はてなキーワード: 校正とは
GithubもMarkdownだし、ブログもMarkdownで書くし、QiitaもMarkdownだし、
で、最近情報共有ツールとしてMarkdownを勧められたんだが、これが本当に使いにくい
エンジニアなら、画面キャプチャ使った手順とか作ることもあると思うけど、
キャプって文中への挿入がクソめんどくさい。
あのさ、クリップボードでキャプってペタペタ貼り付けられないわけ?
しかもMdファイルと画像ファイルが分割されるから、1つのファイルでマニュアル送ります的な感じで展開できない。
じゃあZipで送るわってアホかよ。
ワードの方がマシだよ。
エンジニアなら、機能の比較表とか作ると思うけど、Markdownは表を作るのがめんどくさすぎる。
なにより改行とか、表中の文字装飾がHTMLタグじゃないと使えないのがゴミ。
brタグで無限に続きそうな横長のテキスト見ただけで辟易する。
なんなんこれ?考えたやつ馬鹿だろ。
無駄に長いクソアフィブログより、簡潔に機能比較された表の方がひと目で分かるし便利だろ。
エクセルの方がマシだよ。
よって、Markdownはクソ
マイクロソフト最高ヽ(=´▽`=)ノ
2017/04/22にビックカメラ名古屋駅西店で購入したASUSのタブレット(Zenpad 3s 10 Z500M)が壊れたのですが、4回修理に出して(今も出しているのでそれが5回目)ビックカメラ名古屋駅西店は修理も交換もしてくれません。
http://twilog.org/kmaebashi/search?word=%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88&ao=a
■背景
2017/04/15 家でずっと使っていたタブレットXperia Z2の電源が入らなくなった。
このタブレットは2年半使ったので、仕方がないかと新しいタブレットの購入を検討。
このXperiaには、128Gのmicro SDを挿入して使っていた。
2017/04/22 ASUSのZenPad 3s 10 Z500Mをビックカメラ名古屋駅西店で購入。
10インチタブレット自体絶滅危惧種なので、念のためビックカメラの3年長期保証も付けた。
■1回目の修理
Xperia Z2で使っていたmicro SDを挿して使用開始。
購入後割とすぐ 「スリープ/ロック後、ホームボタン等を押しても復帰しない。
電源ボタンをを長押しすると、再起動は可能」という状態が、2~3日に1回ぐらい
発生するようになる。この時点では、何しろ再現性が低い現象なので、
修理に出したりはせず、我慢して使い続ける。
2017/05/20 「スリープ/ロック後、ホームボタン等を押しても復帰しない。」
状態から、電源ボタンを長押ししても起動しなくなった(無反応)。
即日修理に出した。
『バッテリー残量がなくなっており、お客様のACアダプター及び
USBケーブルで充電し、電源投入及び起動終了は正常に行えており、
異常は確認できませんでした。一旦返却させて頂きます。』とのこと。
充電なんか散々したのだが、再現しないなら仕方がないので
この時点ではいったん引き取る。
■2回目の修理
2017/06/22 また電源が入らなくなった。前回は無反応だったのが、
念のため、今回は、ビックカメラで起動しないことを確認してもらう。
2017/06/30 SMSに、また「病状確認できませんでした。いったん返却しても
よろしいですか?」との回答があり、まあ、あっちで再現しないんなら
ゴネても仕方がないし、タブレットがなくて困っているので、
Webで返却にチェック入れて回答。
『ご指摘症状確認できませんでした。機器異常は認められませんでしたので
ご返却いたします』
■3回目の修理
2017/07/11 また電源が入らなくなった(今回は、起動ロゴが繰り返し出る)。
前回までは、起動しなくなってから、充電したり、micro SDを抜いたり
いろいろ試して起動しないことを確認してから修理に出していたのが、
今回は、「起動ロゴが繰り返し出る」状態なので、電池が切れないうちにと
その際、micro SDが入っている旨告げたら、抜いてから出しましょうということで
2017/07/17 ビックカメラから電話があり、「またメーカーでは正常に動いた」
micro SDは挿した状態だったこと、eBookJapanの電子書籍リーダーを
使っている時に症状が起きたことを連絡。7/17はメーカーが休みなので、
7/18に連絡するとのこと。
2017/07/19 7/18に連絡がなかったのでこっちから電話。折り返しがあり、
再現しないから環境を合わせるためにSDカードを送ってほしいとのこと。
ここまでで1週間以上かかっているし、ここでSDカードを送ったとして
いつまでかかるかわからないし、タブレットはすぐにでも返してもらわないと
困るし(校正作業に支障が出ていた)、紛失されても困るので拒否。
いったんそのまま返すとのこと。
この後、ふと旧タブレットXperia Z2を電源につないでみたら、
なぜか動いた。正直これでこの問題の優先順位は下がったのだが……
『OS起動終了繰り返しテストも正常。YOUTUBE動画連続再生、WEBブラウジング長時間
正常、フリーズや勝手に再起動の現象再現せず。各部点検、動作テスト致しましたが、
正常です。ご様子を見ていただきますよう、お願い致します。』とのこと。
■4回目の修理
2017/07/23 micro SDのせいで起動しないということもあるよなあ、と思い、
SDカードは入れずに使用。eBookJapanのリーダーを起動して
しばらく放置したら、ものの数分で、何もしてないのに勝手に再起動。
その後、また起動しなくなった。micro SDカードは入れていない。
2017/07/24 電源につながずに放置していたらバッテリーが空になっており、
その後、充電したら起動できた。(完放電で直るなら、メーカーで再現しないのは
これが原因か?)
2017/08/10 2週間を過ぎてもビックカメラからは何の連絡もなし。
電話したら、「メーカーでは再現しなかったから店舗に送り返している。
2017/08/26 修理に出してから1ヵ月が過ぎたがビックカメラからは何の連絡もなし。
こっちから再度電話したら、「店舗で再現させようとしたが再現していない。
今晩再度再現確認して、結果の如何に関わらず明日必ず連絡する」と言われた。
この時、前回再現時は電源ケーブルをつないでいたこと、eBookJapanの
前回伝えたのは伝わっていなかったのか?
2017/08/29 店頭で受け取ってくる。メーカーの回答は、
(起動終了繰り返し正常、画面表示正常、ホーム画面で放置及び動作再生にて
画面消えず)症状未再現となります。一旦ご返却させて頂き様子を見て
■5回目の修理
受け取ってから、「スリープ/ロック後、ホームボタン等を押しても復帰しない。
電源ボタンをを長押しすると、再起動は可能」という状態が(確か)1回発生、
勝手に再起動する現象は3回発生。ここまでの話だとeBookJapanが
悪いみたいだが、eBookJapanのリーダーを使っていない状態でも発生。
2017/09/03 「スリープ/ロック後、ホームボタン等を押しても復帰しない」
状態から、電源ボタンを長押ししても起動ロゴが出るだけでまた暗転、
という現象が再発。
また店頭に持ち込んだ。 ←今ここ。
「私はビックカメラでこれを購入し、ビックカメラ店頭で動かないことを
確認してもらっている。メーカーが何と言っていようと私には関係ない。
ビックカメラとして、交換なりする気はないのか」と聞いたら、
「購入後1ヵ月とかならそれもできたが、今からでは難しい」とのこと。
■私の希望とか所感とか
・使うつもりで金払って買ったものが、5/20以降、修理に出してばっかりでほとんど使えていない。これは困る。しかも保証期間中なのだから、ビックカメラで交換なりしてほしい。
・再現性の悪い不具合は扱いが難しいのはわかる。私の手元でも、再現には数日とか2週間とかかかったことがある。しかし今回は、ちゃんと店頭で再現させている。
・最初に、スリープから復帰しなかったとき、再現性とか気にせずに修理に出すべきだったのか?
・eBookJapanの電子書籍リーダーは、特に今のバージョンは大変に出来が悪いのだが、今回のケースの原因ではないと思っている。多くのケースでこれを使っていたのは、単に使用頻度が高いからではないかと。
・私がビックカメラに伝えていることと、ASUSからの回答に齟齬があるように思う。ちゃんと伝わってるのか?
・何にせよ、1ヵ月連絡なしはひどい。
・私は怒っている。当たり前だと思う。
今、仕事が終わって、雨上がりの駅のホームで帰りの電車を待っている
死んだ目をして、無表情で
私の現状は、安定した仕事もあるし、月一で出かける友人もいるので、傍から見ればまあ、悪くないだろう
ここまで来るのには、最小限の努力で来たように思う
いや、努力なんておこがましい
自分は、努力するのがとてつもなくかったるく思えて、目の前に選択肢が現れたときは、常に最小限の労力で済むものばかり選んできた
進学は、受験勉強したくないからと、自分の学力を見て、余裕を持って受かる学校を選んだ
就職も、特にしたい仕事とかなかったので、大量に採用してくれるところばかりにエントリーして、大学4年のゴールデンウィーク前には内定貰った
自分の学力に対して、偏差の低い学校に進学したので、試験も特に何もしなくても上位をとれた
かったるいから
部活も、運動部入って体力を消費する意味がわからなかったので、適当な文化部に所属した
適当な文化部で、適当に制作して、適当に大会に出て、適当な賞を貰った
なんにも嬉しくなかった
交友関係も、自分には、人付き合い自体がかったるいものだったので、自分からは特に何もせず、勝手に近寄ってくる人と会話して、適当に遊んだ
なんにも楽しくなかった
人間関係がこんなんだから、恋愛とかなんてしたことないし、駆け引き自体も面倒そうで、多分これからもしないと思う
人の気持ち考えるとか、かったるい
ようは、すべてのことに対して、こうしたいという目標も目的もなく、ただ単に惰性で進んできた
こうして惰性で流れ着いた日々は、特に失敗も成功もなく、無味乾燥で無表情なものだった
仕事は大した残業もないし、内容も思考停止でこなせるものなので、勝手に時間が過ぎて、勝手に一日が終わって、それが一ヶ月続けば、勝手に給与が振り込まれる
そのお金の中から、生活費捻出して、両親に仕送りして、余ったお金は趣味にでも回そうか
でも、趣味を開拓する努力もかったるいので、特に熱中するものもない
でも、買い物は好き
ああ、仕事での成功も、交友関係も、恋愛も、コンビニで買えるようなものだったらなって思う
それらには、興味がないわけでないが、それに対する努力をしようとすると、急に馬鹿馬鹿しくなるんで
この、クソみたいな読みづらい文章も、校正する努力もしたくないんだ
だから、このまま投下するね
失敗は、したくないんだ
けど、リスクは負いたくない
打ち合わせの候補日をこっちが提示する時に、週半ばにいるのに1週分間違ってしまい今週の日付をだしたり、日付と曜日がちぐはぐになったり、日本語の校正が足りなくて、わかりにくい文章になったり誤字はよくある。
とにかくケアレスミスが多すぎる。気を抜くと忘れ物もよくある。
コミュニケーションについては、(おそらく....)普通なのでADHDと完全にマッチしている訳ではない(と思いたい)のだけど、ケアレスミスが異常に多すぎる......。
思い返せば新卒で入社した研修にて、先輩に送信する日報で誤字を指摘されたのだけど、最後まで誤字を指摘される続けた。
(紙に印刷して音読したり、同期に校正をしてもらう、をしたが誤字は最後まで直らずつらかった。鬱状態にあったと思う。)
ケアレスミスが多すぎてつらい。どうすればいいんだ...
小学生の頃の話だけど、今で言うサヨクぽい先生(日の丸や君が代は義務ではないんです的なことをやたら授業中に吹き込んでくる)が担任になった。
その学校では数ヶ月に一回「弁論大会」みたいなのがあって、クラスで一人ずつ代表者が作文を全校生徒の前で発表することになってた。
その担任になるまでは代表になるのはクラスでも成績が良くて目立つ存在だったのだけど、担任が変わった途端に弁論大会の代表者はスクカ下層のちょっと鈍い感じの子供が選ばれるようになった。
最初の代表者になったAちゃんは食が細くていつも給食が最後になっていたのだけど、担任の先生が最後まで食べるまでは5時間目が始まってもまだ待ち続けるくらいのことをしていた。
そんなAちゃんが弁論大会で発表したのは「先生から食事の大切さを教えられました。厳しく残されたことで今は好き嫌いがありません」という内容の作文だった。
次の代表者になったのはB君とちょっと運動が苦手な男の子で、体育で長距離走をするときには遅くてクラス全員がよく待たされた。
そんなB君が弁論大会で発表したのは「苦手なマラソンを通じて素晴らしい発見がありました。疲れたあとみんなが出迎えてくれた笑顔が忘れられません」という内容の作文だった。
小学生ながらAちゃんもB君も勉強が得意とは言い難いし、よくもまあこんなきちんとした文章がかけるんだなと思ったが、弁論大会の原稿は当然のことながら担任の校正が入るようになっている。
昔、とある会社のサイトに掲載されていたのに知らない間にページが無くなっていた。
この極意を肝に銘じ仕事をしていたのに残念。
4,5,6条が素晴らしい。
【第1条:信じるヤツは、アシすくわれる】
【第2条:全て「疑う眼」で見るべし】
【第3条:「慣れ」と「思い込み」は、命とり】
【第4条:満点以外の校正はクソと心得るべし】
【第6条:粗探しに誇りを持って常に真剣勝負】
"
【第1条:信じるヤツは、アシすくわれる】
校正マンは何も信じてはいけません。一番信じてはいけないものは「自分」のこと。
校正には知識が必要です。だから、校正マンである自分は仕事の関係上、それなりに努力もしているので知識を持っていると思っている人が多いようです。そして自分の知識に自信を持っている人も多い。そういう人は、校正マンとして不向き!
自分の知識に間違いはないと信じて、いちいち調べて確認することを怠った者は、アシをすくわれてスッ転ぶだけ。知っていることも、いちいち確認するのは面倒な作業ですが、自分の知識を信じることなく、確認する労力を惜しまない人が、確認作業のプロフェッショナルなのです。
【第2条:全て「疑う眼」で見るべし】
校正の仕事は、常に「疑う目」で見ることが必要不可欠。まずは、第1条で述べた通り、自分自身を疑うべし。そして確認するための工程で使用するアイテムも「疑う眼」で見なければなりません。国語辞典も出版社によって、編纂者によって、辞典の大きさによって(小事典・中辞典・大辞典)も内容が違います。どれを使っても大同小異、ほとんど同じだと思っている時点で確認にプロフェッショナルではありません。同じ言葉でも辞書によって解釈が異なる場合があることを念頭においておかなければなりません。インターネットでの検索も「疑う眼」で確認すること。情報が多く便利なアイテムですが、情報が多すぎることが問題のひとつ。ふたつ目の問題は、間違った情報も多いという点。確かな情報源を手に入れるまでに、情報の海に溺れてしまう時もあります。常に「疑う眼」で見ることを忘れずに付き合っていると、情報の海で土左衛門になる前にインターネットを情報の拠りどころとして使えるようになってきます。紙媒体やインターネット等、拠りどころは多いにこしたことはない!数値のデータは、最新のデータの方が良いし、旬の時事ネタを調べる場合にも、印刷物(書籍など)よりもインターネットの方が断然便利です。インターネットで情報を得る場合には、必ず複数のデータを調査し、公式サイトなどのデータを確認します。校正で大切なことは、信頼できる情報で確認すること!疑わしい情報で確認しても、それって確認作業にになってないし…(汗)。
【第3条:「慣れ」と「思い込み」は、命とり】
職種によっては「慣れ」ることにでより技術に磨きがかかり熟練工としてして匠と称される場合も多々ありますが、校正のプロフェッショナルとしては「慣れ」は大敵でもあります。校正のコツを身につけ、経験を生かして間違いを予想して校正することもありますが、この場合細心の注意が必要です。「慣れ」は「思い込み」を生み出すきっかけとなるから…「思い込み」は校正マンの目を曇らせ、ミスを見落とすという最悪の結果を招きます。常に初心を忘れず「思い込み」を全て捨て去り“無心”の状態で校正に挑むのが、確認作業のプロフェッショナルとしての基本です。
「慣れ」と「思い込み」は命とり…これを肝に銘じて、集中力と根気をもって最初から最後まで校正することが何よりも大切です!
【第4条:満点以外の校正はクソと心得るべし】
校正のお仕事は、その結果100点満点が当たり前!満点をとっても誰にも褒められることはまずないという、ちょっぴり寂しいお仕事でもあります。全てのミスを見つけ出すことがお仕事なのですから、当然といえば当然です(…が、たまには褒めてもらえるとうれしいのです。ブタもおだてりゃ木に登るぅ~ってな感じで、次回の校正への励みになりますし…)。満点以外の校正は、言葉が悪くお下品ですが(詫)、“クソ”と同じ…そんな校正なら、しない方がマシ(!?)時間の無駄使いをしてしまったと落ち込みます。致命的なミスを発見できれば、少々の校正ミス(=モレ)があっても実質的な損害を与えることにはなりはしませんが、お客様からの信頼は確実に減少するのは免れることはできません。校正の精度が疑われるような校正結果では、お客様に安心していただくことができません。皆さんも経験があると思いますが、試験で100点をとるために何度も見直して「完璧!」と提出した答案が、返却された時の点数は98点…なんてことはザラにあります。100点満点を目指すなら、200点目標の確認作業をしてトントン。校正マンは、200点を目指して、120点を目標として常に全力投球します。その結果の100点なので、満点で当たり前というわけです。
校正業務を開始する際に、体調などに左右されることも。なかなか集中できない場合もありますが〆切は待ってはくれません。どのような状況でも集中できる体制を即座に整えることができる…これがプロフェッショナルです。満点以外の校正はクソですが、集中力を欠いた校正作業はクソ以前の問題です…全身全霊をもって集中して校正に挑んでも、校正ミスの可能性はなくならないのですから。
校正作業が完了し、全責任を担うべく校正紙にサインをした後は、ヘトヘトになり暫しの間放心状態になります。校正は毎回が真剣勝負、全力投球ですから当然です…“この一球に悔いなし”!
自分のことを「賢い」と思っている人は、大バカ野郎!逆に、自分を「アホ」だと思っている人は、自分のことを「賢い」と思っている人に比べれば「賢い」人です。自分は「アホ」だから、間違うかもしれない!という思いを常に心の隅に常駐させつつ、そんな自分が他人様の制作したものに対して間違いを探したり、ミスを指摘したりするなんて恐れ多いコト…と、謙虚な姿勢で校正に対するのが、確認作業のプロフェッショナルです。その謙虚な姿勢が、いちいち確認する面倒な作業を怠ることを防ぐための防波堤の役割を担ってくれる上、確認する労力の源となるので、自らの間違いやミスの発生率が極端に減少するわけです。自分のことを「賢い」と驕っている校正マンは、いつか取り返しのつかないドツボに填まることになるので、今すぐに校正マンを廃業した方が賢明(…!?)です。
なお、自分は「アホ」だという自覚を持っているのにもかかわらず“あほミス(注)”をしてしまったら、それは本当の「アホ」…目も当てられない状態です。そんな状態に陥った「アホ」は、即効で校正マンを廃業すべし。
(注)あほミス…「アホちゃう!?」と叫びたくなるような“あほ”みたいなミスのこと。知識や能力の不足ではなく、不注意による誤り。SETでは「あほミス」と言いますが、一般用語では「ケアレスミス」のことになりますかね。ちなみに「ケアレスミス」は、careless mistakeの略語です。
【第6条:粗探しに誇りを持って常に真剣勝負】
校正のお仕事は、実に意地の悪いお仕事です。制作者もプライドを持って全力で業務に勤しんでいます。「完璧だっ!」と渾身の制作物を校正するのですから、その作品の粗探しをする校正マンは、疎ましい存在なのでは…(涙)。しかしながら、ミスや間違いを発見するのが校正マンの使命ですから、そこのところは一歩も譲ることなく任務を全うすべし!粗探しという、一見、意地の悪い作業に誇りをもって、全力で挑まねば制作者に対しても失礼にあたります。制作社は、作品にケチをつけられたらカチンときたり、ミスを指摘されたら「クソォ~」と悔しがるのが当たり前。そんな感情が湧かない方がおかしい…湧かない場合は、制作作業に対して手抜きしてるからでは?ミスの指摘を受けて悔しがらない制作者は、問題あり…なので、そんな場合には一言苦言申し奉ります。「ミスは校正で見つけてもらったらいいや~」などという怠惰な態度は、校正マンに対する冒涜!制作者も、常に100%の完成度と誇りをもって全力で校正マンに挑んでいただきたい。分野は違えど、制作も校正もプロフェッショナル同士の真剣勝負なのですから…
校正病(笑)の一種に「文字パニック」という症状があります。日常の全てにおいて目にする文字がすべて疑わしくなる病気(!?)です。校正業務ではない日常の生活においても、辞書等で確認せずにはいられなくなる…それは読めない漢字や意味がわからない用語でなく、通常に使用している簡単な漢字であっても。その上、一度確認してもまた同じ文字が出てくるたびに辞書を引っぱり出している自分がいる。やめたいのにやめられない、辞書等で確認しないと落ち着かなくてパニくる…これが「文字パニック」。治療方法としては、休養することしかなく、目と体、そして心を休め落ち着いて回復を待つこと。あわてないことが重要で、確認作業のプロフェッショナルなら一度はかかる通過儀礼のようなものなので、自覚症状があらわれた際には、校正マンとして一人前になったのかなぁ~と喜ぶべき病気(!?)ということで、お赤飯でも炊いてお祝いしてください(笑)。
文字パニックとは別に校正マンがかかりやすい病気として「本が読めなくなる病」もあります。活字とにらめっこしている時間が多いため、もう活字は見たくないという原因をもつ場合と、本を読んでいても、無意識に誤植を探していて内容を楽しむことができなくなる場合の2種類があり、この病にも特効薬はありません。本人の意思と時間の経過により、体力と気力が回復すればそのうち治るでしょう。でも、貧乏ゆすりと同じでクセになってしまったら、なかなか治りません。私の場合、子供が学校からもらってきた学級便りやお知らせのプリントに朱入れしてしてしまう始末。町内の回覧板、広報誌やフリーペーパー等々、印刷物を目にするとダメですね。インターネットの画面では今のところ症状は抑えられますが、サイトの情報をプリントアウトすると、誤植探しをし、数値を重複確認してしまっている自分に気付く今日この頃です(汗)。
何事にも興味を持ち、広く知識を習得すべく心を開放しておくこと。自分には関係のない分野の話も、小耳にはさむ程度でもいいので気に留める寛容さが必要です。ひょんなことで、その知識が役立つことがあるからです。校正は、自分の知識で確認することはなく、調べて確認する作業です。この調べるという作業で、広く知識がある人とそうでない人との差があらわれます。校正ではさまざまなジャンルの文章を校正するため、歴史、社会、自然、科学、技術、産業、芸術など広い分野の知識が必要とされます。全ての分野で専門知識をもっているスーパーマンになることは、並大抵の努力では不可能です。用語の大よその意味が理解できていたり、見当がついていれば、調べるときに大変助かります。校正に費やせる時間は無限ではありません。校正マンは、校正だけできればそれでよいというものではなく、定められた納期を守って校正できることもプロフェッショナルとして当然のビジネスマナーです。限られた時間で、どれだけ正しい情報にたどりつけるか…校正マンとしての力量が問われるところです。
前条と内容が重なりますが、ジャンルを問わず知識を習得するための心得をもうひとつ。友達との何気ない会話、家族との日常、職場で流れているラジオ、テレビ番組やCM…等々、日々の生活は情報収集に事欠くことがありません。しかしながら、ただただ聞き流してしまうのか、ちょっと意識を持って聞いているかの違いで、情報収集の機会は雲泥の差を生み出してしまいます。「さぁ~情報収集だっ!」と意気込んで調べものをすることもありですが、日々の生活でのチャンスを逃す手はありません!いちいちメモして資料を残すなんてことは大変ですので、少し意識を変えるだけで充分です。人間の脳ミソは全く知らないコトを思い出すことは不可能ですが、一度でも耳にしたことは思い出せる可能性が0%ではありません。また、必要に迫られた場合や、自分が興味のある事柄は自ら情報収集することができますが、自分の頭の片隅にもないような事柄についての情報を収集することはできませんよね。不特定多数を対象に情報提供してくるラジオやテレビ、街中での雑談や目にする様々な媒体をちょっと意識するだけで、情報収集のきっかけは生まれるのです。
校正時での「疑問出し(注)」の巧拙に、期せずして校正マンの能力があらわれてしまいます。とんでもない見当違いの疑問出しをした場合、校正マンは赤っ恥をかくだけでは済まされず、校正の精度そのものに疑いがかかり「この校正マンで大丈夫?」という状況を引き起こしてしまうのです。「これで大丈夫ですか?」と指摘したのに、「オマエこそ大丈夫かい?」という展開に…(涙)そんな事態を招かないためにも、日々是情報収集は、プロフェッショナルとしての日常のあり方です。
(注)疑問出し…原稿の間違いや不備ではないかと考えられるが、調査してもはっきりとは間違いだと判断できない箇所を「これで大丈夫ですか?」と、制作者や先方様に確認するために校正紙に校正マンが鉛筆で書き込んでおくこと。
"
この長さの怪文書を投稿することにためらいはあるけれども。
偶には、言いたい事を思い切り言ってもいいかなと思う。
まず自分のことを書くと、稀にしか更新しない覚え書きのようなブログをやっている。あと好きな文章を書く人は結構な頻度でチェックしているくらい。
自分も新参だけれど、新しいタイプのブロガーの人が使う、押しが強めの手法がじゃっかん苦手である。
新規にブログを始めた際、こちらのブログは全く読まずに(本人には割と分かるものです)、宣伝のためにスターを付けてくる人が一定数いる。まあ当然、興味を持たれる文章を書けないこちらに非があるわけですが、「貴方のことは気にならないけど私の書いた文章はぜひ読んでくれ」と受け取ることもできる。
露出を求めて「記事お題」を引用し、全く関係のないことを書く人も多い。例えば「雨の日グッズ」というお題を引用しておいて、いつもの調子で日記を書く。露出したいのは分かるけれども、そのばあい読者が読みたいのは傘や長靴の話であって、職場の愚痴とか趣味の紹介とかではない。
あと、リクルートの適職診断、またはリクナビNEXTのグッドポイント診断を薦めるエントリ。MIIDASの適正年収診断、dTVの紹介。日常会話みたいな感じでお勧めされるんだけれど、あれは紹介料が入るからやっているのだそうで。道理で数が多いと思った。…あれはステマにはあたらないのだろうか。「PR記事」とかの表記がない分、「選挙前にさりげなく電話をかけてくる友達」みたいな感じがして、個人的には警戒してしまう。
CGMは、そのコンテンツの持つ価値の判断が難しい、とは思う。それは人によって違うし、ネットでの人気には「親しみ」も大きな要素である。
ただ分かりやすい基準として、例えば、寄稿や出版の話が来る人にはそれだけの実力と、その人固有のブランドがあるわけで。
なので余計に、「とりあえず100記事書きましょう」「SEOを勉強しましょう」「PVを稼ぎましょう」と、クリックしてもらうことに血道を上げる風潮がどうもよくわからない。読み手に客観的な価値を提供できているのかな?と、不安になることはないんだろうか、と。(言うまでもないことだけど、価値がある/ない、という話ではない。「価値のものさしはどこにあるのか」という話)
はてなの人なら、自分なんかよりよほど熟知されていることと思うけれど。執筆され、編集の手が入り、校正されてデータが印刷所に渡り、取次を経て本屋に巡ってきたり電子書籍になる、それだけの手がかかった、色々な「出版物」は本当に凄いなと思う。
個人がもっている「有益な情報」には限界がある。取材して一次情報にあたるプロに、正確性や量で比肩するのは正直、むずかしいのではないだろうか。
比肩しなくてもいいけれど、そこから発生する「収益」は最大限にしたい、というなら、それはインターネットが役に立たなくなるわけだと思う。
媒体が紙でもネットでも同じことで、例えばキッコーマンのサイトを見ると、料理の基本から旬の料理から詳しく載っている。歯の健康について知りたいときは、クリニカ辺りのサイトが役に立つ。商品の紹介記事にしろエッセイにしろ、企業がやっている媒体に掲載されている文章をみると、何歳ぐらいのどんな経歴の人が書いているんだろうと思う。
コードや料理が商品になるように、文章もまた商品として存在することは確かだ。ただ、コードを個人がお金にするにはそれなりの手順が必要だと思うけれど、文章はなぜか、個人がネットに上げるだけでも「儲かる」。
他にも、ネットにアップするだけで儲かるものは色々あるけれど、合法かつ元手がかからず、特に技術の習得をしなくてもできる「稼ぎ方」として、「文章を書く」というのは確かに適しているのだろうとは思う。
ここまでを踏まえて。「商業のクオリティや情報量には敵わないが(※ケースバイケース)、読んだ人に満足を与えるような文章を書き、お小遣い程度の利益を得られる、Win-Winの取引(読者が読む時間によって「収益」を発生させるなら取引みたいなものではと思う)」を考えてみる。(ものすごく飛躍しているような気がするけど気にせず進めます)
商業ではなく、市井の個人が書くことに意味がある文章とは何か。
それは、「その人にしか書けない文章を書く」ということではないだろうか。
別に、個人情報を晒せということではない。出身地や職業、家族構成は確かに、その人を知る大事な情報だけれど、同じような属性を持った人が世の中にはごまんといる。
「他者から客観的に見た自分」と、「自分の演出したいキャラクター」には、往々にして懸隔がある場合が多いと思う。シニカルに渋く決めているかと思えば、愚痴や悪口を書いてしまったり。写真にお洒落な加工をしていても、背景がどうも決まっていなかったり。「本当の自分らしさ」は、他者からの反応や自省によって得られるもので、見たくもない自分を見せられることも多いし、自分の評価されたい項目と他者から評価される項目が違ったりもする。
それでも。「自分の良いところ、推せるところ」を見つけて、「それによって他の人を満足させ、楽しませる」ことが、「個人としてメディアをやること」の強みなのではと思う。
その人にしか言えない言葉、できない話。培ってきた価値観、文章のテンポや言い回し。自分なりの軸による知見や考察。人によってはイラストや作品。例えブログ名や使っているテーマを変えても、文章ならば増田に書いても、「ああ、あの人だ」と分かってもらえるかどうか。
「その人にしか書けないブログ」こそが、個人ブログの存在意義なんじゃないだろうか、と。
「商業に出来なくて個人ブログならできること」は多くある。言及合戦、ボールの打ち合いもそうだし、商業の連載や肩書を背負ったブログと違って、思ったことを好きなように、題材も自由に書ける。
日記を見ると、今日したこと、最近興味のあること、生活や感情の移り変わりを感じることができる。例えば料理や写真のブログであっても、書いている人のキャラクターが違えば、受ける印象は全く違う。
「その人らしさ」が感じられるなら、面白くないブログなんてひとつもない。どんな個性でも、ネットに上げれば一人くらい、それを楽しんで、好きになってくれる人がいる。それがCGMの良いところで、インターネットが普及した利点であると思う。
さらに言えば。有名ブロガーの人たちを見ていると、やっぱり「読者を楽しませること」にとても力を入れているなと感じる。
スタイルは人によって様々だけれど、重い段落がつづくとその人のやり方で空きを入れたり、ボケてみる。自分の愛されている分野以外のことはあまり書かない。反応がよかったらまた掘り下げる。とか。(まあ、こうやって分析されるのも嬉しくないのかもしれないけれども。)
当たり前に、お互いがWinWinになっている関係で。それは愛されるよなあ、と感心したりする。
「互助会」という言葉について書くにあたり、ブログをやっている人を便宜的にタイプに分けます。
A)古参。はてダ時代からやっているような人。総じて文章が上手い。更新頻度は低め。交流はあまりしない。
B)新参。好きなことを書いてあわよくば若干の収入を得たい感じ。更新頻度が高い。交流が好き。
C)アフィリエイター。以下のようなタイプがあるように見える。
・ガチのアフィの人。それなりの戦略があるタイプ。「かわいい猫画像!」とか「速報・芸能ニュース」とかそういうやつ。よくダッシュボードの右に載っている。他にも色々やっていると思われる。
・何を考えているのかよく分からないタイプ。ほぼ中身のない記事にひたすら広告を貼る。偏狭そうな人が多い。
・「ブロガーとして」明確に互助を目指し、ブクマ不正している、らしい。偶に増田で告発されているけど割とスルーされている印象(興味がないのでよく知らない)。
よく見かける「互助会」という言葉は、B)に向けて使われる。「お互いのブクマコメントでブクマ数を稼いでいるんだろう!」というやつ。
でも、実際のところ。「当たり障りのない敬語のコメント」は、「相手に好意をもっていて話しかけたいから」「交流が楽しくて」やっているのだと思う。
その証拠に、「スター・ブクマ・フォローしたけど返してくれなかった!PVが伸びない!」なんて愚痴を書いている人は誰もいない。(このクラスタは素直な人が多いので、そういう気持ちがあったらたぶん正直にそういう記事が書かれ、誰かの目に留まるのではないかと思う)
「ブクマしてほしい」という気持ちももちろん多分にあるだろうけれど、自分がリアクションするにあたっては、利益を期待してやっているんじゃない、と思う。
嘘だと思ったらそのへんの、自分が「互助会」と呼んでいるブロガーに聞いてみたらいい。相手に言葉をなげかけるのが楽しいから。相手のことが好きだから。たぶん、思うより多くの人が、そう答えるのではないだろうか。
そうはいっても、はてブ的には馴れ合いコメントは確かに鬱陶しいだろうと思う。では、コメント欄を使えば解決する話ではないのか、とも。
そう考える人はもちろんブログを書いている側にもいて、読者に向けて「ブクマでなくコメントで交流しませんか」という提案をするブロガーもいる。読者が何百人レベルになってくると、はてブ側に気を遣ってのことだと思われる。
Twitterとの連動など、利点はあるようだれど。言葉をかけたいだけなら、ブロガー本人が「互助会」と叩かれるリスクをとる必要もないのではないか。コメント欄をもっと気軽に使っても良いように思う。
もうひとつ。別にお互いに便宜を図っているわけでもないのに、「互助会」と呼ばれるのは何だかおかしい気がする。「交流会」「ひつじ会」とかのほうが実態を表しているのではないだろうか。(「ひよこ会」とかでもいい。何かかわいい名前がいい)
で、じゃあ「スター・ブクマ・フォローで利益を得ることを目的とした行為」はないのか!というと、うんざりするほどある。
C)のアフィリエイター系。これが本当にしつこい。見るからに書いていて楽しくなさそうな、NAVERまとめ的なブログからのリアクションがそこそこの頻度で来る。凄かったのは、同じ記事に2度3度つけてくる人。無言でそれをやられても、ただ気味が悪いだけで、何かを返したいとは思えないのだけれど。
相手の人格や思いを無視して、金銭のためにブクマをつけて何が楽しいのか、と。他人の顔が札束にしか見えていないような、うわべだけの文章を読みたいとは個人的には思わない。まして広告をクリックなんてしない。
これは自分に矛先が向くことを恐れているとか、好きな人を擁護したいとかでもなく、単純にクラスタの分類として。交流勢よりも、こういった「機械的な無言のリアクションによって、露出や返報を期待する」アフィリエイター勢のほうが、真に「互助会」と呼ばれるに相応しいのではと思うのだけど、どうだろうか。
ネット上で、文章で稼ぎたいのは勿論、悪いことではない。でも、個人的に読みたいのは、誰でも書ける情報のまとめとかではない。
アフィリエイトをやっている人であれば、どうしてそれを始めたかとか。情報収集はどうやってしているかとか。ライバルはいるかとか、作業するときにかけている音楽とか。その人にしか言えない言葉、面白い話。そういう文章が読んでみたい。
とはいえど。面白かったり為になる文章が無料で読みたい、というのもある意味、何というか難しい話だとは思う。
医学辞典なんて手元にないからネットでいいや、とか。先述のように、企業が宣伝のために作成しているページを利用する、とか。「ネット」と書いたけれど内訳は、キュレーションサイト・個人がアフィ目的で作ったサイト・質問投稿サイト・個人ブログのどれかが引っかかることが多いのではないだろうか。
それが確実な情報源でないことは、もちろん周知の事実である。それでも取り敢えず適当な情報がほしくて検索する人がいるから、それにあわせて少ない労力で情報を供給し、利益を得ようという流れが自然に出てくる。
「分かりやすく出所の確実な情報」ならば、上述のように、出版業界の商品に頼るのが却って近道ではないかと思うことが最近増えている。「集合知」は確かに無料だけれども、「文章」にクオリティを求めるならば、書籍を買うか図書館に行けばいい。紙が面倒ならデータの形で入手すればいい。
商業としての出版を信頼しているから、例えば某警察官やめたブログで暴露されていたように、CGMのふりをして売名する商業があるとしたら個人的には少し悲しい。プロとして作り上げたもの、プロモーションされたものに、正当な敬意を払いたい。
…ここまで書いてきて心配になったのだけれど、出版業界の回し者ではなく、ごく普通の読書好きのオタクが書いています。信じて欲しい、としか言えないけれども。
逆に言えば、ネットで、商業ではなく個人が発信するとき、それは受け取る側となんら変わらない、「普通の人」なわけで。文章を発信する側は全ての責任とリスクを負うべきで、受信側は何を言っても良い、ノーリスクハイリターンな立場である、とは自分には思えない。
ネットを使っている人であれば誰でも、ある程度の文章は書けると思う。たまには「発信側」になってみるのも、悪くはないんじゃないかと思ったりする。
同じ人間が一人としていないならば、誰にでも、「その人にしか書けない文章」があるはずで。私はそれが読みたい。
色々書いてきたけれども、これが正しい見方であるとは自分で思っていない。誤りや偏りの指摘も含めて、議論の一助になればと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20170427094504
RGBはモニタ表示の参考にする加色混合(原色を混ぜれば混ぜるほど白に近づく)で
インキで表現できる色域がRGBより狭い。だからCMYK化すると多少色が変わるし、CMYKで表現できない色はすっとぶ。
ただ、CMYK化したあとの色をきっちりとRGBモニタ表示することはできる。
http://anond.hatelabo.jp/20170427095306
そうなると、
いつもまた思うのが、
がどうしたらいいんだろうと思う。
これも、どっちでも結果は余り変わらないでOKなんだろうか?
色の情報が削がれた後で色々調整すると、微妙に色相を変たくても色が飛んでるから思うようにできなかったり、トーンジャンプしたり、あとはRGBじゃないと使えないフィルターなんかあるよ。
そして、だいたい終わった後でCMYK化して、微調整するのがいいよ。
ちなみに「表示」メニュー >「校正設定」の「カスタム...」からシミュレート対象に「Japan Color 2001 Coated」なんかを追加することで、データはRGBのまま、「表示」>「校正設定」からCMYK変換後を予想して表示してくれる。
人物が写った写真を調整するとき、「表示」>「校正設定」>「作業用マゼンタ版」で見てみる。このとき、顔がベタッと暗く塗りつぶされてると、思うように顔色が変わらないので、顔全体の中で濃度差ができるようにしてから調整するといい。
はてぶ見てると「電子で解決だろ早くしろ」「出版業界の怠慢」って言われるけど
じゃあ分かりました、電子同時配本です!ってやるじゃん?
今結構多いよ、出版社によっては、っていうかぶっちゃけ弊社はほぼ全数同時に電子配本よ。
場合によっては版を作り直したりとかね。
で、配信するじゃん。
そうするとさ、紙で初版2万部刷った本の電子、どれくらい売れると思う?
それなのに電子は、一週間で200冊、1か月で300冊とかなわけ。
その後は、残念ながら、紙の本と同じ。どんどんペースが落ちていって、1年で累計450冊位?
「電子なら新刊・既刊関係なくいつでも変えてロングで伸びる?」そんなん大嘘。
1ヶ月超えたら、一週間に1冊も売れない電子書籍のほうが多い。
維持費、人件費、製造費考えたら、電子なんかやんないほうが儲かるわけ。
『紙を出した上で、電子用にカスタマイズする僅かな(10万行かないくらいの)費用』すら
「それは、電子化が遅いから。全数の本を電子化したら状況は変わる」
そりゃそうかもしれないけどさ、赤字事業を、全数の本に適用できないでしょ。
順次、黒字が出そうなラインから強化していって、パイを広げてくしかない。
それでもはてなやtwitterでは「出版社の怠慢」「売れるのに早くしろ」って言われるんだから
たまったもんじゃねーよな
数か月前、指導教官よりアジア史の研究者が下訳をつくれる人を探しているので手伝ってやってくれないか、と声をかけられた。金もない院生なので快諾し、依頼主の女性研究者とメールでやり取りをした。期日もバイト代も不明瞭なまま引き受けたのが失敗だった。
一月中旬には原稿を出します、二月には...と続き、結局、聞いていた締切日の五日前となり、この話はなかったのだと思っていたら、いまさら翻訳せよと連絡がきた。締切日を勘違いしていたらしいが、二日足しても、あと一週間しかない。一週間で20頁の論文を、査読に耐え、掲載できるレベルで訳すのは骨が折れる。とりあえずグーグルに突っ込んで、おかしなところを逐一全部直したが、分野が違えば専門用語など分からない。歴史的事件についても、英語特有なのか書いた本人が理解していないのか、曖昧な言い回しである。しかたないので内容を特定し、全部裏をとって訳した。遅れても可哀そうだろうと徹夜で訳した。
日本の戦国時代についての記述があり、なんとも微妙な言い方をしていたので「戦国大名たちが天下の覇を争う群雄割拠の時代」と分かりやすい日本語に直したら、語訳だとの指摘が入った。んなことはないだろうと、たまたまメシをくった、神楽坂のもっとも校閲部が優秀だと言われる出版社の編集者に話をしたら、同じく、んなことはないだろうと爆笑していた。つまり、依頼主の日本語能力の限界が、そこにあった。
海外在留の際、親切にしてくれた人もあり、今も続く友人もいるので、できるだけ外国人には優しくしようと思い、苦心して英文の意を酌み、日本語を考えて提出した翻訳のバイトだった。しかし再度校正しろやと戻ってきた原稿は、どうしようもない翻訳日本語に変わっていた。ついでに、研究費から落とされるバイト代について、依頼主の日本語能力に難アリと判断したので、僕が依頼主を介さず、教授経由で事務方とやり取りしたことが駄目だったらしい。「妊娠して病院にいる自分にとって死ぬほどストレスだった、今すぐ返信せよ、今日中にこちらの指示に従え」という発狂した内容で連絡してきた。
こいつ、流産しねえかな。おまえの妊娠なんざ知ったこっちゃねえよ。てめえがどこの誰とパコろうが好きにしろや。ただ、そんなもんは他人には何の関係もねえんだよ。さっさと国か土に帰れ。
そもそも最初に額を明示していない依頼なんか、尊敬してる教授に言われなければ蹴ってるんだよ。あと、おまえ、日本史の研究してるとかいうけど、冗談は顔だけにしてくれよ。最低限の日本語の素養身につけろや。日本語書けないなら、英語だけで書いてろよ、ファッキンPh.Dさまよ。ケント・デリカット、パックンやモーリー、ドナルド・キーンを見習え。
戦国大名や群雄割拠って単語も分からないのに、日本史研究するとかって頭の悪い妊娠発狂BBAのために待機してるわけじゃないんだ。忙しいのよ、僕も。
ムカついたので、とりあえず、明日の朝までに修正せよ、と言われた内容を全部終わらせて返信した。まだ金もらっていない仕事なので、金を蹴って、相手を罵るという選択肢も魅力的ではあるが、尊敬する教授の顔もあるので、それは我慢。依頼主が完了を判断した時点で「額を明示せず、院生という下の立場の者に対して、無理な工期で翻訳作業を指示することはアカハラめいており、日本の商習慣に合わないし、さらに、その理由を自身の妊娠だと開示してきたことは、セクハラ的な恫喝だと思うので、今後お気を付けください」と慇懃無礼にメールを送るつもりだ。もっとも、こんな駄訳に自分が関わったと思われるのも嫌なので、金をもらわずに、関わらずに消えるのも考えている。
研究と教育を切り離せという意見がありますが、研究していないと教育できない(特に上位の大学では)ので、研究と教育を切り離すのは難しいです。
ただ、事務職員でもできるような仕事を教員がやっているというのは確かにそうで、一員としても謎なままやらされています。試験監督はその最たるもの。
文章を作成したり校正したりという作業は、事務職員の基礎学力があって、文章の推敲ができるレベルならよいのですがそうでない大学では事務職員ができないから教員がやらないといけないのかもと思ったりもします(短大で教えたことがある方はわかると思いますが、短大には日本語がままならない方もおり、でもそういう方が「エクセルができます」とか言って大学の職員に採用されたりする。)文科省に出す書類は分厚く大量なので、文章の読み書きになれた文系の教員でないと作成したり誤字脱字を修正したりというのが難しいようです。教員が見て初めて修正された部分がいくつもありました。
事務と教員のパワーバランスの問題もあります。私がいたところでは、事務の職員が「忙しくてできない(実際は能力が低くてさばききれない)」と投げ出した仕事を教員がやらざるを得ない状態でした。やらないと管理職に「あの教員が働かないから辞めさせろ」と言いに行くのです。
比較的偏差値の高い大学で、大学の事務職員が卒業生だと基礎学力もモラルも愛校心もあり、それほど大きな問題は起きないのですが、いろいろな大学があり事務職員も多様なので、事務の能力や意欲の問題からできない(やらない)で教員にやらせている仕事が結構あるように思います。
プログラムとかで短期に教員、事務職員を雇用してという形で予算が出るので、教員は予算をとるための書類書きや事務仕事に追われます。事務職員もいろいろな人が雇われるので質もばらつきが出ます。文科省の予算のつけ方を変えるのが一つの解決策なのでは。
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コメントが付いたので追記です。
一時私立大で非常勤をし、ある国立大学で学位を取り、ある国立大学のプログラムで働いていた者の意見です。
「東大は~」という意見がありますが、東大とは前提として違うところがいろいろあり、こちらも東大の状況をよく知らないので何とも言えないところがあります。ただ、東大の~研究所でも学部生の授業を持っていたり、院生の指導をしていたり学振PDを受け入れたりというのを結構聞きます。独立行政法人の研究所でバイトしていた時もありましたが、そこは研究だけしていたら良いようでいて、意外と他の大学の非常勤に行っている人が多かった。教えることを通して学ぶこともあるので、研究だけ、教育だけと分けなければいけない、というものでもないのではと思います。教育と研究を両方やるのは別に普通だけれど、教員が事務仕事や生活指導のような雑務を異様に多くやるのが問題なのではと私は思います。
事務は事務が専門で、教員は教育と研究が専門なのだから、教員が事務仕事をやるのはおかしいというのは確かに最もで、本来はそうあるべき(かつてはそうだった)のかもしれません。ただ、現実として、試験監督や文科省に提出するプログラム運営に必要な分厚い書類を若手が作らされるというのはあり、それを拒否することはできません。他大ではもしかするとそのあたりの事務仕事も事務の方がやっているのかもしれませんが、私がいたプログラムでは事務仕事は大量にあり、だれも逃れられない状態にありました。事務の専門を尊重してというのはやってきましたが、その事務の専門性も危うく(日本語が危ういとか仕事に対する意識の低い職員が少なからずいる)教員が教員の専門を尊重されることはほとんどなかった。若手の教員は次々に変わっていき、「代わりはいくらでもいるんだ」という態度を管理職からも事務からもとられていて、すべてを受け入れないといられない状態でした。若手研究者が過多で足元を見られて酷使されるというのはポスドク問題とも関係してくる問題なので、文科省が競争させてプログラムにお金をつけるという方針であることだけに起因するものではなく、複合的に生じた問題のように思います。
ちょっとはみ出た、つづき
入院が決まった直後に、入院時に必要なものを買い込みレンタカーで母の元に向かった。
徘徊が多く、連絡手段も無い為、朝、荷物だらけの新居に迎えに行っても空振りになってしまう可能性があったからだ。
破たんした呪いの言葉を一晩聞き続ける程度だったら何とかなるだろうと踏んで寝袋を持って家を出た。
アパートにいた母を、最後の晩餐さならが母を食事に連れ出し、禊を済ませるが如く、深夜営業の温泉に連れて行った。
これまで母の病気が進行してから、弟を含め3人で食事をすることは何度かあったが、
私が成人してから母と二人で食事をしたり、温泉に行ったりしたのは初めての事だったと思う。
しかし、あのアパートで母と二人きりで一晩を過ごすのはやはり心理的に無理だった。
そこで、仕事で徹夜を強いられる彼女がいる自宅に、彼女に無理を言って連れて行く事にした。
自宅に母を招いたのも初めてだし、彼女に合わせるのも初めての事だった。
彼女も親に対してトラウマを抱えており、軽くパニックにさせてしまったのは本当に申し訳ないと思っている。
しかし、この母親に対して、親孝行らしい親孝行を始めてしたのかもしれない。
母は何度も夜中に起きて二人の息子が襲われる、警察に助けを呼ばないと、言った事を不安になってしゃべっていた、
うとうとすることもあるが、眠りかけた際は幻聴として聞こえる言葉をそのまま声に出してしゃべっていた様だ。
母にとってみれば、もう25年間、四六時中不安な時を過ごしているのだ。
翌日、車で病院に向かう途中、母は、私が子どもの頃、家族でドライブに行って以来車に乗れて楽しいと語った。
家族の同意があれば、本人の意思に関わらず強制的な入院が可能な制度だ。
その際、思わず、ここまでとても長かったです。と医師に話した。医師も私の苦労を察してくれたようだ。
診断時、私から事情を話す際に、精神科へ行っても結果的に治療が受けられない件を話したくだりで、
やっぱりそうか、といったニュアンスだろうか、ため息を漏らしていた。
法律上定まった手順であろう医師が保護入院の説明をを本人に読み上げる際も、
聞きはするが当人になにが起こるのか 理解していない様子だった。
閉鎖病棟に送る際、持ち込み禁止となる物が母の身に付けたものからいくつも出てきた。
不安からか何枚も重ね着した一張羅のポケットや、鍵だらけのウエストポーチからは、
刃物であるハサミや安全ピン、 南京錠などの金属、ワイヤー錠等のひも状のものが、
わんさと出てきた。しかし、 体を傷つける可能性のあるこれらのものは閉鎖病棟内には一切持ち込めないそうだ。
手続きを済ませ、病院に母を預け、弟や彼女に報告をし、帰路に向かう際は、
涙も出なかったし、ざまあみろ、といった感情にもならなかった。
これでひと段落ついたんだな。という感慨はあったが、正直、いまだに母への気持ちは整理がつかないし、
私が多分死ぬまでこのもやもやした気持ちに整理はつかないのかもしれない。
ともかく、これで弟にかかる負担も減るし、母の不安もいずれは多少なりとも解消されるかもしれない。
本人がいつか病識を持つようになって、まともに話せる日がくれば、また母に対して憎しみの感情が沸くかもしれないし。
そんな日は来ないかもしれないが、ともかくこれで一区切りついた事になる。
繰り返しになるが、「こんな長い期間なんで放っておいたんだ」「お前の責任でもあるだろう」という
声もあるだろうが、自分の気持ちを整理する意味でもこれまでの経緯を書いた。
自分を棚に上げてなにか説教じみた一言を添えて終わりたい気持ちを抑えてこれでこの長文は終わります。
ここまで読んでくれた人がいたらありがとう。
追記:少しだけ文章校正をしました。多くの読んでくれた方、改めてありがとうございます。
乱筆乱文、誤字脱字、事実誤認、諸々失礼。
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追記
とても参考になる知見も多くいただきました。
これで終わりではないので、是非、今後に生かしたいと思います。
この話は私の人生のある側面の、ある時間だけをバッサリ切り取ったもので、
別の面では幸せであり、大半の時間は、苦労はありますが、それなりに恵まれた生活を送っています。
悲劇性や誘因性の強い文章になりましたが、自分自身を奮い立たせるために自己演出した部分も多分に含まれていますし、
それなりに珍しい経験をしたので「保育園落ちた日本死ね」位の話題にならないかなー、と。
ただ事実と異なる事柄は書いていないつもりですが、母の性格を受け継いだせいか、感情基準での記憶をする傾向があり
事実の認識に多少の誤りがあるやもしれない事を明記しておきます。
特に地元の総合病院の精神科医師が話してくれた、治療の可能性や、相談内容、他の施設の紹介といった、
具体的な情報のくだりは、今思うと当時の余裕のない状況で色々思い違いをしていたり、
その時点で必要な情報だけを記憶に留めようとした傾向があるので、もしかしたらきちんとした説明を受けていたのかもしれません。
心理面での負担や苦労をねぎらってくださるコメントも多くいただきましたが、
母の事で本当に辛いと感じていたのは母の病気が発症するよりも前の方がはるかに多く、
病気が進行してからは、母の事であまり辛いと感じたことはなく、やっかい毎が面倒だ。
調べ物が面倒だ、なかなかうまい方法が見つからないで面倒だ、事務処理が面倒だ、
と、いったような仕事での面倒毎に近い感覚だったかもしれません。
もやっとした問題に対して、検索するには言葉もあいまいで、答えも方法論も様々過ぎるし制度もたくさんあるしで、
的確な道順や回答を出せる所にいつまでも辿り着けず、情報迷子になった側面は多分にあります。
普段はGoogleさんをそれなりに使いこなし問題解決の為のITリテラシーはそれなりに自信がありますが、
実は 『ケースワーカー』さんという言葉の存在はかなり最近になってから人づてに知りました。
それまでは地元の総合病院に電話した際や行った等、もしかしたらそれに気づかず『受付の人』という認識で相談をしたこともあったかもしれません。
本文には書きませんでしたが、昨年末あたりから、精神科のある病院への電話問い合わせの窓口や、福祉センターの精神保健福祉担当で、
『ケースワーカーさんと相談したい』とわざわざ言ってから色々相談する様になって、
ここには書かなかった世帯分離の手続き等に対しての答えにも、光が見え始め徐々に事態が好転してきた次第です。
『ケースワーカー』さんはここ数年認知され始めたマジックワードで『当番弁護士を呼んでください』
という言葉を知っているか否か、みたいなものかもしれませんね。
もし、私と似たような境遇でどうしてよいかわからない場合は、役所や病院等へ電話をかけ、
まず『ケースワーカーさんと私の〇〇の問題について相談したい』と言うのが良いのかもしれません。
地元の総合病院の精神科の待合室で、母と初めての診断を待つ際の事。
待合室の傍に、精神科病棟への通路があり、おそらく統合失調症の方が、看護師に連れ添われ、
意味不明な話しをしながら歩いて行くのを見て言った母の一言が最高でした。
『かわいそうにねー、頭がおかしいのねー』
文章を書くのが好きで、小学生の頃から今に至るまで非現実的な世界観の短編小説を書いて遊んだりエッセイを書いては懸賞に応募したりしている。
いくつか賞ももらったし、研究室の先生が雑誌(学術誌じゃなくて業界専門誌みたいな月刊の雑誌)に寄稿するときはわたしが校正してあげたりしているし、
文章を組み立てることが人より多少は得意だと思っている。
けど、学術論文はわたしがいままで培ってきた叙述法とはかなり違う文法の元に成り立っていた。
今、わたしは理系の大学4年生なので卒論執筆に忙しい。卒論の内容は、マイナーチェンジを加えて学会報に投稿するつもりだから、先生もしっかり目を通してチェックしてくれる。
初稿をチェックしてもらって、返ってきた原稿はアドバイスや注意点の青ペンで真っ青になっていた。
たくさん論文も読んだし、要旨のチェックのときにも確認したし、かなり論文の文法は覚えてきたつもりだったんだけどなあ。
並列のときは(たとえば「赤と青と緑にそれぞれ色付けられた~」とか)英語に倣って「赤、青、および緑に色付けされた~」みたいな書き方を一律でしなきゃいけない。これはだいぶ慣れたけど、いつもそのときそのときで一番読みやすそうな、より語感のいい書き方を心がけてきたわたしにとっては抵抗感が大きいものだった。「赤、青、緑に~」はもちろんだめだし「赤と青、そして緑~」もグレーゾーン。
「だった」「~で、」も「であった」「~であり、」とかに統一。一文の長さはできるだけ短く。
筆者を示す主語はほとんど登場させず、「我々はデータを~~に従って分析した」みたいなことを言うときには「データは~~に従って分析された」とかいう書き方になる。
英語的な表現が多くて、読みやすさの点で言うとあんまり読みやすくない。でも、できるだけ筆者の言いたいことをできるだけそのまま読み手に解釈してもらうという意味ではこういう統一された文法が便利なのかもしれない。
あまり読んでて気分がよくなる文章にはならないけれど、しかし、この文法を完全に身につけて必要なときに使えるようになったら、それはそれですごく大きな力になるだろうな、とも思った。