性加害という言葉をきちんと理解することは必要だと思うんだけど、男女含めて殆どはそれを理解できていないのだと思う。性加害は簡単に言えば、意に沿わない性的な接触・行為のことを言うんだけれど、はっきり言えばこの「意に沿う」かどうかは多くの人にとっては判断できないのである。
勿論、明らかな性加害というものは存在する。例えば夜道でぶん殴られて物陰に連れ込まれるなどの性的接触を受けたならばこれは間違いなく性加害だし、それに類する明らかな性加害というものは当然存在する。一つの明確な基準としては、あまり面識のない異性や同性から受ける性的接触は、多くの場合性加害である、といったところじゃないだろうか。あまり面識のない異性・同性との性的接触に関して抵抗のない女性だって当然いるにはいるのだろうけれど、個人的にはこれは相互的性加害と言って良いと思う。つまり、愛情を伴わない性的接触というのはお互いの為にならんという、まあそういう教条的な立場の表明なのだけれど、ひょっとしたらこういう見解は世の見解からズレているのかもしれんね。僕には分からない。
とにかく、明らかな性加害というものは存在しているし、敢えて申し上げるならば、仮に同意などを取り付けていたとしてもお互いに愛情のない性的接触や行為というものは加害的であると言って差し支えないのではないかとも思う。のであるし、さらには、翻ってこの世界には性加害的であるかどうか判別のつかない性的接触や行為というものが満ち溢れている。
一晩だけ盛り上がっても後になるとうんざりしてしまうようなそういう経験とか、あるいは一時的に愛情を持ったと思っていたのだけれど錯覚で、結局お互いに愛情の伴わない欲望充足を行っていただけだったとか、そういう結果論的な結末についても広い意味で性加害的な営みだと言えるんじゃないかということである。物事が全て終わった後に、「結局のところ心の底から望んでたわけじゃなかったよね」って気付くことだって、世の中にはあるんじゃないか、ということである。もし仮にそういうことが起こったとして、「ま、いいや」って開き直れる人ってそんなに多くないんじゃないかって思いません?「別に望まない性的な接触・行為をそうと知らない内に行っていたとしても、ま、いいや」って。
だって、愛情がない性的接触・行為をして下さい、って仮に人から頼まれたとしたら皆嫌でしょう? もしそんな風に頼まれたとして、「はい! 愛情のない性的接触・行為を喜んで行います!」って答える人ってあんまりいないと思いません? いや勿論いるんですよ実際にはそういう人も、でも、殆どの人にとっては嫌でしょう? それって性加害的と言っても過言ではないでしょう? だから、例え性的な接触・行為の後に随分時間が流れたとしても、最終的に「あれって別に心の底から望んでたわけじゃなかったよな……」ってな結論に至ったとしたら、それは微妙に加害的な側面を備えていると言って良いんじゃないだろうか、とかそういう話を僕はしたいわけです。勿論、そういう見解に事後的に至ったところで、「ま、いいや」とすっきりできる人も中にはいるんだろうけれども、恐らくそういう人っていうのは少数派だと思うし、あるいは仮にそういう人がいたとしても、恐らくそういう人にとっては愛情の伴う行為と伴わない行為はあまり分化していないのだろうなと思うわけです。つまり、結局のところその二つをしっかり区別していないところの人は、愛情の伴わない性的接触・行為に抵抗がない傾向があるんじゃねーかなとかそんな風に思う。
まあともかく、愛情の伴わない行為にはあまり多くの人は同意しないのは真実だと思う。僕だってそうだしね。
でも、実際のところその行為に愛情が伴っているかどうかというのは多くの場合事後的にしか認識できない。だから、振り返ってみるとその行為が加害的であった、ってなオチがついちゃうことはままあるんじゃないかなと思う。そう考えると、色々と我々の認識や行為に疑問符がつきまとうことになるのではなかろうか。我々は本当に望む行為を行っているのだろうか? と。
とは言え僕が言いたいのはそういう一般論的な話じゃなくて、最近の増田のよくある論理に対する反論なのである。「貴方が行っている行為、それは加害的だ」という意見をよく見かけるんだけれど、はっきり言って普通の人間には、普通の性的な接触が加害的かそうじゃないかなんて見分けられないってことなんですよ。いや勿論、繰り返すように明らかに加害的な行為というのはあるんだけれど、加害的かどうかが実のところはっきりしないような行為を、我々が「加害的だ」って言っちゃうのは認識の越権みたいなところがあって、我々は多くの場合その判断基準をきちんとは持っていない。ノリノリでかましちゃった後にそれを後悔するとかそういうことを簡単にやっちゃうんですね、我々は。ノリノリで盛り上がって、結局はそれは望んだものじゃなかったよね、なんて結論を付けちゃうことなんか、メチャクチャたくさんあるんです。自分が望んでいると思って行った行為を、結局事後的に「別に望んでなかったよね……」と振り返ることなんてたくさんあるのです。まあ要するに、我々の認識っていうのは多くは間違っていて、そのことを我々は前提として行動するべきなのである。
「加害的だ」「加害的でない」それらの言葉は我々の不安定な認識の上で往々にして入れ替わってしまう。我々の言葉はいつも海の波間に漂う板切れみたいなもので、海そのものを表現しているわけではないのだから。
最後に、僕の好きなポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソアの言葉を書いて終わりたいと思います。
「僕たちが
望んだけれどやらなかったこと
それら全てのために
僕が夜海辺を歩く時の
あの気持が作られたのだ」
自分の理想通りのものが来ない=加害