カネやチカラや性に関するスペックで人間の価値を測る。こうした価値観の存在を容認するのか?しないのか?その事を問う踏み絵としての機能を内在させるコミュニケーション。それが現代の童貞弄りなのだろう。
そうした価値観の有無や有用性に対する見解は関係なく、単純にその価値観を容認するのか?しないのか?という事のみを問う機能を内在させるコミュニケーション。
踏み絵を踏む事に躊躇いを感じない者同士にとっての童貞弄りネタは、冗談であり、コミュニケーションであり、表現として、半ば無邪気に、無自覚に処理される物である。多くの者はコレを無自覚に処理しているのではなかろうか。
他方、踏む事に躊躇いを感じる者は、自動的に「つまらない者」「チカラを否定し妬む劣等者」の側にカテゴライズされてしまう。或いは、それを自認したものとみなされてしまう。阻害された上に弱者としてのポジションを押し付けられる。相当に一方的な扱いを受けたと感じる筈である。
人間の価値を測る基準に、大きな齟齬がある両者が揉めるのは当然の事であり、議論の末に何らかの合意点を見つけ出す事は、相当に難しい事なのではなかろうか。互いに距離を取る。くらいの事しか出来ないのではないだろうか。