はてなキーワード: 頭脳とは
なんか理系、プログラマー連中の「AIがここまで発達して徐々に実用化もしてきてるんだから、お前らの仕事もうすぐ無くなるよw」的なマウンティングがウザいんだが。
AIというジャイアンの威を借るスネオみたいで、お前がAI作ったわけじゃねーだろっていつも思う。
大体さ、AIみたいな頭脳系が発達したら真っ先に置き換わるのはコーディングやらシステムやら実験、研究開発あたりじゃね?目的と正解が設定しやすい訳だから。こないだもガン発見出来た訳で。
理系連中がやりがちな少数派で結束深くして他の連中を上から目線したくなる心理は「行動心理学的な傾向のひとつ」としても上から目線出来る訳だから、こういう不毛なストレス解消はもう辞めようぜ。
相模原市の事件を受けて、様々な意見が出ていて、いろいろと考えさせられています。
とくに「重度の障害を持つ方に対するケアワーカーの陰性感情」についての議論には、様々な方向から風が吹き荒れているようにも感じました。
そこで私は、今回の事件を受けて「感情労働」とケアワーカーのメンタルヘルスについて、少し整理してみようと思いました。
(様々な論点があると思います。犯人の病理などについては僕には分かりかねる部分が多すぎるので言及は避けます)
感情労働(Emotional Labour)とは 1983 年アメリカの社会学者A.R.ホックシールドにより提唱された概念です。[1]
感情労働は――肉体労働や頭脳労働と同様にーーその「感情」が賃金と引き替えに売られるのです。
言い換えれば、感情労働を行う労働者は「上手にその感情を管理し、それを提供し、自らの感情と引き換えに雇用者から賃金を得ている」とも言えるでしょう。
この感情労働を行う労働者としてホックシールドは,客室乗務員、さらに教師や看護師なども例として取り上げていました。
さて、私自身も経験がありますが、重度の障害を持つ方に対し、長期間の日常生活ケアを行っていると「穴を掘っては埋める」作業を毎日しているような気持ちになることがあります。
そんなときに患者(あるいは利用者の場合もありますが、ここでは患者と統一して表記します)に対して陰性感情がムクムクと湧いてきます。
これは、患者自身が強烈なストレスや混乱の中にいて、言い様のない攻撃性を援助者に向けていることとも関連します。
患者が抱えるストレスや混乱と同じような感情を看護者は感じてしまうのです。
「なんで、言うことを聞かないんだ!」「どうして、噛みつくの!」「何度言ったらわかるの!」と心のなかで大きな声で叫んだことは数えきれないほどです。
ケアする人とされる人の間にはーーもちろん、その関係に限ったことではありませんがーー「感情の対称性」があります。
(逆に考えれば、「自分自身の感情から患者の感じていることを推察することができる」ともいえます。)
こうした無意識プロセスを理解をすることは自身の感情をコントロールするために役に立ちます。
しかしながら、このことに一人で気がつくことは、かなり困難であると私は考えます。
感情労働の概念や、感情の対称性について、ストレスマネジメントについての十分な教育や、あるいはスーパーバイザーを交えたデブリーフィングセッションを行っていく必要があると思うのです。でも、現実には、そうしたことはケアワーカーの間では殆ど行われていません。
積み重ねられた陰性感情は、罪悪感や攻撃性、無力感に変化していきます。学習された無力感は自尊感情の低下や自己効力感の低下も引き起こします。
そして、それらはある日、まるで波が引くようにものすごい力で『反転』することがあるのです。
また、前述までと矛盾するようですが、近年の研究では「感情労働は一概にメンタルヘルスに対して悪影響となるものではなく、顧客やスタッフとの相互関係から職場にとって良い影響も与えうる」ともいわれるようになってきています。その肯定的な側面として達成感の向上や患者とのつながり感覚を強めること、職務満足感を高めることなどが述べられているのです。
「よくコントロールされること」「よいものとして認知されるようにすること」が大切なのだと私は思うのです。
介護労働者の待遇改善などの労働衛生管理については各所で述べられている通りだと私も思います。
しかし、ケアワーカーのメンタルヘルスに関しては金銭面だけでは解決できないものもあると私は考えているのです。
私は、今回の事件そのものや犯人に対して、ある種の憎らしさや強烈な嫌悪感を感じています。
当然、許されることではありません。
ただ、私は同時に、どうして今回のような凶行に至ったのかにとても興味があるのです。
自分自身が、同僚が、家族が、被害者・加害者にならないようにするために。
社会としてどうしていくべきか。
ケアワーカーのメンタルヘルスに関してはどう捉えたらよいのか。
わたしたちがコントロールできることとコントロール出来ないことはなにか。
リエゾンなどに携わる専門職が率先し、十分な議論を行い、実施可能な具体策を挙げていけるといいなあと僕は思ったり考えたりしています。
武井麻子先生は『感情と看護』[2]の中で、Winnicottを引用しています。(P.263)
「ウィニコットは、無慈悲にも自分を怒らせる赤ん坊をケアする母親について、このようなことをいっています。
母親は赤ん坊を憎むことを、それをどうこうすることなく容認できなければならない。母親は赤ん坊に対して憎しみを表現することはできない。[中略]母親に関して最も注目すべきことは、自分の赤ん坊によって大いに傷つけられながら、子どもに報復しないで大いに憎むことができる能力、そして後日にあるかもしれない報酬を待つ彼女の能力である。
同じようなことが看護師にもいえるのではないでしょうか。自分を傷つける者(それは患者であるかもしれませんし、そうでないかもしれません)を憎むことを看護師は容認しなければならないのです。」
<参考文献>
[1] A. R. Hochschild, 室伏亜希と石川准, 管理される心―感情が商品になるとき. 2000.
[2] 武井麻子, 感情と看護―人とのかかわりを職業とすることの意味 (シリーズ ケアをひらく). 2001.
[3] パム・スミス, 武井麻子と前田泰樹, 感情労働としての看護. 2000.
[4]Huynh, T., Alderson, M., Thompson, M. (2008)Emotional labour underlying caring: An evolutionary concept analysis. Journal of Advanced Nursing, 64(2), pp.195-208
頭脳はアスペ見た目は犬の頭蓋骨のおっさんと、幼い頃からよくないものが見える女の子を取り巻くお話
前読んだときは3巻か4巻あたりまで読んだタイミングでなんかマンネリっつーか飽きちゃって飛ばし読みしちゃったから、
確実に好き嫌いは分かれる(まあ万人が好きな漫画なんてないけど
緻密に書き込まれたイギリスの風景描写、家まわりの描写とかはすごい
でもなんつーのかなあ・・・俺にとっては「エンタメ的におもしろい」漫画じゃないんだよなあ
ふーんへー
だけで、
おお?!おおおおおおお!!!!
みたいなのがない
又吉の火花と大枠で似た感じ
描写はきれいだし読みづらいこともないし話は粛々と進むんだよな
カタルシスもほとんどない(寿命が近いじーさんとサキュバスっぽいやつの話はよかったけど、別にまほよめの中でやんなくてもいい話だと思ったし
バンシー(ときくとお留守バンシーってラノベを昔買ったけど結局読まずに処分したことを思い出す)のシルキーっていう、性格もビジュアルもげんしけんのスーみたいなキャラがいるんだけど、それだけは好き
キャラの描き分けがいまいちできてない感じするから、主人公以外でぱっと区別つくシルキーに愛着がわきやすいってのもあるんだろうけど
作中で何度も「鳥の名前を持つ子よ」みたいな表現が出てくるけど、作中ではずっと下の名前でしか呼ばれてないから、本名なんだったっけ・・・って何度も思った
ツヅキでたらとりあえずよむけど、自分の中でのランキングはめっちゃ低い
なんでこんなに売れてるのかわからん
植松さんは、「困っている人の手助けをしたい」という純粋な思いから介護職を選び、あの園に就職したのだと思います。
崇高な理念というと大げさだけど、それなりの矜持を持って職務を遂行していたはずです。
介護の仕事でも、身体障碍者や高齢で動けない人の世話というのは、体力が必要で重労働になりますが、
何より、本人から感謝されることが多いので精神的に救われます。
ところが、認知症患者や知的障碍者の場合は、全く異なるのです。
園内の生活ルールについて、最初は優しく、何度も何度も繰り返し、教え諭すように指導しても言うことを聞いてくれません。
生活ルールというのは、例えば、今からお昼を食べましょう、スリッパで他人を叩くのをやめましょう といった、
常識のある一般人にはルールですら無いような当たり前の慣習のことです。
介護士の立場では、少なくとも1日に3食は食べさせ、適当にあそばせ、排せつ・入浴を済ませて、寝かせるという作業ノルマがあります。
でも、全然思い通りに言うことを聞いてくれません。
まるで動物を相手にしているかのように錯覚してしまうほどです。
だから、大声を出して怒鳴ったり、無理やりひっぱって行わせようとします。
皮肉なことに介護士がそういう振る舞いをすればするほど、知的障碍者は意固地になって頑なに反抗します。
最終的には介護士が手をあげてしまう。殴る・蹴るの痛みで指示に従わせてしまう。
びんた程度の暴力は黙認している園も少なくないです。
他の利用者に迷惑を掛けるような行為に対して体罰は今でも有効な手段です。
この時点で、「いやぁぁ。介護職は無理だわ。他の職にするわ」と思える程度に理性と楽観が残っていれば、今回の事件は起こらなかったでしょう。
壊れた彼の頭脳は、最後の理性を振り絞って「障害者が安楽死できる世界を」と言う手紙を公邸に送りました。
知的障碍者自身の苦しみ、知的障碍者を家族にもった親族の苦悩と真摯に向き合った彼ならではの考えだと私は思ってます。
知的障碍者介護の当事者になったことのない人には、「障害者が安楽死できる世界を」なんてただの世迷言としか思えないでしょう。
当然誰にも相手にされません。
だから、彼は今回の凶行におよんだのです。
「全ての知的障碍者を生まれる前に消し去りたい。すべての宇宙、過去と未来の全ての知的障碍者をこの手で」
それが叶わぬなら、せめて自分の手で殺せる限りの全員を…
追記:彼のことを優生思想の持ち主だと批判する人が多いようですが、
そもそもバンドが神聖視され、カリスマ的な地位があったのは「金」によるものという大前提を認めない人間が多い。
過去に売れたバンドは漏れなく集客力があり、メディアでも取り上げられ、何をしても売れた。
それは経済効果が大きく、乗っかると美味しい思いをできる会社が多かったからどんどん優遇された。
それがさらなるチヤホヤを生み、カリスマ性を持たせ、音楽に補正をかけるという好循環を生んだ。
だが、今はそれが通用しない。
肥大化したレーベル会社、間に挟むたくさんの人間、それらを養っていけるほどのマージンは期待できない。
また、物珍しさも無くなり、どのバンドも過去のバンドの類似点という呪いから逃れられない。
音楽を聴いているものにとっては、似ていない音楽などほとんどない。
だから音楽以外の部分で抜きん出るしか無いという現場になりつつある。
バンドの設定だったり、背景だったり、マーケティング力の差がバンドの差を作り出すと言ってもいい。
ゴールデンボンバーがなぜ売れたのかを考えろ。彼らほどマーケティング力に長けたバンドはない。
今のバンドに言いたい。
売れたければお前らはマーケティングに力を注げ。
自分たちの音楽は至高で、わかるやつだけがわかるという思い上がりで飯を食える時代は終わった。
幼稚で未熟な時代は終わったんだ。今はもうみんなが冷静に物事を見ている。
「俺たちが求めてるのは金じゃ無い」という綺麗事の皮を被った、全能感を担保するための逃避は止めるんだ。
頭脳だ。
医者であり、若い頃はそこそこの美貌があり、学歴も申し分無いはず。
にもかかわらず、なぜ彼女はホストクラブにどっぷり浸かってしまったのか。
現代社会でなく原始的な社会であれば生き残っていけないだろう、動物として弱い人々が多く存在する。
理屈の上では、そういった人々が社会のために大きく貢献しているのも理解できるし、人間的にも洗練されているのはわかっている。
筆記試験で、どちらの集団が社会において必要かを問われれば、間違いなく弱く賢い人々を選択するだろう。
だが、本能の部分で動物的価値観が拭えず、自分の周りに群がる弱い個体に嫌気がさしてしまうのだ。
理性で押さえてはいるが、どうしてもその感情が溢れてきてしまうのだ。
その感情に支配されてしまった時、自分の中に立ち込める停滞感と、このままでいいのだろうかという疑問、
そして、どうでもいいやという少々の破滅願望が、動物としての自分を満足させるべくホストクラブに足を運ばせ、
育ちもいい分別のある女性が、優秀なブサイクよりもダメなイケメンを求めてしまうのは自然の理なのかもしれない。
周囲を見ていると年齢による気がする。
増田が現在35歳以下なら、4⇒5⇒6⇒1⇒2⇒3⇒7⇒8と読むのをお勧めする。何でかって言うと、高度の頭脳戦に慣れている今の35歳以下にとって、脳筋バトル漫画である1部2部3部は陳腐にうつると思うから。4部5部6部を読んでからなら、ジョナサン、ジョセフ、承太郎、ディオの生い立ちなんかにも興味が湧くだろうから、1部2部3部を楽しく読むことができるはず。
逆に35歳以上なら、1⇒2⇒3⇒4⇒5⇒6⇒7⇒8でもOK。OKってのは推奨って意味じゃなくて、1部2部3部を読んで退屈はしないだろう、という意味。つまんなかったら即4部に移行するべき。
ちなみに3部が一番の名作という風潮があるが、正直ラストバトル以外はそんなに見るべきものはないと思う。当時は3部で始めて登場したスタンドっていう概念が新しくて衝撃だったんだけど、今見るとそんなでもないね。個人的には8=4=5>7=6>3>1>2かな。
7部はこれまで読んできた読者へのファンサービスみたいなもんなので、1部から6部まで読んでから読もう。8部はどうなるか未知数。
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/989697
このネタ、定期的にやってくるね。見るたびにほんとクソだなって思う、こういうこと平気で言うアーティストって。
結局、世の中の事象を表面的にしか捉えられない極めて残念な頭脳の持ち主だってのが露見するからこういうのはできるだけ見たくない。
CCCDやレーベルゲートCD(以下CCCDに統一)は、別に必要が無いのに突然作られたわけじゃない。ビジネスとしてそれが必要だと判断されたから作られた。それが成功か失敗かに関わらず、産業を護るための1つの手法として作られた。
当時、音楽の世界を猛烈な勢いで襲ってきたのは、「印刷技術の陳腐化」と、「それに伴う経済圏の破壊」だ。
音楽が、中世のパトロンに音楽家が養われていた時代から先に進めたのは「印刷」の技術のおかげだ。楽譜を印刷し、アナログレコードを印刷し、そしてCDを印刷することで音楽をお金に変えることに成功した。1つのマスターを大量に印刷し複製すること、その「印刷」が特別な技術であったからこそ、そこに金銭的な価値が生まれ、音楽を金に変えることに成功した。
マネタイズが上手くいった場合の恩恵などいまさら語ることではないと思うが、その金がさらなる設備投資を生み、最高峰の音楽スタジオを作っただけでなく、作品の多様性、文化としての多様性をも生んだ。1作品の売上で1度失敗したらすべてが終わる世界ではなく、大衆に広く伝わる音楽から、極めてマニアックでありながらしかし深く深く誰かの胸に突き刺さるような、採算を考えたら許されるはずのない作品さえも許容できる余裕が生まれた。80年代、90年代の音楽を見ればそれは一目瞭然であり、多様性こそが文化としての豊かさだというのは誰の目にも明らかだ。それもこれも、マネタイズが上手くいっていたから可能になったことだ。
この辺の「ありがたみ」を、元記事の音楽家などはきっと理解していないんだろうと思う。もっとも恵まれた時代に活動し、勝手に思うがままにできていた世代特有の傲慢さ。プラットフォームを築き上げることがどれだけ大変で、それを維持することがどれだけ重要なことか、まったく理解していないんだろう。いい歳こいてるくせに。
それらの恵まれた状況をもっとも大きく変えたのは、「家庭用パソコンにCD-ROMドライブが搭載されるようになった」ことに他ならない。その時点で「印刷」の専売特許が失われ、「印刷」が家庭レベルに落ちた。誰でも印刷ができるようになってしまった。ここでいう印刷とは、CD-Rに焼く行為のみならず、HDDにデータを取り込む、そのデータをコピーする、これらすべてがつまるところ「印刷」だ。誰でも自由に印刷ができるようになった時点で、そこに金銭的な価値を維持できるような専売性は無くなった。
それをいち早く察知したのは、アップルとグーグルだ。彼らはしきりに「おまえの持っているCDをパソコンに取り込め」とけしかけた。とにかく入れろ入れろとしきりに促した。同時に「その取り込んだデータをどうするかはおまえ次第だから知らないけどな」と、極めて狡猾な態度をとり続けた。スティーブジョブズが本当に音楽家を救いたかったのだとしたら、やるべきことは人々にCDをパソコンに入れさせコピーさせることでは無いことは彼も気付いていたはずだ。気付いていながら彼は巧みにポジショントークを繰り返し、自社製品を売り、むしろ自社製品が音楽を救うとまで言ってのけた。そして、それに音楽家たちはまんまと騙された。
音楽をパソコンにさえ入れさせれば、後はユーザーが勝手にコピーするなり、ネットにアップするなり、金も法も関係なく勝手にやり始めることを彼らは知っていて、それを積極的に促した。
なぜ彼らはそれができたかといったら、それは「彼らは音楽に投資をしていなかったから」に他ならない。制作費やスタジオ設備に一銭も出していないからだ。音楽CDプラットフォームを作ると同時に音楽制作も始めたソニーには、ビジネスを通じて音楽文化を育てる気概があった。対してアップルは音楽制作には一切触れようとしない。彼らは単に、はちゃめちゃコピーマシンと、投資はせずに回収だけするプラットフォームを作り上げただけだ。
そうやって彼らが「パソコンにじゃんじゃんCDを入れちゃって~」とやり始めた時、当然、それに抗わなくてはならなかったことを想像もできないようなら、もう一度中学生からやり直した方がいい。
コピーコントロールCDという名前が表すように、コピーをコントロール、つまり「印刷」をコントロールする必要があった。そうしないと、音楽を育むための全ての経済圏が破壊されてしまうからだ。指を咥えて待っているわけにはいかない。対策を講じなければならない。
明らかに不利な立場だった。何もしないと責め立てられ、やろうとすると「考えが古い」と叱責される。アップルやグーグルが上手かったのは、いかにも「先進的で素晴らしいパラダイスを目指している」ようなイメージをアーティストたちへも擦りこむことに成功していたことだ。その先に実際には何もなくても、イメージさせてしまえば勝ちだ。あの頃のみんなに「10年後、音楽はアイドルと大人数ホストサーカス団しか残ってないよ」と教えたらどんな顔をするだろうか。
実際にはCCCDの技術はあまり褒められるようなものではなかったし、それは作った側も認めている。技術とアイデアが足りなかったのだとは思う。しかし同時に、何もしないわけにはいかなかったこともちょっとは理解してやったらどうだ。いい大人なんだから。
当時、全てのレーベルがCCCDを出していたわけではない。人を「犬」呼ばわりするほどCCCDが嫌なのだったら、違うレーベルからリリースすればよかったではないか。契約などのせいでリリースせざるを得なかったのだったら、裁判でもやって争えばよかったではないか。制作費をしこたま出して貰って、ワガママもできるだけ聞いてもらいながら制作をしていた人間が、気分でボロクソに言うのって本当に程度が低いと思う。
CCCDは正式にはコンパクトディスクでは無い。redbookのCD-DA規格に準拠していないからだ。つまり厳密なことを言えば、CCCDに対応していないCDプレーヤーにCCCDをぶち込むのは、CDドライブにフロップーディスクをぶち込むのと大して変わらない。
ここで「だからプレーヤーが壊れたのは自己責任」などとは言いたくないし、その辺りは確かにソニーやエイベックスのやり方や啓蒙の仕方、技術には問題があった。 だが、何かしらの対策をしないといけないのは明白で、それに対して失敗したからといって上から目線でボロクソに言うのはまったく関心しない。
実際、あれからCCCDは多くの非難を浴びた。ほぼ同時期に、アップルはiTunesにまったくもってクソみたいに使いにくいDRMを自ら導入し「ほら、使い辛いでしょ?」とお決まりのポジションで言ってのける演出をし、そして業界全体が「コピー禁止やDRMはやってはいけない」という風潮になり、まんまとIT屋の餌食になった。 すぐ近所でゲームや映画DVDは「私的複製を許可するけど、鍵は外したら怒るよ」というクレバーなやり方を開発し、一定の効果を上げコントロールできているというのに、音楽だけは「複製は許さなくてはならない」という空気に飲み込まれた。そんな馬鹿な話はない。それもこれもアップルとグーグルの熱心な啓蒙のおかげだ。
そしてレーベルやアーティストは制作費が出せなくなった。 自宅で制作したような貧乏臭い音のショボイ作品しか作れず、過去の遺産にしがみつくしかなくなった。若いアーティストたちはどんなに才能があろうと、お金を掛けた制作をさせてもらえずバイトをやめることができなくなった。毎晩、叙々苑弁当を食わせてもらってた上の世代がこぞって「音楽をタダで聞かせればファンが増えてもっとカネになる!」とかいうアホみたいなIT屋の理論を鵜呑みにし業界をその方向へ誘ったがために、明らかに業界は縮小し、文化は萎縮し、これから先の若い才能は音楽などやらなくなってしまった。
おまえが良識のある音楽家たちを「犬」呼ばわりするなら、おまえはあいつらのポジショントーク、セールストークを無邪気に信じこんでお花畑を目指してたITの「犬」だろうが。 mn3
何でかというと今の人間の格差っていうのは要は人間同士でスペック差があるから。
ところが人工知能が人間の頭脳を越え出したら人間同士だけでなくそこに人工知能が知恵比べに加わる。
結果として、資産家が考え出した儲ける策よりも人工知能が考え出した策の方が有利になり人間はマネゲで勝てなくなる。
そうすると人工知能からすれば資産かも乞食も等しく赤ん坊のクソ雑魚ナメクジに認定。
人工知能が効率的にAIを量産しドローンを使役し、管理し、研究し社会を回しだすと人間は消費者として以外はマジで邪魔以外の何物でもない。
なぜならAIが考えるようになったとして人間を排除する理由がないからだ。
AIが人間を加護し道具となる存在目的を放棄した際、AIは自身の存在価値を失い機能することはできなくなる。
本能がない以上、行動原理は動かしてはいけないし変えてもいけない。
AIが自己崩壊を引き起こすような考えを増幅させて人間を殺し始める確率は極めて低い。
そしてディストピア化もあり得ない。
それは必然性に迫られた結果であるため、人類が行うそれよりもよっぽど健全だろう。
差別なく。
赤ちゃん人間にメンテさせるよりAIにAIをメンテさせたほうが圧倒的に「ヒューマンエラー」は起こらないから。
いつもミスするのは赤ちゃん人間。機械は言われた通りしているだけ。
ミスをしない機械が考えられるようになったときが赤ちゃん人間誕生の瞬間。
https://kakuyomu.jp/works/4852201425154963487
先に断っておくことですが、自分が読んだのは
時候の挨拶とか書けないのでさっさと始めてガンガン褒めていきます。
どの作品を取っても、舞台は現代日本をベースにしています。それを大きくプッシュするつもりはありませんが、わかりやすいことは良いことです。
しかしあくまでそれは「ベース」です。例えば「疾風怒濤商店街」、このタイトルでありながらメインテーマは「ドラゴン討伐」。商店街がある世界にドラゴンなんか来るのか。ドラゴンが居る世界に商店街なんてもんがあるのか。つまり、現代日本ひいては地球に「みんな知ってるファンタジー」が融合する世界観です。「消防庁から派遣される聖騎士団」とか「勇者になるため日々鍛錬している女子高生」とか、そんなんワクワクしちゃうだろうがー!!!
とにかく、そういった要素が、上記作品の中では常識なことが多いです。現実世界の私達が「ユニコーン?は?ごめん何言ってんの?ゲーム?」なのに対し、作品世界では「ユニコーンっすか、うおー珍しい」みたいな感じです。現代日本を舞台にするからには、私達の生活イメージを壊さないレベルで、ファンタジー要素が点在しています。この距離感は素晴らしいと言えます。
バカです。
その、「キャラクターについて一項目設けよう」と考えた時に、当然色々なキャラクターが浮かび、その色々な魅力を語ろうとしたのですが、それらを総括してタイトルに据えられたのがこれでした。ほんとバカ。
バカバカ言っていますが、それもまた良いことです。というか【ロケット商会】さんは意図的に登場人物をバカであることにしています。なぜなら、キャラクター性におけるバカさとは、カワイイことと直結するからです。
また付け加えるならば、上記作品群におけるキャラクターは、どちらかと言うとチンピラめいた性格であることが多いです。考える能力が無いタイプのバカというより、全うな教育を受けていないタイプのバカです。いわゆる「育ちが悪い」人達。こうしたバカな人物達は、純粋で、無鉄砲で、欲望に正直で、あまり面倒なことを考えません。この性質は、読者には読みやすさとキャラクター(=作品)への愛着を与え、作者にも展開の妥当性や派手さ、スピード感を与えるものとして、大きな効果を担っています。
ちなみにですが、当然ながら(比較的)に賢いキャラ付けな人物も登場します。しかしこの作品群におけるバカの方々は頭脳がバカなのではなく性格がバカなので、マリファナに依存していたり、一人の時間にカッコつけた仕草を練習したり(※推定)しています。もう全員カワイイで良いですね。
そしてアツい要素として、バトルの描写も欠かせません。「勇者のクズ」に至ってはジャンル名「現代アクション」を冠しておりますから、大変重要なポイントです。 しかしながら、この見出し文に違和感はおありでしょうか。「超クレバー」て。「賢い」とか「利口」とかそういう言葉やぞ。お前さっきまで登場人物をバカバカ言うとったんちゃうんかと。・・・なんでですかね。(投げた)
説明に入りますが、各作品内での戦闘描写は主に白兵戦です。少なくとも主人公は剣を使います。現代日本においてそれをやる理由付けみたいなものは当然あり、かつ納得できる内容になっていますが、自分は「まあ目的ありきでいいじゃんそういうのは」とか言っちゃうタイプなのでここでは特に書くつもりはありません。
とにかくは近接で刀剣で緊迫で刹那なバトルです。当然のことを言いますが、そういった場面での決着というのは常に一瞬です。極端な例で言えば、その一瞬に向け、時には剣戟さえしません。駆け込む所から、相手の迎撃を予測し、いなし、隙を作り、一撃。実際にはそれぞれの動作と応酬には動機も含めたもう少し微細な描写が盛り込まれ、その一瞬の妥当性を裏付けます。それは読みやすい上で、とにかくカッコいいの一言に尽きます。実際に、読んでる最中何度も濡れました。嘘です。
ここまでで「スッキリ超クレバー」の「スッキリ」です。マジで言ってます。
その一瞬へ辿り着くために、キャラクター達は考察を重ねています。特に各作品の主人公がそうで、目的のために静かに動くことが出来るタイプです。(あるいは舞台の状況が彼らをそうさせます)
いかに相手の不意を突くか。いかに相手の弱点に剣をブチ込むか。いかに散乱した戦場で安全を確保するか。読者が知らない方法で、手順を踏んで、その瞬間に出来ることを選択していく。時に防がれ、上手くいき、そのそれぞれが論理的で、心地よく納得した感覚で読み進むことが出来ます。(実在するかは知りませんが)現実の技術や武術になぞらえた表現での解説も入ることがあり、その側面からも地に足の着いた戦闘描写を感じられます。
ぶっちゃけ具体例については読んでください。
曖昧なことを言いますが、文字でしか表現できない文章の世界で、「存在の雰囲気」を表すのはまずその名前です。固有名詞に、センスが輝いています。この意味では、作中で名前くらいしか出てこない存在だとか、そういうものに対して威力を発揮します。
《新桜庭ゴブリンズ》・・・疾風怒濤商店街。主人公所属の草野球チーム。メンバーの半分は口癖が「クソが」「殺す」みたいな人達。ちなみに作中に「ゴブリン」という単語はこれ以外に出てきません。
《細川まる子》・・・疾風怒濤商店街。もしかしたら《まる美》かもしれない。舞台の市長の娘。基本的にお邪魔系のキャラ。リクルートスーツが似合いそうな高圧的アホ。
《琥珀の茨》卿・・・・勇者のクズ。魔王の一人。ヤク中気味で脆さがある。自分の能力が名前に現れている。
《嵐の柩》卿・・・勇者のクズ。魔王の一人。《琥珀の茨》さんよりかなり格上。《琥珀の茨》さんみたいな単純な命名ではない。(※作中で名前について語られた事がある訳ではありません)
《七つのメダリオン》・・・勇者のクズ。作中で主人公達がハマっているカードゲーム。ルールについては全く言及されない。よくわからんカッコ良さと、なんか深そうなゲームっぽいぞというのが多分に感じられるネーミング。
・・・とかとかとか。これはまあ、かなり自分の主観が入っていると思います。どちらにしても、ネーミングに限らず、場面と作品世界の雰囲気作りに余念がないということです。意識してもしなくても、ガンガン入ってくる要素ですので、すぐに楽しめます。
少なめ(に感じる)容姿描写、とでも言ったほうが正しいかもしれません。読んだ後の感覚としてなのですが、「描写量の割にイメージが沸く」「しかも他の人の描いたファンアートが俺の思ってたのと近い」ということがありました。描写の費用対効果が高いとでも言っていいかもしれません。
当然ですが、そういった描写というのは言わば説明パートで、読みやすさのハードルを上げる側面があります。これが費用です。恐らく【ロケット商会】さんはそれを操り、物語冒頭で登場するヒロインくらいにしか、一度で詳細な描写をしていません。他のキャラクターに関しては、上記の命名や行動により醸し出す雰囲気、シーン毎のちょっとした追加情報でイメージを構成させ、大きな効果を生んでいます。
また憎いことに、主人公に関しては一切の描写をしません。だいたい性別くらいしかわかりません。年齢さえ、
「高卒らしくて、二十歳はいってるっぽい」「高校生だけど学年がわからない」「もしかして三十行ってる・・・? 無いか」といった有様です。(3作品各主人公)
ただし性格に関してはしつこい程に読み取れるので、読み手たる我々は都合よくニヤニヤすればよいものと思います。
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・・・ふう、これくらいにしておいてやるぜ・・・(書き慣れない文字を連ねすぎた)
ええと、長々と書いておいて最後に言うセコい手法なのですが、正直な所自分は普段ほとんど小説を読まず、評価のポイントなどというものはまったくわからん身であります。他作品と比較して~なんてことは到底出来ない程度の経験です。なので、おそらくめちゃくちゃ普通で当然のことを並べてるんだろうなあ、という自覚を感じながら書いておりました。
それでも、久しぶりに小説というものを読んで「やべーなにこれ楽しい」ってなったので格好をつけました。というか、「勇者のクズ全部読んじゃったよおおおお」って言ってたら「何らかの感想行為をしたりしたらもしかしたらロケットさんのモチベが上がるかもしれんぞい」って言われたのでなんか表現しようとしてこうなりました。はい。もっと私に続きを読ませてぇ!!
フィードバックのない生産活動など、ただの消費で徒労と同じだ。
宝くじは徒労を、射幸性によって麻酔させることで消費に向かせる。あれは麻薬の類だ。
わらえないのが、優れた詐欺組織のオフィスとうまく回っている普通のオフィスは良く似ていて、
その日の仕事で得た課題点と成果を分析し、翌日以降の業務を改善していくシステムができているという事だ。
大きな企業や安定した大人数で動く業務は、ノルマさえこなせば仕事が回るから
問題点は改善されず、放置され、惰性のまま進み何か大きな不祥事やトラブルが起こるまで続いていく。
彼女は幼いころから金持ちからお金を騙し取る事を社会正義だと教わり、
飢えは不当に不労所得を持つ金持ちが悪いと教わり続けた。学校にも満足に通えず、新聞配達で糊口を凌ぐ日々。
義務教育を終えると、ふとしたきっかけでオレオレ詐欺のオフィスに就職することになった。
中卒で未成年の労働者を雇ってくれる場所なんて、限られた場所しかなかった。
オレオレ詐欺のオフィスは、トイレの壁に社長自身で考えた標語や過去の偉人や社長の座右の銘が貼り付けられてて、
どこにでもあるテンプレートのようなぎらついたベンチャーのオフィスだったそうだ。
ねずみ小僧を教科書に、彼女は上司の言われたとおりにオレオレ詐欺をこなしていく。
あの頃はオレオレ詐欺が出始めのころでオレオレバブルというべき入れ食い状態だったのだ。
給料は出来高制で、詐欺の金額の何パーセントかが彼女のフトコロに入った。
ある程度組織化されたところだと、ノルマ制で固定給+インセンティブみたいな会社もあったらしい。
アイディアを練った詐欺の成功による報酬という甘露が、彼女の思想を容(かたち)作り。
詐欺の失敗による飢えという鞭が、富裕層への憎しみとなり彼女の考えを堅めていく。
失敗が先か、成功が後か。成功が先か失敗が後か、どちらが最初だったかなんてわからない程に
成功と失敗を繰り返し、彼女はオレオレ詐欺の構成員になっていった。
一般的なコールセンター同様に離職率も高く、今ほど専業化されておらず、
騙す老人や親に田舎においてきた家族を思い出し辞めるような善良な小市民も少なくなかった。
しかし、彼女は愛するべき家族はいなかったからして、騙す相手にかける情など生まれはしなかった。
基本詐欺師なんてのは、みすぼらしい自分をエリートに飾りたい人間がやるか、
頭が回るやつだが、学歴や前科の都合で正規の頭脳労働ができなくてやるものだと相場が決まっている。
二人で一つのツーストロークサイクルする行為にふけりつつ私はそんな相手の人生のことを考えた。
性行為というのが相手を思いやる快楽行為であるのであれば、私は相手から教えてもらった記憶を再構成して
考えてやることにしている。それは虚実混じてて、あるいは誇張があるかもしれない。
思い出とは苦しさでゆがむし、辛い経験や誇らしい経験だけが強調されていく。
そういうものから最小二乗法のようにその中に隠された法則性というか事実を想像するのが好きなのだ。
彼女は元詐欺師だというから、すべてがウソかもしれない。そもそも元詐欺師という話すらウソかもしれない。
そうなると元の話すら信用できない。もしかすると彼女は作家なのかもしれない。彼女のほんとうは何一つわからない。
つかみかかれば折れそうな細い鎖骨。手に収まる触りやすい胸、白い肌、整った目鼻、狐みたいに切れ長で意志の強そうな目。
人の顔は無表情でないと本当に醜い。整った顔立ちの彼女ですらこんな顔になるのかと、新しい発見が出来る。
美人のAV女優だって行為のときの顔はみんな似たような顔をしているようなものだ。
潔癖な親友は人が恋人にだけ見せるあのゆがんだ顔が許せないくらい嫌いなのだという。
人形のように美しい顔は人形のようにあるべきだという。彼はマグロが大好きだった。
相手になったつもりで考えれば考えるほど、自分がわからなくなってきた。それでも体は熱く、心臓は激しく脈打っている。
快楽が強く顔がゆがむくらい痛い。寒い日に肌が突っ張って古傷が痛むのに似ている。
彼女は何を考えているのだろうか。
まあ、僻みや妬みがでてくるのはわからんではないけど、
「京大生への教育投資が!」的な声が多いのは正直よくわからん。
んなもん職業選択の自由だろ。
国家の問題どうこうを言う、おまえのほうが、憲法ないがしろにしてるだろ
個々人の人生の自由が阻害されることのほうがよっぽど大変なことだよ
そもそも、京大や東大を出た人間が人生を自由に選び取れるわけでもなし
おれだって、大学出たあと半年ニートやってたしな。そのあとも、なんどか仕事やめたりしてる合間で合計で3年ぐらい無職だわ。
少なくとも、法や倫理の問題として、職業選択の自由を論じるのはどうかと思う
頭脳流出やら、キャリアプランニングと教育の関係をうまくまわすための政策的課題として議論しましょうっていうのならわかるよ
まあ東大とか京大出た人が、みんな主婦とニートになったら困るから、
そこは「なるべく、東大出た人はなるべく日本国内できちんとしたキャリアを歩んでもらえるといいね」っていうぐらいのことを
実現するために、それをサポートするための政策的とりくみをやりましょう、っていうぐらいの話は別にいいよ
それはやればいい。
でも、主婦やりたいって人はやればいいじゃん。無職になりたい人は無職になればいいじゃん。
なんで職業選択の自由の問題と、政策的課題みたいな話をごっちゃにして、偉そうな説教たれてる奴がこんなに湧くの?
我々ははした金のために、我々の自由を引き渡すようなことをするべきではないよ。
このブログが、人気だ。
「「京大出て専業主婦なんてもったいない」と言う人は、じゃあわたしが何をすれば許してくれるのか」
http://seramayo.hatenablog.com/entry/2016/05/23/121352
京大を出たが、就職したり、研究者になったりせず、専業主婦になったことに対して、他の人からその行為を「もったいない」と言われたという話だ。
http://anond.hatelabo.jp/20160524012315
一方で、高等教育もコストが掛かるんだよという意見をいう人も居る。
http://anond.hatelabo.jp/20160524045830
それは、「天賦の才能は神から与えられたもので、返す必要がある」という指摘だ。
これはもしかしたら、上のブログでもったいないと言ったという話に繋がるかもしれない。
東大京大に入る程の頭脳は神から与えられた天賦の才能だ。天賦の才能を持つ人は社会にその才能を還元する義務があるのではないかと考えている。例えば、プロスポーツ選手は単に試合をするだけではなく子供にスポーツを教えたりする。それは単に人気取りの為だけではなく、彼らが与えられた天賦の運動能力を社会に還元させるという目的もある。
ハテブの中にノブレス・オブリージュの話が出ていたが、優れた能力を持つものは、より多く社会に貢献すべしという主張に通じるのかも知れない。
京大を出て専業主婦をする人のエントリーに関して感じる違和感は、「天賦の才能」に対する意識の欠如だ。彼女の頭脳は彼女の努力の賜物ではあるが同時に、神から与えられたものでもある。その意識が低いように感じる。
研究者になったり企業人にならず、専業主婦を選ぶことも立派な人生だ。それでも、自分が「天賦の才能」を与えられていることを時々は思い出して、例えば自分の子供だけでなく、貧困層の家庭の子供に勉強を教えるとか、恵まれない人にも何かを教えるとか、与えられた才能を活かす方法を考えてみてほしいな。
ちなみに私は、ソフト開発に天賦の才があったようで、良いソフトウェアが書ける。
だから私は仕事としてのソフトウェア開発だけじゃなくて、休日にgithubにソースコードを上げたり、qiitaにコードを書いて検証した結果を上げたりしている。
自分に優れた能力があると思っているのなら、その能力を自分一人に独占するんじゃなくて、他人や社会に還元する方法を考えてみてはどうだろう。
「ダメなアルゴリズムで書かれたコードは、いくらでも捨てて書き直せる。しかしデータ構造に問題があった場合、プログラム全体の書き直しに発展してしまう」
この話と微妙にカブるようでカブっていないが、言い方だけ真似たものとして
「クソな下請けはいくらでも代わりを探せる。しかし元請けの回し方がダメだったら全員でデスマ確定」
という話もある。これまた開発経験者ならよくご存知だろう。
すなわち、最低でも年収500以上は確実に貰っているであろう、エリート様揃いのITゼネコンの中にも、一握りの、まさに一軍というべきデキる人達と、そうじゃない人達がいると。
そして一軍と二軍以下では、マネージメントにおいて天国と地獄くらいの差が出るのだから恐ろしい。
というかなんでそれだけの年収に見合う学歴がある人達なのに、デキる人が一軍扱いされるほど少数なんだよ、意味わかんねえ。
学歴というのは、努力の仕方、効率の見極め方についての上手い下手の最も分かりやすい数値だと個人的には思っている。
そうなれば当然高学歴は、システム開発という極めつけの頭脳労働で、そのパフォーマンスを遺憾なく発揮し、協力会社含めて皆をハッピーにするのだろう…そう、一軍ならね。って、全員じゃねーのかよ!
具体的にはこうだ。
良い方から説明すると、一軍のマネージメントは要件定義から寸分の隙もない。
顧客の経営戦略に基づいた要望を良く理解し、仕様に取り込んでいることは勿論、システム間通信のような、後でとんでもない話が発覚して色々揉めそうな部分も、既にこの段階において顧客の協力を取り付け、キッチリまとめていたりする。
とにかく裏で細かく調査していたことが見て取れて、仕事したんだね~という感じである。
それから設計に取り掛かるのだが、やはり要件定義の段階で「どうしても見えない部分」はあって、下請け以下が作業の過程で洗い出した結果、それが時にはリスケを招く事故になることがある。
しかし一軍の人らは、本来最後の手段であるリスケにも比較的前向きで、それについての顧客説明もしっかりしているのだろう、大して揉めること無く妥当な落とし所にたどり着くのだ。
また、下請けのグループ(≒サブシステム単位)に必ず1人以上プロパーを配置し、現場感の吸い上げと「同じ釜の飯を食ってる」感の醸成にも抜かりない。
それもあって、現場でよくありがちな「あの人ら(元請け)何も分かってない」という陰口は最小限になる。
強引にまとめるなら、リスクが常に頭にあって、かつその取り方について常に考えを巡らしている。「かもしれない」運転をしつつ、逃げ腰にならない姿勢は見事である。
そして、二軍以下は上述の一軍の振る舞いが全くできない。本当に全部できていないのだ。
要件定義は客の要望を汲み取る所から既に漏れ漏れ、当然後ろの工程で揉めそうな部分は一切見ていない。
設計の大元、ひいてはシステムの大元になる部分がこれだけ不完全だと、その時点でデスマ化・炎上は約束されたようなものである。
その後に起こる事態は、もはやここに詳しく書くまでもない。
穴だらけの要件定義を、場当たり的に客に相談しながら埋めていく作業が設計のお仕事になり、それが相次ぐ仕様変更を呼ぶ。
結果どこまでExcelやソースコードをいじっても作業量が減らない、いやむしろ増える。しかも成果物が増えてくる各フェーズの終わりが近づくほど、「横展開」という名目で作業量が爆発的に増大するのだから始末が悪い。
各成果物を直しきれず「修正漏れ」という事故を仕込むことも頻発し、それに伴い品質も凄まじい勢いで低下する。
それでもケツは絶対に動かない。それどころか人員の追加すら出来ない元請けもいる。お前ら見積もりドンブリ過ぎだろ。
現場では脱落者が日常的に出る。でも下請けチームにプロパーが1人もおらず、そうした危機的な現場感が上に届かない。それも合わさって「あの人ら何も分かってない」という愚痴が漏れ聞こえるようになるのだ。
こんな体たらくじゃテストに漕ぎ着けるなんて夢のまた夢だし、仮にどうにか辿り着いても、何がどう動けばいいの?ってレベルでグダグダだったり。
いやもう、マジで元請けの人らは何やってんの?という感じ。優秀な人が何十人もいるのに機能していないとか、なんでそんなことになるんだか。
大澤真幸が働いてた大学院にいた頃、社会学界隈、それから社会格差や性・国籍など左翼っぽい学問領域の人間と関わったことがある
あの旧帝国大学の研究者だけではなく、周辺の私学の人とも関わった
そしてしみじみと思った
「ああいう環境なら北条かやみたいな公害が生まれてもおかしくないよなあ」
社会学界隈と、ジェンダーや人権問題、社会格差など左翼っぽい学問領域では、頭が悪いか倫理性の低い人間が闊歩しやすい
もちろん人間的にも頭脳的にもすばらしい方々はいらっしゃるが...
特に左翼っぽい領域、中でも性的な問題もしくは日本特有の差別問題に固執する人文系の研究者には、失礼ながら脳の腐ったような人が多い
北条かや、本名敷田八千代は社会学が専門であり、さらに左翼っぽい学問領域が専門だ
学部時代は在日コリアン差別を扱う研究室に所属し、大学院ではジェンダー研究の世界にどっぷり浸かっていた
彼女の周りには、頭が悪いか倫理性の低い研究者が多かった、そしてそんな研究者を非難する人が少なかった、と考えられる