ヨーロッパの町の中心には必ず教会がある。教会の鐘の聞こえる範囲を教区と言い、キリスト教における統治の最少単位だったからだ。
朝な夕なに聞こえる鐘の音、そして町のどこからでも見える教会の尖塔、それこそがコミュニティの象徴だった。
かつてのキリスト教会は行政機関であり、司法機関であり、軍隊であり、教育機関であり、医療機関であり、福祉機関であった。
そして何よりも思想の中心であった。
人々は己の知的能力を超える判断を迫られた時には、「神の御心に沿うかどうか」と己に問いかければ良かった。あるいは聖書を開き、あるいは聖職者に問うた。
神の御心にさえ沿っていれば、理不尽な要求を突っぱねようが、相手を怒らようが、死後に天国に迎えられるのは自分である。
現代ではどうだろうか。街が発展して行く中で、中心にあるのは行政機関か、高層ビルディングかか、大規模なショッピングセンターか、資本主義社会にふさわしい姿に変容しているだろう。
しかし、欧米人の心の中心にはいまだにキリスト教がそびえ立っている。町中のどこからでも見え、目を背けていても鐘の音で存在を知らせる、教会の尖塔のように。
これは欧米人の全てがキリスト教の教義に従って生きている、と言う意味ではない。生きて行く上でキリスト教という存在と対峙しなければならないのだ。
Christian=キリスト者としてキリスト教の教義に沿って生きるか、他の宗教を信仰するか、無神論あるいは他の思想信条を信仰するか、あるいは無視するか。
おのれの精神的立ち位置を決定することを強いられるのだ。そして彼らは自分の選択した思想に沿って生きて行く。
さて、翻って本邦ではどうだろうか。信仰と教育が分離されて久しい現代の日本では自分はナニナニ教を信仰している、と明言できる人はかなり少数派なのではなかろうか。
むしろ明言できる人はおかしな思想を押し付けてくる人、と言うイメージさえあり、何かしら信仰していたとしても、自分から言いにくい空気すらある。
中には「無神論です」などと知った顔で言う御仁もおられるが、無神論というのはある種の信仰であり、理論武装が必要な類である。
では、そんな曖昧な、信仰を持たないものをなんというか。「無信仰者」である。ちなみにこれはキリスト教圏であれ、イスラム教圏であれ、信仰の篤い社会では最大級の軽蔑を受ける。
さて、そんな「無信仰者」が多数派となった本邦において、己の能力を超えた判断を迫られた時には、何を基準にすればいいのだろうか。
もうおわかりだろう。
「みんなと同じ」
である。とりあえず周りと合わせておけばいい。周り、と言ってもごく狭い範囲、顔見知りのレベルである。
みんながキックバックを受け取っているから自分もキックバックを受け取る。
……
そしてもう一つ。
「怒られたくない」
である。とにかく怒られるのが怖い。否、怒られた時に思想、あるいは倫理といった、精神の背骨がない。だから声の大きなものが押し通ってしまう。
仏陀はどうして自分そっくりの木彫りの像を作れと言ったんだろう 金を握らせてスキンヘッドの男に念仏を唱えさせたら天国に行けるなどと何で無常の世界観を晩年に撤回したんだろ...
もとは仏像なんてものはなかった イスカンダルの東征でくっついてきて母国が衰退したからそのまま何となくアフガン北部周辺に残ってたグレコローマン系が 仏教の話聞いていいじゃん...
エロ時代に外人が「恥の文化」だと言ってた 嘘をついてもバレなければおkなのが本音でなく建前の時点でそうなのが日本
日本には「お天道様が見ている」という分かりやすい規律があるよ。
国家神道も大乗仏教も戒律がない 内省や自戒を促すルールが建前ですら存在しない
「宗教ならば戒律があるべきだ」っていう発想がすでにキリスト教に毒されたものなんだよなあ
社会に迷惑にならない範囲なら信仰してもいい 宗教に戒律がない前提こそが江戸から明治を通じて政府が価値観を転換したかった部分なんだな でもその先いあるのは個人崇拝でまだ...
元増田も戒律とは言ってへんやろ、倫理とか思想とか言うてるだけで お天道さんが見ている(から誰も見てへんところでも悪いことしたらあかんで)ってのは立派な倫理やろ