はてなキーワード: らくだとは
「子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった」
そんなニュースを聞いてあなたはどう思う?
――そいつは何て心の狭いやつなんだ!せっかくの遊び場を、どうせ使いもしない奴が文句言いやがって!
――死にゆく老人がこれからを担う子供の遊び場を奪うな!
そう感じるだろう?俺も同感だ
子供はしっかり外で走り回り、きゃっきゃと声を上げ、草や土を掴み、全力で遊ぶのが何よりだ。本当に心からそう思う。
だが、そんな俺も公園を管理する市に対してクレームを入れたことのある1人なんだ。勿論、騒音について。
つまり傍から見れば、俺は「公園で大きな声を上げて遊ぶ子供を愛しながら許容しない」不思議な存在だということになる。
日本各地にあるこの問題、まず確実に言えることがある。
「公園クレーマーと非公園クレーマーが見ている公園の姿は違う」。
そして、「現状、公園クレーマーたちはクレームを上手に世間に伝えられていない」。
次に、これを読んでいるあなたが「公園クレーマーってちょっとオカシイよね」と思っていることを前提に、以下の事実を列挙したい。
・公園クレーマーは必ずしも子供の声が無条件に嫌いな偏屈ジジイではない。
・非公園クレーマーが公園クレーマー化するのは、一部の非常識な利用者のせいである。
・非常識な利用者だけを除外する仕組みを、行政は持ち合わせていない。よって、公園クレーマーは全ての利用者を敵視するしかなくなる。
・公園クレーマーは、クレームをつける行為に負い目がある。
さて、じゃあ早速冒頭の文章をニュース原稿だとして、続きを想像してみよう。
――子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった。
とすれば、次に来るのは男性ナレーションの低音ボイスであえて野暮ったく読み上げられる次の語句だ。
――「子供の声が、うるさい」
その次は行政の記者会見のシーン。
――「近隣の方との話し合いを続けてまいりましたが、双方の納得には至らず、やむを得ず閉鎖の判断を致しました」
で、そこからが問題だ。恐らくここで、普段の公園の様子か、或いはイメージ映像などで、元気よく遊ぶ小さな子供たちが映し出されることになる。
――「家族連れで賑わう平和な公園で、何が?」
これが大問題なんだ。
少なくとも俺は、こうした元気よく遊ぶ小学生、保育園児、幼稚園児は、好きなんだ!癒される!
きゃっきゃきゃっきゃと楽しそうにおいかけっこをして、たまにミ゛ャー!と寄声を発して、あーあーと泣き出して、しばらくすれば何でもなかったかのようにまたギャーギャーと走り回って…
心から平和を感じるんだ。
精一杯走りたまえ。あーあー、転んじゃって。大丈夫?
俺はこれを、うるさいとは思ってはいないんだ。
じゃあ、「子供の声がうるさい」と言ったクレーマーの気持ちはなんなんだ?
俺はそのクレーマーの気持ちを理解しようと努めることができる。恐らくその人も、最初からそれがダメだったわけではないんだ。「ダメになった」んだ。
(一応補足しておくが、この日記では「俺」と「公園クレーマー」という主語をほぼ同一として扱う。いわゆる「主語がでかい」状態だが、便宜上許して欲しい)
俺が公園クレーマーになった原初のきっかけは、とある夜のことだった。
当然すぎて端折っていたが、俺の家の目の前には公園がある。住所はとりあえず北関東ということでボカさせてほしい。
大きくはないが、追いかけっこは勿論、キャッチボールやフットサルくらいなら十分できる広さがある。
2階の窓からすぐ見下ろせるところにベンチがある。そこに、夜な夜な中学生か高校生くらいの男子連中がたむろし、談笑しながらボール遊びをするようになった。
変声期を終えた男子の声は、かなり通る。そして、ボール遊びの中でもとりわけサッカーボールを蹴る音というのも、実はかなーり、通る。
少なくとも俺の家の窓は全く防音性という面で貢献しなかった。
ボン、ボン。ギャハハ。ボン。ボス。ギャハハ。ボン。
不規則なリズムで、しかし短い間隔でリビングに響くその音を聞いていると、30分も経たないうちにまるで面白半分に自分の頭を蹴られているような気分になり、怒りが湧いてくる。
ここで、自明の事実を書く。
こうしたたむろ連中は、必ずしも「迷惑をかけるつもりで」やってはいない。
彼らは、「自分達の発している音が、目の前の家の中にまで達していることを想像できない」のである。
壁を隔てた向こうに、自分たちの存在が察知されていることを知らないのである。
これは誰しもが陥りがちなことであるが、どうも人間と言うのは「見えていないならば聞こえていない」と認識しがちである。
自分から見て、近くの家の中など当然透視はできない。ならば聴覚も届かぬ場所であると錯覚するのだ。
要は、「想像できないことは認知できない」のである。
結局その日は警察を呼び、お帰り願った。(夜9時台だったので世間一般的にも迷惑案件だと判断した)
翌朝、その場所にはペットボトルやカップ麺などの大量のゴミが散乱していた。
夜の騒音はその日で終わらなかった。
ここでのポイントは、「同じ連中が毎晩たむろしに来るわけではない」ことである。
とにかく色んな人が来る。
金もなく公園に行くしかないカップル。
夜しか時間が取れないのであろう、子供を引き連れてバッティング指南をするおっさん。
花火をしに来た家族連れ。
先程の件と別の男子学生グループは幾つもいた。
中には缶チューハイで酒盛りする中学生男女グループというのもいた。世の中的に見れば全く珍しくもない、可愛い非行の一種だが、目の前で見せつけられるのはさすがに弱った。
そしていずれの人達も、当人らが思っている以上にその声や動作音は聞こえてきた。
中にはTikTokの流行りの動画を大音量で流す奴もいた。
ただ、それですら、彼らはこちらのことを認識していないのである。
単に「流行りの音楽を好きな音量で鳴らす俺」という環境を欲しているのであり、それが他者に聞こえているとは思っていないか、考えたこともない。
彼らにとって俺の家は書き割りの背景と同じなのである。
そのうち、夜に公園に来るすべての人間がバカに思えてくるようになった。
先ほど書いた通り、「自分の出した音がどのくらい遠くまで聞こえているか」「それが思いもよらぬ誰かの耳に届いているか」というのは「想像力」の話である。
なので、彼らは「想像力の無いバカ達」だということになる。
一方こちらは常に公園の音が耳に入ってくる。
自分の感知エリアの中に公共の場があるのだ。自分の感知エリアの中にバカが入り込んでくる可能性が常時あるのだ!
これは結構大変なことで、つまり自分自身が「公園の24時間警備システム化」してしまったのである。
これは良くないと思い、市に電話を入れた。
クレームではない。「夜間の大声やボール遊びを禁じる看板を立てられないか」という要望としてだ。
「あくまで自分は要望のつもりだったんですがねえ」と言い訳したいのではなく、あらゆる体裁において実際要望として伝えた。
いわゆる公園クレーマーとしての立場になりたいわけではないし、日中の利用のマナーは良く感じているというようなこともできるだけ言った。
結果、1週間内には夜間早朝のボール遊びや集会、騒音を立てる行為はご遠慮ください、といった旨の即席看板が立った。
この看板にはある程度の効果があった。
ありがたいことに地域の全体的な民度は低くなく、夜の利用者がこの看板を見て「もう1個の広い公園行こうか」などと発言する様子も見られた。
だが、それでも無視する者も少なくなかった。
そして、俺ももう手遅れだった。
警備システム化した神経は、最早日中の音ですら気になるようになってしまったのだ。
常時テレワークであるため、在宅せざるを得ない中、ボールを蹴る音や子供の騒ぎ立てる音が聞こえる。
いや、それでもやはり冒頭書いたような、「小さな、天使のように朗らかな子供たちの駆ける音」は何の問題もなかった。
中高生男子の声とサッカーボールの音が、いかにもたむろ連中を想起してしまい、聞くだけで頭痛がするようになった。
大半の少年たちは育ちが良く、騒ぎ立てはするものの、辺りが暗くなればささっと帰ってくれる。
だが恐ろしいことに、「そもそもいること」が許せなくなった。夕陽が沈みかけ、薄暗くなったあたりで「早く帰れ早く帰れ」と念じるようになった。
そして――どうにかベンチを撤去出来ないか?一部の区画だけでも閉鎖できないか?
いつしか「クレーム」を入れるようになったのだ。
ここで、非公園クレーマーであろうあなた方に問いたい。
あなたが想像する公園クレーマーが「子供の声がうるさい」と言った時、あなたが想像する声の主はどんな姿だろうか?
小学生や、幼児たちを想像していないだろうか?
そのうえで「まさかこんな子供たちを排除するなんて!」と憤っていないだろうか?
また、「勝手に昼間で想像している」のではないだろうか?
違うのだ。
もう少し上の年齢の、「自我が目覚め、夜遊びもしたい、生意気盛りの子供たち」なのだ。
そして、俺には今自宅の目の前にいる利用者が「良い利用者」なのか「悪い利用者」なのか判別がつかない。
全ての音を拾うしかないのだ。
そうなれば俺が言うことはただひとつ、「子供の声がうるさいんだ」である。
しかしその言葉から逆引きされる「子供」とこちらのいう「子供」には隔たりがあるし、経緯はいっさい伝わらない。
さて、そろそろあなたには幾つかの疑問、というより「ツッコミ」が生じていることだろう。
――引っ越せばいいのでは?
――家の防音性能を上げればいいのでは?
――イヤホンとか耳栓でなんとかならない?
――他の住民が気にしてないなら気にし過ぎなのでは?
引っ越しはそう簡単にできるものではない。膨大なローンが残っているし、自分ひとりの問題ではなく家族を巻き込んだ話になる。
窓を増設するという手がある。しかしこれも公園に面した各窓に処置するだけで100万円はカタい。マインクラフトみたいに素材があればポンと設置できるものではない。
イヤホンや耳栓というのは応急処置として有効である。しかし「自分の家で行動を制限される」ストレスの方が強い。なぜ自分の家で、家族との会話もシャットアウトし外界の音に我慢させられているのか、ということになる。
それに、これはまた派生的な「症状」なのだが、俺のようになると音だけでなく「窓を開けたら人がいる」という状況ですら悩みの対象になるのだ。目の前のバカがいつバカをやり出すかわからない恐怖が発生してしまうのだ。
大体、「夜間の集会はご遠慮ください」という看板がある状況で集まっている時点でそいつはルールを自己都合で無視できる人間なのは確定しているのである。
そんな奴が自宅から10m強先にいること自体がストレスになってくるのだ。
そして最後。
ここがまた、公園クレーマーと非公園クレーマーの隔たりの原因である。
公園クレーマーとは、恥ずかしいものなのだ。
だって、公園は良いものである、という世間の認識があるのだから。
そして既に、公園にクレームを入れるのは「わからずやの偏屈ジジイ」だとする一般通念があるのだから。
俺だって、もし街を歩いていてテレビの取材にあたり、「公園にクレームを入れるのってどう思いますか?」と聞かれたら、
「ウフ、うん、まあその、公園って子供たちがねえ、元気よく遊び回る場所だからねえ、その、それをねえ…」
などと口ごもるだろう。
「アッ、こいつ公園クレーマーの仲間だぞ!」と思われたくないので。
恐らくだが、インタビューで公園の騒音を肯定的に捉えている人の中にも、「実は参ってるんだけどね…」という人がいる可能性はゼロではないと思う。
こうして、公園クレーマーの印象は「誰にも理解できないキチ○イ」へとどんどん先鋭化されていく。
とはいえ、この日記では解決策を示して欲しいわけではない。
あくまで公園クレーマーとは何なのかを公園クレーマーの立場から書いているだけである。
ということで長くなったが、それでも、俺のような公園クレーマーに対して「偏屈」「気にし過ぎ」と感じる人は多いだろう。
それはそれで問題ない。何せ事実、神経過敏になっている。
最早俺は、バカが来て騒音を出すのがダメなのではなく「常にバカが来て騒音を出す可能性がある」ことがダメになっている。
もしかすると、今はまだ俺が愛おしく思っている小さな子供たちすら、今後は煩わしくなっていくのかもしれない。
そうなれば、次にニュースに登場し、世間から罵られるのは俺ということになるだろう。
だが、非クレーマーたる皆さんには、少しだけ想像をしてもらえないだろうか。
あなたがイメージする「公園」「公園の騒音」は、クレーマーの思うそれとは時間帯も対象人物も在り方も違っていないだろうか。
また、あなたは公園の目の前には住んでいないのではないだろうか。
ならば、「自分が自宅に居ながら公共の場の音を感知する警備システム化する」という感覚を知らないはずである。
何も公園クレーマーを理解しろとは言わない。
ご推察の通り、精神疾患的な症状は少なからずあるので、そこを含めて理解しろというのは傲慢であろう。
ただ、公園の騒音という社会問題について何か語ろうと言う時、少しだけ、想像をしてほしいのである。
最後に余談として。
あなた方が考えるツッコミにはもう一例あると思う。
――自分が若い時もやんちゃしたのに、今の若い子のそれは許せないの?
これはこれでデカいテーマなので書くなら別の日記として書くべきだろうことだが、正直に言えば「許せない」が「心の慰めにはなっている」という程度だろうか。
俺も学生のころ、男子連中で友人の家に寝泊まりし、近くの公園でバカ騒ぎした記憶がある。
下校時に彼女を連れ立って、公園の木の陰でいい思いをしたこともある。
迷惑をかけたし、その近隣の住民に我慢を強いたうえで「仕方なく許された」のが今の俺であることは解る。
実際それらは個人的には「いい思い出」として処理されているし、懐かしく思うこともある。
だが、「ならば自分も許そう」はそもそも道理でない。単に個人の思想の一種でしかない。
あえて極端な例を言えば、過去にゲーム感覚で万引きをした経験のあるヤンチャ坊主が成長して小売店の店長になったとして、自分の店の万引き犯に対して「でも自分もやったことだしなあ」と許せるかという話である。
学生の頃イジメを働いた人間が社会人になって会社でイジメられて「でも俺もイジメっ子だったしなあ」となるかという話である。
そういう因果律で人生を捉える人がいてもいいが、それがイコール正しい考え方ではない。
現実っていうか、SNSで女にダル絡みに行くのを「ぶつかりおじさん」で表現しただけでは?
わざと夢と現実がごちゃごちゃになっていくように表現されているし、
壊れたスマホが喋るわけないから、ぶつかりおじさんやってるのはSNSの世界の話。
実際ぶつかられた女性は全てスマホを使っている=SNSの出来事の暗喩だと思う。
・親父の介護
・会社勤め
なのではないかと。それ以外は恐らく「溝口の妄想」で、最後に会社の人や被害者女性、母親らしき人がやってくるところまで妄想だと思う。
つまり溝口は夢うつつで、ネットでは大言壮語しているが実際には普通に過ごす気の弱い男性でしかない。
しかし過労で追い詰められていき、最終的には夢が現実を上回って女に抱き着いた(性犯罪)ので、ジャスティスブレードされたのでは?と思う
バイトをしてBlu-rayを購入して何度も何度も観たし元気をもらった大好きな作品だった
ジムで走りながら昔好きだったアニメでも観ようと思って久々にキルラキル1話を観た
…全く面白くなかった
・節々にある謎のお色気要素
キルラキルは昭和のアニメをモチーフにしているので、こういう描写は「あえて」であり、むしろこのお色気要素は作品の売りである
当時もそこが良いと思って観ていたし、エロくて最高!そこに痺れる憧れるゥ!と思っていた
しかしアラサーに突入し令和のトランスジェンダー問題や女性搾取問題に触れて、(あえて悪い言い方をするが)こういった女性を搾取するような描写に異常な不快感を持つようになった
試しにこれも好きな作品「少女革命ウテナ」の1話も観たが、やはり嫌な気持ちになった
恐らくだがキルラキルと同列に大好きだった「天元突破グレンラガン」もヨーコの扱いに不快感を覚えるのだと思う
むしろ上に記載した作品にお色気要素を無くしたり、女性人権を認めた描写をしては作品の魅力が無くなるだろう(グレンラガンはともかくウテナやキルラキルは作品自体を否定することになる)
そもそも作品が昔のものなので時代によって価値観は変わっていくものだと思うし、成長して価値観が変わってしまうのもまた仕方がないと思う
ただ、あれだけ大好きだった作品を観て、純粋に楽しめず不快だなあと思ってしまうことが、ただただ辛い
両親二人暮らしのマンションだから、父の部屋を赤ちゃんと私のために空けてくれた。
お父さんの書き物机の隣にベビーベッド。ビジネス書が詰まった本棚の下の段にベビー用品のストックが詰め込まれてる。変な部屋。なのに赤ちゃんのための部屋として完璧に思える。
昼間は母が赤ちゃんを世話してくれるからその間に少し寝て、夜はずっと赤ちゃんを見ている。
授乳して、全然足りないからミルクを飲ませて、ゲップがなかなか出ないので吐かないようにしばらくだっこして、オムツを替えたら起こしてしまってまた抱っこでゆらゆらしたりして。気がつくともう次のミルクの時間が近づいている。その繰り返しで寝る暇はほとんどない。
眠いし、心細いし、さみしい。みんな眠ってSNSも動かなくなって、見るものがなくなってしまう。部屋の中も外もすごく静かで、時々遠くで車のエンジンの音がするのが聞こえてくるのがせいぜいといったところ。眠らないまま夜明けの時間を迎えてホッとするなんて人生で初めてのことだ。
でも、授乳ランプの薄明かりの中で赤ちゃんの顔を見ていると尊くて涙が出てくる。静かに眠っている時の新生児の顔は仏さまみたいだ。この子を産むために私は生まれてきたのかなあと思う。自分が死ぬのは怖くなくなって、代わりにこの子を失うことが死ぬほど怖くなる。二回目の人生が始まったような錯覚をしそうになる。
この世に生まれて、この子もこの先きっと痛いこと苦しいことも経験するのかと思うと申し訳なくも思う。でも、それ以上に楽しくて幸せな思いをさせてあげられたら、と心の底から思う。傲慢だろうか。
こんな夜があったことを覚えているのは私だけだ。
これ幸いに赤ちゃんの耳元で時々「ありがとうね」ってこっそり囁きかけてる。生まれてきてくれてありがとう。親にしてくれてありがとう。両親や夫の喜ぶ顔を見させてくれてありがとう。生まれた瞬間にもう育児20年分くらいの見返りは軽く支払済みだから安心してね。
昨年の春から、京都の北のエリアに分譲地を買って、家族で住み始めている。
結婚して数年。子どもが大きくなってきて、アパートでは手狭になってきたし、旦那と私の給料も少し上がっていて、そろそろ時期なのではと思っていた。
シミュレーションでは将来が厳しい可能性もあったけど、思い切ってモデルハウス見学会に参加して、分譲予定の土地を見て、空気がおいしそうなところだったので買うことにした。
今では後悔している。
もっと別のエリアにすればよかったと思うし、情報集めが不完全だったとも感じてる。周辺に公共施設があるとか、道路網の充実とか、ショッピングよりも大事なことがあった。わかってなかった。
近所にどんな人が住んでいるか。異常な人間が住んでいることを把握していればよかった。不動産会社に苦情を言ったけど、「重要事項説明書に書くことでもないですし、もし書いたら人権侵害になりますから」とのこと。大手だと思ったから信用してたけど、そんな甘いものでもないよね…。
愚痴らせてほしい。おととしの秋だった。思えばラストチャンスだったかもしれない。新家の建築中のこと。不動産会社から連絡があった。「大工さんから情報提供がありまして。夜に、建築中の宅内で翌日の作業準備をしていたところ、ドアがいきなり開いて男が入ってきました」とのこと。男は大工さんと鉢合わせると逃げていったらしい。
まだドアを据え付けたばかりで、電気が通っておらず防犯機能がオフになっていた。警察に言っても捜査は進まない。一応家主には連絡すべきということで、不動産会社が連絡してきた。
旦那には当然報告した。不安そうにはしてたけど、「もう契約したから。不吉だけどこういうこともあるよ」と他人事のような反応だった。ちなみに、ほかのお家は大工さんがすでに引き上げており、鍵がかかっていて無事だったらしい。
今の話をしたい。
結論をいうと、おそらく建築中の家に入ってきた男に苦しめられている。去年の春に越してきてすぐ、近隣の家の人が挨拶にきてくれた。京都市の人って冷たいイメ―ジがあったけど、向こうから来てくれて、親切に暮らしの案内をしてくれた。見知らぬ土地だったので正直ありがたかった。
でも、その折、新しくできた新築家屋をずっと見つめてくる男に気が付いていた。向かいに住んでいる和風の家に住んでいる男だった。道路を挟んで男の家の敷地から見詰めてくる。おそらくだけど仕事はしてる。朝の時間に茶色いツナギ?ていうのあれ……で出かけていくところを見たことがある。
正直気持ちが悪かったけど、いろんな地域にいろんな人がいるだろうしということで我慢していた。いつかはなくなることを信じて。
日曜日に子どもを庭で遊ばせている時だった。向かいの家の二階の窓が開いた。すると、その男がひょっこり身を乗り出した。その男は、ちょっと周りを見渡すと、二階の窓からそのまま……おしっこを始めた。ごく普通に始めた。最初、なにが起きているのかわからなかった。
とにかく、明らかにそれだった。言葉にもしたくない。うちの子どもがそれに目をやっていて、私の方を見て「あれ」と言い始めるところで、手を引っ張って家の中に入った。
なにが起きているのかわからなかった。もう嫌だった。「選択を間違えた」とその時感じた。私は間違えたんだ。なんでもっと、新居を慎重に選ばなかったんだろう。
ほかにも異常な行動はあるんだけど、あとひとつだけ言わせてもらう。
8月だった。日曜日。夫の同僚が集まって庭先でバーベキューをしていた。私も参加させてもらって、賑やかな雰囲気で楽しんでいた。
あれのことが頭をよぎって、向かいの家の二階を見ることが何度かあった。でも、その気配はなかった。あの男が二階から小便をするところは、この時点で3回は観ている。
もし、あれが出てきたらどうしよう。みんなに観られたらどうしようと不安になっていた。
時間が経って何事もなく、安心した気分でバーベキューを楽しんでいたけど突然だった。「おい、お前ら!!」という声が後ろから聞こえた。
あの男だった。道路を超えてうちの敷地内に入ってきたところで旦那が静止した。覚えてる限りでは、
「なんですか、あなた?」
「あの家に住んでます。バーベキューくさいんでやめてくれる?」
「あの家の二階に住んでます。やめてください」
「いや、どう見ても離れてるでしょ。くさくないでしょ」
「ほな警察よぼか!!」
もう辛いので、これくらいにさせてほしい。
その後、本当に警察が来た。あいつが家に引っ込んだ後で通報したみたい。
お巡りさんは、「ご近所トラブルは基本的に関わらないが~うまくやらないと刑事事件に発展して~」みたいなやり取りを旦那としていた。
それからも嫌な事が続いた。何度も。何度も。何度も。
あの男がいる、向かいの和風の家の世帯主との話だったら、とっくにしてる。まったく効果がなかった。漫画で見るような嫌な京都人の象徴みたいなキャラのおじさんだったよ。あの男があと30年経ったら、ああなるんだって感じがした。
どうしようもない状態だ。どうすればいいんだろう。ノイローゼに近くて、仕事の方もうまくいかなくなってきた。
しかも、あいつ以外にも変な人が近所にいる。路線バスの中で自分が車掌になったみたいに振る舞う人とか、信号が変わって横断歩道を渡る時に、ちょっとでもフライングすると大声で怒鳴る人とか……。
アドバイスがほしいとは言わない。私達の問題だから。自分で解決しないといけないんだと思う。
同じ分譲地を買った人も、あいつの言動には腹を据えかねている。今度は行政に相談をしてみる。いや、その前に町内会長さんかもしれない。近所の人に相談したら「間を繋いであげる」って言ってた。
近所のお爺さんが言うには、あの男は高校の用務員をしているらしいとも聞いた。あの親も元公務員で。だとしたら、職場を突き止めて役所に苦情を伝える手もあるのかもしれない。
情報提供しても意味は薄いと思うけど、京都市の北の方の、佛教大学と立命館大学の間くらいの地域になる。地図を見ながら書いてるわけじゃないので、体感の部分はあるけど。同じ失敗を繰り返す人をゼロにしたい。
先達として注意を呼びかけて終わりにする。立地よりも大事なのは、近所にどんな人が住んでいるかだ。今回の失敗を肝に銘じたい。とはいえ、次回がきてもやり切れる自信がない……。
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少しずつ読ませていただいてます。
ポカミスで時系列が変になっていて直しました。住みはじめたのが去年の春先です。
本当読みにくくなってごめんなさい。
ハイブランドの服って接客コストがむちゃくちゃ高いんじゃないかと思うんだわ。
コスメの接客はある程度マニュアル化できるし、基本は物を売れば終わりだけど、服の場合は、試着のための個室、それも広めでラグジュアリーな空間が必要、次に微妙に合わないところとかはお直しに出したり、数はつくらないからお取り寄せしたりとイレギュラーが多いはず。
ごくごく限られた芸能人とか資産家しかファッションオタクしか相手にできない。10万とかにして庶民が来ると割に合わないんだと思う。
バッグは見栄のために持ち歩くものなので、見栄が張れるだけの価格にしないといブランド価値が下がる。
おそらくだけど、富裕層のトラベルラゲージ由来のヴィトンは、ファッションブランドより下のポジションに行きたくない、でも、ファッションブランドからすると、言うて自社職人がそれなりに頑張って作ってるものがキャンバスにビニール張りのバッグより安いっていうわけにもいかないからヴィトン並みに上げる。
そういう感じで値上げ合戦になってそう。
タマゴが先かニワトリが先か、みたいな話になるけど、自分が接してきた何人かの卑怯者は、以下の特徴があった。
・なぜか子供が2~3人いる
という傾向でおもしろいほど一致しており、おそらく家庭環境が仕事に影響しているのだろう、との考えに至るまでそう時間はかからなかった。
おそらくだが、夫婦生活の設計をしくじった可能性があると思われる。
長年つづけていくうちに、自分の家庭の運用のために全世界が存在している、という考えに至ってしまったのではないだろうか。
そのため、人格や仕事を犠牲にして卑怯者になっていくのではないかと思われる。
<追記>
あ、あと子供が小学生とかに育ってくると、あたりまえだが「一個の人格」になるわけで、もしその人格が自分ゆずりの卑怯者にそだっていたら、もう家族全体が「卑怯グループ」として相互パワーとなって増大してしまうよねというはなし。
つまり、嫁選び・仕事えらび・子供のそだて方、この3っつって連動してるんすねというはなし。
<以下レス>
それの何が悪い?
オマエは他人だろ?
いやわるいだろ
自分の家族せいぜい2~3人のために、何十人何百人の仲間の足かせになっちゃアカンでしょ
ってことすね
つまり卑怯性とは「自分だけがよければいい」という、自己中ってことに帰結するのではないだろうか。
あと、彼らを見ていると「会社組織をギリギリ首にならない程度にいかにラクして生き抜くか」みたいなゲーム性を感じてしまうのである。
自分のかわいい家族のためだけは全力をつくしますよ、みたいな。
そのあたりがなんか「卑怯」なんすよね┐(´д`)┌
共働きで自分の給料が上がらなくても奥さんの分と合わせるとまあまあな世帯年収だから出世しなくていいやっていう発想ならまあわかるけど。
鋭いご指摘どうも!
そのとおりで、自分が出会った卑怯者は、以下の特徴がありました。
なので、大企業づとめというシステムをフル活用した結果の卑怯者なのではという結論です。
たぶん中小零細づとめだと年収揚げるためにガツガツ出世をもとめるのでは?と思います。
まあたしかに卑怯にもいろいろあると思いますが、「臆病」「自己中」「保身」「ラクに生きたい」みたいな感じでしょうか?
成果を出さないでも、システムの穴を使って十分稼げる、という甘い蜜を知ってしまってそれに乗っかる的な。
自分に損になりそうなことがありそうだったらすぐ逃げ出す。
そんな感じかと。
卑怯な手で会社を大きくする人もいますが、大きな違いは「社会に還元してない」ってかんじでしょうかね?
会社や売上を大きくしたなら、いずれその資本で社会に再投資して還元されますからねぇ。
そういう「アグレッシブ卑怯者」に対して、「パッシブ卑怯者」ってとこですかね(命名)。
フリーライダーに近いのかもしれない。
ラクに生きたいで良いじゃん
頑張った分だけ金が貰える昔とは違うんだし
そうそう つまり大企業にうまく入れた時点でその人の人生は「あがり」なんですね
政府もがんばってるようですね。
まあ一番の障壁は「解雇規制」ってことは、賢明な皆さんなら百も承知でしょうが。
ショッピングモールの女性用下着売り場を通り過ぎるたびに思うことがある。街ゆく女の子たちのスカートの中は、こんなにもエッチなパンティー姿なのだろうか? 生地が薄くて素肌が透けて見えそうではないか。こんなエッチな下着を上下揃えて着る必要があるのは、せいぜい風俗営業などでプロの女の子だけだろう。アマチュア(?)の女の子にエッチな下着を着用する必要はないはずだ。
一方、男の私は、黒系統の地味な色の厚手のボクサーブリーフを履くことが多い。しかし、男女それぞれの生殖器の機能を考えるならば、逆であるべきだ。すなわち、下腹部を冷やしてはならない女こそが、厚手のボクサーブリーフを履くべきなのだ。それも、生理やおりもので汚れが目立たないように、色は黒系統がいいだろう。それとは逆に、男こそが男性器(睾丸)の冷却のために、通気性の良い薄手のパンティーを履くべきだ。ただし、男が女性用パンティーを履くべきということではない。女の子が胸の形状に合わせてブラジャーを付けるように、男も男性器の形状に合わせたパンティーを履くべきだ。
かつての日本(昭和初期以前?)では女性はブラジャーを着用せず、和装に合うように胸を押さえつける下着を着用していた。胸の形を自然なままで維持することも、胸をセックスアピールに用いることも、していなかったのだ。しかし、ブラジャーの輸入によって、女性の胸の価値観が変化したことは語るまでもないだろう。それに対して、男性器を覆う衣服はどうだろうか? ふんどしはブリーフに代わり、袴はズボンに代わり、男性器は内側へ押し込んで隠すように変化している。女性の胸が形を維持し強調しアピールにも用いられてきたのとは逆の変化だ。これにより、陰茎の成長を妨げたり陰嚢の放熱を妨げて精子量が減少したりと、男性器に対するデメリットが大きくなったことは言うまでもないことだ。
紡績と縫製の技術が進歩してきたのだから、男性用下着もブラジャーのように進化するべきだったのだ。具体的には、男性器を収納するスペースを専用に確保すべきだ。この『はてな匿名ダイアリー』の場なら、『ちんカップ』・『玉カップ』という言葉を用いれば説明は容易だ。『玉袋ゆたか』のプロフィール欄にて、身長や体重などと共に併記されていた属性である。ブラジャーが胸囲(アンダーバスト)だけでなくカップ数で細かく分かれるように、男性用下着も『ちんカップ』・『玉カップ』で細かく分類されるべきだ。男性器の収納方法は、ビガーパンツのように、陰茎と陰嚢を分けて収納できるようにセパレート構造が望ましい。陰茎を覆う生地の先端部分に穴が空いており、そこから亀頭を露出できるので排尿も容易だ。
話が長くなってしまったが、端的に言えば、男の子は薄手の生地のパンティーを履き、その男性器部分は陰茎と陰嚢のそれぞれを独立に収納して、男性器の形状を押さえることなくできるだけそのままの形を維持すべきということだ。昔は伸縮性のある生地など存在しなかったが今は伸縮性のある化学繊維があるので、陰茎の勃起にも生地が伸縮して対処できることだろう。もちろん、通気性のためにズボンではなくスカートを履くべきだ。
私が理想とする世界では、男の子はスカートを履いているのだ。そして、スカートをめくると薄手の生地のパンティーが臀部をぴっちりと覆ってその形状をあらわにしているのだ。それだけでなく、陰嚢も陰茎もその形を崩すことなく、そのままの形で薄手の生地に覆われているのだ。外部に生殖器の形が表れない女性でも、薄手のパンティーとミニスカートを履けばエッチになるのは言うまでもないことだろう。生殖器の形が外部に表れる男の子がそんな恰好をしたら、女の子以上にエッチになってしまうのは想像に難くない。そうなれば、男女交際における性の役割は逆転することだろう。すなわち、男が誘惑する側の性で、女が誘惑される側の性だ。生理周期のある女性と違って男性は24時間365日発情期なので、女から男を誘うのが、合理的な男女交際や性交渉と言えよう。男性側の問題としては男性の性欲や精液貯蔵量だが、それは陰茎の勃起によって判明できるので、男性が薄手のパンティーを履いて勃起を鮮明にすることにメリットがある。具体的には、女の子が男の子のスカートをめくり、男の子が多少嫌がるそぶりをしていても、勃起をしていればOKということだ。逆に言えば、男の子が性交渉に肯定的な態度をとっていても、勃起していなければNGということでもある。そんな世界においては男の子が異性(女の子)に対して自身の性的価値をどのように認識するのだろうかと、思考実験を試みた。思考実験に用いたシミュレーション内容は、上述した架空の世界での男子中学生同士の会話である。以下に内容を述べる。
男子A(以下、A)「おい、お前。なんでスカートを短くしてるんだよ? 女に媚び売ってんのか?」
男子B(以下、B)「ち…違うよ。最近玉カップが蒸れるから通気性のためだよ」
A「それに体育の着替えの時に見たけど、エロいパンティーも履いてるよな?」
B「履きたくて履いてるわけじゃないのに。ジュニア用のショーツを履きたいけど、サイズが合わないから無いの」
B「そんなわけないよ! いつも女の方から一方的にスカートめくりされて、困ってるのに…」
B「勃起してない! ちんカップも大きいから勃起してると勘違いされるの!」
B「好きで、デカちんやってるわけないのに。サイズの合うショーツはなかなか売ってないし、日中うっかり勃起したら目立つし、いいことなんてないよ」
A「やっぱり勃起してんじゃねーかよ!」
B「そっ…それは生理現象だから仕方ないでしょ! でも、クラスの女子相手に勃起するわけないでしょ。クラスの女子なんてまだ幼稚だし。女子から下半身をじろじろと見つめられるたびに、キモさでちんぽが縮こまるよ」
うむ、なんというエッチな世界だ。このまま男子Aと男子Bの組んず解れつのミニスカ・キャットファイトを書いてみたい欲求もあるが、本題とは外れるのでこの辺にしておこう。ちなみにシミュレーションの対象に男子中学生を選んだのは性的成長を強調するためであり、私の趣味とはあまり関係がない。なんなら、ビール腹のおじさん同士の方が『はてな匿名ダイアリー』の場においては受けが良さそうなので、興味のある人は人物設定など属性を変えてシミュレーションすべきだろう。
しかしながら、現実の世界は、なぜ私が理想とした世界とは異なるのだろうか。具体的にいうなれば、なぜ男の子は機能性も装飾性も低い下着を今もなお履き続けているのだろうか。おそらくだが、男の子が女の子以上にエッチな文明は過去にあったかもしれないが、現在は滅びてしまったのだろう。
文明はなぜ滅びるのか。文明の黎明期においては自然環境の影響が大きかっただろう。自然災害や悪天候がそのまま食糧生産に直結するからだ。では、食糧供給が安定した状況では、文明や国家はどのようにして滅びるのだろうか。戦争や革命による文明や国家の打破が考えられるが、その根底にあるのは資源・経済・科学技術・文化など様々な要素から成る組織力の優劣である。中国(チャイナ)地方は、広大で肥沃な土地がもたらす豊富な資源によって、王朝を何度も変えながらも長年にわたって皇帝が国家を支配していた。しかし、アヘンによって王朝は途絶えてしまった。また、中国由来の娯楽に麻雀があるが、麻雀は『亡国の遊戯』と呼ばれていた。麻雀があまりにも面白くて国民がみな麻雀に熱中してしまい、国力を衰えさせてしまうからだという。中国において麻雀の発祥時期が定かでないのは、麻雀の勃興と権力者による歴史からの抹消を繰り返してきたからだろう。
エッチな男の子も、アヘンや麻雀に匹敵するほどの亡国的な魅力を秘めているのだろう。考えてみてほしい。性欲の絶頂期にある男子中学生が煽情的なミニスカートを履き、その内では男性器の形をそのままに模した薄手のパンティー姿でいるのだ。陰嚢の圧迫や勃起の阻害も無く性的成長した男子中学生を前にして、国家は健全なままでいられるとはとても思えない。経済・科学技術・文化のハッテン発展は妨げられてしまうので、国力が衰えるのは間違いないだろう。男の子のエッチさを抑制して、代わりに国家を発展させたのが人類の英知だったのだ。生地の薄いパンティーをあえて女の子に履かせているのは、文明の存続のために仕方がないことなのだ。
このキチは自分と少しでも意見が合わない人間に対しては非常に攻撃的になり「エアプ」「無能」「死ね」などと言った引用RTを繰り返すため、多くのユーザーから避けられてブロック・ミュートの対象になっている。
俺は、こいつの挙動や心情に一切影響を与えたくないためいいねやRTすらしたことない。もちろんフォロー、フォロワーになったことすらない。ただ、観察をしている。
そしてこのキチが最近また別アカのとある投稿に対して引用RTをしていた。こいつは嫌われ者なので、基本的に引用RTされても無反応するのが鉄則なのだが、今回は引用元がリプライを返してきた。多分だがキチとはほとんど面識はないだろう。
客観的に見てこのリプライは煽りなどの意図はなく、まだ建設的な意見交換をしようとしていた。キチもまだ標準的な態度で応答する。
ただ、引用元が反論(というと語気が強いが意を唱えてるだけ)をするとキチが理論的な返しができないため焦ったのか、いきなりヒートアップ。勝手に引用元にレッテルを貼って、勝利宣言しようとした。
しかし引用元は追及の手を緩めない。キチは完全に逃げ腰だ。結局ズタボロにされて捨て台詞をはいてトンズラした。
今まではこのキチが暴れてる時は「こら、キチ君が可哀想じゃないか!」とお友達が擁護にしに来ていた。俺から言わせればこいつらのせいでキチがのさばっていて益々孤立してるんだが。お友達は無理矢理な擁護をして、相手の過去ツイの不手際を掘り起こして泥試合に持ち込んで、「どっちもどっちという事で手打ちにしましょう」と勝手に仲裁していた。
しかし、今回はこのお友達がほとんど擁護に来なかった。キチに分がなかったからかもしれないが、それは今回始まったことではない。一体彼らに何が起きたのか。
おそらくだが、お友達はキチ擁護に飽きたのではないだろうか。自分の進退をかけてかばう相手でもないということに今更きづいたのだろう。悲しいかな、Twitterだけの友達なんて居なくなっても日常生活に全く影響ない。
キチは嫁や子供がいなく孤独だ。彼の闇はどんどん深まりつつある。1人の人間が孤独に蝕まれる様はある種の娯楽だ。おれはお前を最期まで見届けてやるからな。
良くも悪くも、ブクマカは短絡的なんだよ。
タイトルだけ見て反応する。
だって、本文読んでる間に誰かが気の利いたブコメを書いたらそっちに★が盗られちゃう。
だから、みんな一分一秒を争って、我先にと思いつくままに書いてしまう。
一方で増田は、牧歌的というか、ブクマ数やトラバ数という評価はつくものの、
ほとんどの増田にはそれが付かないし、漏らしたとか、水曜日がどうとか、
しょーもない投稿も溢れている中で、読ませる文章がときどき現れると、
そりゃみんなじっくり読んでしまうでしょう。
おそらくだけど、増田とブクマカのユーザ層はかなり被っていて、
一人の人間の違う側面が出ているだけだと思う。
中学生の時からなんとなく感じていたけど、年々母親と会話が成功する確率が減ってきている。
両親にはとても感謝しているし、恵まれた生活をさせてもらって自分は幸せ者だと感じているが、どうしても母親をひとりの人間として見たときに好きになれない。相性の悪い相手だと感じる。
今現在も1日を振り返ってイライラが止まらず眠れないので、日々母を観察し、ようやくその発言や行動の分析が進んできたことを、ここに書き出そうと思う。
母とは時たま会話が成立しないときがあり、これには母がそもそもこちらの話を聞いていないパターンと、母の発言の中には実際の言葉とは違う意味が多分に含まれていて、こちらが全てを汲み取って理解しないと言葉のキャッチボールが成立しないパターンがあると考えられる。
前者の例
「お母さん、この日ってなんか予定あったっけ?」
「……(スマホに夢中で聞いていない、もしくは聞こえていない)」
「歯医者行ったら駐車場でぶつけられそうになったよ。飛び出してきたくせに睨んできて、すごく感じ悪い人だった。」
※最近は他にも、いきやりTikTokやTwitterの画面を見せて「見て!誰々さんがどこどこ行ったって!」も頻発
後者の例
「このお酒、リキュールだけど成分表に清酒って書いてあるね。だから日本酒の匂いがするんだ。」
「うん。リキュールと言ってもいろんな種類があるんだなって。」
「だから、簡単に言えば香りをつけたお酒がリキュールでしょ?その材料になるお酒にも色々種類があるんだねって今知ったの。」
「そりゃそうでしょ。」
前者のパターンは、そもそも母はその場の思いつきや目の前のことに集中してしまうことが多いので避けることは不可能。日常で最も頻発するが、昔からこうなのでどうしようもない。
後者のパターンは、会話の中で年々登場回数が増えている上にあたかもこちらだけが理解不足であるかのように扱われるので大変頭にくる。
母はいわゆる主語がない人だ。いきなり突拍子もなく「何日だっけ?」なんてのは当たり前で、こちらが主語を探す会話スタイルが基本。
さらに、おそらくだが、母は「家族相手なら多少適当に喋っても話が通じる」と思っている。
この2つが組み合わさった結果、「母の中ではごく普通の言葉だが、出力結果が主語も述語もめちゃくちゃで何を指しているかわからないため会話にならない」からの「こちらは困惑、母も『なんでこいつにはこの程度のこともわからないんだ?』と困惑」という状況になる。
前者はスルーするなりあとから同じことをもう一度話すなりすればいいものの、後者をぶちかまされたときはこみ上げる苛立ちを抑え込むので精一杯だ。
後者のパターンで例に挙げた会話では、こちらは途中まで母の「だってリキュールでしょ?」という発言は「リキュールなんだから日本酒ってのはおかしくない?」という意味だと捉えて会話していたつもりだったが、どうやら違うようだというのがわかる。ここまではいいのだがじゃあ本当は何が言いたかったの?というのがわからない。「リキュールというお酒はいろんな材料をもとに作られるのだから、日本酒でできたリキュールもあるだろう?」ということならば二度目の否定は意味が通らなくなる。
しかしここで「つまり何が言いたいの?」は禁句だ。毎回黙りこみ、結局言葉の真意を聞き出せたことはなかった。
長年この謎と向き合い続け、こちらの理解不足がいけないのだろうと様々な思考や対策を行ってきたが、今はもうこのモードに入った母の言葉の真意を理解することは不可能だと諦め、「あーそうだね」で会話を強制終了させることにしている。
この方法のメリットはこちらの神経のすり減り方ががいくらかマシになることで、デメリットは母が不機嫌になることだ。おそらく母は母でこちらの「オメーの言ってること意味不明だからもう話すのやめるわ」という空気を感じ取っている。
ここまではこちらの言葉に対する母の返し方という内容だったが、では母からの言葉はどうなのかというと、ハッキリ言って母の話はクソつまらない。
母から振ってくる雑談の内容は、ここ半年程は、親戚の非常識夫婦に対する愚痴、仕事に対する愚痴、大好きなアイドルの話題のうちどれかだ。
前者2つはこちらもストレス発散になるならばとできるだけ聞く。個人的にこの非常識夫婦が大嫌いなのであまり聞きたくない。
問題なのはアイドルの話で、これが「テレビに出ていたのがカッコよかった」とか「今度発売されるCDが楽しみ」とかだったら話の広げ方、返し方も色々ある。「何の番組に出てたの?」とか「もう予約したの?」とか。
私はそのアイドルに全く興味がないし、そんな話をされても「見れば?」くらいしか返す言葉がない。
ここで、普段から母の方も私の話を聞いてくれて、会話を弾ませることができるのであればまた違うのだろうが、こちらからの言葉にはわざとかどうかは知らないが無視か会話ブッタ切り、会話が成り立ったかと思えば主語も述語もめちゃくちゃで、挙句の果てにこちらが悪いかのように決めつけてきて不機嫌になる。
母とはいえ、そんな相手のしてくる、興味もないどうでもいい話を積極的に聞けるのはもはや仏かなんかだろう。
こういった日常の積み重ねに加え、母のクソでかい独り言と足音や物音を聞いているだけで頭がおかしくなりそうなくらいイライラする。
可能な限り常にヘッドホンかイヤホンをして過ごし、可能な限り自然に母の声を無視して会話の発生を避けている。
仕事の都合上、母は私よりもかなり早く起きて出社していくのだが、聞くだけで今家の中のどのあたりにいるのか特定できるくらいデカい足音で歩き回るため、必ず起こされる。
母はかかと歩きだ。ドカドカとかダカダカという走り回るような足音ではなく、ドンッドンッという重く響く足音。
また、母の独り言に対し、話しかけられているのかと思って返事したら無視されたのでもう一度返事をしたら、「えっ?別に話しかけてないけど」ということがあったので、明確な呼びかけ以外は聞こえないふりをすることにした。
両親が建てた家に住み、両親の稼いだ金で飯を食う被扶養者の分際だが、両親が仕事に出かけて不在の時間が何よりも安らぎだ。
ここまで母を悪く書いておいてアレだが、一応母の名誉を守るために、今まで毎日私を見守り、何不自由ない生活を提供してくれた人だということは書き加えておく。
また、母から私に対しても「こいつのこういうところマジでムカつくわ」という点はたくさんあると思うので、別にイラっとするからと言って母を糾弾したり矯正させたりしようなんて考えはない。
阪神淡路大震災の時、住んでいるあたりの震度は確か2か3だった。
「起きた?」「いや寝てた」「信じらんねー」「高速倒れてるのビビったよなー」
みたいな能天気な会話をしたはずだ。
俺にはたまたま兵庫在住の親戚がいたので、震災の翌週末だったかな? お見舞いに行ったのだが、具体的に何駅だったか忘れたが、電車がギリ動いてた駅から親戚の家まで3時間とか歩いた。
歩く途中で見た瓦礫の山は流石に忘れられないし、親戚の家・家具にもそれなりの被害があって大変そうだったが、本人たちは元気だった。
あと、同学年で一人か二人、親戚がお亡くなりになったみたいな奴がいた気がする。
俺にとっての阪神淡路大震災とは、決して忘れることは無いが、その程度の思い出である。
恐らくだが、直接の家族・親戚がお亡くなりになったとか、あるいはもう働いていて関西支社・支店とか取引先がどうこうとかいうような人を除いて、大多数の愛知県民にとっての阪神淡路大震災ってこんなもんだと思う。
一方、東日本大震災はどうか。
確か震度3だったと記憶しているが、ちょうど仕事の休憩中で、取引先の営業マンと
「今のけっこう揺れましたよねー」
とか話していた。個人携帯を仕事中に見られる環境じゃなかったし、テレビもない場所だったから、まったく情報を把握していなかった。
夕方になって事務所に戻って、その時初めて「やべー地震だったんだ」と知った。
その後、主にニュースで流れたショッキングな映像の数々や原発関連のあれやこれやは、10年以上経ってもそれなりの生々しさと共に思い出される。
東北の支社が大変だけど素人が行ってどうこうできる状況じゃないから、まずは自分たちの職場で東北の分まで働こうみたいな訓示があったような。
既にTwitterとかはあったから東北在住の知り合いにカンパしたりした。いきなり連絡つかなくなって、多分お亡くなりになったのであろう知り合いもいた。
俺にとっての東日本大震災とは、決して忘れることはないが、その程度の思い出である。
今年、主に関東~東北方面の東日本大震災被災者にとって阪神淡路大震災はもう忘れられてるというか震災=東日本大震災みたいな投稿を何件か見た。
中部地方在住俺、どっちも忘れてないし被災された方はそれぞれ大変だったよなあと思うのだが、身の回りでどっちも大した被害もなく過ごしていたので、なんか微妙な感じ。
万が一にでも起きてほしくないが、南海トラフって生き残れた場合には、俺の中でも震災=南海トラフということになるのだろうか。
いや……まあ納得感はありますね。
減点部分が多くて加点部分がほとんどないので当然という気も。
とはいえIMDb4.5、平均☆2.2というのはかなりイカれた数値の低さがあり、基本的に「完全に見る価値なし」と同義なので言い過ぎな気もします。
大まかに減点部分を上げていくと
辺りですかね。
加点部分については
・豪華俳優陣がくだらないことしてるだけで面白い人には面白い?
・なんでもいいから色んなモノが馬鹿にされていれば楽しめる人には楽しい?
って所かと。
正直言ってこの映画、本来は加点部分になる所を自分で潰してる感じがするんですよ。
結局この映画でやりたかったのって「超常的な戦いの後始末を必死にやって結局企画倒れみたいに終わり続ける人間の力の小ささ」じゃないですか。
ギリギリまで頑張ってギリギリまで踏ん張ってピンチの連続をやっと人類が切り抜けたと思ったら、結局は超常的な力が全部解決したけどなんだったんだろう……っていうシュールさでしょう。
でも実際にはそこに徹することが出来ていなかったのが敗因だと思うんですよ。
特に不味かったなと思うのが、政治風刺の一環としてお馬鹿な政治家にお馬鹿なことを言わせて自分で自分のギャグに笑わせたりしたことですかね。
これの何が駄目って、「人間は人間なりに頑張ったはずなんだけどな……」っていうのが無くなっちゃう所です。
駄目な政治家がのさばっている駄目な日本っていうのをからかうっていうのは、一見すると一石二鳥で狙えそうなテーマなんですけど、それをやりすぎるとお互いに干渉しあって全部崩れてしまう。
もしも政治家がクソすぎて全部だめだって言うならもっと完全にダメダメな感じ、それこそサウスパークやシンプソンズのようなレベルじゃないと
そのレベルを実写でやってるのだと『26世紀青年(原題:Idiocracy)』の「農作物にゲータレードをかけて何故飢饉が起きるのかを延々と人類は悩んでいる」辺りでしょうか。
別に観客は「今の日本の政治家の駄目っぷりに皆で憤慨しようぜ」ってノリで来ているわけじゃないし、それをしたいなら「上辺だけは立派そうだけど実際には口先だけ」という感じでいかないと風刺にもなってないんじゃないかと。
そもそもそういう方向に舵を取らず、「人間が人間なりに全力を尽くした上で一進一退を続けるが結局上手くいかない」をやるのなら、「ウ◯コ……そうか……水洗便所は臭くない」を真顔で言っていたときのテンションでずっとやるべきでした。
実際、「銀杏の匂い」を本人たちは完全に大真面目にやっていたパートは結構面白かったなと皆感じていると思うんですよ。
こういった失敗は、なまじ有名俳優を使ったせいでテンションが上がってしまい、何となく思いついた「一流の人達に変なこと言わせたら面白くね?」の誘惑に負けた感じがあります。
あとは何度も撮り直せるような「程よい規模の小ささ」も生み出せなかったのかなと。
そもそもの原因としては「監督と脚本が同一人物」という権力の集中ですかね。
この映画の問題は正直、「脚本の出来の悪さ。コンセプトを捉えきれてなさ」に一点集中していると言っていいでしょう。
やりたいことに対して台詞回しが微妙におかしく、「絶妙な空気を作り出すことで内側から笑わせる」というスタンスなのに即物的なおかしさを狙ったせいで自分からその空気を壊しに行っている所が多々あります。
また、スタッフが監督に「これ面白くないよ」と言いにくい空気もあったんじゃないのかなとも感じます。
最後に組み合わせれば面白くなると信じていたが、どう組み替えてもつまらなかったのではという気もしますが。
せめてラストシーンだけでもズッコケ感なり感動感なりを出せればよかったんでしょうが、そこで半端に両方狙いに行ったのは本当まずかったかなと。
最後のシーンをシュールに仕上げるなら「御武運を」のカットは確実に不要ですし、もしも感動に持っていきたいなら政治家達は無言で圧倒される形にした方がよかったでしょう。
ある意味で最初から最後まで駄目な所が一貫していた映画とも言えるんですけどね。
この映画の何が駄目って、空想科学のテンプレートや日本の政治家・中高年をどうやって小馬鹿にしていくかについて、「マジメな顔で馬鹿なことをする」をメインにした上で、「とにかく品を悪くする」をサブで使ったことだと思うんですよ。
結局そのせいで「ハイテンポに挟まるしょぼい下品ジョークのせいで、メインであるはずのシュールさが台無しになっていく」を永遠と観客は見せられることになってしまった。
もしも下品をとことん徹底して全てをひたすらくだらない話として描いていれば、そこに偶然シュールな真面目さが自然と加わったりしていい塩梅だったのかもなと。
映画って結局の所、コンセプトや空気、世界観を観客に食わせるコンテンツなわけで、そこにおいて方向性を誤ったまま最初から最後まで行くと厳しいなとつくづく思わせる作品でした。
本当に「惜しかった」と思いますが、同時に「惜しかったで擁護できるのはポテンシャルだけであって、客に生焼けのモン食わせたら文句言われるのは当たり前だろ」とも感じてしまいます。
まあ……私も☆1か2か入れて終わりにしようかと思います。
迷いますねー。
おそらくだが本人の世界では「キモいは一般的な言葉」担ってるんだと思う。
なぜなら人生の多くの場面で自分が投げかけられてきた言葉だから。
もしもそれが「極めて高レベルの侮辱」なのだとしたら、そのキモイ人にとっての人生が「あらゆる場面で高レベルの侮辱をかけられヘラヘラ笑っていた人生」であることになってしまうから。
だから彼らは「キモいぐらい大したことがないよね」と自分に言い聞かせるためにも積極的にキモいを使いがちになる。
だけどそれって悪循環でしか無くて、自分がキモいのにしょっちゅうキモいを使ってたら他人も「じゃあもうコイツにキモいっていうの我慢するのやめよ」とキモいのハードルが下がることになる。
ソレに対して周囲の人が「キモいって言われすぎだよ。事実だとしても」と助けてくれることもなく、「他人にキモい連呼してるんだから自分が言われても仕方ないよねあの人は」になってしまう。
本当にメリットがない。
「キモい」を自分が口にしないようにすれば、自分と周囲の関係性の中で「キモいを口にする奴はカス」「キモいと言われてる人が可愛そう」という空気が産まれていく。
その世界では実際にキモい人でもキモいと言われにくくなるし、キモいと言われたときも「流石に言いすぎでしょ」と味方が増えやすくなる。
だけど実際に、キモい人は「キモい」が大したことでないという自己暗示をかけるのに一杯一杯になりつい気軽にキモいを言ってしまう。
過去の罪を認められないセクハラオヤジが必死に「これぐらいセクハラじゃないよね」とセクハラを余計に繰り返して最後には捕まるかのように。
バイアスに踊らされるな。
キモいを言われがちな側が「キモい」を使うのはメリットがないから止めた方がいい。
「キモいとか最低の人間が使う言葉だよね」を周りの人間の口から言わせるようになんとか誘導できないかを工夫しろ。
思いつかないなら自分で言え。
小中学校の教室ではそれをやると自己弁護に必死な自浄作用のないキモい人になるが、社会人になればただ事実を述べているだけで終わる。
キモい人は頼むから「キモい」を使わないでくれ、周囲が守ってやることが出来なくなるから。
キモいのに必死に生きてるってのは凄いことだと思うので、出来れば助けてやりたいのに、そのお前が「キモい」をばら撒く側になってどうする。
落ち着け。
お前にだって「自分と他者の対人関係におけるルール」をある程度調整できる権利があるんだ。