表現の自由をどうこう言って反発するのもいいが、
私の意見としては子供が見てトラウマになるような映像は教育に”良い”影響があると思うから規制には反対だ。
悪夢にうなされたり、エロすぎて目に焼き付いて取れなくなる経験は大人になるために絶対必要である。
殴られもぜずに大人になった奴がどこにいるのか!
さて、なぜこのような暴論が幅を利かせているのか。
もしかしたら、この問題を扱う新しい切り口を見つけたかもしれないので報告する。
アニメなどの表現にはある程度の規制は必要だが、今のままで十分である。
にも関わらず、なぜ暴力的とも言える過剰な表現規制を唱える人が出るのか。
それは、人間の心理の持つ”慣れ”という性質にから来るのではないか。
人間は同じ刺激を受け続けると、徐々に慣れて何も感じなくなる。
より詳しくは以下の文献を参考にされたし。
Thompson, Richard; Spencer, William (1966). "Habituation: a model phenomenon for the study of neuronal substrates of behavior". Psychological Review. No.1 73: 16–43.
http://www.cns.nyu.edu/~david/courses/perceptionGrad/Readings/ThompsonSpencer-PsychRev1966.pdf
アニメの表現規制を唱える人々は、馴化によって現状でも十分表現は規制されているという認識を持てないでいるのではないか?
おそらく、昨今のアニメ表現規制を推進したい人々は、過去にも同じように何らかの表現規制の運動に参加していたはずである。
自分たちの運動が実を結んで社会を動かしたというのは、言いようのない快感であっただろう。
だがそれも、2度、3度と繰り返す度に馴化によって何も感じなくなってしまったのではないか?
一度オナニーを覚えたら、定期的にせずにはいられなくなるようなものだ。
ダイエットという問題を克服した快感が忘れられず、ダイエット中毒になって骨と皮だけになる女子高生だっている。
同じことではないか?
彼らが理性的な表現規制不要論に耳を貸さず、なんら科学的、統計的な根拠のないアニメと犯罪の因果に固執する原因となってはいないだろうか?
私には彼らこそ、十分な休養を取りながら広い社会と交わり、自らの偏狭的な関心と生産性のない快楽主義を克服すべき存在に見える。