はてなキーワード: キリスト者とは
追記2:
結局、私には、「私が助かったのは医師の努力の結果である」と「私が助かったのは神の意志である」は両立しないようにしか思えません。
医師の努力の結果であったのなら、努力次第で結果が変わっていた、ということですので、神の意志ではないはずです。
神の意志であるとするなら、医師が努力しようがしまいが、神の意志によって手術の結果が決まっていたということですので、医師の努力は関係ないはずです。
私には、後者の見解は、医師の努力や、医師の技術を向上させるために実験台になって死んでいった子らへの冒涜に聞こえます。受け入れられません。
とすると、私の取れる見解は、前者しかないのです。つまり、私の手術が成功したのは医師の努力ではあったが、神の意志ではなかった、と、考えるしかないのです。
追記:
私が手術で助かったのが神の意志であるなら、我々が参加した実験的手術には何の意味があったのでしょう。
私が手術で助かったのが神の意志であると認めることは、手術で死んだ子が死んだのも神の意志であると認めることであり、「我々が参加した実験そのものが無意味であった、手術で死んだ子は無駄死にであった」と認めることに他ならないように思います。
死んだ子は無駄死にだったのですか?
そういう言説には、「とにかく、なだめすかして私が自殺したり反社会的になったりすることを防ぎたい、死んだ子の死の解釈はどうでもいい」という隠れた意図が透けて見えるのです。
本文:
私は、放置すれば数歳で死ぬ病気を持って生まれてきた。研究段階の手術を受け、そして、助かって成人した。
中学・高校はカトリックのミッションスクールに通った。先生には信仰の厚い神父の方もいらっしゃったが、私の問いに答えてくれなかった。
人が生まれるのは神がそう望むからである、と。であるならば、私が数歳で死ぬ体で生まれたのも神の意思であるはずだ。神は、私が数歳で死ぬことを計画されていたのではないだろうか。
一方、私の手術が成功したのは神の意志というよりは、医師や研究者の成果だろう。
私の受けた手術と同じ手術を受け、助からなかった人が何人もいたことは、その後、私の手術を行った大学病院の紀要から分かっている。
手術を受けた子らの中から、ランダムに死者を出すのが神の意思とは思えない。
とすると、手術を受けて生き残ってしまった私は、神の意思に反して生き残った事になる。
つまり、私の存在自体が神の意思に反しているはずなのだ。したがって、私が生きていることは神への反逆であり、私は神への反逆者として殺されなければならないのではないだろうか。
神を信仰する者は、私を殺して喜ばなければならない。が、キリスト者は、今までの数十年間、私を殺していない。
特に、中高時代は、キリスト者の近くにいて、いつでも私を殺せる状況にあったのに、だ。なぜなのか。殺された時の無念さが大きくなるように、社会的に成功させてから殺そうという魂胆なのだろうか。
自分はどうしようもない愚か者でクズだと思う。イエスをキリストとして信じているにもかかわらず、その信仰を行動で表そうとはしない。もし私が本当に信仰を持っているのだとしたら、家族や友人からの初詣の誘いのようなささいなことは即座に断るだろう。あるいは、初詣に行ったところで参拝はしないと明言するだろう。結局のところ、わたしは自分がキリスト者だと思われるのが恐ろしいのだ。今までひとつの共同体の中を生きていると考えている親しい人々と私との間に溝ができるのが怖いのだ。街中でイエスの教えについて拡声器で演説し続けている街宣車に対する人々の目が私にも向くのが怖いのだ。
イエス・キリストは剣をもたらすために私は来たのだとおっしゃった。教えを実行しないものは砂上に楼閣を作るようなもので、いつか崩れ去ってしまうのだとおっしゃった。私は今年も自分の臆病のために信仰を曲げ、自分のこれまでの思いを砂のように散らせてしまうのだろう。三度目の信仰の死を経験してなお、私は改めようとはしない。
私がキリスト教徒に対していつも不思議に思っているのは、会ったことのないイエスという存在をどうしてキリストだと信じられるのだろうか、ということだ。
神を信じるということであれば、まだ出会う(もしくは感じる)体験を通して達成されるということが想像できる。でも、イエスは歴史上のある特定の時代に生きていた人物であって、その人に出会うことはできない。
さらにいえば、その一般的なキリストの視覚的イメージはヨーロッパで生み出されたもので、本来のイエスその人の姿とは大きく異る可能性が高い。キリスト教徒がイエスに出会えるのはただ聖書の中でしかない。
まずイエスという人をイメージできなければ、三位一体を信じることはできない。それならば神を信じるということもキリスト教の教義的にはできないということになる。
イエスをキリストとして信じ、神の位格のひとつであることを信じるというこの凄まじく難しい行為をキリスト教徒はどのようにして達成したのだろうか。私はそれが不思議でならないし、その困難さゆえにキリスト教の教えに感嘆するもののキリスト教徒にはなれない理由でもある。
追記:
トラックバックを読むとどうも誤解されているようなので補足すると、私はキリスト教徒の信仰を嘘だと思ったり、現在のキリスト教が形骸化していると考えているわけではない。どちらかといえば私は、程度の差はあるだろうけれどもキリスト教徒が本当に、真剣にイエスをキリストだと信じているのだと考えている。
おそらく彼らは個々人のやり方でイエス・キリストを信じる強い根拠を手に入れたからこそ、キリスト教徒でいられるのではないかと思う。私はその個々人がその強い根拠を得て、信じることができた、その人が真にキリスト者になれた過程を知りたい。
主です。ご教授ありがとうございます。私もそれなりに色々見聞きしたり調べたりしたのですが、出自以外の広まりについては結局のところ「よくわからない」が結論となっています。ヨーロッパでもやったりやらなかったり、アメリカのものだという認識だったりで、それがプロテスタントとカトリックの違いなのでしょうか、とにかくアングロサクソン社会でもまちまちという感じのようです。しかし日本においてはヨーロッパ、アフリカ、インドネシアからの影響では無くほぼアメリカからであると思っています。
ただ、私の主張したいのはそこではなく、だったら日本人にはもっと関係の無い行事だろう、という事。もちろん日本人にもキリスト教信者はおられますが、本当のキリスト者にしてみたら寛容に見ても目にあまる光景ではないでしょうか。いい大人が奇異な格好やもはやハロウィンに関係の無い格好、更には裸同然の格好で電車に乗って騒ぐ。クリスマスでも同じく何かと託つけて騒いでますが、もうウンザリです。無宗教だから楽しければいい、モノが売れればいい、そんな空気に耐えられません。
地元での行事が廃れた、とのことですが、それならそれでいいじゃないのでしょうか。自然淘汰されたということです。しかしだからと言ってその換わりにそれこそ「縁もゆかりも無い」ハロウィンでなんとかしよう、という発想になるのだけは避けたいと思いませんか。やる意味がありませんよ。やがて新たに地元に根付いたお祭りが作るか、何もしない。それでいいじゃないですか。それでその地元が生きるか死ぬかは地域に住むその人たち次第です。
変ですね、私はあなたの親の話など一度もしていません。
それは申し訳ありません。他のツリーでの話みたいですが、同じ様な口調で同じ様な論調の元だったので同一人物だと思ってました。
ここのツリー自体も複数に別れてて、貴方の書いた、というのも見ましたが、相手が全部自分な訳でもありません。
そこは勘違いしてましたが、
といいながら、こちらがリンクを見せた瞬間に
掲載されています。
となるのはおかしい話でしょう。貴方はご存じなかったのは事実ですよね?
そうでなければ、
このような事は言わないでしょうから。
また、逆に
「異本」の訳にはこう載っている、というアレは聖書のどこに書いてあると思う?
それぞれの書の最後尾なんだ。
実質採用されていないと思って頂戴。
旧約聖書、旧約聖書続編、新約聖書をそれぞれ読んで、明日正教会かカトリック教会、聖公会、ルーテル教会に行って
聖職者たちに聞いて回って来な
残念な人扱いされると思うけどね
それはあまりにかわいそうなんで読んで頂戴。
読むだけで反論はナシ。いい?
も~このエントリ読んでさえも反論してきたらアホの子だと思われるからね。
匿名の場があってよかったね~。
「神はそのひとり子を世にお遣わしになったほどにこの世を愛された」
これがキリスト教の基礎です。どの教会でも常識となった聖句です。
そのようになさった神が罪びとに石を投げるでしょうか。ありえるでしょうか?
この辺りではっきりとそんなことはあり得ないと言いながらこちらを煽っていますが、記述としてあるわけで、
それを貴方は信じないかもしれないかもしれませんが、聖書に載ってる以上、ただただその話を馬鹿にして済む話ではないでしょう。
ましてや載ってないの?と聞いてきたことにがっかりした、なんて話はおかしいでしょ?
勿論、載ってることを知った上で、現在このように解釈されてる、私はこう思う、という貴方の最後の方の説明はそれで良いですが、
その辺り、自分の知識が足りなかったことが原因で人を馬鹿にしたことを謝罪することすら出来ないのですか?と聞いてるだけです。
http://anond.hatelabo.jp/20130709090812です。
皆さん頭は冷えたでしょうか?
キリスト者の皆様
私たちは教派にもよりますが「国のためにも」祈りを捧げています
「歴史を重んじる」と誇っているはずの日本人にはありえないほどの態度ではないでしょうか?
そのような態度で自分と違っていて相手が完全に合わせることが不可能というだけの理由で、他の宗教の信徒を圧迫しないでください
感情的になる人がいると反射的に批判することはあまりに滑稽です
我々もただの人間です
同じように感情的になるあなたは、人間ではないとでも言うのでしょうか
また、日本のキリスト教徒人口について書いている方を見かけましたが
2000年代に入ってすぐ6%と報じられたものを見たことがあります
おそらく比較的正確です
訳あって一時的に教会に行けない人を、教会は「人口」から外すことがあります
教会はお寺や神社より厳密にミサや礼拝などに参加している人だけを人口として発表する傾向があるからです
首都圏にいますが311以降受洗を希望する人の数が急激に増えており洗礼前教育のクラス調整が追いつかないほどです
いわゆる「平信徒」から一歩上に上った立場なので連絡会議もあり他の教会でもマネジメントが忙しいことは知っています
また、無宗教(どの宗教にも応じる)という立場は状況に対して従順とも言えますが
逆に社会的問題を引き起こすカルトにひきこまれやすい傾向を持つ、という現実もあります
以上です。
これにて、私の発言を終わります。
よくわかんないけど、キリスト者としてオウム認定と取られかねないコメント残して去られると、場合によっては地獄に堕ちるらしいので(詳しくは教会行って聞いて)誰のこと言ってるのかだけ聞きたいけど答えないからそいつの情報晒すね
はっか 『オウムが何の用だよ・・・』 (2007/02/13 23:41)
2007-02-13 23:41:56 http://d.hatena.ne.jp/Marco11/20070213/1171340589#c Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 7.0; Windows NT 5.1; YPC 3.2.0; .NET CLR 2.0.50727; .NET CLR 1.1.4322; IEMB3; IEMB3) ja 2560x1024x32 i224215.ppp.asahi-net.or.jp
すべては御心のままに
(†∀†)アーメン