はてなキーワード: 自発的とは
あ、すみません。ちょっと伝えたいところがぶれちゃったようです。
僕としては「不公平感の撤廃」が第一です。「家庭を回す為に必要なタスクや責任を各人のスペック・健康状態に応じて自発的に行う」は方法論なのですが、必要なのは不公平感の撤廃です。
まぁ実際五分五分になったところで、正確には判断できないものですので、難しいですけどね。
ですが、ようは自分が何割負担しているのか?の自己評価がお互い一致すればいいのではないかと思います。
自己評価が高い二人ならば、自分が家庭に6割貢献している!を二人とも思っていればそれはバランス良くなると思います。
相手のことを過大評価する二人なら、「自分はこんなに楽させてもらって恐縮です。いつもありがとう」とお互い思っている状態になります。うちはこのパターンです。
これは多分、実際のタスクよりも感情論の方がいいと思うんですよ。「私は5割負担してると思ってる。」「俺は8割負担してると思ってる。正直しんどい。」
もちろん表は表で大事だと思うんですが、例えば平日に何個もタスクを抱えることと、週末一気にやることじゃ、結構しんどさって変わってくるもんじゃないですか。体感ベースでいいと思ってるんですよね。
これがしんどいってのが分かれば、金で解決するかとかなりますし。
まぁまた話がぶれていきそうなのでこの辺にしますが、とりあえず「不公平感があっては家庭は上手く回らない」ということを共通認識にして、「不公平感を取り払うにはどうしたらよいのかを二人で考える」ことが大事かと思います。
男の人でそんなに沢山家事やってるの偉いな!フルタイム共働きでも家事負担率9:1って言われている日本で、そんなにやってるのはマジですごい
うちもまだ子供いないんだけど、共同口座準備して、そこにお互い定額振り込みしてる、フルタイム共働きだけど旦那の方が給与高いから少し多めに入れてもらってる
元々は給与も同じ忙しさも同じぐらい家事は全部自分だったから不公平感感じていて、当番制とかタスク管理ツールとか色々考えたけどぜんっぜん続かなかった
相手の閾値は極端に低く、それゆえに言葉だけで自発的にしてもらうことはまず無理なので、具体的に指示する(家を出る前にゴミお願いって言ったり、お皿洗ってって言ったり
あとはやってくれたらひたすら褒めるし、自分のモチベーション維持のために褒めてもらえるように仕向けてる
それでも結局不公平になるので、気に病むよりはガンガン便利なツール(食器洗い機、ルンバ、洗濯乾燥機、ネットスーパーとか)を使って負担自体を軽減する方向へシフト
奥さんの閾値がどれくらいかわからないけど、男女逆で友達のケースも見てると、家事やめても相当汚くならないと相手はやらないな〜(キッチンが洗い物でパンパンになるとか…
子育て始まって本当にこの負担は無理ってなって爆発して病院行ったりして変わったってケースはいくつかある
諦めてる人は、でかい子供やペットと暮らしているって考えてるって言ってた
子供いないんだし、負担に対する不満感>>一緒に暮らすことで得られる幸せ+離婚の手間ってなったら、別れちゃうのもありだと思うよ
結婚する前に、「僕らの家からは不公平感を無くしたいと思う。私・俺めっちゃ我慢してる(がんばってる)のにお前はなんだ?なんて思ってたら絶対上手くいかない。」ってことを話していて、健康状態の把握しながらお互い自分がしていることと相手がしていることの対比を常々してるので、まぁあんまり大丈夫かな。
大事なのは「家庭を回す為に必要なタスクや責任を各人のスペック・健康状態に応じて自発的に行う」であり、男女が同じだけ家事を分担するなんてことじゃない。まぁうちの夫婦は、二人とも相手に嫌われたくないが一番なので、自発的に動くようになってるんだけどね。いいんだか悪いんだか。
俺なら離婚案件に話が戻るけど、どちらかと言えばそれで後ろめたさとかありがたみを感じない女とは一緒に生活はできねーなって感じ。そんなもん愛人をペットにしてるだけだからな。嫁じゃない。
=== 1 ===
私は今、過去へとタイムリープして、2度目の「現在」を生きている。
まあ、そう言ったところで多くの人には信じてもらえないのだろう。
だからまずは、どのようにタイムリープが可能となったのか、その理屈を述べ、
今回のタイムリープには協力者が居て、その人のおかげでタイムリープが実現できた。
それ以上のことは先方との約束により、絶対に明らかにできない。
しかし、タイムリープの理屈など、私にとってはどうでもいいのだ。
私が伝えたいのは、タイムリープを以てしても、結局人生はやり直せなかったという事実だ。
タイムリープで人生をやり直すには、タイムリープの誘いを受けたという幸運だけでなく、
ある種の「快適さ」を打ち捨てるだけの強い意志が必要だと知ったのだ。
身を以て知ったその事実を、強い驚きに加えて、ある「期待」を持って皆に伝えたいのだ。
=== 2 ===
そもそも私の場合、入試や恋愛、大きな事件事故など、「現在」に至るまでの人生の中で、
強い悔いを残し、これだけは絶対に変えたい!というイベントは特に無かった。
それでも、先方からのタイムリープの誘いに乗ったのは、既に結果を知る過去を再度歩めるのだから、
そこに現れる人生の選択肢もより良いものが選べるはずだと考えたからだった。
例えば、学生の頃のテストは「現在」の知識によって、より良い点数が取れるだろう。
また逆に、記憶の限り日々のトラブルはすべて回避できるだろう。そういったことだ。
すなわち、自分の記憶によって、2度目の過去ではより良い選択肢が選べ、
「現在」までの人生をもっと高いステージに引き上げることができるだろうと思ったのだ。
おそらく、大多数の人間がそう考えるように。
ちなみに、私には中学生の頃から、大学ノートに日記を記す習慣があった。
さすがに、過去の細かなことなど覚えていないわけで、過去をより良く選択するには、
日記という貴重なデータを絶対に持っていく必要があると思った。
だから、先方にも無理を言って説得し、
その十数冊ある日記の束と共にタイムリープすることを許してもらった。
しかしながら、今になって思い返してみれば、それが一番の悪手だった。
その日記という紙束が、自分の選択肢を強く制約し、新たな可能性を潰してしまったのだ。
すなわち、実際にタイムリープしてみると、日記の記載と記憶どおりの人生を歩んでしまい、
新たな選択肢を選び直すことなどほとんどできやしなかったのだ。
いや、タイムリープして最初のうちは、出し惜しみのつもりだった。
その不思議さは、自分が全知であるかのような錯覚を生む。このままで居たい。
そこで、新たな選択は未来を知るアドバンテージを損なうことなのだと理屈を付けた。
そして、自分はまだ中学生なのだから、さほど大きな選択肢も無いだろうと、
タイムリープして最初のうちは意図的に、1度目の過去とわりと同じ選択肢を選び続けていたのだった。
さらに、先に述べたとおり、私には絶対に変えたいというイベントが特に無かった。
そのため、新たな選択肢を出し惜しむ状態は、数年間にも渡って続いてしまった。
しかし、高校生にもなれば、日々の会話の中で「バタフライ効果」の存在に思い至る。
どんな小さな行動でも、新たな選択肢を選んでしまえばその影響の大きさは読み切れない。
未来を知るアドバンテージもその行動に留まらず、完全に失われかねない。
それに気づいてからは全てを不安に感じ始めてしまい、いつか来る大きな選択肢のために
そのアドバンテージを保持しようと、それが自分にとって良いことであろうと悪いことであろうと、
ひたすら日記の記載と記憶の通り行動した。それは大人になっても同じだった。
例えば、その日は職場でトラブルを起こし、大迷惑をかけるとわかっていた。
それでも出勤し、何の対策も取らず、上司に怒られながら対応に奔走した。
例えば、その日は旅行でどんな光景を見たのか、おぼろ気ながらも覚えていた。
それでも出発し、同じ忘れ物をして、退屈を感じながらも時刻表に追われた。
もちろん、毎日何を食べて暮らしていたかなど、日記にも記憶にも無いこともあったが、
それらは詳しく追わなかった。それなら、意識しないことこそ自然だと思ったから。
そして日記も書いた。
日記を書くというよりは、持参した日記の単なる引き写しでしかなかったわけだが。
それでも、日記を書かないことも「バタフライ効果」を起こすと信じてしまい、
持参した日記をまっさらな大学ノートにそのまま書写するという、
客観的に見ればまさに馬鹿馬鹿しいだろう行動を、「現在」まで真剣に続けてきたのだった。
=== 3 ===
そうやって、タイムリープの出発時点である「現在」に十数年もかけて、ただ出戻ってしまったわけだ。
外見的には、同じ日記の束が1組増えただけのひたすら長い時間だった。
前節に述べた思考過程により、人生を変えるような選択肢は何一つ選べなかったわけだが、
それでも、一つだけ新たに気づいたことがある。
それは、2度目の過去は少々退屈ではあるけれど、ひたすら快適だということだった。
2度目の過去の後半はむしろ、自発的に新たな選択肢を選ぼうとしなかったのかもしれない。
なにしろ、選択肢を選び直さなければ、明日に何が起こるのかまたわかるのだから。
その明日がトラブルだらけだったとしても、それはいつどのように治まるかを知っている。
「止まない雨は無い」ということを、実体験によりわかっていたのだ。
それゆえ、「バタフライ効果」の影響が狭まったやり直しの後半においても、
トラブルを回避するつもりの選択肢を選ぶリスク(「バタフライ効果」でリスクにもなり得るのだ)より、
そうして、私は「現在」に至るまで、リスクのある新しい選択肢ではなく、
苦しくとも理解できる未来が選べる「快適さ」の方を選んできたのだった。
たしか小学生の頃には、私もいわゆるロールプレイングゲームで遊んだことがある。
なぜなら、ガイドブックが存在する範囲のシナリオが終わってしまうと、
何をどう進めて最終目標に向かえばよいかわからなかったからだ。
そのことを、2度目の「現在」に戻ってようやく思い出す。
これからの、日記も記憶も、当然ガイドブックも無いまっさらな未来が本当に恐ろしい。
それに比べて、あの「快適さ」に包まれた過去の日々は、本当に素晴らしいものだった。
強い意志の無い私のような人間には、新たな選択肢が選べ直せないと重々わかりきった上でも、
もう一度、日記とともにタイムリープを繰り返したいと思うくらいに。
そして、今はあの「現在」だ。
1度目の人生と同様、かの先方は再び現れるはずだ。
迷惑メールのようなぎこちない文面で、タイムリープの誘いを持ち掛けてくるはずなのだ。
=== 4 ===
そう、そのはずだったのだ。
しかし、タイムリープの誘いを持ち掛けるメールは、いまだに来ない。
その時期が日記の記載から遅れていても許すから、どうか早く現れてほしい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1649741
ここのブコメ
感情を説明できないというTogetterの被まとめ者に対して
「感情を説明できない」という人は「感情がない」というわけじゃないし、思考力がないから説明できないわけじゃないんだ
むしろ被まとめ者は内省して行動を直しているので思考力はかなりある方だ
では何が困難で説明できないのか
ブコメのシチュエーションを例に取らせてもらうと(あくまで例なので他意はないです)
ご飯を作ってあげたときに「美味しいよ」とか「ありがとう」の前に「鶏肉をもも肉からむね肉にしたんだね、さっぱりとした味になっているね」とか言われたらそりゃモヤモヤするよ
ご飯食べてる時は他に色々考えているはず。
こういった様々な脳内の情報処理の中で、(※)で示した部分だけが今、言及すべき感情とされていて
他はそもそも感情ではないか、感情と言っても今言及すべきではないものであり
反応を返しても相手の満足を得れない
俺はこの(※)を満足な速度で抽出するのが苦手だし、被まとめ者もおそらくここが苦手なんだと思う
上の列挙でわかるとおり、感情と呼べそうな情報処理は脳内でちゃんと行なわれているので感情がないわけではない。
論理性が低いのか?と言われるとそこは自信がないだけど
どっちかと言うと話し相手が情報として必要としている感情が即座に判断できないことに困難を感じている
快/不快はとても的確に判断できるんで、癇癪も起こせるんだけど
単に快/不快だけを表現してと言われると上のリストの中の「寒い」とかが出てしまう
ただしこのシチュエーションで求められているのは「おいしい」と「ありがとう」だ
正直自分の感覚で言うと「ありがとう」は快/不快でもないし感情でもない気がする
ただし、十分な時間を与えてくれたら今相手は自分の提供した食事について価値判断してほしいと言っていることがわかる
ただこれがシチュエーションが違うと「美味しいかどうかはいいから昨日の食事との違いを答えてほしい」とかが要求になるんで
ここもまた即座に判断できない
長年人間関係や空気読みというのをやってきて、多くのシチュエーションでは能力が足りなくても十全な努力をしていれば許されることがわかってきた
今回の場合、「自分はこんなに困難を抱えていて最大限努力している」ということが伝われば
受け入れられることも多いことがわかった
ただそれにも多くの時間を必要とするので、普通の人のように人間関係は広くはできないんだけど
どうしたもんだろう、ねえ
色々反応くれてありがとう(一言目にありがとうを言う程度にはコミュニケーションはできる)
thacaChasma 「ご飯を作ってもらったときには、余程マズい時以外、美味しい・ありがとうと最初に言う」というコミュ障ライフハックがある。何も言わない/毎回正確な分析を語るより、100倍良い結果になる。
hakusai_chan 「相手に何かしてもらったらまずは喜びと感謝を表明」この原則はいついかなる時でも通用すると思います
付き合いが浅いうちはこれで対応できるんだよね。ネットのつきあいも同じだ
問題は元まとめにあったようにかなり深い付き合いになった時
ezmi4 女性間は共感が求められ男性間はそうでもなくても、男性が結婚や恋をする場合得てして女性のそういう面の恩恵を受ける(惹かれる)訳で、それを口開けて享受するだけなのは如何なものかと。お互い与え合わないとね ブコメみての感想
増田じゃなくブコメへの反応らしいんで回答ずれてるのかもしれないけど
たぶん俺と同じ困難は男女関係なく持ってる。で、得てして男は男と、女は女との付き合いの時間が長いので
女の方がケアしあう関係が強いなら俺みたいに共感力が低い女は俺以上に日常で困難を抱えているはず。厳しそうだ(共感)
pikopikopan 発達障害あるある。私も感情抽出が苦手だし、文字に書き出してようやく表現出来る感じ。時間かかるんだよね。頭で思っても、感謝や共感を伝えるのを忘れがち。同時進行で別のこと考えてたりするし。
まあね。もう少し時間をかけても反応していいって言う人が増えたら楽になるんだけど
nmcli 列挙されてる脳内感情が自分のことばっかりなのでモヤモヤした。「便利だ」「ありがたい」の解像度を高めて「自分のために時間を費やして作ってくれたんだな」とかがあれば、心無く感じることはないのだけ
kwsktr すげえ違和感なんだよな。「寒い」と「美味しい」が同列で並べられていたり「自分で準備しなくても食事が食べれる」の下に「ありがとう」があることとか。足りないのは思考だけじゃなくて、共感と視野じゃないかな。
kotetsu306 自分の快/不快は考慮してるのに、相手の快/不快については全く判断材料にしてない(登場すらしない)のリアル。列挙した選択肢のうち、もし自分が言われたら快なのはどれ?って思考はできるだろうか
そう、共感力の高い「普通」ができる人間は、「自分の思いを伝えろ」と言われたとき反射的に「相手への共感を踏まえろ」って発想に至るんだよ
ここに至るまで人生だいぶ時間を使ったんだけど、普通の人間はモヤモヤとか違和感とかそういう直感でショートカットして判断できるらしいんだよな
ちなみに自分が言われた時快に思うのは「ありがとう」だけど、共感が得られることを快と判断するなら「おいしい」「寒い」でも共感はできる
さっきの引用に被せて言うと、
「ありがとう」「おいしい」「寒い」以外の選択肢を選んで喋ると不快に思う人が一定数いて、
これが自分の中で不快でも何でもない、あえて言うと中立なので判断に時間がかかる
cleome088 これの問題は、できないからこれやらなくていいという能力ではないことなんだよね。情操の言語化は出力が遅いなりにやれないとまずい。ウンコしないのと一緒で自分も病むよ?やたら軽く見てる人が多くて怖いけど。
まずいのはわかる
ただどちらかというとできないこと自体より「普通簡単にできること」と世間に思われていることのが脅威を感じる
haluhiko うれしい、おいしい、たのしい、すごい、素晴らしい、すてき…など耳ざわりよい言葉は挨拶の2軍。要求される前に自発的に出さないと効力が薄い。少しでも感じたら声に出すトレーニングしたら良さそう。独り言でも。
今回はその先の話だな
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他ブコメ反応見て。
俺が共感力低いのはわかっていて、擬態できるようトレーニングは一通り積んできたつもりだ。
ただ、ここで伝えたかったのは
「あなたの考えを教えてほしい」と言われた時
その背後に「相手への共感や関係性に関わる考えのみを抽出して伝えてほしい」という要望があることを想像できなかった
そこから実際会話のスピードでそれができるトレーニングを積む時間がまだ足りていない
ということ
自分と同じ悩みを持つ人間は、早めにここに気づいてトレーニングすることを薦めるし
自分のような人間と付き合っている立場の人間でそこに悩みをもっているなら
振った仕事について尋ねると、
あー、そういえば!
期限決めるほどの大きな仕事じゃないんだよ。ほぼ雑用。だから後回しにするんだろうけど。
期限切ったところで、期限すぎたよ!まだなの?
っていうのもすごく嫌
我が家は話し合おうとしたら子供の前で妻のお前のせいで怒らされてる、お前が悪いとがなって家具に当たって子供を脅かすので、一寸した提案も気軽にはなかなかできない。
二人きりだと夫の脅かしに私が怯まずに淡々と怒るし当たり散らした側から当たるのは止めてくれると毎回言うし当たり散らしたものは片付けを執拗に迫るので、今はただふてくされてまるで話にならない。
子供の世話は一時間あまり任せて一月近く引き摺る風邪を引かせる事が生まれてから小学校入学までで二回、風邪気味にさせることはしょっちゅうなのでうんざりしている。子供はお父さん大好きだがあまり遊んでくれないため遊んでとは言えないと諦めてるのが不憫。
乳児の頃からお父さん大好きなんだから遊んでと言ってきたが遊び方がわからないと言い張ってきた。もうしゃべれるんだからなにして遊ぼうか?って聞いたらいいだけだというのに、楽しくないからいやだ等と抜かす。
通勤時間が無くなった分子供との関わりが増えたかと言えば増えず自発的に遊んだりすることはない。勉強をきまぐれに少し見るが、子供は私が見るときの十倍は従順に熱心に取り組んでいるというのに疲れる疲れる言うので延髄をヤクザ蹴りしてやりたい
誰か判定してくれ。
子供だった当時は母が異常だったという認識はなかったが、大人になって色々知った今ではもしかしたら毒親だったのではないかと疑っている。
ちなみに父は普通だった。
母のダメな点は以下の通り。
そんな母に育てられた自分(息子)はというと子供の頃は以下のような感じだった。
で、大人になると反出生主義になり(母に「産んでほしくなかった」と伝えて泣かれたことがある)、結婚願望皆無になった。
塾に通わせてくれて大学まで行かせてもらった結果、今では自分は普通に働いて稼げているので、嫌いではあるが母に対して恩は感じている。それ以上に父に感謝しているが。
大人になってから金をせびられるとかの問題はまったくない(むしろ自発的に仕送りしている)。
ネットで見かけるもっと悲惨なご家庭と比べると全然大したことはない。母は学歴コンプレックスを子供に押し付ける教育熱心なヒステリー持ちの親という程度だったのではないかと思っている。
自分なりの結論を出してしまっているが、世間からみたらどうなのだろうと気になって書いてみた。
どう?
善悪とか正誤とか。
「白黒つけない」というのは、つけないほうが総体的なメリットが大きいから「あえてつけないでおく」のパターンと、
事情が複雑だったり判然としないから「つけることができない」のパターンがある。
この2つを理解というか受容するためには、話を聞いて「なるほど」の後に「でももしかすると」という自発的な再考が必要となる。
耳触りの良い話だけど、本当にこんなに簡単な話があるだろうかっていうセルフチェックである。
思考することがストレスになる人は多いようで、そういう人は多少ひっかかりをおぼえても正常化バイアスで抑え込んでしまう。
「テレビでやっているのだから」「偉い人が言っているのだから」「本にまで書かれているのだから」とか。
こういう抑え込みも無意識にやっているから結果的にはグレーであっても白だ黒だと盲信している状態になってしまう。
白だ黒だと固執するようになると、自身の心の安寧と引き換えに当然のように対立が生まれる。
ネットではモラルや政治的問題の善悪を巡ってバトルが毎日のように起こっている。
ネットバトルは対立がエンタメになったものなので、いったん火がつくと当事者を差し置いてどんどん肥大していく傾向にある。
対立を煽るうえでは白黒のないグレーでは盛り上がらない。敵をボコボコにするためにはまず敵認定しなければ始まらないからである。
よくもこんな下らないことで炎上が起きるなと思う人は多いと思うが、敵をボコすというエンタメにはそれだけの魅力があるということなのだろう。
逆に「妙にこいつ白黒つけたがってるな」という人間を見かけたら、対立に発展させたり党派性にぬくぬくしたりするのが好きな厄介な人物で、
去年
https://anond.hatelabo.jp/20200101232410
を書いた増田です。
去年は散々な一年でしたね。
私も、去年は個人的にも色々と散々な年だったんですが、そんな中でも「年始には半分釣りでタイトルつけたけど、ほんとに人生変わったかも」と思うところがありました。
まぁ正確には、変わってきたかも、、、?ですが。
以下つらつらと書いていますが、まとめると
「100分で名著とは別のジャンルで、去年実感した「知識がつながって読めるようになる」が再現できた」
それでいて、
それによって、去年一年で少し世界が広がったと思いますし、それでいつつ、本業で必要な知識の深化も出来たと思っています。
これが何故出来たかと言うと、一昨年本業と関係ない本を100冊読むという行為をしたメタ効果じゃないかな、と思うわけです。
以下詳細。
いきなり自分語りスイマセン。
去年もちらっと書きましたが、私は趣味の一つとして持久系スポーツをやっています。
レベルとしては社会人アマチュアでは上位1-2%くらいには入っていましたので、まぁまぁ本気の趣味です。でした。
が、一昨年(2019)の末に足をボキッとやりまして、都合4ヶ月ぐらい走れませんでした。
長い時間をかけて鍛えてきたものが為す術なく失われるのを見ているだけという喪失感は中々きつくて、だいぶメンタルやられました。
の上、御存知の通りコロナで夏以降の大会も全て中止、日常復帰後の練習モチベーションも上がらず正直一年で別人レベルまで体力落ちたと思います。
健全な肉体に健全な魂が宿る、あれは「だったらいいな」という話らしいですが、少なくとも肉体が「健全でなくなるカーブ」を描いているときには魂も降下カーブを描きますね。
振り返るとマジで生活全般にやる気の出ずやっとメンタルが上向いてきたのが晩秋ごろ、という一年でしたが、唯一分量を維持ないし増加させられた生産的アクションが読書でした。
結構これに精神的に救われていた部分もあると思います(クソみたいな1日だったが一応本は読めた。。。と言う感じ)。
春頃はもう死にたいとか思った瞬間もあった気がしますが、今は寝たきりになっても少なくとも本は読めるな、という心持ちでいます。
気持ちがどんだけ落ち込んでいても、ベッドの中でできる生産的活動がある安心感があるという感じです。
100分で名著解説本で掴んだペースを維持したかったのもあり、読書の方向性を広げる方向として去年はNHK出版のテキストを中心に選びました。
本の物理的サイズ、厚さ、章毎の分量等々が似ていたからです。(これは今まで読んでいた場所、時間、等々がそのまま続けられるということです。)
あと、NHKが好む文化人というのは大体決まっているので、百分で名著シリーズで知っている人が著者だったりして安心感あります。
結果読んだ数(下記しますが、28冊)が物語っていますが、良かったです。
NHKは番組内容とか受信料であれやこれや言われることもありますが、教育系のコンテンツは極めて良質だと思います。
前置きが長くなりましたが、特に読んでよかったのが宗教の時間シリーズです。
最初の7-8冊程度は、これは求めているレベルを超えている、九分九厘内容忘れるなと思いながら読んでいましたが、
これも何冊か読んでいうちに「知識がつながって」読めるようになってきました。
この年になっても、何かを身につける、学ぶことができる。それは読書による独学だけでもある程度可能である、ということは個人的に心強いメタ経験になっています。
逆に言うと最初の数冊はほぼわからないままなので、数年後また一気に読み返したいですね。
去年は、自発的にはまず読まないであろう本も、読んでみたいと思っていました。
そのための方法として、友人におすすめの本を聞くという方法を取りました。
また、一週間以内くらいには実際に読んで感想を伝えて内容についてやりとりするというマイルールを作りました。
これによって狙い通り、新しい関心フックが幾つか作れましたが、想定外の効果としてある程度親しくなった人とさらに距離を縮める手段としてかなり有効だったように思います。
一昨年以前の私だったら、それが有効だと知っていても負荷が大きかったでしょうが今なら別に無理せずやれる、むしろ楽しい、というところがポイントです。
今のところ猛烈につまらないものを紹介してきた人がいないのもありますが。。
何かについて知りたいと考えた時、ネットで検索するという初動は変わりませんが、さらに知りたいことがあるor体系化したいor記憶への定着率を挙げたい時、本を読むというアクションが自然に追加されました。
また、読書をするにあたって、ちょっとした障害になっていた事が怖くなくりました。例えば下記のように。
・中断:面白そうな本を見つけたらそっちを読み出してしまう。中断してもまた一週間もしたら読めるのだから。もし中身忘れていたら都度振り返ればいいのだから。とシンプルに考えられるようになりました。自由です。
・積読:いま読めなくても恐れることはない、そのうち読めると素直に考えられるようになりました。流石にそろそろ消化に一年ぐらいは掛かりそうなくらい本が積まれていますが、現在のところ三年後の自分を信じられます。
・読書履歴・読書キュー汚染:穏やかでない単語を使いました。これは要するに「話題になっているけど、こんな俗っぽい本を読む時間を~もっと重要な本が~」とか考えなくなったということです。気になったら読みます。
これらって結局全部やらない言い訳だと思うんですが、単純に読書に対する心理的ハードルを下げて読書量で解決するというパワープレイ(一昨年の私比)が可能になりました。
一昨年解説本を100冊読んだのは運動部一年生がやるような練習のための練習だと書きましたが、あれはそんなに外してないなと今でも思います。
百分で名著シリーズ:12冊(2021年1月分の「資本論」も、もう読みました)
で、個人的に出色なのは教養系の読書がたっぷりできたことより、仕事の本がたくさん読めたことです。
去年までは年間7-8冊ほど読んでるかな?という感じでした。
ところが、今年は読書に占める仕事本の割合は減ったにも関わらず、倍以上読めました。
本を読むという行為自体がスムースになったと言うか、「仕事の本は(趣味・教養の本より)重要である」という心の中の序列がどうでも良くなり、いつかは読めるのだから、になった効果だと思います。
はてなあたりで使われがちな「文化資本」「分断」あたりの用語の社会学的なバックボーンについて理解できました。
はてブ見てると「社会学者って、、、」と思うシーンも多いですが、必要な学問だと捉えなおすいい機会になりました。
面白くない話として社会を伝えて分析するのが社会学、という分類はなるほどと思いました。
逆に言えば、美しい弱者、貧者のストーリーなんかばっかり見ている人は社会学者とは言えないのだなと。こういう人はてブあたりでよく見る気もしますが。。。
年末だったのもあり、久しぶりに放送の方も全て見たのですが、やっぱりできたら放送も見るべきですね。
解説本の著者の言いたいことが、スルスル入ってきます。それと、伊集院光さんやっぱすごいなと。ああいうレスポンス返せる人間になりたい。
能楽師の安田登氏解説の古典説明本です。下記する「史記」でもそうですが、
漢字の成り立ちに纏わる深い知識(今ある漢字が成立した年代には開きがある)から独特な解釈をされています。
これが真実なのかはわかりませんが非常に興味深く、この著者の著書をあたったり、この視点で更に歴史を追ってみたいなと思わせてくれる本でした。
安田登氏の能舞台も見てみたいと思ったのですが、昨今の状況では難しいですよね、、、今年あたり何処かで見に行けるといいな。
タイトルのとおり、経典や歴史的事件ではなく残っている手紙から親鸞聖人の人物に迫ろうという趣旨の本です。
上記したとおり「何冊か読んだ効果」が大きいのでしょうが、これ読んで、はじめて浄土真宗わかった気分になりました。
ちなみにうちは曹洞宗なんですが、曹洞宗はいまのところわかったと思う瞬間がないです、、、
観無量寿経をベースに、浄土系の教えが中国~日本で花開いていった過程を追った本です。
私が読んだ中では最も単独で理解しやすく、去年おすすめした「集中講義・大乗仏教」と合わせて読むとより日本仏教の流れが理解できるかなと思いました。
宗教の時間は多くが前後編の2冊構成なのですが、1冊構成なのも読み返しやすくて良いです。
著者の釈徹宗さんには、もっといろんなお経の解説書を書いて欲しい、、、!!
単純に、日々の話題の元ネタとして興味深くまた著者が「面白い人」であると感じてとても読みやすかった。
独立した章立てで分割した読書もしやすく、何方にもおすすめできる本だと思います。
子供向けに実施された19世紀の科学講義を書籍化したもので、科学レクチャーの傑作と言われているそうです。
当時はプロジェクター等も無いため図があまりなく、正直、本として読んだだけでは当時の雰囲気を十分に味わうことは出来ないかと思ったのですが、
ファラデーという当代最高の学者がが全力をもって子供たちに科学の楽しさを伝えようとしていることはとても良くわかりました。
去年は西欧文明というか西欧社会の限界的なものが色々見えた年かなとも思うのですが、ソロモンの指輪もそうですが、こういった本を著した方々が繋いできたものはやっぱり尊いなと思います。
100分で名著の解説本を読んでから、絶対に読もうと思っていた原典の一つ。
下記の、薩摩焼窯元めぐりと合わせて水俣に行く前に読みました。
内容については私が今更感想をいうのもあれなんですが、「読む前と後で違う自分になっているような気がする」読書体験ができる数少ない本の一冊と思います。
あとがきにある通り、書かれていることは読んだ印象より遥かに創作の比率が高い、ということを差っ引いてもこれは日本人全員が読んだほうがいいんじゃないかと。
恥ずかしながら初・司馬遼太郎でした。焼き物が好きで窯元めぐりも趣味なもので、薩摩焼の里をめぐる前にと思って読んだんですが、面白かったです。
声に出して読みたい日本語というか、何でしょう、文章がうまいと言うより文章の響きが格好いいというか、流石昭和の大作家ですね。一気に好きな作家リストに載りました。
今、ちょっと重めのものもと思って坂の上の雲もちょっとずつ読んでいます。
タイトルの付け方も最高にうまいですよね、、頭にのこるというか。
先日、ガス点検に来た作業員さんが夫のことを「ご主人」と言ったことについてガス会社にクレームを入れるのなんのという話が盛り上がっていた。
根本問題として、夫妻と特に親しくもない第三者が(おそらく目の前に居る)夫妻の夫の方を指す適切な呼び方がない。
親しいなら「(下の名前)さん」、目の前に居ないなら「家の方」あたりだろうか? 「お連れ合い」は旅のボックスシートでみかんを渡すくらいの距離感ならありだがガス点検は違う気がする。「お連れ様」は家に上がり込んで言うのはなんか変。
そもそもガス点検という状況を前提とすると夫婦とか家族であるかはどうでもよく、ガス契約の契約者あるいは家の設備管理の責任者と話したかったんだろう。そうだとしても責任者が夫であろうというのはアンコンシャス・バイアスというのは否めないか。
もっと言うと発端の方は事実婚なので夫・妻として扱われることに好意的か否かも人によって違いがあろう。言われてみればガス点検で行った先にその家の人として男女が居た時に法律婚の夫婦とは限らないよな。親子だったり兄弟だったり他人だったり色々する。
というのを枕として。
おそらく、今後相手の属性を類推して語りかけるのはタブーになるだろう。肩書き呼びも男女の呼びかけも。また、よほどの目的意識がなければカップルを男女の組み合わせに限定することもなくなるだろう。例えば店に二人組で来て欲しいなら男女ペアに限定せず言えば良い。それらは多様性という観点から良いことだと思う。今まで顧みられていなかった人を救うことにも繋がる。
となると何が起きるか。自分が愛好する、付き合っていない男女が周りからそう見られていることに気付き相手を意識し始めるというシチュエーションが発生しなくなる。
今まで各種フィクションで頻出していた――男女カップリングを取り扱う二次創作だと必ずといっていいほど見る――カップル席に案内される・カップルならおまけがつく甘味をすすめられる・モブに「素敵な彼女/彼氏/奥さん/旦那さんだね」「この商品彼女/彼氏/奥さん/旦那さんにどうだい」「お似合いのカップル/夫婦」と冷やかされる、あたりのことだ。そのイベント時に起こる心の揺れ動き、むきになって否定するのも心証悪いか? このままやりすごす? 外からはカップルに見えるのか。でもまんざらでもない自分もいるぞ。カップル扱いされた相手の反応はどうだろう? 自分にとってこの人の存在って一体……! みたいな内省をも伴うやつ。そのイベント後相手を直視できずにぎこちなくなるのもよし。わーってなった後に落ち着きを取り戻しクールに振る舞うもよし。混乱している時に相手にさっと助けられさらに惚れるもよし。恋心を自覚して堂々と振る舞うもよし。自覚してじんわり暖かくなるのもよし。これは好意じゃないと断じるもよし。動揺して千々に乱れる登場人物を見るのが好きなのだ。登場人物の感情はぐるんぐるんにかき回してこそ。無自覚カップルだと外部から力を加えないと自分の心に向き合わないから、これくらいフルスイングで揺さぶりかけるのは手っ取り早いんだろうね。便利なシチュエーションである。
いやまあ、現実で発生しなくなるって言ったってもともとフィクション度高いシチュエーションだけれど。現実で「なかなか見ない」から「ありえない」になると心の距離がもっと離れるというか、二次元限定イベントになるというか。
忠臣蔵の仇討ちみたいに、過去には存在したらしいがこんにちでは見かけないイベントになるというか。
それもまた時代の流れ。
我々は先入観を持って相手に向き合ってはならず、また自分自身も外界の評価をスタート地点に自分の心に向き合うのではなく自発的に自分の心に向き合うことが求められているのだろう。
貧乏で必死こいて生きてきて、頭悪くなかったから大学院まで行って、奨学金返済残高が600万くらいある状態で就職して、いま完済目前。余裕で生きていける状態になって、仕事にも慣れて、やっと生死がかかわる選択肢が消えて人間になれたのに、また死にたくなってる。自発的な死に向かいつつある。
理由がすごく明確なのだ。食うや食わずだったので、生きてるだけで俺頑張ってる!だったのが、頑張らなくても余裕で生きてけるようになってしまったからだ。毎日牛丼に卵付けても、はなまるで天ぷら乗せても、貯金ができるだけの収入がある。酒買って飲むだけの余裕がある。この余裕が普通の人間にはガキの頃から普通にあって、ボランティアだの趣味だの恋愛だのに使ってマトモな人間としての経験値になってると考えると、本当に恨み骨髄に徹する思いだ。
生きることに必死だった俺は、生きることが余裕になって、必死になれるものを奪われたのだ。マトモな人間になるチャンスはあったのだろうか。30歳を超えた今から、マトモな人間になれるのだろうか。30年出遅れてる。早く人間になりたい。これまでの30年を否定したくない。お前らより絶対幸せに生きる。お前ら全員から羨まれるような幸せを送る。お前ら全員許さない。恨みは30年、だがここで会ったが100年目だ。お前ら全員俺より不幸にしてやるからな
35人学級やったーさらに色々な教育サービスを要求しようって感じになると、教員の成り手はますます少なくなると思う。
逆に、今回実現したのは、35人学級じゃないと仕事が回らないほど教員に求められる教育サービスが増えたためなのだと理解すべきだ。
だから、教育が次に手を付けるべきなのは更なるサービスの向上でなく、サービスの見直しだ。その一例に部活動が挙げられるだろう。
先日も「動物園」という名称で公立中学校の教育環境が悪い件が話題になっていたが、私が指摘するまでもなく、その理由も部活動にあると思う。
1日当たり2~3時間も部活動指導に当たれば、そういう生徒の指導にまで手が回らないのは当然だ。土日に家庭訪問することさえできない。
だからといって、部活動時間後に生徒指導までさせるなんて酷だ。先生方にこれ以上残業を強いてはならない。
そもそも教員側に部活動指導を強制する法的根拠はない。体裁上は、部活動指導は教員の自発的意志によるものなのだ。
だから、先生方がそのことを主張してその時間を生徒指導なり教材研究なりに回せれば一番いいのだが、同調圧力的なもので難しいだろう。
つまり、学習指導要領上、部活動は生徒の自発的活動であると規定されているだから、部活動の実質強制加入から禁止したらいいと思う。
加入者が減れば、教員が法的根拠を主張しなくても必然的に、部活動に当たる教員が減る。そのリソースも生徒指導にも回せるようになるだろう。
それよりまずは、先生方自身の余暇を十分に取ってほしいと思うが。生徒指導も大事だが、先生自身が元気でないと学校が成り立たない。
とにかく、時間はかかるかもしれないが、そういう教員というリソースの適正化が、生徒指導を含めた教育環境の充実に繋がっていくと思う。
国家公務員の働き方改革の流れに合わせて、その周辺も改善されることを切に願う。何よりも、公教育を受ける未来の子どもたちのために。
最近、上司に少々高度(?)な仕事を要求されてうざい。私の仕事のメインは、皆の使う文房具などを切らさないように補充し、コピー機などが不調になれば修理の手配をし、そうやって買い揃えた消耗品の代金を業者に支払い、そして皆が自分の席にいないときは自分あてでない電話も取り、宅急便が届けば受けとって受領印を押す。他にも仕事は細々したのがあるけど、一番誰にでも分かりやすいのはその辺だ。
初めて今の部署に来たときは、そういう当たり前の仕事がなかなか出来なかった。一個必要なものを発注しても他のものを発注し忘れ、必要なものが然るべき場所に置いていないことはしょっちゅうだった。そして業者からの請求書がすごい勢いでたまり、なかなか支払えないので罪悪感の固まりになった。
上司はそんな私をダメ職員扱いし、「今年は初めてだから多少のヘマは見逃してやるけど、来年になっても同じだったらただではおかない。」という内容の宣告をした。元々マルチタスクが苦手で、いろいろな仕事が殺到するとパニックを起こす私には厳しかったが、他所で同じような仕事をしている人々を見ると非常に簡単そうに片付けているので、たぶん自分が無能なんだろうと思った。
が、慣れというのは有難いもので、使用頻度が高くて常に補充しておかないとまずいものをだいぶ覚え、会計システムへの入力スピードが上がったので、ようやく私の仕事ぶりは人並みに近づいてきた。
今だに机の上はぐちゃぐちゃだし、決して仕事が早いとは言えないけど、とりあえず給料泥棒状態からは脱したと思う。が、そうしたら上司の要求水準が上がってしまった。「必要なものを買ってないみたいなミスは減ったけど、○○さん(私)にはもっと上のレベルを目指して欲しいんだよな」とか言う。
確かに上司は向上心の塊のような人だし、「そういうのは下々の人間に任せてくれれば…」というような仕事も率先して自分でやる。立派といえば立派だが、私はただご飯を食べていくために働いているのであって、上司のように自分の仕事にプライドと情熱を持って仕事に取組んでいるわけではない。
机の上を整理整頓し、「今の時期はこれが必要だから早めに手配しなくては。」と先回りして動ければ、自分も周囲も楽かも知れないが、あいにく整理整頓が苦手で、お尻に火がついてから仕事にとりかかるタイプである。仕事を先回りしてやった方が良いのだろうが、それは自分を楽にしてあげるために自発的にやることであって上司に命令されることではないと思う。
とにかく必要最低限の仕事だけして、定時に帰って、休みはしっかり休むのが私の目標である。仕事に無駄な情熱と時間を注ぐのはまっぴらごめんだ。よく考えると私と上司はそんなに歳は違わないけど、背負っている責任も貰っている給料も全然違う。あまりにも責任が重いので、もっと上司の給料を上げても良いんじゃないかと思うけど、私にはそんな権限はない。ただ、私は仕事に希望も情熱も持たない人間がいることを分かってほしい。
誰に話す気にもならないが、溜め込んでるよりは書き捨てたほうがまだしも供養になるかもしれない。
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非情と思われようと、もう関わり合いになりたくない。
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そいつは、もう何年も拒食症かなんかなのか、骨と皮だけのガリガリで、
死相が出てるというか、もう長くないだろうなって思ってた。
余りの痩せ方に周りが心配してなにか食べろと進めても、水の一滴すら口にしなかった。
ウチの親がそいつを指して「あれじゃきっとセイリも来てないと思うわ」
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しかし、私とそいつが小学校の間ずっとベッタリの親友だったのは、
同じグループの子からぽっちゃりだから、ポチャみたいなニックネームで呼ばれていた。
でも、別にそんなに太ってたわけでもなかったように思う。
それより、真っ黒でまっすぐでツヤツヤの長い髪をしていて、
綺麗で羨ましくて、もうやめてと言われるまでしつこく触らせてもらったような記憶がある。
さらさらと指から髪が流れていく感触がどうしようもなく心を惹きつけて離さなかった。
私は、天パだったし髪を伸ばしたことがなかった。
小学校も中学校も、ずっと短髪だった。髪が肩にかかったことは一度もない。
私の母親は「子供の髪は短いものなの」という絶対のルールを持っていて、
泣こうが喚こうが逃げようが、最後には床屋の椅子に座らせられた。
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三年生になる前には短髪になっていた。
どうして切っちゃったのと惜しがって何度も聞いたけど、
小学校でも中学校でも、そいつはもうずっと同じ短さに髪を揃えていた。
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髪型だけじゃなくて、そいつは成人式にもチェックのスーツみたいな服を着ていた。
周りじゅう華やかな振袖だらけのなかで。
誰も表立って虐めたり笑ったりはしなかったけど、
なんだか異様というかヒソヒソはしていた気がする。
でも、あれはそういうのじゃなかったと思う。
皆はそう思ったかもしれないけど。
私とそいつは、母親による女性性の抑圧、を受けていたんだと思う。
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私はまだ生きている。髪を伸ばし、好きな服を選ぶ。
私の母は矛盾した信条というか、娘の髪を結うことは一度たりともなかったが、
ピアノを習わせたり、フランス人形を買い与えたり、籐家具を与えたりした。
別にいらない、嫌だと言ったけど、母自身が子供のころ欲しかったものなんだってさ。
あ、ピアノは祖母が孫娘に買いたいというから、じゃあ習わせようってことだったのかな。
まあ、ウチはその程度だったけど、
ウチと違って、どこもかしこもさっぱりと片付いていた。
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GジャンにGパンという恰好だった気がする。バイクとサッカー観戦と甲斐バンドだかが趣味だと言っていた。
毎週少年ジャンプの話をしていたような気がする。
家にない本や図書館の児童書以外の本を読むようになったのは、そいつが教えてくれたからだ。星新一とか筒井康隆とか。
私の母は、皮肉な作風、ひねくれた作風が嫌だと言ったけど、本を取り上げたりはしなかった。
母の回りくどい意向を汲まないと、「あんたは可愛げがない、態度がかわいくない、子供は素直じゃなきゃ」とかは、よく言われたが。
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そういう子は、少年ジャンプじゃなくて、りぼんやなかよしを読んでいた。
ぬいぐるみをたくさんもっていて、男性アイドルや流行りの歌の話をした。
その子たちは髪型をしょっちゅう変えていて、かわいい髪飾りを持っていた。
遊びで私の髪を梳いて、結ってくれた。
その子たちのことが嫌いではなかったけれど、
ずっと一緒にいると、多分私は羨ましくて辛かった。
私と同じに、ずっと髪を短く切られていて、スカートを持っていないそいつと一緒にいるとラクだった。
母親に疑問や不満を抱かなくて済んだ。
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そいつは、成績も良く、イラストもかわいらしかった。中学からは疎遠になったので伝え聞きだが、
旧帝大に行ったらしい。マイナー学部だったらしいが。ググッたら、そいつのホームページがまだ残っている。
今だったらピクシブやってたんだろうが、当時はあれが流行りだったものだ。
日記もあるが、悩みや病気、内面に関することは何も書かれていない。
中学から疎遠になったし、高校は別だったので、その頃のことは知らないけど。
後ろ姿を見た時、「ずいぶん髪のきれいなおばあさんがいるな・・・?」と思った。
ぶかぶかよれよれのメンズのウインドブレーカーか何かを着ていて、
息子の服を頓着なく着ちゃう系のおばさんっぽかったのか。
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成人式のスーツもそうだけど、ほんとにメンズの服しか持ってなかったのかな。
小柄だったけど、デブとかブスってことはなかったと思う。
髪質も恵まれてるし、手入れすればそれなりに映えた容貌だったはずだ。
でも、そういえば、
我が娘の不器量さを嘲笑ったっけな。
「お前は顔がでかいねえww」みたいな。
その時の、居心地の悪い気持ちはよく覚えている。
私の隣で、私の友人が、私をダシに、実の親に貶められている。
いや、地獄かよ。
しどろもどろになにかフォローをしたような気もする。
私のほうがずっと成績が悪いですし、とか。
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その経緯から、ずっと抑圧や自己否定が鬱陶しく付きまとっているが、
流行りの服を買うこともできたし、趣味や私生活に口出しされることもなかった。
周囲の友人から学んで少しづつ、女性らしく装うことを覚えていった。
オタク気質は生来のもので変わらなかったが、脱・喪女はそれなりに出来た。
そいつは多分、そうではなかった。
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昨今の性の多様化からすると、そいつの髪型、服装、趣味嗜好はそれほど奇異なものでもない。
髪を短くし、メンズの服を着て、ミリタリーやバイクやサッカーを愛していたなら、
それはそれで良かった。
でも、そいつは多分そうではなかった。
生来の女らしさを抑圧され、取り上げられ、
そしてそれが自分だと思い込まされていた。
コンフリクトがあって、それが体に出た。
病名は知らないが、拒食でなければああはならないって気もする。
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そういえば携帯のアドレスや番号の交換をいつしたのか記憶にないが、
就職先のイベントを新聞か何かで見たと、そいつは私に会いにきた。
私としては、髪を切られ続け男子のような恰好をしていた時代の記憶ごとまとめて、
折角小奇麗になることを覚えたのだ。
陽キャグループに入ってしまえば、陰キャ時代の友人は格下であり、
プライベートで会いなおしたりはしなかった。
それても痩せこけてしまって遊びに繰り出す体力はなかったのか、節度を持って訪れ、帰ってくれた。
いや、水の一滴も口にできないんだから、食事や飲みに誘われるはずもなかったのか。
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しかし、一度ならず数回ほどそいつはイベントに客としてやってきた。
ヒマだったので話をしたが、内容はほぼ覚えていない。
ああ、人混みでぶつかられてコケて顔ぶつけて、総入れ歯になった話だけは、
もう回復不能の分水嶺越えちゃってるな、もう死ぬんだろうな、と思ってしまった。
しかし、そんな話をそいつは世間話、笑い話のトーンで話した。ような気がする。
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私になにかを聞いて欲しくて訪れていたのかもしれないが、
私が迷惑そうにしていたから切り出せなかったのかもしれないし、
物知りで成績優秀者だったプライドが邪魔をして切り出せなかったのかもしれないし、
同伴していた母親や、周りの人間が気になって突っ込んだ話ができなかったのかもしれない。
しかし、そいつが自分の日記にさえ書けないことを人に相談できたかというと、できなかったかもな。
藁にも縋る思いだったかもしれないが、
疎遠になった旧交を温めに来るより、「毒になる親」系の本でも買ってみて
カウンセリングとか行けたら、生き残る道があったかもしれない。
というか、そいつは自分が病んでいる原因が母親だと疑ったことがあっただろうか?
気がつきたくないまま、気がつかないまま、体力が落ち、考える力もなくして死んだのだろうか。
いや、そういえば鬼電がかかってきたから訃報と決めつけているが、
フツーに峠を越して生きてるのかもしれないな。
もう、それを知りたいとも思わないのだが。
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既に超長文だけど、続きもあって御免。