はてなキーワード: 齟齬とは
ref: https://mitanorifusa.com/news/329
労基署では、一日9時間×4日=週36時間労働ということであれば変形労働時間制をとっているということだろうけれども、たとえその形でも一日9時間を超えた場合と週4日を超えて働いた分は残業代が発生する
ref: http://kakuishishunsuke.hatenablog.com/entry/2018/01/17/110312
なので、変形労働制であったことは双方知っている上での今回の訴えだった訳です。
法的に週40なのか週36なのかは私は知りませんが、少なくとも36は越えていたからカクイシ先生が訴えました。
明かされていないのは2点です。
なお付け足しますが、三田先生が答えなければならない部分のみ答え、その他のことについて触れていないのは、対応としてとても上手だなと思います。
私は彼女と同世代のアイドルファンで、ミライボウルぐらい?の時に彼女らを知った覚えがある
当時はSKEかスマイレージかももクロか、みたいな時代だったので私も満遍なく追っていて、ももクロちゃんにも好感を持っていました
「Z」になった辺りからファンも増え、露出も増えだして、あれよあれよと言う間にトップアイドルに登り詰めたのに反して、私の中では違和感がどんどん大きくなっていきました
最初は自分でもあんまり理由はわかってなくて、まぁ楽曲の好みなのかなあとか思ってたのですが
歳を重ねるにつれてその違和感は徐々にはっきりしてきて、20代前半になった今、ようやく掴めてきたような気が
スタッフの手によって、あたかも「昭和のギャグ漫画にでてくる、歳をとらない女の子」のように演出されてきたように見えます
いつでも明るくふざけたトーク、ギャグアニメみたいな面白衣装、元気一杯のパフォーマンス…
わかりやすくキャラクター化された姿は、見る者に対しても、「彼女たちをそういうキャラとして扱っていいんだ」と思わせます
でも現実にメンバーは生身の女性であって、歳を重ね、成熟していきます
いつかその齟齬には限界がきます そんなことは誰が見ても明白です
それは織り込み済みのプロレスなんだよとか、その限界を突破しようと頑張ってるももクロちゃんはかっこいいんだよと言われるかもしれませんが
私にとって、それを見続けるのはしんどかった
なんというか、私も同年代の女として、彼女たちがアイドルとして過ごしている期間、「普通の女の子」として生活してきました
彼女らと違って何も成し遂げてはいませんが、人生や夢や社会のクソさについて友人と語り合ったり、似合うファッションを模索したり、何人かに恋をしたり・されたり、男性目線の不条理な言動に傷ついたり、反発したり、自分の女性性に疑念を持ったり、憎んだり、肯定したり、
この期間は女としての自分に向き合う時間、性的主体性を獲得する時間だったなと思います
そしてそんな中で、女としてどういう風に生きていくかとか、何を楽しんでどんな風に生きたいかとか、ちょっと見えてきたように思います
なんかこういう、10代後半〜20代前半の自分にとって一番大切だったステップというか、時間はきっとわりと普遍的なものなのかな
女友達とそういう話をするのも私は大好きです
でもアイドルとしてのももクロって、そういう「女っぽい」部分を徹底して排除しているように見えます
宮台真司か誰かが「AKBからは生理の匂いがするけどももクロからはしないのが良い」とか言ってた気がしますが(最悪発言すぎる)
そうは言っても彼氏くらいいるだろ的な、つまりそれが欺瞞だってことが言いたいわけじゃなくて、
私が違和感を感じるのはそれを演出するスタッフ側、受け入れるファン側の視点です
まず性的アイコンみたいなものを絶対に見せない、そうなんですよね
過激な言い方になるんですけど、ももクロってAKBや乃木坂を筆頭とする、ストレートな疑似恋愛を売りにするようなアイドルのカウンターカルチャーである割に、むしろその手のアイドルよりも強く"処女性"みたいなのを求められてることないですか
しかもこれはAKBのメンバーに対する純潔の要請とは異なります
AKBの場合、「自分だけの性的客体でいて欲しい」、そして「自分以外に性的主体性を発揮しないで欲しい」となるのはわかります
でもこの理屈は、疑似恋愛を主な売りにしていないももクロには当てはまりません
まあ無理やり脱がされるよりずっといいのは間違いないんですけど
なんだろうなー、
そんな彼女らを応援するファンの一定層には「水着が見たくて応援しているわけじゃない」「彼女らを性的消費の対象にしていない」と自負するような傾向があるように見受けられます(観察した範囲では)
でも一方で、メンバーのスキャンダルが撮られたらものすごい拒否感を示すと思う(妹分であるエビ中のスキャンダルの時に驚きました)
疑似恋愛の対象にしてたわけじゃない、性的対象として処女性を求めるわけじゃないっていうのになんでだろうと
その中には「ももクロは性の匂いをさせないことがアイデンティティだったのに、それを崩された」という怒りもあるような気がして(さっきの宮台的発想です)
それは「自分が当該アイドルを性的客体として扱わない」ことと、「アイドル自身の性的主体性を肯定しないこと」を混同してるのではないかと思うのです
まあこれはももクロのファンに限らず、わりと世に根深く蔓延る発想なのかもしれないですが
少女を性的に消費しないということと、少女の(女性性を含む)主体としての人格が成熟してゆくことを肯定しないことは別の話でしょと
当人は前者をおこなっているつもりで、後者のことをしてる事例が世間には間々有りませんかね?
ももクロ運営がやってることってその最たるものな気がするんですよね
それがウケることを知って、売るために故意にやってるのかもしれませんが
同世代として生きる自分にとって一番大切で興味がある部分を見せてくれない、それどころか否定されてるところが、魅力的に思えなかったのです
(あ、ちなみに女性としての成熟の過程をアイドルとして見せることと、表立った恋愛禁止の建前は両立すると思います)
なんていうかなぁ、幼く性的主体性を持たない(ように見える)「少女」の姿と、成熟した「女性」の姿はスイッチで切り替わるものではなく
わたしはその過程を美しく尊いと思うし 自分にとっても大切だった
それを否定されるのを見るのは辛い
そして、これは余計なお世話かもですが
そんな大切なことを隠し、時に否定されながら、「少女」像をたくさんの人の前で演じ続けるってしんどくないかなって思うんですよ
私だったら絶対やりたくないなあって
個人的に、同性アイドルを推し続ける理由は、その子たちにめちゃくちゃ憧れて、なりたいとすら思うからであって
でも、ももクロはそういう姿だからこそみんなにパワーを与えてるのだろうし
その役目を真剣に果たしてるメンバーは本当に頑張っていて、めちゃめちゃすごいんですよ ほんとに
それはわかってるんだけど
まぁわたしがどんどん変わっていく中で
ずっと変わらないパフォーマンスをしているももクロを見ているのがしんどくなったんですよね
おもったんですよね
勝手にあーと思っちゃった
彼女らはそんなこと歯牙にもかけてないのかもですが
とりとめなくなってしまった
どうしようもなくムカついたりイラつく事柄があって、それは理由とかはどうでもよくて単純にそう感じてしまうことだから仕方が無い、という側面がありますよね。
感情に理由をつける場合、解決手段を模索する時のみそれが適用されると考えれば、とにかくどうでもいいからムカつく、と簡潔に述べていればその事についてはこじれずに済むと思っています。
例えば相手が、それ考えは間違いであり、こちらにもこちらの理があるので正せ、というのであれば、両者共々折れるか戦うかするわけなんですけどそこで戦う事を選んだ場合理由が必要になってくるわけです。
あくまで平和的解決、若しくは健全な事態の収束、双方の納得を考えた場合必要不可欠になるものが理由であって、その内容が不健全であったとしてもどういった経緯で不快な感情を感じてしまうのかを道筋立てて説明できなければならないと考えられます。
現象には原因が必ずあり、それは感情にもハッキリとあることだと思うのです。
全てを説明する必要はない、相手がわからないのが悪い、と言ったコミュニケーションの隔絶、対話に対する拒絶等は片一方の確定的な「折れ」として扱うことが出来ます。
現象によるストレスの発生にプラスしてもう一つのストレスを生むわけですがこれには相手にストレスを与え、行動の抑制を促す効果を期待して行う事が大きく、いわゆる野性的な威嚇とも言い換える事ができると思います。
こういった野性的な威嚇はそこいらでよく見かける事ができます。様々な事柄を包括したコンテクストの押し付け等の不透明なルールに基づいた他者を排他する行動は非常に労力が少なく、かつ成功したモデルケースが多ければ多いほどこの「野性的な威嚇行動」を選択する機会は増して行くと思います。
そういった「野性的な威嚇行動」をより多く取るようになった人がモデルケースの少ない個人的かつ普遍的ではない嫌悪感を抱いた時にも「野性的な威嚇」の選択をとってしまうのではないでしょうか。つまり先程述べた通りの対話の拒絶が起こるわけです。
相手にみてとれる「対話の拒絶」状態は片方の健全な事態の収束を望む者にとっては、地獄に落とされたような気分の落ち込みを与えます。また、拒絶された側も相手を拒絶する「野性的な威嚇行動」に移るケースが多いと感じます。水掛け論、論点のすり替え、相手が折れるまで続く無意味かつ徒労を感じる罵倒の応酬、これらは全て威嚇行動です。
先程述べた「威嚇行動」と別の平和的解決とは、結果的に全てを無に帰す事を目指す行動です。また労力に見合った結果に終わる事は、現象における規模によって変動していくと考えられます。
また、解決とは折り合いを付ける場合にもそう呼びます。つまり現状に変化は無く、両者が状態を飲み込む事で解決とする結果です。これには不完全な箇所が多数あり、根本的な原因の解決が済んでいない状態ではありますが、原因の所在が明らかになっている状態にあります。両者に認識の齟齬はあるはずですが、自身の改善を促し問題の起きるキーそのものを消化する可能性をもたらしてくれます。
私が言いたい事は、話す気が無いように取れる一方的かつ単純で攻撃的な発言を見るとクソむかつき倒してしまうし目にすると気分を害するので消え失せてくれダボ共、くたばれ糞袋人間のゴミ、世界中の全てありとあらゆる生命ある物質から愛と称される施しをうけること無くすみやかに死を受け入れ、余生を享受する暇もなく地獄へ無限落下し続けるその様はまるで薄汚い腐った豚の腸、見た者は顔面蒼白になり路端で嘔吐あわや蛙の如く胃ごと吐き出す始末、阿鼻叫喚、地獄絵図、百鬼夜行悪鬼羅刹魑魅魍魎、南無三、神様仏様、織田無道様、御心のままにどうか私をお助けくださいませ、永遠に続くかと思われた地獄の果てに待つは地獄、これが無限地獄なのかと気づく頃には自失呆然五里霧中、意識は散り散りになり脳のシナプスは煙をたちあげ体は爆発四散雲散霧消あっぱれ、さようなら現世さようなら天国永遠とは苦しみの中に見つけたり、想像を絶する、人智の外から来たような苦しみを味わってほしい。よろしく。
どっかの二次創作を元に名前を売ってオリジナルというのが最近は良さそうな気がする。
特に、二次創作推奨を権利者が公言しているジャンルの二次創作は驚きの白さだ。
それこそ、同人誌として少しずつ出していけばいいかもしれない。
「こういう表現がだめ」じゃなくて「出版社の俺はこういうのが売れると思ってるがお前のは売れないと思うからだめ」なわけで。
起業でもサブカルでも売れれば正義なところがある。そこで、そういう下卑た判断もあるはあるだろう。
君はそこで齟齬があるんでしょ。
どのみち客に聞いてニーズを掴んでいく。
新しい商売と捉えると、高価で少ない顧客か、何らかのプラットフォームを用いてある程度の数に売るかのどちらかになる。当然、そのプラットフォームにある程度合わせないとならない。
辛いというか、憎い。
特定の誰かを憎んでいるわけではない。「特定の知人が憎い」、「有名なあの人が気に食わない」、「会社の〇〇さんとは意見が合わない」・・・そんなハナシであれば、逆にそれこそ万人が抱えているインシデントだと思っている。人間が社会的生物である以上、他人との齟齬や軋轢ははどうしても発生してしまうものだ。それは分かっているし、今までの自分はそういった「自分とはいまひとつソリが合わない人々」ともうまくやってきていた。・・・はずだった。
だが、最近の自分は明らかに何かがおかしい。友人の幸せな話を聞く度に心がすさむ。楽しそうな顔を見ると辛くなる。作り笑いの顔がばれてやしないかと変な汗が出る。
先日、友人の結婚式に行った。高砂に座る幸せそうな新郎新婦の顔を見て、「早く離婚すればいいのに」と思っている自分がいた。
facebookで、出産を報告している友人がいた。お祝いのコメントであふれる中、呪詛のようなコメントを書き込みたくてしょうがない自分がいた。
twitterで、ソシャゲの最高レアカードを無課金で引けたと自慢している友人がいた。10万円ぐらい課金してゴミばかり引けばいいのにと願っている自分がいた。
逆に、友人の不幸な出来事に聞くと、妙に心が躍る。辛そうな顔を見ると嬉しくなる。口の端がつりあがっていないかと、無表情を装う。
先日、友人の子供が難病に罹った。1年以上は入院生活を余儀なくされるらしい。その話を電話で聞きながら、ニヤついている自分がいた。
facebookで、母堂の喪主を務めた旨の報告をしている友人がいた。故人の意向だかで家族葬ののちに報告となった事を詫びていた。お悔やみのコメントが並ぶ中、皮肉たっぷりのコメントを書き込みたい衝動にかられている自分がいた。
twitterで、仮想通貨に手を出してウン百万円のマイナスになったと書き込んでいる友人がいた。「バカ丸出しだな」と思っている自分がいた。
これらの友人・知人達を嫌っているという事はない。むしろ好きと言って差し支えないと思っている。なのに、幸せな顔が、報告が、書き込みが、俺の顔を曇らせる。
友人知人とは関係のない、インターネットの別世界に逃避しようともした。だが無駄だった。炎上しているところを探して、ポリコレ棒持参で徹底的に叩くだけだった。左も右も主義も主張も関係なく、誰かが探し出してきたサンドバッグが設置されれば、ひたすらに叩き続けた。炎上の為の薪もせっせとくべたし、火のないところには煙を立てまくった。そんな事をしても誰も幸せになれないし、自分の胸のモヤモヤも大きくなる一方だったが、空虚な行為が止む事はなかった。
もうどうしたらいいのか分からない。
自分は今まで「語彙力=同じ事を伝えるのに多様な表現を使うことで、自分が言葉を沢山知っているのを自慢できる能力」だと勘違いしてた。
だから、語彙力なんてのが身についても人に偉そうに出来る様になるだけなんだから身につける必要なんてないと考えていた。
違った。
語彙力っていうのは「自分が伝えたいことをより高い精度で他人に伝えるための表現を選ぶことが出来る言語能力」だったんだ。
ネットを通じて文章を色々と書くようになって、リアルでも日記をつけるようになって、そうして少しずつ色んな形で文章を書いているうちに、ようやくこの事が分かった。
時折はっきりと自分の非力を感じることがある。
自分の綴った文章と、自分の頭のなかにある伝えたかった出来事を見比べディティールの甘さにうんざりしそうになる。
自分の頭のなかにあるイメージを人に伝えるには、言葉や絵を使うしか無い。
表現力の未熟さはそのまま、他人と自分の間で齟齬が生まれる確率の高さだ。
共感も理解もしてもらえない可能性、単なる誤解で全部終わってしまうリスクの大きさだ。
誤解されたくない。
語彙力が欲しい。
完全には分かり合えないなりに、分かり合いたい部分で少しでも明確に分かり合うための手段として語彙力が欲しい。
の話をするのもなんであるが、先頃「ああ東大話法だなあ」という会話を経験した
安富先生の東大話法はある種の人に対する正当で的を射た批判であると思うが、一般向けに提唱されたためか、いかんせん書きぶりがフワッとしている
批判の対象が詭弁を駆使する相手である手前これはあまりよろしくない。「それは東大論法だ」などと言ってもあの手この手ではぐらかされてしまうだろう
安富先生のまとめたことは2-1-2以降、および2-2以降に含まれることになるだろう。基本的には批判、あるいは"これからされるであろう"批判を回避するための詭弁であり、それを「議論を"分かりにくく"するための修辞」や「自らの立場を利用した権威的態度、権威論証」が支える形である。
さらに詭弁の形の一つとして付け加えたいのが2-1-1にある「自ら発言の後からの修正、限定」である。これは安富先生の挙げられた中に明示されていなかったように思うが、個人的にはこれこそが実は「東大話法的な」議論の中核を成しているのではないかとさえ考えている
もちろん「発言に対する後からの説明、注釈」は常識的な範囲では普通に行われるし、従って直ちに論理的誤謬であるということはできない。意味が正しく伝わらなかった時に後から「より詳しく」注釈するのは当然のことである
しかしながら、権威的な立場から発せられるがゆえに重々慎重であらねばならない言葉に対して、それが批判にさらされたからといって後から読み手の予想し得ない限定条件を付け加えたり、ある用語が通常用いられない特殊な意味で使われていると釈明したりするのは誠実性の問題であろう
あまつさえ「元の発言は当然そのような(極めて限定された)意味に受け取られるべきで、そのように受け取らなかった読み手が悪い」といったようなことを言うに至っては、まごうことなき詭弁である(「当然」という部分は権威論証的であるし、誤読の責任を相手に転嫁することは「本当に意味の齟齬があった」にしても不誠実である。もちろん大部分は、批判を無効化し回避するための方策として「相手が誤読したことにする」べく、後から意図的に作り上げられたものである)
言葉の意味や文法は辞書や文法書がア・プリオリに定めるものではない。膨大な一対一、多対多の関係の中において得られた広範な"合意"の集成であり、辞書や文法書はそれを抽出しているにすぎない。まして特権的な人物がその意味をなにがしかできるものではない
そのような合意の元に発せられた言葉の意味せんとすることを、批判を回避したい、相手に責任転嫁したいという邪な欲求のために後から自分の恣にしようとすることは、言語活動の中でももっとも不誠実な部類の行為であろう
価値観を持つ存在を仮定しなければ同意を考慮することは不可能ではありませんか?
無が最上であればすぐに死ぬこと、周りにも死ぬよう働きかけることが理想的ではありませんか?
今すぐ死ねば子供を生む心配はありませんし、自分が死ねば人が子供を生むことを知覚する心配もありません。
人生は最悪だけど死ぬのは怖いからできるだけ楽しく生きます。自分の子供には苦痛を与えたくないので私は子供をつくりません。
自分のエゴで「子供を作らない」ということを選択しただけです。
その二つは等価です。
ですが、子供を作ること自体が罪なので人類は絶滅すべき、と言うのは、反論できない生まれてくる子供の価値観を同意を得ずに規定していることになります。
それは今まさに禁止したことではありませんか?無だからそれは良いですか?無だから別に良いのなら勝手に生んでも別に良いのでは?
論破しようとかそういうのではなく本当に疑問なだけなので、お付き合いいただければ幸いです。
柱2がおかしいですね
まず1行目は“同意を得られないのに”子どもを作る権利はない、が正しいです
2行目の「生まれない、という選択を勝手にすることは良いの?」については、無は無だから良いとしか
3行目は(私が訂正した柱2の1行目)で否定されます、仮にプラスになったとしても同意が無い以上、いけません
4行目は「当人にとってブラスかは我々には判断できない。だがどう考えても →(柱1)」ではなく(私が訂正した柱2の1行目)ですね
自分としては「無は無ですよ」こそが反出生主義の肝だと思ってるので、何らかの価値観を持つ存在があると仮定してはいません
絶対的な無は価値観すら無化するでしょうが、それでも(それだからこそ?)「無は単に無だから」が尊いと思うのです
※柱1の3行目もおかしいので追記
→「それは価値観しだいだよね。その価値観でいけば生きてる人もすぐ死んだほうがいいじゃん。」“だから人類は絶滅した方がいい”、が反出生主義的です
ちなみに「今すぐ死ねよ。」に関しては、不本意だけど生まれてきたからには出来るだけ苦痛を回避して楽しく生きよう、しかし子どもだけは作らない派と
・公式の発言(Pの発言や委員会からの発表など)は正しいものと仮定する
・発言内容に食い違いがある場合、意図的な嘘はなく、認識のずれなどからくる意見の相違とする
・参照した発言はたつき監督の例の最初の発言、福原Pの発言、委員会からの公式発表の他、インタビューなどで一部触れられた関連すると思われる話題なども参考にしている
https://togetter.com/li/1155008
https://togetter.com/li/1184144
この会議でヤオヨロズが二期から降板することになった(事実)。しかし降板に至る経緯としては、福原Pは突然言い渡されたと認識、辞退とは思っていない。委員会側は注意したら辞退してきたとしている。(見解の相違)
参考になりそうな発言として、委員会側は「情報共有や事前連絡がないままでの作品利用」があったため、二期の条件として事前共有の徹底を申し出たらヤオヨロズが辞退した、としている。
12月の福原Pの報告では、該当しそうな部分として12.1話は委員会へ報告していた、同人誌は吉崎先生に許可を得ていた、としている。
→文面をそのまま素直に受け取った場合、同人誌は「原作者である吉崎氏には話をしていたが、委員会まで話が伝わっていなかったのでは?」となる。どちらも委員会に話をしていたなら、わざわざ前後で区別をつける必要がない。
ただし、では誰が悪いのかということになると話が難しくなる。例えば単なる二次創作に関しては公式でOKとされており、元の意味からすれば違うが、昨今の風潮で同人誌≒二次創作と認識されているケースもある。「同人誌」の作成の可否について委員会にまで確認する必要があるのか、と考えたとき、ただの二次創作ならそこまで話を通さなくてもいいのでは?と思う。
しかし、「17年夏のたつき監督のけもフレ同人誌」の内容を調べたところ、それは単なる二次創作ではなくてアニメ雑誌に使われたイラストであったり、他の媒体で使われたものを収録していたらしい。つまり同人誌のために書き下ろしたものでも公に出ていなかったものでもなく、既に別の媒体で使われているもの。それを委員会に許可なく使っていいかと問われたら、駄目だと思う。普通は原作者ではなくて公式に確認を取る話ではないかと思うし、実際、ソシャゲの絵師がPixivなどで寄稿した絵を投稿するときは大概説明文に許可を得ていることを書いている。
そのため、同人誌に関してはむしろ文面通りに取るならヤオヨロズ側(むしろ同人誌を発行したのはたつき監督名義なのでたつき監督個人?)に落ち度があるのではないかということになるが、新たに書き起こしたものを使うのか、以前に仕事で作成したものを使うのかなどの詳細を互いに確認していなかったのならどちらがコミュニケーション不足だったかという別の問題になってくる。
もしも仮に吉崎氏がOKを出した時、委員会にも話を通しておくだとか、委員会への相談をその程度ならしなくていいだとか、直接委員会へ相談することを止めたり不要であるかのように言ったり説明を代行するようなことを話していたりしたとしたら、謎の怪文書「吉崎観音黒幕説」が成り立つかもしれない。
※ここまで妄想
「自由に使っていいよ」と監督本人に言っていたあたり、今後も非公式でたつき監督がけものフレンズ関連作品を新たに作ることについてはむしろ歓迎はしていた。
ただし、当然ながら今までに作ってきたものをたつき監督の裁量で自由にしていいという話ではない。
※吉崎氏の発言を拡大解釈した可能性は、状況を見るにそれなりにありそう(確定ではない)
※吉崎氏がだんまりなのは、この自分の発言が過大解釈されて「情報共有や事前連絡がないままでの作品利用」に繋がったためこれ以上のうかつな発言ができないのでは、という妄想もある
これも降板したという結果そのものは委員会側とヤオヨロズ側で相違はない。ただし経緯の認識が違う。
しかしこれについては認識がずれていたと仮定すると割と簡単にどちらの言い分も嘘ではない話の流れの推測はできる。(あくまで推測)
委員会側は、「情報共有や事前連絡がないままでの作品利用があった」として福原Pと話をした(これが同人誌についてかそれ以外であるかは不明)が、福原Pは事前連絡のない作品利用に心当たりがなかったので「何を問題にしているのか分からなかった」。
※これが同人誌に関してであれば、この認識の相互にある程度説明がついてしまうので、同人誌のことについてである可能性が若干高い
※ただし、声優オーディションにけもフレの名前があったという未確定の話題もあったりするのでやはり確定ではない
※そして、どうも認識のずれはここの「情報共有や事前連絡がないままでの作品利用」のところにあるように感じる
福原Pは話し合いの中で、例えばダチョウ倶楽部的な「それならウチは止めますよ?(本当にそれでいいんですか?)」からの「どうぞどうぞ」があったかもしれないし、あるいは「(何をどう問題にしているのかも分からないので)正常化しろと言われても無理、(特に問題もなかったはずなのに後から問題にされてああしろこうしろと言われたら困るので)そのような話をされると仕事ができない」といったようなことを言ったら、「なら二期は依頼できませんね」となった、無理だと言ったのはヤオヨロズ側なのだからヤオヨロズの辞退だ、と思われた、なんてケースもあるかもしれない。
実際の話し合いがどのような流れなのかは妄想するしかないのでそこに関してあれこれ考えるのはあまり意味がない
※一旦妄想終わり
ここで言えるのは、話し合いに最後まで齟齬があったと思われること、言葉尻を取ったのか何なのかは分からないが福原Pの発言は委員会側にヤオヨロズ側が二期を断ったという認識を与えたということくらい。
・委員会はヤオヨロズのしたことを問題視していても違反があったとは言ってない(事実)
連絡不足、確認不足、コミュニケーション不足であった点は否めないだろうが、それを一方的にヤオヨロズが悪いとは言ってない。本当に悪いといいたければ著作権違反だとかもっと強い言葉はいくらでも使えた。
どちらかと言えば「ちょっと雑になってた点があったから、二期という一大プロジェクトに向けてここできちんと整備しなおしましょう」というだけの話だったのではないか、と公式の文面であれば読み取れる。
※実際の話し合いの場でのニュアンス、表現がどうだったかは置いといて、委員会としては別に即切ろうとは思ってなかったのではないだろうか。円満にたつき監督の二期が作成できるならそれが一番なわけで。という妄想
※ただ、公式の発表としてそんな強い言葉は使えないので本音はお前らが十割悪いと思いながらも言葉を濁した可能性も当然ある。公式発表では悪いと言ってないだけで内心や会議の内容までは分からない
いい悪いの話ではなく巨大プロジェクトを担当するにはコミュニケーションと権利関係の認識が雑だったね、というだけのことではないのかと邪推。もちろん単なる与太話でしかない。
今日12月25日はTYPE-MOONにとって特別な日であろう。
原初の聖杯を生み出すセイヴァーの生誕の日、かの魔術の王が英霊の座から永久に消え去った日、愛を知らぬ獣が『人の王』となった日。そして、
オルガマリー・アニムスフィアの命日であり、私がFGOというゲームから限りをつけるターニングポイントとなった日である。
私と型月との出会いはZeroアニメだった。そこから転がるように世界観に傾倒していき、レアルタ・ホロウ・らっきょ・月姫(漫画版チェンゲだが。リメイクはよ)等々沈みこんでいった。
私はキャラクターよりもそれを取り巻く「世界」に好意を抱く人間だ。そこで積み上げられた世界観を不特定多数で共有したい、そんな思いからネット上の聖杯戦争を下敷きにしたTRPGセッションによく参加していた。
所謂月厨がよい印象を持たれないことはよく分かっていたので、そのセッションと型月板以外では大人しくしていたと思う。それが周りから見て「いいファン」たりえてたかは、今となっては分からないが。
そしてFate/Grand Orderがサービスを開始した。あのメンテ地獄をどう乗り切ったか、既に忘却してしまったのだが、きっと同じ境遇の掲示板上の同好の士が支えてくれたのだろう。
長いメンテが終わった先にあったのは、初めて抱いたキャラクターへの好意だった。
いつか「所長目当てにFGOを始めたら誰も彼女が死ぬことを教えてくれなかった。愉悦部だ」といったツイートが流れてきた記憶があるが、それはどうだろうか。所長の魅力は彼女の死に対して最も輝いていたと思うのだが。
閑話休題。
ともかく序章が終わった時点で私のFGOへの一番のモチベーションは所長になった。
その後も所長のみを求めて本編・イベントを進めていった。自身の形質もあってか、幸い「推しを引かねばならない」という焦燥感に駆られることなく、『「好きなキャラを引く」ではなく「引いたキャラを好きになる」(当然そこにあるのは「愛情」ではなく「愛着」だが)』というスタンスで進めるという割と健全なプレイをしていたのではないかと思う。(結局課金は16年の福袋のみに徹した。余談になるが、私は意識高い系として散々弄られた庄司Pの「ゲームの価値は顧客一人一人が決めるもの」という発言だけはマーケティングのいち真理だと考えている。今となっては喧嘩別れのようなかたちで引退した身であるが、払った金額ぶんだけの価値はあったと思うし、そこに後悔はない)
恋の続く期間のひとつの区切りは3ヶ月だ、などという話をよく聞く。私の所長への一方的な恋は、その区切りを何とか乗り越えることができた。
しかしその恋心に対してFGOは残酷であった。マスターの皆様方ならお分かりであろうが、月見イベント以降シナリオ上で所長に関する言及がぱったりと途絶えるのである。
型月の世界観は愛していた。しかしその時の私はそれ以上に所長に対しての思いが勝っていた。
そんな私に与えられたのが所長の情報の断然だった。そんな状態で、所長への思いは潰えない代わりに型月世界観へのそれが立ち消えていくのは時間の問題だった。
きっかけが何だったのかはもう不明瞭であるが(戦闘が面倒だとか案外そんな今更な理由だったのかもしれない)、メインシナリオへのモチベーションが第六章の途中ですっかり折れてしまい、数ヶ月間に渡ってログインと必要最低限のイベント周回を行うのみになってしまった。パーソナル・レッスンは当然限凸したが。
時は流れ、2016年冬。そんなモチベーションの転機となったのが終章前のキャンペーンであった。適当な自己分析ではあるが、その時の思いは「所長・石30個への乞食感情・『リアルタイムならでは』という言葉に対しての勝手な勘違い(恥ずかしながら、『終章そのものが期間限定である』と思いこんでしまっていた。この齟齬がどう影響するかは後に話す)」であったと思う。その時の私は、単純計算でも半分以上義務感でシナリオを進めていたに過ぎなかった。(6,7章のシナリオこそ読み飛ばしはしなかったが。それでもなお最近のエレシュキガルフィーバーに「遠坂凛である、以上の湧き上がる理由がわからない」と言ったらモグリ扱いされるのだろうか、といった程度の読み方しかしていないが)七章まで終わらせたのは終章開始ほんの数日前、だったように思う。
そして終章。そこで待っていたのは「素材激ウマクエストを周回する権利」という自業自得な裏切りであった。これに関しては100%私が悪いのでFGOに対してどうこう言うつもりはない。モチベーションの柱がひとつ折れた。
マーリンは引けず、柱がもう一つ折れたなか、魔神柱は必要最低限の各一回のみ倒し、追悼動画なんてものをどこか冷めた目で見ていた。
もはや私に残されていたのは「最後に所長に関する言及があるかもしれない」という曖昧な希望だけであった。
そして来たる2016年12月25日。最後の魔神柱陥落の知らせを受けた私を待ちうけていたのは、純粋なストレスであった。
勝てない。
勝てない。
勝てない。
休止期間中に溜まりに溜まった林檎を齧り、手を替え品を替え鯖を替え礼装を替えても勝てない。羅刹王の効果がなかったのは未だに許していない。
その時の私は確実にスレていた。「聖晶石は『未来を確約するモノ』なのだからコンティニューは恥ずかしくない」なんて文章を見てしまったため、意地でも石を割るものか、と思ったほどだ。結局その意思すら割れてしまったが。
人理は修復された。そこまでのストレスと差し引いたらどうかとは思うが、悪い終わり方ではなかった。所長に対する言及さえなければ。
人理修復を達成したマスターならばここで疑問に思うだろう、終章にはオルガマリーのオの字も出てこなかっただろう、と。しかし言及はあった。あってしまったのだ。
そう、「語られない者」、二百名の「その他大勢」として語られてしまったのだ。
ただただ放心した。奈須きのこの中には、既にオルガマリー・アニムスフィアという存在はいないものなのだと、そう感じた。
言及されない、ということも覚悟はしていた。しかし現実に突き付けられたのは、「きのこは所長を覚えていない」という実質的な死刑宣告であった。私の中で、もしかしたら復活するかもしれない、という希望が立ち消え、最後の柱が折れた。
一回忌。
SNS上で多くの人間がFGOに対して感謝を述べるなか、漫然たる義務感と所長への思いだけで一年半継続してきた私は取り残されてしまった。
そこで私と他マスターとの間に大きな亀裂が生じてしまった。妬ましいのだ。
何で俺が救われていないのにお前らは救われたんだ、感謝の言葉を言えるんだ。そんな身勝手な、醜い嫉妬。
そんな思いから一気にFGOへの思いが覚めてしまい、止まってしまった私は先達を気持ち悪い内輪ネタとしか思えなくなってきた。
その後も惰性でログインとイベントだけ続けていたが、その惰性すらチョコ礼装のテキスト「いつかこれに乗って、""四人で""颯爽と聖地の荒野を渡る事を天才は夢見たのかもしれない。」に心折られ、近しいうちに引退した。
引退後は徹底的に自衛を行った。私の心理状態はアンチのそれに近しいものだっただろう。ただ、それを行動に出すのはみっともない、そうも考えていた。
「嫌なら見るな」とはよく言うが、本当にその通りだと思う。見えなければ怒りは湧いてこないのだ。そして、作品に対するアンチ行動は作品そのものではなく「その作品を楽しんでいる人間」そのものに向けられていることも理解した(私が特殊なだけかもしれないが)。
一年が経ち、作品そのものに対する不満は引いてきた。それを取り巻く人間に対しての嫉妬への対処は、まだもう少しだけ時間がかかりそうだが。
そして、この文章は一年という澱みに対する気持ちの整理である。一年前では良くも悪くもここまで冷静に物事を見れなかったであろう。
ただ、身勝手な望みでしかないのだが、願わくば所長には復活してもらいたくない。創造主から一度忘れさられたものをサルベージされたならば、それはもう菌糸類からのキャラクターへの愛情ではなく只のビジネスだ。
好きでもないキャラクターをビジネスとしてピックアップさせ、好きでもなかった人々から「ずっと待ってた」などと空虚な言葉をかけられ性的非性的に搾取される。
そんな未来は、きっと耐えられないだろう。
反応ありがとうございます。
ソラウリベンジ
悲惨な末路をたどるのは十分予想できたことであり(ぐだおでもネタにされてましたし)その「悲惨な末路」があったからこそオルガマリーというキャラクターに惹かれたのは先に記した通りなのでそこに文句はありません。
ただ、その「悲惨な末路」が作中だけでなくメタ的な扱いにおいてもそうであったというのが只々残念であるのです。
2部
今になって言及されても「2年近く言及をしてこなかった」という疑念は拭えませんし、プレイヤーに対する心証の悪さ(悪目立ちしてるのはほんの一握りだというのは理解しているのですが)はまだ癒えていないので再開してもストレスにしかならないでしょう。加えて引退において後腐れないように引き続きコードを電子の海に放出したため所長がどうこう関係なく面倒なので復帰の予定はありません。(スマホのスペック的にも去年はプレイに支障がなかった程度だったがそこから一年経って諸々追加されたらもうダメそう)
カネやチカラや性に関するスペックで人間の価値を測る。こうした価値観の存在を容認するのか?しないのか?その事を問う踏み絵としての機能を内在させるコミュニケーション。それが現代の童貞弄りなのだろう。
そうした価値観の有無や有用性に対する見解は関係なく、単純にその価値観を容認するのか?しないのか?という事のみを問う機能を内在させるコミュニケーション。
踏み絵を踏む事に躊躇いを感じない者同士にとっての童貞弄りネタは、冗談であり、コミュニケーションであり、表現として、半ば無邪気に、無自覚に処理される物である。多くの者はコレを無自覚に処理しているのではなかろうか。
他方、踏む事に躊躇いを感じる者は、自動的に「つまらない者」「チカラを否定し妬む劣等者」の側にカテゴライズされてしまう。或いは、それを自認したものとみなされてしまう。阻害された上に弱者としてのポジションを押し付けられる。相当に一方的な扱いを受けたと感じる筈である。
人間の価値を測る基準に、大きな齟齬がある両者が揉めるのは当然の事であり、議論の末に何らかの合意点を見つけ出す事は、相当に難しい事なのではなかろうか。互いに距離を取る。くらいの事しか出来ないのではないだろうか。
最近、セクハラを告発する「#metoo」なるハッシュタグがあり、ネット界隈で結構有名な「はあちゅう」という女性が、元電通の岸勇希からひどいセクハラを受けていた事を告発した。
この行動自体は称賛に値することだと思うし、岸という人間はなんらかの刑事罰を食らってほしいぐらいだが、それとは別にはあちゅうという人間があまりにゴミだったのでまとめておく。あと、「ヨッピー」というこちらもネット界隈では有名なライターがいるが、こいつもクズなので記録のために書いておく。
■結論
はあちゅうもヨッピーも「自分はいいけど他人はダメ」という考えがあるから問題がある
■経緯など(はあちゅう編)
↓
「お前だってクソじゃん」「お前も童貞をバカにしてたじゃん。それはセクハラじゃないの?」という反論が来る
↓
はあちゅう反論「童貞という言葉に持つイメージは世代によって違うのでは?」
↓
叩かれる
■経緯など(ヨッピー編)
↓
↓
ヨッピーが「電通が悪い、で済ませていい問題ではない」「他業界でもこんな話はあちこちに転がっている」などと発言
↓
ヨッピー叩かれる
↓
ヨッピー反論「今回のはあちゅうの話を公にしようって言ったのは俺だっつーの」「ITも金融もそんな話のタレコミ来とるわ」
↓
今回の騒動で、岸が「あれ(はあちゅうに対しての数々のセクハラ)は愛のあるイジりだと思っていた」等と弁解しているが、これとまったく同様の事を自分がしている癖に無自覚なところ。
(逆に自覚した上で「私はいいの!」と思っているならある意味大物である。)
セクハラ・パワハラ案件では「自分は軽いスキンシップだと思っていた」「悪気はなかった」「イジって笑いを取ってあげていただけ」等の言い訳が見られることがままある。そしてこれらの言い訳が全くの詭弁であるということは皆も周知のことと思う。
確かに、「童貞」という言葉に対してのイメージは個々人によって異なるのだろう。そして、はあちゅうは「童貞」という言葉にポジティブなイメージを持っているのであろう。
ならば「私は『童貞』というワードにネガティブなイメージを持っていないから他人に投げかけてもセーフ」となるのか?私はならないと思う。
この「自分ルール」を他人に押し付ける構造こそが、各種ハラスメントの根底にあることを理解していない。
「今回の岸の件と、はあちゅうの過去発言については分けて考えるべき」という意見には私も賛同する。
当たり前だ。「罪を犯したことが無い者のみが手斧を投げなさい」と言っていいのはキリストだけだ。まぁキリストはそんな事は言っていないと思うが。
だからこそ、はあちゅうは過去の自身の発言に対して真摯になって頂きたい。謝罪の一つもなく、「セクハラを告発したら叩かれた」等と被害者ぶっている現在の行動は唾棄すべきものである。今回の件ではあちゅうを批判してる人間の大半は、その場の雰囲気ではあちゅうを批判している訳ではない。それなのに批判意見には「見当違い」とNOを突きつけ、賛同意見のみ称揚する。そんな人間を信用する人はいない。
・「いっちょかみ」で色々なところに首を突っ込んでは叩かれるクセに、反省も改善もしないところ
「日本語」と言うか、言葉・言語の出発点は「意思の疎通」であるはずだ。自身の感情・思想・思考を、なるべく齟齬がない状態で対象に届ける事ができるのが肝要であり、ライターともなればそういった事に気を配るのは当然であろう。捻くれた比喩や冗長な表現は小説にでも任せておけばよろしい。
だがヨッピーは度々「ヘンな日本語」を使う。それを一種の「ライターとしての自身の持ち味」だとでも思っているのだろうか、改善するそぶりも見せない。
今回の件では「スケープゴート」という単語が引っ掛かった。以下引用する。
ttps://twitter.com/yoppymodel/status/942268335701368832
電通のコメントなんかは残念極まりないし猛省して今後の対応をすべきだけど、電通とか広告業界関係なしにこういう話ってあちこちにゴロゴロ転がっているので、「これだから電通は~」みたいに電通をスケープゴートにして叩くのは少し違うんじゃないかなーと思った
案の定返信でつっ込まれまくっているが、本人はどこ吹く風である。だいたい、「自身の想定していた意図と異なって伝わってそうだなー」と思ったら説明のひとつもすればいいのに、それもしない。
過去の類例で「ボードゲームを紹介する記事につっ込みが入った際に、謝罪もそこそこに以降のやり取りをシャットアウトした」という前科がヨッピーにはある。これでライター業を名乗っているのだから気楽なものである。
そのくせ、自身が理解できない事柄に対しては容赦なく攻撃する。少し前にバズった「蹴鞠おじさん」の件などが該当するだろうか。
ttp://yoppymodel.hatenablog.com/entry/2016/11/10/111014
はあちゅうもヨッピーも、いわゆる「信者」を大量に抱えているので、自身が気に食わない事柄があれば信者をけしかけ、相手が折れるまでボコボコに叩く。そこに正義はない。あるのはただ「俺が理解できない事を言うな」という、スターリンも真っ青の思考である。謝罪など断じてしない。これとは別件だが、「ギガが減る」という文言で長々とバトっていた時も、ヨッピーは自身の過ちは認めず、ひたすら信者達をけしかけていた。
そもそも、なんではあちゅうの告発でヨッピーが「『公にするべきだと思います』って言ったの俺だっつーの」などと言っているのか。上から目線にも程がある。自身の正義を疑っていない、辞書的に正しいほうの「確信犯」めいた狂気がある。
こういった「自身の誤ちを認めない・気が付かない・分かっていない」人間こそが、他者へのハラスメントを生み出している。ヨッピーなどは「いやぁ、俺飲み会で「あなたヤリマンですよね?」って聞いてたわー、俺結構聞いてわー、悪気はないけど」等とtwitterに書き込んでいる始末である。ここまでくると、もはや害悪である。言葉を投げかけれられた人間だけではなく、この書き込みを見た第三者の気分すら害している。
意訳して伝わらなくなるっていうのは
例えば「みたらし団子を1串の2個食べていいよ」っていうのを
これだと2串食うかもしれんわけで言った方は団子2個のつもりかもしれないけど受け手はそうじゃない
それに最初の発言にしても1串につき2個食べていいという解釈もできる
なので「1串全部食べたら駄目だが1串についた団子2個だけ食べていい、全部で2個以上食べるのは駄目」
これを短縮して言おうとすると前述になるわけだが情報が欠落するので齟齬が生じてくる
お互い分かってる間柄なら「何時に飯だから1串全部食わずに2個だけにしろよ」みたいなので通じる
1歳なのでまだ一人では着替えができない。私がお風呂上がりに着せるものだ。
「パジャマは上下に別れていて、お腹のところにボタンがあるから、
それでズレないように止めてね」
でも残り1割くらい、説明を受けただけだと自信薄な感覚がある。
そこで、こういう答え方をした。
すると妻が明らかに不機嫌になった。
「はあ?それ以外何があるの?」
「本当に面倒くさい!」
ほぼほぼ理解はできているよ、というこちらの状況を伝えるための確認だ。
これで「そうだよ」という答えが返ってくれば、
万が一「違う」ということであれば、パジャマの着せ方を根本的に勘違いをしていることがわかる。
全体をもう一度復唱するようなことなく、だいたいの齟齬の有無をチェックできると思っているので、
ほとんどわかりきっていることを質問すると苛立つ人は結構いるのだろうか。
できれば「そうだよ」とだけ言って許してほしい。
[金]
・私、先輩、製造委託先の営業のおっさん(といっても30代半ばらしい)と、3人で飲みに行く。
・先輩が一瞬姿を消した瞬間、おっさんにいきなり顔を掴まれてに舌をつっこまれるというセクハラをうける。
・必死に抵抗するも逃げられず、10秒程経過した後やっと解放される。
[土日]
・恐怖のためか思考が散漫になり何も手に付かない。
・食欲がない/手や脚が震える/常に涙が滲む 状態となる。
[月]
・出社。
・思考が散漫になり、文章を読むことと話を聞いて理解することができず、仕事ができない。
ただ相手に処分が下ると、チームメンバーの業務に多大な影響を与えるため、オオゴトにしないつもりだと伝えた。
[火]
・出社。
・怖くてトイレから出られない、常に動悸がする、廊下が怖いなど身体的な症状は悪化の一途を辿る。
・なんとか進捗会議(例の営業のおっさんもいる)に参加するも体は動かず何も発言できない。
・業務へ支障が出ているため、取り急ぎチームで一番優しい先輩に相談する
[水~金]
・休暇をとる(元々予定していた)
・この3日で、先輩→チームリーダー→上司へと話が進む。先方も交えて様々なやりとりが行われたようだ。
[土日]
・特になし
[月]
・チームリーダーから、私/例の営業の間で、直接的なやりとりが発生しないように対応したことを伝えられた(私の担当業務の営業を、別の人間に変える/進捗会議などは別の営業を参加させる 等)
・ただ、他プロジェクトではその営業を引き続き使い続けるため、廊下やエレベーターで出くわす等は覚悟しなければならない。
・弊社のルールに則ると、本件はもっとオオゴトになる事案だが、既婚男性二人と遅くまで飲んでいた私にも非があることを考慮し、また他プロジェクトにその営業の存在は欠かせないため、今回は穏便な対応をとることとした と伝えられた。
・私に非があると言われたこと(悪気はなかったのかもしれないが)、私は所詮社員Aだがその営業は替えの効かない人間として扱われている事実が突きつけられた気がして悲しい気持ちになる。(実際にそうなのだが)
[火、水]
・早退しながら出社。
・熱が出る、会社を出ると涙が出る、眠れないなど、状態は悪化の一途を辿る。
[木]
・上司から、今回の件で私にモラルがないとは思っていない、と弁解をうける。
・(「私は所詮社員Aだが~・・・、」という認識について)他社の人間より自社の社員が大事なのでその認識は誤っている、と言われる。
[それ以降]
・段々元気になっている。
・ただ(認識齟齬のせいだとしても)上記対応で一度ショックを受けたため、どうしても上司への不信感が拭えない。
・たかが営業一人いないと回らない組織への気持ち悪さが拭えない。(弊社の技術力がないため、様々な判断を自力で行えないという背景も含めて。)
・本件がなければ、優良な労働環境のため離れがたいが、一旦転職してみるのもいいのかなと考えている。
■11/26 追記
暖かいコメント本当にありがとうございます。全部に返信したいくらい、嬉しいです。私は、ただ、手放しに、私は間違ってないと言ってもらいたかったんだと思います。そう言っていただけて、心が救われました。本当にありがとうございます。
また、同期、後輩、最初に相談した一番優しい先輩は味方になってくれました。
■11/26 追記
会社バレが怖かったので、追記の一部を削除しまいました。すみません。
ご意見・アドバイス本当にありがとうございます。
http://kekkon-ashita.weddingpark.co.jp/639/
既婚・婚約中の女性に対し『彼からの「プロポーズ待ち」状態のとき、プロポーズしてもらえるように何かアクションを起こした経験はありますか?(単一回答)』という質問をすると、「はい(53.8%)」、「いいえ(46.2%)」という結果になり、既婚・婚約中である女性の2人に1人以上が、プロポーズをアシストするアクションを起こした経験があることがわかりました。具体的なアクション内容として、「プロポーズしてくれるつもりはあるの?ときいた(30代前半)」というような、明確な言葉を伝える“ストレート(直球)型”と、「友達のプロポーズのことや、結婚式に参列した話をしまくる(30代前半)」というような、遠回しに気持ちを伝える“カーブ(変化球)型”の2種類のタイプがいることがわかりました。
これも『男性にプロポーズさせる』という酷いもの極まりないものだねー。面倒くさいなー。ちな私は既婚者だけどプロポーズっぽいことはしませんでした。嫁さんは好きだし素敵だけど。でも「私でいいんですか?」みたいな確認のみだったなー。
https://www.mwed.jp/manuals/529/
ただ情弱なだけなの?
労働者からみればだれが生産しようがほかの世界の流通がうごけば富ができるしだれかが受け取るみたいに思うだろうけど
資本家という単位が生産をしたいという欲求について労働協力者に協力を依頼して貢献の対価に給与を払っているの
自分ちの庭でとれた花を街で売ってきてくれたらお小遣いあげる自分の子供とは構造的に同じ
自分ちの花が人気になってみんなが売りに行かなくても買いに来てくれるになると子供のお仕事はなくなるわけ
工場が全自動化したら業績達成という目標について人がいらなくなり人件費がうくわけ
じゃあその浮いたお小遣いと経費を働かずにいる子供に「再配分」しよっかってなるのん?
富豪の生産が機械になったら貧しい人に再配分しても損じゃなくないってちょっとどうかしてない?
がんばった人に重税をかけて「なんかしらんが平等の旗のもとに努力結果を再配分しよう」ってどうなの
機械ががんばっているからおまえががんばってるわけじゃない不労所得だろってそれ権利権限の私有化阻止だよね
共産主義なわけ?労働以外の資産価値はみな国有共有化がいいの?個人でもてないよね?もったら重税で再配分なんだから
もとより持つ意味もないし持ちたくもないよね?
ミクロとマクロは齟齬がでて同じものではないということで家計とマクロ経済が違うものだと思考停止してるのをよくみるけど
計測範囲、起算地点と決算位置の比較位置がちがうからずれているだけで生産消費清算について同じ範囲でくらべたら同じ
国という単位は家の敷地と同じ 政府の単位は家庭の大きさ 土地をつかったり土地の労力をつかって生産したり換金したりする
そうならないためには支給される資金を経費として消費につなげないといけない
支給される資金が余剰資金ではいけない 生活に最低限必要なものは対価であるべきで 努力コストを0にするための支給でなくてはならない
でなければ遊ぶだけ
遊んで金がまわることが大事だというならはじめから使う先に補助金をダイレクトに出してやった方がいい
機械化が進んで労働力の不要が大きくなればさぼっていいではなく労働に対する補助が大きくなるとか
行動 活動 経費についての支援を大きくしていくべきでそうなれば個人で富が多ければ動く数は相対的に小さくなるため支援も小さくなり
個人の富がすくなければ行動しただけ補助される大きさは大きくなる