床に這いつくばったまま、俺は自分の能力について詳しく説明した。
「信じられないだろうから、実演して見せてやるよ」
さっと目を走らせる。男ばっかりかと思っていたら一人だけ女がいた。
「そこの女とそこの男は夫婦だろ」
まだ親指にギロチンのはまったままの不自由な手で、二人の男女を指さす。二人の間にはピンク色のリボンが渡されており、真ん中に結婚式で投げたであろうブーケが結ばれている。
「それも新婚だ。違うか?」
オールバックの男が目を見張った。
「まだまだあるぞ。お前がこの中で一番偉い立場だろ。で、二番目はそいつだ」
オールバックの斜め後ろに立っていた、七三分けのメガネ男を指さす。オールバックの男に続いて、周囲からの関係の厚い人物だ。
「あとは……」
部屋の隅にぽつねんと立っている男が目についた。そいつの周りだけ、極端に周囲との関係性が薄い。集団の最後尾に居て、青瓢箪とはこいつのためにあるのだと言うような、病弱そうな青白い顔をして周りをビクビクと伺っている。女だったらまだしも、男でこういうタイプは、どうもご遠慮したい感じだ。要するに、はぐれ者なんだろう。
しかしそれをなんと言って指摘しようか考えあぐねいていると、オールバックの男が口を開いた。
「お前の能力が本物だと言うのは分かった。だが、そんな力、どうやって手に入れた?」
「あんた達の教祖様と一緒だよ。ちょっとした荒行をやったら身についた」
そう、それこそ死ぬような荒行だった。というか死ぬ気だった。皮肉のつもりだったが、その場の空気が凍りつくように止まった。彼らは何かを牽制するように、目だけでお互いの顔を見合っている。
オールバックの男は俺に背を向け、後ろの男達と円陣を組むと、肩を寄せあって何やらひそひそと相談を始めた。一分とせずに相談は終わった。オールバックの男は、また床に転がされた俺の前にしゃがみ込み、未だに俺の指にはまったままの酉のような形の拷問器具を外した。
「お前には使い道がありそうだ。生かしておいてやる」
* * *
それからずっと、俺は真っ白い部屋の中に監禁されている。あの後、部屋から人は居なくなり、代わりにマッチョ男がベットと便器を一つ持って入ってきた。ここに寝ろということらしい。拘束を解かれ、手足は自由になったが、部屋から出ることはできそうになかった。部屋の電気はそれからしばらくして勝手に消えた。窓もなく、今が夜なのか昼なのかも分からなかったが、おそらく消灯時間なのだろうと思い、ベットにもぐりこんだ。とても眠れないだろうという思いとは裏腹に、幕が下りるようにすっと寝入ってしまった。疲れていたのだろう。
次の日、俺は鉄の扉の下から食事が差し入れられる音で目を覚ました。この部屋唯一の出入口である鉄の扉には、床から十cmほどの位置に猫の通り道みたいな、小さな戸がついていて、そこから食器の乗ったトレイが差し入れられた。まるで監獄だ。メニューはパンと牛乳とオムレツで、味の方は想像に反して美味かった。熱々でふっくらしたオムレツとパン。まるで高級ホテルの朝食だ。まるでと言ったが、高級ホテルで朝食を取ったことなどないから想像でしかないが。
朝食を取って、ベットの上でぼうっとしていると昼になったのか、また食事が差し入れられた。それも質素ではあるが中々美味い。しかし、退屈でしょうがない。何せ、することが何もない。部屋の中にあるのはベットとおまるのみ。まさかこの歳でおまるにまたがることになるとは思わなかった。それ以外は真っ白の壁があるのみ。見ていると、頭の中まで白に埋め尽くされるようだ。本当に時間が流れているのかさえ怪しくなる。囚人だってもっと充実した日々を送っているはずだ。
だから扉に鍵が差し込まれる音がして、ドアノブがガチャリと回った時は飛び上がって驚いた。扉が開け放たれる。
「調子はどう?」
聞き覚えのある声がした。
「お前。この、裏切り者!」
西織あやかだった。彼女はホテルのルームサービスさながら、ワゴンを手で押して部屋に入ってきた。
「裏切ってなんてないわよ。最初から仲間じゃなかったんだから」
「な、なんだと!」
「あんだけボカスカ殴っておいて、素直に言うこと聞くとでも思ったの?」
そう言われると、ぐうの音も出ない。
「ほら、食事よ」
見るとワゴンの上には、芳しい香りを立てるビーフカレーが乗っていた。本当に食事だけは申し分ない。
「あんたの世話は、私がすることになったから」
彼女はおもむろにワゴンの上からカレー皿と水とスプーンの乗ったトレイ持ち上げ、それを床に置いた。そして、犬にでも言うような口調で言った。
「ほら、食べなさい」
「何?」
西織あいかは扉の前を離れて、俺に近寄ってきた。扉は開いたままだ。この場に居るのは女一人。チャンスだ。
俺は腰掛けていたベットから飛び起き、彼女に躍りかかった。また首でも締めて意識を飛ばしてやろう。怯むかと思った彼女は、しかし終始落ち着いた顔で、手早く腰から何かを引きぬいたかと思うと、
「ひぎぃ!」
俺の股間を強かに打ち付けた。目の前に火花が散った。俺はたまらず床に崩れ落ち、股間を押さえて尺取り虫のように床をのたうち回った。床から見上げると、西織あいかは俺を打ち付けた警棒を掲げて言った。
「ふふふ……私には逆らわないことね」
「くっそ……」
彼女は俺を置いてワゴンを押して部屋を出て行った。扉に鍵をかけるのも忘れない。俺は股間の痛みが引くまで、しばらく床をのたうっていた。痛みが引くと今度は自分が哀れに思えてきて、
「うぅ……うぅう……」
まるで乱暴された乙女のように、めそめそと泣いたのだった。
* * *
鼻の奥にツンとした血の臭いを感じて目が覚めた。目を開けるとさっき見たようなマッチョの男の顔が見えた。同一人物かどうかは分からないが。
「目を覚ましました」
ほっぺたが痛い。どうやら俺の目を覚ますためにビンタでもしてくれたらしい。男は俺の覚醒を確認すると、すっと立ち上がって俺の元を離れた。俺は縛られて床に転がされている。首だけ動かして周囲を伺うと、ここは六畳ほどの小さな部屋のようだ。窓は無い。真っ白いタイル張りの床と、壁。どこか牢獄めいた雰囲気を醸している。鉄格子ではないが、入り口は無骨な灰色のドアのみ。その前に数人の男が立っている。全員、白いローブを着ている。普段こんな格好をしている奴に出会ったことはない。ニュースで時々見るローマ法王がこんな格好をしている気がする。
俺をビンタしたらしい男が部屋の外に出て行くと、代わりにぞろぞろと、白いローブ姿の男達が部屋に入ってきた。先頭にいるのは、短髪をオールバックに整えた細面の男。多分、こいつがこの中で一番偉い立場にいる奴なんだろう。周囲の人間から尊敬や畏怖を表しているらしき関係が伸びている。
「お前か、最近教団を探ってたっていうのは」
男の声は見た目に似合わぬ甲高い声だった。
オールバックの男は床に這いつくばった俺の顔を覗きこんで、問い詰めてきた。
「き、気まぐれだ」
「気まぐれか。警察手帳の偽装までしたのも、気まぐれか。勘がいいんだな」
彼はハッと鼻で笑って、
「ふざけるな!」
途端声を荒らげた。おもむろに後ろの男に目配せすると、後ろの男はさっと金属でできた何かを手渡した。漢字の酉みたいな形をしている何かだ。オールバックの男はずっしりと重そうなそれを、手のひらの上で弄んでいる。瞬間、凶悪なきらめきが目に入る。五センチほどの大きさの、ギロチンのミニチュアみたいな刃が、蛍光灯の明かりを受けて光っていた。
「おい、手出せ」
その一言で、男達の一番後ろに控えていたさっきのマッチョがまた前に出てきて、俺の腕を後ろ手に縛っていたロープをほどいた。俺を床にうつぶせに転がし、押しつぶすように背中に乗ってきた。息がつまる。さらに左腕の関節をキメられた。身動き一つできない。
「いててて……」
マッチョ男はさらに俺の右手首を握り、オールバックの男に向けて付き出した。オールバックの男は、手の中の酉をカチャカチャと操作している。四角いフレームに渡された、二本の金属棒の間に俺の親指を挟むと、
「俺達が何をしたのか知っているんだろう?」
カチャカチャと、ネジを回して固定した。
「男をいたぶっても、楽しくもなんともないが」
カチャカチャ……
オールバックの男は、俺の右手の親指に重々しい器具を装着し終わった。この器具は、一体……うろたえる俺をよそに、オールバックの男は器具のてっぺんについたハンドルを回し始めた。キリキリと音を立てて、ハンドルが回る。小型の万力みたいだ。普通の万力は閉めることで物を挟んで固定するのに使うが、こいつは──
「言う! 言うからやめてくれ!」
虚勢も何もかも吹っ飛んだ。今も男がハンドルを回す度に、一ミリずつギロチンの刃が降りてきている。その刃の向かう先は、固定されて動かせない俺の親指だ。
「本当かぁ~?」
詐欺師でも見るような目で俺を見て、オールバックの男は言った。その間もハンドルを回す手を休めない。
「まあ、そう慌てるなよ」
「親指の一本や二本、落とした後でも遅くないだろ?」
こいつは本気だ。本気で俺の指のことなんてどうでもいいと思っている。もう、刃が指に食い込む。
「やめ! やめて! 写真! 写真を見たら分かったんだよ! 卒アルの!」
「卒業アルバム! 集合写真! 高橋圭一の、卒業アルバムの集合写真!」
「嘘をつくな。そんな物で」
頭がこんがらがってうまく説明できない。ギロチンの刃が指の皮膚に触れた。気が狂うほどの冷たさを感じる。
「本当! 嘘じゃない!」
恐怖ともどかしさを振りきって、俺は筋の通った説明を頭の中で組み立て、
「俺は写真を見るだけで、そいつが持ってる周囲との人間関係が分かるんだ! だから卒業アルバムの写真から関係をたぐって! 田中に行き着いた! あと西織あいかにも! だから教団が怪しいと思った!」
「なるほど。にわかには信じがたいが……」
逆回しにハンドルを回し始めた。俺の親指に食い込んでいたギロチンの刃が少しずつ上に上がっていく。
「詳しく話を聞こうか」
はーっと大きくため息をついたその時、親指の傷口に滲んだ血が一滴、つっと流れた。
夜、俺は昨日西織あいかを送り届けたマンションの前に立っていた。一応自分の事務所の様子を遠巻きに見てきたが、やはり警察の捜査が入っていた。サングラスにマスクなどという、いかにも不審者といった姿でブロック塀の影から覗いていたら、ちょうど家宅捜索を終えたと思しき警官が、ダンボールを抱えて俺の事務所から出てくるところだった。何を取っていたのかは知らないが、本当に警察が動いていた。
自宅に帰れなくなった俺は、その足で西織あいかのマンションへ向かった。本当に警察が動いているのだから、西織あいかは本当に行方不明になっている必要がある。少なくとも、警察にそう思わせる程度に行方をくらましているはずだ。自宅に居るはずはないと思ったが、ここの他に何か手がかりが得られそうなあてもない。俺は彼女のマンションの斜向かいにあるマンションの非常階段に身を潜めた。ここからならマンションの出入口を見下ろせるし、俺の姿はコンクリの手すりの影になって、よほど注意して見なければ見つからないだろう。
張り込みを始めてからニ時間後、スーツ姿の一団がぞろぞろとやってきた。マンションの管理人と思しきおじさんを伴っていた。多分、西織あいかの部屋を調べに来た警察関係者だろう。思えば、午前中に警察に面会を求めに行った時に俺は身分証を見せて手続きしたのに、何のお咎めも無しだった。ということは、彼女の失踪届けが警察に出たのも、捜査が始まったのもその後なんだろう。駆け出しのアイドルが拉致されるなんて、センセーショナルではあるが、報道されるタイミングが早すぎる気がする。
警察は一時間もした後で、彼女の足取りを追うのに役に立ちそうな物でも押収したらしく、やはり数個のダンボールを抱えてマンションから出てきた。俺に気づいた様子は無かった。それから三時間ほど非常階段に陣取っていた。日が暮れて辺りが暗くなってくると、腹も空いてくるし、こんなことをしても何にもならないのではないかとか、住人に見つかって不審者として通報されるんじゃないかとか心細くなってきた。
もう一時間粘って何もなければ、張り込みをやめて逃げようと思って二十分ほどした頃、一人の女がマンションの中に入っていくのを見つけた。変装はしているが、背格好は西織あいかに似ている。俺は懐から高橋圭一の写真を取り出し、彼女と見比べた。間違いない。彼女から写真の中の高橋圭一へは、見覚えのある太い関係が伸びている。あの女は行方不明になっているはずの西織あいかだ。
ぬけぬけと自宅に帰ってなんて来やがって。俺は非常階段を降りた。通りで誰でもいいからマンションの住人が帰ってこないか待つ。しばらく待つと三十代のおばさんが帰ってきた。彼女の後について歩く。玄関前で多少不審に思ったのか、おばさんが首だけで振り向いて俺の顔を見る。そう言えばまだサングラスとマスクを着けたままだった。サングラスだけ外して、無難な愛想笑いを返す。内心ヒヤリとしているが、表に出てやいないだろうか。
おばさんはすぐに俺に興味を失ったらしく、マンションの玄関のロックを外した。何気ない風を装って、おばさんに続いて中に入る。いつも思うのだがこの手のセキュリティに意味はあるのか、甚だ疑問だ。
「宅配便でーす」
とだけ言って、その場に身を伏せた。
「あれ……」
覗き窓から見ても誰も居ないことを不審がったのだろう。西織あいかがドアを開けて廊下に顔を出した。俺はすかさずドアに取り付いた。腕と足をはさんで、ドアを閉じられないようにする。
「おい、どういうつもりだ」
目の前の西織あいかは、何の気負いもなく、
「あ、探偵さん。何か分かったの?」
と、捜査の進展を聞いてきた。
「とぼけるんじゃねえ。お前がどれだけ信用できない女か、よく分かったよ」
「なんのこと?」
しらばっくれる気か? それとも本当に何も知らないのか?
「とりあえず、中に入れてくれ」
「いいわよ」
西織あいかは俺を自宅に案内してくれた。中は何の変哲もない2LDKで、家具は白を基調とした色合いで統一されている。脱いだ服が辺りに散らかっているようなこともなく、一人暮らしの女にしては、こざっぱりと片付いた部屋だ。
「俺は今、警察に追われている。お前を誘拐したことになっている」
部屋に入るなり、座りもせずに突っ立ったまま本題に切り込むと、彼女は目を丸くして、
「なにそれ」
「本当だ。テレビでもニュースが流れたし、俺の事務所にもこの部屋にも、警察の捜査が入ったはずだ」
「うそー。そんなはずないでしょ」
どうやっても本気にしないつもりらしい。
彼女は気遣い顔で俺の両肩に手をかけてきた。この野郎、なめやがって。何も知らないはずがない。警察の家宅捜索が終わったのを見計らって自宅に帰ってきてるんだ。灯台下暗し。俺が捕まるまで、ここに引きこもるつもりなのだろう。
もういい。どうやら欲しい情報は手に入らなそうだ。時間を稼ぐために、こいつを拘束しておいて逃げよう。どこに逃げようか。どこか、指名手配犯が潜り込めそうな所。ホームレス村にでもお世話になろうか。
次に何をすべきか、考えをまとめたその時。
ガチャリ。
玄関からドアの開く音が聞こえた。見れば、ドカドカと土足で男達が上がり込んでくる。
「おっそーい!」
男達を笑顔で迎え入れる西織あいか。人数は4人。完全に出入り口を塞がれた。口を固く結んで、ニコリともせずに俺を眺めている。
ハメられた? 西織あいかが通報した素振りは無かった。となると、警察がこのマンションを見張っていた? でも、警察は彼女の居場所を知らないはず。まさか、全員グルだったのか?
混乱する俺を見て、西織あいかが言う。
「教団の人よ」
彼女はさっと男達の後ろに隠れた。その中の一人、一番体格のいい男がのっそりと俺の前まで歩み寄り、腕を振りかぶって俺の腹に一発パンチをくれた。
「げほっ!」
それだけで俺の視界は歪み、息はつまり、立っていられなくなって床にうずくまった。男達は俺の周囲を取り囲み、俺に目隠しと猿轡をかませた。次の瞬間、意識をもぎ取る、刺すような痛みが腹部に走った。
「あんだけボカスカ殴ってくれて、仕返ししないわけないでしょ?」
* * *
写真の中の高橋圭一には、今も手錠で作られた鎖ががんじがらめに絡まっている。もう一方の鎖の先は、共犯者に繋がっているものだと思っていたが……
「冤罪、か」
翌日、俺は全国に展開している喫茶店でコーヒーを飲んでいた。高橋圭一の勾留されている警察署に面会を求めに行って、門前払いされた帰りだ。
「面会できれば、何か分かったかもしれないのにな……」
美味くもないコーヒーをすすりながら、俺はつぶやいた。西織あいかの話では、彼女は憧れの先輩である高橋圭一を追って『光の華』に入信したらしい。その後一年ほどは何事も無く過ごしていたが、最近良くない噂を聞くようになったとか。
子供の信者なんて滅多に見なかったのに、最近やけに子供の姿を教団内で見る──
誰の子供か、知っている人は居ない──
話を聞いてみると、知らない人に連れて来られたと言っていた──
いつの間にかその子供は居なくなり、二度と姿が見えなくなる──
数日すると、違う子供が代わりにやってくる──
もしかして、信者の中に子供を誘拐して施設に監禁している人が居るのではないか? そんな噂が誠しやかにささやかれていたそうだ。そして報道される女子児童に限った連続誘拐事件と、高橋圭一の劇的な逮捕。信者達は噂の真相を知ることになった。
しかし彼の人柄を良く知る西織あいかは納得しなかった。憧れの先輩である高橋圭一がそんな犯罪に手を染めるはずがない。また、忙しい芸能活動のスケジュールをぬって誘拐事件を起こすなど、客観的に考えても不可能だった。にも関わらず、誰も高橋圭一の犯行に疑いを持たず、しかもそれを裏付ける物的証拠まで上がるに従って、彼女は教団が組織ぐるみで高橋圭一を陥れたのだと悟ったのだった。そして彼女は、手練手管を駆使して教団の幹部に接触して内実を探っていたらしい。今のところ、これと言った情報は得られていないそうだが。
彼女の話を全面的に信じたわけではないが、教団を探るという共通の目的がある俺達は、お互いに協力しあおうという事になった。俺達は連絡先を交換し、俺は彼女を、彼女のマンションまで送り届けたのだった。
図らずもアイドルの個人的な連絡先を手に入れた形になった。嬉しいような、どうでもいいような。思春期の子供じゃあるまいし。だいたい、俺は別に西織あいかのファンじゃないしな……
「続いてのニュースです。昨夜、タレントの西織あいかさんが帰宅途中に男に連れ去られ、行方不明になっているとのことです」
喫茶店に置いてあるテレビからそんなニュースが流れてきた瞬間、飲んでいるコーヒーを吹き出しそうになった。
「警察によりますと、あいかさんを連れ去ったのは渋谷区在住の佐々木誠也容疑者26歳」
テレビの画面には俺の顔写真がはっきりと映っている。冗談じゃない。いや、確かに誘拐まがいのことはしたが、でもなんで警察が動いている?
「警察は男を指名手配とし、市民からの情報提供を募っています」
西織あいかはちゃんと自分の家に帰ったし、おそらく今日も問題なく仕事に出かけたはずだ。行方不明になんてなっているはずがない。となると、考えられる可能性は一つ。
テレビの中ではどこから手に入れたのか、俺の小学校の卒業文集が晒されていた。画面にデカデカと、拙い文字で書かれた『お笑い芸人になって天下を取る!』という子供の頃の俺の夢が映っている。ああ、懐かしい。そんな事を考えていた時代もあった。俺の感慨をよそに、コメンテーターが芸能界への憧れが犯行へ繋がったのではないかとか、勝手なことを言ってる。うっせえ黙れ。お前になんの権利があって、純粋な子供の夢を汚すんだ。
その時、隣を喫茶店の店員が通り過ぎていった。俺はとっさに顔を伏せた。卒業文集がどうのこうの言ってる場合じゃない。俺は指名手配中なんだ。しかも全国ニュースで写真が公開されているんだ。
店員の様子を伺う。俺の事を不審がっている様子はない。誰も、自分の喫茶店に今しがた放送されたばかりの指名手配犯が居るなんて思わないだろう。ニュースをちゃんと観ていたかどうかも怪しい。しかし、俺はひどい不安に駆られた。今にも警官が大挙して俺の元に押し寄せて来る気がする。顔を隠さなくては。
俺は、いつも持っているサングラスをかけて目元を隠した。これだけで焦燥感が三割減した。慌てて喫茶店を出る。外に出ると、人、人、人。全員が俺を見ているような錯覚を覚える。
「ごほっ! ごほっ! あー! 風邪だ!」
誰も聞いていないだろうに、俺はわざとらしく咳をしながら近くのコンビニに入った。ごほごほ言いながら、口元を押さて顔を隠してマスクを買った。会計の瞬間、店員に気づかれやしないかと肝が縮み上がった。コンビニを出てすぐさまマスクを付けようと、包装のビニールを破ろうとするが、顔を隠すために片手が塞がっているので上手く開けられない。もどかしさのあまり、口でビニールを咥えて包装を破った。取り出したマスクをつけ顔を完全に隠すと、俺はやっと落ち着きを取り戻した。
さて、これからどうするか。俺は指名手配中の身だ。外に出ていてよかった。おそらく事務所には警察の捜査が入っているだろう。しばらく事務所には帰れない。とにかく西織あいかに真意を問いただす必要がある。俺は携帯を取り出すと、昨日交換した彼女の番号にかけた。数回呼び出し音が鳴った後、回線がつながった。
「おい、どういうつもりだ」
無機質な音声案内の声だった。
* * *
暴力の効果は絶大だった。拳を三回腹の上にふり降りしてやると、先程までの騒動が嘘のように西織あいかはおとなしくなった。今ではソファの上でぴくりともしないでいる。
「手間かけさせやがって」
肩で息をしながら、俺は言った。
「いいか、俺はお前のファンでもなけりゃストーカーでもない。ただお前の事務所の先輩が起こした事件を調べていて、お前に話を聞きたかっただけだ」
彼女は、大人しく俺の話を聞いているようだ。うつろな瞳を天井に向けている。
「だから、大人しく話を聞けるならこれ以上暴力は振るわない。俺のことを黙っていられるなら、無事に家にも帰してやる。芸能活動も続けられる。いいか?」
「よし……」
俺は彼女の口に貼ったガムテープをはずした。彼女は自由になった口で、何度か深呼吸をした。はやり息苦しかったのだろう。呼吸を整えた後、大きく息を吸い込むと、
途端に叫び始めた。近所に響き渡るような大声だ。ここはアパートじゃないし夜に人通りが多いわけでもないが、もし人に聞かれるとまずい。
「犯されるーー!!! もがっ……」
冷や汗をかきながら、俺は慌てて彼女の口を手で塞いだ。さっきと同じ展開だ。
「いでででで!!!」
だが今度は、彼女は俺の指に噛み付いてきた。親指を噛みちぎる勢いだ。俺はたまらず、自由な方の手を彼女の下腹部に振り下ろす。
「がはっ」
今までと違って、明らかに効いてる反応。ここか。ここが急所なのか。俺は全力を振り絞って彼女の下腹部を殴打した。
「はぁ。はぁ。はぁ……」
殴っている方も息切れするくらい繰り返し殴った。見れば、今度こそ彼女は完全に従順な目をしていた。後で考えてみれば殴ったのは調度、保健体育の時間に習った子宮のあるあたりだった。
「大人しくしろ」
「うん……もう殴らない?」
「ああ、殴らないよ」
「じゃあ、大人しくする」
体を縮こまらせて、彼女は従順の意を示していた。ゾクソクした。こいつは、やばい。
いやいや、こんなことをしている場合じゃない。急にもたげたサディステックな欲望を胸の奥に仕舞いこむと、たいぶ遠回りしたが、俺はやっと本題に移った。まずは田中との関係を探る。
「こいつに見覚えはあるか?」
「しっ、知らない。誰……? この人」
嘘は言っていないだろう。俺の目には彼女と田中の間の関係が見えている。田中の写真から彼女に伸びるのは弱々しい線一本。おそらく偶然に一度顔を合わせたことがあるといった程度か。
「お前、『光の華』って新興宗教に入信してるよな?」
「うん」
「高橋圭一も入信してるよな?」
「うん」
高橋圭一の写真を見せながら、俺は問うた。彼女から写真の中の高橋圭一には、眩い光を放つ太い繋がりが伸びている。憧れ、尊敬。きっと芸能界の先輩として慕っていたのだろう。もしかしたら、男女の間の特別な感情も持っていたのかもしれない。しかし逆に写真から彼女へは、細い関係しかなかった。
「じゃあお前と、『光の華』と、高橋圭一と、知っている限りのことを話せ」
「信じてくれないかもだけど……」
ためらうように前置きした後、彼女は言った。
「先輩は無実なの。教団に濡れ衣を着せられたの」
* * *
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい。これはいくらなんでもやばい。ソファに横たわる女を横目に、俺は苦悩していた。
幸い西織あいかは死んだわけではなかった。叫ばれないよう口を押さえた時にうっかり鼻も押さえてしまっていて、呼吸ができずに気を失っただけのようだった。路上に横たわる彼女の胸が浅い呼吸で上下していることに気づいた時の安心感といったら。
そのまま逃げようかとも思った。地面に落ちた通話中の携帯からは、まだマネージャーの呼びかける声が聞こえていた。俺はまず通話を切ると、携帯の電源を切った。何だか不安だったから、電池も外しておいた。
他にも位置情報を発する物を持っているかもしれないと思って、バックを漁ったら防犯ブザーが出てきた。ポケットに入れておいた万能ナイフのドライバーを使って解体した。バックからは他に気になる物は出てこなかったが、発信機の類を身につけているかもしれないと思ったから、服の上から彼女の体をくまなく弄ったが、それらしい手応えは無かった。
そりゃ一介の駆け出しアイドルにそこまでの警備があるわけがないが、その時はちょっとしたパニックになっていたとしか言い様がない。女性らしい体の弾力など味わう余裕もなく、次はどうやって彼女を移動させるかを考えなければならなかった。
俺は彼女の体を引きずって近くの電柱にもたれかかるようにした後、さっき通り過ぎたコンビニまで走って焼酎を買い、彼女の頭にぶっかけた。全身から酒の臭いをプンプンさせた、酔いつぶれ女の出来上がりだ。俺は彼女を介抱する連れの体を装ってタクシーを拾い寝床兼事務所の我が家に帰ってきたのだった。
タクシーを拾うまで、体感では一時間もかかったように感じた。にも関わらず途中人目につくこともなかったのだから、想像以上に全てを手早く滞り無くやり終えたらしい。我ながらおかしな方向の才能に驚く。タクシーではサングラスで顔を隠していたし、多分怪しまれてはいないだろう。
事務所のソファに彼女を寝かせると、念のために拘束しておくことを考えた。しかし、都合よく拘束用のロープなどがあるわけではない。ガムテープはあったから、とりあえず口にガムテープを五重に貼っておく。手の拘束には刑事のふりをするのに使ったスーツと一緒に買ったネクタイを使った。足はガムテープをぐるぐる巻きつけておいた。気づいてみれば、俺は女一人を拉致監禁していた。
盤石の監禁体勢を整え、俺の頭は少しずつ冷えてきた。俺はただ、会って話を聞いてみたかっただけなのに、どうしてこうなった。事務所に帰ってきてから三十分は過ぎたが、彼女はまだ意識を失ったままでいる。事情を話せば許してもらえるだろうか?
いや、ここまでやっといて、それはないだろう。週刊誌の一面を飾る自分の姿が頭をよぎる。アイドルを拉致監禁! 犯人は精神異常者? 自殺未遂の過去あり!! 「自分は超能力者だ」意味不明の供述!!! ……悪夢だ。こんな形で有名になりたかったわけじゃない。
「うぅーん……」
西織あいかが悩ましく喉を鳴らす。目覚めが近いのかもしれない。気が動転していて思考がそっちに向かわなかったが、自由の効かない女と二人きりなのだ。キャミソールの胸元から覗く、汗ばんだ二つの大きな膨らみに目を奪われる。ピチピチというよりムチムチ。肉感的だ。
どうせ罪を逃れることができないなら、いっそやることやっちまおうか? 途端に溢れてきた唾液をぐびりと飲み込んで、俺は彼女の寝転ぶソファににじり寄った。右手をそっと彼女の胸に被せる。大きい。手に収まらない。揉むと張りのある肉の感触が伝わってくる。こいつあ、すげえぞ。
「ううーーん」
一際大きくうめいたかと思うと、彼女は目を覚ました。つかの間、目と目が合う。彼女は視線を下げ、自分の胸の上にあるのが俺の手だと見るやいなや瞬時に状況を読み取り、
「う、う゛う゛う゛う゛!!!」
ジタバタと、のたうち始めた。
「おい、じっとしてろよ」
水揚げされたエビみたいにソファの上で飛び跳ねている。元気なもんだ。俺は彼女を大人しくさせようと、彼女の体の上に跨った。そしたら彼女は一瞬動きを止めた。何だ、と思う間もなく、反動をつけて勢い良く体を起こした。
「ぎぁあ!」
がつん。目の前に火花が散った。ヘッドロックをぶちかまされたと気づいたのは床に転がった後だった。なんて女だ。腹が立った。立ち上がって未だに見境なく暴れ続ける彼女を見下ろして言った。
「おい、暴れるな。大人しくしろ」
「うー!んう゛ー!!!」
一向に大人しくなる気配がない。なめやがって。俺は拳を固め、
「今すぐ黙らないと殴るぞ」
彼女は俺の警告などまるで聞いていないようで、身を捻りながら唸り続けている。
「3、2、1……」
俺は彼女に向かって拳を振り下ろした。
* * *
結局、不自然な言動をしたのは独身寮に住んでいた田中一人だった。翌日から俺は彼の寮の前に張り込みを始めた。朝、日の出前に起きてチャリで一時間かけて彼の最寄り駅まで。チャリをそこに停めると家の前まで歩く。そこで彼が起き出して出社するのを待つ。彼が家を出ると、その後をつけて一緒に職場まで。あとは退社を近くの喫茶店で一日待つ。彼が退社すると一緒に帰宅して、それからは彼が眠るまで夜中まで張り込み。終電もない時間になるからチャリで事務所まで帰ってくる。この生活を一週間続けた。睡眠時間は平均4時間ほどになった。正直堪える。
何の成果も上がらず迎えた週末。俺はやはり朝から張り込みを続けていた。午前中は特に動きも無かったが、昼過ぎにどこかに出かけた。慌てて後をつける。最寄り駅から電車に乗り五駅先で降りた。駅から歩くこと十分。彼はうらぶれた雑居ビルに入っていった。
エレベーター前の案内を見ると二階に『光の華』という宗教法人が事務所を構えているらしい。田中は四時間ほどそこで過ごし、自分の家に帰った。それからは外出することなく就寝した。
* * *
田中の就寝を見届けてから事務所に帰ってきた俺は、早速ネットで『光の華』という宗教団体について調べてみた。最近規模を急激に拡大している新興宗教だという。その信者は多岐に渡り、一般人のみならず芸能界、司法、警察機構、政界にも少なからぬ信者がいるそうだ。
教祖は中野興右衛門という人物で、45歳。バブル崩壊後、経済的に荒廃した日本を離れ、インドで十年間ブッダもかくやといった荒行を積み超自然的な能力を身につけたらしい。どんな人物なのか写真でもないものかと検索してみたが、一つも見つからなかった。なんでも、神秘性を保つために写真の類は一切撮っていないらしい。この情報化の時代に写真の一枚もないなんて、神秘性を通り越して不気味だ。まあ、逆にSNSで今日の昼に何を食べたとか、誰と会ったとか、日常を垂れ流している宗教の教祖なんていたら、それはそれで嫌だけれど。
今度はこの宗教と関係があると言われている人物を検索してみる。真偽は不明だが、ネット上のゴシップが大量に出てくる。あまり芸能界に詳しくない俺でも知った名前がちらほら見える。高橋圭一の名前も見つかった。これで田中との繋がりが何なのか分かった。きっとこの宗教を通して関係があったのだろう。
関連サイトを見るともなしにブラウジングしていると、一人のアイドルが目に留まる。西織あいか。19歳。明るい髪と、意思の強そうなぱっちりした猫のような瞳が印象的だ。売り出し中の駆け出しアイドルらしく、テレビで見たことはないが、かわいらしい。正直タイプだ。所属は堀川プロダクション。
高橋圭一も所属は堀川プロダクションだった。同じ事務所で同じ宗教団体に属している芸能人二人。怪しい。
「確かめてみるか」
* * *
堀川プロダクションは中堅どころの芸能事務所だ。俺は事務所の入ったビルの向かいにある古本屋から、人の出入りを監視していた。まるで芸能人の追っかけになった気分だ。たまたま窓際の棚に陳列されていた、興味もない競馬マンガを立ち読みしながら待つこと三時間。サングラスで顔を隠しているが、西織あいかと思しき人物が事務所から外に出てきた。
急いで古本屋を出る。彼女は通りの角を曲がるところだった。見失わないよう小走りで後を追う。しばらく後をつけ、人通りが途絶えたのを確認して声をかけた。
「西織あいかだな」
「ファンの方? こういうの困るんですけど」
と、不機嫌も露に言った。これで本当にアイドルが務まるのだろうかと、他人ごとながら心配になってくる。
俺の話を聞いているのか聞いていないのか、はぁ~、と大きなため息をついたかと思うと、バックから携帯を取り出した。
「もしもし、マネージャーさん? ちょっと今すぐ来て欲しいんですけど……」
彼女は有無をいわさず事務所に連絡を取り始めた。問題になるのは困る。焦った俺はとっさに、彼女の手から携帯を叩き落とした。
「ちょ……もがっ!」
背中から手を回して羽交い締めにし、騒がれないよう口元を押さえる。
俺は囁くように言った。携帯からはマネージャーと思しき男が、どうした!とか叫ぶ声が聞こえている。大事になるとまずい。
彼女はしばらくもがもが暴れていたが、観念したのかやがて大人しくなった。
「よし。そのまま大人しくしてろよ」
口元から手をどけても、騒ぎ出す様子はない。安心して羽交い締めにしていた力を抜いたら、彼女の体はずるりと腕の中から滑り落ちていった。
「え……」
見れば彼女はぴくりともせずに地面の上に横たわっている。まさか。まさか。
「し、死んでる……」
* * *
事務所兼寝床に帰ってきた頃には始発が動き出す時間になっていた。興奮冷めやらぬままソファに腰掛ける。リュックから盗ってきた卒業アルバムを取り出した。パラパラとめくると、クラス集合写真の載っているページを見つかった。ポケットから高橋圭一の写真を取り出し、ページにかざす。
高橋圭一の写真からは、今も四方八方に無数の関係が伸びている。その内の一本が、集合写真の上に伸びている。まず一人。期待通りだ。俺は全クラスの写真から、高橋圭一と関係を維持している数人を見つけ出した。
夕方まで一眠りすると、同じく卒業アルバムから見つけた電話番号を使って、さっき見つけた高橋圭一の元同級生達に電話をかけた。何気ない卒業アルバムの持つ情報としての価値の高さに驚く。そりゃあ個人情報保護が厳しくなるはずだ。
「もしもし、私、佐藤君のクラスでクラス委員をしていた佐々木と申します。覚えておいででしょうか?」
「は、はぁ……」
覚えているはずがない。佐々木というクラス委員が居たのは本当だが、卒業アルバムの写真の上で、二人の間には一切の繋がりがないのは確認済みだ。
「佐藤君とは同じサッカー部のチームメイトとして、仲良くやっていたのですが。話にだけでも、聞いていませんでしょうか?」
二人がサッカー部だったというのも本当だ。
「それで、ご用件は何でしょうか?」
「高橋君のニュースは聞いてますよね? ほら、僕達、元同級生として高橋君には特別な思い入れが……今回の事には、みんなショックを受けていまして。一度、ケジメと言いますか、僕達で集まって、話しておこうということになりまして……それで、佐藤君の今の連絡先をもらえませんか?」
同様の手口で狙いをつけた元同級生、全員分の住所を手に入れた。
* * *
週末。洋服の青山で買い込んだ安いスーツに身を包み、俺は調べをつけた元同級生達の元を訪ねてまわっていた。全員高橋圭一と同じ年齢で、31歳だ。同じ高校を卒業したはずなのに、それから十年以上も経つと二人として同じ人生を送って来なかったのが分かる。幸せな家庭を築いている者、そうでない者。卒業アルバムの中で凛々しい顔つきの少年が、立派な中年に育っていたり。
これから訪れるのは都内大手企業の独身寮だ。目的の部屋を見つけ、インターホンを鳴らす。
やがて、くたびれたトレーナー姿の男がドアを開けて顔を出した。
「田中さんですね。私、こういう者なのですが……」
俺は懐から『警察手帳』を取り出し、彼の目の前に掲げた。マスキングテープとステンシルを活用して、それっぽい黒い手帳に旭日章と警視庁を金字でスプレーしただけの偽造警察手帳だ。何度も作り直してやっと完成した。力作だ。このタイプの警察手帳はもはや使われていないそうなのだが、疑われることはなかった。
「警察の方が、何の用ですか?」
いかにも警戒している。そりゃ突然訪問してきた警察なんて、歓迎はされないだろう。俺は偽造警察手帳を懐にしまい、代わりに高橋圭一の写真を取り出した。
「ご存知でしょうが、高校の元同級生だった高橋圭一が都内連続児童誘拐殺人事件の容疑者として取り調べを受けています。それで念のため、元同級生にもお話を伺ってまわっているんですよ」
「俺が何か知っているとでも?」
「いえ、全員に聞いていまして」
俺は、ちょっとすまなそうな顔をして言った。
「何も知りませんよ。高橋とは、卒業以来会ってもいない。別の世界の住人でしたから」
「そうですか。ご協力ありがとうございました」
俺は頭を下げて、その場を後にした。
彼は嘘をついている。俺の目には高橋圭一の写真から彼へ繋がる関係が見えていた。十年以上昔の元同級生などという、弱々しい関係ではなかった。それは、警察に嘘をついてでも隠さなければならないような関係だ。さて、一体何を隠しているんだろうね?
* * *
さて、この事件を捜査すると決めたのはいいが、何から手を付けたらよいものか。まさか高橋圭一の写真を持って、鎖の先に繋がっている共犯者が見つかるまで街をうろつくわけにもいかない。
新聞、週刊誌、テレビ、インターネット。俺は事件に関係しそうな情報を集められるだけ集めた。しかし、共犯者に繋がる情報は見つからなかった。テレビは連日、高橋容疑者について報道していた。派手な交友関係、爛れた異性関係、隠された変態趣味……史上最悪の犯罪者だ。容赦も何もない。
「こういう時って、なぜか卒業アルバムとか晒されるよな……」
今回は特にめぼしい内容が書かれていなかったのか、報道されていないが。
「卒アルか……」
彼も学生だった時期があるわけで、当然学校に通っていれば人間関係が生まれるわけで。
もしかしたら、彼の人間関係を卒業アルバムから探れるかもしれない。卒業アルバムには卒業生の写真が載っている。高橋圭一の写真と突き合わせれば、もし今も関係が続いていれば分かるはずだ。
ネットで高橋圭一の経歴を検索する。都内にある高校に通っていたらしい。早速電話で問い合わせる。方々から問い合わせが殺到しているのだろう。何度かけても話し中だ。10回以上かけて、やっとつながった。
電話口の相手は疲れきった声で言った。
「もしもし。私、佐々木探偵事務所の佐々木誠也と申す者ですが、例の都内連続児童誘拐殺人事件について調べていまして……」
すると相手はうんざりした口調で、
とだけ言って電話を切った。マスコミや警察ならいざ知らず、探偵への対応なんてこんなもんだろう。さて、どうするか。いっそマスコミ関係者を騙ろうか。しかし、図書室やそこらに保存されているであろう、アルバムの現物を見せてもらわなくては困る。校内に入る時に身分証の提示くらいさせられるだろう。身分証の偽造? そんなスキル無いぞ。
「よし、学校に忍び込もう」
ちょっと卒業アルバムを見せてもらうだけだ。そっと忍び込んで、そっと出てくる分にはバレやしないだろう。
* * *
その夜、草木も眠る丑三つ時。俺は目立たないよう黒装束に身を包んで、件の高校の校門前に立っていた。校門は柵で閉じられているが、高さは2mもない。よじ登ろうと思えば、よじ登れる高さだ。俺は周囲に人が居ないことを確かめると、サッと柵を超え校内に侵入した。
人目を避けて校舎の裏手にまわる。ガラス窓が一つあった。施錠されているが、何の変哲もないクレセント錠だ。俺は背負ってきたリュックの中からマイナスドライバーと釣り糸を取り出した。サッシの隙間にマイナスドライバーを突っ込んで広げ、先を結んで輪っかを作った釣り糸を滑りこませる。その輪っかを錠に引っ掛け、引っ張れば……
ガチャリ。音を立てて鍵が開いた。順調極まりない。窓を開けて校舎に侵入した。俺って天才じゃなかろうか。
その時の俺には、最初に校門をよじ登った時点でモーションセンサーに引っかかっており、警備会社から警備員が急行している途中だとは思いもよらなかった。
俺は校舎をうろついて、図書室らしき部屋を見つけた。鍵がかかっていたが、ただの引き戸だったので力技で扉ごと外して中に入った。目当ての卒業アルバムは図書室の一番奥の棚にあった。高橋圭一の卒業した年のものを抜き取る。後は彼の写真と付きあわせて確認するだけだ。
カツン。
図書室の外の廊下から足音が聞こえた。心臓が飛び上がった。カツン、カツン、カツン……こちらに近づいてくる。
「おい、扉が外されているぞ」
「本当だ」
なんてこった。懐中電灯を持った人影が二人、図書室に入ってきた。おそらく警備員だ。
「誰かいるのか!」
俺は卒業アルバムを抱えたまま息を潜めた。どうしようどうしようどうしよう。
二人組のうち、片方が入り口の前に立ち、片方が部屋を調べるために中に入ってきた。出入口は一つのみ。逃げ場は無い。
薄暗くて二人の姿はぼんやりとしか見えないが、間にある関係ははっきり見える。上司と部下だろう。部屋に入ってきたのが上司で入り口を固めているのが部下。しかし、違和感がある。これはむしろ、義父と義理の息子の関係か? たまたま同じ会社に家族で? いや、この関係はもっと後ろめたい何かでは……?
部屋を改めていた警備員がこちらに近づいてくる。あの本棚の角を曲がったら、俺の姿が見えるだろう。俺は隠れていた本棚の影から飛び出した。
「あっ、待て!」
警備員が懐中電灯で俺を照らす。俺は顔を見られないように手で隠しながら、叫んだ。
「おい、おっさん! あんたの部下、娘さんのことヤリ捨てしてるぞ!」
「なななななんでそれを!」
思いっきり狼狽える部下。その隙をついて、彼に体当たりをぶちかます。お互い派手に転倒するが、すぐさま立ち上がって猛ダッシュ。後ろでは警備員の二人が、お前だったのかとか、知りませんとか押し問答している。
侵入した時に使った窓から外に出て、来た時は気づかなかった裏口か校外に出た。怪しまれない程度に走って高校から距離を取る。20分ほど走って、もう十分だろうという所で一息ついた。
「盗ってきてしまった……」
ええい、やってしまったのは仕方がない。それもこれも、凶悪事件を解決に導くため! 結果オーライってことになるさ!
* * *
佐々木探偵事務所。占い屋の看板を下ろして、俺は事務所に新しい看板を掲げた。浮気調査專門の探偵をやることにした。人探しや素行調査も請け負おうかと思ったが、やはり浮気だ。なにせ浮気調査なら、調査対象は依頼主の夫か妻なのだから探す必要はない。それに情事の現場を押さえるまでもなく、浮気相手と二人でいる様子を目にさえすれば、二人が不倫の関係にあるかどうか知ることができる。簡単な仕事だ。
俺は女の写真を一目見て言った。
「やっぱりそうですか……」
神妙にうなずく依頼主の男。
「まあ、長年のカンってやつですかね」
俺の能力は写真にも有効だ。姿さえ映っていれば問題ない。ただ、その繋がりが誰に向かっているかは分からないが。
写真には20代後半の女の上半身が映っている。背中まである黒髪で、美人に入るか入らないか微妙な顔つきの女だ。写真の中の彼女から、ドロドロしたどす黒い関係が何処かへ伸びている。おそらく、繋がった先は浮気相手だ。
依頼主の旦那へも白い色の細い関係が伸びているが、いかにも弱々しい。茹で過ぎた素麺みたいだ。逆に旦那から妻には太くがっしりした関係が伸びている。二人の関係のちぐはぐさが忍ばれる。
俺は依頼主と契約内容を確認し、前金として10万円を受け取った。一日につき1万円。10日分だ。浮気相手が見つかった場合は、成功報酬として5万円貰うことになっている。10日かかると言ってあるが、そんなにかかりはしないだろう。チョロい商売だ。
次の日から、早速俺は依頼主の家の前で張り込みを始めた。小奇麗だが小さな賃貸マンション。子供が生まれたら引っ越すつもりでいたらしいが、未だに子宝に恵まれておらす、その機会がないのだとか。依頼主の部屋は4階、右から2番目。近所の公園のベンチに陣取って、人の出入りがないか注視している。俺は視力は良い方なので、裸眼で観察できる。怪しむ人も居ないだろう。
初日は鳩にエサをやったり、近所のおじいさんと世間話をするだけで一日が終わった。依頼主の部屋には、監視対象のママ友が訪ねたのみで、男の出入りはなかった。次の日、監視対象は一度買い物に出ただけで、特に人と会う様子もなかった。
翌日。張り込みを始めてから三日目。監視対象は昼前にめかし込んで出かけた。お、これは、と思って後をつける。JRと地下鉄を乗り換えること40分。彼女は都心のビジネスホテルに入っていった。一階がレストランになってるやつだ。
少し時間を開けて俺もホテルへ入る。彼女はレストランで男と会っていた。なんとも生き生きとした、女の顔で喋っている。二人は黒く濁った粘着く関係で繋がっていた。間違いない。彼が浮気相手だろう。
俺はスマートフォンで二人の写真を取り、ホテルを出た。依頼主は離婚のための証拠集めではなく、浮気を止めさせるための証拠が欲しいだけだそうだから、これで十分だろう。後はあの男の身元を調べれば一丁上がりだ。
それから俺は男の方の後をつけ、住所や勤め先を調べあげた。報告書をまとめて依頼主に提出するまで五日。成功報酬を受け取って15万の売上だ。悪くない。悪くないのだが、最初の300万のインパクトが強すぎたせいか、どうも味気なく感じる。思っていたより楽な仕事じゃない。丸一日じっと張り込んでるのも、体は疲れない割に精神の疲労がひどい。
もっと割のいい稼ぎ方はないものか。なんて考えながら、ぼーっとテレビを観ていたら、ニュース番組が始まった。経済サミットの開催。各国がなにがしに合意。閣僚の問題発言。批判を強める野党。連日の猛暑。アイス商戦の激化。うんぬん。
「次のニュースです。日本犯罪史上最悪とも呼ばれた、都内連続児童誘拐殺人事件の容疑者として、芸能事務所、堀川プロダクション所属の男が逮捕されました。逮捕されたのは、タレントの『タカミー』として知られる高橋圭一容疑者31歳です。警察によりますと、先月末から『先月行方不明になった女児と一緒に居たのを見た』といった複数の目撃証言が寄せられ、高橋容疑者の自宅の家宅捜索に踏み切った所、行方不明になった女児の物と思われる衣服を押収したとのことです。高橋容疑者は容疑を認めているとのことです」
幼い女の子だけを狙って誘拐し、性的な暴行をくわえた上に残忍な方法で殺害するという、常軌を逸する凶悪犯罪の犯人が捕まったらしい。それだけでもニュースバリューは高いのに、しかも犯人は芸能人。人気絶頂のバンドマンだ。番組は長々と時間を取って、事件の経緯を伝えていた。しかし、俺はそれとは違った意味で画面に釘付けになった。
「それにしても、なぜ、高橋容疑者はこのような犯罪に手を染めたのでしょう?」
アナウンサーに話しをふられたコメンテーターが分かったような解説を始める。やれ容疑者はバンドマンとしては珍しくオタク趣味で有名だった、マンガやアニメの影響だ、うんぬん。そういうテンプレートがあるのかなと思わせる、テンプレ通りの解説だ。
それはともかく、気になることがある。画面に高橋容疑者の映像が映る度に、俺の目には彼の持つ人間関係が見えている。さすが芸能人だけあって、すごい数の繋がりがある。彼から四方八方に伸びる関係のうち、見慣れない種類の関係があるのだ。彼の体には、無数の手錠つなげて作った鎖が巻き付いている。まさか警察がこんな拘束の仕方をするわけがないから、これは俺の目にしか見えていない、繋がりの一種だろう。その鎖の一方は画面の外の何処かへと伸びている。誰と繋がっているのかは分からないが、かなり強い関係だ。これは、何だろう?
ひらめくものがあった。これはもしや、この事件には彼の他にも共犯者がいるということではないか? おそらく警察も気づいていない。犯人が犯行を自白して一件落着したと思っている。つまり、共犯者の存在は俺しか知らない。そいつを見つけてやれば……
瞬間、脳裏に映像が瞬く。
『史上最悪の難事件を解決!』
新聞や雑誌が俺の活躍を伝え、一躍有名人に。探偵業の合間に芸能活動なんかして、バラエティーやらCMやらに引っ張りだこ。
「これだ!」
俺は事務所で一人、拳を突き上げた。待ってろよ共犯者、待ってろよ俺のセレブレティライフ!
* * *
占い業はすぐ廃業した。あの占い屋に行くと必ず別れるという噂が立って、客足がぱったり途絶えてしまったからだ。また借金だけが増えた。
「はぁ~。もう死のうかな」
隣で雑誌を立ち読みしていたオッサンがギョっとして俺を見た。ふらっと立ち寄ったコンビニでマンガを立ち読みして、ついつい長居してしまった。ジュースでも買って出よう。適当な清涼飲料水のペットボトルを手にとってレジへ向かう。
「150円になります」
バイトだろう。若い女の店員だ。かわいい。支払いを済ませ商品とお釣りを受け取って店を出ようとした時、レジの向こうから店長らしき中年男性が彼女に声をかけた。
「よくやってるな」
ぽんと肩に手を置き、店長が彼女を労った。二人は、なにやら濃い紫色の、ねばねばと糸を引くような『繋がり』でつながっている。これは、もしや……。俺は一つの思いつきと共に店を出た。
* * *
数日後、深夜。俺は件のコンビニの前で人を待っていた。目的の人物が店から出てくると、すかさず声をかけた。
「はあ」
声をかけたのはこの店の店長。彼はうろんげな目で俺を見返していた。それはそうだろう。俺は夜だというのにサングラスで顔を隠しているのだ。怪しまない方がおかしい。一気に本題に入る。
「なっ、なんのことだ?」
驚き目を見開く中年。
「立ち話もなんですから、詳しくは、あそこのファミレスででも話しましょう」
彼は黙って俺についていきた。ファミレスでは適当な料理と飲み物を注文した。
「何をバカなことを」
「証拠ならあるんですよ」
俺はポケットから印刷しておいた写真を取り出し、テーブルの上に放った。彼とあの若い女性店員がラブホテルに入っていく写真だ。
「……何が望みだ?」
男はすっかり観念したらしい。
「300万だ」
「さっ、300万!?」
席から立ち上がって叫ぶ男。
「ちょ、落ち着いて。騒ぎになったらお互い困るでしょう」
すとん、と彼は元通り腰を下ろした。
「300万……」
放心したようにつぶやいている所に追い打ちをかける。
「お前、小学校に上がったばかりの娘がいるだろ。不倫で離婚なんて事になったら娘に会えなくなるぞ」
「そっ、それだけは……」
顔色が変わった。さらに畳み掛ける。
「娘にも会えず、慰謝料と養育費を払うためだけに働く日々を想像してみろよ。元嫁が再婚して新しい生活を始める横で、お前は稼ぎの大半を持って行かれて、趣味も贅沢も何もできず、一人で死ぬまで過ごすんだ」
「くっ、くぅ~!」
彼は自分の寂しい老後の姿を想像したのか、頭を抱えて唸っている。
「それに比べれば、今300万払うくらい、どうってことないだろう? な?」
「うっ……くっ……くくく……」
気づけばいい年した中年のおっさんが、嗚咽を漏らして泣いていた。かわいそうだが、身から出た錆ってやつだな。
料理はまだ来ていないが、支払いを済ませて俺は店を出た。
翌日、彼は本当に300万を持って来た。分厚い茶封筒に、銀行から下ろしたての札束を三つ入れて。俺に金を手渡す瞬間の、泣き笑いのような形相と言ったら、なかなか見れない類のものだった。これに懲りて、これからはまっとうな人生を歩んで行って欲しい。
さて、それはともかく。300万。300万だ。事務所に帰ってから一枚一枚数えてみたが、本当に一万円札が300枚あった。こんなにまとまった金を稼いだのは、生まれて始めてのことだ。今までろくろく、稼げやしなかったのに。これこそ、ボロ儲けってやつじゃないか。またやるか。発覚しないだけで、不倫なんてそこら中にあふれている。俺はそれを簡単に見つけられる。まるで、金の成る木だ。
しかし、そう何度もゆすりたかりが上手くいくとも思えない。いつか通報されて警察のお世話になるだろう。もっと、合法的なやり方はないものか……。
そうだ、ひらめいた。あるじゃないか、うってつけの職業が。
* * *
統合失調症。ありもしない幻覚や幻聴に悩まされる精神の病気。認知の歪みから被害妄想に陥ることもある……
読んでいた本を机に投げ出し、俺はソファに横になった。アパートを兼ねた賃貸事務所だ。自殺未遂をしたアパートは追い出された。無事に退院した俺は、膨らんだ借金を返すべく新しい事業を始めたのだ。
自殺未遂から生還してから、俺の目にはそれまで見えなかった物が見えるようになった。『人と人の間の関係』が見えるようになったのだ。なぜかは分からない。ただの幻覚かもしれない。なんと言ってもうつ病持ちだったのだ。他の病気になっても不思議ではない。
人間の脳の神秘って奴かもしれない。自殺に使った洗剤からたまたま特殊な化学物質が発生して、その影響で眠っていた能力が目覚めたのかも。あるいは、酸欠によって脳の一部が死ぬことで、今までと違う脳の回路が活動を始めたのかもしれない。事故をきっかけに画家や音楽家になった事例もある。
いずれにせよ、俺は超自然的な能力を手に入れた。窓から通りを歩く人々を眺める。人間は社会的な生き物だ。様々な人が様々な人と『繋がり』を持って生きている。今の俺には、それが見える。
『繋がり』は実に多種多様な見た目をしている。あの看護婦と医者の間は運命の赤い糸で繋がっていた。同じ恋人同士と思しき男女でも、もっとぼんやりした、細く白い糸で繋がった仲もある。『繋がり』は二人の関係を象徴した見た目をしているらしい。燃え盛る炎や、逆に黒光りする重々しい鎖で繋がった仲もある。
通りを若い夫婦と幼稚園ぐらいの子供の親子連れが歩いている。全員が淡く光る、クリーム色の光のリボンで全身が包まれている。概ね、良い関係は明るい色をしている。
スーツ姿のサラリーマンが二人歩いている。先輩と後輩のようだ。先輩から後輩には、蜘蛛の糸のような細くもやもやした線が伸び、後輩の全身をふんわりと包んでいる。後輩から先輩へは汚水を滴らせるヘドロが伸びている。人間関係は非対称だ。一方が特別に悪い感情を持っていなくても、逆もそうとは限らない。
髪の毛のような細い関係を四方八方に伸ばす若いOL、胴体に太いロープを一本だけ結びつけた中年男性。本当に人それぞれだ。人とどのような関係を築くかこそ、生き方そのものなのだ。
その時、事務所の呼び鈴が鳴った。客だ。慌てて机の上の読みさしの本を椅子の下に放る。カーテンを閉めて部屋を薄暗くした上で、俺はもったいぶった雰囲気を作って言った。
「お入りなさい」
「こんにちは~」
「ここがねぇ」
「ほんとに当たるのかよ」
「ほんとだって! キョーコもここで占ってもらったって!」
「悩める子羊達よ、プリンス佐々木の占いの館にようこそ。あなたの恋の行方を占ってしんぜよう」
俺はこの能力を生かして占い屋を始めた。恋愛占い專門だ。お互いに気があるかどうかなんて、見れば分かるのだからチョロい商売だ。リーダー格らしき女子が言った。
「私達の恋愛がどれくらい続くか占ってください! まずは……」
すかさず手を上げ、続く言葉を制止する。
男女が二人づつで六人だ。当然カップル三組で来たということだ。強く想い合っているカップルは、今の俺には一目で分かる。それを言い当てることで、『ホンモノ』という評判を立てるのだ。噂が噂を呼び、俺の占い屋は連日長蛇の列ができることだろう。さあ、年端も行かぬ中学生どもめ。超自然的な体験をさせてやるぜ!
「お名前を聞かせてもらって、よろしいですか?」
「田中です」
「ニシーって呼ばれてます」
「トモっでーす」
「鈴木元一郎です」
「ササで」
めいめい名乗る中学生達。友情は空色のリボンだ。太さはまちまちで、所々ピンと張り詰めていたり、余裕があったりするが全員が中学生らしい爽やかな友情で結ばれている。とても健康的だ。
俺は友情とは違う、もっとねちっこく強い繋がりを持つ男女を見つけていった。計三本。実に素直だ。分かりやすい。
「田中さんとニシー君、佐藤さんと鈴木君、トモさんとササ君が恋人同士ですね。どのカップルもお互いがお互いを強く想っています。他の誰よりも特別に思っていますよ。恋愛は長続きするでしょう」
リーダー格のポニーテールがチャーミングな田中さん、クールビューティっぽい佐藤さん、お調子者っぽいトモさん。野郎どもは、どうでもいいけどだいたいイケメンだ。中学生だと言うのに、みんな実にかわいい。こんなかわいい彼女がいるのが羨ましい。
しかし、何か様子がおかしい。六人の男女は全員、時が止まったかのように黙りこくっている。俺の言った事が信じられないといった顔だ。
「どういうことよ……」
次の瞬間、もの凄い事が起きた。六人の間にあったパーティの飾り付けみたいな華やかなリボンが、一瞬でバラバラにちぎれ飛んだ。残ったのはどろどろの愛憎。
「ニシー、私とは付き合えないって言ったよね!?」
「そっ、それは、ササがお前のこと好きだと思ってたから……」
「は? 俺がいつそんな事言ったよ?」
「ササっち! ちゃんと言ってくれたら、私、ゲンなんかと!」
「ゲンなんか? なんか? 鈴木君のことを悪く言わないでくれる?」
「はあー!? お前が一番……っ! 俺のこと振ったじゃねぇかよ!」
激しく罵り合う中学生達。一言ごとに六人の間の関係は波うち、尖り、断裂し、何か濁った関係が新たに生まれるのを繰り返し──
「…………」
重苦しい沈黙があたりを支配する頃には、彼らの関係はウニのような針でお互いを刺しあう物に変わっていた。これは、もしかして、とんでもない事をしてしまったのでは……?
「あ、あの~」
全員の視線が俺に向く。
「はぁ?」
ギンギンに睨みをきかせてくる田中さん。
「払うわけないでしょ! ふざけてんの!?」
彼女は事務所の戸を乱暴に開けて、外に出た。無言で牽制しあいながら、それに続く残りの五人。
「あっれー。おっかしいなぁ」
占いなんてチョロい商売だったはずなのに。何がまずかったんだろう?
* * *
お婆さんを助けたせいだ。俺は今わの際にそう思った。俺は佐々木誠也26歳。情けないことに、こうして自死を選ぶ。それもこれも、あのお婆さんのせいだ。
あれは俺が大学4年だった頃。就活中。100社以上エントリーシートを送って、やっと最終面接にこぎつけた企業の面接日。俺は時間に余裕を持って家を出て、面接会場に向かう道すがらだった。横断歩道で信号待ちをしていたら、隣に立っていた見ず知らずのお婆さんが倒れた。周囲に人はおらず、俺がやるしかなかった。俺は類まれな危機管理能力を発揮して即座に救急車を呼び、救急車を待っている間にも息と脈を測り、気動を確保し人工呼吸をし、救急車の音が聞こえるや、救急隊員をお婆さんの所に誘導して倒れた時の様子を説明しながら隊員と一緒に救急車に乗り込んだ。
お婆さんは一命をとりとめたが、気がついたら面接には大遅刻。物語だったら助けたお婆さんの親族が面接官でって展開になるわけだが、現実は非情だった。どんなに説明しても時間に遅れるなど社会人失格と、取り合ってもらえなかった。
そのまま就活は全滅。飲食店でフリーターをやりながら就職浪人をしてみたが、既卒をまともに採用してくれる所なんてなかった。フリーターの仕事はどぎつくて、休みなく働かされた。大学時代から付き合っていた彼女との時間も取れなくなり、愛想を尽かされて振られた。2年でうつ病になり働けなくなった。
うつの治療をしながら、起死回生をかけて、ネットで海外の珍しい品物を見つけて輸入して売る輸入業を始めた。だが、俺にはセンスが無かったのだろう。4年頑張ったが鳴かず飛ばずで廃業した。
別に俺の事業の失敗のせいではないだろうが、時を同じくして両親が相次いで他界した。気がつけば俺が持っているのは、事業の失敗で作った借金だけとなった。フリーターの給料じゃ、何十年とかかっても返せないだろう。悲しむ人も居ない。俺は先の見えない人生に絶望して自殺することにした。
本当に、ほとほとろくな事のない人生だった。だがそれもこれで終わりだ。熱いため息を一つついて、俺は意識を失った。
* * *
目が覚めると病院のベットの上だった。失敗したらしい。失敗だらけの人生、俺は自殺すらまともにできないのか。硫化水素を使ったのが悪かった。医者が言うには、アパートの隣人が異臭に気づいて通報したらしい。俺は無意味に命を永らえた。自殺未遂をしたというのに、見舞い客一人来ない命を。
しかしながら、ベットの上でぼうっと過ごすうち、あれほど自分を苦しめていた重苦しい感情がすっかり無くなっていることに気がついた。健康保険もなく入院なんてして、また借金が増えると思っても、なんてことはない。一度死んだ命、あるだけ得さ。生まれ代わったような気分だった。やっぱりどうにもならなかったら、また自殺すればいいんだ。それまで気楽に生きていこうじゃないか。
『それ』に気づいたのは看護婦が食事を持ってきた時だった。
「小指、どうしたんですか?」
「えっ?」
「小指ですよ、小指。そういうの、流行ってるんですか?」
なんのつもりか、若い看護婦は自分の小指に赤い毛糸を蝶々結びに結びつけていた。ずいぶん長い。糸の先を目で追うと、病室の外まで伸びている。仕事に支障はないのだろうか?
「私の小指が、どうしたんですか?」
だが、看護婦は不審な顔をしている。俺の正気を疑っている顔だ。
「だから、小指の毛糸ですよ。ほら、看護婦さんの左手に……あれ?」
やはり看護婦の小指には赤い毛糸が結びついている。だが、それだけじゃない。その毛糸は、今やってきた医者の小指とつながっていた。どういうつもりなのだろうか。
すると若い男女はお互いに顔を見合わせた。
「患者さんの前で、よせよ……」
二人とも、ちょっと照れているようだ。目と目で通じあって、やたら幸せそうである。しかし、若い医者は訝しげに、
「でも、なぜそれを?」
「それ、とは?」
「確かに私達は婚約しますが……別に、言いふらしているわけじゃないんだけどな……」
お前か? 私じゃないわよ。なんて目の前でイチャコラするカップルの小指の間には、確かに赤い毛糸が結びついている。しかし二人がそうと気づいている様子はない。
これは、一体何なんだ……?
* * *