にしてそれだけ強い言葉を使わずはいられないくらいの深刻な問題からです!!とか逆ギレしてたのにな

煽り調なのが問題なのかと言えば、いつもいつも意識高いだけでなく必ず相手手斧で殴り続けてきたはてなーが言えた義理では全くない

まあ結論、この増田の言ってることがあまりにも図星過ぎて、

お薬出しておきますねーという精神障害者差別コメント論点ずらしするしかないわけだ

ってかさ、はてなーってこのPTA問題に限らず、この増田批判にことごとく図星ハマってね?

愚痴を言うだけで建設的な解決策の行動にはなんら出ようとしない、

あまつさえその愚痴スターを付けて互助会結成してお互いのダメさ加減を庇い合うという

自分がどれだけ無能人間なのかという現実から逃避しているクソ野郎集団しか言いようがない

しかも、その人間もの自己意識は「正義感意識の高い知的なアテクシ」という救いようのないもの

まあそれぐらいの妄想に浸らなければやってられない現実の中にいるからこそ、なのかもしれんが

まあ元増田よ、

あんバカどもを弱い者いじめしないようにな

私も言えた義理ではないが

2016-03-07

死にたくない

疲れた疲れたしか浮かんでこない。倦怠感で何もやりたくない。疲れた。三十年くらい寝ていたい。白い壁だけを眺めていたい。何もしたくない。無気力を覚えた。アトピーゾンビウイルス人間は無力だ。抗体がない。予防もできない。環境を変えても肉体はついてくる。肉体を変えるには一度終わりにするしかない。死にたくないが生きたくない。生きたいが生きる力エネルギーが残っていない。十秒チャージできない。24時間戦えない。書きたくもない文章を書いてる。グレア液晶にキモさらしながら悪い記憶フラッシュバックしながら。書くしかない。書かないと狂いそうだ。手が止まらない。射精直前のようだ。書くしかない。文章もマスもかくのがとまらない。アトピーゾンビ精神は肉体に殺された。殺人事件だ。刑事事件だ。逮捕しなくちゃ。でも精神も一緒に捕まる。精神だけ助けたい。幽体離脱しよう。離脱できない。

休みたい。でも、少しでも休んだら社会から弾かれる。だから休めない。死ぬまで休めない。だから、休むためには死ぬしかない。生まれた時から戦ってきたけど、人生が強すぎて戦意喪失した。疲れた。もう、ほっといて欲しい。体に死んで欲しい。肉体なんていらない。意識いらない。アトピーゾンビは生きる屍だ。屍は生き返らない。疲れた。欲しいならあげるよ人生。いらないよそんなゾンビ人生。ははっ、中身までゾンビ人生からな。そうだよ。いらないわな。捨てよう。燃えるゴミだな。当然。

アトピーゾンビってだけで、ずっと理不尽な目にあってきたし、何も悪いことをしていないのに、まるで犯罪者かのように扱われる。親は体罰ペアレンツだし、根底にある人間への信頼感が失われている。生まれてきてから良いことがない。人生抽選会で外れを引いた。疲れた。ずっと心臓を掴まれいるかのような緊張感がある。真っ暗闇で一人取りのこされたかのようだ。もう治る治らないなんてことはどうでもいいのだ。ただただ疲れた。寝たい。ずっと寝てたい。何もしたくない。脳がだるい。脳が溶けてる。脳がドロリッチしてる。なにやっても徒労に終わり、脳がトロトロになるのはもう懲り懲りだ。疲れた

完全に資源無駄遣いだった。税金泥棒だ。人が一所懸命に働いて稼いで納めた税金をただ齧るだけの税金かじり虫。醜い容姿で、生きている人に不快感嫌悪感を与え、税金齧る社会ゴミ虫。疲れた。体が健康で今までの悪い記憶が消えるなら死なないだろう。だが、そんな魔法はない。覚えることもできない。どんなに努力しても魔法は使えないし、空も自由に飛べない。魔法使いは異世界しかいない。脳内世界wikiによれば、異世界に行くには死ぬしかない。本当は死にたくなどない。世界面白い面白い世界に生まれてこれた。でも、折角、日本まれという良いカードを手に入れたのに、他のカードが悪すぎて上手く活かせない。これは仕方ない。運だ。だっふんだ。踏んだ?たしかに虎の尾を踏みちぎった。危険カードの組み合わせだと気づかず人生ゲームを初めてしまった。大丈夫じゃないし、大問題だ。

悶々と生きている。満たされない欲求が多すぎる。友達もおらず恋人もいない。ルサンチマンと性欲と承認欲求をこじこじに拗らせ、人格形成に悪影響を及ぼし、自我崩壊し、変態変人になるだろう。というかもうなってる。盗撮ものレイプものしか興味がなくなってきた。変態である。性欲を拗らせたら危ない。酒鬼薔薇予備軍だ。センテンススプリングなんて目じゃない。生きるなんてとんでもない。無い。ゼロエコエコバッグエコじゃない。エゴだ。レゴパチモンで遊んでた。パチパチされたい。賞賛されたい。認めてほしい。アイシテルサインが欲しい。プップーって。プップーってやって教えて欲しい。隣にあなたいるからとか君と一緒に歩いていくとかいう歌に共感したい。今日を感じたい。虚無はいやだ。いやだいやだばぶばぶ。

そんな頃から地獄だ。地獄の方がバラエティー豊かで楽しそうだ。天国地獄ない。天使はいないし悪魔もいない。脳の電気信号の遊びにつきあわされてるだけだ。付き合いきれない。だるい。面倒くさい。だるい義務とか知らん。権利だけ主張するのがゾンビ流。人間は頑張れ。ゾンビはふらふらしてる。音がしたらそっちいく。手のなる方へ向かう。だれも手を鳴らさなから向かえない。向き合わなくちゃ現実と。現実なんて見たくない。夢なんだこれは。夢に違いない。夢がいい。夢であってほしい。夢だったらいいな。夢だよね。夢だ。夢夢夢夢夢夢ゲシュタルト。そりゃベルリン崩壊するわ。

べらべら話すことが幸福なのだ。話し相手なんていない。ずっと苦しかった。辛かった。慰めてほしい。よしよしって。がんばったねーって。えらいねーって。

自殺地獄いきだそうだ。生き地獄のあと死に地獄なんて神は悪趣味だ。バランスを考えるべきだ。この世でマイナスなら天国行きだろう。少しは報われるべきだ。処女妊娠?ふざけてんのか。パコパコやりすぎて誰の子供か分かんなくなったんだろ。進化論否定するやつまで、出てきた。神はいらないいない。希望は異世界。異世界人として生きたい。生きるのに向いてない。安楽したい。安楽死したい。人間自己意識自由意志神経細胞分子の働きに遊ばれているだけ。それを100年繰り返しても意味がない。嫌われて拒絶されて馬鹿にされて見下されて侮蔑された侮辱されて誹謗中傷されるだけの人生だ。何も楽しくないから死ぬのだ。生きることの意味がわからない。

意識なんて脳が電気的、化学的な反応を楽しんでいるだけ。無意味なんだよ。生きてた記憶なんてなくなるし、嫌なこともやったことも成し遂げたことも全部なしになる。ゼロになる。自殺は究極のミニマリストだ。さすがのリストカッターも慄く。会いたかったーYES。人生にノーを突き付ける。のーみそがもうだめ。溜め込みすぎた。カメカメハー。どかーん。土管のような人生だ空洞、空っぽで中は真っ暗闇。暗闇に蜘蛛の糸は光らない。気づかない。救えない。人生自分次第。自分破壊崩壊倒壊損害してる。つまりダメな奴は何やってもダメということだ。自分次第の自分が正常な苦しまない安産型の精神がいい。疲れた休みたい早く楽になりたい。もう一回あるなら健常者がいい。まともな親がいい。アトピーゾンビウイルス虐め殺しがないように。ただそれだけ。本当にただそれだけ。なにも大層なことは望んでいない。望んでいない思考チャンネル

親が悪い。教師が悪い。生徒が悪い。学校が悪い。地域がわるい。地方がわるい。体が悪い。精神がわるい。遺伝が悪い。容姿が悪い。感情が悪い。感性が悪い。日本が悪い。社会が悪い。国が悪い。世界が悪い。宇宙が悪い。ビックバンが悪い。地球が悪い。惑星が悪い。太陽が悪い。虫が悪い。森が悪い。生命が悪い。アダムが悪い。キリストが悪い。マリアが悪い。神が悪い。仏が悪い。ぐるぐる思考旅行。帰るまでが遠足。おかえり。ただいま。

あ、生まれてきたアトピーゾンビが悪かったわ。ゾンビ責任がある。人間じゃないのが悪い。切腹責任をとる。切腹痛そう。腹切勘弁。便利な方法論。論議できない。脳内論議崩壊中。ピピピピピピ。ツーツー。しんだ。死んでない。生きてる。ヤダヤダばぶばぶ。この世にいるのが嫌だ。世界がヤダ。呼吸がいやだ。細胞が嫌だ。血液がやだ。鼓動がやだ。五感を失う。死だ。

本当は死にたくない。怖い。でも生きるのはもっと怖い。40代引きこもり記事をみた。あれは未来アトピーゾンビだ。さっさとしねばいいのにと思われる前に、若いうちに、命を惜しまれるうちに、苦痛を感じながら底辺をさまよう前に死なないといけない。生きるだけで苦痛なのに働くなんて無理だ。働けクズと罵られるまえに死ななければ。

アトピーゾンビ苦痛さは理解されないし、健常者と障害者の間の存在から障害年金もでない。なんの援助もない。健常者と同じステージ障害者として戦わなければならない。無理だ。無理なんだ。スペックが足りないのに高スペック必要ゲームをするようなものだ。カクカクして、まともに遊べないし、終いには電源が落ちる。安全基地なんてなかった。家はラスボスが二体いる。生まれた時から魔王決闘だ。安全基地がない。それは、ドラクエで宿がないようなものだ。体力を回復できない。なんとか薬草でしのいできたが気力も金も尽きたような、ツキに見放されたようなものだ。

離されていく。どんどん離れていく。追いつけない。追い越せない。勝てない。最初から負けとわかっていたのだ。勝てないと。人生が強すぎると。現実を見ずに突進したのが不幸の始まりだ。イノシシではないと自覚しないといけない。時間は過ぎていく。死ぬまで止まらない。止まってほしい。黙っていてほしい。なにもしないでほしい。氷の彫刻になりたい。溶けたい。溶けていたい。おどけていたい。人生撤退したい。手痛い一撃を食らわせたい。食らいたい。好きなものも食べられず一生食事を制限され、それでも容姿は醜く醜悪だ。ただそう生まれた。そこに生まれた。だから苦しむ。ただそれだけ。

世界シンプルだ。Simple。Sample。そう、世界サンプルなのだ。お試し期間中なのだ実験なのだ。色々な人間がいるのはそういうことだ。苦しみは実験なのだ。こんなんで死ぬんか。と知りたいのだ。所詮パターンゲーだ。同じことを同じように繰り返して死ぬパターンから外れたら終わり。社会的死ぬ。戻れないのではなく、戻さない。ゴキブリが浸かっていたジュースを飲めるかということだ。飲めない。飲みたくない。処女がいい。社会処女がいいのだ。社会の味を教えこむのだ。本当の世界は死んだ先にあるのだ。この世は実験しているだけだ。イロイロ試す遊び場だ。ステータス異常がある実験体だ。早く死ねば特典が貰えるのだ。それが異世界行きのチケットなのだ。異世界の仲間と勇者として活躍するんだ。仲間と遊んだり、恋人デートしたり、胸踊る冒険を楽しむんだ。楽しみだな。楽しいだろうな。

人生は前菜。死んでからメインディッシュだ。

2015-11-09

スクールカーストのなにがくだらないって、それを語ってる奴らが、何かしらをわかった気になってることなんだよ。人を分類したところで、見えてくるのは分類してる奴の惨めで卑屈な自己意識だけだ。

2015-05-23

あなたはあるスポーツ大会運営関係者だ。ある議題を抱えている

ある時肉体的には男性だがエントリー女性としてしたいという旨の連絡が届いた。

その人はいわゆる性同一性障害ないしトランスジェンダーであり、この大会に参加するのは初めてだという。

彼女”は数年前から女性ホルモンによる治療を受けており、日常的に女性として暮らしていることから周囲にも女性として認知されている。

もっと言えば今のところ戸籍と肉体は男性となっているが、将来的には手術の視野に入れていることから彼女の性の自己意識は十分に女性と言えるのだろう。

 

私個人としては”彼女”を尊重してあげたいと思う。だが社会全体としてもその動きはみられる一方、

つい最近トランスジェンダーTwitterユーザーターゲット誹謗中傷が発生したことから

このことに対して理解を得られない人々が居るであろうことは十分に予想される。

 

現在、このことに関しては未だに運営関係者の間でも議論が続いている。

前例がないために指針やガイドラインもなく、果たして受け入れるべきか。

新たに決まりを作り受け入れたとして、彼女試合をする女性はどのように感じるのか。

競技の公平性問題はないのか。

彼女に対し、否定的言葉視線を向ける人が現れるのではないか。

彼女女性として認めなかった場合彼女尊厳を傷つけ、アイデンティティ否定するものにはならないだろうか。

 

現在とこれからにおいてすべての関係者が十分に満足しうる決定は無理かもしれないが、

大会運営に関わる一人としてのあなたはどのような判断基準により”彼女”の大会への参加に意見を出しますか?

2014-12-16

スーパーIT大学生Tehuの言動と、自己愛性人格障害の症状が酷似している

自己愛パーソナリティ障害とは、自分特別存在だという肥大した自己意識(誇大自己)を持つ事を特徴とするパーソナリティ障害のことである。「偉大な自分」にふさわしい華々しい成功夢想したり、他人に対して過度に尊大な態度を取ったり、特別扱いを求めるが、相手の気持ちには無頓着になりがちな傾向を示すのが特徴である

自己愛パーソナリティ障害の症状と実際のTehuの言動】

・人より優れていると信じている(「自分ナンバーワンになれる絶対的な才能を持ち合わせている」と発言

権力成功自己の魅力について空想を巡らす(「将来は秋元康のようになるつもり」など、成功権力を持った自分を空想する)

・業績や才能を誇張する(Wikipediaの項目作成、tehu.meという自分HP過去の業績を長々と自慢するなど)

・絶え間ない賛美と称賛を期待する(常にTwitterfacebook仕事自慢や人脈自慢を繰り返す)

自分特別であると信じており、その信念に従って行動する(「自分先駆者」「才能・努力・実績を持ち合わせている」などと発言

・人の感情感覚認識しそこなうTwitterで同年代若者を「精神年齢が低い」と貶すなど、それを聞いた人がどう感じるか推し量ることができない)

・人が自分アイデアや計画に従うことを期待する(「インターン自分アイディアが通らないことに違和感を感じた」という旨をインタビュー発言

・人を利用する(知り合った人々を人脈と称しSNS上に書き込むことで、自己の知名度アップに利用しようとする)

・劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる(「慶應SFCでは数%のぶっとんだ有能な人しか相手にしない」などと公言

嫉妬されていると思い込む(ネット上でのバッシングについて「僕が有名だから叩かれる」とインタビュー発言

他人嫉妬する(女遊びに走るチャラチャラした大学生に強い嫉妬を感じているが、それを隠すために彼らを非難することで自己を保っている)

・多くの人間関係においてトラブルが見られる(「14歳の頃から嫌われ続けてきた」「昔仕事をした一部のエンジニアから現在も嫌われている」と公言するように多方面に及ぶ人間関係トラブルが見られる)

・非現実的目標を定める(「日本社会全体を動かす演出家になりたい」に代表される非現実的理想を掲げる)

・脆く崩れやす自尊心を抱えている(自尊心が傷つけられると、冷静を装うためわざわざSNS上で「全然気にしてませんから」という風な態度を見せる。また何かに挑戦するときも予め予防線を張った発言をすることで保身に走る)

感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える(感情が乏しいため、他人SNS上で平然と非難し、そのことについて何も感じない)

2014-05-20

彼氏の出来ない(一部の)高学歴女が好きな男

一見なんの問題もなく社会的生活を営んでいそうで、初対面であれ?この人何かおかし・・・と感じさせるタイプの人がいる。例えば東京都北区赤羽という漫画はそういう日常に潜む変人に対しての嗅覚が異様に鋭い作者が今まで出会った変人を特集した漫画である。とくにこれ。

http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%8C%97%E5%8C%BA%E8%B5%A4%E7%BE%BD%E4%BB%A5%E5%A4%96%E3%81%AE%E8%A9%B1-%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%89KC-%E6%B8%85%E9%87%8E-%E3%81%A8%E3%81%8A%E3%82%8B/dp/4063763366/

そしてそういう男しか愛せないタイプの女がいる。

そういう女は初対面の段階でいくつかのシグナルをもとにそういう男を見抜いてハマってしまうのだ。まずはそういうタイプは大抵喫煙者。やめようとしてもやめられないタバコ依存です。中学生くらいにかっこいいと思って吸い始めてるけど今は依存全然辞めれない。

そしていわゆるサブカルチャーが好きであるジョジョ椎名林檎ブランキー・ジェット・シティ、といったメインカルチャーちょい外れくらいのところを通って今はがっつりサブカルです。最近映画だと、アクトオブキリングとか見てる。基本的エログロを含むキツい風刺のきいた作品を好みます園子温はだいたいカバー

本人もキツイジョークを好むので、見知らぬ人をクソババァとかクソジジィとか呼んでみたり、職場にいる完全イジられ属性を持ってるけどアンタッチャブルな人に対するみんな思ってるけど言わないようなことをだんだん言い出します。毎日顔を合わせるレベルの人をメンヘラ下品素人童貞ちょっと臭いとか言っちゃう。でもあくまでその人をけなしているわけではなくてその人の特徴について話しているつもりなので、翌日も普通に一緒に仕事します。本人は悪口のつもりではないし逆に同じようなことを言われていてもなんとも思いません。

そういう毒の効いた発言を何度か繰り出してこの人は大丈夫だな、と思い始めたら年上だろうが上司だろうがタメ口です。でもそういう相手を嗅ぎ分けるのは下手じゃないのでタメ口聞かれる相手はなんとも思いません。ただし、それを周りで見ている事なかれ主義人間体育会系人間が影で注意したりします。それに対してイラッとします。

まあまあここまでのタイプ20 人に一人くらいいるかもしれません。もうちょっと希少価値高めになると高校中退してます。そういうタイプはだいたい早熟かつ要領は良くて中学までは勉強できるので比較進学校学校に通い、その環境に三年間も耐えられず中退します。家に金があるとそのまま社会からドロップアウト。一般家庭の場合大検とっていい大学いってます

自分料理とかしないのでカップラーメン率高し。そして何もなければ一日中寝ているのに何故かガリガリです。身長はそんなに高くないことが多いですが、とにかくガリガリ。外でないし運動嫌いだし運動神経も良くないので色白です。喉仏と鎖骨がでているのでそういうところもそういう男が好きな女子の心を刺激しているんですね。でも 30 代近くなってくると代謝が落ちて太ってくるので気をつけて欲しいところです。

酒は好きですがたくさん飲めるかどうかは体質なのでひとそれぞれ。ただし共通点としては酒を飲むと高すぎる自意識の壁が突然とっぱらわれてキャラが変わるタイミングが訪れます。酔った時だけ素直になりますが、日頃気を遣って抑えている言いたいことが爆発して一度心を許した相手に対していわゆるドSになります。同様の理由でセックスの時もどSです。

インターネットリテラシーは高いです。Yahoo ジオシティーズ南条あや。そしてはてな民

というわけで上記に該当するはてな民の皆様は、そういう男がしか愛せない、高学歴だけど顔は日本人の平均くらい、自己意識が強すぎていわゆるイケメンには絶対にいけない、休日は一人で映画ばっか見てるような女を探して幸せにしてあげてください。

2014-04-25

http://anond.hatelabo.jp/20140425111033

おお、まさか反応してくれる増田がいるとは。うれしいよ。

指摘の通りでその本から持ってきた話だよん。方向低位の話をするのになぜ方向定位と海馬の話をわざわざ持ってきたのかというとだね。


この辺の情報統合すると、海馬ゲーティングの異常から来る後頭頂葉機能異常が統合失調症陽性症状と関係しているんじゃないかと思ったんだよね。どうだろう。

2013-12-13

1970~80年台の教師がいまよりまともだったって言ってる人は完全に洗脳されてる

1968年、米アイオワ州小学校教師、ジェーン・エリオットさんは授業の中で、驚くべき実習を行いました。

エリオットさんは、青い目をした子は、茶色い目をした子より優秀だと教室で話したのです。

最初は信じなかった生徒たちも、青い目は色素のせいであり、その成分が頭の良さに影響するという、もっともらしい説明を加えると一様に信じました。

生徒が、この偽りの説明を信じたところで、エリオットさんは、次のようなルールを設けました。

青い目の子は優秀なので、昼食のお代わりができ、休み時間も長くとれ、教室の前に座ることができる。

一方、茶色の目の子どもは、茶色の目の子としが遊んではいけない、青い目の子どもたちと同じ水飲み場を使ってはいけない。

更に、違いを際だたせるために、茶色い目の子どもたちに首輪のようなものを着けさせました。

すると、子どもたちの人格は劇的に変わり、青い目の子どもは偉そうに威張り散らすようになり、茶色の目の子どもはオドオドと卑屈になりました。

テストでも、青い目の子どもは茶色の目の子どもより良い点数を取るようになったのです。

数日後、エリオットさんは、先日は私が間違っていた、本当は茶色の目の子ものほうが、青い目の子どもより優秀なのですと言いました。

すると、子どもたちの自己意識は逆転し、青い目の子どもは控え目になり、茶色の目の子どもが自信にあふれた行動をとりはじめました。

最終日、エリオットさんは、これはすべて差別される人の気持ちを理解するための実習だったと説明し、

青い目の人も茶色の目の人も能力に差はないと話し、子どもたちに着けていた首輪を外すように言いました。

すると、生徒の中では泣き出す子が続出し、互いに抱き合う子も大勢いたそうです。

http://ikadoku.blog76.fc2.com/blog-entry-1978.html


リアル暗殺教室」! 

いいなー、俺は今教師やってるんだけどこういうのやってみたかった。 

日本でも、当時の教育の事例とか読めば読むほど昔の教師はやりたい放題で羨ましい。

1970年台の教師がいまよりまともだったって言ってる人は

それ単に、その時植えつけられた先生崇拝の洗脳おかしかったと今でも気づいてないだけ。

自分の子供が同じ教育受けてたら発狂してるはず。

特に小学校より中学校先生マジキチぶりは今とは比較にならない。

彼ら彼女らのムチャシヤガッテのせいで今の教師は非常に肩身が狭い。

知れば知るほど団塊世代とかそのちょっと世代ってほんとに自由で、今からしたらろくなことをしないクズばっかりだった。

こいつらに「近頃の若い者は」とか言われてると思うと、怒りゲージが溜まっていく一方なので、

当時の教育とか学生の様子とかは、絶対に調べない方がいい。




追記

ちょ、ちょっとまってくれ。私はジェーン・エリオットさんの授業を肯定なんかしてないですよ。

「こういう好き勝手できて当時の教師は良かったですね(白目)」くらいのつもりで書いたのになんか誤解されてる?ナンデ?誤読ナン!?

2011-09-19

http://anond.hatelabo.jp/20110911044626

そういう風に理解する、ということに考えさせられた。横入りだけど。

(1)「他人を試みることは失礼だ」

(2)なぜなら「(私の)不信によって相手が傷つくだろうから

(3)「それは自意識過剰

この(2)に対する(3)のリアクションについて。

確かに、「自分の為した行為等によって相手が傷つく可能性を考えて行為しない」という行動様式の帰結として、一般的にいって「肥大した自己意識」があり、そのため本来なら行うべきであった社会的に必要な行為すら行えなくなるとしたら、それは確かに病的な「自意識の過剰」であると言える可能性は否定しない。ちまたで見かける自意識の過剰を羅列すれば、

 「みんながオレのこと監視して笑ってるような気がしてむかつく」

 「頭の悪いオレが一票を投じても間違ってる可能性が高いか投票しない」

 「すれ違うたびに気持ち悪がられてるだろうからもう外出しない」

とか、まあそういう感じ。

確かに、どんな「行為とそれに対する他者のリアクション」の場面においても、他者の心の内でどのような感情が渦巻いているかは外からしか見ることができない。そのため、その反応を基に、自己意識の外延としてしか他者の心を思いはかることはができないため、あらゆる「配慮」は原則的に自意識産物足らざるを得ないし、そればかりでなく、常にそれが他者からみて(それが健全社会関係を阻害するレベルに至るか否かは別として)不足であったり過剰であったりする可能性は免れ得ない。つまり、どんな「配慮」行為においても「自意識過剰」という批判は常に投げかけ得るマジックワードとなる、ということだ。


ただ、健全社会性を保つためには、この「配慮」が過剰であっても、そして過『少』であっても、よろしくないことは理解されると思う。そこで、配慮を一定規範とする考えが登場する。マナー作法あるいは「礼」というのがそれである。ただ、これらのマナー作法や礼というのは、決して「形式的にそれを満たしておれば、誰からも問題とされない」という許可を与える法律のようなものではなく、それらのマナー作法や礼が要請するところの「基の感情」で内面が満たされていることが他者から見ても分かることが、社会的に必要な要件とされることが多い。

頭を下げるのは「礼」だが、ニヤニヤしながら頭を下げていれば不真面目だと言われる。テーブルマナーを形式的に身につけることは大事だが、頑なにそこから逸脱しないことが重要なのではなく根底にある「みんなが食事を楽しめるように、不快なことをしない」を満たすことが需要なのであるから、たとえばマナーを知らない人と食卓を囲む際にマナー知らずであることをもってその人を笑いものにしたりする人は、むしろ重大なマナー違反を犯していると考えるべきだ。

このことを前提として最初に戻ると、

(1)他者を試みることは失礼である

これは理解できる。聖書にも「汝、神を試みるなかれ」とあるが、試されるようなことをすれば、神様だって怒るのである。怒る理由は「信じていないから」であって、一般的に「試す」のは「確信がもてないときであることは言うまでもないから、「試す」ことが「確信をもっていない」というメッセージになりうることは、事実であると言える(これは、たとえば「私はそんな風に受け取ったりしない」という個人的主張を否定するものではない。たとえば「てめえぶっ殺してやる」を愛情メッセージと受け取る人も世の中にはいるだろうから範馬勇次郎とか)。)

次に、

(2)なぜならその含意するメッセージによって相手は傷つくだろうから

という説明も問題はない。(1)が、メッセージの含意する「不信感の表明」という事態避けようとする意図から生まれた規範であることをベースに考えれば、その意図するところが(2)のような理由であると推測することに飛躍はないからだ。相手を傷つけることが、健全社会関係を維持する上で不利であると考えるのは、理にかなっている。

そこで問題は(3)だ。(3)の発言者(以下、(3)の人と呼ぶ。)は、なぜかように考えたのであろうか。本当は、特に考えていたわけではなくて、単にマジックワードを振りかざして、ちょっと反社会的でカッコよさげなことを言ってみて悦に入りたいだけなのだろうか? それにしては中途半端な発言なので、一応そうではないと仮定すると、この文脈でこういう発言が登場するからには、(3)の人は「試すことは悪いことではない=私は試したい」と思っているのであろう。(2)の発言者に「相手を傷つける可能性」を指摘されてなおかつ(3)の人は、それを否定するために「自意識過剰」というワードを持ち出したわけで、そうすると、(3)の人の中では「相手を傷つけること」よりも「自分の願望を抑えること」の方を(あるいは、前者をしないために後者をすることを)悪とみなしているということになるからだ。

これはとても不思議感性である。「自分の個人的な不信や疑念を払うこと」を重視する一方で、「他者を傷つける可能性」を低く見積もっているのみならず、その「他者を顧みない」行動により「自分が他者から不信や疑念を抱かれる可能性」を全く考慮していないからだ。この(3)の人にとって、他者とは、自分に決してコミットしない、窓の外の存在であるかのようだ。

肥大する自意識に脅えながら、同時に他者を窓の外に放り出して顧みない。彼は一体何と戦っているのだろうか?


「平気で嘘をつく人たち」ではないが、このような「平気で人を試す人たち」から見えてくるものは、確かに一つの時代、世界風景である。それを、「核の時代」のうすら寒さと共通している、と言ってみると、飛躍して聞こえるだろうか。しかし「核抑止論」とは、「私の不安を解消するためなら、核武装するのが一番だ。みんなが核武装すれば、平和からだ」という言明ではなかろうか。そう考えれば、これはそれほど突飛な比較ではないだろう。そして、核抑止論が、現代世界において一定コンセンサスを得ていることも事実として認めておこう。「私の不安核武装」が隣国の不安核武装を呼び、それがまた次なる核武装を……と連鎖が続くという事実を眼前にしながらも、今のところ人類は、理性と対話というか細い支えで対抗しつつ、民族文化の壁を越えることには必ずしも成功していない。「中の安心」が一番大事で「外との対話」は二の次なのだ。「外との関係」が「中の安心」を生む…というアイデアは、そこでは顧みられない。私たちの生きる「国際社会」は、残念ながら依然そのレベルにとどまっている。

(3)のつぶやきが示すことは、もはや個人と個人の間ですら大国間のように理解と協調を求めることが難しい時代だということであり、その中で、恐怖心のシェルターに閉じこもる人々が(3)のように振る舞うことは、もはや不可避のことなのかもしれない、ということである。異文化間における理解と対話のためのメソッド確立することは、我々にとって真の意味で喫緊の課題である

2011-06-14

http://anond.hatelabo.jp/20110614000739

きっと彼らはこう思っていたんじゃないかって。

俺はこんなにいいひとキャラで頑張ってるのに、なんであんたは、そんなに性格の悪さを晒して平気でいられるんだよ!?

悪いところむき出しでも愛してもらおうなんておこがましいんだよ!

本人のそういう自己意識とかは何も関係なくて、単にあなたのあり方が不快うんざりしてるからなんとかしたいだけじゃないか

2011-04-12

湯涌温泉花咲くいろは招致は正解?だったのだろうか(成功or失敗?)

花咲くいろは聖地となった湯涌温泉に先日行ってきた。個人的には非常に印象が良い温泉街であったが、この温泉街が抱え持つんじゃないだろうかという悩みも分かったような気がしたため、あくまで一観光客の暴論ではあるが書き留めることにした


まず、湯涌温泉街に入ってすぐ抱いた印象は、ここが上品な「静かさ」を持つ温泉街であり、こうした選好を持つ個人客向けにぴったりな温泉街だろうなというものだった(一例とすれば、温泉街にありがちな射的や場末的バーがない)。これは私個人とすれば、この温泉街に希少な強みのように思え、この「静かさ」を壊しかねないアニメファンの流入をなぜ許そうと思ったのか?ということが非常に気がかりであった。

詳しく言えば、うらぶれていない「静かさ」というものを湯涌はブランド価値として認識しているのだろうか?そもそもそれを、ブランドとして認識しているのか?次に認識しているとしたらなぜいろは招致を行ったのか?そのリスク管理をきちんと計算しているのか?というのが気がかりであった。


さて、観光業もまた普通産業と同じように、投資のリターンを得る産業である。簡単に言えば、高山鉄道を作ったり、そこに歴史ロマンがあるのだというアピールをしないアルプスは単なる険しい山だ。観光地PR宣伝文句自体が、宣伝文句と同じブランド意識を作るのであり、ブランドイメージは絶え間ないPR戦略によって形作られる。では、湯涌が長年投資してきたブランドイメージとは何か?

湯涌温泉観光協会によれば、湯涌温泉ブランドというのは、「名湯がある静かな温泉街」であろう。湯涌温泉は、このブランドイメージのために投資を続けてきたのであり、それは後述するように恐らく成功しているといっていい。

問題は、こうしたブランド花いろ招致が傷つけるのだろうか?という点にある。しかし、これは表層的な次元の話なのでもう少し深い次元についての話をしてから述べたい。つまり、そもそもなぜ、「名湯がある静かな温泉街」というブランドイメージから通常、広告を打つべ20代以上女性層、30代以上男性層ではない層に宣伝したのかという話である。「名湯がある静かな温泉街」というブランド自体に湯涌温泉側が価値を見いだせなくなっているのではないか?これが極めて重大な深い次元での問題である


湯涌温泉経済状況ははっきり言って分からない。以下、本項では一般的な温泉街へのイメージであるやや経済的に苦境に立っている温泉街というイメージを湯涌に勝手ながら当てはめる(潤ってたらすいません)。つまり、「名湯がある静かな温泉街」では競合他社が数多く存在し、このため他にもう一つアピール材料が欲しいともがく湯涌温泉、そもそも「名湯がある静かな温泉街」というブランドに魅力があるのか怪しんでいる湯涌温泉というイメージである

繰り返しになるが、一観光客として湯涌温泉の魅力として感じたのは、「静か」であることであり、団体旅行客向けと一瞬で分かるような老朽化した大型ホテルがないという2点だった。湯についてはその効能が他の温泉と何が違うのかよく分からなかった。ただし、白鷺の湯の盛況ぶりを考えれば地元の人々に非常に愛されていることが分かり良いお湯なのだろうということは分かった。「名湯がある静かな温泉街」というのは、概ね成功しているようである※1。


であるが、やはり「名湯がある静かな温泉街」のみではメインターゲットである宿泊客は集客できないという判断があったのだろう。そこで、湯涌には「名湯がある静かな温泉街」以外のアピール材料として、それは夢二館と江戸村を設定しているようであるしかし、夢二のアピールはそれが単独温泉街を支えられるほどの魅力かはあやふやなものであろう(東京美術館があり、生まれ故郷宣伝し、他の温泉街でも夢二アピールする場所があり、そのなかでなぜ湯涌が選好されるのかは分からない)。江戸村は総花的な江戸時代博物館となってしまっており、金沢の奥座敷というブランド宣伝と違ったファミリー向けの平凡な教育施設となっている。夢二館と江戸村も既存宿泊客(リピーター)に害をなすような施設ではないため加点要素は少ないが減点要素はないのは幸いとはいえる。とはいえ、とどめをさすようで気が引けるが、web上にある湯涌温泉MAP(事前の予習に非常にお世話になった)を見ていただきたい。右端には大正ロマンの街散策と書いてある一方、左端には武家・街やゾーンがアピールされている。これでは何を見ればいいのか分からない。湯涌の自己意識の分裂ぶりが明瞭に映し出されていると言っていい(もちろん、江戸時代から明治大正につながる構成になっていれば文句ないのだが江戸住宅と夢二に大した関係はない)。

結局のところ、現在湯涌温泉の獲得している資源とは、「静か」であることと「うらぶれていないこと」である。「名湯がある静かな温泉街」というブランドイメージは一応確保していると思われるが、メインターゲットである宿泊客をひきつけることに成功していないのではないだろうか。白鷺の湯目的で来るような人間の訪問時間を増やそうという目的があるだろう夢二館、江戸村は、しかし、一泊させることにはつながっていない。どっちとも見ても温泉に入って日帰りで帰れてしまう。いろは聖地巡礼も同じである(それでも、日帰りでくるような客層はファミリーであるため、「名湯がある静かな温泉街」というブランドは大して傷つくことがなく、メインターゲットである宿泊客に不快感を与えることはおこらなかったはずである)。

勝手な憶測だが湯涌温泉とは、メインターゲットである宿泊客が減少する中、これを「名湯がある静かな温泉街」というブランドイメージのみでは防げないとして、新たなアピール材料を探しているが既存の施設(夢二館、江戸村)では十分に成功していないという温泉街なのではないだろうか?そこにアピール材料としての新候補としてやってきたのが花咲くいろはである


では、ようやく元に戻る。さて、この「名湯がある静かな温泉街」というブランド花いろ招致は傷つけるのだろうか?はっきり言うが、現状のままならば傷つけるに決まっている。4月9日の配布イベントだが、あれを宿泊客が目撃したらどう思うだろうか?あるいは爆音をならしながらバイク聖地巡礼をする人間について宿泊客はどう思うのか?しかし、これは湯涌温泉としては当然予想できたことである。問題なのはブランド価値を傷つけるリスクを負ってまで花いろを招致したことに、どのような意図があるのかということである

1つは、メインターゲット自体を変えたいということが考えられる。つまり、宿泊から日帰り客に客層をシフトさせたいという意図が考えられる。「静か」というブランド価値がもうないと判断しているという可能性がある。もう1つは、花いろ招致は、今までと同じような単なるPRの一つに過ぎないと湯涌温泉が考えており、それがブランド価値を減ずるものと分かっていないという可能性がある。あるいは、ブランド価値を減ずることは分かっていも、新規客層の増加のメリットの方が大きい(騒ぎも半年もすれば収まる)と判断している可能性がある。

第一の可能性の場合、今のところ湯涌温泉に落としそうなお金は個人につき1000円以内だろうということが予想され、この単価引き上げが急務だろう。サイダーは温泉側にとっては最悪な商品になりかねないことを肝に銘ずるべきである。1本200円のあれ(店だと189円でした)は瓶そのものもお土産としての価値があるため、食べ物+グッズという選択肢を見事に消してしまえている。いろはにおいてはグッズ問題は解決するはずだが、日帰り客にシフトさせたいのならば単価引き上げは急務だ。白鷺の湯の規模的に日帰り客を狙うことはあまり考えていないように思える(あたらしや、やました戸田屋では日帰り客を狙った展開を考えているようである。このアピールはもっと強調してもいいだろうが、現時点では諸刃の刃認識されているのか扱いがいまいち見えない)

第二の可能性の場合はかなり末期的であるしか言いようがないので考えないことにする。

最も考えられそうなのは、第三の可能性、一時的にブランド価値を減ずることは分かっていも、新規客層の増加のメリットの方が大きいという判断である花いろの良いところは視聴層が10代、20代と非常に若いため潜在的顧客を長く保てるという点にある。このため長期的に見ても、花いろ招致はプラス面を強く持つだろうことは予想できる。しかし、それでもだ。既存客にダメージを与えるマイナス面にはやはり注目すべきであり、この管理もまた重要はないだろうか。マイナス面についてはもっと慎重に考えるべきではないだろうか。長年投資してきた「名湯がある静かな温泉街」というのは意外に貴重である可能性が十分あり、現状のリピーターを奪ってしま可能性は深刻なものと受け止めるべきである

では、湯涌温泉花いろについてどう対処すべきなのだろうか。答えはシンプルであり、少しでも不快な事態が起これば、PAワークスにすぐ苦情を申し立てたり、出来ればファン向けに何らかの注意を呼びかけるべきであるバイクについては深いところまで入れるべきではないだろう。イベントについては他箇所に譲る、あるいは、逆に大々的なものにしてしまいファンではない他の客を一笑に付させてしまうのが良いと思われる。湯涌温泉に分かっていただきたいのは、作品を愛するアニオタの敵は、その作品世界観を壊そうとするアニオタであり、激しい同族嫌悪が我々の特徴であるということである。そして、このアニメは作品を愛するファンを数多く生み出すことが予想できるのだから過剰反応と思われない程度には警告を発し続けるべきである(出来るだけマナーを守るファンとそうでないファンを分断させるような方法で)。


さて、長くなったが、まとめると、

花咲くいろは朝ドラ昼ドラ的なものをアニメ移植させ新しい科学反応を試すという冒険作であり、いわゆるアニメとは違ったアニメになるだろう(信者的目線では)。しかし、それはアニメを見ればの話であり、アニメを見ない層からはいわゆる深夜アニメしかない。

湯涌温泉が長年投資してきたブランドとは、「名湯がある静かな温泉街」であるが、名湯はアピールしきれておらず、「静かな」は花いろ信者の来訪によって傷つけられる可能性がある。

花いろ効果は②のマイナス面を打ち消して余りあるものになると思われるが、それでもマイナス面については慎重に考慮すべきである。苦情を言ったところで、それはファン間の内ゲバになるだけで、ついてくるファンは数多くいる。

④そもそもこうしたブランド価値を傷つけかねないPR誘致を行った原因についてはきちんと整理するべきであり、湯涌温泉ブランド戦略について徹底的な議論を重ねるべきである

⑤とりあえず、日帰り客は大してお金を落としていないので、客単価を引き上げる行動をするべきである



以上の事を、先日感じました。物事にはプラス面とマイナス面があるのは当然なことですが、今回の場合、そのマイナス面が湯涌温泉投資し続けてきた資源を傷つけかねない(元々観光地で生計を立てていたというところが鷲宮等と決定的に違う)のが気がかりです花いろ誘致は大正解だと思いますが、慎重に取り扱ってほしいなと。ま、アニオタ専用温泉かに開き直るのもいいのかもしれないけど、個人的にはそうなったら行きたくないので。






※1

個人的には、この路線の徹底的な深化が議論に上がったかどうかが非常に気になってしまう。先ほど述べたように、湯がどれほど良い湯なのか一見でも分かるようにアピールし尽くせていないのは問題である。本当にいいお湯ならば、どういう比較優位があるのか等アピールし尽くすべきであろう。湯が本当に良く静かならば、高価格路線(現在の湯涌は中価格)でも全く問題ないはずだが、この可能はなかったのだろうか。あるいは、金沢駅から立地が近く、それでいて静かな温泉というのは相当貴重なはずであり、立地の優位を生かして個別・ファミリー別に送迎するなど中価格ながら高品質サービス提供するのも手であったはずである

2011-03-04

敬意ってなんだろう

http://anond.hatelabo.jp/20110303182614

↑これ書いた増田です


あいろいろ思うことを書きなぐる第二弾です。便乗マーケですね。えがみひろゆきが得意の。


個人的に思うことしか書いてないので、興味ないなら読まなくていいですよ。


敬意というのは内発的、誘発的なもので、自発的なものではないですよね。

たとえば、ホリエモンに敬意を持っている人ってのはやっぱり取り巻き見ればいるんだけど、だけど実際前科者ってだけでリスペクトはないわーって人もいる。どっちが多いかは知らない。

ひろゆきもそう。裁判所の申告踏み倒す奴だぞー!って言っても、リスペクトする人はするんだよね。

禿(孫正義)もそう。Xevra先生がどれだけ禿を嫌っても、リスペクトする人はする。というわけでリスペクトってのは各人に於いて差があるのが普通なわけだ。



少し僕の話をしたい。

僕は「誠意」と「敬意」は使い分けている。僕なりの「誠意」というのは、自分仕事上に対する責任だ。言ってしまえば、プライド。仁義っていうとあれだけど、他のすべてを曲げてもこれだけは貫く、というものは、勤め人でも自己意識低い人でも何かはあるはず。僕はこれを「誠意」としている。だから、相手が差別的な目線で何かを語っても僕はそれをそのまま文字に起こす。仕事上の僕は徹底的に自意識を殺し、空気化するように努め、それをただ淡々と文字にすることを心がける。それが僕の誠意。

から、前から繰り返し書くけど、罵倒芸にも満たないただのクソガキなグラスィーズキングが、彼なりの信念を持ってそういう活動をしているというなら、僕は彼のやり方を支持しよう。(残念ながら、今までの彼、これからの彼にはそれが見えそうもないが。)



で、次に「敬意」の話だ。僕は仕事自意識を殺すと書いたように、僕は仕事上「敬意」は払わない。だから、敬意が見られないから依頼は断ると言われれば、(それは当然のことなだが)、では叉の機会に、ということになる。

ただし、相手と対面するという性格上、円滑に事が運ぶよう取り計らうということは欠かさない。少なくとも相手をバカにすることはしないし、仮にバカにしたいことがあったとしても、その場では絶対に言わない。もしかしたらそれが「敬意」だとか言う人がいるかもしれないが、先にも書いたように「敬意」と「誠意」は僕は使い分けるし、僕はそれを「敬意」だとも思わないし、敬意自体に個の差があるのだからそれを敬意だと主張すること自体もナンセンスだと思うし、僕がこうして敬意とはなんだリスペクトが何だとつらつら書き並べること自体も愚かしいことだと思う。

で、前の記事にも書いたけどそれはマナーと似たようなもんで時に形式化して強制されるんだな。僕はそれが一番嫌いなんだけど、それはいいや。



で、ちぇすこさんとグラスィーズキングやりとりってなんかいろいろ論旨論点が飛んでるんだけど(そもそも議論の体も為してないただの罵倒合戦にすら見えるんだけど)、

アレの何がヤバいって、要は「生理的嫌悪感」なんだよね。「あなたとは付き合えません、生理的に」ってやつ。ブコメにも吐き気したとか言ってる人いたけど、そりゃそうだ。読むのも不快だもん。

だってグラスィーズキング属性

などなど、はてなーのみなさんにしてはやはりカモ、ハト擬態するカモなんですね。で、実際鍋にしたけど毒で食えねえってとこに居ると思うんですが、人間好き嫌いあるもんで、ああい人間が嫌いって人はやっぱり多いと思う。私も嫌い。



から、前にあんな事書いたけど、今回のあれっていわゆる「敬意」とは違うんじゃないか、と思うわけです。ヤベーキモイブロック、で済んだ話だと思うんです。ほんとはね。

なんというかいい感じにマッチングしちゃったというのもあるんでしょうが、そこまで騒ぐもんかね、と個人的には感じております



まあ、そっからいろいろ見れるもん見れたんで、外野ブクマーとしては面白かったんじゃないでしょうか。当事者たるちぇすこさんとしては納得しない点もあるでしょうが、そこはまあ、本気なら裁判所で、とかいろいろあるでしょう。まだTwitterとかでやってたらメガネの土俵にいることは明白ですし、周りはなんだかんだ言いながら観客として満足しちゃうし、あまりネット上というのはい場所はないんじゃないか、と思うところでご飯が炊けたので撤収しようと思います。


そんじゃーねー。

2011-02-26

真理

 歩くことこそが真理なんだな

 死んだり消え失せたりして、楽になれるだなんてことは幻想

 とことんくたびれるまで歩くしかないんだ

 で、とことんくたびれちまったら、後はどうなるかって言うとだな

 多分、何も考えられなくなる

 そっからどうなるかって言うとだな

 まあ、赤ん坊のような心地になるんだろうよ

 自己意識を得る赤ん坊の心地といえば、何も考えてないようなものだろうから

 そんで、また少年の心持になるというワケだ

 くりかえしくりかえし

2010-12-12

間接的な殺人可視化される時代

http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20101212/p1

ここで、「間接的な殺人」とは、現行法で処罰することができない、「一枚以上の壁」を隔てた殺人すべてと定義します。

もちろん、すべての殺人は偶然に依るものだ、という主張を否定するつもりはありません。

これからの時代、その「間接的な殺人」を、自己意識に基づいて確信的に行なうだろう層が現れるという、いわば予言です

加藤被告は、秋葉原で多くの人を殺しました

彼の背景には、しかしながら、それはそれで一部の人共感されるような、卑近な背景を持っていました

一部の人ができなかったことを、加藤被告は一線を踏み越えていたのです。対象はともかく。

そして、彼が為したことは、法律で裁かれなければならないものです

けれども、それはあくまで彼が直接手を下したから現行犯逮捕に至れたわけです

多くの人間は、おそらく一度ぐらいは殺意を抱いたことがあるのではないでしょうか。

私自身は、まだ殺意を抱いたことはありません。

しかし、いつ衝動的に、あるいは信念を持って、人を殺してしまうかはわかりません。

私はおそらく、まだ「溜め」のある人間なのだとおもいます。

ですが、「溜め」のない人間が今の社会生きづらいことは、ある程度察知できるぐらいしか、溜め込んでいません。

ですから、私もいつ「そっち」へ行くかわかりません。

では、そっちに行ったとき、何らかの殺意を持った私、あるいは周囲は、彼と同じように直接手を下すでしょうか?

いや、そんな愚かしいことしないだろうと断言します。

目の前に先鞭をつけた人間犠牲になったのだから、そうしてしまっては進歩がありません。

では、どうするか。



ひとつの例として、不買運動サイレントテロが挙げられます

そうして潰れた企業は、私たちに勝利の優越感を与えます

しかしたら、その中に自殺者が出るかもしれません。

しかし、それすらも、優越感を与えます

彼は、犠牲になったのです

そのとき、私たちが殺しました、と誇ってしまうかもしれません。

ですが、我々を捕まえることが、裁くことが、できるでしょうか?

私たちは、その企業の商品を買わなかっただけなのですから

もっと確かな方法があります

民間企業就職し、競合他社に勝つのです

合法的に、殺せますよ。

自殺は、自己責任ですからね。


こうしたように、自ら手を下しておきながらも、間接的に人を殺すようなケース、罪に問えないケースが、

どれだけでてくるでしょう?

陰湿だ、とおっしゃるあなた、私より「溜め」があるだけで、あなたも、じきその気持がわかりますよ。

ところで、「それはお前も殺される可能性があることだ」と言いたいあなた、賢いですね。

そのとおりですよ。

Kill or Be killed.

Dead or Alive.

Living dead or Dining alive.

これを胸に刻み、明日から社会という戦場へ赴きましょう。

2010-12-05

非モテつーか、非コミュというか

それなりの歳になったせいか、流石に独り身ではマズイらしい

ある程度仕事が出来るようになると、周囲は今度はプライベートも相応を要求されると言う事だ。

所謂、婚活とやらを勧められたり、もっとダイレクト合コンに誘われたりする。

しまいには、ちょいとお酒が入った場で、とうとうと説教してくれる。

お前が独り身なのは高望みしているせいだとか、もっとその手のことにお金を使えとか。

彼らのお言葉経験から来る物だったり、一般に手法だったり、とりあえず正論という奴だ。

一般的な正論に異を唱えるつもりは毛頭ない。問題は、その正論自分に当てはまらないことなのに。

高望みしているから妥協しろと言われても、自分の中でその判断基準がさっぱりわからない事だったり。

身なりも含めて、程度の金を惜しんだことはないつもり。

だったら、どうしてという疑問もよく聞かれるが、要するに、非モテとか非コミュのような自己意識に問題があると説明しても、わかってはくれない。

そこでいつも疑問に思うんだが、その手のアドバイスをしてくれる人たちは、本当に自分を見てくれているのだろうか。

普段あまり接点のない人ならともかく、親しい友人にまで言われるようになると、なんともやりきれない。

いや、考えようによっては順番が逆で、そこまで自分を理解してくれる人がいるんだったら、そいつとくっつけと言う話か。

当たり前ではあるのだが、結局この類のネガティヴ自己評価は、共感なんぞ得られない。

そもそも、他人に理解されないから発生しているんだし。

2010-11-26

http://anond.hatelabo.jp/20101125232316

間が開いてたからもう見てないものと思ってたが、えらく丁寧にレスを考えてくれてたんだな。

 また、貴方が最終的に仰りたいのは、恐らく『自我と他我との断裂は埋め難く、それ故にレッテル自己内面との差異を言語によって証明することは不可能なのではないか?』ということなのだと私には思われました

このあたりについてはまさしくそのとおり。

溝を埋めることができたと思っていたのならば、それはただの自他混同か、レッテル貼りの延長にすぎない。

本当に埋めることができたとしたら、それは自我と他我の境界がなくなったということであって、それはやはり自我はないのか、他我を排除したのではないのか、というループに陥る。

人を理解する努力はできる。

しかし人を理解することはできない。

そういった矛盾だな。

逆を言うこともできる。

人を理解することはできない。

しかし理解する努力をすることはできる、という。

なんかこんなアニメ昔あったな。

それはいいとして、だからこそ、レッテル貼りというものに関し、ナンセンス一言で済ませていいものなどないと思っている、というのが俺の結論だ。

完全にあんたと同じものかどうかは分からんが、この点に関してはこのツリーでも別ツリーでも一定の認識のすり合わせはできたものと考えている。



さて、提示された部分について。

自己定義づけるのは人の目による観測が前提であり、その観測により生まれる関係性が自己を生み出す、ということで良いだろうか。

では自分の目による自分の観測はできないのか?

自己定義自己で行うことはできないのか?

発達心理学において、自己確立の過程には他者の目を通した自身の姿の認識を経て、自己による自己認識確立に至るというものがある。

これはあんたの言うところの関係性の産物であるというものを指していると言えるだろう。

また、他者の目を通さないと自己自我)が存在しないのかというとそうではない。

これは

すなわち『レッテルを貼るという行為における地平を超越した地平に、自我存在するのであり、そもそもそのようなことを証明する(レッテルを否定する)必要はないのだ』という言説です

これを表しているな。

このたりについて、何も異論はない。


質問を投げかけておいてなんだが、実のところ俺も答えることのできるものを持っていない。

しかし、一つ言えることがある。

というのも、それは『自我とはそもそも言語化するべきでないものなのだ、あるいは自我とは言語化できない存在なのだ』という言説です

かにそのとおり。

自我を語れるか、と言われて語れる人間は恐らく存在しない。

しかし、自分自分について「何かを認識している」わけだ。

ここにポイントがあるんじゃないか

自己認識しているのは自我はなく、鏡に映った自分の姿、ある意味、人の目を通した自分の姿であり、自己自己レッテルを貼ったものだからだ、と言うことができる。

これは

我々の自己意識自我)が、ある単独なもののみによって構成されることでは、存在し得ないからだ、ということが言えるでしょう。

 すなわち、自我存在する方法としては、ある単独のものを用いるだけでは不十分なのです

 そして、相補的な二つのものにおける関係性としてでしか人間自我存在できないのでしょう。

というあんたの考えに近いものではないかと思っている。

自己自我)を構成するためには単独では成しえない。

では「自我についてレッテルとの差異を証明する必要は無い」のか、というと、それは違うと俺は思う。

必要なのは自己自我)が自身に対して貼ったレッテルと、他己(他我)が自身に対して貼ったレッテルのすり合わせじゃなかろうか。

溝は埋まらない、しかし縮めることはできる。

それがある意味自己証明となるのだと考えるんだがどうか。



これに関して特に返答は必要ない。

あんたと俺の間での「すりあわせ」はできたものと思っている。

長々としたものになったが、中々楽しかったよ。

2010-11-25

http://anond.hatelabo.jp/20101125224652

別々のものは別々のものであるから、それを同一視するのはナンセンスであるというのは自我に基づくものであって、他我の存在を無視していることに繋がる。

 正直に言うと、この一行を正しく理解できている自信がないのです

 つまり、『「別々のものは別々のものである」という解釈は、主観的な解釈である』(他我の解釈を無視している)ということでしょうか


 また、貴方が最終的に仰りたいのは、恐らく『自我と他我との断裂は埋め難く、それ故にレッテル自己内面との差異を言語によって証明することは不可能なのではないか?』ということなのだと私には思われました

 もしそれが貴方の問いたい内容なのであれば、私はこう答えます。「実に全くその通りだと思います」


 しかし、そう思うのと同時に、とある言説において反論が可能であるように思います。


 というのも、それは『自我とはそもそも言語化するべきでないものなのだ、あるいは自我とは言語化できない存在なのだ』という言説です

 すなわち『レッテルを貼るという行為における地平を超越した地平に、自我存在するのであり、そもそもそのようなことを証明する(レッテルを否定する)必要はないのだ』という言説です

 さてこの言説に則って更に反論を進めるとすれば『何故自己レッテルの地平を超越していると言えるのか』ということに対して証明が必要です

 しかし前提として、このことの(言語による)証明は不必要であると先に述べてしまったので、証明そのものがナンセンス化しているのですが、しかし敢えて説明を行います。

 すなわち、自己とは関係性の産物であるからです

 関係性の地平は、実在性の地平、つまりレッテルの地平を超越しているといえます

 というのも、関係性とは『ものとものの間にあるもの』なのです

 ですから、実在性(ものの地平)を超越しているのです


 では、どのようにして『関係性であるところの自己は、実在性(ものの地平)を超越しているのか』についてですが……これについては私も勉強中なので確たる答えが返せません! しかし敢えて言うならば、我々の自己意識自我)が、ある単独なもののみによって構成されることでは、存在し得ないからだ、ということが言えるでしょう。

 というのも、ある単独のもののみで構成されている世界には、存在理由がありません。

 このように断定することができるでしょう。(ライプニッツモナドロジーは否定されるべきだと私は思います)

 存在する理由(存在における『How、及びWhyという双方の質問に対する説明としての理由』)がないのに物事は存在できません。

 すなわち、自我存在する方法としては、ある単独のものを用いるだけでは不十分なのです

 そして、相補的な二つのものにおける関係性としてでしか人間自我存在できないのでしょう。


 そのような理由から言って、自我についてレッテルとの差異を証明する必要は無い、と言うことができるのではないでしょうか。

2010-09-23

ヘーゲルから見る自意識問題という名の厨二病

自意識問題について。

まあ思春期には、「自我」がどうしようもなく膨れ上がる。みんなそうだ。

このころに、つまり言葉一定の水位を超えてあふれ出す時に「思考」が始まる。

そして、現実ではなく、「自己意識の中では」自分は「自由」な存在だということを突然発見する。

若者の「思考」の最大の仕事自分正当化すること、そして自分世界の絶対的な主人公とすること。

そんなわけで、14~15歳前後から世界のすべてを自分流に解釈し、

自己意識の中で激しく「俺は誰でもない俺だけの存在だ」という感覚を確認しようとする。

要するに、思考の自由がやってきて、はじめて人間は「自分という存在のかけがえのなさ」を実感することになるわけだ。

おめでとう。

しかし、ここには問題がある。

第一に、それは「意識」の内側だけの自由であって、その人を取り巻く現実は、やはり親や社会ルールによって縛られ、拘束されている。

自力で現実的な自由の条件を獲得できない大抵の場合、当分は内的な「自由」で我慢するしかない。

第二に、自分自身を世界の絶対の主人公と見立てたいのだけれど、

この望みは誰もが同じようにもっているものだ、ということに気づかないわけにはいかない。

「周りの奴らは馬鹿ばっかで、俺の考えてることはわかんねーんだよ」という人も、

「俺は誰でもない俺だけの存在だ」ということが、誰にもあてはまる平凡な事実だということに薄々気づいている。

「思考の自由」が、人間に「自分だけは特別な存在である」という新しい真理を教えるのだけれど、

その自意識を満たしてくれる「クリエイティブ」で「他者が賞賛」するような職種で成功を収めないかぎり、

それはいずれ挫折する運命を持っている。

そして「別の生き方」を選ぶようになる。

そこにいたるまで我々は自意識問題という名の厨二病煩い続ける。

ヘーゲルはこの「俺は誰でもない俺だけの存在だ」という「自己意識の自由」の三類型ということを言っている。

第一の類型は「ストア主義」。

人々は醜い承認争いをしているが、そんな競争はつまらないものだと「俺だけはよく知っている」と考える自己意識のことだ。

このことで自己意識は、自分価値独自性を、内的に確保する。

「お前ら必死だなw」って奴だ。

第二の類型は「スケプチシズム」、つまり懐疑主義

人の意見の弱点を見つけてはこれを相対化しようとする人が懐疑主義者だ。

どんな意見もちょっと観点を変えればみな相対化されてしまうということを「俺だけはよく知っている」と考えて「自己意識」を確保しようとする。

この2つは、両方とも自分意見、態度、生き方留保しておいて他人の価値を低く見積り、

そのことで相対的に自己価値を確保しようとするやり方だ。

第三の類型は「不幸の意識」。

若者は独自の強力な世界観理論出会うとその世界にどんどんのめりこみ、世界人間のどんなことにも「立派な」ことが言えるようになる。

そのことで世界最強の「自己意識」を持つようになる。

キリスト教マルクス主義極右思想、自己啓発などなどだ。

しかし、この高尚な世界観要請する理想の姿と現実自分の姿の間で、引き裂かれる自己意識が発生する。

これらはすべて「自分の心の内側だけで、自己価値を確保しようとする試み」だ。

人間自己価値は「他者の承認」を必要とする。だけど、それは結構きつい。

から人間自分の中の「自由な思考」のうちで自己価値をつかもうとする。

でもそれはたぶん無理だ。

現実はどうしようもなく存在していて、そのうざったい自意識にうってつけの現実なんて向こうからやってこない。

その不可能性が頭ではなく身にしみた時こそが、めでたく厨二病卒業の時となる。

おめでとう。

で、その「別の生き方」ってのは自分なりに探してくれ。ニヒリズムに気をつけて。

参考文献:竹田青嗣自分探し哲学』(「愚か者哲学」の文庫化)

2010-09-22

人間の持つ感情の中で唯一評価に値するものは、苦痛である

 苦痛こそが、人間の持つ感情の中でもっとも評価に値するものである

 というのも、苦痛というものは、一定の条件下において生じるものなのである

 その条件とは、自身と他者と関係すること、自身と他者の欲求を満たすことである

 つまり、苦痛というものは、自身と他者が関係することや、自身と他者の欲求を満たすことによって生じるものなのである


 『自己意識』とは――自身と他者とが関係し合うことによってのみ生ずる

 つまり苦痛とは、自己意識そのものでもある

 あるいはこうも呼べよう、『苦痛とは意志である』


 ただし――関係性に全てが飲み込まれてしまっては、それはそれでニヒリスティックである

 関係性を抑制するような方策が――時に必要となるだろう

2010-05-20

最高の芸術作品を作り終えたとき

ふと想像した。

最高の芸術作品を作り終えたときの作者の気分とはいかなるものだろうか、と。

それを認めるのは自分だけでなく他人もそうであり、また時を越えて末永く評価されるような名作だ。

手を抜いてはもちろん完成しないだろうが、名作を作ろうと意気込み根をつめても必ずしもよくならないことは、素人の私でも想像ができる。そして「俺が作ってやる」といった自己意識もまた作品に影を落とすだろう。

そんなことを考えると、名作を作り上げたときの心境とは拍子抜けするほどにあっさりしたものなのではないだろうか。完全燃焼とか満足とか充足感とかからは遠く、どちらかというと変哲もない日常に近いところにある。

と、

考えたがしかし、執念で仕上げた名作とか若さ情熱自意識の名作とかありそうだから、当てはまらない想像だったか。どうも私は円熟とか静かな存在感などをイメージしていたようだ。

http://anond.hatelabo.jp/20100520203159

手ごたえ、いい表現ですね。

http://anond.hatelabo.jp/20100520201901

「名作」の定義とかいろんな側面をとりあえず脇においておいて、単純化した思考をしてみたんですよね。

文章の流れと着想の順番は逆なのもちょっと無理やりぽいかもしれません。

2008-09-28

http://anond.hatelabo.jp/20080928222707

博士の壁ね。

確かにその通り。

博士号をとるには乗り越えるべき壁があるし、そこを自分としては乗り越えられなかった。

つまり博士論文を仕上げられなかったわけだが、その点では能力が及ばなかったのだろうな。

だが、博士課程に進学した当初は当然博士論文を仕上げるつもりでいた。

そこんとこを「逃げ」の一言で片付けてほしくはないな。

査読論文一本を仕上げるのだって大変なことなのだから、博士論文を仕上げるなんてことはとんでもない能力努力を必要とする。

博士号っていうのは、そういう研究者の唯一の誇りみたいなもんだし、博士はやっぱり尊敬に値するよ。

しかし、現状、博士号を取ったからといって就職口が待っているわけじゃない、というのも事実なわけで、博士号をとりながら万年非常勤講師な人も、文系分野ではざらにいる。なので、世間的にはあまり意味のない博士号をとるために大学院に残って、あくまで博士論文を仕上げることに熱意を注ぐか、それかある程度のところで見切りをつけて就職するか、という選択も、大学院に残っていると現実的な問題として立ち上がってくる。

けれど、大学院ってところは、この二つの選択のうち一つの選択についてしか、つまり博士号をとってアカポスに就くということについてしかトレーニングの機会を提供しない。でも、少子化による大学数の減少は続いていて、それにともなって学部学科の減少とアカポスそのものの減少が続いている。そうなると、大学院が抱えてる院生がすべてアカポスに就けることなんてことはなくなる。いわゆる「ポスドク」問題ってやつだ(それでも、6年くらい前なら、我慢して40代まで研究を続ければ、いずれどこかに就職できる、なんてことが言われてた)。

大学アカポスが減っているのに、研究者志望の学生数というのは一定数いるわけなので、ここにはどうしたってミスマッチが生じてくることになる。ところが、一部の大学研究職の人間が考えているのは、どうやったらアカポスへの就職に有利なように制度を変えるか、とか、自分たちの学問分野の有用性を社会に分からせるか、という点になってしまって、研究室の孤島に住んでたせいで世間から切り離されたしまった院生意識をまともな方向に持ってく、だとか、「一般的な」就職に有利なスキル意識を持たせるとか、そんな方向にはほとんど関心を寄せていないわけだ。

ポスドク」問題が現に生じている中、大学院教員としてはアカポスにありつけないのは本人の責任で、アカポスに就けないで別の道に行くのも本人の問題なんだから、と言いたいのだろうけど、それはいかんだろう、と思うわけだ。アカポスに就けないのは、能力の問題同様に構造的な問題でもあるのに、そこに目を瞑って「アカポスに就けないみたいだね、ハイサヨウナラ」はないだろうよ。そんなこと言われたら、一般常識を知らない院生絶望するしかなくなってしまい、鬱病になったり自殺したりするんだよ。だから、大学院にいるうちに、研究室に引き籠もってる院生に対してまともな自己評価自己意識を持たせてあげる必要があるよ、というわけ。

 
アーカイブ ヘルプ
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん