元増田。結局、信者の人って、そうやって、我々を親や医師への感謝がないような不敬な人間としか、捉えないんだよね。
我々、病気だった当事者の立場からしてみれば、医学・科学の進歩のために自分の命を犠牲にして実験台になった、という自負があるんだよ。
それを、神の意志だと言ってのけることは、私と同じ病気を持って生まれ、手術に失敗して死んでいった子らは無駄死にだった、と言っているように聞こえるわけ。命をかけて実験台になる意味はなかった、神の意志だから、と言っているように聞こえる。神学的にはどう解釈するのか知らないけど、少なくとも、当事者の我々からすれば、そう聞こえる。
私は、死んだ子らに代わって、彼らの死が無駄死にでなかった事を後世に残す義務があると思ってる。が、あなた方、キリスト者は、私の考えを不敬だの厨二だのと言って切り捨てるわけだ。
当たり前だけど、結局、キリスト教も、その他のほとんどの宗教も、大多数の普通の人間のための教えなんだよ。私のような、自然には生きられない体を持って生まれてきた存在は、圧倒的に少数派だから、ぶっちゃけどうだっていいわけ。我々に都合の良い教義にしたところで、信者は増えないからね。ただ、他の大多数の普通の人間には責任はない、そういう特殊な人たちが生まれたのは神の意志です、という事にしておけばいい。そして、私のような特殊な人間は、とにかく、なだめすかして、普通の人間に文句言うな、と言っているようにしか聞こえない。
誰かが、我々が命をかけて参加した実験には価値があり、死んだ子はただかわいそうなだけではなく、実験という大義のために死んだのだ、と認めてやらなければならない。誰かが、死んだ子らに対して、「君の死には価値があったのだよ、死んでくれてありがとう」と言ってやらねばならない。
宗教なら、そういうことが出来る人がいるかと思ったが、結局、大多数の普通に生まれてきた人間を弁護して、我々特殊に生まれてきた人間がおかしい、なだめすかしてやるから文句言わずに生きとけ、というだけだった。
死ぬはずの体で生まれてきて生き残った私には、死んだ子らには、死ぬ価値があったと世間に喧伝して生きる義務があると信じている。