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2021-02-03

マッチングアプリをやってみた

30代、首都圏在住、技術職男。

いわゆる結婚適齢期ではあるのだけど、彼女が4年間いなくてコロナで去年から新規出会いが全くないのでマッチングアプリをやってみた。

大手ペアーズは男女比が歪で男性プロフィールを盛りまくりとの情報を見たので、もう少しフェアそうなアプリ選択。週末の方が時間が取れて反応いいかなと思い1月半ばの三連休前の金曜日登録。いよいよ女の子検索だ。

まずは写真ざっと見て、第一印象判断する。

加工バリバリ写真を載せてる子、異様にキメ顔のキラキラ女子変顔面白キャラの子と色々なタイプがいた中で、スナップ写真自然笑顔を載せてるタイプが1番好感度が高かった。

次に何人かのプロフィールを開いてみた。ここも千差万別で、働いてる業界とか好きな料理音楽休日の過ごし方とか具体的な情報が載ってる子がわかりやすくてよかった。逆に恋愛観的なこと(おじいちゃん、おばあちゃんになっても手を繋いでいたい的な)を書いてる子は、性格的な判断がつかなくてびみょーだなと思った。

自分が好感を持つタイプ女性は同じタイプ男性に好感を持つだろうと仮定して、自分写真プロフィールも同じような内容に修正する。

友人との旅行で撮った自然スナップ写真を載せ、プロフィールには登録した動機(大学まで地方で、男女比歪な技術職なので出会いがないというような自然な感じ)と、趣味、特技、週末の過ごし方等を箇条書きにして、最後に見てくれてありがとう的な一言を添えた。

準備完了ということで、最初にもらった「いいね」を

好みのタイプに乱打。

登録した直後に75「いいね」くらい押す権利をもらったので、彼氏のいない女の子が暇を持て余していそうな時間帯、金曜夜の20時〜22時と土曜午前の10時〜13時くらいに押しまくった。

ちなみに検索条件は年齢差 -5 〜 +2 / 大卒 / タバコ吸わない / 東京神奈川埼玉千葉在住

結果、

押したいいね75

いいねを押して足跡がついた数17

マッチング3

女性からいいねが来た数18

マッチング率4%というのはまあまあな数字なのだろうか?女性からいいねが意外にたくさんきたのは驚きだったが、沖縄在住とか、写真プロフィールもない人とか、どう考えてもマッチしないだろう的な人が多くてビビった。

ちなみにマッチングした3人とは3,4日でやりとり終了。メッセージはせいぜい6,7往復で、はじめましてあいさつと、仕事在宅ですか?とかレベル無難な内容くらいしか送ってないので切られた理由は謎である。まあ、相手いいね数が200とか300とかかなり多かったので同時並行してやりとりしてる人も多いだろうし、よほどマメじゃないと、優先度が低い相手は面倒になってくるのかなとは思った。

そんなこんなでもうじき登録から1ヶ月。マッチング率だけで見れば、半年くらい続ければ彼女出来るかもという気はするが割と不毛な印象も受ける。実際にやり込んでる人はどんな感じなんだろうか?

2021-01-20

結局宇都宮餃子浜松餃子ってどっちがウマいのよ

イエーイ浜松県民です。

待って待って引き返さないで。俺のおすすめ餃子を聞いてからにして。

エントリーNo.1 味の素冷凍餃子(水なしで焼けるやつ)

いきなり地域特性皆無やないかい。でも手間とコスト考えるとめちゃくちゃ旨い。櫻井翔が旨い!って言ってるんだから旨いに決まってる。

とりあえず無性に餃子食いたくなった奴はこれ。いつも冷凍庫にストックしてる。

全国流通してるので地方スーパーにもたいてい置いてあって助かる。ありがとう味の素

エントリーNo.2 五味八珍の浜松餃子

愛知(ギリ数店舗)と山梨(ギリ一店舗)まではある静岡ローカル中華ファミレス。これは浜松餃子静岡店舗でも愛知店舗でもたぶんメニュー名は浜松餃子。皮は薄めでパリっとした感じ。具沢山。もちろんもやしがついてくるし円形(数が少ないのは横並び)。

ファミレスなので安いしいっぱい食べられる。あとすごいファミリー向け。お子さんが机をめっちゃ荒らしても店員が片付けるので気にしないでくださいってポスターが貼ってあるから世のパパママは気が楽になりそう。俺は独り身なので関係ないが。さわやかに並ぶの飽きたらこっちにしろ浜松ビルに入ってる。カウンター席あるし一人でも行きやすい。持ち帰りメニューも充実してるのでコロナ禍でも助かる。

餃子以外だとレタスチャーハンがめちゃくちゃおいしいので是非一度食べに来てください。

エントリーNo.3 自分ちの餃子

餃子は好みなので手作りしろ。結局それしかない。俺は皮薄めがいいしニラよりキャベツを入れたいし羽はパリパリについててほしいしもやしがないのは論外。自分で作れば変わり種(チーズキムチ海鮮類・ほうれん草とかがおすすめ)もできるし量も調節できるし成型するのが楽しい餃子づくりはい文明。とにかく具材を細かく刻むのがポイント。みじん切りさえ徹底的にやればだれでもサイコー餃子出会える。ナイス餃子ライフ

 浜松20年超でも「浜松餃子ってなんなのよ?」と聞かれてもはっきりとは答えられない。もやしが添えてあったら大体許されるような気はする。中には浜松餃子を名乗ることを許したくないような餃子もたまにあるが、まあ人の好みは千差万別なので仕方がない。人には人の浜松餃子

宇都宮餃子と名の付くものを食べたことがないので、宇都宮餃子がどういった代物なのか全くわからない。なんか特殊製法だったりするのか。気になるけど栃木に行く機会が全くなくて食べたことがない。浜松でも宇都宮餃子が食べられるところがあったら教えてほしい(そんな強気職人がいるのかわからんが)。

もっとから食べられるようになってほしい、餃子

2021-01-17

anond:20210117011534

スイートスポットにたどり着けてないだけだな。

検索流入とかでよー分からん奴をちらちら見かける程度じゃ何だってそうだが良さは分からんよ。

一聴して「何これめちゃくちゃ面白い」なんて動画はVだろうと非Vだろうと滅多に作れない。

でも非Vは裾野が広い分だけ、万人受けする沼の入り口のような動画サジェストに浮かんできやすい面はあるな。

Vは題材がゲームとか歌とかのオタクコンテンツか身内の馴れ合いくらいとバリエーションに乏しい傾向があるんで、ハイコンテクストになりやすい。

とはいえVも、その人を継続的に追いかけていれば、人気のVであれば「エモい」と感じられる瞬間が所々に配置されているはずだ。

そういうスイートスポットにありつけた人から熱心なファンへと変わっていくわけだ。

具体的に何がおもしろいのかについては、そのVtuber次第で千差万別なんで、感じ取っていくしかない。

トークの癖だったり個性に関するものであることが多いのは間違いないけどな。

2021-01-12

女にとってセックスって気持ちよくないのが当たり前なのか?

こないだ増田ちょっと話題にもなってたけど

女にとってセックスって気持ちよくないのが当たり前みたいになってるのってなんでなんだろうね?

私は悪いが気持ちいいフリとかイったフリだなんて人生で一回もしたことはないし必要も感じない。

もちろんこっちの気が進まないのに相手が求めてくるタイミング人生には存在する。

そういう時も大して演技とかはしたことないけどなんとかなってきた。

なんか女の子みんな相手に気使いすぎなんじゃないか

やりたくないときはやりたくないでいいんじゃないの?

気持ちよくないのに嘘ついて相手がこれでいいんだって勘違いしてまた気持ちよくないことしてって負の無限ループ意味なくない?

まぁ自分が突っ込んで気持ちよければそれでいいって男がある程度いるのかもしれない。

そういう人はひとまずおいておくとして、

割と女を感じさせたいと思ってる男は多い…んじゃないかと思う。

本当は感じさせたいと思ってくれてるのにできてないなら不幸だよね。

なぜそんな不幸が生じるんだろうか。

また、どうやったらそんな不幸が回避できるんだろうかと考えたときに、

何が気持ちいいのかは千差万別から女もやっぱりある程度はこういうのが好きってことを伝えたほうがいいのかも知らんと思うわけ。

裏でぶちぶち文句言うくらいだったら直接こうしてほしいと伝えたほうがいいんじゃないか?

まぁ一般的に女が快感を追求するのが恥ずかしいこととなってる状況でああしてほしいこうしてほしいって言うのが恥ずかしいのはわかる。

けど気持ちよくないなら良くないで伝え方に気をつけつつも自分希望をハッキリ言うべきなのでは?

察してくれは無理だよマジで。察してくれはマジでのだめな癖の一つたわ。それさえなんとかしたらうまく行くこと多いよ。

別に変な教祖みたいに膣トレしろとかなんとかはは言わないけどさ

気持ちいいセックスってほんとに別次元ですごいから勿体無いなと思ってしまう。

もちろん他で楽しいことあれば別にそこまでってなるのもわかるんだけどねえ。

自分がいいと思ったもんは布教して回りたくなる増田でした。

2021-01-10

anond:20210110100600

なるほど~。

しかし、個人的にはそれは好ましいことだとおもう。

学力児童生徒によって千差万別

それを同じ教室に30人とか詰め込んで、1人の教師が面倒をみること、

それにもはや異議をとなえてもいい時代になっているのではないだろうか?

DVDを何度もみれていい、といった生徒はいわゆる「自分勝手にやれる」生徒なのだろうし、

生の声じゃないと覚えられねえよ!」って生徒は、

学力は低いかもしれないが、そのぶんEQが高いのかもしれない。

からそういう声も、本人たちにとって選別になる。

「ああ、俺はIT社会に向いてないかもっと単純に人とかかわる仕事をしよう」ってことにもなるし。

優劣ではない、選別の自由担保されるのではないかな。

教室に押し込んだ授業から脱却することでできたメリットだと思うよ。

教員は、個別指導教室のようなサポーターとしての役割をになっていくのかもしれない。

2021-01-09

anond:20210109114433

手技は対象千差万別な上においそれと練習できないか

上手い人を尊敬はできても下手な人をあまりこき下ろせないなぁとは

毎月採血されてる身としては思う

2021-01-07

女だけど女にちんちんをいれてみたよ

所謂ペニバンというのをハーネス?でつけたよ

片側を膣に挿入するとちんちん生えたみたいになる双頭ディルド的な物体も買ったけどちんちんやす側が固定のためにクソぶっとくなってて無理だったよ 裂けるよ

ペニバン、当たり前だけどちんちんが常時ガチガチ勃起状態なのでクソ邪魔だよ

歩いてるだけで机とかにちんちんゴン!ってぶつかって笑っちゃったよ あと重いので段々落ちてくるね キツく締めても無理

ズボンもはけないしこれじゃちんちんを実際に装着した感は全然ないわなと思ったよ 別に性同一性障害とかじゃないしわからないけど

とりあえずちんちん邪魔なのを笑ったあと、実際に女の子の膣にいれてみたよ 当然感覚は無

感覚が無なので今ちんちんがどのへんに触れているのかなどはさっぱりわからん というかそもそもいれるのが難しい

手で棒を入れるのもそれなりにむずいなぁと思うのに腰ってそんなに精密な作業をする用にできてない 位置わからん

増田自分に穴がついてるのに「ど、どこが穴?」の童貞ムーブを手に入れる事ができた(それおしりのあな!などのベタベタ会話も手に入れた)

感覚が皆無のためどこまで挿入っているなんてのはさっぱりわからないが一応入った 増田童貞を失った 虚無

女の骨盤は女の骨盤のためセックスで腰を振るようにはできていないというけど本当だった え?どうやって動くの?という感じ

それにつけても単に難しすぎへんか?とは思ったが 産まれて初めて挿入に至った童貞が腰振れるわけない 突如未経験ベリーダンスを壇上でやらされるようなもん

女の腰じゃなくてもこんなの体系や体格に左右されすぎる 女の子身体(下半身)持って腰振るのめちゃくちゃ体力要る 人生経験したことのない動き

世の中の非童貞がこんな事をしていると思ったら素直に尊敬した と同時にセックスがヘタクソな男や童貞に同情した こんなんできんわ

増田はすぐに疲れてしまちんちんを抜いたが、ただのディルドのためビキビキのままだった 自分ちんちんだったらガン萎えしていただろうと思うぐらい疲れた

追記

>どこが穴?は童貞ムーブじゃない

おまえよ!童貞か?まんこの穴はドーナツみたいにぽっかり空いてるわけじゃねんだわ!

肉の層があり人によって形も千差万別 インターネットで100万個のまんこ見ても次に見たまんこの形ははじめてみるまんこなんだわ!

どんなに履修しても童貞童貞かますしかねんじゃ! まぁそれぐらいちんちんいれるのが普通にしかったんだよ うん

2021-01-06

anond:20210104215604

これらのツッコミに関しては製作側は「わかってて」やってる範囲ツッコミだと思う。

ただ見る人は千差万別なので伝わらないのは仕方がない。それらも含めて作り手が納得しているならもう言うことはない。

拳銃に関してはちゃん主人公放置するシーンがあるので伏線はあったので単なる見落とし。

鬼滅の刃みたいにやりすぎなぐらいに主人公たちキャラクターの行動の理由を徹底的に説明することでヒットした例もあるし、ああ演出的にはちょっとアレはアリなの?って感じたけど、結果はあっちのスタイルのほうがもう一枚ファン層を厚くできるのね、ってのは最近思ったこと。

2020-12-24

anond:20201224232250

人によるけど、食い物系飲み物系は少々相性が合わなくてもじゃまにならんからまれる。

無論じゃまにならんものをあげて、徐々に相手の好みを知っていく努力必要な。好みは千差万別なんだから

anond:20201224075635

千差万別でしょ。

女側も、ありがとう一言言って、受け取って、次から自分の好みについて匂わすみたいなことをするのが大人ってものでしょ。

何も言わずに察してみたいなエスパーを求めるのはそれはそれで子供

2020-12-05

萌え絵アニメーションに向いてないという勘違い


巷で話題萌えアニメオタク害悪だと主張する記事を読んだ感想である


私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。

ジャンプサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東ゴールデンタイム毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメ世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。

視聴作品数は、履歴書に書けば人間性理由採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想ブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラ茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。

そんな人間がひさしぶりに取れた休日の暇潰しに書いた文章だ。

簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。

以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。


主に作品ごとのアニメーションが持つ性質役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。

過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。

それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。


例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。


『氷属性もつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』


数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。

これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。

「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。

例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)

おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。

ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである

しろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。

さらにここに、


『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動やすいよう周りの空気自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女腰掛けているステンレス製の巨大三角から温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手冷凍保存しようとしている』


と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである


要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいかキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いかキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。

この時萌え絵かどうかはあんまり本質的問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感あるかないかの話に過ぎないと考える。

これより先は趣味指向トレンドしか言えない領域突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪判断軸が及ばない空間である

もしそれに対して「過去多くの作品萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまたことで不当にも市民権的なモノを得てしまたからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪しかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。

キャラ造形に対する文句ほど不毛なことはない。


ひと昔前にギャルゲー原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作アニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。

ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。

当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず立ち絵差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。

その原因は、アニメ萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写カットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしま可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。

まりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品ジャンルアクション主体なのかコメディ主体なのかリアル恋愛主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。

実際のギャルゲー原作作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。


画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤー存在にすぎないとも言える。

絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。

だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情自分リーチできるかどうかに関心が向いてしまものだ。

昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆ど人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当表現だと個人的には思う。

昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界生モノアニメブームが続いているように見える。

少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。

ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。

この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。


ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。

2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロイン少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれ世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。

ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。

社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。

何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画原画制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。

今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。

動画の内容が気になった方は各人で確認してもらいたい。

端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命のものだ。

そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。

間違いなく時代トレンド関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。

だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。

だが、予算制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。

製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。


コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。

もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。

けれど、

あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。

私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである


気づきの通り最後の2文が言いたかっただけだ。

最後まで読んでいただいた方は、こんな拙文にお時間取らせてしま申し訳ない。

良いアニメライフを。

萌え絵アニメーションに向いてないという勘違い

巷で話題萌えアニメオタク害悪だと主張する記事を読んだ感想である

私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。

ジャンプサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東ゴールデンタイム毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメ世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。

視聴作品数は、履歴書に書けば人間性理由採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想ブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラ茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。

そんな人間がひさしぶりに取れた休日の暇潰しに書いた文章だ。

簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。

以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。

主に作品ごとのアニメーションが持つ性質役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。

過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。

それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。

アニメーション、画面上の動きの一つに、こうした共通言語や構図の時間的変化から読み取れる言語で感じて欲しい叙情性に補完を入れたいのか。

例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。

『氷属性もつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』

数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。

これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。

「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。

例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)

おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。

ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである

しろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。

さらにここに、

『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動やすいよう周りの空気自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女腰掛けているステンレス製の巨大三角から温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手冷凍保存しようとしている』

と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである

要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいかキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いかキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。

この時萌え絵かどうかはあんまり本質的問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感あるかないかの話に過ぎないと考える。

これより先は趣味指向トレンドしか言えない領域突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪判断軸が及ばない空間である

もしそれに対して「過去多くの作品萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまたことで不当にも市民権的なモノを得てしまたからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪しかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。

キャラ造形に対する文句ほど不毛なことはない。

ひと昔前にギャルゲー原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作アニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。

ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。

当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず立ち絵差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。

その原因は、アニメ萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写カットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしま可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。

まりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品ジャンルアクション主体なのかコメディ主体なのかリアル恋愛主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。

実際のギャルゲー原作作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。

画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤー存在にすぎないとも言える。

絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。

だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情自分リーチできるかどうかに関心が向いてしまものだ。

昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆ど人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当表現だと個人的には思う。

昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界生モノアニメブームが続いているように見える。

少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。

ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。

この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。

ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。

2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロイン少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれ世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。

ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。

社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。

何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画原画制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。

今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。

動画の内容が気になった方は各人で確認してもらいたい。

端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命のものだ。

そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。

間違いなく時代トレンド関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。

だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。

だが、予算制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。

製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。

コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。

もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。

けれど、

あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。

私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである

気づきの通り最後の2文が言いたかっただけだ。

最後まで読んでいただいた方は、こんな拙文にお時間取らせてしま申し訳ない。

良いアニメライフを。

2020-12-01

新天地を求めてTwitterという僻地にきたはずだった

インターネット最盛期か、その少し後くらいから生きている二次元オタクです。

学生時代はとにかくオタクであることをひた隠しに生きてきました。私は女ですが、兄弟の影響で男の子向け(今この言回しもダメなんですかね)の漫画アニメが大好きでした。

あの時代、色んな因果からオタクはまだまだ日の目を浴びることはなく、よっぽど他に秀でたものがないと自分オタクなんぞとは言いだせない空気があったかなと思います

特にであるはいくら当時からコミケ参加者女性が多くとも、「男の子趣味の中でもギリギリセウト」くらいの扱いだったオタク趣味公言することもできずに日々自由帳に落書きをしては消してのくり返しの日々でした。

  

そんな私の人生を大きく変えてくれたのがパソコンインターネットでした。

流行り物好きの父親が飽きたもので私はインターネット世界出会います

最初に行き着いたのが当時からすでに色々あった「あの掲示板」でした。

日常では味わえない人間のプリミティブな部分とバカバカしさと一期一会の気楽さにすぐに虜になりました。

とにかく読むのが楽しかったので書き込むことはAAや「ワロタ」くらいの当たり障りのないものでしたが(そもそもあの掲示板でも、特に雑談板は女という性別は明かさない方が楽しめましたから)、すぐさま「ここは表に出せないことを許される範囲で言っても良いところなんだな」という認識になりました。

そこからはどっぷり専スレにハマります。私の中のオタクが開放された瞬間です。あの頃は怖いもの知らずなのもありましたが、とても楽しかったですね。

 

そこからしばらく、個人HP時代も来ました。専スレ妄想を語るものしかったのですが、なにせ個人性癖千差万別ですから。ぶつかることもありました。

個人HPだとより近しくディープ妄想も語れました。センシティブイラストを描きはじめたのもこの辺だったと思います

当時は個人HPと専スレを行き来していました。

  

しかしそんな所に黒船来航レベルのものがやってきますTwitterの登場です。

当時まとめサイトなるものが横行しはじめ掲示板全体の雰囲気が変わっている時でした。蓋付きの箱庭で遊んでいたら急に屋根を空けられて上から指を差される感じに近かったでしょうか。ミクシイ顔本なんかも同期くらいだったかなと思いますが、まぁ陰キャの中でも陰キャオタク女には縁がなく(そもそも匿名性が薄いので論外ではありましたが)。

そんな中登場したTwitterはそれはもう居心地が良かったです。

匿名で己の性癖のみですぐ繋がれるので、個人的に専スレ個人HPのいいとこ取りでした。この頃くらいか初音ミクの登場なんかでちょっとオタクにも優しい世界になりましたね。

見たい話題はすぐフォローして、地雷や2○ゃんねるでも見たこと無いレベルヤバいのとは距離を置き、まさに私だけのTLで遊んでしました。

バカッターなんて言われていた時代くらいからですかね。ちょっと様子が変わり始めたのは。

  

そしてここ数年。インターネット世界公共の場と言われるようになってきました。特にSNSなんかはそうです。

これに私はずっと疑問を感じています

「あれ?元々表に出せないもの必要な人に届けられる場がネットじゃなかったっけ?」と。

私は現在デザイナー兼成人向けコンテンツクリエイト生計を立てています後者趣味なので収入はほぼありませんが)。そしてこの度、後者用に運営していたTwitterアカウントが凍結されてしまいました。

もちろん注意書きとセンシティブ設定は徹底し、そこからさらにヤバそうなもの未成年に見えるかもしれないもの二次創作公式許可されていない版権ものグロニッチものなど)はワンクッション挟んで外部サイトリンクを繋げるなどしてきました。

質問箱に「青少年云々の条例が〜」「いいねRTから子どもが見るかも〜」みたいなのが来たと思ったらすぐでしたね。何も後ろめたいことはなかったのでスルーしていましたがいつのまにか凍結されていました(現在は解除済ですが連絡先に載せてあるメアド捨て垢からまだ似たようなメッセがきてます)。重ねて申し上げています特に版権モノ検索避けもしていましたし投稿画像にはどれもワンクッションかかるようにしていました。鍵がかかってなかったのがダメだったみたいです。

  

最近の例のタイツ献血のアレを、私は遠巻きに眺めていました。デザイナーとして運用している方のアカウントに色々流れてきていたのですが、同意できる部分もあれば全く理解すらできないコメントもありました。その中でずっとモヤモヤとしていたのがゾーニングについてのお話です。

タイツの方は中の人ミスディレクションの甘さが原因かなと思いますし、イラストのもの演出のが性的か否かは正直個人差が大きいものだと思うので割愛します。

しかゾーニングについては意見が分かれる部分です。

だって私は表にいられなかったかネット世界にきて同好の士と遊んでいたのに。今度はネット公共の場扱いする人がいるんですもの

もちろんネットからって何をやっても良いわけではありません。しかし大ぴらにだすと規制される可能性があるからネットに持ち込んだという意識が私のベースにあります

かにTwitterは18歳以上が対象SNSではありませんし、企業の方も多く利用していますしかしだったら何のためのTLと規約センシティブ設定とブロミュ機能なんですかね。

私は別にフェミだろうがミソだろうが表現規制だろうが悪影響だろうがどうでも良いのです。ただもっとノットフォーミー」でいてほしいのです。

私向けじゃない、ではダメですか。悪影響ってなんなんですかね。犯罪を犯しているわけでもなく、成人向けのイラストとはいえきちんと規約以上のことに気を遣って掲載しているのに、この上さらに知らない他人の子ものための悪影響を考えないといけないんですかね。それで悪影響をうけるやつは遅かれ早かれ別の何らかの影響を受けているのでは?と思ってはいけませんか。女性でもオタクではなく、私いち個人意見でありお気持ち表明です。

  

  

【ここから下はオマケです】

こんなことを言っていますが、私も普段は一人前のデザイナーです。流行センスアップデートが常にもとめられる職業です。でも多様化が示されて生きやすいことになった反面、他人多様化が認められない人もたくさん出てきたなぁと思います

というのも、最近女性デザイナーから」という理由責任を押しつけられることが数件ありました。

例えばブラジャーメイク道具など顧客層が女性から企画女性中心に…ということはたくさんありました。これはただ単純にマーケット層に近しい感覚理解できるかもしれないから、というもの私自チームメイト一生懸命考えたものを世に出しています

しかし直近に頂いたお話は「ただ女性デザイナーディレクターにおきたい」というものでした(実際はこいういう直接的な言い方ではなかったですが)。制作物の内容は某アニメ企業コラボ販促物です。もう世に出てるかなぁ…。別に献血みかんのアレのように人を選ぶものではなかったと思いますが、責任者をどうしても女性にしてほしいというお願いでした。(実際お仕事として企画から目を通してきちんとチェックはしましたが)。相手の方も終始申し訳無さそうだったので失礼なお願いをしているという自覚はあったんだと思います。でも女性デザイナーって職も舐めてますよね。この営業さんに頭下げさせたクライアントは。

悲しいことに、こういったお話はこの一件だけではありませんでした。私のように細々やってる身としては声がかかるだけで嬉しいものです。でも蓋をあけたら責任逃れで性別だけ貸して欲しいお仕事だったわけです。クリエイティブ業ですらこれなんですよ。女性活躍できる社会ってこういうことですか。そうですか。「女の子に淹れてもらったお茶の方が美味しんだぁ〜」って言われながらお茶くみ任せられたほうがまだ私はマシですね。

  

オタクが嫌われた時代も徐々に市民権を得られた時代当事者として見てきたつもりです。いつだって僻地で細々開拓してやっと居心地の良い住処を手に入れたと思ったら急に公共の場ができて先住民キチガイ扱いされる。マイノリティはやっぱり弱い。そしていつだって他のマイノリティのふりをしたマジョリティにやられるんですね。もうみんなさら地にならないかなー。18禁オタクだけのセンシティブTwitterがほしいなー

新天地を求めてTwitterという僻地にきたはずだった

インターネット最盛期か、その少し後くらいから生きている二次元オタクです。

学生時代はとにかくオタクであることをひた隠しに生きてきました。私は女ですが、兄弟の影響で男の子向け(今この言回しもダメなんですかね)の漫画アニメが大好きでした。

あの時代、色んな因果からオタクはまだまだ日の目を浴びることはなく、よっぽど他に秀でたものがないと自分オタクなんぞとは言いだせない空気があったかなと思います

特にであるはいくら当時からコミケ参加者女性が多くとも、「男の子趣味の中でもギリギリセウト」くらいの扱いだったオタク趣味公言することもできずに日々自由帳に落書きをしては消してのくり返しの日々でした。

  

そんな私の人生を大きく変えてくれたのがパソコンインターネットでした。

流行り物好きの父親が飽きたもので私はインターネット世界出会います

最初に行き着いたのが当時からすでに色々あった「あの掲示板」でした。

日常では味わえない人間のプリミティブな部分とバカバカしさと一期一会の気楽さにすぐに虜になりました。

とにかく読むのが楽しかったので書き込むことはAAや「ワロタ」くらいの当たり障りのないものでしたが(そもそもあの掲示板でも、特に雑談板は女という性別は明かさない方が楽しめましたから)、すぐさま「ここは表に出せないことを許される範囲で言っても良いところなんだな」という認識になりました。

そこからはどっぷり専スレにハマります。私の中のオタクが開放された瞬間です。あの頃は怖いもの知らずなのもありましたが、とても楽しかったですね。

 

そこからしばらく、個人HP時代も来ました。専スレ妄想を語るものしかったのですが、なにせ個人性癖千差万別ですから。ぶつかることもありました。

個人HPだとより近しくディープ妄想も語れました。センシティブイラストを描きはじめたのもこの辺だったと思います

当時は個人HPと専スレを行き来していました。

  

しかしそんな所に黒船来航レベルのものがやってきますTwitterの登場です。

当時まとめサイトなるものが横行しはじめ掲示板全体の雰囲気が変わっている時でした。蓋付きの箱庭で遊んでいたら急に屋根を空けられて上から指を差される感じに近かったでしょうか。ミクシイ顔本なんかも同期くらいだったかなと思いますが、まぁ陰キャの中でも陰キャオタク女には縁がなく(そもそも匿名性が薄いので論外ではありましたが)。

そんな中登場したTwitterはそれはもう居心地が良かったです。

匿名で己の性癖のみですぐ繋がれるので、個人的に専スレ個人HPのいいとこ取りでした。この頃くらいか初音ミクの登場なんかでちょっとオタクにも優しい世界になりましたね。

見たい話題はすぐフォローして、地雷や2○ゃんねるでも見たこと無いレベルヤバいのとは距離を置き、まさに私だけのTLで遊んでしました。

バカッターなんて言われていた時代くらいからですかね。ちょっと様子が変わり始めたのは。

  

そしてここ数年。インターネット世界公共の場と言われるようになってきました。特にSNSなんかはそうです。

これに私はずっと疑問を感じています

「あれ?元々表に出せないもの必要な人に届けられる場がネットじゃなかったっけ?」と。

私は現在デザイナー兼成人向けコンテンツクリエイト生計を立てています後者趣味なので収入はほぼありませんが)。そしてこの度、後者用に運営していたTwitterアカウントが凍結されてしまいました。

もちろん注意書きとセンシティブ設定は徹底し、そこからさらにヤバそうなもの未成年に見えるかもしれないもの二次創作公式許可されていない版権ものグロニッチものなど)はワンクッション挟んで外部サイトリンクを繋げるなどしてきました。

質問箱に「青少年云々の条例が〜」「いいねRTから子どもが見るかも〜」みたいなのが来たと思ったらすぐでしたね。何も後ろめたいことはなかったのでスルーしていましたがいつのまにか凍結されていました(現在は解除済ですが連絡先に載せてあるメアド捨て垢からまだ似たようなメッセがきてます)。重ねて申し上げています特に版権モノ検索避けもしていましたし投稿画像にはどれもワンクッションかかるようにしていました。鍵がかかってなかったのがダメだったみたいです。

  

最近の例のタイツ献血のアレを、私は遠巻きに眺めていました。デザイナーとして運用している方のアカウントに色々流れてきていたのですが、同意できる部分もあれば全く理解すらできないコメントもありました。その中でずっとモヤモヤとしていたのがゾーニングについてのお話です。

タイツの方は中の人ミスディレクションの甘さが原因かなと思いますし、イラストのもの演出のが性的か否かは正直個人差が大きいものだと思うので割愛します。

しかゾーニングについては意見が分かれる部分です。

だって私は表にいられなかったかネット世界にきて同好の士と遊んでいたのに。今度はネット公共の場扱いする人がいるんですもの

もちろんネットからって何をやっても良いわけではありません。しかし大ぴらにだすと規制される可能性があるからネットに持ち込んだという意識が私のベースにあります

かにTwitterは18歳以上が対象SNSではありませんし、企業の方も多く利用していますしかしだったら何のためのTLと規約センシティブ設定とブロミュ機能なんですかね。

私は別にフェミだろうがミソだろうが表現規制だろうが悪影響だろうがどうでも良いのです。ただもっとノットフォーミー」でいてほしいのです。

私向けじゃない、ではダメですか。悪影響ってなんなんですかね。犯罪を犯しているわけでもなく、成人向けのイラストとはいえきちんと規約以上のことに気を遣って掲載しているのに、この上さらに知らない他人の子ものための悪影響を考えないといけないんですかね。それで悪影響をうけるやつは遅かれ早かれ別の何らかの影響を受けているのでは?と思ってはいけませんか。女性でもオタクではなく、私いち個人意見でありお気持ち表明です。

  

  

【ここから下はオマケです】

こんなことを言っていますが、私も普段は一人前のデザイナーです。流行センスアップデートが常にもとめられる職業です。でも多様化が示されて生きやすいことになった反面、他人多様化が認められない人もたくさん出てきたなぁと思います

というのも、最近女性デザイナーから」という理由責任を押しつけられることが数件ありました。

例えばブラジャーメイク道具など顧客層が女性から企画女性中心に…ということはたくさんありました。これはただ単純にマーケット層に近しい感覚理解できるかもしれないから、というもの私自チームメイト一生懸命考えたものを世に出しています

しかし直近に頂いたお話は「ただ女性デザイナーディレクターにおきたい」というものでした(実際はこいういう直接的な言い方ではなかったですが)。制作物の内容は某アニメ企業コラボ販促物です。もう世に出てるかなぁ…。別に献血みかんのアレのように人を選ぶものではなかったと思いますが、責任者をどうしても女性にしてほしいというお願いでした。(実際お仕事として企画から目を通してきちんとチェックはしましたが)。相手の方も終始申し訳無さそうだったので失礼なお願いをしているという自覚はあったんだと思います。でも女性デザイナーって職も舐めてますよね。この営業さんに頭下げさせたクライアントは。

悲しいことに、こういったお話はこの一件だけではありませんでした。私のように細々やってる身としては声がかかるだけで嬉しいものです。でも蓋をあけたら責任逃れで性別だけ貸して欲しいお仕事だったわけです。クリエイティブ業ですらこれなんですよ。女性活躍できる社会ってこういうことですか。そうですか。「女の子に淹れてもらったお茶の方が美味しんだぁ〜」って言われながらお茶くみ任せられたほうがまだ私はマシですね。

  

オタクが嫌われた時代も徐々に市民権を得られた時代当事者として見てきたつもりです。いつだって僻地で細々開拓してやっと居心地の良い住処を手に入れたと思ったら急に公共の場ができて先住民キチガイ扱いされる。マイノリティはやっぱり弱い。そしていつだって他のマイノリティのふりをしたマジョリティにやられるんですね。もうみんなさら地にならないかなー。18禁オタクだけのセンシティブTwitterがほしいなー

2020-11-26

フェミニスト定義が曲がった日本

フェミニストといっても、真っ当に差別を憂う人間からただ不快ものを叩きたい人間まで千差万別なのだしか最近後者ミサンドリーな印象が強くなりすぎて、「フェミ」はもはや過激人種と思われてしまっている。

フェミニストは○○だ!」なんて言っても、主語デカすぎるカテゴリーなので該当するのは一部の人間なのに、その一部がフェミニスト定義のようになってしまっていて悲しい。過激フェミニスト過激アンチフェミニストが、対立と憎しみ合いを続けた結果、本来定義が捻じ曲がってしまった。

北米リベラル地域では若者社会人も気軽にフェミニストを名乗るけど、日本では特殊思想のように思われているので名乗りづらい。フェミニスト定義世界日本で解離してしまっている気がする。

正直、フェミニズムという名前女性主体女性中心的な印象を与えてしまうのは今後の課題だと思う。男女同権がまるで無かった時代には、女性解放思想=男女同権思想だったのでこれで良かったのだが、格差解消や性犯罪セクハラ糾弾一般に浸透した今となっては女性優位な印象を生んでしまっても仕方ない。男性要素も含めた名称に変えられるなら変えたほうがいいのかもしれない。どんな名称になっても、本来目的大事なので。

2020-11-25

anond:20201125163444

そもそも興味を持つポイントなんて(その子によって)千差万別

まあ言いたいことはわかるが、非モテがやりがちなNGポイント女の子の間でも共通してる部分がある。

興味を持つポイントじゃなくて、興味をなくしたポイントを書き出すことに意味がある。

今の御時世ガールズバー通いも難しいだろうし、マッチングアプリやらなんやらでやるしかいかもな。

 

相手の声が入ってたら盗聴は犯罪行為ですよ~

あと盗聴と秘密録音って違うんだぜ、でも結構キモい行為ではあるから隠しておいた方がいいのは確かだな。

2020-11-19

人生無理バー炎上は生きづらい勢みんなを不幸にする

当事者アピールのために先に自己紹介させてもらうと、俺はギリ健男性だ。

ギリ健って言っても変な自称発達とかではなくて、数年前にカウンセリング系の施設専門職の人から3時間くらいかかるちゃんとした検査を受けて、その結果、「正式認定を出せる医療機関検査を受ければ、医者にも依るけど高い確率で軽度発達障害として認定して貰えるだろう」と言われている。

ただ、社会的発達障害者として認定された上で生きることのデメリット考慮して、結局認定は受けなかったので、あえてここではギリ健と名乗らせてもらう。

人生無理バーでもたぶん出禁対象に入ると思う。


で、人生無理バー炎上騒動について。

「生きづらい人のために」と謳いながら属性で線引きするのかとか、『発達障害男性出禁』ではなく『女性限定』にするべきだったとか、無理バー側の態度・対応なんかに対する批判はまあ納得できるんだけど、『発達障害男性』をターゲットからしたことのもの批判されている現状が、俺は生きづらい勢の人間の一人としてかなり良くない流れだと思っている。

この手の生きにくさを抱えた人のための支援互助系の組織団体って、抱えているモノの重みや本人の気質属性がその団体マッチしているかの相性がものすごい大切なんだよね。

俺も検査受けた後、人に薦められて、お金払って専門家から支援を受けるような施設体験に参加したり、当事者間での交流目的の集まりに顔を出したりしたことが何度かあるんだけど、それらはどうももっと症状の重い発達の人が集まるところだったようで、残念ながらそこから生き方の知見を得ることも、傷を舐め合える仲間にも巡り合えなかったって経験がある。

一口に生きづらいって言ってもその実態千差万別で、加えて俺たちみたいな人間は往々にして人付き合いが下手な人間が多いから、マッチしない人間同士が集まってしまうと悪い空気になりやすい。

というか、それで実際に問題が起きたのが人生無理バーだったんじゃないかなと思う。

こういう集まりはターゲティングをしっかりする、悪く言えば特定属性以外の人間を切り捨てることが本当は必要不可欠なんだよ。

そこをリベラリスト気取りが唱える絵空事平等博愛で荒らされると、ハッキリ言って誰も幸せになれない。

彼らの指向は分かりやす弱者被害者保護に向いているから、それに従うならまず基準を一番重いモノを抱えている人に合わせられるのかな?

そうなったら、俺みたいな半端な症状の人間が真っ先に居場所を奪われそうだ。

切り捨てを免れてた発達障害男性にしたって不幸になるだろうな。

出禁にせざるを得ないと思われているような場所に無理矢理ねじ込んだところで、そこで発展性のある救いを得られることなんてまずあり得ない。

本来いるべきでなかったところに入り込んでしまって、ダラダラと時間を浪費するだけになるだろう。

生きづらい勢をみんなゴチャ混ぜにして集団包摂しようとしたら、きっとみんながみんな不幸になる。

安い綺麗ごとを吐いて気分が良くなりたいだけじゃなくて、発達障害男性の居場所がないということを本気で問題視しているのなら、本当の意味発達障害男性のためになる居場所を作ってくれよと言いたいし、まあ大多数の人はそんな思いはないだろうから、それならせめて当事者のためにならないお仕着せの理念だけを叩きつけるのはやめてくれと思う。

人生無理バーに関しては対応のマズさで火を広げたことを思うと個人的にはあまり良い感情は持てないが、ただそういう存在があると知った時、俺は正直希望みたいなものを感じた。

専門家がやっているようなちゃんとした組織って大体、発達障害なら症状の重い人を対象にしているところが多いから、案外、半端なボーダー層ほどそういう集まりと縁が持てないって問題があるんだよ。

人生無理バーはぬるい意識のくせにご立派な理念を掲げていたか燃えしまったけど、そういうぬるさみたいなのがもしかしたらそういう層の救いになるんじゃないかなと思った。

まあ、俺は男だから人生無理バーは無理だけど、似たようなところで自分マッチしそうなところがあったら行ってみたいとくらいには思えた。

からどうか、世間には人生無理バーみたいなターゲティング手法に関しては許してくれよと言いたい、本当に。

2020-11-15

anond:20201115193714

「捕まえる技術」と「継続する技術」は別物だからな。

そして、継続する技術原則はお互いの自然わがままを受け入れ合うこと。しかし、これはカップルの数だけ千差万別

根っこにあるには色恋ってのは相互承認欲求を満たすということから考えると、相手にできる限り譲歩し、でも譲歩できない範囲をはっきりさせること。

譲れる譲れないの吟味をした結果、譲歩できないところと譲歩してほしい場所がぶつかりあえば別れるのもやむなし。

更に、相手による自分否定に繋がりかねないからやっぱり怖いもの。なので無理して作った自分が壊れるのが怖いからと拒絶する。それこそエッチだけできればいいってのもいるしな。

だが、千差万別から共通項を見つけるのも難しいか普遍的な論にしづらいんだよね。

なので、捕まえる技術は多くの経験を積んだから得意だけど、継続できないという人間がいる。継続できない人間は異性を捕まえ口説くのはうまいよ。継続できないから関わっても不幸になるけどな。そういうモンスターが時々生まれる。

殆どは、下手くそなりに頑張ってたまたまうまく捕まえて、捕まえたやつとなんとか継続させて、恋愛市場から去っていくパターン

2020-11-05

詳しい用語とかは知らんので適当につくって語るけど

世の中、消極的公平を求める人と積極的公平を求める人がいるよね。

消極的公平というのは「○○を嫌がる人がいるから○○は禁止」というような選択肢を減らす方向の公平さ。

積極的公平というのは「○○をする権利は万人にあるので嫌な人は勝手に避けて」という選択肢を増やす(維持する)方向の公平さ。

もちろん積極的自由であっても法令なんかで禁止行為規定されるけど、なるべく選択肢を増やしておこうという考え方。

一方で消極的自由というのは選択肢ドンドン減らしていく考え方で

例えば、現状を「100」全員なにもする権利がない状態を「0」とした場合

一定数嫌がる人が居る行為規制自粛させてしていくと、人々の好みが千差万別である以上0に漸近していくよね。

消極的公平を推進する人ってどこかで、規制行為自分の好みの付近で止まると思ってない?

規制を進めていくと「0」を好む人以外はいずれセーフゾーンから弾きだされるんじゃない?

2020-11-03

ゾーニング」に関する三つの問題

1. ゾーニング定義

zone+ingという綴りから分かるようにゾーニングは「区分する」という意味である

にもかかわらず、ゾーニングを求める人たちの多くは「隔離隠蔽」のことをゾーニング認識している。

たとえばCERO Zのゲームはそのシールが貼られていればコーナー全体が隠されていなくともゾーニングされている。

たとえばコンビニエロ本は「成人向け雑誌」として区切られていたのでゾーニングされている。

たとえば「ラブタイツ」はツイートハッシュタグが付いていたのでゾーニングされている。

しかし、それらを「ゾーニング」とみなさず、「何の規制もなく放置されている」と考える人たちがいるのである

ゾーニングとは「ここに何があるかは明示するので、あとは各自で行動を選択してくれ」という理念だ。

不快ものを私の視界にいっさい入れるな」とはむしろ反対の概念であって、だから話が食い違うのである

2. ゾーニングコスト

では「隔離隠蔽」の意味でのゾーニング推し進めるとすればどうか。

もちろんそれは非常に難しい。

誰が何を不快に思うかは千差万別で、しか運営する側には窺い知れないものからだ。

インターネット上でなら上手くいくだろうか?

いや、どんなにブロックミュートを組み合わせても、見たくないものは見えてしまう。

不快ものを見たくない」という願いを実現することは不可能だ。

我々は、不快もの排除する力ではなく、不快ものに堪える力を身に着けなければならない。

からこそ「見せない」のはなく「見せた上で対応を選ばせる」――ゾーニングが求められるのである

3. ゾーニングジレンマ

もちろん、完全には無理でも、部分的に「隔離隠蔽」が成功することはあるだろう。

そのときはどうなるだろうか。

これもコンビニエロ本実例となる。

コンビニエロ本18禁ではなく、18禁に該当するような描写を避けた「マイルド」な代物だった。

にもかかわらず、あれらが「18禁」と認識され、批判さらされたのは、

隔離隠蔽」によって「それが彼らの目に映るなかで最も過激な本だった」からではないか

過激ものを隠していけば、過激さの上限はどんどん低くなっていくのが道理だ。

長年肌を隠してきたイスラム教国では生足ですら過激エロスとなる。

人間の「常識」は環境によって簡単上下する。

いまあなたが抱く「常識的に考えてこれはNGだろう」という基準も、

既にして「さまざまなもの規制されてきた」結果として生み出されたものである

コンビニエロ本は、様々な譲歩をしていたにもかかわらず、あっさりと撤廃されてしまった。

隔離隠蔽」という形で譲歩をすれば、そのぶん相手こちら側に踏み込んでくるだけ。

譲歩をするばかりではただ消滅するまで縮小していくだけなのだ

以上からゾーニング銀の弾丸にはなりえない。

冷静かつ中立的立場を気取って「私は規制ではなくゾーニングを求めているだけ」と主張する人たちは、

それがいかに役立たない提案かを自覚すべきだろう。

2020-10-30

良い会社なら若手の離職率が下がるという間違い

良い教育提供する

→若手社員市場価値が高まり転職率アップ。

良い福利厚生

→まぁ、悪くはないんだけどもしど田舎ならあまり効果はない。

良い職場環境

和気あいあいとした職場?活気のある職場?良い職場環境なんて千差万別からまり効果はない。


効果のある施策

業務明確化効果中)

所謂ジョブディスクリプション。業務関係ない仕事カットインほどやる気を削ぐものはない。

給料アップ(効果大)

→月20から23万とかチンケなレベルじゃなくて、学生時代にしっかりと成果を上げているならそれに見合った給料を出す。

見合った給料合意プロセス

→難しいけどこれができたら大体の問題解決しそう。

どうしようもない無能社員ダメ社員特に年功序列で上がっただけのヤツ)を徹底排除効果大大)

ダメな先輩の存在は本当にやる気を削ぐ。降格、配置転換場合によってはクビも視野に。

そんな殺伐とした環境は嫌?

→そんなことはない。大抵職場殺伐とさせるのはどうしようもない無能だ。

どうしようもない無能とは?

バグが多いとかそういう類のものはチームで解決すべき問題だと思う。そうではなく終始業務分担の話をしたり、自分の尻を自分で拭こうとしなかったり、自分世界で一番不幸な人かの様に振る舞い他人の不幸、苦労に目を向けず仕事を平気で擦りつけてくる類の無能だ。

鬱病を患った人も場合によっては無能になる。正直マネージャーメンバーが期待する業務をこなせないなら、負荷の少ない業種への配置転換をした方がお互いの為になると思う。

「こいつ、仕事できねぇな」と部下から上司からも思われる職場仕事をしてたら絶対鬱が加速する。

この増田で言いたいこと。

・俺の後ろにいる鬱だと言えば何でも許されると思ってる俺より2倍くらい給料貰ってるあの人をどっか遠くへ飛ばしてくれ

2020-10-27

anond:20201027131943

がっつりオタクやってると個々人によって趣味嗜好が千差万別であることなんて周知の事実から特に問題にならないんだろうけど、

ブームにわかがたくさん集まるとそれが分からない人も相応に多く出るんだろうなあ。

もしあなた作品ファンで、周りに「知らない」「見てない」「興味がない」という人がいても、できれば放っておいてほしい。

「好き」はいいことだろう。

しかしそれを他人に強く強いたり、「おかしい」「どうして?」と責め立てるのはいいことだと思えない。

2020-10-14

悟りとか涅槃とかそういうの

 年明けから少し経った頃に悟りました。

 とは言え、悟りとか涅槃とかそういうのについてあんまり期待をし過ぎるのもよくないかもしれない。知人に数年前に知り合った六十代の男性がいて、その人は真言密教への造詣がメチャクチャ深くて、僕は以前その人に「悟りっていうのは一体何なんですかね」という意味質問したことがあったんですね。

 更に続けて「やはり平穏というもの根本にはあるんでしょうか」と。

 その知人の男性は少しばかり考えた後で、「例えば自分の命を捨てないと、ある子どもの命が助からないとするじゃないですか」、

「たとえば、そういう時になって自分の命をちゃんと捨てられるのが悟りなんですよね。だから、時にそれは平穏矛盾していて、平穏を捨てる選択をしなければならないんですよ」と答えてくれたのでした。


 この世には本当の苦しみというものがある。例えば、人間拷問を受ければ簡単にぶっ壊れる。僕は、昔の中国のある女官が受けた拷問の話を、中学生の頃から心の中に時折反復するのが癖になっていて、その拷問の話は、「ああ、苦しみというものはこういうものなんだな」という素朴な考えを当時の僕の心に刻み込んだ結構辛い話なので、ここでは省かせて頂くんですが。ともかく、人の心というのは凄く脆いので、原理的には悟ろうが悟らまいが外部からの刺激によって簡単にぶっ壊れてしまう、そういうものであることは間違いないと思われます

 そんなこんなで、悟りっていうのははっきり言えば、現実的には全く役に立たない。しかも、基本的にそれを伝えることはとても難しいことなので、誰かにこうやって言葉にしようとしたところで、「ハアあなたは何を言っているのかね」と言われるくらいが関の山なのであって、正直なところ僕は今このテキストを書きながら途方に暮れているのです。けれども、それでもなお伝えたいんだけれど、それは結局「愛情を持つことによって、自分自分から離れる」ということになるんじゃないかと思う。

 上手く伝わってくれると良いんだけれど、それが悟りなのだと。


 勿論僕には個人的問題というものが未だに幾つか残っていて、そういう問題というのは、悟ろうが悟らまいが打ち波のように押し寄せる。ひとしなみに、僕にもまだ問題というものが幾つか残っていて、そういうものから完全に解放されたというわけじゃない。例えば洗濯物が溜まっているのを何とかしなくてはいけない。

 いずれにせよ、そういう個人的問題を、個人的方法によって解決する際に得た教訓のことを、僕は便宜的に悟りと呼んでいるのです。

 僕の得た教訓というものは、全くもって一般論的な教訓に結びつかないかもしれない。何故ってそれはとても個人的問題解決だったからで、つまり僕の得た教訓や問題解決手段はあまりにも個別的過ぎて普遍性を獲得し得たかどうか定かでない、ということなのです。

 それでも、やはり人は同じような結論に辿り着くんじゃないかなと。

 個々の抱えている問題の種類や、あるいはその個々の問題に対する解決アプローチ千差万別であったとしても、最終的な結論というものは大差なく、「愛情を持って自分自分から離れる」ということに落ち着く気がするのです。


 勿論、原理的には救いなどは存在しないのかもしれないし、僕が一時的に抱いた安堵は人生のどこかしらの時点で打ち砕かれるのかもしれない。

 そんなことは僕にも分かっていて、今更取り沙汰する気にもなれない。

 でも、結論から言えば僕の輪は一度はきちんと閉じたのだから、仮にもう一度輪が綻びたとしても、またいずれ気まぐれに、その輪が閉じる瞬間は訪れるのではないかと。そんなことを思うのです。


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