はてなキーワード: 詩人とは
・面白かった
・主人公の詩人モードに入るスイッチが他人とのやり取りのなかで段々ギア入ってく感じかっこよかった
・端役までキャラの描きかた?よき…
「エドモン(劇作家)は人々に記憶され続けるが私たち(役者)は忘れられる」からの「役者は一瞬を生きるんやで」的なやり取りかっこよ… からのエンディングの実際に演じられたシラノ画像+動画 よすぎでしょ…
・あと「前例はある」おじさんの「初めてだ」 エモーションだった
なんかそんな感じの「イイッスね~^^」って感じの描写が続きまくってよかった
・本番のアレ
・「不幸じゃないと物語にならない」
粉末の妹のsora事件とは2016年8月から発足した人狼onlineの荒らし事件である。被害者は粉末の妹のsoraを始めとするにゃんにゃん会議のメンバー(雑魚どもにちやほやされて良い気になってるおじさん、荒らしにツイート見られて鍵垢にした人、可愛くもない自称妹を必死に庇うにいさん、朝一ノイズ長文でログを流す詩人、地味によく村をたてる野球ファン、必死に発言しても狩目で見られて逆に噛まれる猫、よく顔文字を使う狐好きの中学生、ゲーム中にwiki読む奴、影薄いけど割とよくいるかもしれない人、目立たなすぎて安否不明の奴、リア狂をフォローする偽善者等)である。
ことの発端は粉末の妹のsoraが対抗を占う等の稚拙な立ち回りで周囲の顰蹙を買った挙げ句に「ロラとは?」(もう一度言うとゲーム中に!)と聞いたことである 。それを見て不快に思った荒らしは早速攻撃を開始する。
まず、sora死ね、soraキモいなどの名前で入退室を繰り返し、下界と霊界の両方を騒がせた。更にロラ知れない奴は死ね等と暴言を吐き、本人を含め当事者たちを動揺させた。ことの発端は粉末の妹のsoraが対抗を占う等の稚拙な立ち回りで周囲の顰蹙を買った挙げ句に「ロラとは?」(もう一度言うとゲーム中に!)と聞いたことである 。それを見て不快に思った荒らしは早速攻撃を開始する。まず、sora死ね、soraキモいなどの名前で入退室を繰り返し、下界と霊界の両方を騒がせた。更にロラ知れない奴は死ね等と暴言を吐き、本人を含め当事者たちを動揺させた。
その後、soraは暫く鯖に姿を見せなかったため、一時的に荒らしは収まった。 その頃、soraはらっどを始めとしたにゃんにゃん会議のメンバーと接触し、友好関係を結ぶ。らっどは荒らしに対して厳しい態度で望み、soraを守ろうとした。その事に気づいた荒らしはらっどに対して暴言を吐く、蹴り誘導をかける等の嫌がらせを行ったり、sora不在のにゃんにゃん会議を荒らすなどした。
夏休みが終わると、soraが鯖に現れる頻度は下がり、荒らしも下火となった。それでも、荒らしはsoraを目撃したときには容赦なく攻撃し、sora本人も深刻に悩まされた。
10月頃にsoraはにゃんにゃん会議の元祖RM粉末剣士=おにぃと親密な関係にし、HNを粉末の妹のsoraに変えることすらした。その事を知った荒らしは粉末の妹のsoraという名前で次から次へと村を巡り、ログ破壊や暴言などの荒らしを行った。いわば成り済ましである。それでも飽き足らずそのコテハンでにゃんにゃん会議を建て、村の説明に「ガイジ死ねガイジ死ね…」と暴言を書き連ねることもした。soraが荒らしでないことを知っている者は、成り済ましに対して眉を潜め、彼女の代わりに弁解すらした。その一方でsoraのことを知らないものは彼女が荒らしであると認知し、その名前で入ったものを即蹴りするようになった。
ある時、偽物の建てたにゃんにゃん会議に入室したsoraは自分が深刻な成り済ましに合っていることを悟った。早速報告村を建て、弁解を行った。(ログは即座に消された。) 成り済ましが始まった当初、みかん、伊予寒、ゆきは荒らしが本物であると勘違いし積極的に攻撃していたが、この事により偽物であると気づいた。
因みにこの頃はsoraの活動が活発になったときであり、荒らしも本人への直接的な攻撃を頻繁に行うようになった他、不在の時ですらにゃんにゃん会議の霊界でログ破壊をするようになった。 荒らし活動が活発になると、soraは荒らし被害から逃れるためコテハンを「luna」に変えて活動するようになった。それでも、夏休みの時のように荒らしには見破られてしまった。 また、新たな荒らしの手口としてsoraの語録が使用されるようになり、ゲーム中にらっどテロでログを破壊し、廃村に追い込まれる事案が多数発生した。また、荒らしはsora以外のにゃんにゃん会議のメンバーをも積極的に攻撃するようになり、関係の薄かったリュカも前述のらっどテロの被害をよく被った。 こうして廃村が続くと荒らしは深刻な問題となり、活動再開当初は荒らしを挑発するなどの余裕を見せていたlunaも罪悪感を感じるようになり始めた。
更に新手の荒らしが「粉末の妹のsora」のコテハンを使っために、soraはかつてのコテハンを使うことは不可能となった。こうして追い詰められてヒステリックになったsoraは意味もなく村を建てたり、トリップ非公開で参戦しようとするなどの奇行に走り出した。
2017年には、余りの荒しの酷さに粉末団教祖、らっど等の幹部は姿を消し、自分を守ってくれる大切なおにぃを失ったsoraは引退へと追いやられた。引退直前には一矢報いようと荒らしに支離滅裂な煽りを行ったが、逆に自分が受けたダメージの大きさを知らしめ、荒らしを歓喜させることとなった。幹部を失ったにゃんにゃん会議は崩壊状態に陥った。
目標がある程度達成させられたことによりsoraの攻撃も全盛期ほど激しい物ではなくなったが、それでもにゃんにゃん会議の残党を見つければ容赦なく攻撃した。きじとら、けー等は細々と活動を続けたが、かつての勢いはなく、自然消滅した。
こうして、荒らしのsoraは完全勝利を収めたわけだが、それでおわりではない。未だになりすましを続け、鯖へ復帰することすら阻んでいるのである。
幼いころに観た、「ドラえもん のび太のドラビアンナイト」には、ぜんまい仕掛けの舞姫が出てくる。しかし、まだ自分はそれに欲情することはなかった。パンツがエッチなものと認識はあったのに、しずちゃんのへそ出し衣装にも、それどころかオアシスでの全裸水浴にも何の感慨も抱かなかったのである。
もう少し大きくなってから、とある学習漫画で見たベリーダンスには、なぜかエッチな気持ちになった。確か、アラビアと聞いて半裸の女性が踊っている不埒な妄想をしているシーンだったような気がする。性の目覚めとは不思議なもので、その時に出会ったものとタイミングによって、その後の性癖に多大な影響を与えてしまうし、パンツの向こうにある女性器に興味が出てきたのは、中学生以降になってからだった。
文学でベリーダンスに出会ったのはオルハン・パムク、2006年のノーベル文学賞作家を読んでいた時だ。結婚式などの場にベリーダンサーを呼ぶべきかどうかについて議論している個所が作中に出てきた。どうやら、ベリーダンスの持っているイメージや社会的な意味が、ヨーロッパとはかなり違うのではないかと気づいたのはこの時である。
今回はかなり日英のウィキペディアの記事が充実しているので、そこから抜粋しよう。
そもそもベリーダンスには二種類の社会的コンテクストがある。一つはRaqs BaladiまたはRaqs Shaabiと呼ばれる社交ダンスで、別に露出度の高くない通常のファッションで行われる。保守的な地域では男女別に踊るものとされている。もう一つがパフォーマンスとしてのダンサーだが、社会的地位はまだ高くない。想像する通り、イスラームでは禁忌とされる肌の露出を行うからである。
衣装はbedlahと呼ばれ、典型的なのはぴったりしたブラトップ、臀部のベルト、そしてロングスカートかハーレムパンツの組み合わせでできている。ブラとベルトはビーズやスパンコール、クリスタルやコイン、ビーズや刺繍で飾られている。ベルトはスカートと一体のこともあれば、別々のこともある。
ベリーダンスの起源は諸説存在するが、地中海世界、中東、アフリカと関係があるという証拠が最も多く挙げられている。たとえば、紀元前5世紀のものといわれるエジプトの墓の壁画には、半裸のダンサー達が描かれており、その姿はベリーダンサーが鏡の前で行う柔軟体操の姿勢に似ている。ウィキペディアにはこんなことが描かれているが、画像がないのがもどかしい。紀元前14世紀のネブアメンの墓には、少女が帯だけを身に着けて裸で踊る姿が描写されているが、紀元前5世紀とは年代が合わない。紀元前13世紀のもので、トップレスのダンサーの姿を描いた陶片も出土している。
健全な精神がどうたらという言葉で有名なユウェナリスや、風刺詩人のマルティアリスは、現在のスペインや小アジア地方で波打つ動きやカスタネット、太ももを震わせて床に沈み込む所作のある踊りを記録している。
そして、12世紀から13世紀にかけてのペルシアの細密画の中においてもベリーダンスの描写が見られ、その歴史の長さを伺わせる、とあるが、これもウィキペディアはリンクを貼っていない。やれやれ。
ちなみに、アンダルシア地方でロマ人の踊りと融合してできたのがフラメンコだという説がある。
エジプトのベリーダンスは西洋人が最初に見た様式とされる。ナポレオンがエジプトに侵攻した際、ナポレオン軍は芸人や音楽家としてられるガワーズィー族と遭遇した。フランス人たちは重たげな宝石と髪型に飾り立てられた踊りに徐々に引き付けられた、という。
現在のエジプトのベリーダンスの多くはカイロで行われ、その起源はナイトクラブにある。多くのダンサーはエジプトの映画に出演し、エジプト様式のダンスの発展に寄与した。
プロのダンスはエジプト人に限られていないが、2004年に当局は外国人のダンサーがパフォーマンをすることを禁止した。現在は解除されてはいるが、排他的な雰囲気は残っているようだ。
エジプトでは、ダンサーはbedlahを着用している。また、メッシュで覆われた切り込みの入ったドレスを着ることもある。エジプトには、ダンサーが着用できるものとできないものに関する法律があり、文学作品の検閲に関する法律第430号によると、ダンサーは乳房や腹部を含む下半身を覆わなければならない。事実、衣装については「Raqs sharqi」の項にも詳しいが、1950年代以降、エジプトではベリーダンサーが腹部を露出して公の場でパフォーマンスをすることは違法とされ、ワンピースガウンを着用することが一般的になってきている。
と、書かれているそうだが、一般的には、肌色の薄手のメッシュ生地で腹部を覆うだけで十分である、という記載もある。カイロの多くのダンサーはこの規則を無視しているが、この規則はそこまで厳密に施行されておらず、腹を出してパフォーマンスをした場合は単に罰金を科されるだけである。しかし、外国人のベリーダンサーが衣装を着て逮捕されるという事件が何度も起きているとのこと。
ブラとスカートを別々に着用する場合は、ベルトはほとんど使用されず、タイトでなめらかなlycra(?)のスカートに直接刺繍が施されている。腹をカバーするために、薄手のストッキングを着用しなければならない。
エジプトのダンサーは伝統的に素足で踊るが、最近では靴を履いてハイヒールを履くことも多い。また、抑制のきいた正確な動きでも知られている。
子孫繁栄を祈る踊りでもあるため、中東各国では結婚式に欠かせないそうだ。なるほどパムクの小説に出てきたのもこれで説明がつく。
トルコのベリーダンスの衣装は肌を露わにしたものであり、ダンサーたちは腰より高い位置で留められたベルトに脚を完全に露出させるようなスリットの入ったスカートをしばしば身にまとっていた。
多くのトルコの衣装の特徴的な特徴は、V字型または三角形のベルトが含まれており、上端の周りに形を整えたり、輪郭を描いたりすることができる。また、ブラジャーとベルトの両方に多くの装飾やビーズのフリンジが含まれる。スカートは、しばしばエジプトの対応するものよりも充実しており、lycraよりもむしろシフォンやベルベットで作られている可能性が高い。
1980年代から90年代にかけては、両足をヒップまで露出させたスカートや、広く開けたブラジャーやはなはだしくはスパンコールのみなど、非常に露出度の高い衣装が採用された。何があったのだろう?
今日のダンサーはエジプト・スタイルを想わせる、淑やかなマーメイドスタイルのスカートを穿いている。ダンサーたちはハイヒールとプラットフォーム・シューズ(厚底靴)を履く事でさらに、ターキッシュ・スタイルである事を強調する。ト
トルコのベリーダンスはオスマン帝国のスルタンの宮殿にあるハレムに深いルーツを持ってはいた。しかし、今日のトルコのベリーダンスは、エジプトやシリア、レバノンと言った姉妹様式よりも、ロマ民族やローマ人の様式により強く影響を受けている。現に、現在のトルコのダンサーの多くは、ロマ民族にルーツを持つ。トルコの法律は、エジプトのようにダンサーの踊りの様式や衣装に制限を課さなかった。
エジプトとトルコの様式の中間であると言われる。レバノンダンスは、古典的なオリエンタルダンスをベースにしながらも、現代的でもある。大きなステップ、体幹の後方への傾き、ヒップローテーションのねじれ、大きくて忙しい腕、そして多くのシミー(体自体は動かさず、肩のみを前後に動かす所作)がある。
衣装については、腹部を見せることを禁じる規定は存在しないため、bedlahスタイルが一般的である。スカートはエジプトのものよりも透けている傾向にあり、ダンサーの身体がよく見える。ヴェールはエジプトと比べて広く用いられ、ハイヒールも一般的。レバノンのダンサーはエジプトよりも衣装の自由を享受している。
アラビアの様式によく似ており、イランではベリーダンスのことをアラブのダンスと呼ぶ。
その他の伝統的な様式がある。興味深いのは、民族的なスタイルのブラに着けられたコインは中近東のものとは限らず、日本や中後のものらしいものが含まれることだ。参考、ブラトップ。乾隆通宝とあるので、18世紀のものだ。当時からそこまで交易網が広がっていたことがありありと浮かぶ(インド洋交易の歴史はもっと古いが)。
ベリーダンスという名称も、https://en.wikipedia.org/wiki/Belly_dance#/media/File:Jean-L%C3%A9on_G%C3%A9r%C3%B4me_011.jpg:title-ジャン=レオン・ジェロームの絵画]の俗称に由来しているという説がある。この絵画では腹部どころか乳房をあらわにして兵士たちの前で踊っているが、この画家は空想を織り込むことで有名だ。たとえば別の有名な蛇使いの絵画]
の後ろにある青い壁と床の組み合わせも、確かどっかの宮殿とモスクを適当に組み合わせたもので、正確さに欠けている。異国情緒あふれていて魅力的だが、今ではたぶん許されない表現だろう。実際、ベリーダンスからイメージされるものは、元来その地域のものであったものとは異なる。
普通、ベリーダンスの衣装としてまず想起されるものは、1930年代のエジプト・ダンサーたちが身にまとい、他の地域へと知れ渡った衣装で、たいていビーズかコインがブラの周辺に飾られたブラジャー風のトップスで、腰のベルトにもビーズかコインが飾り付けられている。下半身はハーレムパンツ、ストレートタイプのスカート、サーキュラー・スカート、パネル飾りがあしらわれたスカートである。
20世紀のバーレスクや映画産業がこうした幻想を広めたのだが、当のエジプト人ダンサーたちもまたまたビーズで全面を飾り立てた衣装を身に纏うようになった。映画でも、セクシーな悪役のイメージとも結びつき、胡散臭いものとして見られることも増えてしまった。このイメージの払拭には時間がかかった。
今でもカイロにあるナイトクラブのオーナー、バディア・マサブニは西洋人旅行者の期待に添うために露出度の高いドレスを採用している。身体の輪郭を覆い隠し、ダンスのたびに強調されるのはスカーフやお尻に巻かれたベルトくらいであるエジプトの民族衣装とは異なるのである。
https://dic.pixiv.net/a/%E8%B8%8A%E3%82%8A%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%9C%8D]
踊り子と聞けば川端康成ではなくこっちを思い出してしまう人は多いだろう。
たぶん、日本のゲームでベリーダンス的な幻想を多くの青少年に植え付けたもっとも古いものの例だ。今に至るまで踊り子といえばへそ出しであり、無数の同人誌で多くの人を悶絶させたはずである。ただ、中東のベリーダンスは伝統的にはここまで脚を出さない。
【マギ】モルジアナさんの踊り【ぬるぬるな高画質】 - ニコニコ動画
現代の漫画でオリエント幻想を一番前に出しているのはこの作品だと聞いたのでリンクを張る。読書の傍ら、漫画も読もう読もうと思って全然読めていないのが悔しい。短篇ばっかり読んでいる。
ただし、書かれているのが謝肉祭とのことであり、結婚式の場ではないようだし、伝統的な衣装とは幾分異なる。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21377022]
英語版のウィキペディアでアニメの中のベリーダンスとして紹介されたのがこの作品だ。鳴子ハナハルの作品については、エロ漫画ソムリエの友人から薦められて楽しく読んだ。大体、彼が進めてくれるのはストーリー重視で性欲があまり刺激されないものが多いのだが、それはさておいて、上の動画は深夜アニメなだけのことはある。
しかし、衣装や腰の動きは半ばリオのカーニバルじゃなかろうか。未来が舞台だから文化が混交しているのかもしれないが。
Intimate parts in Islam - Wikipedia
で、実際イスラームにおけるへそ出しファッションってどのくらいのタブーに当たるのか?
上記記事によれば、身体のどの部分を覆うべきかについては大きな差があるようだ。主要な見方をまとめると次のようになる。
とはいえ、トルコのようにかなり世俗化しているところもあるし、特に異教徒に対して顔を隠すべきかはかなり差があるようだ。
実際のところ、イスラーム圏でへそ出しダンスって普及しているの? と思っていたので、意外と広まっていたのには驚いた。しかし、あれだけ広い地域に広がっている宗教なのだから、戒律をどのくらい守っているかには地域差があって当然だし、都市と農村では法の運用方法にも差があってもさほど驚くべきではないだろう。悪名高い女子割礼や名誉の殺人にしたところで、イスラーム本来の教えというよりはその土地の部族の慣習が強化された面もあるようだ。海外に行くと善意から両手を合わせた挨拶をしてくれることがあるが、タイ人と日本人を混同するような誤解を、きっと僕らもしていることだろう。
社会は馬鹿ばかりで虚しいし、不幸はこの世からなくなりません。
みんなその場限りのことしか考えていないので、いつまで経っても全体の幸福度は上がらないから、くだらない娯楽で馬鹿を支配するシステムが発達して、オーウェルの小説のようなディストピアまでまっしぐらでしょうね。それがある意味で本当に平等な世界なので。
『水が上から下に落ちるのが当たり前』という表現がありましたが、その通りでこの世界はエントロピーに支配されています。
壊すのは簡単ですが作るのは大変ですし、継続するのはめちゃくちゃ困難でも諦めてだらけるのは秒でできます。
何かを始めるにはエネルギーが必要ですが、そのエネルギーも積み重ねによる貯金や、将来への希望という不確定な報酬を担保にしているので、負の連鎖に陥ればもう手に入りません。
やってもどうせ意味ねえし、どうせ報酬だってたかが知れてるし、昔同じものを手に入れた時は確かに嬉しかったけど、終わってみたら大したことねえなと思えるし、そんなもののためにまた頑張るのなんてアホくせえし…
ちなみにエントロピーは割れたグラスを元に戻すことはしませんが、時折好循環が起きて何もないところからエネルギーを起こすということもあるらしいですよ。まあ負の循環の方が大きいのですぐに掻き消えてしまいますが。
この世って頑張ることを前提としてるくせに、頑張って手に入るものたかが知れてて、しかも頑張んなくても存在することはできるとかいうよくわかんねえバランスなんすよ。
でもそんなの当たり前じゃないですか?
そんな当然のことに虚無を感じてるんですか?
私があなたの文章を読んで思ったのは、フェアな視点が圧倒的に欠けているということです。
建設的な議論を歓迎したいのなら、まず自分の思想の反対意見を全肯定してみてください。
その上で両者の思想を比較検討し、デメリット、メリットを把握した上で最終判断を下してみたらいかがでしょう。それが知性ある人間の行為だと私は思います。
社会は虚しい
→テレビやツイッターの議論を見て、世間のくだらなさを実感しているのなら、そのくだらなさを大前提とした上で、それでも人間はゴミなのか?できることや考えられることはないのか?と思考している人たちにも目を向けるべきです。
一歩引いて世間を見ることができるのなら、世間と自分という構図からも一歩引いてメタ化することもできるはずです。
そういった思考をしている人々は、漫画、絵画、プログラマー、音楽、科学や数学など様々な分野にいますが、一番わかりやすいのは文学だと思います。
あなたは人間をシステマチックに見ているくせに、小さい命にも、弱い立場の人間にも情を寄せていますね。
全ての人間が救われるべきだとか、
命は平等に扱われるべきだとか考えているのでしょうか?
でも周りを見れば人間は愚かで救いようがないし、現実的に真の平等を目指すと全人類思考せずにバーチャル世界で家畜化するしかないのではとか考えて、虚無になっているのでしょうか?
それ単純に考え方がクソ真面目なだけじゃないですか?
もし人間の平等を考えるのだとしたら、人間の不真面目な欲望も尊重するべきです。
戦争は楽しいし、いじめや差別は気持ちがいい。浮気はダメだと分かっているけど魔がさしてやってしまうし、結婚したら幸せが保証されるかもと思いながら三人に一人は離婚している。
でも全部欲望でそういうのも人間に必要です。背反理論であり、片方を全て取っ払うとか無理な話で、それも含めて人間として扱うべきでは?
それでも自分の理想を追うのだとしたら、それは理屈ではなく感情的な判断です。あなたの理屈を否定しきれないように、反対の理屈も否定しきれないので結局は感情に頼るしかありません。感情的な判断を下しているという意味では、あなたから見える世間の人たちと同レベルですね。
私もあなたも結局感情のレベルでしか判断できない豚で糞虫です。
脱線しますが、20世紀にウィリアム・フォークナーというアメリカの作家がいました。
彼は南部アメリカの架空の土地を舞台に、将来に絶望するしかない生まれも育ちも最悪な人間や、恵まれた人間も贔屓目なしに平等に描いてます。
いいことも悪いこともフェアに、淡々と現実を綴った彼は、ノーベル文学賞受賞講演でこう語ったと言います。
「人間は単に生き永らえるのではなく、勝利すると信じます。人間が不滅なのは、人間が生きとし生けるものの中で唯一疲れを知らぬ声を持っているからではなく、人間には魂が、憐れみを感じ、犠牲的精神を発揮し、忍耐することのできる精神があるからなのです。詩人に、作家に課せられた義務は、こうしたことについて書くことなのです。人の心を高めることによって、人間の過去の栄光であった勇気と名誉と希望と誇りと思いやりと憐れみと犠牲的精神を人に思い出させることによって、人が耐えることの手伝いをすることが、作家に与えられた特権なのです。詩人の声は、単に人間を記録したものである必要はありません。それは人間が耐え、勝利を得るための支えの一つ、柱の一つになることができるのです。」
こんな偉大な人物が人間を信じているのですから、大して考えてない行動していない我々が諦めてしまうのは早すぎると思いませんか?
800がようやくって字書きというよりつぶやきストとかツイッター詩人みたいなものではないか。
自分だとどう書いても小ネタで2000、ほんのちょっとでも肉をつけると4000超える。それ以下だとたしかにツイでばらまきやすいけど。
800字では自分の場合なに一つ書けない。6ツイート未満だなんて日常報告「今日家族と○○したんだけどね」程度でも使い切る単なるあらすじ枠、
絵描きでいうとジャンルぷちオンリーパンフ用のちょっと大きめのサークルカットみたいなもんですわ。
※真田氏の絵(コマ割りなどマンガ的演出含め画面づくりすべてこみでの画力)とか
ネタの切り出しセンス(マンガという全くのジャンル外から表現される文字書き同人のみに簡略化・モデル化した同人界)はものすごく達者だとおもいます。
いまから人生おわるまで修行しても字書きの自分にああいうのは書けません
※となると、もしかして、単に「字」書きの自分には汚いものも含めて細かい感情を字で書きつらねた長「文」腐女子が「マンガ」よりよく刺さる傾向があるだけかもしれないが、
では「絵」かき同人さんに「わたしのジャンルには神がいます」という「マンガ」がよく刺さるかというとそうでもない気がする。
私の小説が死ぬほど好きといって見事な表紙を恵んでくれた相互さん、「自分は同人女の対象外ですが垢移動の苦しみは刺さった。」っていってた。いやあなたたぶんジャン神のモデルに含まれるような立派な同人女です…私なんかよりずっと対象です…でも「同人女」である自認がないんだよね。つまり「絵かき、かつ同人女未満」という自認の人には刺さる。(n=1だが)
私は私でアレではモデル化しすぎ、枝葉をおとしすぎてて「あなたどこから見てたんですか」なリアリティは感じられないなぁ。最初から違う入り口だった。
※これでおよそ800字
あっインタビューはこっち nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2011/13/news148.html
(2020/12/29 16:02追記 274曲聞いた 更新終了)
※歌配信やその切り抜きは除外
敬称略、各枠内での並びは順不同
https://www.youtube.com/playlist?list=PL7zJKCZCIu37pRAs1IQxUto2mld6-oyq9
書くまでもないことは省略します。オタクは自分の感性が全てです。
性加害という言葉をきちんと理解することは必要だと思うんだけど、男女含めて殆どはそれを理解できていないのだと思う。性加害は簡単に言えば、意に沿わない性的な接触・行為のことを言うんだけれど、はっきり言えばこの「意に沿う」かどうかは多くの人にとっては判断できないのである。
勿論、明らかな性加害というものは存在する。例えば夜道でぶん殴られて物陰に連れ込まれるなどの性的接触を受けたならばこれは間違いなく性加害だし、それに類する明らかな性加害というものは当然存在する。一つの明確な基準としては、あまり面識のない異性や同性から受ける性的接触は、多くの場合性加害的である、といったところじゃないだろうか。あまり面識のない異性・同性との性的接触に関して抵抗のない女性だって当然いるにはいるのだろうけれど、個人的にはこれは相互的性加害と言って良いと思う。つまり、愛情を伴わない性的接触というのはお互いの為にならんという、まあそういう教条的な立場の表明なのだけれど、ひょっとしたらこういう見解は世の見解からズレているのかもしれんね。僕には分からない。
とにかく、明らかな性加害というものは存在しているし、敢えて申し上げるならば、仮に同意などを取り付けていたとしてもお互いに愛情のない性的接触や行為というものは加害的であると言って差し支えないのではないかとも思う。のであるし、さらには、翻ってこの世界には性加害的であるかどうか判別のつかない性的接触や行為というものが満ち溢れている。
一晩だけ盛り上がっても後になるとうんざりしてしまうようなそういう経験とか、あるいは一時的に愛情を持ったと思っていたのだけれど錯覚で、結局お互いに愛情の伴わない欲望充足を行っていただけだったとか、そういう結果論的な結末についても広い意味で性加害的な営みだと言えるんじゃないかということである。物事が全て終わった後に、「結局のところ心の底から望んでたわけじゃなかったよね」って気付くことだって、世の中にはあるんじゃないか、ということである。もし仮にそういうことが起こったとして、「ま、いいや」って開き直れる人ってそんなに多くないんじゃないかって思いません?「別に望まない性的な接触・行為をそうと知らない内に行っていたとしても、ま、いいや」って。
だって、愛情がない性的接触・行為をして下さい、って仮に人から頼まれたとしたら皆嫌でしょう? もしそんな風に頼まれたとして、「はい! 愛情のない性的接触・行為を喜んで行います!」って答える人ってあんまりいないと思いません? いや勿論いるんですよ実際にはそういう人も、でも、殆どの人にとっては嫌でしょう? それって性加害的と言っても過言ではないでしょう? だから、例え性的な接触・行為の後に随分時間が流れたとしても、最終的に「あれって別に心の底から望んでたわけじゃなかったよな……」ってな結論に至ったとしたら、それは微妙に加害的な側面を備えていると言って良いんじゃないだろうか、とかそういう話を僕はしたいわけです。勿論、そういう見解に事後的に至ったところで、「ま、いいや」とすっきりできる人も中にはいるんだろうけれども、恐らくそういう人っていうのは少数派だと思うし、あるいは仮にそういう人がいたとしても、恐らくそういう人にとっては愛情の伴う行為と伴わない行為はあまり分化していないのだろうなと思うわけです。つまり、結局のところその二つをしっかり区別していないところの人は、愛情の伴わない性的接触・行為に抵抗がない傾向があるんじゃねーかなとかそんな風に思う。
まあともかく、愛情の伴わない行為にはあまり多くの人は同意しないのは真実だと思う。僕だってそうだしね。
でも、実際のところその行為に愛情が伴っているかどうかというのは多くの場合事後的にしか認識できない。だから、振り返ってみるとその行為が加害的であった、ってなオチがついちゃうことはままあるんじゃないかなと思う。そう考えると、色々と我々の認識や行為に疑問符がつきまとうことになるのではなかろうか。我々は本当に望む行為を行っているのだろうか? と。
とは言え僕が言いたいのはそういう一般論的な話じゃなくて、最近の増田のよくある論理に対する反論なのである。「貴方が行っている行為、それは加害的だ」という意見をよく見かけるんだけれど、はっきり言って普通の人間には、普通の性的な接触が加害的かそうじゃないかなんて見分けられないってことなんですよ。いや勿論、繰り返すように明らかに加害的な行為というのはあるんだけれど、加害的かどうかが実のところはっきりしないような行為を、我々が「加害的だ」って言っちゃうのは認識の越権みたいなところがあって、我々は多くの場合その判断基準をきちんとは持っていない。ノリノリでかましちゃった後にそれを後悔するとかそういうことを簡単にやっちゃうんですね、我々は。ノリノリで盛り上がって、結局はそれは望んだものじゃなかったよね、なんて結論を付けちゃうことなんか、メチャクチャたくさんあるんです。自分が望んでいると思って行った行為を、結局事後的に「別に望んでなかったよね……」と振り返ることなんてたくさんあるのです。まあ要するに、我々の認識っていうのは多くは間違っていて、そのことを我々は前提として行動するべきなのである。
「加害的だ」「加害的でない」それらの言葉は我々の不安定な認識の上で往々にして入れ替わってしまう。我々の言葉はいつも海の波間に漂う板切れみたいなもので、海そのものを表現しているわけではないのだから。
最後に、僕の好きなポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアの言葉を書いて終わりたいと思います。
「僕たちが
望んだけれどやらなかったこと
それら全てのために
僕が夜海辺を歩く時の
あの気持が作られたのだ」
性加害という言葉をきちんと理解することは必要だと思うんだけど、男女含めて殆どはそれを理解できていないのだと思う。性加害は簡単に言えば、意に沿わない性的な接触・行為のことを言うんだけれど、はっきり言えばこの「意に沿う」かどうかは多くの人にとっては判断できないのである。
勿論、明らかな性加害というものは存在する。例えば夜道でぶん殴られて物陰に連れ込まれるなどの性的接触を受けたならばこれは間違いなく性加害だし、それに類する明らかな性加害というものは当然存在する。一つの明確な基準としては、あまり面識のない異性や同性から受ける性的接触は、多くの場合性加害である、といったところじゃないだろうか。あまり面識のない異性・同性との性的接触に関して抵抗のない女性だって当然いるにはいるのだろうけれど、個人的にはこれは相互的性加害と言って良いと思う。つまり、愛情を伴わない性的接触というのはお互いの為にならんという、まあそういう教条的な立場の表明なのだけれど、ひょっとしたらこういう見解は世の見解からズレているのかもしれんね。僕には分からない。
とにかく、明らかな性加害というものは存在しているし、敢えて申し上げるならば、仮に同意などを取り付けていたとしてもお互いに愛情のない性的接触や行為というものは加害的であると言って差し支えないのではないかとも思う。のであるし、さらには、翻ってこの世界には性加害的であるかどうか判別のつかない性的接触や行為というものが満ち溢れている。
一晩だけ盛り上がっても後になるとうんざりしてしまうようなそういう経験とか、あるいは一時的に愛情を持ったと思っていたのだけれど錯覚で、結局お互いに愛情の伴わない欲望充足を行っていただけだったとか、そういう結果論的な結末についても広い意味で性加害的な営みだと言えるんじゃないかということである。物事が全て終わった後に、「結局のところ心の底から望んでたわけじゃなかったよね」って気付くことだって、世の中にはあるんじゃないか、ということである。もし仮にそういうことが起こったとして、「ま、いいや」って開き直れる人ってそんなに多くないんじゃないかって思いません?「別に望まない性的な接触・行為をそうと知らない内に行っていたとしても、ま、いいや」って。
だって、愛情がない性的接触・行為をして下さい、って仮に人から頼まれたとしたら皆嫌でしょう? もしそんな風に頼まれたとして、「はい! 愛情のない性的接触・行為を喜んで行います!」って答える人ってあんまりいないと思いません? いや勿論いるんですよ実際にはそういう人も、でも、殆どの人にとっては嫌でしょう? それって性加害的と言っても過言ではないでしょう? だから、例え性的な接触・行為の後に随分時間が流れたとしても、最終的に「あれって別に心の底から望んでたわけじゃなかったよな……」ってな結論に至ったとしたら、それは微妙に加害的な側面を備えていると言って良いんじゃないだろうか、とかそういう話を僕はしたいわけです。勿論、そういう見解に事後的に至ったところで、「ま、いいや」とすっきりできる人も中にはいるんだろうけれども、恐らくそういう人っていうのは少数派だと思うし、あるいは仮にそういう人がいたとしても、恐らくそういう人にとっては愛情の伴う行為と伴わない行為はあまり分化していないのだろうなと思うわけです。つまり、結局のところその二つをしっかり区別していないところの人は、愛情の伴わない性的接触・行為に抵抗がない傾向があるんじゃねーかなとかそんな風に思う。
まあともかく、愛情の伴わない行為にはあまり多くの人は同意しないのは真実だと思う。僕だってそうだしね。
でも、実際のところその行為に愛情が伴っているかどうかというのは多くの場合事後的にしか認識できない。だから、振り返ってみるとその行為が加害的であった、ってなオチがついちゃうことはままあるんじゃないかなと思う。そう考えると、色々と我々の認識や行為に疑問符がつきまとうことになるのではなかろうか。我々は本当に望む行為を行っているのだろうか? と。
とは言え僕が言いたいのはそういう一般論的な話じゃなくて、最近の増田のよくある論理に対する反論なのである。「貴方が行っている行為、それは加害的だ」という意見をよく見かけるんだけれど、はっきり言って普通の人間には、普通の性的な接触が加害的かそうじゃないかなんて見分けられないってことなんですよ。いや勿論、繰り返すように明らかに加害的な行為というのはあるんだけれど、加害的かどうかが実のところはっきりしないような行為を、我々が「加害的だ」って言っちゃうのは認識の越権みたいなところがあって、我々は多くの場合その判断基準をきちんとは持っていない。ノリノリでかましちゃった後にそれを後悔するとかそういうことを簡単にやっちゃうんですね、我々は。ノリノリで盛り上がって、結局はそれは望んだものじゃなかったよね、なんて結論を付けちゃうことなんか、メチャクチャたくさんあるんです。自分が望んでいると思って行った行為を、結局事後的に「別に望んでなかったよね……」と振り返ることなんてたくさんあるのです。まあ要するに、我々の認識っていうのは多くは間違っていて、そのことを我々は前提として行動するべきなのである。
「加害的だ」「加害的でない」それらの言葉は我々の不安定な認識の上で往々にして入れ替わってしまう。我々の言葉はいつも海の波間に漂う板切れみたいなもので、海そのものを表現しているわけではないのだから。
最後に、僕の好きなポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアの言葉を書いて終わりたいと思います。
「僕たちが
望んだけれどやらなかったこと
それら全てのために
僕が夜海辺を歩く時の
あの気持が作られたのだ」
次のノーベル文学賞にふさわしい日本人といえば誰になるんだろう。
うちら書店的には売り上げ的に見てやっぱり村上春樹なんだけれど。
多和田葉子が次なんじゃないかと言う人がぼちぼち周りに出始めて。
受章歴からも作風からも多和田が近いのは分かるけど知名度が低い。
多和田葉子?知らん、で終わられては売り上げが見込めなくて辛い。
日本人の大多数が知っていて、世界の人にもぜひ知ってほしい作家。
そういう人がノーベル文学賞を獲ってくれたらみんな幸せだと思う。
西脇順三郎以降に詩の分野で候補に挙がったという話はないけれど、
そろそろ日本の詩人が獲っても良いのではと私は思っているのです。
どこまで自分を言い表しても
絶えず浮かび上がる恐怖本能
自分が判断し行動することすべてにおいて否定的な感情感覚衝動思考が
止めどなく現れ、結局こうなるんだ。
将来のやりたくないことが多すぎてもういやになっちゃって。
なんでそんなに未来を見てしまうのか今を生きることができないのか
でも今ココに向けたら向けたで未来はこれでどうにかなるのかという不安が
止めどなく溢れてきて視界と意識がジャックされて思考がタイムスリップしてあり得る
表現せども、口に出しても
止めどなくひたすらあふれ出でる源泉のようで
蓋を閉じることもかなわなければそれに意識を向けず無視するのも難しいの。
一度最悪なifを考えてしまったらもうそれが現実に起こり得るかのようで
僕の遺伝子で設計された死を防ぐための行動が自分の人生で死ぬまでにやりたいことを
阻んでしまってる。
恐怖本能の意のままにされてる。
限りなく低い。
圧倒的に進化が追い付いていない。
前頭葉を介することが出来ず
こんな人生を俺は望んじゃいない。
幾度となく度重なる自己批判が湧いてくる。
知った言葉の中で難しそうな言葉を選んで書くことによって自分はこんなに
言語知性があるんだと思い込んでやってるのか?そんな
みたいな。
思考が沢山、それこそ無限ともいえるほどに出てきてそれが真実だと捉えて
何一つ現実に、周りに周囲に、皆に世界に影響を与えることもできずに
何一つ介入できず、ただただ席に座り傍観者のように自分や周りを見ている。
一切の合理的な行動を取らずただただ気分や感情にさらされコントロールされる自分を
唯々見ることしかできないで
ここに行きたいんだけどこいつらが脅すからその目的地に着けないみたいな。
でも実際はハイジャックは実銃じゃなくて、脅しはするけど打てずに害を加えることもできない臆病者であることを知っているにもかかわらずに
それらの知識があるにも関わらずそれに対する有効な手立てを打てない自分が腹立たしくて
ちょっと進んだと思ったら下がる。
そしてその下がる要因を突き止めることが出来ずなんども考え思考し施策し実行し
すごい勢いで後退して…
それを何度も何度も繰り返して
ありとあらゆる精神的苦痛を味わいしゃぶりつくし噛み砕き飲み干しても次から次へと責め苦が
なだれ込んできて咀嚼することも困難になって息すらまともにできずただただ絶望に瀕して
嗚咽を漏らすだけの人形になってて。
分かってるのに理解してるのになぜか体が動かない。
そんな気分でさ。
例えるならさ、ロボットを操縦しててさ。
右手を動かすレバーをひっきりなしにあげさげしてるのにうんともすんとも言わないイメージ。
なによりこれだけ自分の状況を言葉に置き換えたとしても、この連休中に
自分のためになることを9割出来ていない自分が変わることは無くて
過去を悔やみ未来を嘆き今に生きず、ただ最悪のifを永遠とヘッドマウントディスプレイを被って見せられてる感覚でさ。
乗り越えたいのに無視したいのに、
それでも俺は人と絡みたい人と関わりを持ちたい良い影響を与えたい良い関係を築きたい。
良い介入をしたい、ただただ世界をよりよくしたい。
そう思ってるのに思ってるのに何もできずただただ嘆くことしかできない自分はこれ以上何ができるんだと。
わかってるよ。やる、出来なくても全力でやって死ぬってことは決めてる。
ただただ、ただただできない。やれない。行動ができない。不安すぎて、恐怖が強すぎて。
この行動をしたら誰かに批判されるのではないか否定されるのではないか
拒否されるのでは拒絶されるのではいじめられるのでは馬鹿にされるのでは
軽蔑され侮辱されるのでは、痛めつけられるのでは人権を剥奪されるような惨い行いをされるのでは
そういう不安で恐怖で何も考えられなくなる感覚が多々あってね。
最近やっとそれを感じなくなったと思ったら自分が突然制御不可能になって。
未来に起こる多大なるストレスに不安を抱いて今に生きれず今の時間を有効活用できず
有効活用できないから未来が良くならず良くならないから未来を憂い今に生きれず
この負のループを描いてるのも間近で見て何とかしなきゃって言ってるのになにもできない。
こういうたとえ話や状況を把握して言語化してるのにも関わらず、
まともな認知機能を行使するまでもなくただひたすら遺伝的に設計された進化する上で必要
な要素を組み込まれたタンパク質等で構成された肉塊が意思を持たず単調なプログラミングの元動いてる
生命体になってる気がしてさ。
それはもう虫と変わらないんじゃないかなって思ってさ。
時代に追いつけてねえぜ?(決め台詞が終わったのであとは蛇足デフ)
まず、最初に語ろう。
「一瞬を語るには一瞬より長いときがいる」とはギリシャ時代にはすでにあった詩人の言葉だとか。
動画は違う。
一瞬を映すのが一瞬で終わる。
ただし、それを使いこなせてないものは多い。
ニュースをただ読み上げているだけの動画など、写真がある点でラジオに勝ってるだけで、ヤフーニュースに劣るだろう。
しかし、使われているのがニュース動画で、その動画への解説が濃密であれば、その情報密度は文字を遥かに超える。
ニュースですらこれだが、面白さ優先の娯楽用の動画ともなれば、文字では絶対に追いつけない密度となろう。
漫画の方が早いと思うなら、それは単に読み込んでないだけだ。
言葉の僅かなイントネーション、間、能動的カメラワーク変化、コマ割りのテンポ、演者の表情の変化、そういったものを感じ取る力がないだけだ。
得てして、文字の情報密度を語る者たちは、速読もどきの雑な流し読みしかしてなかったり、くだらん装飾に意味を見出したりしてるのだ。
ネットに飛び交う文字列など得てして、雑な要約に雑な要約を重ねて元の意味が消えたたキメラの集合か、滑りっぱなしの寒いギャグのキメラだ。
「背後から強烈な爆発音がしたので、俺はまためんどうなことになったなぁ、とかそういや昼飯も食っていないなぁとか色々な思いを巡らせつつも振り返ることにしたのである。」みたいなもんだ。
アホか
https://konkatsu-no-mikata.com/103198
以下引用
ボードレールは1821~1867年、フランスで生活していました。詩人として多くの作品を残し、中でも「悪の華」(1857年)は人気となり、代表作です。当時フランスでは、梅毒が流行していました。その頃はまだ、治療法が見つかっていなかったため死に至る不治の病として恐れられていました。
この状況に憂いたボードレールは、「誰彼かまわず性交する自由恋愛はやめなさい。生をまっとうするなら、まずは体を清めること。そして、墓のある教会で貴方が愛した唯一の人と結婚しなさい。」という言葉を残したのです。
この言葉の最後の部分「墓のある教会で貴方が愛した唯一の人と結婚しなさい。」の部分が当時日本語に訳された際「結婚は人生の墓場」となってしまったというわけです。本来の意味はその言葉通り、教会で唯一の愛する人と生涯を誓い、人生を全うしなさいということです。
正式なタイトルは「正しくウケる文章の書き方」、著者は戸田覚氏である。パラパラめくっただけで、全部読んだわけじゃないけど、たぶん良い本だと思う。
戸田氏の文章は、デジタルガジェットの紹介文などで良く読ませてもらったが、非常にすっきりして読みやすいからだ。文章の個性が気にならず、コンテンツがまっすぐに頭に入ってくる感じの文体である。作家とか詩人になりたいなら向いていないと思うけど、多くのビジネス系コンテンツや雑誌の記事のような無個性な文章に適している。
プロのライターだけあって、書くべき文章の量や内容、ターゲットについていろいろ吟味したうえで下準備をしてから文章を書いている。読む側からするとサラッとして読みやすいので簡単な感じがするのだが、この本を読むと「ああ、プロというのはこれだけ考えて文章を書いているのだな」ということが良く分かる。
アマチュアはここまでする必要はないかも知れないけど、「ブログでお金を稼ぎたい」「将来本を出版したい」みたいな目標がある人は読む価値があると思う。
自分はアマチュアなのをいい事に、何も考えずに思いついたことをそのまま書き散らして来たわけだが、あまりにも下準備なしに書くと誰にも読んでもらえない文章になるということを改めて痛感した。
「だったらまずその本を読めよ」と思うだろうけど、戸田氏のすごいところは、目次とサブタイトルをざっと眺めるだけで何となく内容の見当がつくことだ。全部端から端まで読む時間がないときは、気になる項目から読めば良いのではないかとすら思う。ほめ過ぎかも知れないけど、分かりやすい文章を書くにはどうすれば良いかが具体的に書いてあって素晴らしい。