「尖塔」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 尖塔とは

2022-11-04

逆にオープンワールド的なテーマパークってできないか

anond:20221104120834

この記事読んでて思ったんだけど、中に作られたアトラクションの「背景」すべてにアクセス可能リアル遊園地があったらすごく行きたい。

ディズニーランドや他のテーマパークって、中の建造物は凄くきれいでみんな面白そうなのに、7~8割ただのハリボテじゃん?

たとえばショッピングプロムナードも、2階建て3階建てでもアクセスできるのは1階だけ。アトラクションコースから見える面白光景も、あくまで「見るだけ」。

でも本当に夢見るのは、そんな面白光景の中に入っていくことなんだよね。

サンダーマウンテンの山や坑道に、別コースから徒歩で登って行けるように、できないだろうか?

ウェスタンランドクリッターカントリーの島に上陸出来たり、ジャングルの中を歩けたりできるようになってほしい。

ワールドバザールの街並みも、シンデレラ城の尖塔も、当然全てアクセス可能で、1つひとつの部屋に何か物語発見がある。

そんな無茶苦茶「濃い」テーマパークができたらな……と、子供の頃から夢見てる。メンテとか考えると無理だとは思うんだけどさ。

2021-08-13

イスタンブールの朝の雰囲気

マジで忘れられん

イスタンブールの朝が初海外だったっていうのもかなりデカイ気がするんだが、にしたってあれは良かったよ

港町っぽい、なんとなく風が海っぽくて潮の匂いこころしかするような感じ

あの辺の気候なのか、ちぎれ雲が多くて、よく晴れてるんだけど色の薄い空

なんかようわからん匂い

行き交う人が話してる言葉全然わからん感じ

道路がほんのり汚い感じ

壁に大量の落書きがしてあること

その辺に露天がいっぱいあって、謎のプレッツェルみたいなのを山積みにしていること

野犬がうろついていて怖い

ちょっとあたりを見渡すと、遠くにモスク尖塔が見える感じ

そのへんの看板が全部アルファベットあるいは読めねえ文字で書かれてて、心細い

観光客あきらかにすげー多く、浮かれた雰囲気

その辺で釣りしてる人の多さ

飯が安くて美味い

交通メチャクチャで、信号全然ないし、あってもみんなガンガン無視してる

それで渋滞が起きてて、渋滞してんだからどう考えても意味ないのに、なぜかみんなクラクションを鳴らす

うるせえんだよな ホテルで寝てても結構夜遅くまでパーパー言ってるのが聞こえてきて、この街おかしいだろ!なんて思うんだけども、なんかだんだんクセになってくる

そんで朝起きだして外出ると、あの独特の、言葉にしがたい朝の雰囲気雑然とした活力の感じ、あーー……

イスタンブール行きてえな

でも英語で話したりするのは嫌だな

さらにいうと、そもそも話したりするのが嫌だ

透明人間としてイスタンブール行きてえな

2020-08-30

Gorogoaの物語

ホットエントリーに上がっていたこんな記事にふとした気まぐれで目を通した。

業界人が選ぶ、過去10年で最も優れていたビデオゲーム(IGN Japan

https://jp.ign.com/games/46189/feature/10

 

ゲームは年に1本買うか買わないかライトゲーマーなので大半の作品タイトルも知らなかったし、業界人たちのコメントを読んでいてもピンと来るものはなかった。しかしその中でひとつコメントちょっと心が動いた(太字筆者)。

簡単な答えは『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』ですが、統計的な考え方では、私は『Gorogoa』を選びたいです。デモの早期リリースと、その結果である早い時期でのハンズオン体験のおかげで、本作は何年にもわたって私のGOTYであり続けました。『Gorogoa』は魔法のように魅惑的で斬新なゲームです。明確なビジョンに基づいたこ作品は、ゲーム作りの過程が全く想像できないほどの複雑な成果をもたらしました。新しいメカニクスと新しいインターフェイスを持つ本作は、芸術技術物語正真正銘パズルシームレスに融合させています。これは私がエッシャー作品や、キット・ウィリアムズ絵本、「まほうの筆(The magic paintbrush)」をはじめとする私の好きなおとぎ話から得たすべてのものを凝縮した体験です。『Gorogoa』はハッと息を呑むような驚きを私に与え、私の心を喜びで満たしてくれました。開発者ジェイソンロバーツにはこの作品に満足したまま何もせず、別のゲームを作らないでほしいと私が願うほど、『Gorogoa』は本当に唯一無二の傑作です。

(Drowning a Mermaid Productions サム・バーロウ氏)

本職のゲーム開発者がここまで絶賛するゲームとはどんな作品なのだろう、と急に興味がわいた。

元来パズルゲームは好きなほう(MYSTシリーズは全部やったし、ふだんも数独倉庫番をヒマつぶしに遊んでいる)なので、ちょっとやってみようかという気になった。PlayStation Store で1,528円。安い。

遊んでみた。雷に打たれたような体験だった。まるでマグリットの絵の中で『無限回廊』を遊んでいるような感じだった。

感想については私の拙い語彙でくだくだしく書くよりももっとすぐれたテキストネットにあるのでそれを見てもらえば十分だ。

 

『Gorogoa』認知フレームを軽やかに飛び越える絵画パズルゲームインディーゲームレビュー 第40回】(ALIENWAREZONE)

https://alienwarezone.jp/post/1321

 

GOROGOA が見ている(ゲーム感想)(S. Miyata)

https://note.com/38tter/n/nb58c34279de7

 

そして本稿で私が書きたいのはこのゲームの紹介ではない。

この何の説明もなく謎だらけでタネ明かしもない不条理ゲームに、どうにかして「解釈」を与えたくなったので、そのメモである

以下は断定形で書いていてもすべて私の解釈である

後半に至ってはほぼ創作だが、ゲーム中では語られなかった「裏設定」を私が想像で補完したものだ。

 

ロゴアの物語

 

ある日、街に巨大な謎のクリーチャーが出現する。街並みに隠れて全容は見えないが、アパート屋根ごしにカラフルなたてがみが見えるほどだからかなりの巨体だ。

書物をひもとき、それが伝説の聖獣ゴロゴアだとわかる。

古文書には、五色の果実が盛られた器を若者と年配者がふたりで支え捧げる様子が描かれている。

聖獣ゴロゴアの怒りを鎮めるには、世界に散らばる五色の果実をすべて集めて捧げなければならないようだ。

 

ひとつめの赤い果実は、とある民家の庭木の枝になっており、車椅子に座った謎の男が見守っていた。

枝にとまった烏がつと飛び立つと、赤い果実は器の中に転がり落ちた。

 

ふたつめの緑色果実は、町はずれの穏やかな公園女神像が手に持っていた。

廃墟にたたずむ松葉杖をついた男性がゴロゴアの姿を思い描くと、廃墟壁紙の紋様はゴロゴアの瞳となり、その緑色の瞳は果実となって器の中に転がり落ちた。

 

ランプの灯りをたよりに仄暗い部屋で寝食を忘れて何ごとかを熱心に研究する男性。部屋の片隅には松葉杖。この男も足が悪いのか。

ランプのひとつひとつに星の明かりを捕まえ、その明るさに惹き寄せられて来た蛾たちに導かれるままに道を進むと、夜空の星のひとつ黄色果実となって器の中に転がり落ちた。

 

気づくと色あせた写真の中にいた。壁にかけられた五枚の写真のうちの一枚だ。

杖をついて世界の果てを巡礼して回る男に助けられながら写真から写真へと歩みを進めると、どこにあるとも知れぬ神殿に捧げられた青い果実を手に入れた。

 

たくさんの資料に埋もれるように何かを研究する初老男性。部屋の片隅には愛用のステッキ

蜘蛛の巣のように街を縫って走る路面電車初老男性の助けを借りて乗り継いでいくと、高い塔の頂上で最後果実紫色果実を手に入れた。

これですべての果実がそろった。ついに儀式の時が来た。

 

果実の盛られた器をゆっくりと宙に捧げると、五つの果実はまばゆく光りながら激しく燃え上がった。

 

──その時、突然器が砕けた

そして聖獣ゴロゴアはそれを許さなかった。

ロゴアが怒り狂うと、空には虚無の淵がばっくりと口を開け、世界は暗黒の炎に包まれた。

儀式は失敗したのだ!

 

私は身体を闇の炎に焼かれながら尖塔のやぐらから転落し、瀕死の重傷を負った。

長いあい車椅子生活余儀なくされたが、頭はゴロゴアのことでいっぱいだった。

何がいけなかったのか。どうすればあの獣の怒りを鎮めることができるのか。

 

聖獣ゴロゴアは時おり暴虐の限りを尽くした。

ロゴアが暴れると街は爆撃を受けたように廃墟と化し、あちこちで火の手が何日もくすぶり続けた。

 

どうにか松葉杖で歩けるようになると、私は情報収集を始めた。

焼け残ったがれきの中から資料を掘り出し、聖獣ゴロゴアをよく知ることにつとめた。

 

一方、気まぐれに襲ってくるゴロゴアの攻撃の合間を縫って人々は街の復興を始めた。

がれきを片付け、建物を建て直し、鉄道を引き、時おりゴロゴアによる破壊を受けながらも、それを上回る勢いで街は発展を続けた。

 

私の部屋の壁はゴロゴア関連にとどまらず、世界の様々な伝説伝承考古学書物で埋め尽くされた。

時おりゴロゴアの来襲があると電気は止まり、暗い中でランプの灯りをたよりに研究することもあったが、私は寝食を忘れて研究に没頭した。

 

その間中、私は「何かの視線」を常に感じていたが、それが何かはわからなかった。

ただ、私の研究が、誰とは知らぬその視線の主の助けになっている、そんな実感がなぜかあった。

 

研究を進めるうち、私の心のうちには、ゴロゴアに対するどこか畏敬の念のような気持ちが芽生え始めた。

そしてその畏敬の念は、やがて純粋信仰心へと変化していった。

ロゴアの怒りを鎮めるには、我が身と心をゴロゴアに捧げなければならない。そうすることでしか儀式はきっと成功しない。

私はそう思い詰めるようになっていった。

 

私は巡礼者となり、ゴロゴ信仰の源流をたどって世界各地を巡礼することにした。

灼熱の太陽が照りつける砂漠、寒風吹きすさぶ高地

体調は決して万全とは言えなかったが、ゴロゴアにこの身を捧げるという信念が痛む脚を前へと運ばせたのである

 

研究の進捗が遅々として進まず年月が無為に流れていくばかりになると、時おり深い絶望に襲われることもあった。

無力感にさいなまれるそんな時には、決まってあの悪夢の日、儀式に失敗した日の転落の記憶フラッシュバックした。

そうした場面にも、常に「あの視線」は私とともにあった。

 

月日は流れ、私も初老と呼ばれる年齢になり、髪も髭もすっかり白くなってしまったが、私の研究は大詰めを迎え、ついにひとつ結論に到達しようとしていた。

 

古文書には、五色の果実が盛られた器を若者と年配者がふたりで支え捧げる様子が描かれている。

 

この記述によれば、儀式ふたり人間によって為されなければいけなかったように思える。

しかに、最初儀式自分ひとりで行ったために失敗してしまった。

では、儀式成功させるためには、あらためてふたりで執り行う必要があるのだろうか?

 

そうではなかった。

 

絵図に描かれたふたつの人物像は、「時間を隔てたひとりの人物」を表していたのである

儀式はひとりの人物によって二度行われなければならなかったのだ。

 

思えば一度目の儀式へと至る道のりでは、さまざまな場面で陰日向に何者かの協力を得ていた。

その役割なくして儀式は成し得なかったとさえ言えるのだが、その協力者は、ほかならぬ私自身であったのだ。

 

時空を超えておのれ自身と手をたずさえ、二度の儀式を完遂させる。

それこそが聖獣ゴロゴアとの魂の交歓を成立させるための条件だったのだ。

 

私は今、復興いちじるしい街並みを見下ろしながら、二度目の儀式のために尖塔を登っている。

 

この儀式が終わった時、ゴロゴアと人間の間には新たな関係が訪れるのだ。

2019-05-29

夢見悪…

昨日別にウォーキング・デッドもリゼロも見てたわけでもないのになぜかその2つをかけ合わせたような夢を見てた。ぶっちゃけ言えば夢にゾンビ出てきた。しかも大量に。

冬、高い崖の上みたいなとこに尖塔が建ってて、ゾンビが来ることは時間問題

避けられなくて、家族をどう現世から逃がすか、みたいな。

夢の中でリトライ繰り返してて詰み状態からどう安楽死するかにうつるのが喫緊課題になってた。正直逃げ切ることなんて諦めていた。

夢の中の自分がもうこれしかないみたいに、ぎりぎりまで引っ張って高度差を利用して飛び降りるのが楽と激しく頷いていて。

リトライ中、下まで行って、海岸線を歩いて小屋まで行って閉じこもって激しく叩かれるドアを見ながら餓死したり、日和って上まで戻ろうとしてエレベーターで追いつかれたり、生きながら食べられるのはグロかったな。嫌だった。高度差が足りなくて即死できないこともあって辛かったな。雪がクッションになってた。岩肌が硬いのに。

寝具替えたら悪夢である。起きたら腰いてえ。いやでももしかしたらどこかの世界線自分が今ももがき苦しんでいるところに結線しちゃったのかも。あれはほんとに辛いな。。。

2018-08-11

神なき国の倫理

 ヨーロッパの町の中心には必ず教会がある。教会の鐘の聞こえる範囲教区と言い、キリスト教における統治の最少単位だったからだ。

 朝な夕なに聞こえる鐘の音、そして町のどこからでも見える教会尖塔、それこそがコミュニティ象徴だった。

 かつてのキリスト教会は行政機関であり、司法機関であり、軍隊であり、教育機関であり、医療機関であり、福祉機関であった。

 そして何よりも思想の中心であった。

 人々は己の知的能力を超える判断を迫られた時には、「神の御心に沿うかどうか」と己に問いかければ良かった。あるいは聖書を開き、あるいは聖職者に問うた。

 とにかく、聖書という明文化した規律があった。

 神の御心にさえ沿っていれば、理不尽要求を突っぱねようが、相手を怒らようが、死後に天国に迎えられるのは自分である

 現代ではどうだろうか。街が発展して行く中で、中心にあるのは行政機関か、高層ビルディングかか、大規模なショッピングセンターか、資本主義社会にふさわしい姿に変容しているだろう。

 しかし、欧米人の心の中心にはいまだにキリスト教がそびえ立っている。町中のどこからでも見え、目を背けていても鐘の音存在を知らせる、教会尖塔のように。

 これは欧米人の全てがキリスト教教義に従って生きている、と言う意味ではない。生きて行く上でキリスト教という存在対峙しなければならないのだ。

 Christian=キリスト者としてキリスト教教義に沿って生きるか、他の宗教信仰するか、無神論あるいは他の思想信条信仰するか、あるいは無視するか。

 おのれの精神立ち位置を決定することを強いられるのだ。そして彼らは自分選択した思想に沿って生きて行く。

 さて、翻って本邦ではどうだろうか。信仰教育が分離されて久しい現代日本では自分はナニナニ教を信仰している、と明言できる人はかなり少数派なのではなかろうか。

 むしろ明言できる人はおかし思想押し付けてくる人、と言うイメージさえあり、何かしら信仰していたとしても、自分から言いにくい空気すらある。

 中には「無神論です」などと知った顔で言う御仁もおられるが、無神論というのはある種の信仰であり、理論武装必要な類である

 では、そんな曖昧な、信仰を持たないものをなんというか。「無信仰者」である。ちなみにこれはキリスト教圏であれ、イスラム教圏であれ、信仰の篤い社会では最大級軽蔑を受ける。

 さて、そんな「無信仰者」が多数派となった本邦において、己の能力を超えた判断を迫られた時には、何を基準にすればいいのだろうか。

 もうおわかりだろう。

「みんなと同じ」

 である。とりあえず周りと合わせておけばいい。周り、と言ってもごく狭い範囲、顔見知りのレベルである

 みんなが万引きするから自分万引きする。

 みんながいじめから自分いじめる。

 みんなが残業するから自分残業する。

 みんながキックバックを受け取っているか自分キックバックを受け取る。

 ……

 倫理法律もあったものではない。

 そしてもう一つ。

「怒られたくない」

 である。とにかく怒られるのが怖い。否、怒られた時に思想、あるいは倫理といった、精神背骨がない。だから声の大きなものが押し通ってしまう。

 日本を滅ぼすのは、この思想のなさかもしれない。

2017-11-09

anond:20171109135320

ドラゴンランス、懐かしい・・・

やっぱり、スタームが圧巻の「尖塔の青竜」がいい。

涙止まらなくなる。

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん