はてなキーワード: ユダヤ教とは
アメリカはダメですね。イスラエルに甘いのは、この前の国連非難決議でもハッキリ示されましたし
フランスはイスラム教にもブルカを禁止するなど、わりと厳し目の対応はできてますね
ユダヤ教には甘いようですけど
4月4日、京都・舞鶴で行われた大相撲の地方巡業の際、土俵上であいさつ中に倒れた舞鶴市長に、周囲の女性たちが救命活動のために土俵上に上がった問題について、メディアを通じて大きな問題になっている。
医療関係者と報道されている女性が救急救命中、行事が「女性は土俵から降りてください」と繰り返しアナウンスし続けたことが大きくクローズアップされている。
歴史ある大相撲の伝統として、土俵には女性は上がることはできない「女人禁制」の原理原則からすれば当然の話である。
しかし、世間はそうは受け取らなかったようである。この土俵問題を報じているヤフーニュースのコメント欄をザッと読んでみても、女人禁制の制度自体に対する批判が多かった。
ちなみに、私自身も個人的には大相撲・土俵の女人禁制には批判的だし、もっと言えば皇室の男子継承についても改革するべきだと考えている。
ヤフーニュースやテレビの報道番組の中で言われていた批判の中で印象に残ったのは「女人禁制の原則を守った結果、救急救命行為が行われずに、市長が死んでしまったらどうするのか」という論理である。21世紀の現代社会なのに、女人禁制のしきたりは時代遅れではないのか、と。
しかし私から言わせてもらえば、「女人禁制」というしきたりは、しきたりという古めかしい言葉で表現される以上の意味を持つ、「思想信条」に等しいのではないか。
私たち一般人から見れば女人禁制なんて、頭のおかしい考え方そのものに思えるが、大相撲関係者の人たちから見ればそれは教義と同じことなのだ。
大相撲関係者の胸の内を想像してみると、死人が出たとしても女人禁制の原理原則は守るべきことなのだと!
ここで思いついたことがある。中東・イスラエルとパレスチナの中東戦争のことだ。
ご存じの通り、中東戦争の火元であるエルサレムにはユダヤ教とイスラム教、キリスト教の聖地となっている。
ユダヤ教徒によって神聖な存在である嘆きの壁、ムハンマドがここで昇天したと信じるイスラム教徒にとっての岩のドーム、そしてキリスト教徒にとっての聖墳墓記念聖堂の3つである。
この3つの宗教をめぐって、あの地域の人たちは50年以上も戦争を続けている。
私たち日本人から見れば、中東の砂漠の中の地面を巡って殺し合いをするなんて、あの土人どもは頭がおかしいだろうとしか思えないことであるが。
しかし彼ら(ユダヤ・パレスチナ・周辺諸国の人たち)からすれば、「教義のためなら死をも厭わない」と本気で考えている人たちが多いということだろう。
そして21世紀の現在でも、彼らは殺し合っている。
地下鉄サリン事件から23年が過ぎた。
23年という事は、言ってしまえば、今時の大学生以下の世代は地下鉄サリン事件を知らないという事だ。
それは、オウム真理教の事件も知らないという事。
先週の土曜日、3月17日に東京で「地下鉄サリン事件23年目の会」という会が開かれた。
オウム真理教事件の被害者、地下鉄サリン事件の被害者及び、その親族・家族が集まる会。そこに、麻原彰晃の娘・・・三女の松本麗華が来ていたらしい。
入り口には「オウム真理教及び、その後継団体の関係者は入らないで下さい」と書かれていたにも関わらずいたらしい。
松本麗華は、数年前よりオウム真理教の後継団体の一つ「アレフ」と争っているという。争っている理由については非常に複雑で、この増田で書くには文字数が多くなる。
松本麗華にとっては、オウム真理教事件の被害者=オウム真理教及びその後継団体「アレフ」の敵=「アレフ」の敵である自分の味方という考えでの参加だったのだろう。
だが、松本麗華のTwitter上での主張には明らかに麻原彰晃を正しいと思っている節が見られる。
以下に、その主張の一部や最近の行動等をまとめたサイトのリンクを貼っておく。
これらの主張より、松本麗華は
と言える。
そんな中、ある「ひかりの輪」の脱会者が、「ひかりの輪」の代表である上祐について、こう証言していた
このツイートをした人物は、「アレフ」や松本麗華を擁護する様なツイートをしている。
「アレフ」も「ひかりの輪」も「松本麗華」も、やっている事はスケールの小さな宗教戦争なのだろう。
教祖である麻原彰晃が存在し、その麻原彰晃が逮捕された事で彼らの中で神格化された。
そして・・・
「麻原彰晃は無実なのに国の陰謀で死刑判決を下された」と考える松本麗華派
「表面上は麻原彰晃を否定しつつ、麻原彰晃の教義を尊重し、麻原彰晃の息子を新たな教祖にしたい」と考える「アレフ」
「オウム真理教を脱退した一部の幹部が脱・麻原彰晃を謳い文句に金儲けをしたい」と作った「ひかりの輪」
そして、「アレフ」を脱会した信者の中には「ひかりの輪」の教義に傾倒する者もいれば、「ひかりの輪」を脱退した者の中には松本麗華や「アレフ」の教義に傾倒する者もいる。
泥沼だ、スケールの小さい宗教戦争なのに泥沼だ。
どの派閥も「麻原彰晃の教義」が第一に有り、それを肯定するか否定するかで成り立っている。
きっと、原初の時代のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教も、元々は一つだったのがこの様に分かれて今の状態にあるのだろう。
だから、キリスト教もイスラム教もユダヤ教もエルサレムを聖地としているのかも知れない。
このスケールの小さな宗教戦争に、麻原彰晃やオウム真理教事件の確定死刑囚の死刑の執行はどういう波紋を呼ぶのだろうか?
地下鉄サリン事件から23年、今年の4月に東京メトロ(旧・営団地下鉄)に入社する4年生大学を卒業した新入社員は、
地下鉄サリン事件の起こった年に生まれた人達だ。
地下鉄サリン事件を知らない世代が、地下鉄サリン事件の有った会社に入社した時・・・、果たして、同様のテロが起こった時に防げるのだろうか?
オウム真理教事件の確定死刑囚の死刑が近付いていると感じられる今、「あの事件は何だったのか」もう一度考える時期に来ているのではないだろうか?
P.S 本日17時半からのTBSニュースでは、麻原彰晃の娘、松本麗華に取材した内容を流すそうです。是非、ご覧になって皆さんも「あの事件は何だったのか」を考えて欲しいと思います。
欧州はキリスト教とユダヤ教、キリスト教徒イスラム教の争いがある。
んだから何かの拍子に表に出るから、強引にでもそうやってヘイトをためさせないとしないとならないのかもなぁ。
日本もなんとか敵を作ろうとした。で、被差別部落や在日朝鮮人を敵にしようとしたけども、
もはや本籍自体県しか求められなくなったし、被差別部落は日本人として溶け込んでどんどん消えていってる。
では!と思って在日朝鮮人を敵にしようとしてるが、まあ、犯罪起きた人は在日朝鮮人認定。
眞子様のフィアンセまで在日朝鮮人認定とかどんどん迷走している。
けど、しょせん帰化したら消える肩書きだし、この認定も匿名掲示板とかでしょせんしつこく誰か書いたら認定されるレベルのものでしかない。
そのうちみんな消えていくでしょう。
一方、根源的に一人あたりGDPがその韓国にそろそろ抜かれそうだが、本当に抜かれたらこの認定どうするんだろう。
いや、マジ抜かれるよ?
横からあれだが、手段がダメだったのはまあ、それはそうで。でも後だからわかること。
苦境にあると「解を求める」。
「誰かこれが正しい解だ!」と言い出す人がいたとする。
けどね、その解が正しいとは限らないんよ。
でも、それっぽい解だったら、その解の下に突き進む。
特に民族差別みたいなものは「その正しいっぽい解」になりやすい。
キリスト教とユダヤ教の対立は深刻だから、言論で封鎖してでも何らかの拍子で正しいっぽい解にならざるを得ないのかなぁ。
・本作は難解すぎて、さすがにアンチョコ本が欲しいと思い、買ってきた。作者は集英社から全訳を出した人。
・けど何かトリビア的な話が多くてあんまり参考にならないかも。
「『スワン家の方へ』と『ゲルマントの方』という対比の根底には、プルースト自身がユダヤ教の母親とカトリックの父親の間で育ったという事実がある」と言われても、そっからどういう読みが可能になるのかとかまで書いてくれないと、僕のような貧弱な読者としては困ってしまう。
・複雑なスワン君の人物像の背景にはユダヤ人問題が・・・!とかも同様。
・今んとこ一番個性が強烈な叔母さん。
・変わらぬ日常を愛し、それを願っているが、同時に家族が全員焼け死んで悲劇のヒロインになることも願っている。
・しかし現実はそうもいかないので、忠実な女中フランソワーズの揚げ足取りに明け暮れる。
・同僚の女中が妊娠で苦しんでいるのは「すべてお芝居」と言い放つが、他方医学書に書かれた妊娠患者の症例を見ると泣きじゃくってしまう。
・女中に冷淡なのは、叔母さんの世話を他人にやらせたくないからってのもある(その例えにファーブル昆虫記のジガバチを持ち出してきたのは草)。
仏教その他のオールド宗教だって、成長過程では社会との様々な軋轢を経験してきた。
キリスト教だってテロどころか大虐殺や、国家間の戦争も引き起こしてきた。決して「安全」な教えではない。
ユダヤ教からみれば、キリスト教もイスラム教も、同系列の新興宗教だ。
ただ彼らオールド宗教には、「どうにかこの社会とそれほど揉めずに折り合いをつけてきた」この数百年の歴史がある。
そこが、たかだか100年以内の歴史しか持たない新興宗教との違いだ。
宗教は、人に、既存の社会システムとは異なる原理を与えることで、そこから零れ落ちる思いや悩みを救済する側面がある。
だから、社会にとって危険でないものは宗教ではないし、あるいは、宗教と社会システムが結びつきすぎると、社会自体がヤバい方向に行く。
両者は、仲良くできないものなんだ。
成熟して社会と折り合いをつけることは、見ようによっては宗教の「堕落」かもしれない。
だが「堕落」してない宗教は、社会的には危うさをはらんでいるんだ。
日本の選挙において、経済的な格差というのが投票行動に影響を与えているようにあまり見えない。すなわち排外主義、財政大拡張、軍拡、警察拡張、ばらまき万歳な極右、極左政党、候補者があらわれ支持を伸ばすという欧米で起きている現象が起きていない。
維新の会、民主党政権、安倍政権、小池百合子をこういう現象にあてはめようとする論者も多数いるが、はっきりいって彼らの間に政策面での差異はほとんどないし、彼らが社会の分断を利用して支持を伸ばしているなんてことも全然ない。
では日本社会において、経済の発展や変化についていけずに見捨てられていった人々がいなかったかといえばそんなことは当然ない。では彼らはどこへ行ったのか。それは創価学会だ。創価学会は都市部において見捨てられ、コミュニティからはじき出された人々を吸収することで成長してきた。そして創価学会は彼ら見捨てられた人々を公明党を通じて穏健保守勢力に変換してきたといえる。これこそが日本社会が安定している最大の要因だ。
最も創価学会に批判的なジャーナリスト、例えば野田峯雄のような人たちが見積もったところによると、 2010 年代の日本においても創価学会員はおよそ 500 万人も存在しているという。これは日本の国政選挙における有効得票数がだいたい 5000 万とか 6000 万だとかいう数であることを考えると驚異的な数で、日本の政治勢力の 10% 近くを占めている。
創価学会がまとめあげている勢力の 30% が欧米のように過激派に参画し、残り 70% も公明党にまとめられることがないとすれば、トランプ現象のようなことを起こすことはできないまでも、ギリシャにおいて独立ギリシャ人が与党入りしたという現象ぐらいまでは起こせるだろう。
池田大作は創価学会こそが日本の背骨であり、自身は庶民の王者だなどとうそぶいていて、創価学会に批判的な人々からは厳しく批判されているところだが、はっきりいって客観的に見た限りそれは事実だ。創価学会こそが日本社会を底辺から支え安定させてきたし、池田大作は日本におけるもっとも偉大な宗教家であり、聖人の中の聖人だといえる。池田に批判的な人々は池田の思想は仏教とソクラテスから都合のいいところだけとってきたいい加減な思想だというが、それがなんだというのだ。ムハンマドの思想はユダヤ教のいい加減な解釈にすぎない。思想の内容が問題なのではなく、池田大作という偉大な個人こそが問題なのだ。
ここで問題となるのはなにか。それは池田大作自身がその事実を認識していなかったということである。池田は自身のことを宗教、政治ビジネスの天才と認識していても、偉大な宗教家とは思っていなかった。故に彼は大いなる過ちを犯した。彼は創価学会が成功したのは、選挙活動による成功体験を信者にあたえ、そしてそれによって得られる集票力を換金するというシステムがうまく回ってきたからだと認識していた。しかし実際には違う。創価学会員たちはシステムの一員なのではなく、個人の資格において池田大作という偉大なカリスマと繋がりをもつことによって精神的な安寧を得ていた。
池田はこの事実をうまく認識していなかったフシがある。というのも池田は自身の宗教帝国を息子たちに世襲させようと企んでいた。しかし池田は息子たち、すなわち城久や博正を鑑定するにおいて組織のリーダーとしての資質は厳しく鑑定したが、宗教家としての資質を重視していたということは全くない。池田はあくまで創価学会を詐欺的な政治ビジネスだと捉えていた。
もし池田大作が自身を聖者だと正しく認識できていれば、池田大作以後創価学会を正しくシステムとして回していくための方策をとることができただろう。しかしそうではなかったので、創価学会とは平等な個人が池田大作と精神的な繋がりをもっているだけの人間集団であって、組織たりえなかった。そしてその創価学会を放置したまま池田大作は倒れてしまった。
ここで池田博正が冷徹な組織の管理者として創価学会を大改革することができれば、それはそれで道はあっただろう。しかし池田博正は温厚かつ誠実な池田大作信者にすぎず、その大任を果たす意思も能力もなかった。
今はまだよい。惰性によって創価学会は続いている。公明党は穏健保守勢力として機能している。しかしカリスマ、池田大作亡き(亡きといっていいいだろう、生きてるんだろうけど)今、創価学会が機能を停止する日はすぐそこだ。そうなったとき、日本社会の見捨てられた人々を連帯させるものはなにもなくなり、その時はじめて日本社会は本当の極右、極左勢力というものを目にすることになる。
仮に宗教に吉も悪しもあったとしてなおかつその判断を下すのが難しいのであれば、一律<悪である>とラベリングしてしまうことにより想定外の事態を発生させないというメリットはあるんじゃないか?
このロジックだと、家庭も一律「悪である」とラベリングすることになるけど・・・。
むしろ善一色でないことそれ自体が宗教全体のリスクやろ。これは組織を超えて団体全体で善であるように努力していかなあかんところ。
2点ほど。まず、権力者や一般大衆に疎まれて殺された宗教家はそれこそ山のようにいるし、権力者や一般人が定義する「善」は宗教のコアには入りえないと思う。ユダヤ教やキリスト教が生まれたときから今までずっと、虐げられている人を救い上げるのは新興宗教の役目だし、その団体は既存権力と対立していることも多い。現代中国ではキリスト教は敵視されているけど、共産党に受け入れられるようにキリスト教会が努力すべきだとは思わない。
あと、宗教全体がリスクにさらされているという立場には同意しない。宗教はルネサンスも啓蒙時代も生き抜いたし、これからも意味を持ち続けると私は思う。仏教を捨て、国家神道から裏切られた二十一世紀の日本人は、農家に届くことはないいただきますという言葉で農家への感謝を表現している。これは宗教のひとつのかたち。
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
例えば、君が大人になったとき、自主的に行う習い事は役に立つものだろうか。これは半分YESである。なぜなら学校で習う勉学とは違い、その習い事は君が役に立つと思って勉強しているものだからだ。だが、なぜ半分はNOかというと、例えばパソコン検定1級だとしても、それで培われたスキルを使えるような機会がなければ、君が役に立つと思っていてもそれは事実上「役に立っていない」のである。仮に活かせる機会があっても、それがなくなった時点で「役に立たなくなる」。つまり「役に立つもの」とは、それ自体は役に立つかどうかは決まっていないのである。
そして人格が成熟するにつれて、「役に立つ」というものが恣意的かつ限定的な意味合いを多分に含んでいることに気づくのだ。環境、自身の置かれる立場、自分のやりたいこと、という前提のもと「役に立つもの」を決めているのである。側面が変われば役に立つものが変わるのならば、様々な事柄を習う学業がほぼ役に立たない、或いは役に立たなくなるのは必然である。
だが、それを踏まえると、学歴社会というものはある意味で実に分かりやすい。勉強の内容が(活用できるという意味合いで)役立つかどうかはともかく、それに対してどれだけ頑張ったかという大雑把な実績で測られるのだ。本来、限定的かつ恣意的な「役に立つもの」を、より汎用的なものに仕立て上げている。その観点から見れば、学業は役に立っていないにも関わらず、事実上はとても役に立つものなのである。何が役立つか、何を役立てるべきか、何を役立てたいか分からない、意志薄弱で未成熟な人間にとってこれは案外悪いことではない。
というわけで、質問の答えとしては「学校で習う勉強が役に立つかどうかはともかく、悪いようにはしない」といったところだ。もちろん、より限定的かつ恣意的な“役立つもの”の前では霞むが。なので何かを見据えて、自分にとってよりやるべきことがあると信じているのならば、それを最適化するための「役立つもの」を手に入れようとすればいい。もし、そんなものは特に思いつかず、ただ目の前から逃避したいだけでそんなことを言うのなら、ぶつくさ言いながらも勉強したまえ。
なあに、仮にそれらが無駄になってしまっても安心するがいい。側面によって「役立つもの」が変わるのならば、いずれにしろ大多数の人間は培ってきた「役に立つもの」を、実質わずかしか役立てていないことになる。勉学問わずほとんどのものは「役に立たないもの」なのである。
イエス・キリストを殺した罰として、イスラエルの部族の肌を赤くしたのが由来だ。
キリストがアメリカに爆誕したのは有名だが、なぜアメリカにいたかというのもそれが関係している。
当然、信心深い人間は啓示を受けているので、これを知っている人は多いと思うが。
私はクリスマスの予定を体よく誤魔化すためにユダヤ教ではあるが、やはり神というものは地元密着型の方が親近感が沸くのだろうな。
なので信仰者としての立場を極力排してなぜ胡散臭いのか、本当はどうなのかを考えてみます。
最初からいいますが、僕は新興宗教自体を胡散臭いとは考えていません。
身も蓋もない言い方ですが、キリスト教はユダヤ教の新興宗教ですし、仏教も日蓮宗や浄土宗、臨済宗は密教系とは重要な教義が異なっています。
私はカソリックですが、米大統領選でも注目されるモルモン教や福音派などのプロテスタントは明らかに新興だと言えます。
基本的なことですが、この点をまず明らかにしておきたいと思います。
ではなにが胡散臭いのかというと、相当分がみなさんと宗教の接点ですれ違いが起こっていることになります。
そして悲しいことですが、本気で胡散臭い活動も当然ながらあります。
宗教側からみなさんへの第一の接点は布教活動になると思います。
僕が通っていた大学でも注意書きが掲示されていましたが、家に押し掛けてくるのは胡散臭さレベルが高いので敬遠するのに越したことはないでしょう。
商売と一緒で「売ってくれ」とお客さんが来るのが最高の営業ですが、現代日本ではこれはほとんど期待できないでしょう。
ではどのように新しい信者を獲得するかというと、団体としての活動や宗教活動を通じてということになります。
代表的な新興宗教には宗教活動以外にも莫大なお金をつぎ込んでいるものがあります。
PL教団の花火大会や、米ソルトレークシティのモルモン教の大寺院などはその代表的なものです。
このような活動には伝統的な宗教も古くから関与してきました。宗教は伝統的に文化・芸能活動の庇護者であったのです。
長い歴史の中ではそれに対する反発もありましたが、現代日本でもその恩恵に多く与ることができます。
例えば東京観光や京都観光には寺社仏閣がつきものですが、その観光価値は一般の方には庭園や天井画や襖絵、建造物にあるのが現実だと思います。
そのような文化活動は信者と、一般の方の両方に働きかけるもので、難解な教義を介さない身近な存在として宗教を感じてもらうことができるのだと思います。
新興宗教には巨大、特徴的な寺院を建造するところが多くあると思いますがこの理由はちょっとわかりません。
ただこのような建造物を建てたからと言って、教主や教団幹部の懐に直接お金が入るわけではないということは留意しなければならないでしょう。
教義は信仰者にとっても難しいものです。カソリックでは洗礼を受けるにはちゃんと勉強をして認められなければなりません。
本来ならばどの宗教でも教父にあたる方に接するのが第一歩になるでしょう。
ただ、いきなり相手のホームグラウンドに行くのは恐いですから興味のあるお寺(教会)に電話してみるのはいかがでしょうか?
自分の考えていることを吐露してそれで答えが受け入れられないものであれば、それは相手方の落ち度でしょう。
元増田のアプローチは、まず文字に当たるということですが、どの宗教でもその本質は活動です。
「wikipediaは参考文献に含まれない」とはよく言ったもので少なくとも宗教で学ぶというのは不適当ではあると思います。
完全に新興の宗教は別として、多くの新興宗教は既存の宗教の派生です。なのでそれぞれの教義には数百年単位の積み重ねがあり、
一人でそれを理解しようというのはだれにとっても不可能でしょう。ただしその本質というものはシンプルで良いものであると私は信じています。
長い人類の歴史の中では宗教と歴史が分離されていたことの方が少ないでしょう。
それはさておき、宗教が政治を無視できないのは宗教が人の本質にアプローチするものだからです。
人の生活に直結する政治とはどうしても重なる部分があるということが宗教が政治に関わっていく要因でしょう。
「波動」や「飛行」というのを聞いたときの胡散臭さは相当リアルに感じます。
それはそれとして一歩引いてみれば仏教用語の因果や因縁、「宇」や「宙」というのは非科学的な概念ではないでしょうか。
これらを科学的に検証することはできませんが、明らかに科学と矛盾するものとしてキリスト教の進化論や地動説を否定があります。
私自身は技術者として生計をたてていて、人は猿から進化して、地球は太陽の周りを回っていると思います。
非科学的ということが宗教を損なうのはその真実性を損なうからだと思います
これはどこの宗教でもつきものだと思います。検証不可能なことは証明できませんし聖典は多面的な読み方ができるため科学的な検証には向いていません。
「聖典が正しければ寺院(教会)・教義は正しい」そして「寺院(教会)・教義は正しければ聖典は正しい」というような循環論法に陥りがちです。
これに対しては僕が言えるのは「あなた自身の考えて」という月並みなものです。あなたが一歩を踏み出してよい教えに導いてもらえることをお祈りしています
一応私のプロフィール、状況整理
さて、高校生くらいになったころに、一通り幸福の科学について調べてみて、
自分のなかで一通り納得したので、そのとき考えていたことを書きたいと思う。
イタコ芸を始めるよりずっと前の話なので、今の幸福の科学がこれで説明できるかはわかりません。
信者の道徳規範のため、コントロールのためのネガティブな要素ももっています。
仏教であれば、現世は輪廻転生で何度も生まれ変わっているうちの一部であり、解脱に至るための試練です。
前世で業を背負ったがために現世という苦痛を背負うことになります。
そして、現世での行いにより、次の輪廻先の世界が決定されます。
キリスト教では、人は生まれながらにして罪を背負って生きています。いわゆる原罪というやつです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%BD%AA
ユダヤ教では、最後の審判の日に全行を行っていたものは、永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねたものは地獄に落ちます。(とWikipedia先生が言ってる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E6%95%99#.E6.AD.BB.E7.94.9F.E8.A6.B3
さて、ここで幸福の科学が何か、というと
「仏教、キリスト教、ユダヤ教から人々の救済部分だけを抜き出し統合し、ネガティブな要素を排除した宗教」
というものです。
さすが東大法学部卒の教祖様。既存宗教の駄目な点を分析し、それを叩き潰すことで新しい宗教を適切に作り上げている。
911後にはイスラム教を入れなかったのは、さすがだと思った。
私の母がどうだったかというと、心が弱くて既存の宗教のネガティブな部分に耐えられなかった。
親父の稼ぎが悪く、それほど裕福な暮らしができたわけではなかった。
そして、そういった環境を変える力もなく、宗教からは「来世への苦行だ」といわれてしまう。
また、心が弱い人は既存宗教が持つ「改宗することは罪である」という考え方もまた受け入れられません。
「既存の宗教のネガティブな部分に耐えられない心が弱い人が、幸福の科学に入信する」
「幸福の科学を既存の宗教の上位に置くことで、既存の宗教を捨てずに、幸福の科学に入信する」
高校生だった自分は、そのように幸福の科学のこと、母親のことを理解した。
そして、ある意味仕方ないとは思った。
この分析は、教祖様がイタコ芸を始めるよりずっと前の話(15年前)なので、今の幸福の科学がこれで説明できるかはわかりません。
だからといって、幸福の科学を私に勧めてくるのにはさすがに愛想が尽き、実家とは絶縁するに至った。
あーあ、俺も宗教おこしてぇよ。
少子化は、いわゆる西側諸国のどこであっても凄い下落スピードで進行したんだな
どの国も2切っててヤバい。維持できそうなのはフランスぐらいか
一方イスラムは圧倒的に高出生率。が、やはり下降傾向は続いてる
http://www.tabletmag.com/wp-content/uploads/images/goldman-chart-380.jpg
世俗化を進めたトルコ以上に、イスラム革命が起こったイランの方が急減してるのはよく分からん
まぁしかし、こうやってみると少子化は近現代化の宿命なんだろうな、と
ところでじゃあどこで増えてんねん?と言えばナイジェリア、インドあたりで、
中国含め、これらもピークアウト後にとてつもない勢いで高齢化に向かう