はてなキーワード: 律法学者とは
>表象の「悪さ」はもはや「何が描かれているか」だけを見て考えられるものではなくなる。
>それはむしろ、歴史的・社会的に女性が置かれてきた/置かれている状況との関連ぬきには考察することができないものである。
広告なんだから「何が描かれているか」以外に検討の材料はなかろうよ。
自分が相手にしていたのが実際に現存する広告であること、その適否について偉そうに語っていたことをすっかり忘却してどうするんだ?
で、
>「表象を作ること」が持つ意味をめぐる議論が深まることを期待したい。
とかも、寝ぼけているとしか思えんのよね。
そんなことはそれこそゾーニングされた閉じた空間でやってくれよ。
ただし現実の広告に文句を付けるなら、記号のカケラを必死でかき集めて女性差別に結びつけるような乱暴な振る舞いをやめて、最低限その広告がどう現実に悪影響をもたらすのか定量的な議論をし、その影響が認められないのなら問題にすること自体を思いとどまるのが真っ当な学者のやることではないのか。
お前の業界だけだろって言われるとも思う。
大学から企業に入ると、企業はモノづくりを放棄してるように感じる。
半分は当たりで、半分は誤解だ。
その理由は大学で勉強する学問と、企業で活用する学問の違いにあると思う。
失望する理由の一つは、企業では、物事の理由など考えないことがある。
研究を目的とする大学と、開発、製造、販売を目的とする企業の違いだ。
たとえば、企業では、企画であれ、開発であれ、生産管理であり、経理であり、持っているカードを組み合わせて、最良な組み合わせを探す、それが目的だ。
それだけといっていい。
例えば、家庭で、カレーを作るとする。
ジャガイモは入れるべきか、入れないべきか?
これだけで、3×3×2×3=54通りの選択肢がある。
それを、企業活動の現場で摺る場合、数百、数千、数万の組み合わせから、最良を探す、そういうことになる。
もちろん、商品コンセプトはあるだろう。
一度方向性を決めたら、そこから先は一本道、仮説の検証などは行わない。
所詮は、手持ちのカードで勝負するしかないし、手持ちのカードの組み合わせを試すだけで、精いっぱいなのだ。
この、組み合わせ最適化については、ほとんどの学部で触れることはない。
学生がこれを読んでるかはわからないが、学生が考える組み合わせ最適化とは、違う学問体系で企業での開発は行われている。
最適化する条件を決めて、そして下流にリリース、放りっぱなしとなることが多い。
これについては問題だと思う。
ただ、現状で最適な仕様を決定していても、現実として問題は起きる。
ラボでは理論通りの性能を発揮しても、量産してもそうなるとは限らない。
100万台に1台とんでもない欠陥が発生しないとは限らない。
もちろん、そうならないように設計していても、想定できなかったから想定外なのだから。
法令だけでなく、技術的な要件であっても、国際規格、国内規格、ガイドライン、といった規格や規制がある。
それに擦り合わせることは非常に重要であるが、時にそれに固執しすぎるところがある。
非常に分かりにくく、A4で数枚ほどの短い文章に対して、分厚い解説書やQ&A集が出版されている。
それらに精通している人が強い発言権を有し、誰も理解していないことをいいことに、拡大解釈がまかり通る。
技術的な議論であったはずが、「そんなこと聖書のどこに書いてあるのか?」という律法学者の宗教論争に変わってしまう。
もちろん、上司であったり、経営層がその規格や規制が制定された時代背景や、理論の背景を理解していれば、部下も宗教論争をしないだろうが、そんな上司は滅多にいない。
そしてみな、科学技術を学ぶより、まるで法律家のように解釈論を学ぶようになる。
上記に述べたように、企業活動の本質は、組み合わせ最適化であり、各種規制へのすり合わせだ。
そこには、「なぜなら」も「それゆえに」もない。
現実世界の物事のほとんどが、理由がないように、理由はあっても説明できるほど単純ではないのと同じで、白黒はっきり断じることはできない。
ところが、日常業務はそうであっても、意思決定には稟議がいる。
その場合、「こうである、だからこうする、なぜならば、すなわち」と理路整然と単純化して並べなければならない。
中長期計画に沿って各部門が計画を立て、それぞれの所属員が各部門の目標に沿って計画を立て、その結果を報告する、建前ではそうなってる。
実際のところは、「あらゆる選択肢の組み合わせのうち最良はこれです」以上のことは言えないのだが、そこは目をつぶり小説を執筆しなければいけない。
イエスは律法学者とガチバトルして抹殺されたが、イエスの信徒たちの作った教団にも、聖職者階級が出来て、彼らのものになった。
建て前では出家在家の区別はなく、聖職者という存在はないことになっているが、イスラム法学者が幅をきかせている。
教皇もカリフも、代理人という微妙な位置付けから始まっているが、権威であることは皆が知る通り。
教皇やカリフがいなかったら、組織として成り立たずに歴史の中に消えていっただろうし、リーダーを持つ組織をつくれば、その下に側近、その部下という階級が出来上がり、信徒の平等は実現できない。
イエスはムハンマドの教えは、精神面では教義に原点回帰しつつ(あるいはしたつもり)でも、当時なりに当時の社会情勢にチューニングしていた。
「律法とローマ法でダブスタのところは、ローマ法を優先したっていいよん」
とイエス
「ダブスタがないように世俗の法も宗教の戒律も擦り合わせて一本化しとけ」
とムハンマド。
現代だと問題はアリアリでも、当時はそれなりに柔軟な解釈で改革したつもりだったわけで。
ISも当然だが、S県の顕正会、まじヤバ。
こないだ勧誘を受けたのだが。
日蓮の教えは一語一句正しい!
中国(元)が攻めてくるから天皇を帰依させて国立戒壇をつくって国を守れ。
政教一致は必達!
ちなみに、
日蓮宗から原点回帰を強めて過激すぎて破門されたのが日蓮正宗。
日蓮正宗から原点回帰を強めて過激すぎて破門されたのが創価学会と立正佼成会。
この両会は在家たちの、つまり下からの宗教改革だったが、知っての通り王国を作ってる。
姦淫の罪を犯した女は石で撃ち殺せ。父母を殴る奴は死刑。目には目を。歯には歯を。
それがイエスだ。
人が人を裁くな。隣人を愛せ。
多くの人がイエスに従った。
ある者達は彼を救い主(=キリスト)と呼び、ある者は彼を預言者と考えた。
君はレイプされた少女が石打ちの刑で処刑されるニュース映像を見たことがあるかい?
あれは厳しいよ。厳しすぎるよ。
弟子達ががんばったり処刑されたり弾圧されたりしつつも信者を増やして行った。
さらにいろいろあってローマの国教になり布教されていった。(civ4 的な意味で)
たぶんだいたいローマのせいじゃないかな。
なんでお前の家には仏壇があるの?と同じくらい意味のない質問だとおもうな。
うちのばあちゃんが教会に行けとうるさいとか。最近の若者はサラートしないとか。うちの親戚がお盆に帰らないと煩いとか。
聞く分にどの宗教も「どうでもいいと思っているけれど習慣とかしがらみとかで」という人達がそれなりの割合を占めているように思える。
すれ違いが起こる原因は「クリスチャンの家庭ではキリスト教で倫理教育を行っていること」ではないかと思う。
たまに聞かれる「なんで日本人は無宗教なのに犯罪が少ないの?」なんて質問はこの辺りのすれ違いから来ていると思う。
日本の一般家庭はお父ちゃんお母ちゃんが倫理教育をしているんだよね。
「人に親切にしなさい」「人にして欲しいと思う事を人にしなさい」「差別はいけません」(注1)
だいたい新約聖書に書いてある事と一緒だよ。
http://anond.hatelabo.jp/20150607042259