はてなキーワード: 非情とは
嫌悪感がある方はごめんなさい。
Webで調べて、デリヘル形式のお店に決め、コース・予算をチェックして電話。電話によるとすぐ入れるとの事。
お店は隣の街なので、電車に乗り、駅について改めて電話。ラブホテルを紹介されチェックインして改めて電話連絡。
そしてお風呂にお湯を張り、AVチャンネルを見ながら姫の到着をしばらく待つ。
かねてよりM風俗に興味があったのだが、なかなか足が伸びなかった。賢明な増田諸兄ならご存知の通り、M風俗はやや割高なのである。
エリアによってはソープランドとほぼ同額なのだ。同額ならばソープランドの方がよい。この時まではそう考えていた。
その日は違った。
入れるより入れられたかったのだ。
直近にストレスを抱える事案があり、色々と解放したくなったのも、この店を選択した理由である。
そんな様にM風俗に来た理由を自分なりに逡巡していると、ドアホンが鳴る。
開けると目方40歳位の小奇麗な女の子がスーツをびしっと決めて立っているのである。
部屋の外に立たせていてもしょうがないので、ささと部屋に通す。
今日は暑かったですねとかそんな話をしながら、ソファにささどうぞとエスコートする。
着座した女の子が重そうな鞄から出したのはプレイカルテであった。
なんて呼んでほしいか、どのようなプレイをしたいのかなどを女の子と話ながら記入する。
ソフトM/普通のM/ハードMの選択肢があったのだが、いかんせん初めてなのでどの程度のものなのかがわからなかった。
「M風俗は初めてなのでソフトMコースが良いです。痛くないやつ。ただエネマグラとバイブとペニバンはおしりに入れてください。」
「初めてなのによくばりね。」
カルテの記入が終わると女の子は重そうな鞄から色々道具を取り出しベッドの周りに並べていく。
胸重視の増田諸兄ならばそうだと思うが、
しかしながら非情な事にこの日は大平原に二つのクルミであった。
いつもならボディソープを泡だてている後ろから胸を触るかどうかの葛藤がある(だいたい触らない)のだが、
この日はそんな気が起きなかった。
シャワータイムは臀部を入念に洗っていたのが記憶に残っている。
そしてシャワーが終わると先に出て、
ベッド上のアイマスクをして仰向けで待つようにとの指示を受ける。
指示通りアイマスクをし、ベッドで待つ。
緊張である。
ベッドの端が沈みこむ感覚があり、近づいてきた事がわかる。
最初は足元に口づけがあり、そのあとはアダムタッチだとかフェザータッチだとか言われる技法で
全身を触れてくる。とても気持ちいい。自然とオットセイの様な閨声が上がってしまう。
「女の子はいつもこんなに気持ち良い事していたのか、ちくしょう」などと恨みごとが湧きあがってきたのを覚えている。
アダムタッチを熟知している増田諸兄には周知の通りだと思うが、
敏感な個所にはなかなか触れずに焦らしてくるのである。
アシカの様な咆哮をあげていると、するりと感触が伸びてきた。
待ちに待った時が来たのだ。
そうすると、あつい温泉に入った時に覚えるあの「くうっ」と視界が歪む感覚があり、頭が真っ白になるのである。
おそらくドライオーガズムと言う奴であろうか。そうであってほしい。
そして一呼吸おいてアイマスクが外される。
私の体も正直であった。
そして四つん這いになるように促される。
いよいよである。
最初は指が一本入ってくるのだが、
これがまた気持ち良かった。
すぐにまた元気になってきた。
私の体も正直である。
そのあとでエネマグラをぶすりと差し込まれてびくりびくりと刺激されると、
いくつかの小玉が数珠状になったバイブレーターで、そこにゴムをかぶせて利用するそうだ。
一つ二つと丁寧に押しこまれていく。
増田諸兄ならば普段感じているであろう、あの排便の快感がずうっと続く感じなのだ。
そんな意識がもうろうとしている中、「きゃあ」と悲鳴がきこえた。
「何」と聞くとどうやら血が出ているらしい。
そうするとまた「きゃあ」と声が聞こえる。
「どうしたの?」と聞くとバイブにウ○コがわさっと付着しているようだ。
どれどれ、と見てみると確かにバイブレータの小玉の隙間が茶色で詰まっている。
これは無理だね、と言う事でペニバンを待たずに終わってしまったのである。
仰向けでの手作業をしてくれると事になったのだが、
ここでもまた「きゃあ」である。
あまりの気持ちよさに力が入りぷりぷりと少量ではあるが排出してしまったようである、、、いや、出ていく感覚はあったのだがどうしても体を止められなかったのだ。
「ごめんなさいね」
「いいのよ」
私の悔恨をしっかりと手で受け止めてくれている聖女がそこにはいた。
そのあとお風呂に入っていつも流れで終了する。
この間、お尻が高鳴りっぱなしであった。
どうかきっちり浣腸・直腸洗浄を済ませてから事に臨んでほしい、
と言う啓蒙を持って筆を置かせて頂く。
となりの人もそう思っていると思う。
だったら隣の人と協力したほうが、より少ない危険でより効率的に妻や娘を守れる。
隣の街の人とも協力したら、もっと少ない危険とよい効率が得られる。
そうしてできたのが国だと思う。
そうして死んできた人たちの中には、俺が一度も顔を見たことが無い人たちがいる。
彼らは俺と俺の妻と娘のために死んでくれたことになる。
そうして死んでくれた人たちがいるのなら、俺も死ねるのではないかと思う。
そうして死んだならば、おれがそのために死んだ人々や運良く生き残ったおとなりさんには、ときどきは俺に会いにきてもらいたいと思う。
国家は時として、巨大で非情なリヴァイアサンになる。それをリヴァイアサンたらしめる原理は、俺やお前が妻や娘のためになら死ねると思う心にこそ宿っているのだと思う。そして我々の国語ではこれを「業」と呼ぶのだと思う。
※冒頭のお詫びとお断り:検索対策のために、略字を多用することになりました。読みづらくて申し訳ありません。
お勧めいただいた『R』、読了しました。小説を読むこと自体が、わたしには滅多にないことなので、読み出し当初は困惑しつつも、広大な小説世界に潜り浸るという新鮮な体験を楽しむことができました。作者NAの文体も、読み慣れてチューニングが合うようになると、とても心地よく感じました。そんな読書の幸いを少しだけ、感謝を込めて共有させていただけたらと、拙い感想をお届けいたします。ご笑覧いただければ嬉しいです。(わたしには本当に文才がないので、つぶやきの投稿のように、思いついた順番で書き散らかしまうことを、どうかご容赦ください。いわゆる「感想文」を期待されませんように…。)
『R』のなかに見出した、タイトルとなった人物RRと、修史を完成させたSS、そしておそらく、作者であるNAの、幾重にも折り重なった宿命との葛藤が、深く胸に響きました。読書中は熱い臨場感をもって読み進めていたのが、いま、こうして彼らについて語ろうとすると、静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ちになるのは、なぜだかわかりません。書きながら、自分の感情を文字にして確認してみたいと思います。
RRが、内に抱えた矛盾を少しずつ自覚し、揺れていく様は、わたし自身も覚えがあり、とても身につまされました。B帝に誤解され、国に残した愛する老母も妻も子供も弟も、みな殺されてしまう。RRは、大いに怒り、忠誠を誓ったはずの国とのつながりを見失う。思い返せば、これまでR家の忠誠に国は報いてくれたことがあったかと疑い、むしろ辱しめを受けただけだと失望する。そして、首を取って戻るという目的を喪失したものの、よく似た身の上で、誰にも認められなくとも、国への愛情と忠誠を抱き続けたSBに、尊敬の念と敗北感を抱く…。
家族を殺された怒りの大きさのあまり、B帝に誤解させたであろう同姓のR将軍の「存在」を怒りの矛先として、即座に彼を殺害したRR。けれど、B帝の誤解の原因が本当にそうであるか、定かでないはず。B帝と同様に、RR自らの誤解の可能性が、R将軍の命を奪い、彼を愛した皇太后を悲しませたかもしれないことに思いは至らなかった。ただ怒りに身を震わせて、衝動的に行動してしまった。おそらくは、B帝がRRの裏切りだと誤解して、衝動的に一族皆殺しを命じたように。
たしかに、身分の違いによる命の重さの違いを当然とする価値観が、受け入れられていた時代だったかもしれません。それゆえ、別の場面では、砂漠の中、戦局が厳しく、少しでも確実に部隊を生き延びさせるために、RR自ら、部隊に男装して混じっていた妻たちを殺害する命令を、冷静に下したこともあった。同様に、愛する妻を殺された部下は、敵に寝返って、RRの部隊の勝機を完全に奪った…。
RRは、自分がされて苦しんだことを、他人に対して無自覚にしてきたということ。それゆえ、RRが直面した苦しみの本質は、因果応報で自業自得というメカニズム、…などでは「決して」ないと、わたしは思います。そもそも、RRの行動は、彼なりに状況に応じて最善と思われる選択をした結果でした。作者も、そんなRRを「悪」として描いてはいません(むしろ、宿命との格闘を活き活きと描写する姿勢には、愛情を感じます)。状況に追い立てられ、もがきながら生き延びてきた選択の愚かさを、もしも誰かが(分析好きのわたし自身が)指摘するなら、それは一生懸命さに対する揚げ足取りにすぎず、そもそも人間はそういう愚かな存在だし、渦中にあったら、わたしもそうしたはずだと(ましてや、さらに低きに流れていた可能性のほうが大きいと)、反論せずにはいられません。
SBと邂逅後のRRは、自らの抱える矛盾や二面性に気がついて、苦しみを深めます。B帝の死後、かつて望んだように、国から彼が認められ招聘が掛かるのですが、それを断る弱々しい(元気のない)声のRRが印象的です。RRは、ここでもまた無自覚で、言葉を結んでいないものの、自らを通じて、人間存在の内にある矛盾や二面性に、また国(人間社会)の内にある矛盾や二面性に直面して、途方に暮れているのではないかと、わたしには感じられました。さらにいえば、SBのように国への想いを貫ける強さも持ち合わせず、そのSBを羨望する弱い自分を恥ずかしく思うRRは、それゆえ人間の矛盾と二面性を丸ごと生きているのでしょう。RRの覚悟が悲壮であるとすれば、そのような自分に気づきつつも、両極に引き裂かれてどちらへも動けない苦しさゆえと感じました。正しい道はあまりに険しくて進めず、かといって居直ってダークサイドに落ちることもできないと自覚した以上、どっちつかずのまま生きながらえます(B帝の死後、7年目に没)。おそらくはRRも、自殺による幕引きを自らに封じた一人でした(文中では、現地での恩義や家族などのつながりをRRはあげていますが、対して、RRの祖父は、親のいない孫を残して、義憤から自死を選んでいます)。
ところで、RRは、自らとSBとを「隔てる根本的なもの」に直面し、自らへの「暗い懐疑」を自覚するに至るのですが、SSとの関係もまた非常に興味深いです。
SSは、RRの名誉を守ろうとしてB帝らに反駁し、結果、死よりも恥ずかしむべき宮刑を受けます。ところが、このことを伝え聞いたRRは、自らの沈む絶望が深く、SSに対して何の特別な感情も抱きません(し、そのようなクールなRRの反応を、SSは伝聞することもありません:そこに作者NAの優しさを感じます)。対してRRは、B帝のため国のために信義を尽くそうとするも、相手から誤解され、罰せられて一族が殺されたことを知り、大いに絶望して反転します。しかし、自らが、為を思って働いた相手に無碍にされることが、どれほど当人を傷つけうるかに、思い至りません(し、それも尤もだと説明を書き添える作者NAには、RRへの深い愛情を感じます)。
そんなSSですが、42歳にしてようやく父の遺言を継ぎ、修史の編纂に取り組むことが叶います。現代の人々に知らせるために記録するにとどまらず、人間の叡智として後世へ伝え残すための歴史、なにより自分自身が書き残したい歴史には、「人間についての探求」が不可欠だと考え、「述べる」と「作る」との違いを熟考する。しかし、真摯に取り組めば取り組むほど、歴史上の人物と自分自身とが渾然一体となるような文章、まるで描き出す歴史上の人物の中に自分が生きているような表現、憑依し憑依される活き活きとした文体が流れ出る。そうした箇所を削除すれば、たちまち修史はいくつもの死人に関する記録に成り下がる。削った字句を戻して、ようやく歴史上の人物たちが「安心してそれぞれの場所に」落ち着くように思われる。
このSSの創作風景に、作者NA自身の創作風景を重ねて見るのは、自然でしょう。わたしは、NAについてほとんど何も知らないけれど、この『R』やその他の彼の短編小説なども、歴史書を下敷きにして創作されたと(文庫巻末の解説に)目にしました。憑依し憑依される関係性のなかで、自らの書く小説の中に(のみ)活き活きとした自由を感じられたのは、SSだけでなく、NAもそうであったと想像します。
先を急ぐ前に、もうひとつSSについて。時代的・文化的な特徴と思われますが、宮刑を受けて「男」でなくなった自分の身体は、「完全な悪」に落ちたと苦しみます。心の傷は癒えても、醜悪な身体は、死ぬまで自分を苦しめる。それは、自分という存在そのものが、悪である証しであり、生きる限り続く恥辱だ、と。これが、「盲目的な獣」としての苦しみの段階です。(が、作者NAの有名な短編『S』では、狼へと変身して初めて思い至った気づきを、数日で通り過ぎてしまうあたり、作者NAが、SSに託した気持ちの大きさを思います。)
その後、SSは、我が身に降りかかった苦悩・人生への懐疑とは別の、意義を疑えない「畢生の事業」である修史に「無意識の関心」が向いており、それゆえ自ら死を選ぶことができないでいるとハッキリと自覚します。ここから、「より意識的な・人間」としての苦しみが始まります。この、獣から人間への飛躍が、とても深いことに感嘆しました!
「獣」と書いていますが、つまりは世俗の社会的価値観のなかで「盲目的に」生きている段階のことです。ここでは、「身体=身」と「心」という対比が支配しています(「身/心」という二元論で捉えられています)。舞台となった漢の時代的・文化的な特徴として、名誉や忠誠といった「心」を守り通すためには、人々は死を恐れず、むしろ喜んで「身体」を自ら差し出します。SSも、死刑を恐れてはいませんでした。しかし、醜悪な「身体」となったSSは、その恥辱から「心」を解放すべく死を願うも、それを押しとどめるものの存在を予感します。自宅に戻ると、それは父に託された修史編纂の完成であることを理解します。自らに刻み込まれた「宿命的な因縁」として、「肉体的な」仕事とのつながりを放棄できないことに改めて気づかされます。ここから、「より意識的な・人間の苦しみ」へと飛躍するわけです。
ところで、世俗の社会的価値観(=知覚や意識)は、SSの「心」=「我」と、「身体=身」とを形成してきたものです。しかし、託された使命への自覚は、既存の価値観にとって、おめおめと生き恥をさらすような人生を続けることを求めます。SSの抱く既存の価値観(=知覚や意識)にとっては、耐え難く、非情な要請です。そのため、「知覚も意識も」持たない、修史編纂のための「機械」に過ぎないと、(既存の価値観=知覚や意識で)自分を定義しなければ、自らに言い聞かせなければ、生き続けられなかったのだろうと思います。SSがSSであるという意識の土台となる「心」=「我」も、そのために捧げる「身体=身」も、当時の社会的解釈の上に成立してきました。この解釈にいつまでも安住できたら、まだSSの苦悩は浅かったかもしれません。「宿命的な因縁」、すなわち、いにしえから脈々と受け継がれて自分に生命(魂)を与えた血統のように、時代を超越した「肉体的な」つながり=使命(魂)への自覚は、SSに当然視してきた当時の社会的解釈に安住し続けることからの飛躍を求めたわけですから。「心/身」という二元論を越えて、使命を抱く「魂=肉体」として自らの存在そのものを捉え直すことは、当時の社会的解釈から、漢の時代的・文化的制約から、身を引き剥がすことでもあります。それは、昭和の時代から当時を見つめる、超越的な作者NAの視点でもあります。
ここで描かれたSSの姿は、作者NAの解釈したSSの苦悩であり、おそらくは、昭和の現実を生きて苦悩したNA自身の苦悩の姿であるのかと思います。作者NAもまた、病床のなか不遇のなかで「心」も「身体」も傷つきつつ、作家として生きる使命によって、自らの小説の中に「魂=肉体」を解き放したのかなと思いました。(ちなみに、「魂」という単語は、作者NAは使っていません。でも、明らかに、「身体」=「身」と、「肉体」というのを使い分けています。その差を強調するために、わたしが勝手に補ってみました。)
そういうわけで、困難な戦場を生き延び、また自らに暗く懐疑するRRも、自らの信じる正義を貫き、恥辱に苦悩しながら使命に生きるSSも、その抱えた宿命の重さにも関わらず、活き活きと自由に躍動する姿には、作者NAが重ねられているのだと思います。NAにとって、小説を書くことというのは、憑依し憑依されてその世界を生きることなのだろうと感じました。事実、『R』のなかで、RRとSSの二人について「だけ」、歴史上の人物としての事実の描写だけでなく、その場にあって思い感じたこと、彼らの知覚と意識まで作者は思い描き、詳細に語っています。(わたしは、新潮文庫を購入したのですが、その文末の解説に、『R』はRRとSSとSBの三人の物語だと紹介されていて、そりゃちょっと違くないか?と違和感を覚えました。それもあって、今回の読書では、基本的に予備知識なく、勝手に読んでいます。)
だからこそ、冒頭に書いたような「静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ち」を抱いてしまうのかなと思います。RRやSSが抱えた宿命の重さも悲壮な覚悟も、作り物としてのフィクションではなく、また単に歴史を題材にした半分史実・半分フィクションといったものでもなく、作者NAが抱えたであろう実体験を(ノンフィクション、と片仮名で書くには軽すぎる経験を)、わたしはそこに感じたからだと思います。
作品は、読者の能力に応じて・読者がそこから読み取れるものしか、読むことができないのだろうと思います。(それゆえ、例えば同じ聖書であっても、子供が、若者が、大人が、死を前にした老人が、それぞれが自分に必要なものを、そこから読み取ることができるのだと思います。) だから、わたしが読むことができた『R』は、私の興味・関心に限定された、豊穣な作品全体のごくごく小さな断片に過ぎないと自覚しています。きっと、H.H.さんからしてみれば、幼い読み方だと笑ってしまわれるような感想だったかもしれません。それでも、この作品に出会えて、とても嬉しいです。作品を作ることに込める覚悟のようなものを、改めて考えるキッカケをもらえました。ありがとうございます。
最後に、『R』を読みながら、H.H.さんがそこに読み取ったであろう痕跡をいくつか感じました(例えば、存在することが悪であること、それでも書写機械として生きる覚悟をしたSSの中に)。そんな大切な小説を、紹介してくださって、本当にありがとうございます。とても光栄です。でも、もしかしたら上述した私の感想は、そんなH.H.さんの想いを、まるで現国の試験問題に答えるかのように切り刻み、分析し、曲解した失礼なものと映ったかもしれません。もし、不快な気持ちにさせてしまいましたら、本当に申し訳ありません。(あなたの真摯さに敬服するファンとしては、自分の正直で素直な感想を真摯に伝えるべきで、あなたのご機嫌を取るために媚びを売るような接し方こそ失礼なのでは、と勝手に考えてしまいました。決して、あなたを否定するものではありませんこと、ご理解ください。)
自分について思索する道を、Kさん=H.H.さんに教え導いてもらえたように感じています。あなたの魂=肉体の存在に、感謝します。(勝手なファンの願いであり、余計なお世話かと思いますが、だからこそ、どうかご無理をされず、くれぐれも心と身体を大切にしてください。) あなたの幸いを心からお祈りしています。
h_s
オートロックで締め出しを食らってしまった。引っ越してきて日も浅かったということと、疲労困憊で頭が回っていなかったことが災いした。近所のコンビニでちょっと買い物、と思って鍵もケータイも未所持だった。
とりあえず、エントランスのインターホンで部屋番号を端から押して応答を待った。しかし、入居戸数が極端に少ないのと、17時という微妙な時間なので誰からも応答がない。
マンションの外周をウロウロして、管理会社の電話番号を探すも、どこにもない。
じわ〜っと、嫌な汗をかいた。
そして思い出した。駅のそばには交番があったはずだ。
ワラにもすがる思いで交番へ駆け込み、「交番で聞くことじゃないのかもしれないですけれど…」と事の顛末を話した。
すると、ムネリン似のおまわりさんは真摯に聞いてくれた。奥から小遊三さん+高田純次さんのようなベテラン風のおまわりさんも登場し、管理会社の電話番号を調べてくれたり、管理会社の番号をマンションまで行って探してくれたり(私が見落としていただけで変なところにあった)した。
その結果、非情にも管理会社の答えは「解錠はできかねます」ということだった。片道1時間弱のところにある管理会社まで行けば鍵を貸してもらえるということだったが、営業時間は18時まで。現在時刻は17時55分。…無理だ。
すると、二人のおまわりさんは「じゃあ行って俺らがインターホン押せばいいか」と言ってくれた。ムネリンが「警察なら出てくれるということもあると思いますので」と付き添ってくれて、端から番号を押した。結果は私の時と同じだった。
気長に待ちます、いろいろお手数かけて申し訳ないです、ありがとうございますと言うとムネリンは「何もできなくて申し訳ない」と言った。ムネリンはチャリンコで交番へ戻っていった。
あと2時間も待てばさすがに誰か来るだろうと、締め出しの原因となった牛タンをもぐもぐ食べながら待った。すると、30分ほど待っていたところでいかにも親切そうな入居者の方が来た。黙って一緒に入るのも気が引けたので、「あの!鍵を部屋に置いてきてしまったので、一緒に入れていただいていいですか?」と言ったら、入居者の方はちょっとびっくりして「じゃあちょうどよかったですね」と言ってくれた。
部屋に戻ると、点けっぱなしのテレビが夕方のニュースを映していた。なんだか気が抜けたのと、締め出されたこと以上におまわりさんや入居者の方がいい人だったことで、なんだか涙が出てきた。
お婆さんを助けたせいだ。俺は今わの際にそう思った。俺は佐々木誠也26歳。情けないことに、こうして自死を選ぶ。それもこれも、あのお婆さんのせいだ。
あれは俺が大学4年だった頃。就活中。100社以上エントリーシートを送って、やっと最終面接にこぎつけた企業の面接日。俺は時間に余裕を持って家を出て、面接会場に向かう道すがらだった。横断歩道で信号待ちをしていたら、隣に立っていた見ず知らずのお婆さんが倒れた。周囲に人はおらず、俺がやるしかなかった。俺は類まれな危機管理能力を発揮して即座に救急車を呼び、救急車を待っている間にも息と脈を測り、気動を確保し人工呼吸をし、救急車の音が聞こえるや、救急隊員をお婆さんの所に誘導して倒れた時の様子を説明しながら隊員と一緒に救急車に乗り込んだ。
お婆さんは一命をとりとめたが、気がついたら面接には大遅刻。物語だったら助けたお婆さんの親族が面接官でって展開になるわけだが、現実は非情だった。どんなに説明しても時間に遅れるなど社会人失格と、取り合ってもらえなかった。
そのまま就活は全滅。飲食店でフリーターをやりながら就職浪人をしてみたが、既卒をまともに採用してくれる所なんてなかった。フリーターの仕事はどぎつくて、休みなく働かされた。大学時代から付き合っていた彼女との時間も取れなくなり、愛想を尽かされて振られた。2年でうつ病になり働けなくなった。
うつの治療をしながら、起死回生をかけて、ネットで海外の珍しい品物を見つけて輸入して売る輸入業を始めた。だが、俺にはセンスが無かったのだろう。4年頑張ったが鳴かず飛ばずで廃業した。
別に俺の事業の失敗のせいではないだろうが、時を同じくして両親が相次いで他界した。気がつけば俺が持っているのは、事業の失敗で作った借金だけとなった。フリーターの給料じゃ、何十年とかかっても返せないだろう。悲しむ人も居ない。俺は先の見えない人生に絶望して自殺することにした。
本当に、ほとほとろくな事のない人生だった。だがそれもこれで終わりだ。熱いため息を一つついて、俺は意識を失った。
* * *
目が覚めると病院のベットの上だった。失敗したらしい。失敗だらけの人生、俺は自殺すらまともにできないのか。硫化水素を使ったのが悪かった。医者が言うには、アパートの隣人が異臭に気づいて通報したらしい。俺は無意味に命を永らえた。自殺未遂をしたというのに、見舞い客一人来ない命を。
しかしながら、ベットの上でぼうっと過ごすうち、あれほど自分を苦しめていた重苦しい感情がすっかり無くなっていることに気がついた。健康保険もなく入院なんてして、また借金が増えると思っても、なんてことはない。一度死んだ命、あるだけ得さ。生まれ代わったような気分だった。やっぱりどうにもならなかったら、また自殺すればいいんだ。それまで気楽に生きていこうじゃないか。
『それ』に気づいたのは看護婦が食事を持ってきた時だった。
「小指、どうしたんですか?」
「えっ?」
「小指ですよ、小指。そういうの、流行ってるんですか?」
なんのつもりか、若い看護婦は自分の小指に赤い毛糸を蝶々結びに結びつけていた。ずいぶん長い。糸の先を目で追うと、病室の外まで伸びている。仕事に支障はないのだろうか?
「私の小指が、どうしたんですか?」
だが、看護婦は不審な顔をしている。俺の正気を疑っている顔だ。
「だから、小指の毛糸ですよ。ほら、看護婦さんの左手に……あれ?」
やはり看護婦の小指には赤い毛糸が結びついている。だが、それだけじゃない。その毛糸は、今やってきた医者の小指とつながっていた。どういうつもりなのだろうか。
すると若い男女はお互いに顔を見合わせた。
「患者さんの前で、よせよ……」
二人とも、ちょっと照れているようだ。目と目で通じあって、やたら幸せそうである。しかし、若い医者は訝しげに、
「でも、なぜそれを?」
「それ、とは?」
「確かに私達は婚約しますが……別に、言いふらしているわけじゃないんだけどな……」
お前か? 私じゃないわよ。なんて目の前でイチャコラするカップルの小指の間には、確かに赤い毛糸が結びついている。しかし二人がそうと気づいている様子はない。
これは、一体何なんだ……?
* * *
たまに男にもそう言う話を振ってくる事も稀ではありません。
反ロリの方達は子供の頃にエロい話を女から振られた経験は無いのでしょうか?
子供に性欲が無いと言う反ロリの方は20歳未満の時にオナニーなんてしてませんよね?
これは反ロリコンに言える事です。
反ロリコンは子供を性的被害から守っていると主張する人もいますが
そもそも子供をセックスから遠ざける事自体も性的搾取になります。
多くの男は若い女が好きです。女も同様に若い男に鼻の下を伸ばしています。
もちろんおっさん、おばさんでも魅力的な人はいますがそう言った人は
常に自分を磨いているような人たちであり、
60の女性に発情する男と15歳の女性に発情する男のどちらが異常でしょうか?
私はロリコンより反ロリコンの方が性的と言うより精神的異常者だと思います。
他人にどうこう口出しされるべき類いのものではないと思います。
本人同士の同意があれば好きにやり合えば良いのです。
他人のセックスに口出し、老いた人が好きな反ロリは非情に気持ちの悪い存在です。
非常に筋の通った文章
ありがとうございます。筋の通らないロリコン批判が多いため反論しました。
子供に性欲があっても、劣化したおっさんにはさわられたくないよ。
1行目を見れば分かるようにロリ反の人も本質的にはロリコンであってあなたもそれを認めているわけです。
また、ロリコンはロリ反に比べて彼女(彼氏)がいる男(女)が多いと思います。
もうただただ吐き出したかっただけです。
ほんと読みにくいし、完全に私の主観で書いているので気をつけて
どう不器用かっていうと、痛いものから目をそらせない不器用だと思う
例えば、普通人間ってグロいものとかを見ると、目をそらすんですよ 目を背けたり、あと、「私グロいの大好き」とかっていう人も、ある意味、そういうそのまま自分にとって辛い、痛い出来事を受け入れると痛い感情がその出来事の自分にとっての痛さのまま入ってくるから、その痛さを軽減しようとして自分がそれを好きってことにして不快な感情を上塗りして逃げようとしてるんだとおもうんだよ まあ、中には自分は他の人とは自分は一味違うっていうのを主張したいだけの人もいるけどさ
そういう辛さ、痛さから逃げることができないんだよね
イェーガーは 逃げようとする(自分を傷つける刃から目をそらす)自分を許せないんだよ 逃げることはもう選択肢にないのよ
だから、「エレンは善悪の基準があって、悪に当てはまったものを廃除しなければ気が済まない」、みたいなある意味単純でわかりやすいキャラクターに映る人もいると思うけど、わたしはエレンは単純な人間ではないと思う かといって複雑ではないんだけど アンパンマンみたいに世の中の悪いこと全部許さない!みたいなのではないそこまで単純ではない 。自分が大切だったもの、絶対だったもの(友への信頼、大切な人)が覆された、裏切られた、なくなったとき、まあ、あとちょっと例外であんまりにも非情な(ミカサの両親殺されてたときとかも 10歳のエレンにはショッキングすぎた)出来事とかも当てはまるかも。結論として、「エレンが怒る基準は人間くさい。」アンパンマンみたいに誰にでも何にでもってわけじゃない。当たり前かもしれないけど、どうでもいい人が殺されててもなんなんだ、とは思っても激昂はしないと思う 善悪っていうとそこに情は伴っていないように見えるけど、エレンは怒る基準、自分が傷つく基準、は世の中の良い悪いじゃなくてほとんどは自分のあること、ものへの思い入れからできてると思う ベルライの件とか 感情に真っ向から向き合って、それから逃げるのはエレンが許せないから、その痛みの根元に正面から向かっていくんだよね
私がエレンに惹かれるのは「痛みを全部そのまま味わってたくさん傷ついてるのにそれから逃げることができない不器用さ」
そういうところがあるからですね
2014/1/1 全文が正しく表示されていないことに気づいたため修正した。遅ればせながら指摘に感謝したい。
才能のあるワナビは己の思うがまま書き連ねればそれで問題ない。一次落ちなど経験することも無く、一発で新人賞を取ったり、取れなくても編集者が連絡してきたりして遅かれ早かれデビューに至り、そしてワナビに向けたラノベ創作論を書いたりする。私はこうやってプロとして本を書いてます、どうぞ参考にしてください。
これが意味するところは、才能のあるワナビは他人の書いた創作技術本を読んで必死にトレースしたりなどしなかった、という非情な現実である。ノウハウ本を欲するのはいつだって才能のないワナビで、そして才能の無いワナビは今日も選考落ちの通知を見て顔を覆うのである。○○先生の本に書いてある通りにやったのにどうしてダメなんだろうか。何がダメなんだろうか。
スティーブン・キングがプロットなど不要だと言う一方でディーン・クーンツはプロットの無い作品など糞だと断じる。大塚がまずキャラから作れと言う一方で冲方は世界から作らないようでは話にならないと言う。
ラノベに限らず小説創作技術本はそれぞれの主張がまるでバラバラであり、まとまりがない。もっともこの手の本は意識の高いサラリーマンがこよなく愛する成功体験本と同じカテゴリである。ゆえに真面目に考える必要は無いとするのも一理あるだろう。
実のところ彼らは単に表現が違うだけで、最終的に同じことを述べてるのではないだろうか。
手順が違うだけで、結局同じことをしているのではないだろうか。
もしそうだとすれば重要なのは手順ではなく最終的にどういう状態であるかにあり、その状態がいずれの作家も共通しているのであれば、それこそが欠かすべきではない要素ではないのか。
大沢は「技術は教えられるが、才能は教えられない」という。だがヒックスは「モノを書くことでの才能の問題は、相当に過大評価されて」いるとして、「それはやっていくことで獲得」できるものだと言う。
Hard work beats talent when talent doesn't work hard.
Tim Notke
本稿は個別の手順というより、最終的にどういった状態を目指しているのか、という観点でラノベ創作技術本の各説を整理し、俯瞰する。筆者はワナビではなく、単なる興味本位でこの整理を行ったに過ぎない。しかし才能が無いことを自覚し、それでもなお努力によってこれを覆そうというワナビにとって、本稿がより効率的な努力を実現する上での一助となれば幸いである。
本稿ではラノベを「ラノベの主要レーベルの新人賞に向けてワナビが執筆する、新人賞を取りうる内容の小説」と定義し、本質的なラノベの定義へは踏み込まない。このことからカテゴリエラーをめぐる問題はこのラノベの本質的定義の限界を探ることと同義であり、本稿では割愛する。
本稿執筆にあたり参考とした文献を下記に記載する。
まだ参照すべき文献は多くあるが、ひとまず本稿執筆にあたっては上記で一区切りとした。
ラノベ作家は商業主義であらねばならない、と五代/榊は明言し、飯田はキャッシュフローを生む作品こそが素晴らしい作品なのだという。実際、ラノベ新人賞は商業的に売れるラノベの発掘を目的としているのであって、ワナビの承認欲求を満たすためにあるわけではない。
新城はラノベの読者の多くは男子中高生であり、すなわち「毎月のお小遣いが限られている学生」であるとする。飯田はさらにラノベの読者はアニメや漫画、ニコニコ動画を好むオタクであるとする。そしてラノベは彼らの限られた小遣いの使い道として選択される商品でなければならない。榎本も西谷も水島も、いずれも同様に読者が誰かを意識しろと主張する。
ところでワナビが書いた新人賞用のラノベの読者は、中高生ではない。
新人賞の下読みの多くは大学生のバイトであり(あるいは主婦や新人編集者)、選考するのはプロの作家であり、プロの編集者である。いずれにせよ選考過程に中高生は存在しない。
読者が誰かを考えるべき、という指摘はもっともだが、プロの作家とワナビでは立場が違う。ワナビはラノベレーベルで勤めるサラリーマン編集者が想像する『中高生』にウケるラノベを書かなければならない。榎本は現実の中高生とふれあい彼らの考え方を理解しろと言うが、本当にそんなことをすれば事案待ったなしのワナビは少なからずいるだろうし、現実の中高生には圧倒的にウケるが20代30代の編集者には全く理解できないものがあったとすれば、それは間違いなく一次落ちである。
行頭は一段空けましょう、といった小説執筆上のお作法ができていなかったからといって間違いなく多くの中高生は気にしない。しかしプロは気にする。そうした基礎的作法の欠如は中高生云々の前にまず彼らに不快感を生じさせる、という点を理解しておく必要があるだろう(応募に際してはあらすじを付すようにという指示に対して小説の煽り文や序文を付けるといった無理解なども根は同じだろう)。
最終的なラノベに至るまでの執筆上の段階や要素は論者の数だけ存在する。例えばキングによるアイディア、原稿の2段階、クーンツを始めとするアイディア、プロット、原稿の3段階、冲方による能書き、種書き、骨書き、筋書き、肉書き、皮書きの6段階などがある。
本稿では「アイディア」「プロット」「原稿」の3段階を用いて各説を俯瞰する。この各段階は「アイディア」が最初であるという点を除けば、随時行き来することがいずれの説においても許容される。一度「プロット」に移行したら「アイディア」へ戻ってはならないなどと主張されることはないし、「原稿」の完成に至ってから再度「アイディア」の段階に戻る作家も存在する。
一方で、これらの「段階」はそれぞれ独立しているわけではないことに注意する必要がある。いずれもその前段階の上に構築されている。つまり、あるワナビが「プロット」に問題があると認識したとしても、その前段階に問題がある可能性は否定できない。これは感想や選評においても言えることであり、問題点の指摘がまったく的外れでなかったとしても、その問題を引き起こしているそもそもの原因は何なのか、という点を突き詰めなければ、根本的な問題はいつまでたっても解消されないままだと言えよう。
以下、それぞれの段階についての各論に入る。
「アイディア」とは筒井がいうところの「妄想」であり、単語、キーワード、フレーズ、断片的な会話や場面など様々なものであり、その創作で用いるかもしれないし、用いないかもしれないネタである。
冲方は「アイディア」を3段階に分けており、まず主題を考え(これを能書きと称する)、次にそこから様々な雑多なアイディアを連想し(種書き)、今回はこのあたりのアイディアを使おう、と決めて整理する(骨書き)という。
しかし実際には冲方自身、これらを行きつ戻りつして執筆を進めていくとしており、「骨書き」の段階からは後戻りしないと固定しているわけでもないことから、本稿では参考として紹介するに留める。
この「アイディア」の種類についてもいくつかの主張があり、例えば冲方は主題、世界、人物、物語、文体の5種であるとするし、榎本はキャラクター、世界設定、ストーリーの3種としている。分類それ自体が意味を持つものではないが、それぞれが独自の用語を用いて自説を主張している状態では整理のしようもないため、本稿では「主題」「世界」「登場人物」の3種に分けて整理する。
本稿では主題とテーマは同一の概念とみなすが、主題とは、そのラノベ創作において根幹となるアイディアのことである。冲方や大塚はこの主題を根として木構造状に各アイディアが繋がっていることを主張する。
主題を確定するタイミングについて冲方は真っ先に考えるとするし、大塚は作成した主人公像の要素を深化させそこから主題を抽出するとしている。榎本はプロット作成の段階で必須としていることからそれ以前に考えておかねばならない。西谷は執筆段階で突如として「物語の核」を意識する、と述べるが、この「物語の核」が主題とみなせるのであれば、プロット後に主題を決めてもいいということになるだろう。
このように主題をいつ考えるかは説によって大きな差があるが、結果としてラノベ創作において「主題」が必要不可欠だと多くの作家が述べていることに変わりはない。
繰り返しになるが、全てのアイディアの共通の祖先として「主題」は位置付けられる。従って本稿の分類で言うならば「世界」や「登場人物」は必ずこの主題と関係する要素を持たねばならない。言い方を変えれば、「主題」はアイディアとアイディアの共通要素として機能するため、ワナビ本人は主題として位置づけたが、それが「世界」や「登場人物」に関係していないのであればそれは「主題」ではない。
この「主題」があることの意義について、「読者は「設定資料集」を読みたいのではなく、「物語」を求めている」という榎本の指摘、また「「細部」には主題が宿る「細部」とそうでない「細部」があります。そしてあなた方の小説がしばしば欠いているのは「主題の宿る細部」なのです」という大塚の指摘を踏まえるなら、読者が「物語」と捉えるか「設定資料集」と捉えるかは「主題」の有無次第だ、ということになるだろう。
設定資料集が好きな人が存在することは事実であるが、彼らは設定資料集ならなんでも好きなわけではなく、特定の物語を好んだことで、その物語のより詳細な背景情報を知ることを好んでいるに過ぎない。興味のない物語の設定資料集など誰も目を通してくれはしない。
このように「主題」は重要な要素であると考えるが、その表現方法に関して榎本は主題を台詞や地の文で語ると胡散臭く、説得力が無くなるとしているし、クーンツは主題で読者を説教してはならないと注意を促している。台詞や地の文での表現を避けるとなれば、多くの場合登場人物の行動、またそれによって引き起こされた出来事によって表現されることになると考えられる。
本稿では会話文の主体になりうるものを形作る上で用いられる情報(名前、性格や容姿、口調など)の総体を「登場人物」と定義する。「キャラ」「キャラクター」とこれを区別するものもあるが、特筆の無い限り本稿ではまとめて「登場人物」とみなす。
一方で、登場人物以外の全ての設定を本稿では「世界」と定義する。具体的には魔法の有無などの自然法則、身分制のような社会構造、もしくは携帯電話の無い世界といった現代社会との差分もまた「世界」である。
いずれを先に考えるかについては諸説ある。例えば冲方や水島は世界が先だとするし、大塚や西谷は登場人物からだとする。榎本のように特に順序には言及しないものもある。
しかしながら冲方と大塚の「世界」と「登場人物」が揃った状態についての言及は非常に似通っている。
冲方は「人物たちの性格や言動や行動の全般は、結局のところ、大半が、世界と時代に左右されたもの」と言い、このような世界だからこそ、そこに登場するこの人物はこのような設定になるのだ、という必然性を要求する。
大塚もまた登場人物の個性については「キャラクターが所属する「世界」の物の見方の価値観に由来するもの」があるとしており、その人物の設定は彼の存在する世界の設定から必然的に生じたこのような価値観に由来するのだ、という必然性を要求する。どちらの側から見るかの違いだけで、冲方も大塚も目指している状態は同じだと言っていいだろう。
ワナビの「世界」について「リアリティが自分の身の回り3mくらいしかない」「おまえの世界には学校とコンビニと自宅しか存在していないのか」と五代/榊は批判し、リアリティには細部の設定が必要不可欠だ、という立場をとっている。一方で「登場人物」の細部情報への批判としては「異能力の内容だけやたら細かい」にもかかわらず「話に全然関係ない」としており、両者をまとめると「主題」の宿る細部こそが必要不可欠であり、それ以外の細部の設定は不要だとする大塚説とほぼ同一と言っていいだろう。
冲方は「そのテーマが内在する世界を、しっかり構築することができるようにならなきゃ話にならない」と世界における主題を重く位置づけた上で「実際にその世界について書かなくても、少なくとも自分は知っていたいし知らないと駄目」と細部の設定の充実に言及する。
その一方で登場人物については、冲方はそれが主題に関係しないのであれば「性別や年齢をあとから決める」とする。水島も登場人物はプロット上の必要性が出てから作れと述べ、最初に長大なキャラ表を作るというワナビにありがちな行為を繰り返し否定する。ヒックスは事前定義表に基づいて穴埋めで作られた登場人物を「組み立てられた登場人物」と表し、そして「最良の脚本には、組み立てられた登場人物は存在していない」と断じる。
だがこれらは登場人物に細部の設定が必要ない、という意味にはなりえない。例えばクーンツはプロットをまず作ることを前提とした上で、リアリティを持った人物描写のためには、登場人物に関しても細部設定が必要だとして、身長、体重、体型、年齢といった肉体的特徴、声や話し方、動作や仕草など多岐に渡る項目の設定を列挙している。
「登場人物」であれ「世界」であれ、リアリティは細かな設定によって得られるものだ、という点はいずれの主張とも矛盾しない。その細部の設定が「主題」と関係する場合は最初に考えるべきとする見解はあるが、関係しない場合、それがとりわけ「登場人物」の細部設定の場合、これを最初に考えることは多くの見解で明示的に否定されている、ということになる。
これとは相反する主張として、西谷はまず人物設定から始めるべきだとする。「積極性」「肉体的な強さ(美しさ)」「いざというときのリーダーシップ」「やさしさ」「辛抱強さ」「頭の良さ」で点数をつけてチャートを作成するのが良いとして、さらには性格、趣味、髪の色からメイクの仕方、ブラジャーの形状までを設定例として挙げており、そこには「主題」との関係性への言及はない。
ところが西谷は実際の作例において仮置きの主人公を用意するに留めており、チャートについては一切触れず、細かな設定も一切用意しない。まず最初に「世界」と「主題」に取り掛かり、「企画を練り上げる段階で、主人公を変えてしまう」「主人公を引き立てる脇役は、書いている途中で思いつく」とすら述べる。
最終的なこの作例が実際の西谷の手順なのだとすればその手法はむしろ冲方寄りである。 Permalink | 記事への反応(5) | 20:41
http://anond.hatelabo.jp/20141130202457
増田アドベントカレンダー2014の10日目です。執筆者は名も無き増田です。
ゲイの出会い系の何が楽しいかを書いていくので、皆さん参考にしてください。
オナニーのオカズは必ず女性と男性の絡みのアダルトビデオです。
男性相手に勃起もしますし、射精もしますが、それは単に刺激により反応してしまうだけで、私はノンケです。
でも、私はゲイの出会い系で、ゲイの人と知り合い、ゲイの人と恋愛をし、ゲイの人とセックスすることを楽しく感じています。
それを詳しく説明していきます。
中高と男子校で、大学は一学年に2人ぐらい、職場には3人ぐらいしか女子がいませんでしたから。
どのぐらい緊張するかというと、くるくるその場で回ってしまうぐらい緊張してしまいます。
それどころか、自分の要望を伝えたり、相手の要望を汲み取ったりと
「会話」すら成り立ちます。
これは大きな違いです。
女性相手には「会話」以前に、ボディランゲージですら自分の意思を伝えられません。
ところがどっこい、男性相手なら会話どころか、ボディタッチすら余裕です。
つまり、女性と男性を比較したとき、僕は男性といる方が楽しいということです。
○女性とのセックスはよくわからない、でも男性とのセックスはよくわかる
非モテですけど、私は風俗などで女性とセックスをしたことがあります。
いつハメていいのか、相手は感じているのか、相手はちゃんと行ったのか、風俗だからというのはもちろんありますが、さっぱりわかりません。
理解できません。
勉強しないといけません。
でも面倒です。
「相手が射精できた」
この2つさえ守れれば、何をしても多分大丈夫なんです。
(ケツ穴を使ったセックスはあまり経験が無いので、この場では省きます)
おちんちんを舐めてあげたり、しこってあげたり、乳首をつねってあげたり、アナルをさわさわしてあげると、相手のおちんちんが勃起して、それらを繰り返すと射精する。
そして何より、それらの機能が自分にも搭載されているので、練習や勉強も楽チンです。
つまり、女性とセックスするより、男性とセックスする方が僕は楽しいということです。
○年上の男性に「甘える」ことの楽しさ
皆さん、最後に甘えたの、何時ですか?
僕は先日の土曜日にたっぷり出会い系で知り合った男性に甘えてきました。
ご飯を奢ってもらい、銭湯を奢ってもらい、たっぷり責めてもらい、たっぷり射精させてもらいました。
そして何より、たっぷり相手に気持ちよくなってもらえるよう、必死にご奉仕しました。
たまに実家に帰ると、据え膳上げ膳でとっても楽ですよね?
それの数倍、年上の男性に甘えるのは楽です。
なんたって、親と違って、独身だし子供もいないから、金持ってますからね。
親に甘えるのとは違って、金銭的に甘えても、
「その分、たっぷりエロいことさせてもらいまっせ」という打算的関係で帳消しです。
まあ、僕はエロいこと大好きなんで、完全にWin-Winどころか
年上の男性は金持ってるから甘えられて、僕は楽しいということです。
「自分をよく見せよう」とか
「相手に好かれよう」という意識がとても強く働いて、
少なくとも僕はそうです。
僕はありのーままのー自分を見て欲しいですし、相手もありのーままのー自分でいて欲しいです。
特にビジネスの場や、社会ではそれは欠かす事の出来ない要素だと思います。
でもそれって楽しくないです。
僕は女性といるより、男性といる方が楽で、楽しいということです。
○結論
「恋人作るよりも、友達の方が欲しい」とかって思ってませんか?
でもそれって、友達の上に、セックスまで出来たらよりハッピーだと思いませんか?
僕の師匠は言っていました、
「男の人は男の人同士で 女の子は女の子同士で恋愛すべきだと思うの」と。
「すべき」はもちろん言い過ぎです。
でも、自分もそうだと決めつけていませんか?
自分がありのままでいられるのは、女性といるときですか? 男性といるときですか?
もう一度よく考えてみてください。
僕はよおく考えてみました。
えっ!この時代に?先進国イギリスの奴隷の数が想像以上だった -
NAVER まとめ http://matome.naver.jp/odai/2141740189417391401
これをみて思ったんだけど、慰安婦はセックススレイブではないって話が日本のいち部分では主張されてるけど、
Slaveという単語が日本と英語圏では意味合いが違うんじゃないかなと思った。
従軍慰安婦は、そういう労働を強いられた女性という意味でもはや強制性とは違うところに議論がずれているのに
日本国内ではあれは女性を奴隷として扱ったわけではないという議論になってて、
日本国内ではブラック企業の従業員とか派遣で安定した職につきたいのに不安定な職のまま同一労働同一賃金も守られて
かつて、日本軍に囚われた捕虜が日本の軍人が日本人の上司にされた非情な行いを日本軍の慣習だからとして受け入れていたことを
同じような行いをされたら捕虜に対する虐待として訴えたように、
そして奴隷が、他の非情な行いを我慢ならじと声をあげた他の奴隷を、そんなことだれでも我慢すべきだって叩いてるんじゃないだろうか
それを認めたら自分が奴隷だと気付いてしまうから、奴隷じゃないと思いたくないんじゃないだろうか
って思わなくもなかった。
○調子
チーズパワーとカレーパワー、そしてHaloパワーによりパワーが50000倍ぐらいパワーアップ!
うおおおおおおお! こんじょだこんじょ!
○Halo TMCC
が、イキナリケースの爪がこわれ箱がちゃんとしまらなくなる自体に。
わざわざコレクション目的でパケ版買ってるのでこれはショック、テンションが50000分の1ぐらいパワーダウン。
さらに長い長いアップデートとインストールを経て、起動するも、
なんてこった。
僕はHaloはかなりの新参者で、Halo4から入って、今年になってからHalo1〜3、ODST、War、Reachと一気にプレイしたから、
このタイミングでキャンペーンをやる気にはならないんだよなあ。
なので、マルチをがっつりやろうと思ってたんだけに、この障害は手痛い。
4歳になる息子は、「大丈夫」と大見得を切っていたが、すごい内股を擦り合わせていたので、無理やり連れて行った。
妻はそれを見て苦笑していた。
それに伴って、1mmも進まない渋滞が発生した。
妻は明らかにいらいらした様子で、息子を叱り出したり、おれを叱ったりした。
渋滞がはじまって1時間ぐらいたったころ、妻は「次のPAまでどれぐらいかかるか?」と聞いてきた。
うーん。と答えあぐねていると、耳元で「おしっこにいきたい」と言われた。
なんだって?
路肩めいた個所はない。
また、規制解除されたら発車を余儀なくされる位置であり、降車はよくない。
「どれぐらいがまんできそう?」
「もう無理かも」
おしっこに関しては、もう漏らしてもらうしかない。非情な決断だ。
その上で、車内の被害を最小限にして、なおかつ妻のプライドをどうするかという問題なのだ。
あれを、妻の座る助手席にしこう。
次に息子だ。
おしっこ漏らす、漏らさないみたいな話は大好きなやつで厄介だ。
ようし。
「おい、妖怪ウォッチはイヤフォンつけてやれ」
「渋滞で止まってんだから、大丈夫だよ。あと、音量最大にすれば気持ち悪くならないし、臨場感が出るぞ」
「そうなの! やってみよう」
「あ、鼻にティッシュ詰めとくと、もっと気持ち悪くならない。あと、運転の邪魔だから、後ろ向いてやれ」
「あ、はーい」
降車して、ビニールシートをトランクから持ってきて、妻の座席に敷いた。
彼女は泣いていた。
情けなかったのだろう。
しかし、きみが泣くことはない。
プロポーズのとき、結婚のときに誓ったように、きみの笑顔を保証する。
妻には運転席に移動してもらって、おれはおしっこまみれのビニールシートが敷いてある助手席に移動した。
そして、おれもおしっこを漏らした。
妻は、「あなたバカね」と言いながらも、涙は消えていた。よかった。
これは素人童貞でもないし、なんと呼べばいいんだろう。
実家のリビングで相手がかなり発情してて、俺は2階の俺の部屋にいってからヤろうと思って相手の手を引っ張ったら、ここじゃないとダメみたいな感じで無理矢理ソファに座らされて対面座位でべろちゅーしながらぐりっと挿入。
あ、これはヤバイと思ったけどギュッと抱きしめられてたのでそのまま中田氏。
現実での射精を伴うものではなくて、ドライオーガズム?っつー類の快感だった。
朝立ちフルボッキだったけど布団汚さずにすんでよかった。
めっちゃ相手がエロかったわ・・・どこの誰かもわからんかったけど、二次元の人間だった気がする・・・
ああ思い出した。
寝る前に読んだブッチャーUのTHE SEX SWEEPERSの5話に出てきた黒髪ぱっつんポニテの子がデコ丸出しにしてる状態だわ。
はひ~
これまでも明晰夢の中で好き放題やったことはあったけど、大抵本番しようとするとやったことないからスカスカでまったく気持ちよくなかったのに。
すげーよかった。
オナ禁してたわけでもないのに。
むしろ3日くらいしてなくて昨晩久しぶりにしたくらいだったのに。
風俗にハマる人の気持ちもよくわかるわ。
■凛
サブヒロインにしては非情に惜しいキャラというのは誰しも皆感じると思う
1章における彼女の存在感は異常でありあからさまな選択肢に引っ張られても仕方ない
「~っす」という口調も当時の女性にありそうであるが大人しめの声質がミスマッチであり逆に個性を引き立てている
娼婦の身の上である故の悩みも悪くない、処女厨はお帰りくださいと言ったところか
■初音
キャラ紹介ではメインヒロイン扱いではあるが…そもそも和菜以外みんなサブヒロインか
エンドは全ての謎をほっぽり出したHAPPY、だが冬史が消息を断ったと聞いてはすっきりしないだろう
TRUE攻略後に分かるが初音√では初音達に手がかかる可能性が残っていそうである
あれほどの期間何も起きない理由って説明されてたっけ?
■楼子
令嬢という立場もあり綺麗な風貌に「ですの」口調
Hシーンに限って言えば彼女が一番えろい(七七は男の趣向をよく分かっているな)
■冬史
登場から圧倒的に頼りになる存在感を放っているが便利キャラなんだよなあ
どこか可愛らしい一面がないかと座して待っていると和菜√での味噌である
日本人は白髪or銀髪へ悪い印象を抱かないらしいが、彼女にも嫌悪感を抱く人は少ないだろうなと思う
秋五との信頼関係はどう築かれていったか詳しく掘り下げられてれば終盤の対峙においても説得力があったんだけどな
Hシーンは極めて普通、隻腕設定いらなくないか…
■七七
高性能すぎて扱いきれてないよね
有島の件は秋五のお手柄と発言しているが彼女の行動力ならいずれ1人で辿りついてしまうレベルである
有島に秋五の察しの良さを指摘されていたが彼女が上位互換すぎるために全て霞む
やるならTRUE後の分岐で爆弾落とすようなものにした方が良かったのでは?
一色さんの演技は素晴らしい
■和菜
声優の演技も悪くないし声質も綺麗で嫌いになる要素はない
秋五へ好意を寄せる過程もわからなくは無いが、昨今一目惚れしちゃうようなヒロインが多いため生半可な理由では納得出来なった自分
そのため過去に何かしら関係があった等の背景がない限りいくらメインヒロインと云えど数日で惚れちゃうのはいただけない
他のヒロインが基本的に以前から繋がりがあるという中で彼女ひとりだけが都合よく君臨してしまうのはなんかなあ
■シナリオ
・ミステリーって何なんだろう、っていうのが浮かぶ
しっかりミステリーが機能するのは1章終盤の七七の問いかけまでじゃないかな
カラスの存在、死体の運搬、犯人の動悸…すべてがそれまでに推測可能だ
以降の展開では、
(そもそもミステリーは主人公視点じゃないと駄目なルールなかったっけ?)
有島がおかしいと確信できるのはミルクホールで一服に出た時が初
それ以前は八木沼をスルーする程度で犯人に繋がる要素とはいえないよな
・上手いと思えるのは殺害における傷の付け方
このため盲目設定であった由良が犯人であるという余地が生まれ、最終的に目にある特殊な変異がキーに繋がっているとも言える
個人的に和菜黒幕説を疑っていたため、姉への復讐とか秋五への執着の線を気にしていた
独特の空気感を生み出す要素としても素晴らしいと思う
ゴアスクリーミングショウのような更なる陰鬱さを覚悟していたので少し安心
1章でヒントを散りばめつつ、2章各√でヒントのまとめ、3章で答え合わせ
簡単にこんな構成でも良かったように思う
いや自分がシナリオ書けるわけがないので単なるわがままに違いは無いのだが
■総評
何はともあれゲームとしては十分楽しめて嵌る、神ゲーと言ってもいい
秋五の情けなさが随所で指摘されているようだがTRUEに限れば目立たない程度では
サブキャラ活かすのがうまいのかな、主人公はあんなもんでいいと自分は思うが
総プレイ10時間程度かな、エロは選択肢で一応回避できるし影響も少ない
BGMは流石Little Wing、耳にすっと入ってきて変に気にならない
Hシーンに選択肢(体位)ごとにCGを設けちゃう作り込みは凄い
当時プレイした人は間違いなく次回作も確実に買っちゃうよねこの豪華さだと
点数 88/100
表現の自由をどうこう言って反発するのもいいが、
私の意見としては子供が見てトラウマになるような映像は教育に”良い”影響があると思うから規制には反対だ。
悪夢にうなされたり、エロすぎて目に焼き付いて取れなくなる経験は大人になるために絶対必要である。
殴られもぜずに大人になった奴がどこにいるのか!
さて、なぜこのような暴論が幅を利かせているのか。
もしかしたら、この問題を扱う新しい切り口を見つけたかもしれないので報告する。
アニメなどの表現にはある程度の規制は必要だが、今のままで十分である。
にも関わらず、なぜ暴力的とも言える過剰な表現規制を唱える人が出るのか。
それは、人間の心理の持つ”慣れ”という性質にから来るのではないか。
人間は同じ刺激を受け続けると、徐々に慣れて何も感じなくなる。
より詳しくは以下の文献を参考にされたし。
Thompson, Richard; Spencer, William (1966). "Habituation: a model phenomenon for the study of neuronal substrates of behavior". Psychological Review. No.1 73: 16–43.
http://www.cns.nyu.edu/~david/courses/perceptionGrad/Readings/ThompsonSpencer-PsychRev1966.pdf
アニメの表現規制を唱える人々は、馴化によって現状でも十分表現は規制されているという認識を持てないでいるのではないか?
おそらく、昨今のアニメ表現規制を推進したい人々は、過去にも同じように何らかの表現規制の運動に参加していたはずである。
自分たちの運動が実を結んで社会を動かしたというのは、言いようのない快感であっただろう。
だがそれも、2度、3度と繰り返す度に馴化によって何も感じなくなってしまったのではないか?
一度オナニーを覚えたら、定期的にせずにはいられなくなるようなものだ。
ダイエットという問題を克服した快感が忘れられず、ダイエット中毒になって骨と皮だけになる女子高生だっている。
同じことではないか?
彼らが理性的な表現規制不要論に耳を貸さず、なんら科学的、統計的な根拠のないアニメと犯罪の因果に固執する原因となってはいないだろうか?
私には彼らこそ、十分な休養を取りながら広い社会と交わり、自らの偏狭的な関心と生産性のない快楽主義を克服すべき存在に見える。