はてなキーワード: 千差万別とは
片側を膣に挿入するとちんちん生えたみたいになる双頭ディルド的な物体も買ったけどちんちん生やす側が固定のためにクソぶっとくなってて無理だったよ 裂けるよ
ペニバン、当たり前だけどちんちんが常時ガチガチ勃起状態なのでクソ邪魔だよ
歩いてるだけで机とかにちんちんがゴン!ってぶつかって笑っちゃったよ あと重いので段々落ちてくるね キツく締めても無理
ズボンもはけないしこれじゃちんちんを実際に装着した感は全然ないわなと思ったよ 別に性同一性障害とかじゃないしわからないけど
とりあえずちんちんが邪魔なのを笑ったあと、実際に女の子の膣にいれてみたよ 当然感覚は無
感覚が無なので今ちんちんがどのへんに触れているのかなどはさっぱりわからん というかそもそもいれるのが難しい
手で棒を入れるのもそれなりにむずいなぁと思うのに腰ってそんなに精密な作業をする用にできてない 位置がわからん
増田は自分に穴がついてるのに「ど、どこが穴?」の童貞ムーブを手に入れる事ができた(それおしりのあな!などのベタベタ会話も手に入れた)
感覚が皆無のためどこまで挿入っているなんてのはさっぱりわからないが一応入った 増田は童貞を失った 虚無
女の骨盤は女の骨盤のためセックスで腰を振るようにはできていないというけど本当だった え?どうやって動くの?という感じ
それにつけても単に難しすぎへんか?とは思ったが 産まれて初めて挿入に至った童貞が腰振れるわけない 突如未経験のベリーダンスを壇上でやらされるようなもん
女の腰じゃなくてもこんなの体系や体格に左右されすぎる 女の子の身体(下半身)持って腰振るのめちゃくちゃ体力要る 人生で経験したことのない動き
世の中の非童貞がこんな事をしていると思ったら素直に尊敬した と同時にセックスがヘタクソな男や童貞に同情した こんなんできんわ
増田はすぐに疲れてしまいちんちんを抜いたが、ただのディルドのためビキビキのままだった 自分のちんちんだったらガン萎えしていただろうと思うぐらい疲れた
おまえよ!童貞か?まんこの穴はドーナツみたいにぽっかり空いてるわけじゃねんだわ!
肉の層があり人によって形も千差万別 インターネットで100万個のまんこ見ても次に見たまんこの形ははじめてみるまんこなんだわ!
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
巷で話題の萌えアニメのオタクは害悪だと主張する記事を読んだ感想である。
私は萌えアニメからいわゆる硬派と呼ばれるアニメまで広く嗜む、アニメ視聴歴20年くらいのしがないアラサー男だ。
ジャンプやサンデーと言ったお馴染みの週刊誌で人気の原作アニメが、テレ東のゴールデンタイムで毎日のように放送されていた頃に、箸で摘んだ夕食のコロッケをテーブルの上に落としブラウン管にかじりつく少年期を過ごし、最近新刊が発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』をきっかけにいわゆる深夜アニメの世界に足を踏み入れて、今日に至ると言った経歴(他に言葉が思いつかなかった)を持っている。
視聴作品数は、履歴書に書けば人間性を理由に採用確率が30%減になるくらいあっただろうか。と言っても熱中度でいえば大したモノではなく、どんなに気に入った作品でも円盤を買ったり、グッズ等を買う程度だった。興奮が抑えられず感想をブログに載せたり、二次創作に勤しんだりするくらいならニコニコ動画で他の作品の視聴課金をし始めるくらいには職人気質は持ち合わせておらず、人によってはカステラの茶色の表皮だけをすくって人工甘味料(無いかも)の鋭く刺すような舌触りだけで満足するような、奇怪な楽しみかたをダラダラ続けていただけに見えるかもしれない。
簡潔に何が言いたいのか知りたい方は、途中全く大したこと書いてないので、最後だけを読んでほしい。
以降は今の俺以上に暇だと宣言できる、大変人間強度に優れた人だけが読み進めて欲しい。
主に作品ごとのアニメーションが持つ性質、役割の違いについて横道に外れながら綴っていきたいと思う。
過去に色々な作品を目にしてきている者ならばご理解いただけると思うが、「好きなアニメは? どういうところが好きなの?」と質問を受けたとき、瞬時に心動かされた場面(シーン)が頭の中を駆け巡り、「さてどれから話せばよいものか……」と、全身が幾分高揚している自分がいることに気づくだろう。
それらはキャラクタたちと共にストーリーを辿ることで得られた感覚につけられた名前のようなものだと私は考える。そしてそれらは言葉では表せないが、私たちに中で一種の『共通言語』的な役割を担い、機能しているのだ。
アニメーション、画面上の動きの一つに、こうした共通言語や構図の時間的変化から読み取れる言語で感じて欲しい叙情性に補完を入れたいのか。
例えば以下のシーンを目を瞑って思い浮かべてもらいたい。
『氷属性をもつ冷徹残忍な魔女が、手に持った杖を振るった。その瞬間空間の四方から無数の鋭利な菱形をした氷の刃が出現し、彼女の透明感のある艶やかな唇で結ばれる「さようなら」の言葉を合図に一斉に襲いかかってきた』
数々の映像作品を見たことがある人なら、無の空間からパキパキと音を立てながら蒼白い形作られ、魔女の妖艶な笑顔が映った次の瞬間に鋭い氷の塊が視界の中心に集まってくる2、3カットくらいの映像が容易に頭の中に流れたことだろう。
これは性格によるのかもしれないが、私は基本的には物語の進行上は「それ」でOKと考えるのだ。
「それ」とは、視聴者の頭の中で出来上がった薄ぼんやりとした2、3カットのことであり、重要なのは「それ」を我々視聴者に想起させ、作品を補完させることだと考えている。
例えば先のシーンで「魔女がどんな容姿でどんな服装服をまとい、どんな体勢なのか」とか、「魔女と言うくらいなら箒に乗っているのか」とか、「どんな服を身に纏っていたのか」とか、「どれくらい勢いで杖を振ったのか、杖の先はどこを向いているのか」とか、「氷の軌道は直線的なのか最初に外側に弧を描くなどトリッキーな動きをしているのか、時間差のある多段階攻撃なのか」などの質問されたら、スラスラと答えられるだろうか。(……私だけができないのなら怖い。ショックのあまり寝込む)
おそらくだが「いやそんな細かいところまでは……」のレベルの話だと思っている。多分これができる人はきっと絵が上手いはずだ。私は私を含め絵がど下手くその人がこの世にいることを知っている。
ぶちゃけた話、そこの解像度が高くなくても我々には多分『伝わってる』のである。
むしろ、それでどれくらい負傷するのかとか、実力差はどれくらいなのか、どうやって勝つのか負けるのかなどの次の展開に興味が移っていないだろうか。さらに言えば、この魔女の性格はどんな感じなのか? 冷徹なのだから口調は厳しいのかとか、魔女は主人公のこと気に入ったりするのか、追々仲間になる展開なのか、と言った、キャラクタの心情の移り変わる様子すら、この段階で期待してそれを軸に妄想を膨らませる人もいるだろう。
さらにここに、
『氷の魔女と呼ばれる彼女は、実は地球に住む人間の種を手に入れようと狙ってやってきた宇宙人であった。侵略活動しやすいよう周りの空気を自分たちの住む星の大気温度まで下げるため、彼女が腰掛けているステンレス製の巨大三角柱からは温度を奪う冷気的な何かを放出していて、空気中の水蒸気が氷結してできた塊を利用し相手を冷凍保存しようとしている』
と言ったストーリーの上欠かせない設定が加わった瞬間、魔女の攻撃の一連の動きがどれくらい迫力があるのかよりも、物語の展開的な動きの方が気になってこないだろうか。アニメーション上の緻密な動作よりも、ギャグ調を出すためにSDなキャラデザや画面効果といった要素の方が卓越してきそうなモノである。
要はその作品がどんなジャンルでどんなテーマなのか、その中でアニメーションをどう位置付けているかで、表現は千差万別の答えを持っていると考えている。立体的な動きとか力の伝わり方を見て取れるようなリアリティを重視するよりも、もっと感情移入して欲しいからキャラクタの魅力を全面に出す方針があるのであれば、背景のモブと呼ばれる方々まで生き生きと動いていればその画面の映え様に感動するけど、そこに力入れるなら止め絵でも良いからキャラ造形やカラーグラデーションに力が入ってて欲しいよねって意見も当然あると思う。
この時萌え絵かどうかはあんまり本質的な問題ではなくて、視聴者各々の共通言語とどれほどマッチしていて違和感があるかないかの話に過ぎないと考える。
これより先は趣味指向やトレンドとしか言えない領域に突入してしまう気がしてならない。そこは表現の自由が担保されている以上、善悪の判断軸が及ばない空間である。
もしそれに対して「過去多くの作品で萌え絵が使われていて、時間をかけて大衆になじんでしまったことで不当にも市民権的なモノを得てしまったからだ!」などと主張してしまっては、もはや時代(トレンド)に対する憎悪でしかなく、いつまでも見えない相手との戦いを余儀なくされることになるだろう。
ひと昔前にギャルゲーを原作としたアニメが多く生み出される時期があった。のちにラノベ原作のアニメが多く輩出される時代が訪れることになるのだが、当時としてはニコニコ動画を始めとした他メディアで取り沙汰され、言わば萌えアニメの本流とも言える地位を築いていたと思う。
ではそのどれもが、彼がいうところの『強度』なるものを有してたかというと、……なんとも言えないところはあるかも知れない。
当然のことだが何千枚という数の原画に対して、その全て原作独特の繊細な塗りを再現するのは時間的にも経済的にも叶わず、立ち絵と差分とスチルと効果のみで表現されていた絵に対して、話の展開にマッチするようにかつゼロから動きを盛り込むのはやはり至難の技のようで、結果的に作品の持つ強みを生かしきれないまま終わってしまったものが多くあった印象がある。
その原因は、アニメに萌え絵が向いていないというよりは、テキスト……特にキャラクタの心情面に比重が大きい作品は、初めからアニメーションを十二分に活かせるだけの舞台が比較的狭いように思える。キャラクタ同士のウィットに富んだ掛け合いを楽しむだけなら、それこそゲームのように会話と場面移動、要所要所で叙情性の窺える背景描写のカットの繰り返しで事足りてしまい、ともすれば動作は間を持たせるためのツールになってしまう可能性すらあるのだ。身もふたもない話だが。
つまりなんとも言えない感じになるのは萌え絵のせいではなく、作品のコンセプトにいかにアニメーションを上手絡めることができるかによるのだ。そしてそれは当然、作品のジャンルがアクション主体なのかコメディ主体なのかリアルな恋愛が主体となるのかでアニメーションの寄与度の上限が決まってくるので、表現手法の一つである「動き」単体で評価した時、ジャンルによる偏りがどうしても出てしまうモノなのだ。画面映えする動きがなくても『十二人の怒れる男』(実写映画だけど)のような名作は生まれる。
実際のギャルゲー原作の作品には、画面映えを飽きさせないようなさまざまなアイデアが盛り込まれていたけど、いよいよ話の筋から外れてしまうから割愛したい。
画面を縦横無尽に駆け巡るアニメーションは、突き詰めればただの動きであり、結局は表現手法の一つでしかなく、ストーリーとの直接的な関係がなければ、ストーリーへの直接的に干渉することはできない別レイヤーの存在にすぎないとも言える。
絵コンテ等の段階でスクリーン上の動きに込めた意図に気づける目の肥えた人にとっては、「動かし屋さん」の実力が垣間見れる瞬間であり、味の決め手のような作品の価値を決定づける重要ポイントなのかも知れない。
だがストーリーの展開に目が向いてしまう人々にとっては「面白い動きだな、他作品ではあんまり見ないカットを入れてるな」くらいに止まっていて、やっぱりキャラ同士の会話やその時に垣間見れる感情に自分がリーチできるかどうかに関心が向いてしまうものだ。
昨日NHKの某番組で紹介されていたが、殆どの人間は1秒間に4,5枚の絵しか見れないらしい。一枚絵のカットの切り替え表現の繰り返しは、程度にもよるのだろうが、予算や工程など諸々の事情を鑑みた時、大変妥当な表現だと個人的には思う。
昨今のは様々な形が出てきたとはいえ、まだまだ異世界転生モノアニメのブームが続いているように見える。
少ないリソースで最大効果を期待する戦略としては非常に合理的だと思っている。
ストーリー上の役割が小さい場面では「異世界転生モノあるある」やその根底にある「子供の頃に慣れ親しんだRPGの思い出」という共通言語を利用して絞り、作品オリジナルの強みにピボットを置き部分的に「動き」のリソースを割くことで相対的な画面と展開のギャップを生み出し、差別化と人気を獲得するにあたり大変都合が良いのかなと思っている。
この潮流について個人的にどうと言うつもりはない。むしろ当然の流れだと思う。個人的には長らく続いてきた「高校生部活青春ドラマ」がようやく落ち着いてきて、代わりに台頭してきたくらいの感覚だ。時代とともに変遷する価値観や需要を端的に示していると思ってる。
ところで『リトルウィッチアカデミア』というアニメ作品をご存知だろうか。
2017年に株式会社トリガーから出されたオリジナル作品で、ヒロインの少女アッコが憧れの魔女シャイニィシャリオにのようになろうと魔法学校に入学し、仲間達と共に成長を遂げていくというお話である。当時OP映像を見てその作り込まれた世界観引き込まれ、全話リアルタイムで追っていた。
ご存知の通りトリガーといえば他にも『キルラキル』や『SSSS.GRIDMAN』を始めとする数々の名作アニメを世に生み出した有名なアニメ製作会社だ。
社名に違わず弾丸が飛び交うような激しいアクションシーンが特徴的で、およそ10年にわたり多くのアニメファンを魅了し続けてきた。
何の因果か、つい先日株式会社トリガーが手がけるのアニメオリジナル放送前となる『リトルウィッチアカデミア』の短編映画の原画を制作する新人アニメーターたちの様子を追ったドキュメンタリー動画を、失礼ながらもしゃちく☆まっしぐらしていたリアタイ当時の自分の状況と重ねながら観ていた。
今回この拙文を書こうと思ったのも、その動画を触れたあとの余韻がそうさせたのだと思う。
端的に言うと、彼らが手がける他作品と一線を画す豪快な「動き」に込められた感動を生み出すもののの正体はアニメーターたちの寿命そのものだ。
そこまで心血注がなくたって、既に共通言語を獲得している我々にはその半分以下の動きであったとしてもおそらく『伝わっている』のである。だが彼らはそんな事眼中にはなさそうだ。彼ら自身が観たいものを描いているだけなのだろう。シャイニィシャリオがクルクルと回りながら杖を振り動物たちの花火の魔法を出すまでのたった数秒の「動き」に、何週間も終わりの見えない苦悩を重ね続けるなんて、それこそ描くこと動かすことが大大大好きでもなければやれるはずがない。私のような観ているだけの人間には理解できない世界がそこにはあった。
間違いなく時代やトレンドに関係なく後世に伝わってほしい作品の一つだし、アニメ好きの私は一つでも多くそう言った作品が世に出てくることを願ってやまないものの一人ではある。
だがそれがアニメの全てだとかあるべき姿だとかそういう指向性に囚われるような話でもないと思う。
だが、予算や制作期間と人員の消耗等のあらゆるのリスクを考えるのであれば、それらアニメーターの生命と血が滴る作品を世に出すことは、何十人何百人の人生をかけた大勝負であり、そんなものを定期的に見せておくれよなんて烏滸がましいことを言えるほど私は偉い人間ではない。
製作陣の戦いの姿の一端を見ただけで、シャリオが振う杖の軌跡一つとっても、数年に一度しか拝めない奇跡の奇蹟と言われても納得できるし、胸の内から熱く込み上げてくるものを心地よく感じることができる。
コロナの影響ですっかり荒廃しきった今の時代、人との関わりがすっかり乏しくなってしまった(俺だけかもしれないけど)独身を生きる俺に、自然と「頑張って作ってくれてありがとう」の気持ちと、明日を頑張れる活力を授けてくれた魔法だった。
もっと色々な魔法を、『傑作』を見てみたい! その想いの強さが故にアニメ業界の現状に、文句の声の一つくらい出してみたい気持ちもわかる。
けれど、
あの世界は、我々視聴者同士が視聴者層の絵の嗜好がどうとかで文句を言い合っているレベルで語れるのものではないのだと私は思う。
私が円盤や関連グッズを購入すると言った金銭的な応援以外にできることは、アニメーターの方々が1秒でも長くアニメを大大大好きでいていただきたいと願うだけである。
インターネット最盛期か、その少し後くらいから生きている二次元オタクです。
学生時代はとにかくオタクであることをひた隠しに生きてきました。私は女ですが、兄弟の影響で男の子向け(今この言回しもダメなんですかね)の漫画やアニメが大好きでした。
あの時代、色んな因果からオタクはまだまだ日の目を浴びることはなく、よっぽど他に秀でたものがないと自分がオタクなんぞとは言いだせない空気があったかなと思います。
特に女である私はいくら当時からコミケの参加者に女性が多くとも、「男の子の趣味の中でもギリギリセウト」くらいの扱いだったオタク趣味を公言することもできずに日々自由帳に落書きをしては消してのくり返しの日々でした。
そんな私の人生を大きく変えてくれたのがパソコンとインターネットでした。
流行り物好きの父親が飽きたもので私はインターネットの世界に出会います。
最初に行き着いたのが当時からすでに色々あった「あの掲示板」でした。
日常では味わえない人間のプリミティブな部分とバカバカしさと一期一会の気楽さにすぐに虜になりました。
とにかく読むのが楽しかったので書き込むことはAAや「ワロタ」くらいの当たり障りのないものでしたが(そもそもあの掲示板でも、特に雑談板は女という性別は明かさない方が楽しめましたから)、すぐさま「ここは表に出せないことを許される範囲で言っても良いところなんだな」という認識になりました。
そこからはどっぷり専スレにハマります。私の中のオタクが開放された瞬間です。あの頃は怖いもの知らずなのもありましたが、とても楽しかったですね。
そこからしばらく、個人HPの時代も来ました。専スレで妄想を語るもの楽しかったのですが、なにせ個人の性癖は千差万別ですから。ぶつかることもありました。
個人HPだとより近しくディープな妄想も語れました。センシティブなイラストを描きはじめたのもこの辺だったと思います。
しかしそんな所に黒船来航レベルのものがやってきます。Twitterの登場です。
当時まとめサイトなるものが横行しはじめ掲示板全体の雰囲気が変わっている時でした。蓋付きの箱庭で遊んでいたら急に屋根を空けられて上から指を差される感じに近かったでしょうか。ミクシイや顔本なんかも同期くらいだったかなと思いますが、まぁ陰キャの中でも陰キャなオタク女には縁がなく(そもそも匿名性が薄いので論外ではありましたが)。
そんな中登場したTwitterはそれはもう居心地が良かったです。
匿名で己の性癖のみですぐ繋がれるので、個人的に専スレと個人HPのいいとこ取りでした。この頃くらいから初音ミクの登場なんかでちょっとオタクにも優しい世界になりましたね。
見たい話題はすぐフォローして、地雷や2○ゃんねるでも見たこと無いレベルのヤバいのとは距離を置き、まさに私だけのTLで遊んでしました。
バカッターなんて言われていた時代くらいからですかね。ちょっと様子が変わり始めたのは。
そしてここ数年。インターネットの世界が公共の場と言われるようになってきました。特にSNSなんかはそうです。
これに私はずっと疑問を感じています。
「あれ?元々表に出せないものを必要な人に届けられる場がネットじゃなかったっけ?」と。
私は現在デザイナー兼成人向けコンテンツのクリエイトで生計を立てています(後者は趣味なので収入はほぼありませんが)。そしてこの度、後者用に運営していたTwitterアカウントが凍結されてしまいました。
もちろん注意書きとセンシティブ設定は徹底し、そこからさらにヤバそうなもの(未成年に見えるかもしれないものや二次創作が公式に許可されていない版権もの、グロやニッチなものなど)はワンクッション挟んで外部サイトにリンクを繋げるなどしてきました。
質問箱に「青少年云々の条例が〜」「いいねやRTから子どもが見るかも〜」みたいなのが来たと思ったらすぐでしたね。何も後ろめたいことはなかったのでスルーしていましたがいつのまにか凍結されていました(現在は解除済ですが連絡先に載せてあるメアドに捨て垢からまだ似たようなメッセがきてます)。重ねて申し上げていますが特に版権モノは検索避けもしていましたし投稿画像にはどれもワンクッションかかるようにしていました。鍵がかかってなかったのがダメだったみたいです。
最近の例のタイツや献血のアレを、私は遠巻きに眺めていました。デザイナーとして運用している方のアカウントに色々流れてきていたのですが、同意できる部分もあれば全く理解すらできないコメントもありました。その中でずっとモヤモヤとしていたのがゾーニングについてのお話です。
タイツの方は中の人のミスとディレクションの甘さが原因かなと思いますし、イラストそのものや演出のが性的か否かは正直個人差が大きいものだと思うので割愛します。
だって私は表にいられなかったからネットの世界にきて同好の士と遊んでいたのに。今度はネットも公共の場扱いする人がいるんですもの。
もちろんネットだからって何をやっても良いわけではありません。しかし大ぴらにだすと規制される可能性があるからネットに持ち込んだという意識が私のベースにあります。
確かにTwitterは18歳以上が対象のSNSではありませんし、企業の方も多く利用しています。しかしだったら何のためのTLと規約とセンシティブ設定とブロミュ機能なんですかね。
私は別にフェミだろうがミソだろうが表現規制だろうが悪影響だろうがどうでも良いのです。ただもっと「ノットフォーミー」でいてほしいのです。
私向けじゃない、ではダメですか。悪影響ってなんなんですかね。犯罪を犯しているわけでもなく、成人向けのイラストとはいえきちんと規約以上のことに気を遣って掲載しているのに、この上さらに知らない他人の子どものための悪影響を考えないといけないんですかね。それで悪影響をうけるやつは遅かれ早かれ別の何らかの影響を受けているのでは?と思ってはいけませんか。女性でもオタクではなく、私いち個人の意見でありお気持ち表明です。
こんなことを言っていますが、私も普段は一人前のデザイナーです。流行もセンスもアップデートが常にもとめられる職業です。でも多様化が示されて生きやすいことになった反面、他人の多様化が認められない人もたくさん出てきたなぁと思います。
というのも、最近「女性デザイナーだから」という理由で責任を押しつけられることが数件ありました。
例えばブラジャーやメイク道具など顧客層が女性だから企画を女性中心に…ということはたくさんありました。これはただ単純にマーケット層に近しい感覚を理解できるかもしれないから、というもので私自身チームメイトと一生懸命考えたものを世に出しています。
しかし直近に頂いたお話は「ただ女性デザイナーをディレクターにおきたい」というものでした(実際はこいういう直接的な言い方ではなかったですが)。制作物の内容は某アニメと企業のコラボ販促物です。もう世に出てるかなぁ…。別に献血やみかんのアレのように人を選ぶものではなかったと思いますが、責任者をどうしても女性にしてほしいというお願いでした。(実際お仕事として企画から目を通してきちんとチェックはしましたが)。相手の方も終始申し訳無さそうだったので失礼なお願いをしているという自覚はあったんだと思います。でも女性もデザイナーって職も舐めてますよね。この営業さんに頭下げさせたクライアントは。
悲しいことに、こういったお話はこの一件だけではありませんでした。私のように細々やってる身としては声がかかるだけで嬉しいものです。でも蓋をあけたら責任逃れで性別だけ貸して欲しいお仕事だったわけです。クリエイティブ業ですらこれなんですよ。女性が活躍できる社会ってこういうことですか。そうですか。「女の子に淹れてもらったお茶の方が美味しんだぁ〜」って言われながらお茶くみ任せられたほうがまだ私はマシですね。
オタクが嫌われた時代も徐々に市民権を得られた時代も当事者として見てきたつもりです。いつだって僻地で細々開拓してやっと居心地の良い住処を手に入れたと思ったら急に公共の場ができて先住民がキチガイ扱いされる。マイノリティはやっぱり弱い。そしていつだって他のマイノリティのふりをしたマジョリティにやられるんですね。もうみんなさら地にならないかなー。18禁のオタクだけのセンシティブTwitterがほしいなー
インターネット最盛期か、その少し後くらいから生きている二次元オタクです。
学生時代はとにかくオタクであることをひた隠しに生きてきました。私は女ですが、兄弟の影響で男の子向け(今この言回しもダメなんですかね)の漫画やアニメが大好きでした。
あの時代、色んな因果からオタクはまだまだ日の目を浴びることはなく、よっぽど他に秀でたものがないと自分がオタクなんぞとは言いだせない空気があったかなと思います。
特に女である私はいくら当時からコミケの参加者に女性が多くとも、「男の子の趣味の中でもギリギリセウト」くらいの扱いだったオタク趣味を公言することもできずに日々自由帳に落書きをしては消してのくり返しの日々でした。
そんな私の人生を大きく変えてくれたのがパソコンとインターネットでした。
流行り物好きの父親が飽きたもので私はインターネットの世界に出会います。
最初に行き着いたのが当時からすでに色々あった「あの掲示板」でした。
日常では味わえない人間のプリミティブな部分とバカバカしさと一期一会の気楽さにすぐに虜になりました。
とにかく読むのが楽しかったので書き込むことはAAや「ワロタ」くらいの当たり障りのないものでしたが(そもそもあの掲示板でも、特に雑談板は女という性別は明かさない方が楽しめましたから)、すぐさま「ここは表に出せないことを許される範囲で言っても良いところなんだな」という認識になりました。
そこからはどっぷり専スレにハマります。私の中のオタクが開放された瞬間です。あの頃は怖いもの知らずなのもありましたが、とても楽しかったですね。
そこからしばらく、個人HPの時代も来ました。専スレで妄想を語るもの楽しかったのですが、なにせ個人の性癖は千差万別ですから。ぶつかることもありました。
個人HPだとより近しくディープな妄想も語れました。センシティブなイラストを描きはじめたのもこの辺だったと思います。
しかしそんな所に黒船来航レベルのものがやってきます。Twitterの登場です。
当時まとめサイトなるものが横行しはじめ掲示板全体の雰囲気が変わっている時でした。蓋付きの箱庭で遊んでいたら急に屋根を空けられて上から指を差される感じに近かったでしょうか。ミクシイや顔本なんかも同期くらいだったかなと思いますが、まぁ陰キャの中でも陰キャなオタク女には縁がなく(そもそも匿名性が薄いので論外ではありましたが)。
そんな中登場したTwitterはそれはもう居心地が良かったです。
匿名で己の性癖のみですぐ繋がれるので、個人的に専スレと個人HPのいいとこ取りでした。この頃くらいから初音ミクの登場なんかでちょっとオタクにも優しい世界になりましたね。
見たい話題はすぐフォローして、地雷や2○ゃんねるでも見たこと無いレベルのヤバいのとは距離を置き、まさに私だけのTLで遊んでしました。
バカッターなんて言われていた時代くらいからですかね。ちょっと様子が変わり始めたのは。
そしてここ数年。インターネットの世界が公共の場と言われるようになってきました。特にSNSなんかはそうです。
これに私はずっと疑問を感じています。
「あれ?元々表に出せないものを必要な人に届けられる場がネットじゃなかったっけ?」と。
私は現在デザイナー兼成人向けコンテンツのクリエイトで生計を立てています(後者は趣味なので収入はほぼありませんが)。そしてこの度、後者用に運営していたTwitterアカウントが凍結されてしまいました。
もちろん注意書きとセンシティブ設定は徹底し、そこからさらにヤバそうなもの(未成年に見えるかもしれないものや二次創作が公式に許可されていない版権もの、グロやニッチなものなど)はワンクッション挟んで外部サイトにリンクを繋げるなどしてきました。
質問箱に「青少年云々の条例が〜」「いいねやRTから子どもが見るかも〜」みたいなのが来たと思ったらすぐでしたね。何も後ろめたいことはなかったのでスルーしていましたがいつのまにか凍結されていました(現在は解除済ですが連絡先に載せてあるメアドに捨て垢からまだ似たようなメッセがきてます)。重ねて申し上げていますが特に版権モノは検索避けもしていましたし投稿画像にはどれもワンクッションかかるようにしていました。鍵がかかってなかったのがダメだったみたいです。
最近の例のタイツや献血のアレを、私は遠巻きに眺めていました。デザイナーとして運用している方のアカウントに色々流れてきていたのですが、同意できる部分もあれば全く理解すらできないコメントもありました。その中でずっとモヤモヤとしていたのがゾーニングについてのお話です。
タイツの方は中の人のミスとディレクションの甘さが原因かなと思いますし、イラストそのものや演出のが性的か否かは正直個人差が大きいものだと思うので割愛します。
だって私は表にいられなかったからネットの世界にきて同好の士と遊んでいたのに。今度はネットも公共の場扱いする人がいるんですもの。
もちろんネットだからって何をやっても良いわけではありません。しかし大ぴらにだすと規制される可能性があるからネットに持ち込んだという意識が私のベースにあります。
確かにTwitterは18歳以上が対象のSNSではありませんし、企業の方も多く利用しています。しかしだったら何のためのTLと規約とセンシティブ設定とブロミュ機能なんですかね。
私は別にフェミだろうがミソだろうが表現規制だろうが悪影響だろうがどうでも良いのです。ただもっと「ノットフォーミー」でいてほしいのです。
私向けじゃない、ではダメですか。悪影響ってなんなんですかね。犯罪を犯しているわけでもなく、成人向けのイラストとはいえきちんと規約以上のことに気を遣って掲載しているのに、この上さらに知らない他人の子どものための悪影響を考えないといけないんですかね。それで悪影響をうけるやつは遅かれ早かれ別の何らかの影響を受けているのでは?と思ってはいけませんか。女性でもオタクではなく、私いち個人の意見でありお気持ち表明です。
こんなことを言っていますが、私も普段は一人前のデザイナーです。流行もセンスもアップデートが常にもとめられる職業です。でも多様化が示されて生きやすいことになった反面、他人の多様化が認められない人もたくさん出てきたなぁと思います。
というのも、最近「女性デザイナーだから」という理由で責任を押しつけられることが数件ありました。
例えばブラジャーやメイク道具など顧客層が女性だから企画を女性中心に…ということはたくさんありました。これはただ単純にマーケット層に近しい感覚を理解できるかもしれないから、というもので私自身チームメイトと一生懸命考えたものを世に出しています。
しかし直近に頂いたお話は「ただ女性デザイナーをディレクターにおきたい」というものでした(実際はこいういう直接的な言い方ではなかったですが)。制作物の内容は某アニメと企業のコラボ販促物です。もう世に出てるかなぁ…。別に献血やみかんのアレのように人を選ぶものではなかったと思いますが、責任者をどうしても女性にしてほしいというお願いでした。(実際お仕事として企画から目を通してきちんとチェックはしましたが)。相手の方も終始申し訳無さそうだったので失礼なお願いをしているという自覚はあったんだと思います。でも女性もデザイナーって職も舐めてますよね。この営業さんに頭下げさせたクライアントは。
悲しいことに、こういったお話はこの一件だけではありませんでした。私のように細々やってる身としては声がかかるだけで嬉しいものです。でも蓋をあけたら責任逃れで性別だけ貸して欲しいお仕事だったわけです。クリエイティブ業ですらこれなんですよ。女性が活躍できる社会ってこういうことですか。そうですか。「女の子に淹れてもらったお茶の方が美味しんだぁ〜」って言われながらお茶くみ任せられたほうがまだ私はマシですね。
オタクが嫌われた時代も徐々に市民権を得られた時代も当事者として見てきたつもりです。いつだって僻地で細々開拓してやっと居心地の良い住処を手に入れたと思ったら急に公共の場ができて先住民がキチガイ扱いされる。マイノリティはやっぱり弱い。そしていつだって他のマイノリティのふりをしたマジョリティにやられるんですね。もうみんなさら地にならないかなー。18禁のオタクだけのセンシティブTwitterがほしいなー
フェミニストといっても、真っ当に差別を憂う人間からただ不快なものを叩きたい人間まで千差万別なのだ。しかし最近は後者のミサンドリーな印象が強くなりすぎて、「フェミ」はもはや過激な人種と思われてしまっている。
「フェミニストは○○だ!」なんて言っても、主語がデカすぎるカテゴリーなので該当するのは一部の人間なのに、その一部がフェミニストの定義のようになってしまっていて悲しい。過激なフェミニストと過激なアンチフェミニストが、対立と憎しみ合いを続けた結果、本来の定義が捻じ曲がってしまった。
北米のリベラルな地域では若者も社会人も気軽にフェミニストを名乗るけど、日本では特殊な思想のように思われているので名乗りづらい。フェミニストの定義が世界と日本で解離してしまっている気がする。
正直、フェミニズムという名前が女性主体・女性中心的な印象を与えてしまうのは今後の課題だと思う。男女同権がまるで無かった時代には、女性解放思想=男女同権思想だったのでこれで良かったのだが、格差解消や性犯罪・セクハラの糾弾が一般に浸透した今となっては女性優位な印象を生んでしまっても仕方ない。男性要素も含めた名称に変えられるなら変えたほうがいいのかもしれない。どんな名称になっても、本来の目的が大事なので。
当事者アピールのために先に自己紹介させてもらうと、俺はギリ健男性だ。
ギリ健って言っても変な自称発達とかではなくて、数年前にカウンセリング系の施設で専門職の人から3時間くらいかかるちゃんとした検査を受けて、その結果、「正式な認定を出せる医療機関で検査を受ければ、医者にも依るけど高い確率で軽度発達障害として認定して貰えるだろう」と言われている。
ただ、社会的に発達障害者として認定された上で生きることのデメリットも考慮して、結局認定は受けなかったので、あえてここではギリ健と名乗らせてもらう。
「生きづらい人のために」と謳いながら属性で線引きするのかとか、『発達障害男性出禁』ではなく『女性限定』にするべきだったとか、無理バー側の態度・対応なんかに対する批判はまあ納得できるんだけど、『発達障害男性』をターゲットから外したことそのものが批判されている現状が、俺は生きづらい勢の人間の一人としてかなり良くない流れだと思っている。
この手の生きにくさを抱えた人のための支援や互助系の組織・団体って、抱えているモノの重みや本人の気質・属性がその団体とマッチしているかの相性がものすごい大切なんだよね。
俺も検査受けた後、人に薦められて、お金払って専門家から支援を受けるような施設の体験に参加したり、当事者間での交流目的の集まりに顔を出したりしたことが何度かあるんだけど、それらはどうももっと症状の重い発達の人が集まるところだったようで、残念ながらそこから生き方の知見を得ることも、傷を舐め合える仲間にも巡り合えなかったって経験がある。
一口に生きづらいって言ってもその実態は千差万別で、加えて俺たちみたいな人間は往々にして人付き合いが下手な人間が多いから、マッチしない人間同士が集まってしまうと悪い空気になりやすい。
というか、それで実際に問題が起きたのが人生無理バーだったんじゃないかなと思う。
こういう集まりはターゲティングをしっかりする、悪く言えば特定属性以外の人間を切り捨てることが本当は必要不可欠なんだよ。
そこをリベラリスト気取りが唱える絵空事の平等や博愛で荒らされると、ハッキリ言って誰も幸せになれない。
彼らの指向は分かりやすい弱者や被害者の保護に向いているから、それに従うならまず基準を一番重いモノを抱えている人に合わせられるのかな?
そうなったら、俺みたいな半端な症状の人間が真っ先に居場所を奪われそうだ。
切り捨てを免れてた発達障害男性にしたって不幸になるだろうな。
出禁にせざるを得ないと思われているような場所に無理矢理ねじ込んだところで、そこで発展性のある救いを得られることなんてまずあり得ない。
本来いるべきでなかったところに入り込んでしまって、ダラダラと時間を浪費するだけになるだろう。
生きづらい勢をみんなゴチャ混ぜにして集団に包摂しようとしたら、きっとみんながみんな不幸になる。
安い綺麗ごとを吐いて気分が良くなりたいだけじゃなくて、発達障害男性の居場所がないということを本気で問題視しているのなら、本当の意味で発達障害男性のためになる居場所を作ってくれよと言いたいし、まあ大多数の人はそんな思いはないだろうから、それならせめて当事者のためにならないお仕着せの理念だけを叩きつけるのはやめてくれと思う。
人生無理バーに関しては対応のマズさで火を広げたことを思うと個人的にはあまり良い感情は持てないが、ただそういう存在があると知った時、俺は正直希望みたいなものを感じた。
専門家がやっているようなちゃんとした組織って大体、発達障害なら症状の重い人を対象にしているところが多いから、案外、半端なボーダー層ほどそういう集まりと縁が持てないって問題があるんだよ。
人生無理バーはぬるい意識のくせにご立派な理念を掲げていたから燃えてしまったけど、そういうぬるさみたいなのがもしかしたらそういう層の救いになるんじゃないかなと思った。
まあ、俺は男だから人生無理バーは無理だけど、似たようなところで自分とマッチしそうなところがあったら行ってみたいとくらいには思えた。
そして、継続する技術は原則はお互いの自然なわがままを受け入れ合うこと。しかし、これはカップルの数だけ千差万別。
根っこにあるには色恋ってのは相互の承認欲求を満たすということから考えると、相手にできる限り譲歩し、でも譲歩できない範囲をはっきりさせること。
譲れる譲れないの吟味をした結果、譲歩できないところと譲歩してほしい場所がぶつかりあえば別れるのもやむなし。
更に、相手による自分の否定に繋がりかねないからやっぱり怖いもの。なので無理して作った自分が壊れるのが怖いからと拒絶する。それこそエッチだけできればいいってのもいるしな。
だが、千差万別だから共通項を見つけるのも難しいから普遍的な論にしづらいんだよね。
なので、捕まえる技術は多くの経験を積んだから得意だけど、継続できないという人間がいる。継続できない人間は異性を捕まえ口説くのはうまいよ。継続できないから関わっても不幸になるけどな。そういうモンスターが時々生まれる。
殆どは、下手くそなりに頑張ってたまたまうまく捕まえて、捕まえたやつとなんとか継続させて、恋愛市場から去っていくパターン。
世の中、消極的公平を求める人と積極的公平を求める人がいるよね。
消極的公平というのは「○○を嫌がる人がいるから○○は禁止」というような選択肢を減らす方向の公平さ。
積極的公平というのは「○○をする権利は万人にあるので嫌な人は勝手に避けて」という選択肢を増やす(維持する)方向の公平さ。
もちろん積極的自由であっても法令なんかで禁止行為は規定されるけど、なるべく選択肢を増やしておこうという考え方。
一方で消極的自由というのは選択肢をドンドン減らしていく考え方で
例えば、現状を「100」全員なにもする権利がない状態を「0」とした場合
一定数嫌がる人が居る行為を規制・自粛させてしていくと、人々の好みが千差万別である以上0に漸近していくよね。
zone+ingという綴りから分かるようにゾーニングは「区分する」という意味である。
にもかかわらず、ゾーニングを求める人たちの多くは「隔離・隠蔽」のことをゾーニングと認識している。
たとえばCERO Zのゲームはそのシールが貼られていればコーナー全体が隠されていなくともゾーニングされている。
たとえばコンビニのエロ本は「成人向け雑誌」として区切られていたのでゾーニングされている。
たとえば「ラブタイツ」はツイートにハッシュタグが付いていたのでゾーニングされている。
しかし、それらを「ゾーニング」とみなさず、「何の規制もなく放置されている」と考える人たちがいるのである。
ゾーニングとは「ここに何があるかは明示するので、あとは各自で行動を選択してくれ」という理念だ。
「不快なものを私の視界にいっさい入れるな」とはむしろ反対の概念であって、だから話が食い違うのである。
では「隔離・隠蔽」の意味でのゾーニングを推し進めるとすればどうか。
もちろんそれは非常に難しい。
誰が何を不快に思うかは千差万別で、しかも運営する側には窺い知れないものだからだ。
インターネット上でなら上手くいくだろうか?
いや、どんなにブロックやミュートを組み合わせても、見たくないものは見えてしまう。
「不快なものを見たくない」という願いを実現することは不可能だ。
我々は、不快なものを排除する力ではなく、不快なものに堪える力を身に着けなければならない。
だからこそ「見せない」のはなく「見せた上で対応を選ばせる」――ゾーニングが求められるのである。
もちろん、完全には無理でも、部分的に「隔離・隠蔽」が成功することはあるだろう。
そのときはどうなるだろうか。
コンビニのエロ本は18禁ではなく、18禁に該当するような描写を避けた「マイルド」な代物だった。
にもかかわらず、あれらが「18禁」と認識され、批判にさらされたのは、
「隔離・隠蔽」によって「それが彼らの目に映るなかで最も過激な本だった」からではないか。
過激なものを隠していけば、過激さの上限はどんどん低くなっていくのが道理だ。
長年肌を隠してきたイスラム教国では生足ですら過激なエロスとなる。
いまあなたが抱く「常識的に考えてこれはNGだろう」という基準も、
既にして「さまざまなものが規制されてきた」結果として生み出されたものである。
コンビニのエロ本は、様々な譲歩をしていたにもかかわらず、あっさりと撤廃されてしまった。
「隔離・隠蔽」という形で譲歩をすれば、そのぶん相手がこちら側に踏み込んでくるだけ。
譲歩をするばかりではただ消滅するまで縮小していくだけなのだ。
良い福利厚生
良い職場環境
→和気あいあいとした職場?活気のある職場?良い職場環境なんて千差万別だからあまり効果はない。
→所謂ジョブディスクリプション。業務と関係ない仕事のカットインほどやる気を削ぐものはない。
→月20万から23万とかチンケなレベルじゃなくて、学生時代にしっかりと成果を上げているならそれに見合った給料を出す。
どうしようもない無能社員、ダメ社員(特に年功序列で上がっただけのヤツ)を徹底排除(効果大大)
→ダメな先輩の存在は本当にやる気を削ぐ。降格、配置転換、場合によってはクビも視野に。
→そんなことはない。大抵職場を殺伐とさせるのはどうしようもない無能だ。
どうしようもない無能とは?
→バグが多いとかそういう類のものはチームで解決すべき問題だと思う。そうではなく終始業務分担の話をしたり、自分の尻を自分で拭こうとしなかったり、自分が世界で一番不幸な人かの様に振る舞い他人の不幸、苦労に目を向けず仕事を平気で擦りつけてくる類の無能だ。
鬱病を患った人も場合によっては無能になる。正直マネージャーやメンバーが期待する業務をこなせないなら、負荷の少ない業種への配置転換をした方がお互いの為になると思う。
「こいつ、仕事できねぇな」と部下からも上司からも思われる職場で仕事をしてたら絶対鬱が加速する。
この増田で言いたいこと。
とは言え、悟りとか涅槃とかそういうのについてあんまり期待をし過ぎるのもよくないかもしれない。知人に数年前に知り合った六十代の男性がいて、その人は真言密教への造詣がメチャクチャ深くて、僕は以前その人に「悟りっていうのは一体何なんですかね」という意味の質問をしたことがあったんですね。
更に続けて「やはり平穏というものが根本にはあるんでしょうか」と。
その知人の男性は少しばかり考えた後で、「例えば自分の命を捨てないと、ある子どもの命が助からないとするじゃないですか」、
「たとえば、そういう時になって自分の命をちゃんと捨てられるのが悟りなんですよね。だから、時にそれは平穏と矛盾していて、平穏を捨てる選択をしなければならないんですよ」と答えてくれたのでした。
この世には本当の苦しみというものがある。例えば、人間は拷問を受ければ簡単にぶっ壊れる。僕は、昔の中国のある女官が受けた拷問の話を、中学生の頃から心の中に時折反復するのが癖になっていて、その拷問の話は、「ああ、苦しみというものはこういうものなんだな」という素朴な考えを当時の僕の心に刻み込んだ結構辛い話なので、ここでは省かせて頂くんですが。ともかく、人の心というのは凄く脆いので、原理的には悟ろうが悟らまいが外部からの刺激によって簡単にぶっ壊れてしまう、そういうものであることは間違いないと思われます。
そんなこんなで、悟りっていうのははっきり言えば、現実的には全く役に立たない。しかも、基本的にそれを伝えることはとても難しいことなので、誰かにこうやって言葉にしようとしたところで、「ハアあなたは何を言っているのかね」と言われるくらいが関の山なのであって、正直なところ僕は今このテキストを書きながら途方に暮れているのです。けれども、それでもなお伝えたいんだけれど、それは結局「愛情を持つことによって、自分が自分から離れる」ということになるんじゃないかと思う。
勿論僕には個人的な問題というものが未だに幾つか残っていて、そういう問題というのは、悟ろうが悟らまいが打ち波のように押し寄せる。ひとしなみに、僕にもまだ問題というものが幾つか残っていて、そういうものから完全に解放されたというわけじゃない。例えば洗濯物が溜まっているのを何とかしなくてはいけない。
いずれにせよ、そういう個人的な問題を、個人的な方法によって解決する際に得た教訓のことを、僕は便宜的に悟りと呼んでいるのです。
僕の得た教訓というものは、全くもって一般論的な教訓に結びつかないかもしれない。何故ってそれはとても個人的な問題解決だったからで、つまり僕の得た教訓や問題解決の手段はあまりにも個別的過ぎて普遍性を獲得し得たかどうか定かでない、ということなのです。
それでも、やはり人は同じような結論に辿り着くんじゃないかなと。
個々の抱えている問題の種類や、あるいはその個々の問題に対する解決のアプローチが千差万別であったとしても、最終的な結論というものは大差なく、「愛情を持って自分が自分から離れる」ということに落ち着く気がするのです。
勿論、原理的には救いなどは存在しないのかもしれないし、僕が一時的に抱いた安堵は人生のどこかしらの時点で打ち砕かれるのかもしれない。
そんなことは僕にも分かっていて、今更取り沙汰する気にもなれない。
でも、結論から言えば僕の輪は一度はきちんと閉じたのだから、仮にもう一度輪が綻びたとしても、またいずれ気まぐれに、その輪が閉じる瞬間は訪れるのではないかと。そんなことを思うのです。
「障害者」といえど、千差万別である。だから、彼らと関わる「健常者」の経験も千姿万態となる。何事も一概には言えない。
ただ仕事として「障害者」を世話するにあたり、やはり、この業界の待遇はおかしいと思う。せめて金を倍払ってくれれば、気持ちよく仕事できそうだ。しかし、そんなことはあり得ない。
「障害者」が「普通」に暮らすとは、どういう意味なのだろう。いまや単身世帯が実態ならば、たとえば、朝食の際、意味不明瞭な発音で喚かれる彼らの話を職員が聞く理由はないのではないか。普通、朝食はひとりで黙って食べるのだから。
辛うじて高卒程度の彼らがいう政治談義に職員がどこまで付き合う必要があるのか。普通、政治と宗教と野球の話は何となく避けるものなのに。
この仕事に向いていないので辞めるべきだとは思う。しかし、コロナ禍でよい仕事もない。残された選択は、ホームレスになるか、自殺するか。しんどい思いをするのもイヤだし、世間様に迷惑をかけるのも申し訳ない。
ひっそりと他人様に迷惑をかけぬように自殺するしかないなと最近とみに思う。生まれてきたことに責任はない。しかし、生きたことが自己責任。もっと早く死ねば良かったと思っている。
増田よ。大変だったな。辛いし自分に浴びせられる、身体を駆け巡る憎悪や嫌悪で身体が燃え尽きてしまわないのは何故なんだと煩悶したりしただろう。職に関する描写の状況が変わっていないなら金が無い以上容姿の向上は難しいしこれからも大変だな。増田の今までとこれからに同情しかできないし、勝手に斟酌する失礼を詫びる。
増田と実際に顔を合わせた瞬間に失礼な事を言わないでいる自信はあるが、怯んだりはするかもしれないな。増田の描写によると。
しかしながら増田の男の非モテこそという言には賛成できないし、しない。
俺のような男こそが真の非モテだ。と言い、
同程度の容姿の女と比べてみるならまだともかく、男の非モテも千差万別であるのにも関わらずかなりのハードモードであることは間違いない自分を基準に置き「“男だから”辛い」 「“女は”楽」だと。それは駄目だろう。
男の非モテを語るにも女の非モテを否定するにも増田の語りは主語が大き過ぎる。
増田のは一般的なぼんやりとした非モテを語るには特異なケースに過ぎる。モテ以前の話だ。
女の非モテが無視するなと憤っていることの一つは、地獄に置かれて苦しんでいるのはお互いなのにお前のは苦しみと認めないお前が俺を苦しめていると断言することだ。
カンダタは蜘蛛の糸を独り占めしようとして同じ地獄から出たいと糸に掴まる他人を蹴落とし罵倒したが、増田は蹴落とす際に俺は地獄で苦しんだ人間だがお前らは苦しんでもないし俺を苦しめる獄卒だと叫んでいる。
この数年,妻が闘病してきたけど,先日,医師団から「刀折れ矢尽きた」と宣告されたので,病状と気持ちの変遷をチラ裏として書いておきたい.
そして,原因究明にも時間がかかりすぎた.毎日会っているとわからないけど,ある日出張から帰ると妻の脚が痩せてた.脚が太いのがコンプレックスだったようなので,呑気に「よかったじゃん」と言いながら,過ごしていたのが勿体なかった.疲れ気味とも言っていたので,マッサージでもして少し休んだら?という会話をしていた.その後,家族旅行に行ったけど,そこで調子が本格的に悪くなり,帰って病院にいくと即入院になった.その後,何が原因なのか(疲労?新手の感染症?)などをさぐっていたら,あっという間に+1ヶ月半(その間入院).で,結局,血液系の癌ですね,となり治療開始.気づくと今年は夏からすぐに冬になったんだなって思うくらいの慌ただしさ.この頃は,癌かもねという話があった時に,「そうかもな」と思いつつ,治療に専念してもらうかなど色々画策.妻は好戦的で,子供のことを巡って大喧嘩も数知れず.当時は抗がん剤治療が比較的うまく行っており,妻は余裕だと考えている節があった.
冬が終わるくらいになると,好戦的なのは変わらないけど,「あれ?」ということが増えてきた.それを認めないため,休みをとって診察に同行し(それまでは口出すなって言われていたので行かないことにしていた),事情説明.検査の結果,中枢神経系の転移が起きていて,即入院.これもかなり遅かった.入院して即治療という訳にも行かず,1週間くらい待っている間に,あっという間に意識不明になった.この時は,覚悟したし,最後にまともな会話ができなくて心残りがあるって思った.けど幸い,少しずつ治療が効いて,退院できるくらいになった.正直,一安心.けど,病院側からは普段の生活面において,不穏な話をたくさんされた.
退院してからの妻の行動は,人が変わっていたと言っても差し支えがない.見ず知らずの人にやたらめったら絡んだり,商品をカバンにしまって会計しないまま立ち去ったり.その度に,妻の実家を含めて話し合って,叱ったり諭したりし,本人は反省した風だけど,3日ももたずに繰り返す.家族で買い物に言っても,少し目を離した隙にやっている(目を離すなって思うかもしれないけど,例えば,子供をトイレに連れて行ってる隙にいなくなってるんだよね).本人はもう元気になったから,私のやりたいようにするってことらしい.それは構わないけど,家族や周りに迷惑かけるなって思った.「そんなに元気なら復職しろ」(治療中は休職)って話をして,じゃあ相談しようってくらいに,新型コロナの問題で会社・医師双方からもう少し待ちましょうって感じになった.本当にこのころは迷惑だったし,妻は妻で,「あなたが言うことは間違っている」と言っていて(「間違ってたら警察のお世話にならんわ」って内心思ってた),家族で見切れないから,衆人監視で動いてもらおうって思ってた.
けど,そうこうしているうちに,再発していることが判明(これも本人が再発を認めたくなかったため,医師に伝えるのにものすごく時間かかった).前回にこれで再発したら,もう手段はほとんどないですって伝えられていて,実際に選択肢は4つくらい(うち1つは治療しない)だった.お勧め順に潰してきたけど,やはりどれもダメってことで「刀折れ矢尽きた」の宣告に至っている.先週末あたりから,頭の中がタイムスリップすることが増えてきて,今週になってその時間が多くなってきた.これがどの段階なのか分からないけど,中枢神経系に転移した時に似た既視感があり,正直そろそろかなという直感がある.自分に対しては妻とお別れに対する悲しさ,これでやっと終わりだなという解放感,妻に対しては,子供の成長が見れなくて辛いだろうなという気持ちとやっと痛みや辛い治療から解放されるねという安心感.子供に対しては,どうすればいいのか分からない(母親を失うのはどうあがいても厳しいことだろう).混沌とした気持ちになっている.
以上,チラシの裏.
既婚者の皆様,特に専業主ふのパートナーをお持ちの方は,自分だけでなくパートナーの健康管理にも気をつけて欲しいといのが教訓.あとはどうなるかは千差万別.ただし,頭の病気は本当に周りが辛い.