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2024-07-25

臨終

都内病院看護師をしているものです。

先日、患者さんが病室で息を引き取りました。ご家族に囲まれながら、亡くなりました。

五三歳の男性で、末期の大腸がんでした。

入院中、ご家族はよくお見舞いに来られていました。男性独身だったようで、お見舞いに来るのは高齢のご両親と、ご兄弟、それに親戚らしき中年の方も数人お見えになっていました。

病室からはよく、励ましの声が聞こえました。

「まだまにあうよ」

「はやくおうちにかえろう」

「こんなところでしぬのはゆるさない」

当然、ご家族男性の命が残り少ないことはご存知だったと思います

それでも、賢明に語りかけていました。

男性精神的に不安定だったのか、「帰らんと言ってるだろ!」と何度か怒鳴っていたのを憶えています

「もう、放っておいてくれ」とも言っていました。

しかし、ご家族訪問を止めることはありませんでした。

いよいよという頃になると、ご家族男性を家に帰したいと、医師相談するようになりました。

ところが、本人が頑なにそれを拒んだのです。

あいつらの言うことは絶対に聞かないでくれ」

先生には、そう強く訴えていたそうです。

ご臨終の日。

男性家族に囲まれながら、ベッドに横たわっていました。

かろうじて息をしている状態で、既に会話は無理でした。

病室には、ご家族だけを残して、最後時間を過ごしていただきました。

たまたまわたしが病室の前にいたときです。

病室からこんな声がしました。

「まにあわなかった」

「このできそこない」

「こんなはずかしいしにかたしよって」

「せっかく、おのぼりさんになれたのに」

ぺッと音が聞こえました。

後になってご遺体確認したところ、お顔に唾のようなものがかかっていました。

あのときわたしはこの人達に関わってはダメだと、そう思いました。

2024-07-22

1歳児入院記録

夏風邪をこじらせて肺炎になった我が子の入院に付き添ったので備忘録を兼ねて

夫は激務で毎日平日はワンオペなので今回の入院でも影は全くありません。一応聞いたけど急に休めない仕事らしい。仕方ない。

一週間だったので私と私の母で何とかなったけど、これが2週間3週間と続くようならさすがに夫にも代わってもらっていたと思う。

今は元気に家中ハイハイで練り歩いているから、もうなんでもいいや~。のきもち

入院前5日間

水曜日、なんとなく朝から顔がぽやんとしていたので、いつでも迎えに行けるように在宅ワークに切り替えていたところ、案の定14時ごろに電話でお呼び出し。

迎えに行ったところ、クラスRSウイルス罹患している子が出たと教えてもらい、その足で小児科へ。

のどに水泡ができていたらしく、このまま手足にもぶつぶつが出れば手足口病、出なければヘルパンギーナだろうとの診断を受ける。

保育園に連絡すると、感染病の場合、しっかり病名を診断されないと通園許可を出せないので、もう一度受診して確定診断をもらうよう要請される。

薬をもらったのでいったん自宅で看病。

月曜日自分の咳で目覚めてしまうほど咳がひどくなってきたので、再度受診を決意。(ヘルパンギーナ手足口病の割には熱が長引いており(この時点で5日目)、ご飯もパクパク食べていたので、正直RSウイルスの誤診ではないのか?という疑いをかけはじめる)

入院1日目(月曜日)

準かかりつけだった総合病院小児科受診したところ、このころにはのどに水疱は見当たらなく、聴診器ゼロゼロ音を確認したため、CT採血

RSからコロナインフルあらゆる感染症の検査をするもののすべて陰性、肺が白くなっていたため、夏風邪をこじらせた形での肺炎と診断。即日で入院の案内を受ける。

10歳までは24時間付き添い入院を推奨とのことで、着の身着のままで病室へ。小児病棟のないほぼジジババだけの総合病院だったため、病院都合での特別室への入院となる。

ぐるぐる巻きにされての採血や点滴処置より子供が泣き疲れてぐったりしており、熱も一気に上がって39度に。かわいそうで涙が出てくる。(小児科医をはじめ医療従事者の皆さんありがとうございます!)

熱でのぐずぐず、また慣れない環境に完全に抱っこマンになってしまい、寝ていない時間はすべてヒップシートで抱っこしたまま縦横にゆらゆら揺れ続ける私。(最終日まで抱っこマンは治らず、24時間10時間抱き続けることになります

取り急ぎ私の母に病院へ来てもらい、入院準備のため交代で帰宅。めぼしいものをすべて積み込んで夜逃げのような大荷物を抱えながら再度病院へ。

看護師さんに聴診器を当てられるのも鼻を吸われるのもすべて嫌なようで、先生看護師さんを見るとフニフニ泣くようになってしまった。

また私と看護師の間で話がすれ違う。吸引してほしい、という要望が私は鼻水の吸引、看護師さんたちは喘息の薬を白い煙にして吸うやつやつ?になっていて、初日からずっと「鼻水が詰まってそうなのが気にかかるので吸引をしていただきたいのですが…」と伝えるもののなかなか噛み合わず…結果この日は鼻水を吸ってもらうことはなかった。この白いやつ吸い終わったらしてもらうのかな?と思っていたらされず、もしかして吸引器自体病院にないのかも?と母親に家の吸引器を持ってきてもらうように連絡。

もっとうまく伝えられたら…と今でも反省している。

結局この日は熱が下がらないまま就寝時間へ。

深夜3時ごろに酸素濃度が一時80台まで下がり酸素マスクをつけることになる。

入院2日目(火曜日)

酸素が安定してきたのでマスクは外す。というより子供用マスクも小さすぎて全然嵌っていなかった。まぁパルスオキシメーターでの酸素濃度をずっとナースセンターでチェックしてもらっていたので、来なかったということは安定していたのだろうと認識している。

比較的ご機嫌ではあるものの熱は変わらず38度~39度をいったりきたり。

また、両耳が中耳炎になっていた。鼻水が耳に行っちゃったね…本当に申し訳ない…。母親にお願いして家から持ってきてもらった電動鼻水吸引器で吸いまくる。

しかし午後の体温チェック時に初めてお会いしたベテラン看護師さん(のちに師長さんと分かった)の「あら~!?鼻水すごいわね!お母さんこれ吸い出したほうがいいわ!」という一声で鼻水吸引の処置をしてもらえることに。あんのか~い!!!!!

でもオリーブ吸引管?という鼻に充てるガラスでできた先っちょ部分が死ぬほどでっかい普段小児科で吸ってもらうやつの3倍くらいある。もしかして本来はジジババののどの痰吸引のやつか?当然赤ちゃんの鼻の穴より先がでかいので取りにくそうで、看護師さんが数多挑戦していってくれたが結局最後まで師長さんくらいしかまともに扱えなかった。なんだか申し訳ないのでこっそり一人で羽交い絞めにしつつ自宅の鼻水吸引器でいつも通り吸引。

この辺、小児科病棟があるタイプ病棟ならもう少し疎通ができて器具もしっかりあったんだろうな~と思う。

入院3日目(木曜日)

急に平熱に下がる!入院からつけっぱなしの抗生剤の点滴がうまく体に入って行ってくれたようだ。

本人も比較的元気そうだった。その分点滴のチューブの届く範囲しか動けないのが窮屈らしく何度も「ん!ん!」と包帯で巻かれた点滴針を指さしていた。取ってほしいんだよね、わかるよ…。

今まで家じゅうハイハイで歩き回っていて、アンパンマンカーにつかまり立ちでよちよち歩いていた子の活動範囲がベッド内だけというのはそりゃしんどいよね。

この日は起きている間はとにかくお菓子をモリモリ食べて抱っこしてゆらゆら揺れ続けていた。

また、病院離乳食が口に合わないのかほぼ食べず。結局健康になってきても退院日でもあんまり食べてくれなかったな…。今家ではモリモリ食べてるんだけど…

入院4日目(木曜日)

平熱のまま。

点滴は今日までは続けることに。これで様子を見て明日退院OKとのことに。4日ぶりに娘がお風呂にも入れるとのことで、私がルンルンになる。無造作ごはんに手を突っ込んだりしてだいぶ汚れていて、娘の包帯のところから酸っぱいにおいがしていて抱っこしていたら地味にきつかったのでうれしい。

朝の抗生剤の投与以降に防水シートを張って看護師さん2人と3人体制シャワーへ。結局ビッチョビチョになって点滴は外した。これ以降飲み薬での抗生剤に変更。

また、病棟一定の箇所までは歩いてもいいとのことで、(禁止部分からコロナ等の感染病室になるらしい)ぐるぐるとひたすら散歩をする。

部屋に飽きているのか5分に一回ドアを指さされるのでそのたびに散歩タイムに。

入院5日目(金曜日)

退院

中耳炎はまだ治っていないとのことで、追加で抗生剤を処方してもらい、退院

血液検査の結果全く異状なしで、明日まで自宅で安静にしていたら来週の月曜から保育園に行って大丈夫らしい。

本当におめでとう!

退院

さすがに有給もきついので、お医者さんのお墨付きもあって月曜から保育園へ行ったところ、2日くらい楽しく通園していたが3日目に鼻水が出て咳をするように。

結局その週は休んだので有給さえ余裕があれば次の週一週間くらい休んだほうがよかったなと思った。免疫力が下がってたのかな。

障害を持った人が感謝をしない理由

例えば駅員の補助などに対して、障害を持った人が御礼を言わないことについて、憤るポストを見た。

自分なら礼を言うのに」「助けて貰って何も思わないのか」「傲慢」「健常者を奴隷と思っている」などなど。

まず大前提として、障害を持っている人にも持っていない人にも、傲慢な人もいれば謙虚な人もいる。

全員が傲慢でも全員が謙虚でもない。その人は傲慢だったのかもしれない。

次に、一般的に、店員さんなどにしてもらったことについて、全てのことについてお礼を言うわけではない。

でなければ、誰もがお店などであらゆる行動についてお礼を言い続けることになるだろう。

普通、お礼を言うタイミングは限られる。特別感謝を表明したいと思う、もしくは表明するべきとされる場面だ。

さて、問題は、この「タイミング」についての認知が、障害を持つ人と持たない人で異なりうることだ。

障害を持たない人は、「障害への対応特別配慮=お礼を言うべき」という図式で考える。

それは例えば、自分たまたま病気怪我入院したとして、短い期間のみ車椅子に乗ったとしたら、

おそらくそれはその人にとって「特別状態」であり、お礼をいうタイミングになるだろう。

さて、一方で、障害を持っている人にとっては、それは「特別状態」ではない。

死ぬまで続く「通常の状態である

この時受ける対応は、「特別配慮であるのか、それとも「通常の配慮であるのか。

社会多様性障害を受け入れる、というとき、それは後者を指す。

特別配慮なのだから、お礼を言うべき」という時、その人は社会の「通常の状態から障害者を排除していることになる。

言い換えれば、「障害者に特別配慮する」は福祉社会第一段階で、「障害者への配慮特別なことではない」が第二段階だ。

おそらく今、日本社会は、第二段階へ移行しようとしている。だから軋轢が起きる。

第一段階の考え方で「自分障害者に優しい」と思っている人は、お礼を言わない障害者を見るとムッとする。

傲慢で、礼儀知らずな奴らだ」という考えになる。

一方障害を持った人は、第一段階で生きていくのは、配慮されたとして、なお苦しいだろう。

それは、常に社会に対して負債を負いながら生きていることになるからだ。

「お前は迷惑をかけている」と思われながら生きることになるからだ。

自分は、全ての人が第二段階の考え方を持てるわけではないと思うし、強制できるものでもないと思う。

だけど、自分がもしムッとしたら、そこにはこのような、「特別配慮をしてやったのになんだ」という

第一段階の意識がないかどうか、考えたいと思う。

2024-07-21

独身男性は早死するから目先の利益を追うべき

自分を含めて)独身男性は早死するので、将来をみじかく見据えた資産形成がひつようになる。

たとえば米株に集中投資する、年金を繰上げ受給するとかだ。

  

独身男性の早死には各国の研究証明されている。

たとえばデンマーク人口動態を調査した2023年の研究論文では下記のようなことが述べられている。

  

独身者は既婚者および同棲者よりも短命である

・この差は女性よりも男性のほうが顕著

・50歳時点の平均余命は、独身男性では24歳未満でぶっちぎりの1位

  

引用元

www.cambridge.org/core/journals/journal-of-demographic-economics/article/effect-of-marital-status-on-life-expectancy-is-cohabitation-as-protective-as-marriage/5B6B9B86C737AE3F095CF3781023F458

  

というより常識でかんがえればわかる。

孤独生活のすさんだジジイが早死にするのは不思議でもなんでもない。

しろ早く死んだほうが社会のためまである・・・

  

だが早死にはメリットもある。

  

老後の資産をそんなに貯めなくてもいいところだ。

独身だと生活費も安いし、配偶者に残す金もひつようない。

自宅で孤独死すれば入院費用もうかせられる。

  

老後2000万もいらないのはたしかだ。

  

先述の研究によると独身男性は74歳未満で死滅するので、

とりあえず70歳まで生きると仮定して必要資産計算してみよう。

  

まず年間の生活費を貧困線上の127万円とする。

想定しているのはボロアポートに住んでいる孤独でうすぎたないジジイだ。

こいつが60歳から70歳まで10年間生きるとすると、トータル1270万必要になる。

さら年金が月2万もらえるとすると、ここから240万マイナスした1030万になる。

  

この1030万をたとえば35から60歳までの25年間で貯めるのは

NISAをつかえばそう難しくない。(※)

  

(※)

35歳からとしているのは、独身で35超えると生涯未婚ほぼ確だから

60歳で引退するのは年金からみによる。

年金は10年受け取ると元がとれるので、65歳からうけとって70歳で死んだ場合受給期間は5年しかなく、損になる。

60代で死ぬケースだってじゅうぶん考えられる。

だったら60歳からうけとったほうがいいのでは・・・という理由

  

このように25年間だけ資産形成すればよく、その先は考えなくていい。

まり「超長期」ではなく「中長期」の利益だけとれればいい・・・

投信オールカントリーSP500どっちがいいか論争もこれで決着がつく。

  

遠い未来まで見据えている人はオールカントリーを選ぶといいだろうが、

未来のない独身男性は直近のリターンで勝っているSP500を選んだほうがいい。

  

この先25年以内なら米国が落ちぶれることはまずないと言えるし、

インドとかベトナムが台頭するまえにわれわれは死ぬのだ。安心していい。

  

投資自己判断で)

日本の全死亡者数の80%は入院中の死亡なの

高齢者入院した日には高額納税者から死んでいくの

看護師は知ったことではないというわ

でも誰も知らないのかしら

妊娠したけど籍入れたくない

理由は大きく3つ

彼氏に親としての責任感がない。健康について注意しても全く気をつかわない。

結婚報告のとき彼氏母親が「産んだあとに籍入れたら?制度的にも有利だし」とか無神経なこと言うので呆れた。

③「嫁入りする度胸」みたいなのを試されてて辟易してる。

詳細な理由としては

①は正直私がつわりで苦しんでるのに「俺も体調悪い」と被せて言ってくるので全く頼れない。自分の非を認めて謝ることができない。彼が2徹明けで長距離ドライブしようとしてたので注意したら逆ギレされた

②はもう結婚前提で話進めてるって彼の両親に話をしたときに言われたので出鼻挫かれたのもそうだし、義母自分はちゃっかり籍入れて産んでおいて私には籍は後回しで国の制度頼れって、は?って思った。そのくせ生まれたあとに義父母の家にベビーベッド置くとか保育園の送り迎えば義父がするとか言ってて、え?お前らのために産むんじゃないんだけど?????と思ったのでなんか気色わるって思った

③は義父母揃ってうちに来すぎるのと、その度に「⚫︎⚫︎家に嫁ぐということは〜」みたいなありがたい話聞かされるのがもう耳障りでこんな親だからバツついたんじゃねーの?という本音がある。

この不要不毛な3イベント乗り切ってまで彼と籍入れたいか

と天秤にかけたときに、いえいえ間に合ってますって思ったのと、

しろ下手に籍入れて子供に毒義父母との距離を近くさせるほうが精神衛生に悪そう〜

って思ったら籍入れるの嫌になってきた。

そういや義父経由で「お前(私)のところは父は早死にだし母は入院してるしで遺伝子的に劣ってるんだから、それを義母は気にしてるんだぞ」って言われたことがあって、お前らはお前らで希死念慮ミチミチの発達障害2人も産んでおいて何言ってんだ???とも思った。

どうやって結婚断ろうか?

2024-07-20

anond:20240720064514

ワイのとーちゃん入院した時、同室になった人は「黄門」さんやったで。

かーちゃんが、あの人、若い時は名前で苦労したこともあったんやろうなぁって、

しみじみ言ってたのが今でも記憶に残ってる。

2024-07-18

anond:20240718124308

入院でベッド占有して回転率悪いことが待ち行列伸びる要因だから

待ちの期間を挙げて人気であることを示すのは詭弁ぎみ

  ドンペンドンキホーテのマスコットキャラクターであるペンギン)は、平成10年のドンキホーテの新規開店に伴い、驚安の殿堂ドン・キホーテに置いてあるような商品があると

 お母さんやお祖母さんを喜ばせることができるのではないかとして、市議会議員の木内満の40歳同窓生が当時作ったものです。発案者は、黒羽刑務所内で、平成25年6月19日に

 亡くなりました。

   また、発案者の愛犬ぺちは、令和6年6月14日午前1時15分に、癌のため息を引き取りました。1月16日頃から、自宅で、今日もう無理です、苦しいですと言い始めたので

 入院させていたところ亡くなりました。

進行した認知症患者誤嚥肺炎とは延期可能老衰である

誤嚥肺炎という病気がある。

ガイドラインでは、誤嚥リスクのある宿主に生じる肺炎、と定義される。

そのうち最も多くを占めるのは高齢かつ進行した認知症患者発症する誤嚥肺炎である

内科救急で最も多く経験する疾患で、入院で受け持つ頻度もかなり高い。

特異なことに、最も多く接する疾患の一つでありながら、専門家存在しない。

肺炎から呼吸器なのかといえば、呼吸器内科医は認知症への対応は専門ではない。

精神科認知症診療業務範囲に含まれるが、身体疾患が不得手である

神経内科医は嚥下認知症を専門領域の一つとするが、絶対数が少なく、専門領域が細分化されている。

そんなわけで多くの場合内科医が手分けして診療することになる。

そういうわけだから誤嚥肺炎に対する統一的な見解はない。ガイドライン2013年から更新されていない。また誤嚥肺炎に関する文献や書籍はあるし、質の良いもの出版されているが、多くは診断、治療、予防に重きを置く。価値観に深く踏み込んだもの殆どみない。患者自身が何を体験しているか推定している文章殆ど読んだことがない。

病状説明も僕が研修医でほかの様々な医師説明を聞いても、肺炎です、誤嚥が原因です、抗菌薬で治療します。改善しないこともありますし、急変することもあります、といった通り一遍説明以上のことを聞いたことは殆どなかった。

当然ながら国家試験の出題範囲にも入っていなかった。

もっともよく経験する疾患でありながら、どうするべきかの具体的な方針大学教育でも研修医教育でも提供されないのだ。

にもかかわらず、認知症患者誤嚥肺炎は最も多い入院かつ、その患者入院期間が長い傾向にある。入手可能データだとおおよそ一か月の入院となる。死亡退院率はおよそ15-20%で、肺炎としては非常に高い。疫学については良いデータがないが、専門病院などに勤務していなければ、受け持ち患者のうち5人から10人に1人くらいは誤嚥肺炎が関連している印象がある。

誤嚥肺炎は、進行した認知症患者ほど起こしやすい。そして、誤嚥肺炎を起こすことでさら認知機能が低下する。しばしば経口摂取が難しくなる。そして自宅や施設退院することが難しくなり、転院を試みることになる。

転院待ちのためにさら入院期間が延びる。

典型的には進行した認知症を背景に発症するので、意思決定を本人が行うことができない。患者施設入居者であることも多く、施設職員がまず来院する。その後家族が来院して、話をする。肺炎であるから治療可能な疾患の前提で話が進む。進行した認知症治療不可能な疾患があることは意識されない。

ここでは、進行した認知症、つまり意思決定能力があるとは考えられない患者、今自分がどこにいて、周りの人がだれであって、自分の状況がどうであるかを理解できないほどに進行した認知症患者、と前提する。

退院してもらうための手段、という意味では治療は洗練されてきている。口腔ケアを行い、抗菌薬を点滴する。嚥下訓練を含めたリハビリテーションを行い、食事を早期から開始し、食形態誤嚥しづらいものに変える。点滴を早期に切り上げて、せん妄リスクを減らす、適切な栄養療法を併用して低栄養を防ぐ…。

そういったことを組み合わせると、退院できる可能性は高まる身体機能食事を再開できないレベルまで低下することはあまりない。

しかしそこまでして退院した患者は、以前の身体機能認知機能を取り戻すわけではなく、少し誤嚥肺炎を起こしやすくなり、活動制限がかかり、介護をより多く要するようになり、認知機能さらに低下して退院していく。

から人によっては一か月とか半年後に誤嚥肺炎を再び発症する。

家族医師は以前と似たようなものだと考えている。同じような治療が行われる。

そこに本人の意思はない。本人の体験がどうなのかを、知ることはできない。

というか、進行した認知症で、ぼくらと同じような時間感覚があるのだろうか。

本人にとって長生きすることの体験価値があるのか、ないのかも知ることは難しい。

 というのは逃げなんじゃないか

状況認識ができなければ、そこにあるのは時間感覚のない快・不快感覚だけではないか。だとすればその時間を引き延ばし、多くの場合苦痛のほうが多い時間を過ごすことにどれほどの意味があるんだろうか。

なぜ苦痛のほうが多いかといえば、状況を理解できない中で食形態がとろみ食になり(これは美味とは言えない)薬を定期的に内服させられ(薬はにがい上、内服薬をへらすという配慮がとられることはめったにない)、点滴を刺され、リハビリをさせられ(見当識障害されている場合、知らない人に体を触られ、勝手に動かされる)、褥瘡予防のための体位変換をさせられ、せん妄を起こせば身体拘束をされ、悪くすると経鼻胃管を挿入される(鼻に管を入れられるのは、快適な経験ではない)

どちらかといえば不快であるこれらの医療行為は、治療という名目で行われる。

この治療は、肺炎治療するという名目の元に正当化される。

多くの医師は疑問を抱かずに治療する。治療される側も、特にそれに異をとなえることはしない。異を唱えるだけの語彙は失われている。

仮に唱えたとしても、それはせん妄認知症悪化としてとらえられてしまう。

老衰過程が長引く苦しみがあり、その大半が医療によって提供されているとは考えない。

 ここで認知症というのは単なる物忘れではないことを説明しておく。それはゆっくりと進行する神経変性疾患で、当初は認知機能、つまり物忘れが問題になることが多いが、長期的には歩く能力、座る能力食事する能力が失われ、昏睡状態となり最終的には死に至る疾患である

 多くの内科医はこの最後の段階を理解していない。肺炎入院したとき認知機能について評価されることは稀だ。

実際には、その人の生活にどれだけの介護必要で、どのくらいの言葉を喋るか、笑顔を見せることがあるか、そうしたことを聞けばよいだけなのだけど。

進行した認知症入院するのがどのような体験か、考慮されることはめったにない。

 訴えられるかもしれないという恐れの中で、誤嚥リスクを減らし、肺炎治療するべく、様々な医療行為が行われる。身体が衰弱していくプロセスが、治療によって延長される。

 医療において、患者権利尊重されるようになってきた。僕らは癌の治療を中断することができる。良い外科医を探すべく紹介状を書いてもらうこともできる。いくつかの治療法を考慮し、最も良いであろうと考える治療選択することもできる。

 しか患者自身認知機能を高度に障害されてしまった場合はそうではない。医師が何を希望するかを聞いても、答えてくれることはないし、答えてくれたとしても、状況を理解できないほどに認知機能が損なわれている場合は、状況を踏まえた回答はできない。

 そこで「もし患者さん本人が元気だった時に、このような状況をどうだったと考えると思いますか」と聞くこともある。(これは滅多に行われることはない。単に、どんな治療希望しますか、と聞くだけだ。悪くすると、人工呼吸器を希望しますか、心臓マッサージ希望しますか、と聞かれるだけだ。それが何を引き起こすかは説明されずに)

しか問題があって、認知症が進行するほどに高齢患者家族もまた、高齢であって、状況を適切に理解できないことも多い。また、記憶力に問題があることもしばしばあって、その場合は話し合いのたびに最初から話をしなければならない。このような状況は、人生会議の条件を満たしていない。もしタイムマシンがあれば、5年前に遡れば人生会議ができたかもしれない。

 親類がいればよいが、これからの世の中では親類が見つかりづらかったり、その親類も疎遠であったり、高齢であったりすることも多いだろう。

 そうした中では、理解が難しい場合も、状況を理解して改善しようという熱意に乏しい場合も、(本人の姉の息子がどのように熱意を持てるだろうか)、そして何より、医師が状況を正確に理解し彼の体験想像しながら話す場合も、めったにない。

 意思決定において、話し合いは重要視されるが、その話し合いの条件が少子高齢化によって崩されつつあるのだ。

 無益治療、という概念がある。

「同じ治療をしても100回に1回も成功しないであると推定されること」

「その治療を行っても、急性期病院から退院できないこと」

この二つを満たすことが無益治療定義である。この概念提唱した、ローレンス・J・シュナイダーマンと、ナンシー・S・ジェッカーは、脳が不可逆的に障害された患者対象としている。

彼らはいかなる経験をすることもないから、治療による利益を得ることもない、だから無益治療倫理的に行うべきではなく、施設ごとにその基準を明示するべきだ、というのが彼らの主張である

高度に進行した認知症患者誤嚥肺炎治療は、厳密な意味での無益治療ではない。彼らは何かを体験する能力があるし、半分以上は自宅や施設に帰るだろう。自宅や施設では何らかの体験ができる。体験を感じる能力も恐らく完全には損なわれていないだろう。

この完全ではない点が、倫理的な空白を作り出す。

痴呆から認知症/物忘れと名前が変化したことは一因だろう。

そこで死に至る疾患である印象が失われた。

専門家の不在は、価値の普及を妨げた。病状説明の型がある程度固まっていれば、それがどのような形であれ、専門家集団によって修正され得ただろう。ガイドラインは不十分である医療ガイドラインエビデンスのまとめと指針である。つまり誤嚥肺炎の診断・治療・予防であり、その価値に関する判断はしばしば言及されない。ガイドラインはないにしても、診断・治療・予防に関して役立つ本はある。ただ、価値踏み込む場合も、基本的にはできる限り治療するにはどうすればよいか、という観点である

人生の最終段階における医療ケアの決定プロセスに関するガイドライン人生の最終段階における医療ケアに関するガイドライン存在するが、そもそも高度な認知症合併した誤嚥肺炎が、人生の最終段階と解釈されることはめったにない。だからこのガイドラインを用いた話し合いができることは少ない。また、多くの医師は、押し付けられた仕事認識していることから、じっくりと時間をとって家族と話をすることはなかなか期待できそうにない。多忙であればなおさらである

さらに状況が不利なのは、個々の病院Key performance indexは、病床利用率であることだ。

認知症患者誤嚥肺炎は、しばしば酸素必要とし、時に昇圧剤やモニター管理を要するなど重症であることが多く、入院期間が長くなる。そのため、看護必要度を取りやすい。多くの病院は、その地域病院が不可欠であることを示す必要がある。不可欠であることの証明に病床利用率と、看護必要度使用される。そのため、誤嚥肺炎患者を引き受けない理由はない。救急車の使用率も高く、数値上は確かに重症であるので、病院経営上は受け入れておきたい。

 介護施設に入所した場合は、誤嚥肺炎の死亡で敗訴し、2-3000万円の支払いを命じられる訴訟複数あることもあって、搬送しないという選択肢は難しいだろう。

 介護施設から搬送された患者誤嚥肺炎であることは多い。その一方で、こういった場合家族が十分な話し合いの時間を割けないことが多い。片手間でやっている医師も、長い時間をかけて説明したくはないので、お互いの利益が一致して肺炎治療が行われる。

 一方、最近増えている訪問診療は、誤嚥肺炎治療を内服で行うとか、そもそも治療を行わないという選択肢を提案できる場である。そこには期待が持てる部分もある。定期的な訪問診療でそうした話がしっかりできるかといえば難しいが、可能性はある。ただ、訪問診療医になるまでに、誤嚥肺炎に関する専門的なトレーニングを受けるわけではない点が問題になる。しかし家での看取り、という手段を持てるのは大きいだろう。

 

訪問診療を除けば、医療の側からこの状況を改善することは殆ど不可能なように思える。

 病院経営構造施設訴訟回避医師不勉強説明不足、そしてEBM患者中心の医療を上っ面で理解したが故の価値という基準の不在、めんどうごとを避けたい気持ち多忙さ、患者自身自己権利利益を主張できないこと、家族意思決定能力の乏しさや意欲の乏しさ、こうした問題が重なりあって、解決は難しいように思える。

現在誤嚥肺炎入院担当する主な職種である内科医は、糖尿病外来診療を主たる業務とする内分泌代謝内科という例外を除いて、減少しつつある。

専門医制度煩雑になったからというのもあるが、ぼくは少なから認知症高齢者の誤嚥肺炎診療したくないから、希望者が減っているのだと思っている。確かに診療をしていると、俺は何をやっているのだろうか。この治療に何か意味があるのだろうか、と考えることがあった。同じようなことを考えている医師は少なからずいる。露悪的なツイートをしている。しか構造上の問題点について踏み込むことはそこまでない。

僕は構造的な問題だと思っていて、だからこういう文章を書いているわけだ。

進行した認知症患者誤嚥肺炎とは延期可能老衰である、という共通認識が広がれば、状況は変化してくるかもしれない。事実認知機能が低下していない高齢者で、延命希望しない方は多い。その延命意味は具体的に聞けば、かなりしっかりと教えて頂ける。

誤嚥肺炎診療は、所謂延命解釈することが可能範疇に入ると僕は考えている。

後期高齢者医療自己負担額一割と、高額療養費の高齢優遇の組み合わせを廃止することや、診療報酬改定によって、誤嚥肺炎入院加療の色々なインセンティブを調整することで、否応なしに価値が変化するかもしれない。そういうやり方をした場合、かなりの亀裂が生まれる気もするけど。

2024-07-17

突発自炊おばさんの調味料は4つだけ!

実家寄生しているタイプのこどおば、一人暮らしもせずだらだら実家暮らしてたら気付いたら親が高齢者。で、外で転んで骨折して入院。事前準備なしに自炊生活突入

増田スキルは米が炊けて味噌汁作れて枝豆茹でられるけど肉の調理レシピ必要レベル

冷蔵庫に肉や野菜買い溜めてあってなんとかする必要があり、とりあえず冷蔵庫の中身を確認しつつ1年以上の住民にご退去いただくなどで使い方の分からん肉を冷凍庫移住させることに成功、親の退院まで問題を先送りする。

宅食(※最重要)を頼みつつ、冷凍庫行きにできない食材……使いかけや食べ残し野菜などをなんとかするにあたり少し自炊した。

プロ料理増田がなんか言っていたが、急場(1ヶ月強)を凌ぐのに増田が使った調味料は4種類。

1.塩

野菜茹でたり枝豆茹でたりマグロ解凍したり。ほうれん草小松菜ブロッコリーアスパラはとりあえず茹でて食う。

2.油

フライパンと相入れないものの、どうしても肉の調理が発生するので炒め物するために油。我が家にあるのはサラダ油だった。テフロン加工? 知らん、多分ハゲてる

3.味の素ほんだし

→だし巻き卵風のなにかが作れるプラ容器のやつ作るのに必要。あと我が家味噌はだし入ってないタイプなので別で入れる必要がある

4.コンソメキューブ

脳死で作れる唯一の手持ちレシピ、鍋にカット野菜(八宝菜用がおすすめ)とコンソメキューブ2つ入れて水ヒタヒタにして沸かしたら終わり、な野菜スープ調味料。唯一の手持ちレシピというのは『親が二泊三日でお出掛け』『親が体調不良』みたいなとき何度でも縋りつく依存レシピなので常備必須だが、世間一般として常備すべきかと問われれば疑問。ヒガシマルうどんスープの粉常備してる人とカテゴリ的には同じだと思う

おまけ。なくても大丈夫だが、ある方が自分に優しい調味料:5.醤油・6.マヨネーズ

→主に味のない食材にかけて食べる。醤油はおかずが思ったより味薄かったりした時にもかけるとなんとかしてくれるスーパーマンマヨ生野菜を食う時に虚無(-_-)から美味しい(;ω;)にレベル上げしてくれる救世主

おまけ2。砂糖は実は使ったんだけど、パン作りに使ったので調味料というよりは材料。突発自炊としてはなくていける。パン自分普段はなんでもいいんだけど、親はショートニング嫌いなので退院直前のみホームベーカリーを稼働させた。バターバカ高くてビックリした

anond:20240717170404

あー同意書とか入院関係は兄が一緒に手続きしたんだが、そこで説明されてるかも。

きっと無理だな、ありがとう、少し諦めがついた

anond:20240717165317

横だけど

入院中に他の医者に診てもらうってどうやって?

便器セーラー服入れられたことある

2014年出来事なんだけど、

母親認知症ボケてとき、私が学校で着てるセーラー服便器に突っ込まれたことがある

確かその日は父親と私で用事に出かけてて、帰ってきたらトイレのドアが開きっぱなしになってた

あれ?って思ってトイレの中を見たらお母さんが床に膝立ちで便器に向かい合ってて

手を直接突っ込んで、便器の中でセーラー服をぐるぐる回してた 洗濯機みたいに

お父さんがおい、おいって声かけても最初全然気付かなくて、

一心不乱に便器の中をかき混ぜてた

すごい勢いでやってるから床も水浸しになってて、廊下も水がはねてびしょびしょになっててさ

お父さんに思いっきり肩を引っ張られて、やっと我にかえってた?かな

こっちを振り返ったお母さんはなんかきょとんとしてて、寝起きみたいな顔だった

私はただただ怖くて泣きだしてた

(なんで泣いたんだろう お母さんがとうとうボケてしまったんだと実感して辛かったのと、大事制服が汚れてしまって嫌だったからかな多分)

ちょうどその日は修学旅行の前日で

その出来事があまりにもショック過ぎて、翌日も全然気持ちが晴れなくて結局修学旅行を休んだ

普段はズル休みとか絶対さなタイプ父親だったけど、そのときは休んでいいぞって言ってくれた

制服は洗って着る気にならなかったからもう一回制服屋で新しいのを買ってもらった

結局母はそのまま認知症が進んで、

その半年後くらいに近所の病院入院した

せん妄が酷いか病院の人にも沢山迷惑をかけたことだろうと思う

でも家で父が介護するのはもう限界だったし、介護に参加してない私もキツかった

学校から帰ってきて玄関開けたら汚物のにおいがして、お父さんが寝室で怒鳴ってて

友達は皆彼氏デートしたりしてるのに私はなんでこんなに毎日トイレのことばっかり考えてるんだ?と嫌になった

正直、「早く施設に入ってくれ」と思ってた

亡くなる数年前からはもう寝たきりで、亡くなったのが今年

2014年から2024年まで10年間ずっとボケてたことになる

私が生まれたのは1999年

母が体調を崩したのは私が小1ぐらいのときからから

私が元気な母と過ごした期間は7年ちょっとしかないらしい 短い

お父さんやお兄ちゃんは元気な頃のお母さんの話をよくするけど

私はそんなお母さん知らないんだよなあ

体力満タンのお母さんにもっと会いたかった

2024-07-16

anond:20240716075153

個人差が大きい気もするなー

増田お嬢さん、授業中にいじくるなら本人の視界に入らないシニヨン(団子)とか編み込みの一つに束ねたやつ(顔の前に回り込みにくい)とかどうだろう

 

自分幼稚園から今までずっとロング

毎朝母にスーパーハードスタイリング剤と太いヘアゴムで、ガッチリしたポニーテールにされており、風呂前まで解くという発想がなかった

 

そして、風呂上がりや外出予定のない休日も必ず一つに結んでおくこと

家の中で落ちた髪は自分で拾って捨てること

風呂排水口の掃除をかなり厳しく躾けられてた

髪をおろすのはお出かけとか発表会とかの特別な日のみ

 

小学校低学年の頃に母が1ヶ月くらい入院したの機に髪のことは全部自分でやるようになった

増田の言うような「汚らしいボサボサロング」(の子はやはり散見された)は当時の自分の美意識でも許せなかったので、スタイリングツールを駆使して自分にもできるツーテールおさげにしていた

ヘアケア過去の母や雑誌新聞の身だしなみ系記事から学んでるし、自分で言うのもアレだが人より器用で空間認識能力に長けてるので、それほど苦労しなかった

2024-07-15

anond:20240715020740

ニューヨークタイムズ

https://www.nytimes.com/2024/04/09/health/europe-transgender-youth-hormone-treatments.html

ヨーロッパ5カ国は最近性別に悩みを抱える青少年に対するホルモン治療制限した。

英国の今回の変更は、独立した小児科であるヒラリー・キャス博士火曜日夕方に発表した4年間のレビューによるものである。「ほとんどの若者にとって、医学的な治療法は性別に関連した苦痛管理する最良の方法ではない」と報告書結論づけた。医学雑誌掲載された関連論説の中で、キャス博士は、若者ジェンダー治療有益であるという証拠は "不安定な基礎の上に成り立っている "と述べた。

NHSは今後、臨床研究登録された患者を除いて、思春期を阻害する薬を提供しない。そして報告書は、テストステロンエストロゲンのような永久的な身体的変化を促すホルモンは、"細心の注意 "をもって未成年に処方するよう勧告した。

英国の動きは、北欧におけるより広範なシフトの一部であり、保健当局は近年、思春期性別治療需要が急増していることに懸念を抱いている。

12月ノルウェー地方保健当局は、青少年性別医療を「試験中の治療」に指定し、臨床試験に参加している青少年にのホルモン剤が処方されることになった。デンマークでは、今年最終決定される新ガイドラインにより、ホルモン治療幼児期から性別違和を経験したトランスジェンダー青少年限定されることになる。

若者に対するジェンダー治療先駆者ヨーロッパである1990年代アムステルダムのあるクリニックは、幼少期から自分は違う性別だと感じていた青少年思春期抑制剤を投与し始めた。

世界中のクリニックがオランダプロトコルに倣うようになった。これらのクリニックへの紹介は2014年から急増し始めた。例えばスウェーデンのクリニックでは、2014年には約50人だった紹介患者が、2022年には350人にまで増加した。英国では、その数は2014年の470件から2022年には3,600件に増加している。

そして、オリジナルオランダ研究参加者とは異なり、新しい患者の多くは思春期まで性別苦痛経験せず、うつ病自閉症を含む他の精神健康状態を持っていた。

現在オランダで発表された当初の知見が現在患者にとって妥当なのか疑問が呈されている。

フィンランド2011年から青少年ジェンダープログラムを率い、この治療を声高に批判するようになった精神科医、リイッタケルトゥ・カルティアラ博士は、「世界中が、何千、何万もの若者に対して、1つの研究に基づいて治療を行っている」と述べた。

カルティアラ医師自身調査によると、フィンランドのクリニックに入院している患者の約80%は女性として生まれ思春期の後半に性別の悩みを経験するようになった。多くの患者心理的問題も抱えており、ホルモン治療では改善されないことがわかった。2020年フィンランドは薬の使用を厳しく制限した。

同じ頃、スウェーデン政府は厳密な研究レビューを依頼し、青少年に対するホルモン療法には「不十分な」エビデンスしかないことを発見した。2022年スウェーデンは「例外的なケース」のみにホルモン療法を推奨し、その理由ひとつに、どれだけの若者がこの先、医学的移行(脱移行と呼ばれる)の中止や逆戻りを選択する可能性があるかという不確実性を挙げている。

2021年、タヴィストック臨床医たちは、思春期阻害剤を服用した44人の子供たちを調査した結果を発表した。

薬によって自傷行為異和感の程度が軽減されることはなかった。2020年、NHSはキャス博士治療法の独立レビューを依頼した。彼女科学レビューを依頼し、国際的ケアガイドライン検討した。また、若者とその家族トランス成人、離脱者、擁護団体臨床医と面会した。

レビューの結果、NHSのケア水準は不十分であり、性別による苦痛の原因となりうる精神衛生上の懸念対処するルートほとんどないと結論づけられた。NHSは先月タヴィストックセンターを閉鎖した。

キャス医師は、火曜日に発表された『ブリティッシュメディカルジャーナル』誌の編集者とのインタビューの中で、「子供若い人たちは、実にお粗末な扱いを受けてきました」と語った。小児医療において、若い人たちに取り返しのつかない治療を施し、大人になったときにどうなるのか全くわからないというようなことは、他に考えられません」。

今月、NHSによって制定された変更は、「私たち懸念が実際、妥当であったことを認めたものです」と、2018年懸念を表明したタヴィストックスタッフの一人であるロンドン臨床心理学者、アンナハッチンソンは言う。"これらの子供たちに関連する決定について、より強固でエビデンスに基づいた道筋に戻ろうとしていることは心強い。"

フランスでは今年、医師思春期阻害剤やホルモン剤を処方することを禁止する法案が提出され、懲役2年、罰金30,000ユーロを科した。そして月曜日バチカンは性転換を人間尊厳を脅かすものとして非難した。

2024-07-14

熱中症搬送された

 搬送されたのは高齢の親だ。

日頃の不摂生に加えてクーラーをつけていなかったのが仇になった。

 買い物に行ってくると同居の親に断り、少し離れた場所まで足を伸ばした。離れていたのは2・3時間程度だろう。

帰宅途中に親からLINEがきたので確認をすると、たすけて、てがしびれる、めまいなどとひらがなオンリーの誤字まみれの短文が次々と届いた。

まずい状況なのではないかと慌てて帰ると、親はリビングで倒れていた。そばにはかろうじて飲んだのか経口補水液が半分飲まれて置いてあった。

LINEが送られてきていたし、まだ意識はあると症状の確認をすると、か細い声でLINEと同じ答えが返ってきた。

状況からして熱中症だろうと辺りをつけ、Xで得ていた知識をもとに脇や首などを冷やしつつ、聞かれそうなことを親に尋ねてから119番通報した。

救急隊員には、住所・親の名前・症状・症状が出始めたのはいからなのか聞かれたのでわかる範囲で答えていく。内心パニックだったが、まだ親の意識はあったし来てもらえたらなんとかなると思い、頑張って答えた。

 救急車が来るまでに、保険証お薬手帳を探し出し、もしかしたら入院になるかもとバスタオル下着歯ブラシを袋に詰めた。後は、かかりつけ医と持病などを答えられるようにした。本当ならもっと持っていくものがあるのだろうがパニックで思い出せなかった。とりあえず何か持っていかなければならないと思うことができたのはネットのおかげだ。

 救急車の音が外から聞こえた時は安堵した。親は後で長い時間がかかったように感じたと答えていたが、実際のところは10分ほどで来てくれていた。親の意識があってよかった。意識がなかったら、この10分は地獄だっただろう。

救急隊員が来てからは親に質問されることが多かったため、出番はあまりなかった。横で時たま補足するくらいだったのは本人の病状確認もあるのだろう。

搬送が決定してからは火元の確認や戸締りなどをするように指示された。玄関の施錠も頼まれた後に、親の靴を持ってくるように言われて、気遣いができる人だなと感心した。確かに靴がないと帰れない。

 救急車に乗ってから搬送先が決まらずやきもきした。15分ほどあちこち病院電話をしてやっと決まったので出発すると言われた時はこれまた安堵した。

コロナの予防のため、念のためマスクを親にしていいか確認した後マスクをしたが、しばらくして酸素濃度が下がったのが警告音が鳴り響いた時は心臓が飛び跳ねた。意識があるから大丈夫血圧も測っているし大丈夫、何かあったら救急隊員がなんとかしてくれる、すぐに病院だと自分に言い聞かせた。

 病院までの搬送で本当に困ったのは道が開かないことだ。

快晴の土日だったので出かける人々が多かったのか道が混み、避けようにも避けられなかったのかもしれない。結局アナウンスを行い真ん中を通行した。

交差点突入する時も、どんどん車が曲がってきて救急車が通りにくそうだった。

 今回親は軽度の熱中症意識があったからよかった。でもこれが熱中症でも重度の人や事故にあった人、一分一秒を争う人だったらどうなるかをすごく考えた。

ただの情報しか親がならないことが怖かった。

高齢者1人亡くなったんだねで終わることが怖かった。

 この増田を書こうと思ったのは、熱中症は怖いから気をつけてくれっていうのと救急車が来たらすぐに道を開けて欲しかたからだ。

寄りにくい道もあるだろうが、救急車が見えたり音が聞こえたなら気にかけて欲しい

交差点も曲がる前に止まってくれ。

歩行者も横断をやめよう。

道を開けてくれた車は本当にありがとう

車乗りの義務だけど、ぐんぐん走れるようになった時は嬉しかった。

あとやっぱり救急隊員って運転上手いんだな。揺れますよとか言ってたけど道路舗装関係の揺れとかそのぐらいだしアクセルのかかり方とか上手かった。訓練して事態に備えてくれてるの分かって良かった。金持ちだったら寄付たかった。差し入れダメだし、金ないか手紙書くぐらいしかできない。

 病院搬送された後は、点滴打って少し休んだら帰れたのでもうそんなに書くことがない。

やったことといえば、カルテ必要事項を書いてスマホでもう1人の親に連絡したぐらいだ。

仕事を切り上げて車で迎えに来てくれたのは帰宅の面で助かった。倒れた親は帰りの車で戻したのでタクシーだったらタクシーの人が困ったと思う。看護師が気を利かせて袋をくれていたのもファインプレーだった。

 そんなわけで親はいろんな人のおかげで無事に助かったし、学びを得た。

病院代は9000円ぐらいかかったから親にはケチケチしないでクーラーをつけろ、寝ろ、飲め、食え!ときつく言い聞かせた。

親の言い分としてはクーラーの清掃をしていない状況で埃まみれのクーラーを使うのが嫌だったらしい。そんなわけで清掃業者を手配した。近いうちにくるがそれまでは我慢して埃まみれのクーラーで過ごすように伝えた。

熱中症になりやすい人として挙げられていた

睡眠不足

水不足

食事不足

・部屋の湿度温度が高い

親は全て当てはまった役満だったので当然といえば当然の結果だった。

帰宅途中でよかったし、同居してて親の保険証かかりつけ医を知っていたのもよかった。

 これを読んだ増田達には、熱中症に気をつけることと、救急車の道を開けることを強くお願いしたい。

クーラー代の方が病院代より安いのは分かってもらえたと思う。

救急車の道が開かないのは友人の医療関係者も同乗する時に本当に困るよと言っていたので地域が変わっても困ってるんだなと思った。

本当に頼むぞ!それで助かる命があるかも!

2024-07-12

anond:20240702014745

離婚後数年して、今のパートナーと泊りに行った翌朝に指摘された。

結婚している時の前妻とは一緒に寝ていなかったので、指摘されなかった。

かに離婚する1−2年前から日中に猛烈に眠くなることが多々あった。

指摘されてすぐに病院に行った。

AHI(睡眠時無呼吸の回数)が50を越えていて、即CPAP導入となった。普通病院検査入院をしないといけないみたい。

CPAP導入後はAHIは一ケタに減っている。

指摘されないと分からいから、呼吸が止まっているところを録音するなりすれば良いのでは?

ポケモンスリープなどで勝手に録音してくれるよ。

無呼吸があるのは低酸素時間がある、ということで、それは循環器系にストレスがかかっているということで、続くと急死のリスクも高くなる。

すぐには影響ないけど、来月、ベッドで冷たくなっているかもしれないよ??

2024-07-10

説明なく抗がん剤の量を減らされた

おととし(2022年)の夏、母親が76歳でホジキンリンパ腫(ステージ3)になった。A-AVD療法を受けたのであるが、それで9割が治るようなので、治るとばかり思っていたのであるが、治らなかった。

標準量の6割しか投与されていなかった。別の病院に転院して、免疫療法(キイトルーダ)を受けたものの、こちらでも寛解せず(3割くらいは寛解するらしい)、延命になってしまった。

6割しか投与されていないので、髪の毛もそれほどは抜けなかった。

医者は投与量が減らされていることを全く説明しなかった。1,2回目の投与の時に入院している時、看護師同士が部屋で減薬していることを喋っていて、母はそれを聞いたので知ってはいたのだけど、そのとき医者に問い質せばよかった。そういうこともあるのかなくらいしか思っていなかった。

高齢だと医者副作用を怖れて、投与量を減らすことはあるらしい。しかし、転院した先の先生は、うちなら全量入れますと言っていた。そうすれば必ず治ったとは限らないが、いいところまで消えていたので、たぶん最初からそこに行っていれば治っていたと思う。

最初主治医は、がんの名前が分かったとき説明も「抗がん剤が効きやすいがんです」だけだった。説明が乏しく、たいがい一言しかない。

4クール(1クールで2回投与)が終わったときに、母が「いつCTを取るんですか」と聞いても「決めてます」としか答えなかった。このあたりでちょっとおかしいと思いだした。

最後抗がん剤ときに、母が「しんどいです」と訴えると、「じゃあ緩和ケアに行ったらどうですか、緩和ケアも立派な治療ですよ」と言われ、この先生ちょっとやばいんじゃないかと思ったものの、時すでに遅し。

入院しているときに病室に訪れることもなかった。

骨髄を取るときも、その先生は、麻酔をしてからすぐに骨髄を取ったから、ものすごく痛かったそうだが、転院した先の先生は、少し時間を置いてから取ったので、そこまでは痛くなかったらしい。歯医者などでも麻酔をしてから効き目があるまで待っているはずであり、そのくらいの配慮もできないようだ。

聞くところによると、その病院生え抜き優遇していて、そのため優れた医者が軒並み辞めていっているらしい。麻酔しか良い医者が残っていないそうだ。看板だったある診療科などは、名のある先生がいなくなったので、その科ごとなくなったらしい。

弁護士相談しに行ったけど門前払いで、医者裁量範囲であれば(今の主治医によるとそうらしい)、説明があろうがなかろうが、同意書にサインをしているので、説明義務違反で訴えても負けるらしい。

医者との会話を録音しておらず、説明がなかったことの証明はできないので期待はしていなかったが、それ以前の話のようだ。

これだと説明などしなくてもいいわけで、弁護士は「だから医者さんって優しくないでしょう」と言っていた。

長くなってしまったが、教訓を二つくらい記しておきたい。

一つは血液のがんを甘く見てはいけないということである。もし他のがんであれば、手術が必要になってくるだろうから、当初の病院では治療を受けなかったと思う。しかし、血液のがんということで、抗がん剤を打つだけなので、どこでも同じなのではないかと考えてしまった。

しかし、そうではない。抗がん剤副作用が出てくるので、それに対処できるかどうかは医者の腕次第であり、高齢者は副作用が出やすいので、腕がないと安易な減薬をしがちなようである。だから血液のがんでも、いい先生に診てもらった方がいい。こういう次第なので、高齢者こそいい先生に診てもらうべきなのかもしれない。

もう一つは、当たり前のことであるが、言葉の足りない医者は避けるべきであるということである。頭のいい先生であれば、ちゃんと答えるくらいは朝飯前であって、それができないというのは悪い兆ししかないようである

この経験で知ったのは、医者には天と地くらいのレベルの差があるということである。転院した先の先生は、説明は当然のようにちゃんとしてくれたし、質問にも答えてくれた。腕もあるようだ。最初からここに来ていたらたぶん助かったのにと思うと後悔でいっぱいが、転院できただけでも良かったとは思う。

こういう失敗はありがちなのだろうとは思うが、病院選びの失敗は本当に命に関わるし、後悔も大きいので、この文章をここまで読んでくれた人はくれぐれも注意してほしい。

anond:20240710002504

奥さん妊娠中と出産後、一馬力で働くのを避けたいなら避妊しておけばいいだけ。

切迫流産(妊婦の15%がなる、流産危機)になったら、絶対安静で入院もありえるんだし。

出産後は法律でしばらくは働けないし、子供が0歳は預け先がほとんどない。

2024-07-09

anond:20240709170434

公平さを持ち出すと「でもお前出産する負担は無かったじゃん」って言われると辛くね。つわりもなかったし、入院もしてないし多分公平じゃない。

自分の父が毒親だとわかった日

「30年近く同居している祖母精神疾患があると知った日」

https://anond.hatelabo.jp/20240706023024

数日前に↑を投稿した。

思ってた以上にたくさんの方に反応してもらえて、本当にありがたかった。私は自分の家のことを誰かにしたことほとんどなかったから。

前回の投稿追記にも書いたが、父と言い争いをした次の日、私はカウンセリング相談に行った。

そして、カウンセラーに「あなたのお父さんは残念ながら世間一般で言う毒親です」と言われて衝撃を受けた。

コメントでも、父に対し「毒親だ」「まともじゃない」「そんな親からは逃げろ」という意見が見られた。

正直、私は今も自分の父を毒親という言葉表現していいのかはわからない。

でも、私にとっていい父親ではなかったと、ようやく思えるようになった。

長い間、父がおかしいのか、自分が求めすぎているのか本当にわからなかったのだ。

私と同じように、父から、あるいは母から離れるべきか悩んでいるひとも多いはずだ。

悩んでいる方の参考になるかわからないが、私が生まれるまでの父の人生と、私から見た父と祖母の話をそれぞれ書き出していく。

私には父方の祖父がいない。幼い父と叔母(父の妹)、そして専業主婦だった祖母を置いて、祖父は突然出ていったからだ。そこから祖母は女手ひとりで父と叔母を育てた。私が想像もできないくらい壮絶な生活だったのは確実だと思う。

それでも父は猛勉強して、希望していた大学合格し、それなりに知名度のある有名な会社に入った。そして実家を出た。数年後、叔母も実家を出て、祖母一人暮らしになり、このタイミング精神疾患発症し、精神科に3回入院していたようだ。

父はその事実を伏せたまま母と結婚し、その数年後に私が生まれた。その2年後に妹が生まれ、同時に祖母との同居が始まった。

父は定年まで同じ会社で勤め続けた。おかげで私は金銭的に苦労をしたことがない。

父も叔母も祖母も、祖父が出ていったときの話を一度もしたことがない。なぜ私が祖父が出ていったことを知っているかと言うと、父方の祖父がいないことを不思議に思った私が、子どもの頃に母に理由を聞いたからだ。母は言いにくそうにだったが教えてくれた。加えて、「お父さんがいるって本当に幸せことなんだよ」と私に言った。この言葉が、わたしの中で、ひとつ価値観になってしまった。

ここからは私から見た家庭内の話になる。父のことから書いていく。

父が仕事から帰ってきたとき、母は「おかえり」と必ず声をかけていた。でも、「ただいま」を父が返すところは見たことがない。

父は母が作ってくれた食事を美味しいということは一度もなかった。眉を顰め、あまり噛まずに飲み込む。うまく切れていない野菜を箸でつまみあげ、「見てこれ。ひどいね」と笑いながら言うこともあった。母の前で、私や妹に向かって言うのだ。

仕事が忙しくなり、私が寝た後に父が帰ってくるのが当たり前になった時期があった。母が父の分の食事ラップをして、箸を置いて、すぐ食べられるように準備しているところを私は見ていた。私が朝起きても、食事はそのままだった。母はそれを流し台に捨てていた。

家族食事をしているとき、私が箸を落としたり味噌汁をこぼすたび、父はうんざりした顔をして、なにも話さなくなった。母に「なにやってんの!」と怒られることより、自分のせいで父の機嫌が悪くなることのほうがなぜかずっと怖かった。

私は母のことが大好きだった。同じくらい父のことも大好きだった。でもなにより、父に嫌われることが怖かった。

から母はかわいそうじゃない。父は母をそういうふうに扱っていいひとなんだから。母の失敗は笑っていいんだ。そう思っていた。私は切れてない野菜を見つけるたび、父と笑った。母は何も言わなかった。

気づけば、元から会話が少なかった父と母はほとんど話さなくなった。相手用事があるときは、私か妹に伝言を頼むのだ。

喧嘩しちゃったのかなあ」と私は思っていた。それでも、すぐ仲直りするだろうと気にしないようにしていた。

いつしか父と母が話さないことが当たり前になっていた。そしてそれに触れること自体タブーなんだとわかっていた。

学校休みの日、「〇〇(近くの遊園地)に行くぞ!」と突然私と妹に行った。父の行動はいつも突然だった。どれだけ気乗りしなくても、私も妹も何も言わず父について行った。それが一番正しい行動だと思っていたからだ。

でも、その日はどうしても行きたくなかった。家で友達から借りた漫画を読むのを楽しみにしていたからだ。

行きたくない。家にいる」と返すと父は「行ったら楽しいぞ。行こう」と眉を顰めつつ言った。少し怖かったが「読みたい漫画があるから」と返した。「そんなんいつでも読める。行くぞ」うんざりした口調で父は言った。どれだけ駄々をこねても、私が泣き出しても、父は全く引かなかった。私は諦めて遊園地に行った。

父は私を楽しませようとしているんじゃなくて、"休日に娘を遊園地に連れていった"という事実がほしかったんだと気づいたのはもっと後のことだった。

中学生になると流石に父との会話は減ったが、それでも父が好きだった。正直、父の振る舞いに違和感を感じていた。信頼はできなかった。父の行動を真似るのはやめた。でも父に勉強を教えてもらうのも好きだった。そして、まだ父が怖かった。

そんな家で育った私が友達の家に初めて泊まった日、衝撃の連続だった。たぶん、私が中3か高1の時だったと思う。

その日、友達のお父さんは先に夕食を済ませ、夜勤に行く準備をしていた。夜にお仕事するひともいるんだなあと思っていたら、お父さんがお母さんに「たぶんいつもより遅くなる」と話しかけた。お母さんが「ならお腹空くやろうから朝ごはん多く用意しとくわ」と答えていた(多分こんな感じの会話だった)。

え?お父さんとお母さんってこんなに普通に話すもの

友達のお母さんが私と友達に準備してくれた食事を食べていると、友達が「このおかずめっちゃ好きやねん!」と私に言った。友達のお母さんは「いつもそれ言うから今日は多めに作ったよ」と笑いながら言った。

え?お母さんの食事って、おいしいって感じるもの?そしてそれを伝えるもの

友達の家の全てが衝撃だった。

私の家のお父さんって、もしかしてひどいお父さんなんじゃないか

私って、ひどい娘なんじゃないか

ずっと感じていた違和感の正体がわかった気がした。

そしてモラハラ、という言葉を知ったとき、まさにお父さんじゃんと思った。

それから、父との関係は一気に悪くなった。勉強でわからないところがあっても父に聞かなくなった。あまり顔を合わせたくなくなった。

父が突然態度が変わった私に困惑するのを感じた。まあ反抗期なんだろうと納得しようとしていたのもわかった。

私が直接父に不満を言うことはなかった。

父にはお父さんがいないんだから。父の方が私より辛かったんだ。そして、"父"を知らないんだから父親が下手なのも当然だと思っていた。

父が友人とどこかに出かけることは見たことがなかった。会社の人と飲みに行くこともほとんどなかった。

父には友人がいないことにも気付いていた。だから私のように自分以外の家庭を知るきっかけもなかったんだろうと、私は自分を納得させて生きてきた。

自分父親大事にできない自分こそ、"娘"が下手なんだと思う気持ちが強かった。

それでも父への違和感は日に日に強くなっていった。

こうして私は父を避けて生きるようになる。

ここから祖母の話になる。

正直、祖母との思い出はほとんどない。私が幼稚園の頃、オセロ相手をしてくれたことくらいだ。

日中妄想独り言を呟き、自分で作った変な歌を大声で歌い、一人二役で会話をする。 部屋に監視カメラがついていると言ったり、テレビから電磁波が出てると大騒ぎしたり、好きな野球選手結婚することになったから出て行くと言い出したり。皇室手作り人形を送りつけ、返送されることもあった。そして母や親戚と揉め事を起こす。それが私が知っている祖母の全てだ。

様子がおかしくなっていく過程を見ていたら、病気になったのかと疑うこともできたかもしれない。

でもまともな祖母を見たことがなかった。だから祖母は生まれた時からこういうひとなんだと思っていた。

祖母普通じゃないかもしれないと思ったのは、私が高校生の頃だ。

クラス友達数人とお昼を食べていると、友達の1人が「最近おじいちゃんボケてきててさ、ご飯食べたばっかりなのに食べてない!って言うんよね。認知症の人ってほんまにそう言うんやってびっくりした」と笑いながら話していた。別の1人が、うちはひいおばあちゃんボケちゃって〜と笑っていた。

それを聞いた私は、点と点が繋がったように感じた。

みんなのおばあちゃんよりちょっと早いけど、私のおばあちゃんのあの行動は、認知症だったのか!と本気で思ったのだ。

祖母のことは、今まで誰にも話したことがなかった。でも、認知症だったんだ。それなら話せる!と私も笑いながら友達に言った。

「うちのおばあちゃんも、なんかテレビから電磁波が出てるとか、部屋に監視カメラがついてるとか、会ったこともない好きな野球選手結婚するから出て行くとか言うんだよね」と。

空気が変わるのを感じた。みんなが一気に警戒するのがわかった。「いや、それ、ボケとかじゃないんじゃない?病院に行ったほうがいいような…」と1人が遠慮がちに言った。周りも同意するように頷いた。そしてすぐに違う話になった。

今なら笑えるが、当時の私にとっては本当に恥ずかしい出来事だった。やっぱり祖母普通じゃないんだ。それがわからなかった自分普通じゃないんだ。死にたくなった。それから誰にも祖母の話はしなかった。

私が部屋で寝ていると、深夜にドンドンドンドン!と凄まじい勢いでノックする音で目が覚めた。

「〇〇ちゃん!〇〇ちゃん!」と部屋の外から祖母が私を呼ぶ声が聞こえた。

私が「もうなに!?」と声を荒げて扉を開けると、「なにかあったか?なあ、なにかあったか?」と、祖母は虚な目で縋るように私に聞いた。

祖母には何かが聞こえたんだろう。何かが見えたのかもしれない。でも私には何も聞こえてないし見えてない。私は「なにも起きてない!もうほんとにやめて!」と怒鳴って部屋を閉めた。部屋の外から祖母がなにかブツブツ呟く声が聞こえた。布団を被って目を瞑った。しばらくすると、祖母が諦めて自分の部屋に戻って行く音が聞こえた。

次の日、祖母が「昨日は悪かったなあ」と涙を浮かべて私に謝ってきた。勘弁して欲しかった。泣きたいのは私だと言ってやりたかった。私は祖母無視してその場を離れた。

部屋に戻った祖母が大声で歌ってるのが聞こえてきた。「〇〇さんお願いしまーす!〇〇さんと結婚しまーす!ひとりで〇〇さんのところに行きまーす!」と何度も何度も繰り返していた。

こんなことは日常茶飯事だった。

祖母がずっとずっと不気味だった。

でも病気なのか、もとからそういうひとなのか、私には本当に長い間わからなかった。

祖母が早く死んだらいいのに。

そしたらこの家ももう少しはまともだったかもしれないのに。

そう思うこともあった。

そんなことを考える自分が情けなかった。

気付けば、私は祖母のことを見えないもののように振る舞うようになっていた。それが一番楽だったからだ。

これが私から見た父と祖母だ。

もちろん書いたことが全てではない。

父や祖母から愛情を感じることもあったような気がする。

でもなぜか今は思い出せない。

父も祖母も、普通じゃなかった。

私は、気づくまで30年近くかかった。

2024-07-08

anond:20240707142628

今日ケアマネが来て話し合い、主治医病院入院することになった

すでに3回入院しているが、治療のためだったので3か月が限度である

主治医から伝言は「次の入院がおそらく最期なので、入る前に会いたい人に会っておいてください」とのことだった

ケアマネが帰ってから介護入院までの我慢ということで比較的穏やかに進んでいる

母は条件として「入院前に髪を切りたいからなじみの美容師を家に呼べ」と言っているが

anond:20240630131551

こんにちは、爆発する大便の先輩です。

わたしは15で切れ痔を患い、そこからずっと排便のたびに痛みと出血に悩まされてきました。でも慣れちゃうんだよね。

そして27才の夏、排便後に経験したことないほどの痛みがあり、それが8時間以上続いたため、さすがにQOLが下がるぞ…と肛門科の扉を開きました。

そこで言われたのが「肛門管狭窄症」、増田の言うように肛門破壊再生が繰り返され、かさぶたが蓄積してものすっっっごく細い便しか出なくなった。

二週間入院必要と言われ、それでも今後の人生をずっと爆発便で過ごすよりは…と手術に同意しました。

結果として日帰りで処置をしてもえましたが、二週間入院してでも解決すべきと思います

うら若き27才のオトメですら乗り越えられたのです、どうか増田勇気を出して手術を受けてみてください。

あれなら5年以上立ちますが、排便時に疼痛があるのは年に片手で数えられるかどうかです。QOL爆上がりしたので本当におすすめ

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