はてなキーワード: ユダヤ教とは
それで改めて思ったのは、宗教というのは、本当に当初の原型なんかねえなということである。
キリスト教にしても、イエス自身はせいぜいユダヤ教の改革派ぐらいの立ち位置だったのが、
パウロが世界宗教への道を開いた結果、今のようになったらしい。
自分は、特に宗教心もないが、たぶん統計の上では大乗仏教の信者ということになっている、
どこにでもいる平均的な日本人だ。
上座部仏教については、「あ、東南アジアあたりでメジャーなやつでしょ」ぐらいの印象しかない。
しかし、どちらが当初の精神を引き継いでいるか考えてみると、もう明らかにあっちだと思う。
確かに、ブッダは王族で、当時としては恵まれていたし、妻も子もいたらしいが、
あんな思い悩んでばかりいたんでは、俗世で生きてて幸せなわけがない。どちらかと言えば我々サイドだ。
きっと、人付き合いも何もかもが煩わしいと感じるタイプだ。
どうやら、宗教というのは、仮に個人の救いという小さな問題から始まったものだとしても、
どこかの段階で「勢力拡大」というものが、教えのうちに組み込まれるものらしい。
誤解を恐れず言うならば、それはリア充に乗っ取られるということである。
他者を救わねば自らの救いもない、とか細かい理屈はあるが、要は群れたがる人間が主流派となり、
そうでない人間はそこから追いやられたと考えるのが自然だろう。
おそらくキリスト教もまた、リア充のパウロに乗っ取られてしまった結果が今なのだ。
イスラームはちょっと別だ。あれは最初からリア充サイドだったとしか思えない。
ムハンマドは商人・軍人としても有能だったらしいし、自らジハードなんて言っちゃってる。
そしてなにより、幼妻である。リア充でなくてなんだというのか。
自分は社会性がないので、リア充のいるところでは幸せに暮らせないと思っている。
そもそも、他人との交流が苦痛だ。人に好感を持ってもらえるような容姿もなく、話せば人を不愉快にする。
だから、自分を救うものがあるとすれば、それは趣味以外にないと思っていた。
確かに、その辺を歩いている人の真似をするよりは、二次元にはまっていた方が気が紛れた。
しかし、その趣味もまた、自己完結する世界ではなかったのである。
だが、この世界にもリア充が侵入し、そして幅を利かせている今、自分は肩身の狭さを感じつつある。
ライブに通い、SNSで他者と絡む。そういう人間が、やがてここでも正統派となり、
どうやら、宗教も二次元も、もちろんインターネットも、安住の地にはなりそうもない。
自分はどこに行けばいいのだろう。
アザーン(اذان adhān)は、イスラム教における礼拝(サラート)への呼び掛けのこと。
ユダヤ教のラッパ、キリスト教の鐘と同じような役割をしているが、肉声で行われることに特徴がある。
「神は偉大なり」という意の句「アッラーフ・アクバル」の四度の繰り返しから始まる。
イスラム教国旅行記ではしばしばアザーンを指して「一日5回モスクから流れるコーランの朗誦」といった記述が見られるが、
アザーンは礼拝への呼び掛けであって、コーランの朗誦ではない。
イスラム教ではアザーンと一緒に音楽を流すことは禁じられている。
そもそも、イスラム教正統派は、教義上、音楽を官能的快楽をもたらすハラームとして容認してはいないからである。
聖典の読誦であるキラーアやアザーン等の詩歌は、音楽的な要素を加えられても音楽では無い物として扱われる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%B3
そして、他と差別化される
刺青とかコミュニティに帰属するか否かの分かりやすいスティグマだ
戒律はコミュニティが大きくなると複雑化し戒律の専門家が必要となる
その反動として、既存の宗教家を廃して新しい信仰に流れるのもまたいつものことで
由緒正しい神社仏閣をパワースポットと称する文脈無視のフリーライドな精神は
エルサレムがユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地となる過程を追体験しているかのよう
宗教の成り立ちにおいて、教義よりも宗教的聖地の方が先に存在するのだ
廃仏毀釈が一番激しかったのは鹿児島だそうで、寺がかなり迫害されたが
墓も墓参りの習慣も残っている
日本は、仏教、儒教、神道のちゃんぽんの言うなれば日本教の信者で
5,6年前のこと、母は頭がおかしかった。
「こうするだけで体の痛みがなくなるの」と、自身の膝に手を近づけてブツブツと念じていた。Mr.マリックで画像検索するとたくさん出てくるまさに画像通りのポーズ。
(Mr.マリックさんは多分関与していません)
ある日「ちょっと参加するだけでいいから。じゃないと今月のお小遣いナシよ」と脅迫され半ば強引に車に乗せられた。
(当時高校生でバイトはできずお小遣いだけが生きる糧でした。)
向かったのは、母がその素晴らしいパワーを授かったという新興カルトの総本山。中のホールには老若男女100人以上がいた。
このイベントは信者が家族、知人をとにかく1人連れてこさせる、新規信者の勧誘セミナーだった。信者候補生は会場前段、信者が後段にそれぞれ50人ずつ席を用意されていた。この時、母の友人のおばさん(Aさん)と知り合った。共通の友人に連れられたと言い、隣で「ほんとにそんなすごい事あるのかしらね~」と笑っていた。
壇上にキャリアウーマン風のオバサンが現れた。このオバサンこそが教祖様だった。
そして長々とした挨拶が始まった。「私どもは、宗教でもカルトでも御座いません。ただみなさんにこの力を手にして頂いて、西洋医術に頼ることないより良い生活を送って頂きたいだけなんです。」
「とある地域に療養所を作る計画が御座いましたが、地域住民の方々に『カルトは来るな!』と反対され計画は頓挫しました。」
そして宇宙の真理やらキリスト教ユダヤ教ヒンドゥー教仏教の神々の話やら、やたら広大な話が始まった。宇宙の真理という単語を持ち出す奴にロクな奴はいないと断言できる。
次に、信者の喜びの声発表会となった。
信者が10人ほど壇上に上がり、一人ずつ素晴らしいエピソードを語っていった。生まれつきのアトピーが完治したと涙ながらに語る中年男性。神経性脱毛症が緩和された女子中学生。腰痛から救われ、人生も明るくなったと言う母。周りの信者候補生たちの表情も変わり始めていた。
その後は治癒体験会が行われ、信者と信者候補生が二人でペアを組んだ。
「皆さん今から始めてください!痛みを吹き飛ばしてください!」と言われ、母がどこか痛いところはない?とルンルンで聞いてきた。ただ、自分は至極健康体でケガも無く、仕方なく「肩が痛いかも」と言っておいた。クソ真面目な顔でパワーを送る母と、何も起きない肩。
仕方なく「治った気がする」と苦笑いした。
全員が一通り治療し終わると
「じゃあ、こちらの列の方から良くなった!という人は手をあげてくださいね」と言われた。まさかと思ったが、喜びの挙手がつぎつぎと起こり列の全員が手を挙げた。また次の列も、その次の列も笑顔で挙手している。それを見て心底ゾッとした。
もう全員洗脳されてしまったのか。自分が異端になるのが怖くて恐る恐る手を挙げた。
この場の99%という圧倒的マジョリティに対してなす術がなかった。
周り全員が敵になってしまった。おかしいのは自分なのかと気が狂いそうになり、いっそのことマジョリティになってしまえば楽になれる気がした。
全部で3時間ほどセミナーが続き、その間1度も休憩がなく会場に閉じ込められており、尿意がマックスに達していた。
自分を異端だと責める思いと、尿意が脳内でせめぎ合い、結果として尿意が勝った。
セミナー終了時には、信者候補生側からスタンディングオベーションが起こった。Aさんも「感動したわ~すごいわねぇ」と笑顔になっていた。
終了後、即トイレに向かった。
帰宅して小遣いをゲットし、「あんなもの信じてるなんてキチガイか」と大口論に発展した。現在母にそのカルトの事を尋ねるととぼけるようになった。
フランス語圏の漫画を日本ではバンド・デシネ、略してBDとして紹介することが多いわけですが、そのBDの世界で、ジョアン・スファールは例外的なほど多作、かつアニメや実写映画の監督を務めるなど多才なことでも知られています。一般にBD作家は日本の漫画家と比べると寡作なのですが、スファールの場合は、ほとんど日本の漫画家かというくらいに多作なようです。
スファールの作品の中には宗教に対する風刺もあります。ただし作風は、おそらく一般にシャルリー・エブドの風刺漫画から想像されるようなものとは異なっています。たとえば長編『ラビの猫』(これは自ら劇場用アニメ版の監督もしています)では「猫はユダヤ教の宗教儀礼を受けてユダヤ人になれるのか?」という設定からストーリーが展開します。(さらに付け加えると『猫』ではユダヤ教ラビがイスラム教修行者とある出来事を通じて意気投合するシーンが描かれます。さらに終盤は共に旅する仲間となります)
とりあえず、シャルリー・エブドで作品を描いたことによってスファールを「シャルリー・エブドの漫画家」と考えると誤解に繋がることは言っておきたい。
「スファールという漫画家はシャルリー・エブドに作品を描いたこともある」というくらいの理解が適当かと思われます。
ただし、スファールは、シャルリー・エブド襲撃事件を受けていくつもの作品を発表しています。
たとえばフランス語版ハフィントン・ポストの『Si Dieu existe』という作品。
http://www.huffingtonpost.fr/joann-sfar/carnets-dessins-si-dieu-existe_b_6602154.html?1423152000
猫が言います。
"Si Dieu existe, il ne tue pas pour un dessin."
「神様はいるよね、でも神様は1枚の絵のために殺したりしないよね」
最後に、日本語訳のある2冊の本を紹介してこの増田を終えたいと思います。
http://www.amazon.co.jp/dp/4861139562/
プチバンピ―学校へ行く
ひよこを飼っていた事がある。
脂ぎっているような白熱灯の元で、うじゃうじゃとまるで「蜘蛛の糸」を待つカンダタのような感じで、糸が垂れてくるのを待っている、縁日で売られていたひよこである。
なぜ、俺がひよこを欲しがったのかわからないし、付けた名前も忘れたが、とにかくひよこを飼った記憶がある。
ところで「ひよこ」と普段キーボードで打つことが余り無いので気付かなかったのだが「ひよこ」とタイプすると、なぜだかわからないが心がとても落ち着き、非常にピースフルな気分になる。皆さんもぜひ試してみて欲しい。
縁日の夜、我が家にて飼われる事になったひよこは、段ボールを改造したひよこハウスに入れられる事となった。
ひよこハウスの中は、柔らかいタオルケットのようなものが敷かれ、湯たんぽが安置されるという豪華暖房付きで、ひよこも心なしか居心地が良さそうだったのを覚えている。
こうして小さなワンルームの住人となったひよこの餌はなぜか「米糠」であった。
これは実家が米穀店を営んでいたことに起因すると思うのだが、今思うと水に濡らされて若干ぱさぱさ感の取れた米糠を延々と主食として食わされるひよこの心中は、いかほどだったのであろうか。
不思議と米糠をつつきながら、ぴよぴよと鳴くだけで、あとは暖かいタオルケットにくるまって寝るという、落語の道楽若旦那もうらやむような生活をしていたひよこは、いつのまにやら通常の人間が想起するひよこよりも、はるかに巨大になっていた。米糠だけであんなに大きくなるものなのだろうか。
こうして、すくすくと育っていったひよこであるが、大きくなってしまった結果、ひよこハウスでは少し手狭になってしまったので、我が家の庭にて飼育されることになったのである。
暖かいひよこハウスから、突如屋根無し生活のブルーシーターと化したひよこであるが、文句一つ言わずにひょこひょこと歩き回っていた。時々クビをかしげていたような記憶もあるのだが、あれは鳥類特有のものだろう。
ところで、日本人ならば成人式を迎えた日、ユダヤ教ならば割礼をした日、どこかの部族なら入れ墨をした時に「大人」と認められるのだが、ひよこはいつから鶏になるのだろうか。
鶏冠が生えて来た時だろうか。それとも、ある朝いきなり「コケッコッコー」と「今日から大人ですよわたしー!」と高らかに鳴いた時なのであろうか。
そんなことを子供ながらに考えていたある日、裏の駐車場にあった、鉄パイプを組んだ足場で遊んでいたところ、遠くから「ひよこがぁ! ひよこがぁ!」と祖母の叫び声が聞こえた。
大きくなり、湯たんぽの庇護を必要としなくったゆえに野晒しにされていたひよこは、野良猫に捕まえられ、抵抗の際に抜け落ちたと思われる数枚の羽毛を残してどこかへ消えてしまったのである。
こうして、行方不明になってしまったひよこであるが、その後近所で「野良鶏」を見なかったことから、おそらく猫に食われてしまったのかも知れない。
と、いうわけで、未だに縁日で売られているひよこだったり、どこかで鶏を見かけたりすると、米糠ばかりつついていたあのひよこを思い出して、ちょっぴり切なくも、懐かしい気持ちになる。
ちなみに、アメリカの研究チームがティラノサウルスの骨のタンパク質のアミノ酸の配列を解析したところ、ニワトリに最も似ているとの結論になったらしい。
何万年後かに、何かのはずみで地球の重力が少なくなったり何かして、突然変異で色んな生物が大きくなってしまったり、先祖帰りをしたとして、ティラノサウルスばりに大きくなったひよこが猛り狂ってぴよぴよしているのを、見てみたいものである。
姦淫の罪を犯した女は石で撃ち殺せ。父母を殴る奴は死刑。目には目を。歯には歯を。
それがイエスだ。
人が人を裁くな。隣人を愛せ。
多くの人がイエスに従った。
ある者達は彼を救い主(=キリスト)と呼び、ある者は彼を預言者と考えた。
君はレイプされた少女が石打ちの刑で処刑されるニュース映像を見たことがあるかい?
あれは厳しいよ。厳しすぎるよ。
弟子達ががんばったり処刑されたり弾圧されたりしつつも信者を増やして行った。
さらにいろいろあってローマの国教になり布教されていった。(civ4 的な意味で)
たぶんだいたいローマのせいじゃないかな。
なんでお前の家には仏壇があるの?と同じくらい意味のない質問だとおもうな。
うちのばあちゃんが教会に行けとうるさいとか。最近の若者はサラートしないとか。うちの親戚がお盆に帰らないと煩いとか。
聞く分にどの宗教も「どうでもいいと思っているけれど習慣とかしがらみとかで」という人達がそれなりの割合を占めているように思える。
すれ違いが起こる原因は「クリスチャンの家庭ではキリスト教で倫理教育を行っていること」ではないかと思う。
たまに聞かれる「なんで日本人は無宗教なのに犯罪が少ないの?」なんて質問はこの辺りのすれ違いから来ていると思う。
日本の一般家庭はお父ちゃんお母ちゃんが倫理教育をしているんだよね。
「人に親切にしなさい」「人にして欲しいと思う事を人にしなさい」「差別はいけません」(注1)
だいたい新約聖書に書いてある事と一緒だよ。
http://anond.hatelabo.jp/20150607042259
複雑なんだなー今回の問題。国内や世界情勢の知識が色々備わってないと正確に把握できない。
あと、あらかじめ先に言っておくと、客観的に見て分かるように、右翼サイドも左翼サイドも悪い点があるということです。「どっちだけが一方的に悪い」ってほど簡単な問題ではなさそうです。
2. ISISがブチキレる。
・日本は(というか安倍政権)はアメリカとべったり路線なので、アメリカと関係が深いイスラエルも支援したかった。
・日本にある武器輸出三原則を変えてまでもやりたかった。それもそれで物議をかもす。
イスラエルというのはユダヤ人で構成されている。アメリカは優秀な少数のユダヤ人に掌握されてる面があって、じっさいアメリカの政治家や権力者にもユダヤ人が多い。なのでユダヤ人やイスラエルにあまり逆らえない。ちなみにアインシュタインもユダヤ人。
技術大国イスラエル 日本企業も熱視線:ワールドビジネスサテライト:テレビ東京 http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/wbs/newsl/post_82655/
ユダヤ教とイスラム教の聖地が両方ともその辺にあって、競合しちゃってるのが原因。しかもイスラエル軍が無駄にパレスチナ人を殺しすぎている。ひどい。でもアメリカはそれをあまり非難できない。イスラエルは中東らへんの周辺諸国に嫌われている。
・2001/9/11を発端とした、アメリカのテロとの戦いがある。
テロは悪いことなんだけど、それに対する報復戦争のやり方もマズかった。誤爆が多かったし。それがテロリストと無関係な穏健なイスラム教徒や中東の人からの印象も悪くさせた。報復と報復のいたちごっこになっている。
・少し話しそれるが、第二次世界大戦でアメリカがドイツでなく日本に原爆を落としたのは、民族的に近いほうだと抵抗感があったが、日本はそれがが少なかったから。という説がある。イエローモンキーだから。それと同じノリで「民族ちがうし抵抗感ないしテロむかつくしテキトーでいいんじゃね?」と誤爆しまくったんじゃないのかなぁ、と思っている。アメリカってあまり反省をしない気がする。ちなみにアインシュタインは大統領に原爆を進言したのを悔やんでいたそうです。
・そういうのもあって、昔(911前くらい?)までは中東からの日本への視線は同情的なものもあったらしい。なんだけども、「中東からの印象悪いアメリカ、イスラエル」に対して、日本がいままで以上に踏み込んでべったり路線になり、武器を売って支援しようと言うのだから。そりゃあその印象の悪さがそっくりそのまま日本にも適用される。同情の念も薄らいでしまう。
今、このタイミングでネタニアフと会う意味をまったく考えない安倍ちん - みんなどこか変わってるから大丈夫 http://d.hatena.ne.jp/mzponta/20150120/p4
2014/8月の時点ですでに捕まっていたらしい。日本政府は今まで何をやっていたのか?については、まだ調べてない。でも2番で挙げたような情勢を鑑みたら、そんな人質がいると把握している状況なのになぜそんなタイミングでイスラエルに武器輸出をすると言い出したのだろうか?そんなことしたら、こんなことになると予見できたのではずでは無いのか?
テロ組織に人質身代金払ったら、テロの勢力拡大に加担してしまうことになる。だから払えない。それは皮肉にも先述の「イスラエルに武器輸出したらどうなるか」と似ている。天唾ブーメランなのだ。
日本のマスメディアの「人命を救うためにお金を払え!払わない安倍政権は非人道的だ」という意見は全くの逆でしょう。人命を救うためにはテロ組織を拡大させないことが重要。wikipedia見るとわかるけど、いまもなおISISは周辺を侵略しまくって領土拡大しています。マスメディアがやりたいのはどんな手段を使ってでも安倍政権を叩きたいだけ。テロリストに加担してでも。政権叩きよりも他に優先してすることあるだろ?という状況でも。
身代金を出すなんてしたら、穏健派(非過激派)を怒らせてしまう。渋谷のモスクで人質解放の祈りを捧げてくださっているイスラム教徒たちも怒るレベル。
「ヨルダン人パイロット」とか、ISISが要求変更して捕まってる刑務所のテロリスト解放しろと言ってきたこととか、その辺はすみません把握できていません。
NHKスペシャル|追跡 「イスラム国」 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0201/
午後9時00分~9時49分
ふつうに客観的にみて選挙のシステムに色々問題点がある。低い投票率、パンダ議員、一票の格差、小選挙区と比例代表の問題点・・。
でもどんなにプロセスに問題があっても、建前上・対外的には、結果的に有権者が政党を選んだ・信任したことになります。
で、
このメディアリテラシーの低さや、世界への関心の低さで定評のある日本人のなかで、
この記事で調べてある程度まで把握できた上で考えたり発言をしている人は
一体どれだけいるのだろうか。という疑問。
ISISの声明は、日本国内の反政府組織や左翼に対して大義名分を与えている。それもあるけど、「言葉通りの意味」も一理あるのだと思う。つまり、国内でも色々あるけど結果的には「有権者が安倍政権を信任したことになる」わけだから、そんな政権を信任したような日本人(有権者)が悪いんだよ。と。安倍政権をおろせばすべてがうまくいく、とかそんな話でもないです。民主政権を思い出せばわかるでしょう。じゃあどうしたらいいんでしょうね。
平たく言えばこういうメッセージということ:
日本人の政治問題への無関心について自省的な態度で見ると、そう受け止めることができる。
いい歳した大人の有権者の日ごろの行いって、世界につながっているんだなぁと実感した次第。
※ほかにも、イスラム教のシーア派/スンニ派/アルカイダ/ISISの関係とか、過激派/穏健派とか、アメリカは石油を確保するために中東とそれなりに仲良くする必要もあったり、日本とアメリカの安全保障上の関係とか、集団的自衛権とか、いろいろ背景について調べるポイントはあります。
ユダヤ人といえばナチスに迫害されたことが有名ですが、ユダヤ人にも嫌われるだけの原因があったということです。だからといっても迫害は絶対悪ですが。
※追記4
書き始めた時点で存在している、返信が必要だと思ったブコメに対する返信
id:kusoinakakagoshima 卑怯なのはテロ行為なんですが。ムスリムの価値は豚の糞以下だよ 肥やしにもならない
はい、テロ行為はこれ以上ないほどに卑怯です。しかし、表現の自由を守るという文脈で私たちはシャルリーである、と言うのも卑劣な行為ですというのは増田を読めばお分かりいただけると思います。また、あなたの後半の発現はヘイトも同然な発言です。在日の価値は豚の糞以下と言っるのと同様です。つまり、シャルリーにように建前として宗教を批判しているのではなく、建前の時点で宗教を信じている人たちを直接的に攻撃しています。
id:sny22015 難しいな。米映画「ラリー・フリント」では目を背ける様な唾棄すべき表現であっても法の下では護られるべきという、自由を勝ち取って作られた国の理念が描かれていたが…それは自由の濫用だという非難にも首肯できる
アメリカは徹底した表現の自由の国です。あそこまでいくといっそすがすがしいなという思いがあります。ヨーロッパは、特にユダヤ人に対する抑圧の歴史から、第二次大戦後ヘイトスピーチを規制しようという機運が高まってきたので、事情はアメリカとは異なります。
id:vhthlh これフランス国内の一般人や知識人達はどう考えていたのか気になる。
フランス人の間でも前々から議論になっていました。イスラム系団体の中には裁判という言論によってカウンターを行うグループが出てきたりしていましたが、こうした流れのさなかに今回のテロ事件が起きました。恐らく今まで積み重ねてきた努力が水泡に帰してしまうことを考えると、本当にテロは許されざる行為だという思いを強くします。
id:hal9009 これに乗じてこういう統制主義者とでもいうべき規制派・自由嫌いがもっともっとヘイトスピーチとされる行為の範囲を拡大していかなければならないって言い始める機会も増えるだろうな~
表現の自由を維持するためには表現の自由をabuseする言論を一定程度は規制する必要があると考えています。
id:ayanapapa 針ネズミが腫れ物に当たったわけだからどうしようもない。ただ日本も無関係な話ではない、イスラム教徒は増えているが他の先進国と同じく疎外され殻に閉じこもる。近い将来フランスと同じ事が起こらないことを祈る。
id:cider_kondo 欧州極右の主張は「イスラムは非寛容で政教分離を認めない。西欧の価値の根源たる自由と寛容とは相容れぬ」ぐらい。セキュリティホールの一種で、イスラム側が世俗主義を導入しないと論理的解決はほぼ不可能。難しい
ブコメの字数制限があるため分かりかねるところがあるのですが、それはつまり「欧州極右の主張にも表れているように、イスラムに対して持っている問題意識はこれこれが最大にして唯一のものだが、これがセキュリティホールとなってしまっている。イスラム側がそうした問題点を解決しないと先には進めない」ということですか。つまり、イスラムの人々が社会的に疎外されてる云々というところに対する反応だということですね。しかしながら、日本における在日問題も見れば分かるように、二世、三世はほとんどその国の人間と文化的には同質です。そうした人間であっても、社会的に疎外されて、結局イスラム教にしかアイデンティティを見いだせなくなり、そしてイスラム教=私たちという図式になってしまうのです。イスラム教を否定されると、イスラム教しかすがるところがない人々にとっては、自身を否定されたも同然になります。なお、イスラム教はあなたどころか、欧州極右が考えているよりも案外柔軟な姿勢も持つ宗教です。イランのイメージを強く持ち過ぎです。バーレーンのような国では本当にイスラム教徒なのか、というくらいには緩い生活を送る人々が多くいます。
id:oktnzm シャルリーの風刺が表現の自由の枠外なら諸国の言っている表現の自由とは一体なにをさすのやらw一番守りやすいとこ守っても切り捨て行為にしかならんよ。
前者に関して、シャルリーの風刺はヘイトスピーチであるので、それを表現の自由から外すことに何が問題かよく分かりません。後半に関して、主張するところの意図が分かりかねますが、後半部は「一番守りやすい弱者であるイスラーム系移民を守ったとしてもそれは表現の自由の切り捨て行為にしかならない」ということでしょうか。でしたら、そもそも表現の自由の枠内に収まらないヘイトスピーチである以上、切り捨て行為ではないと思われます。
id:type-100 いや、正義の有無に関わらず与えられるところに、自由とか権利の価値はある。これが表現の自由に対する毀損と感じるのであれば、それはあなたが表現の自由よりも他の権利や価値観を優先しているだけの話だ。
与えられる、というか、侵害されないものとして、生まれつき保障されているというところに自由とか権利の価値があることは事実ですが、それを濫用することまでは種々の権利・自由は想定していないと考えています。つまり、他者の権利、即ち平穏無事に他者から毀損されることがないという権利を踏みにじってまで権利の濫用(ここではヘイトスピーチ)を行うことまでは許容されていないということは歴史が証明していることだと思います。なお、これは決して批判を行うことを否定している訳ではないことを付記しておきます。
id:nekora 如何なる歴史があろうと銃を乱射してはいかん。本邦国内に数十あるイスラム寺院にも本件についてどちらを支持するかの聞き取り調査と公表を急げ。
どうでもいいのですが、nekoraさんはもう同人活動を行われないのでしょうか。
id:masm これを見るに、テロは一定の成果を収めたのかな。糞言論であれ、10-0でテロリストが悪いって意思表示することは悪くないのでは?あと、「ヘイトスピーチ同然な言論」か否かを判断する十分なソースをまだ見てない。
はい、10-0でテロリストは悪いです。だからといって、あなたの言葉を借りたらヘイトスピーチも同然な糞言論も表現の自由の一環として保護することになる私たちはシャルリーである、というスローガンは非常に危ういものです。理由は既に述べてきたとおりです。
id:my_yours のっけから和訳を間違えている。
「We are 99%」に代表されるように、この手のスローガンは"私たち"という使い方をすることが多いので、Je suisではありますが、私たちと訳してしまいました。不適切なので、より原文に忠実に訳します。ご指摘ありがとうございます。
id:kappei 元記事の人もブコメで同調している人も、自由主義を理解してない。実はルソー、マルクスの系譜が日本では優勢な気がする。真理がある、と考える人たち。
すみません、何を言いたいのか、100文字という短すぎる制限では分かりかねるところがあります。申し訳ございません。
id:serio キリスト教徒が神だとしているイエス・キリストを、クルアーンで人間だと言明しているイスラームは、それ自体がヘイトスピーチなのではないか、と極論を言ってみたりする。
細かい話になってしまいますが、キリスト教徒はイエス・キリストを神である、とまでは言っていないと思うのでそのたとえの言わんとしているところが分かりません。
id:Mochimasa 『「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である』 それなら"Je suis charlie”は前者の文脈でテロの被害者として掲げられているのだから、後者の文脈でこれを批判するのはフェアではないのでは
それならいいのですが、表現の自由の一環としても利用されている、つまり後者の文脈でも利用されているのが問題なのです。つまり、その二つは別物なのに、スローガンにおいては前者の中に後者の視点も入れてしまっているのです。
id:homarara なんだそりゃ。誰かにとって辛い事は報道しちゃダメ、なんて縛りがあってたまるか。極論を掲載する新聞なればこそ、それを守る戦いが表現の自由を守る事になる。無難な事しか書かない新聞だけ守っても意味ないわ。
自身のアイデンティティを否定するようなヘイトスピーチは表現の自由の枠外であると考えています。「日本人は生まれながらの劣等民族であり、民族的に能無しで蛆虫で寄生虫で云々」というようなヘイトスピーチを載せる自由はどこにもないです。そして本件はイスラム教を自身のアイデンティティにせざるをえなかったにも関わらずそのイスラム教を批判されたために、先の日本人は民族的に云々と同等の効果をもたらしているのです。
id:hate_flag 苦しい生活を送っている移民が宗教に依存しているのでその宗教を批判したらテロられた、というだけのハナシじゃん。悪いのはテロであって宗教批判ではないよね。
はい、テロは圧倒的に悪いです。いや、完全にテロは悪い行為です。ですが、本件でJe suis charlieと掲げることはおかしな話なんです、というのが私の意図です。テロられたというだけの話ではありません。
id:rag_en 『「表現」の結果、とあるポジションが有利になるか不利になるかどうか』は、その「表現」の是非を決定付けません…で終了。表現規制の理由が「傷つく人が」云々な駄論の近似。「救済対象の選別」からの「聖域化」。
100字の文字制限があるからだと思うのですが、言わんとしていることが分かりかねます。申し訳ございません。
id:oldriver 思うに。(1)「テロリストにも三分の理」を全否定したい。つまり「この機にヘイトスピーチも糾弾しよう」というメッセージはNG。(2)言論の自由のコストを引き受ける覚悟表明。つまり、ヘイトは「我々」の問題である。
(1)も(2)もJe suis Charlieという標語の意図、ということですね。どちらも原理的には正しい態度ではあるように見えますが、その態度が本当に正しいものかどうかは非常に疑問なところがあるのですよ。元の増田で書きましたが、これは歴史や民族アイデンティティの問題も入った話です。そもそも、ヨーロッパではユダヤ教/ユダヤ人問題が大きなイシューになっていました。それを考えたときに、増田で書いたようなje suis charlieというスローガンの問題を掲げました。
id:sardine11 「あなたの言うことには何ひとつ賛成できないが、それを言う権利は死んでも守る」ことが言論の自由の意味であり近代社会の前提であるはず。たとえシャルリに嫌悪感を抱いても反テロ運動まで批判するのはどうなの?
反テロ運動を非難しているのではありません。反テロ運動の一環としての表現の自由の中にヘイトスピーチを行う団体名が入っていることを問題視しているのです。
id:ysync 暴力であるテロと言論であるヘイトスピーチを同じ「許してはならない」でくくるのはどうかと。テロは国家権力(暴力)で排除すべきものだが、ヘイトスピーチは批判すべき対象で暴力(国家権力)で排除すべきでない。
ヨーロッパにおけるユダヤ教/ユダヤ人問題が参考になると思います。
id:enemyoffreedom アレをヘイトスピーチとしてしまったらもう宗教の風刺・批判はできないような。不快で低質な表現こそを守れ、というのが表現の自由かな
宗教の風刺批判ではなく、その背後にいる、その宗教を唯一無二のアイデンティティとせざるを得ない、社会的に疎外された移民の人々に対するヘイトスピーチになっているということを増田では書きました。後者に関しては同意しますが、表現の自由は差別的・攻撃的・他者を毀損するまでの表現を認めていません。
id:shakespeareneverdidthis 例え在特会みたいな下衆であっても、報復として殺害されることがあってはならない。
それは全くもってその通りなのですが、表現の自由を守るという文脈も下地にあるスローガンに私は在特会である、というものを使うのはおかしいのではないのかという話です。
※追記:文中で人間違いを行うという致命的なミスを行ってしまいました。James Faronという方に触れていますが、正しくはFrantz Fanonです。当該箇所でも追記しております。混乱を招いたことをお詫び申し上げます。なお、お恥ずかしいことにJames Faronという名前も、正しくはJames Fearonです。彼もまた有名な政治学者です。
※追記3:最後にほんの少しだけ加筆。本件で真に掲げるべき標語について。
※追記4:ブコメに対する返信をトラバに追加。及びブコメで指摘された誤訳について修正。
※追記5:反応が非常に多いのですが、私の意図していることがあまり伝わっていないようなので、別エントリで行ったブコメへの返信の一部を載せます。また、追記3における本文での誤字も修正しました。ご指摘ありがとうございます。
フランスではJe suis charlie、和訳すると『私たちはシャルリー(・エブド)だ(追記4:私はシャルリー(・エブド)だ、が正しい訳です。Jeは一人称単数です。失礼いたしました。)』というスローガンが、あの凄惨なテロ事件以来掲げられている。
言うまでもなく、表現の自由を守るための決意を示すものであるが、果たしてこのスローガンは本当に正しいものなのだろうか。この増田では、出版社及びフランスにおけるイスラム教徒事情を軽く見た後、このスローガンの妥当性を考えていきたい。
今回の事件の舞台となったCharlie Hebdo(以下シャルリー)は、あらゆる権威に対して痛烈な風刺を行ってきた新聞社である。キリスト教はもちろん、政治家も政府もその風刺の対象であり、語弊を恐れずに言えば無政府主義・反権威主義をラディカルに突き詰めた、非常に極端な新聞社である。そもそもの母体はhara-kiriと呼ばれる名前がまたアレな新聞だったが、当時の大統領であるド・ゴールを風刺して、最終的には取り潰されたくらいには、徹底的なスタンスを貫いてきた人々である(ちなみに、どうでもいい情報だが今の名前はスヌーピーのチャーリーから来ている)。
ヨーロッパはそもそもイスラム教徒が多い。理由は実に簡単で、第二次大戦後の経済復興のために、大量の単純労働者を必要とした際に、イスラーム系移民が多く渡ってきたからだ。フランスのお隣のドイツはトルコから移民を受け入れ、フランスはかつての植民地であったアルジェリアを中心に移民を受け入れた。実はこの段階ですでに現代におけるイスラム系移民問題の種は芽吹いていた。
まず、ドイツは純粋に経済復興のためにトルコ系移民を受け入れていた。このことはトルコ政府との間で結ばれた雇用双務協定や、Gastarbeiter――和訳すればゲスト労働者――という単語にも表れている。結果的にはトルコ系移民は切り捨てることはできなかったが、少なくともドイツ政府はトルコ系移民に関して割り切って考えていた。選挙権の付与といった定住化につながる政策に関して恐ろしく消極的だったし、本国へ返そうという意思は逆にかなり強かった。逆に移民側も最初から、自分たちは望まれていないということも分かっていた。もちろん、だからこそのデモや権利を要求する運動などは起こったが、他方で移民の中でも自主的な集まりを作ったり、1970年代には支援団体も作られたし、トルコ本国もトルコ系移民への支援を後に行うようになった。また、コール政権以降、政府も重要な問題として認知するようになった。今でも衝突は絶えないが、フランスのように致命的な暴動は起きていない(今後起きることは否定できないが)。
一方のフランスの移民政策は、経済復興だけではなく、植民地政策の遺産という側面も有していた。イギリスの脱植民地政策及び戦後移民政策と比較すれば分かるが、お世辞にもフランスはよくやれたとは言えない。フランスは住居の確保を行う、あるいはフランス国民と同化させるための種々の政策などを見ると、一応の脱植民地化政策/移民を受け入れようとしていた、というように見えるが、他方で石油危機時には移民を切り捨てようとしたり、またフランス国民との同化を謳っていながら実際には移民は疎外化(James Faronによる論考はこうした矛盾を見事に描き切っていると考える※追記:James Faronではなく、Frantz Fanonです。大変申し訳ございません)されたりと、実体を見ればどうにも政策の焦点がぼやけていた。そもそもの、アルジェリア戦争を始めとした、ド・ゴール政権による一連の植民地関連政策を見ればその曖昧さはより分かるところである。
そうしたフランス社会において、移民は、はっきり言ってアイデンティティに関して隣国ドイツのトルコ系移民以上に大きな問題を有している。フランスの移民の大多数は底辺層であり、底辺層は大体移民である。そして移民のほとんどはイスラム教圏から来た人々であり、既に二世、三世になっている。フランス社会ではフランス人に同化させられるのに実際には同化されていないどころか異質な存在として見られるし、アルジェリアといった自らのルーツであるはずの国は、二世、三世にとってはあまりにも遠すぎる社会である。自らの居場所を見つけられない彼らが何にすがるかと言えば、それはもう彼らの宗教であるところのイスラム教しかない。そこにしか自らの居場所を見いだせないのである。
そんな中で自らの居場所であるイスラム教をバカにするような、それもヘイトスピーチ同然な言論を行うことが、どれほど彼・彼女たちにとっては辛いことか。確かに、シャルリーはイスラム教徒ではなく、イスラム教を風刺した。しかしながら、実体的には、ユダヤ教(ユダヤ教とユダヤ人はほぼ同一)を揶揄する、いや、ヘイトスピーチを行ってるも同然なのだ。イスラム教を風刺しているが、実際にはフランス社会の底辺層に多くいる、自らのアイデンティティをイスラム教でしか確立できない移民を、憎悪をもってペンで攻撃したにも等しいのである。
私は今回のテロは決して許されない行為であると考える。だが、だからといって、言論の自由を守ろう、という意味を下敷きにおいて「私たちはシャルリーである」と言うのはおかしいのではないか。
「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である。繰り返しになるが、テロは決して許してはならないが、同時に、特にヨーロッパにおいて、シャルリーのようなヘイトスピーチも決して許してはならない。
"Je suis charlie"は言論の自由をabuseする卑怯な標語である。
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※追記2
多くの反響を受けて驚いてる。なので、次のことを言うと多くの批判を浴びるだろうが、あえて言おう。
はっきり言って、今回の標語は、黒人に対してレイシストスピーチを行ったKKKがテロを受けたときに私たちはKKKだ、ユダヤ人に対してレイシストスピーチを行ったネオナチ団体がテロを受けたときに私たちはネオナチだ、そして、これも極端な話、在日に対してヘイトスピーチを繰り返し行ってる在特会がテロを受けたときに、私たちは在特会だ、と言ってるも同然な話なのだ。
表現の自由を守るための標語として、特にヨーロッパにおいて、これ以上ふさわしくないものはない。
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※追記3
https://twitter.com/aboujahjah/status/553169081424420864
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so. #JesuisAhmed
直訳すると、
「私はシャルリーではない、私は死んだ警察官であるAhmedだ。シャルリーは私の侵攻(※追記5:侵攻ではなく信仰です。失礼いたしました)と文化を嘲笑し、そして私(Ahmed)は彼のそれ(風刺)を行う権利を守るために死んだのだ。#JesuisAhmed」
これこそが表現の自由を守るために真に必要な標語である。一体全体どこの世界に表現の自由を守るという名目で私たちはKKKである、ネオナチである、在特会である、なんてことを言う人々がいるというのか。Je suis charlieはまさにそれを行ってしまった、最悪な標語でる。ヘイトスピーチを行う自由も、それもヨーロッパにおいて、表現の自由の一環として組み込んでしまっているのだ。卑劣意外の何物でもない。
ヘイトスピーチを行うという表現の自由ですら守ろうとし、そして死んだ人物(ここではAhmedという警察官)こそが、真に表現の自由を守るために働いた存在なのだ。
何度も言うが、私は今回のテロは一切是認できない。暴力によって物事を解決しようとする蛮行以外の何物でもないと考えてる。だが、だからといってシャルリーによるヘイトスピーチが免責されるわけでもない。そうしたヘイトスピーチを続けてきた団体の名称を冠して、表現の自由を守るということは、既に述べたように、表現の自由のabuseである。表現の自由を守るためにたたかった人物こそが、真に標語において活用されるべき存在なのだ。
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※追記4
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※追記5
トラバで行っているブコメへの返信の一部をこちらにも載せます。
id:cider_kondo 欧州極右の主張は「イスラムは非寛容で政教分離を認めない。西欧の価値の根源たる自由と寛容とは相容れぬ」ぐらい。セキュリティホールの一種で、イスラム側が世俗主義を導入しないと論理的解決はほぼ不可能。難しい
ブコメの字数制限があるため分かりかねるところがあるのですが、それはつまり「欧州極右の主張にも表れているように、イスラムに対して持っている問題意識はこれこれが最大にして唯一のものだが、これがセキュリティホールとなってしまっている。イスラム側がそうした問題点を解決しないと先には進めない」ということですか。つまり、イスラムの人々が社会的に疎外されてる云々というところに対する反応だということですね。しかしながら、日本における在日問題も見れば分かるように、二世、三世はほとんどその国の人間と文化的には同質です。そうした人間であっても、社会的に疎外されて、結局イスラム教にしかアイデンティティを見いだせなくなり、そしてイスラム教=私たちという図式になってしまうのです。イスラム教を否定されると、イスラム教しかすがるところがない人々にとっては、自身を否定されたも同然になります。
id:type-100 いや、正義の有無に関わらず与えられるところに、自由とか権利の価値はある。これが表現の自由に対する毀損と感じるのであれば、それはあなたが表現の自由よりも他の権利や価値観を優先しているだけの話だ。
与えられる、というか、侵害されないものとして、生まれつき保障されているというところに自由とか権利の価値があることは事実ですが、それを濫用することまでは種々の権利・自由は想定していないと考えています。つまり、他者の権利、即ち平穏無事に他者から毀損されることがないという権利を踏みにじってまで権利の濫用(ここではヘイトスピーチ)を行うことまでは許容されていないということは歴史が証明していることだと思います。なお、これは決して批判を行うことを否定している訳ではないことを付記しておきます。
id:Mochimasa 『「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である』 それなら"Je suis charlie”は前者の文脈でテロの被害者として掲げられているのだから、後者の文脈でこれを批判するのはフェアではないのでは
それならいいのですが、表現の自由の一環としても利用されている、つまり後者の文脈でも利用されているのが問題なのです。つまり、その二つは別物なのに、スローガンにおいては前者の中に後者の視点も入れてしまっているのです。
id:hate_flag 苦しい生活を送っている移民が宗教に依存しているのでその宗教を批判したらテロられた、というだけのハナシじゃん。悪いのはテロであって宗教批判ではないよね。
はい、完全にテロは悪い行為です。ですが、本件でJe suis charlieと掲げることはおかしな話なんです、というのが私の意図です。テロられたというだけの話ではありません。
id:sardine11 「あなたの言うことには何ひとつ賛成できないが、それを言う権利は死んでも守る」ことが言論の自由の意味であり近代社会の前提であるはず。たとえシャルリに嫌悪感を抱いても反テロ運動まで批判するのはどうなの?
反テロ運動を非難しているのではありません。反テロ運動の一環としての表現の自由の中にヘイトスピーチを行ってきた団体名が入っていることを問題視しているのです。
id:enemyoffreedom アレをヘイトスピーチとしてしまったらもう宗教の風刺・批判はできないような。不快で低質な表現こそを守れ、というのが表現の自由かな
宗教の風刺批判ではなく、その背後にいる、その宗教を唯一無二のアイデンティティとせざるを得ない、社会的に疎外された移民の人々に対するヘイトスピーチになっているということを増田では書きました。後者に関しては同意しますが、表現の自由は差別的・攻撃的・他者を毀損するまでの表現を認めていません。
id:shakespeareneverdidthis 例え在特会みたいな下衆であっても、報復として殺害されることがあってはならない。
それは全くもってその通りなのですが、表現の自由を守るという文脈も下地にあるスローガンに私は在特会である、というものを使うのはおかしいのではないのかという話です。
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もう読んでいる人がいるかどうかわからないですが、帰宅してさらに増えていたブコメや種々の反応を読んで、色々と思うところがあったので、もう返信はいたしません。本当は標語の下敷きとなったwe are all khaled saidも含めた補足記事を書こうと思っていましたが、こちらも止めました。
私自身の力不足を痛感しましたが、それ以上に、皆様の貴重な時間を浪費させてしまったことを本当に申し訳なく思います。ここで深くお詫び申し上げます。
実のところ、女性の解放以前のずっと昔、今の男性上位社会を作り出した「男性の解放運動」があったと見ていいと思う。
原始社会は「母系集団を中心としていた」というのはよく聞く話で、ある種女性が人類のメイン種だったと思われる。
原始社会における文明の全て、すなわち火の管理、家の管理、衣服の製造、主食となる植物性たんぱく質の確保、全部女性の仕事だ。
男性はおまけというか、傍流に近い仕事(摂取しなくても生きていける動物性淡白の確保、及び他部族と居住範囲がかぶった際の交渉)しかしていなかった。
ところが人口密度が高くなってくると、他部族との交渉という本来はおまけにすぎない役割を負っていた男性が、大きな権力を握れるようになってくる。
そして母系社会を完全に覆す思想系統が、釈迦の時代~キリストの時代くらいに生まれてくる。
というか、そもそも仏教やキリスト教のベースであるユダヤ教は、まさしく母系社会からの解放を教義に組み込んでいる。
それは「自然やそこから生まれる常識が押し付けてくる条理から自由になろう」というもので、「母から子に継がれる『自然』や『常識』」を管理していた母系の力を完全に断つ力となった。
で、「男らしさ」っていうのは、まさしくここに定義されている。
もともと女性中心社会だった頃の支配方法『自然』に立ち向かうための発明だったので、「意思は女性にもある。世界を切り開ける」という事実は長らく絶対に受け入れられないものだった。
それを認めてしまうと、また女性性に負けてしまうのではないか、という恐れが社会の中心となった男性たちにあったからだと思う。
でも実際は「意思は性に関係なくある。誰でも世界を切り開ける」のが事実で、後に個人主義社会、すなわち基本的に「誰もが自分の意思で世界を切り開かなければならない」という思想が生まれると、こちらが世界を席巻するようになる。
フェミニズムもこの個人主義思想に含まれるのが始まりで、今でも多分メインの派閥。
ただ世の中「自然」的なものに支配されていたい、という人間もいて、実はフェミニズムにはこちらを尊いとする一派もある(こちらは後から出た一派)。母系社会の頃の自然志向に帰ろう的なもの。
女性的とされて貶されたものこそ、尊いのではないか? という派閥。
ただこれは、社会活動自体とあまり食い合わせがよくないと言うか、そもそも社会的な活動自体が「意思によって自然を打破する活動」なので、自然派とは対立する。
さて、で、一番大事なところだけれど、「男でかつこの自然に支配されたい派」ってのが「自称弱者男性」の正体なんだと思う。
「女性的な尊さとされている『自然に支配される存在』でありたい。ただし男だけど」派というか。
この派閥は確かに現状色々と行き詰ってる。
ただでさえ社会的活動という反自然な行動に出られない思想で、自然に、つまり過去の慣習で押し付けてもらわないと納得できないんだけれど、「男性とは反自然派」というのが「自然な慣習」になっているので、根本的に矛盾している状態。
外国人と話していたとき(英語)、「宗教」と「排他的宗教」同士のぶつかりあい(宗教戦争)について
と伝えると、大抵は、「非常識」と訝(いぶか)しがられたり、「信じられない」と不審がられる。
言い方を変えて、
基本的には「神道」で、やや「仏教」寄りだが、「キリスト教」に基づくクリスマスも混在しており、
日本人にとっては、冠婚葬祭時などの儀式的なものでしかなく、どの宗教を信じるかは自由であり、
「無宗教」と言う人も、「神道」には則しており、しかし強制力もなければ自覚もない。
「排他的思考や、害をなさない宗教であれば、何を信じようと自由だと思う」
と詳しく伝えると、何故か感動され、理解された。
実際、「自分は無宗教だ」と言う日本人は、非科学的な「経典/教典」を用いる宗教には興味が無く、
この点は、外国よりも優れた技術力を持ちうる要因の1つだと言える。
余談だが、
「ユダヤ教の教徒の子供は、自動的にユダヤ教である」という馬鹿みたいなことを、世界は信じるが、日本人には理解不能だ。
「イスラム教」については、「レイプされた女性は、3人以上の証人がいないと逆に死刑レベルの罪になる」とか、
きっかけはアースリングという、動物虐待の映像をオーストリア人の友だちに見せられたことだった。
その映画では、イルカ猟についても触れていて、それをきっかけにイルカ猟について考えるようになった。
さらにそのあと、ウィーンを訪れたとき、"SHAME ON JAPAN"(日本を恥じろ)というポスターと共に反イルカ猟の団体に出くわした。
そんんなこんなで一度、オーストリア人と熱く議論したのと、その後ほかのEUの友だちとも話したので、彼らの意見をまとめてみる。
共通する基本スタンスはこんな感じ。
それに対する私の意見としては
その後こんなやり取りをした。
友人「じゃあサル(※人間に近い知能を持つという意味でだと思う)を食べてるのはいいのか?」
私「私個人では食べないけど、もしそういう文化を持つ地域があるとすれば、それはそれで構わない。中国が犬を食べるのを知ってるけど、私はその文化に入りはしないけど、反対もしない」
友人「じゃあカニバリズムに対しては?人間が人間を食べることもいいのか?」
この問いかけをされた時、私はまだそれに対する答えを自分のなかで見つけてなくて、黙ってしまったけど今はこう言うかもしれない。
「人間を殺すことは世界的に法律で禁止されているから、食べるために殺すべきではないと思う。でも、前にどこかのバーで人の指をいれたお酒があったように、誰かが好んで自分の体を提供する分には構わないと思う」
友だちと議論をしていくなかで本当に疑問に思うのは、どうして知能が高いという理由だけで「殺さない」という判断ができ、人間より明らかに知能が低い動物は「食料」という認識が持てるのかということだ。
どの動物だって苦痛を感じるに決まっているのに、イルカ猟に反対する人は、イルカがいかに優れているか・苦痛を感じるかを訴えてくる。
それにこの知能の優劣で判別する方法、私は教育を学んでいるものだから、つい「たとえば災害時に、教室内で優れた子が優先的に生き残れる」みたいに置き換えて考えてしまう。
もし人間よりもはるかに知能の高い動物がいて、もしその動物が人間を食べるとしたら、「この子は人より劣っているのでどうぞ。でもこっちの子はとても優れているから殺さないで」という風になるのだろうかと思ってしまう。
オーストリア人の友だちはこの意見に対して、「人間は人間に生まれたというだけで、他の動物よりはるかに高い一定の知能を持っている。だからそんな風にはならない」と反論してきたけど、私はあまり納得がいってない。
友だちとの議論はいつも中途半端な感じに終わってしまうけど、でも話し合えるだけ有益だと思う。日本でもこんな風に活発的に話し合えるといいんだけどな。
まわりにベジタリアンやビーガン、豚を禁ずるユダヤ教の友だちがいるおかげで食肉産業の実態について知ることができた。
実態を知ってからは、自然と「肉」から離れていった。まぁ友だち・家族と生きていく上で、一緒にごはんを食べるわけだから限度もある。
限度を踏まえつつ、私のなかでの肉に対する意識はこのようなものになった。
もともと肉大好き!っていうタイプじゃないし、むしろ油っぽいものは好きじゃないっていうことも、肉を絶つことに抵抗がない大きな理由の一つだと思うけど。
多くの人にとっては難しいことかもしれない。
それはきっと多くの日本人が、食肉が生産される過程を意識しないで生きているからだと思う。
動物はみんな友だちですなんて言いたくない。一部の動物に対し差別的に思えるから。
食べるなとも思わない。個人の自由だし、文化の形であるから。弱肉強食の世界が成り立たなくなるし。
大事なのは生産過程を知ること。そんな教育をどこかで導入し、一般的に広く知れ渡らせることが必要なのかもしれない。
食料になるために生まれる動物たちがどのように生きて死んでいくのか、それを知るだけでも「肉を選ぶときの参考」になると思う。
(ただ黒毛和牛という上質な肉すら、虐待まがいな経緯を経て生まれるようだから、高くて上質=上質な生育環境というわけではないみたい)
174 :ソーゾー君:2014/01/16(木) 22:41:59 ID:C3K3Vu..
イエスキリストは裕福な家庭で産まれたのでトーラが読めた。
トーラを読みユダヤ教を学んだ。
サンヘドリン=指導者がトーラの教えを守らず腐敗していたので批判した。
↑内容はほぼ同じなの・・書いてある言語が違うだけ・・
経典を読み理解していたら対立はしない。
タルムドユダヤ教徒は兄弟じゃねーぞ?正統派ユダヤ教徒のキリストたちを殺害して
イスラエルを破壊した連中が書き換えた経典を聖書にしているキチガイだからなw
基本的に嘘吐きです。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/10043/1387207762/
親の乳で子の肉を煮てはいけない、という規律があるのは知ってる。
しかし、たとえば鳥肉や鹿肉、羊肉を使ったバーガーに、牛乳から作ったチーズを乗せるのはどうなのか。
あとクリームシチュー牛肉で作る人いなくね、と思って調べてみた。
どうやら、ラビが教義を拡大解釈した影響で「肉」と「ミルク」を分けなければならないらしい。
たぶん、ベーグルに卵やミルクが使われないのも、肉と合わせて食べる場合を想定してのことだろう。
ちなみに、卵と鶏肉の組み合わせは避けたほうが良いと分かったが、外の肉と卵(駄目な可能性が高い)、ミルクと卵が駄目なのかはわからなかった。
一方キリスト教、カトリックとプロテスタントを見て見ると、食の戒律が厳しいのは一部の宗派のみだ。
一時期馬肉食が禁じられたり(カトリック)、金曜には肉を食べずに魚を食べる、程度。
あと鯨を食べることを禁じる戒律も無いっぽい。食文化としては成立して無いけど。(たぶん牛肉輸出とかへの影響がある&ユダヤが力持ってるから抗議してるのかな)
スイスではネコとかイヌとかの伝統料理があって、どうも宗教的には禁じられてないようです。(犬猫食への抗議は倫理面が大きいね)
うん、割とフリーダム。
イヌって韓国はじめとしたアジア料理のイメージがあって、辛いの苦手だから食べる機会無いと思ってたけど、スイス料理のイヌなら食べられるかも。ソーセージとかハムにするらしい。ネコは不味そうだからいいや。
439 :ソーゾー君:2013/11/09(土) 00:13:19 ID:dly4vxgo
東南アジアのアホどものように無計画にファックして子供を作って
売り払うことも出来なくなるだろ?
不幸な子供が居なくなったら困るんです。
性的な嗜好で・・とか商売目的でこの手の施設を運営している奴が殆どだからな・・
「奇跡的に善意でやってる施設で育った奴だけクローズアップしてるからそう思ってるだけ。」
「まー奴等もアホじゃないから十個経営する内の2店舗はまともな施設運営をするわなw」
「で・・そこだけ見せれば善人になれるw」
「本当に子供為にやってる人も施設もあるよ?でもそれは単なる目隠しなの・・」
「善意とか言うけど他人の子供の面倒を無料で見れる?裏があるんだよ・・世の中そんなうまい話があるわけねーだろ?」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1378650618/l50
『路上の人』つながりでキリスト教関係の書を読んでいる。今回取り上げるのは『人と思想 パウロ』(八木誠一・著 asin:4389410636 )。キリスト教を現在につながるものに体系化した人物であるパウロがどのような人生を歩んで、どのような思想を持つようになったのかが解説されている。
パウロを通して語られるキリスト教の「赦し」や「愛」の観念の解説が新鮮だった。キリスト教というと、同性愛の禁止といった聖書の教えを忠実に守ろうとする人びとの宗教というイメージが勝手に合ったのだけれども、そういう教えを厳格に守ることを重視するのはユダヤ教的発想で、そういう態度への批判から生まれたのがキリスト教であるとしている。
なぜ教えを守ることにこだわることが問題なのだろうか。
ユダヤ教では旧約聖書にある様々な律法を守ることで神に救われると信じる。そこでは律法を守ったか否かが重要だ。しかし、自身も厳格なユダヤ教信者であったパウロはそれを否定した。律法を完璧に守ることができる人間はごく少数であり、たいていは律法を守ることができず、絶望に陥る。または律法を守り切ったことの優越感が、やがては本来の神への信仰を忘れさせてしまい、そのことを自覚した時そこでも絶望に陥る。つまるところユダヤ教の律法主義は必然的に絶望へと至ってしまうのだとパウロは考えた。
そこでパウロは、イエスを神の子と信じる原始キリスト教に意義を見出す。すなわち、人間の罪はイエスの十字架によってすべて赦された。だから人はただ神を信仰することに集中しさえすれば救われるという理屈を展開したのである。パウロはユダヤ教の持つ厳格な律法を踏襲しつつ、それを守りきれない人間の心も考慮に入れて、堕落も絶望もしない状況に人を導くように教義を設計したのだ。
以上がパウロのキリスト教の教義への貢献であり、それがゆえにキリスト教の教義を学ぶうえで重要な人物足りうるのだという。まあキリスト教についてまともに学ぶ人からすれば当たり前なのだろうけれども、無学な自分にはパウロに対する自分の偏見が訂正されたので面白かった。
これを読んで、私の中でわき起こった感情の覚え書き。
ちなみに今までは「このままでは鰻が絶滅してしまうのに、みんな食べることしか考えてないな。どうすんのさ」的な。
よくよく考えたら何で駄目なんだろう。
人間以外に他の生物を食い尽くして絶滅させた生き物はいないんだろうか。
いや、人が持ち込んだ猫が~とかそいうのを抜きにして。少ししらべてみよう。
「生物多様性を守らなければならない」
これを、当たり前のように思ってたけどそもそも何でだろう?
よく考えたら人間も生き物だし人間の営みも生き物の営みな気がする。
そんななかで人間は何故「他の生き物の生態系を守る」ことを使命と思えるんだろう。
知能があるからだろうか。
いいんだろうか、人間が人間の都合で地上の生き物を絶滅させて。
いやいいと思います。沢山の人が犠牲になった歴史がある。そして私も天然痘にかかりたくないです。
しかし「鰻おいしい、鰻儲かる、食べる。絶滅するまで食べる。」も充分人間の都合のような気がする。
研究室とかでは保存されてるんだろうけど……鰻の場合、生態が分かってなくて、繁殖させたり人工飼育で種を保存できないから?
あ、そもそもウイルスは生き物じゃないのか……じゃあ菌由来の伝染病で撲滅できたやつはいないのか。ちょっとこれも調べる。
思いついた違いと言えば、生態系への影響。
詳しい生態が分かってないからなんとも言えないけど、1つの種が絶滅するんだから生態系への影響はあるだろう。
それそ積極的に絶滅させて生態系を乱すのはまずい。倫理とかではなくいつか人間に返ってくる可能性があるから。
天然痘がなくなったところで、天然痘で死ぬはずだった生物が激増して生態系が乱れるなんてことはない。
私だって死にたくないし、家族が天然痘にかかって死んだら絶対に撲滅を願うだろうし。
あと、天然痘とか伝染病は人類ほぼみんなが「なくなって欲しい」って思えるものだけど
鰻はユダヤ教、イスラム教なんかでは「食べてはいけないもの」だし、アフリカの文化圏ではそもそも「海の物」は食べないと聞いたことがある。
鰻は人類みんなが「食べ尽くしたい」って思えるものではない。そんな中で「絶滅する前に食べようぜ」ってなってる。これがいけない。
「日本人のせいで絶滅した」ってなったら恥ずかしいもんね。韓国や中国でも食べられてはいるみたいだけど。日本もそっちから買ってるしなあ。
おいしくて食べ尽くされた鳥とかいたし、こういうのはだめだな。
今のところ「人類の都合=OK」「数カ国の都合=×」で納得した。
あと「鰻食べなくても死なない」(これは昔ブコメで書いた)、「天然痘にかかると死ぬ」
……ニホンオオカミはどうなんだそういえば。
海流変化の影響で、鰻が生育可能な範囲が狭まっていて、それが絶滅の原因っていう説を読んだけどソース忘れた。
これに拍車をかけるようなことをするな、というのは分かる。