はてなキーワード: 相対主義とは
菊池誠という人がいて、一時はてな論壇においてそれなりの存在感を放っていた。
現在では一山いくらのネトウヨおじさん程度にしか認識していない人もいる。もはや過去の人であると断ずる向きもあるだろう。
しかしながら、彼について再考することで、論壇で今も跋扈する科学対非科学という対立軸を新たに捉え直す機会を持てる気がする。
というわけで彼の言説とその評価の変遷を追っていきたい。
2000年代後半。ニセ科学批判という社会運動が産声を上げた。
これは、自然科学に関する嘘をエビデンス棍棒で殴打するというシンプルかつ大変に社会的意義のある運動で、その倫理的な正しさからはてな市井で好評を博した。
この運動には様々な人が加わり、皆それぞれの専門分野に関する多種多様な嘘デタラメを殴り倒していた。
また専門分野のない人は、非専門分野に関する言説の妥当性をいかに評価すべきかということについて学んでいった。
よくわからんという人はid:NATROM先生がたくさんいたと考えてください。
ニセ科学とはなにか。誰が、なぜ吹聴するのか。このあたりは先人の素晴らしいテキストが山程あるのでそちらを参照するのがよい。私も一応書く。
ニセ科学批判の対象となったニセ科学は多岐にわたる。多岐にわたるがざっくり2つに分ける。
証明されていないことを証明されたと言うか、証明されたことを証明されていないと言うか、である。
科学的知見というものは往々にしてひっくり返るので、この宇宙を縛る法則から演繹していった時に実はニセ科学が正しかったということは有り得る話である。
しかしながら個人が霊感で獲得した宇宙の真理よりも、定められた手続きを踏んで得られた結論(宇宙的には間違っていたとしても)の方を評価するというのがニセ科学批判のスタンスだ。
営利企業や大学教授や特定の肩書のない個人的なブログ、政党や国そのものである場合もある。
彼らは何故嘘をつくのか。その動機を大きく4つに分ける。経済的利益(金銭)・社会的利益(名誉)・思想的利益(党派性)・倫理的利益(善意の施し)である。
どのニセ科学もこのいずれか、もしくはそれらの組み合わせから生み出されていると分類できるだろう。
例えば近藤誠や武田邦彦の動機は金と売名だし、安倍晋三や下村博文や共和党の言動は党派性の発露であり、有象無象のブログが代替医療で他人の癌を根治しようと試みるのは無知に基づく善意による。
ニセ科学批判は党派性から最も遠いところにいるとは菊池誠の言葉であるが、定義上これは正しい。
また、個々人のレベルで見ればその批判対象の選択において党派性が働くこともあるだろうが、運動を総体として捉えればそれは働かない。
組織を持たない草の根運動であるため、一貫した思想により運動員を抑えつけるということが原理的に不可能だからである。
運動自体に対して外部から党派性を見出す人は多々いるが、それは往々にして自身の党派性を表明しているに過ぎない。
例えばid:finalventにはニセ科学批判が左翼的活動に見えるそうだし、反原発派の中の放射能デマを吹聴するクラスタからは当局におもねった保守的な運動であると批判されている。
ニセ科学は大きくデマという概念に内包される。デマの分野を自然科学に絞り、真実性の判定に科学的手続きの有無を利用している場合それをニセ科学と呼称すると言い換えても良い。
ここからニセ科学批判の方法論を他分野のデマの払拭に利用できるのではないかと考えられる。特に人文科学系や社会科学系等の他分野の学問においてはその応用が容易いだろう。
ニセ科学と人文科学や社会科学系のデマとは地続きの問題であり、ニセ科学批判がニセ科学だけを取り扱うのは、単にそれが自らの領分だからというだけである。
ニセ科学批判の参加者が自然科学系以外の言説に対して取るべき態度は、専門分野外の自然科学系の言説に対して取るべき態度と同一でなければならない。
そうでない時、その価値判断には先の4つの動機のいずれかが作用しているのである。
「えー、じゃあさじゃあさ、なんで菊池さんはネトウヨおじさんなんて扱いを受けるの?だってさ、人が科学的事実を前にした時にどういう要因が認知を歪ませるのか、またその考え方は自然科学分野以外でも応用できるってことを誰よりも分かってるはずでしょ?ネトウヨなんてポジショントークが凝り固まって人型を成しているような存在じゃん。おっかしーぜ、それ。一個人が党派性から逃れることは出来ないにしても、自覚を持っていてその都度自己補正に努めればそこまで極端なことにはならないでしょ。オレ、納得できないなー」
そうだね、たかし君。じゃあ次の章では菊池誠の言説とその捉えられ方の変遷を時系列に沿って見ていこうか。それから菊池誠の言動が本当にいわゆるネトウヨ的な物なのかということもちゃんと検証してみよう。
さて、ここから菊池誠とその周囲の言説を掘り返し、断片的な事実を拾い上げ、時系列を整理し、推論を検証し、STS辺りも総括し、ニセ科学批判史とも絡め、最初のテーマに関して結論を出さなければならない。
でもなんか今週入ってから超体調悪くて、鼻は詰まったり止めどなく流れたり、体はとにかく熱っぽくて横になっているのも辛い。
よく考えたら私は菊池誠の親族でも知人でも生徒でも何でもないわけで、果たして病体にムチを打ってまでこの駄文の執筆に労力を割くべきなのだろうか?ここは潔く挫折する。
でもこのテーマ自体は割と意義があると思うので誰か調べてまとめて書いといて欲しい、個人的にはid:ublftboさんが適任かなと思う。でも多分やらないだろう。面倒くさいし。
どうやらこの記事の続きは執筆されないことが確定したため、以下に執筆時の構想諸々を記しあとがきに代えるものとする。
・7年ぶりくらいに菊池先生の名前を目にしたら、なんか凄い扱いになっていたので驚いて、矢も盾もたまらなかった。
・菊池誠に対する周囲の評価の変化点は2つくらいありそうだと思ってる。震災とそれから1年以上後。
・2009年から現在に至るまで菊池誠はネトウヨおじさんではない。ただ看過できない発言は多々あるし、愛想を尽かす人もいるだろう。これは年を追う毎に悪化しているように見える。今の立ち位置はid:hazumaにちょっと似てる。
・2009年頃と現在で、周囲から投擲される評価は明らかに変質しているわけだけど、それは菊池誠と周囲のどちらかあるいはその両方が変わった/変わっていない結果なのかという大枠の問いがあって、これは菊池誠が変わったというよりは、周囲に今までいなかった(少なかった)人種が現れたからだと思う。
・逆に言うと震災以前にもある種の題材を絡めてその手の人種と邂逅する機会があったら、今よりもっと早くこうなっていたと思う。今の状況はなるべくしてなったと言える。
・どうしてこうなったかは意思疎通が上手く行かなかったから。上手く行かない原因は個人でなく構造に求めないと仕方ない。専門家と非専門家の間にはクッションが必要になると思うんだけど、IKEAが布にガラス片を詰め込んでこれはクッションですと言い張ったり、あるいはクッションそのものを用意しなかったりするから、専門家自身が夜なべしてクッションを作らないといけない。彼らは裁縫の専門家ではないので、その出来は個々人の技術によって大きくムラが出る。ところでIKEAはSTSである。
・STSとは、何の生産性もなく相対主義ぶって科学者を腐してあてこすりで飯を食ってる人間の屑が集う旗印である、というのがこれまでなんとなく聞いていた印象なんだけど、いくらなんでもそんなものが何十年も学問として存続するわきゃないと思う。思うので、この際ちゃんと調べて、その社会的役割と意義と実際のところを自分の中で明らかにしておきたかった。震災時に(震災時でなくとも)彼らが求められる役割を十分に果たした結果がこれなのか、あるいは十分に果たせなかった結果がこれなのか。またそれはなぜなのか。
・つまり不幸な例であるところの菊池先生の件を足がかりにして、自然科学分野における専門家と非専門家とのディスコミ問題をアレできるんじゃないかと思ったというところが発端です。
・ブクマにニセ科学批判ってもっと前からあったでしょと言う指摘があったんだけど、前出の"ニセ科学批判史とも絡め"というところで今現在ニセ科学批判とされる運動の形はいつごろ成立したのかも調べておきたかった。書籍で探すと、訳語としてニセ科学を当てはめてる物は結構前からあるんだけどこれは定義が今と違っていて、今使われている意味でのニセ科学という用語はwebだと2004年が初出だと思う。ニセ科学批判についてはgoogle先生になんとなく尋ねるレベルでは天羽さんとかid:kamezoさんの2005年位のログしか出てこない。水伝での田崎さんと天羽さんは運動の拡大に大きく貢献したよねとか海外情勢(主に米キリスト教福音派系の)はid:Kumicitさんの忘却からの帰還が強かったとか、ニセ科学批判史は最終的に年表にしたかった。
以上が主観的になんとなく思いついた推論なので、これらを補強あるいは反証する材料を沢山探して、結果何かがまとまる予定だったのだということを言い残したかっただけの年度末だった。
「だぞ」「だろ」「だな」「しろよ」「しとけ」「だろうがよ」「かよ」「すっぞ」「だよな(無意識に仲間の同意を求める)」「じゃね?」「~?(実際には聞いてない。煽る)」「!」「www」など。
「こいつ」「そいつ」「お前」「てめえ」「こいつら」「きさまが」「野郎」「○○なんとか(うろ覚えを装う)」など。
悪ノリやイジリ、煽りに使われる事が多い。「www」「お前ら」「そっ閉じ」「あっ・・・(察し)」「ファッ!?」「モニョる」「火病る」「本当に○○でした。ありがとうございました」などで何か言った気になる。
「マスゴミ」「ネトウヨ」「サヨク」「ブサヨ」「○○厨」「○○信者」「DQN」「キモオタ」「キチガイ」「アスペ」「在日」「反日」「朝鮮人」「ジャップ」「売国」「クソ」「ブサイク」「死ね」「暇人」「ガイジ」「ニワカ」「オワコン」「生理的に無理」「お花畑」「○○ガー」「○○が大量に湧いてるな」など。
「男は~」「女は~」「老害が~」「団塊が」「バブル世代が~」「ゆとりは~」「さとり世代~」「理系は〜」「文系は〜」「左翼は~」「田舎は~」「都会は〜」「東京は〜」「地方出身者は〜」「低学歴が」「コミュ障」「底辺」「低学歴」「 ニワカ」など。またコメントに個別に反論するのではなく、あたかも敵集団の代弁者からのコメントであるかのように大雑把にすりかえて攻撃し始める。「これだから○○は(勝手な○○認定)」「○○信者乙」など。
「○○なやつにかぎって××するんだよな」「どうせ~するんだろ」「裏で○○してそう」「こんどはいつ○○してもおかしくない」「こういう人って○○が××しなかったら△△したって言い出しそう」「すぐに○○するだろ」「○○まったなし!」「こういう○○するやつがいるんだよなあ(実際には○○まではしていない)」「やましいことがあるから反対するんだろ?」「火のないところに煙は立たない」「○○って思ってそうなとこが苦手」「○○は将来的には××するんだろ」「○○才過ぎても××な△△は□□する」「○○『××して何が悪い?』」など。
「はい論破」「○○が××を喝破」「顔真っ赤だな」「涙目」「長文乙」「連投乙」「逃亡」「必死だな」「くやしいのう」「ざまあ」「メシウマ」「笑える」「こういう○○するやつにはなりたくないよな」「ブーメラン」「図星だろ」「頑張って書いた反論がそれかよw」「まだ悪あがき?」「寝言かよ」「くやしけりゃ○○してみろよ」「今頃あわてふためいてるw」「予想通りw」など。
あと付けでネタや冗談やジョークだったと弁解する。「釣りだろ」「今日も大漁」「コピペにマジレスかよ」「ただのジョークだろ」「なにマジレスしちゃってんの?」「マジレスかっこ悪い」「つまんないやつが増えたな」など。
主にメタ視点でけなす。「でもこいつ目立ちたいだけだろ」「売名ウゼー」「かまってちゃんウゼえ」「自己顕示欲」「ここに書き込んでる時点でお察しだな」「ネットに長文書き込むのは馬鹿」「自分のこと賢いって思ってそう…」「ヒマだな」「こんな時間に書き込みしてるって…」「○○が一生懸命考えましたって感じ」「○○代かな?××臭がする」「○○言いたいだけだろ」「最近覚えた○○使ってみたかったのかな?」「コンプレックスの裏返し」「ルサンチマン」「拗らせてるなあ」「同族嫌悪なんだよなあ」「へえ、○○の結果がこれなんだw」「寒い」「うざい」「壮大にすべってる」「粘着きもい」「この人怖い」「コピペかな?」「 コメが絶賛ばっかで気持ち悪い」「こんなのありがたがってんの?」「リアルでは相手にされなさそう」「こういう○○って生きるのがつらそう」など。
明らかにツッコミどころ満載のおかしな発言のため、背景知識がなくても批判できてしまう。そのため質の低い、右ならえのコメントが増えやすい。まとめサイトにとりあげられたり、注目エントリーに入る率が高い。「○○とか、やっぱ頭おかしいな」「こんなのがいるなんてやっぱり○○はクズだな」「まだ○○信者はまだこんなこと言ってるんだなw」「私の知ってる○○は××といってゆずらない。本人は本気でこれを言ってるらしい」「○○な私は普通に生きていく資格もないってことですか?だとしたら悲しすぎます(と言って義憤を煽る)」「一部では○○と主張するやつもいて腹が痛い」など。
「○○は××と発言」「○○は××のとき△△していた」などの直接的なデマのほか、「○○は××ではもう相手にされてないよ」「○○は××ってことで片がついてる」「○○ではもう××はバレてきてるみたい」「○○が通用するのは××だけ」「いまだに○○なんて言ってる人がいて呆れる」など間接的かつ誘導的なデマや印象操作もある。
「やっぱり○○は××にそっくりだわ」「○○と××はつながっている」「○○も××も似たようなものなのにね」「○○は××出身か、どうりで」「○○は××と組んでから凋落の一途」「○○は××の巣窟」「○○の裏には××がいるから」「○○は××に乗っ取られてんじゃないの?」「さすが○○が支持するだけの事はある」など。
「○○のこと?」「○○かな?」「これ何て○○?」「○○定期」「安心しろ○○はもっと××だから」「だからといって○○の評価が上がる事はないけどな」など。
「○○の平常運転」「またこいつらか」「○○撲滅」「○○消毒」「○○は出て行け」「○○の洗脳」「○○に気を許すな」「これですむと思うなよ」「○○くらいで被害者ぶるな」「エセ○○」「○○様はいいご身分ですね」「○○は優遇されている」「震えてろ」「電凸した」「あいつらのやり口」「日本はいつから○○になったんだ?」「○○が反対ってことは××はいいってことだな」など。また反対する集団に関する不幸なニュースを継続的に喜んで取り上げる。
「○○は差別されているからなあ」「○○差別なんてネットじゃいたるところで見るわ」「でも○○は不利益になることは知っておいたほうがいい」「でもやっぱり自分の○○には××させないと思う」「自分は違うけど周りの○○には××に偏見持ってる人はけっこういるな」「本人はよくてもまわりは気にするだろうな」「せめて○○くらいさせてあげないと周りから変に思われる」「○○にもまともな人はいるんだな」「○○人にもいい人はいますね」「○○は××さえなければなあ」「○○みたいなタイプは年長者から可愛がられない」など。
「○○の前に行ったらビビってだまるくせに」「こいつ○○に行ったら速攻フルボッコにされるわ」「じゃあおまえが○○にいってこいよ」「こいつら本物の○○をしらないからいきがってんだろ」「○○つええ」「○○無双w」「本職のおでまし」「やっぱ本物の○○は迫力が違うわ」「ついでに○○もボコボコにしてほしいわ」など。
自分が反対する集団がやったことは口汚く罵るが、同様のことを自分の支持する集団が行った場合には反応せず無視する。または「○○(反対する集団)がすげえ喜んでるな」「○○がよろこんで××ってコメントしそう」「(コメント欄に)○○がおしよせてくるぞ!」などとコメントする。
何が常識かは本人次第で、伝統・文化などの線引きも恣意的。「○○するのが常識」「普通は~」「○○することになっている」「○○も知らないの?」「常識があれば~」「通常なら~」「普通の感覚なら~」「きわめてまっとう」「正論」「○○は伝統」「○○は文化だ」「○○するのが自然」「昔からやってる」「○○はもう古い」「○○は時代の流れにあわなくなった」「日本固有の○○の美風」「○○するのが国際常識」「まだ○○でないのは日本だけ」など。
「○○は諸悪の根源」「○○衰退の犯人××」「○○は無責任」「○○は××なんてどうでもいいと思ってる」「○○は弱いものいじめ」「○○は反対ばかりする」など。発言者の頭の中には該当事例の積み重ねがあるのかもしれないが、判断できる文脈を離れて突然評価が始まる。「○○は××(例1)や△△(例2)をしたから□□だ」などのように例示しない。また具体例をあげていても、飛躍しすぎて誘導的な場合も多数見かける。「××(例1)」をした場合はその「××(例1)」の問題点だけを具体的に指摘したほうが建設的である。
こういう芸風だから、ずっと前からこうだった、この場所ではこうだ、などですませようとする。業界人・事情通風コメント。「○○さんはずっとこういう人でしょ」「前からこうなのしらないの?」「○○界隈じゃこれが普通」「○○じゃみんなこうしてるけど?」「○○はもっと××なんだけどね」「なんで今さら話題になってんの?」「じゃあ○○は当然知ってますよねw」など。
「ほんこれ」「まさにこれ」「それな」「正論」「真理」「これはひどい」「激しく同意」「知ってた」「なにをいまさら」「当たり前のことしか言ってないな」「大したこと言ってなかった」「知ってた速報」など。
「じゃあ一切○○しないんだな」「××っていっても○○ほどひどいわけじゃねーだろ」「××っていっても○○とくらべたらまし」「昔の○○はもっとひどかっただろ、今はまだマシ」「○○は聖人じゃないといけないわけ?」「○○したことない者だけが石を投げなさい」「いちいち○○してたらきりがない」「○○も一枚岩ではない」「純粋な○○なんてない」「○○は××しちゃいけないの?」「じゃあ○○は無駄死にしたっていうのかよ」「ずっと同じ意見のやつなんていない」「とにかく何でも変えればいいというものではない」など。
「ただの揚げ足取り」「失礼な言い方」「めんどくさい奴だな」「頭悪いな」「その言い方は反感買うだけだよ」「そんなこと言ったら何も言えなくなる」「ただ~しただけだろ」「そんなの屁理屈だろ」「理屈ばっかり」「理屈じゃ人は動かない」「いやなら見るな」「議論する気あるの?」「ケンカ売ってんの?」など。
「正義の反対はまた別の正義である」「絶対的なものはない」「十人十色」「どう思おうが個人の自由だろ」「こっちはそう思っただけ」など。相手や対象をくわしく知るための相対主義ではなく、自分だけに都合の良い議論の切り上げに使われる。自分の言い分は聞かせようとするが、自分とは異なる意見を聞こうとはしない。もちろん一方的な議論を第三者が仲裁のために使う場合はこの限りではない。
「○○してはじめて理解できる」「○○になってはじめて××のことが理解できる」「○○するまで××のことは分からない」「本人にしかこの痛みは分からない」「理解者ぶって」「あんたにはわかんないだろう」「わかった気になりやがって」「○○から見える景色は全然違う」など。
「すべからく」「的を得る」「改行が」「漢字ばっかりで固い」「全角数字が」「為に」「する事」「○○が気になって内容が頭に入ってこない」「○○も書けないの?」「日本語でおk」など。
「するつもりはなかった」「(表現が)誤解をまねいた」「真意とはことなる」「○○という認識がなかった」「実際は○○はしたくなかった(が押し切られた)」「○○は××には(心情的には)反対だった」「純粋な気持ち」「こころを入れかえて」など。
善悪の基準を自分では示さないで正当化しようとする。または意図的に議論の焦点をずらして、別の基準に合致しているから問題ないとごまかす。「それのどこが悪いの?」「何が間違ってるのかわからない」「文句があるならわざわざ見るなよ」「こういうの気にしてたらストレスたまりそう」「本人が楽しけりゃそれでいいだろ」「個人の自由だろ」「盛り上がればそれでいいだろ」「外野からはなんとでも言える」「言うだけならは簡単だ」「○○しただけだろ」。
「○○しただけ」「○○を必要としている人がいる」「○○も信じている人がいる」「○○も生きていかなくちゃならない」「生活がかかってる」「○○だってがんばってるんだよ」「○○も一生懸命なんだから」「こっちは本気なんだよ」など。別の立場からも「××しただけ」と言えたり、「××も必要とする人はいる」と言えてしまう。
「違和感がある」「うーん」「むずかしいな」「どうなんだろう」「なんともいえない」「何かモニョる」「ムズムズする」「ほんとあれだな」「スッキリしない」など。
「どっちもどっち」「喧嘩両成敗」「どうでもいいわ」「くだらん」「平和だな」「争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない!!」「選択肢がない」「まともな対立候補がいない」「右も左も同じようなものだな」など。
「これって私だけですか?」「○○は××ってうわさがあるけど本当ですか?」「○○が××な理由を教えてください」「○○は××しかしないなんてズルくないですか?」「○○だってことわかってます?」「(悪口を言ったあとに)これであってる?」など。
主張に理由を書かず字面で自分流に判断してお互いに反発し合う。抽象的な命題に具体例をあげず各自が拡大解釈して収拾がつかなくなる。「なぜ日本人は○○なのか」「なぜ最近の○○はつまらなくなったのか」「○○はもう終わったのか」「○○は日本人に本当に必要なの?」など。
「○○しないと××は崩壊する」「終わりの始まり」「もう○○は終わった」「○○崩壊へのカウントダウン」「○○が××したらヤバくね?」「○○はオワコン」など。
「○○力」「○○脳」「○○化する日本」「○○すぎる××」「マイルドヤンキー」「ダサピンク」など多数。
話し手が勝手にビックリしているニセの新情報。実際は凡庸なものや、つまらないものまで誇張して面白そうに見せる話術。とっさの責任回避にも使われる。「実は…」「びっくりしたんだけど」「あまり知られてないけど」「意外に知られてないのが」「いままで誤解してたんだけど…」「今知ったんだけど」「今気づいたんだけど」「とんでもないことに気づいた」「なんと!」「うわー!」「えーっ!?」「げっ」「~ってマジかよ」「○○マジやばいんだけどマジうける」「えっ、○○って××なの?」「従来の○○にはなかった」「学校では教えていない○○」「○○の隠された真実」「○○の正体とは」。など多数で応用例も広い。この変種に、実力のないエッセイ系マンガでウンザリするほど多用される白目を剥いてビックリした顔がある。
「○○が××した結果wwwwww」「○○に世界から賞賛の嵐」「○○が××した驚きの結果とは?」「○○だった俺が××してたら△△できた」「○○したら人生変わったwww」「こういう○○してるやつwww」「××、○○過ぎワロタwww」「偏差値○○から××合格、驚異の△△とは?」など。
サンプルが適当なランキング。「百年の恋も冷める恋人のひとことベスト10」など。
具体的なアドバイスや、そのつどの感謝ではなく、あいまいな心情主義的フレーズで自分を美化し、これに合致しない相手の言動を牽制しようする。我にはあり、彼にはないという形をとる。これを身につけていないと恥ずかしいと思わせる。「大人になれ」「ガキじゃないんだから」「社会人の一般常識」「まごころ」「日本のこころ」「おもいやりが足りない」「感謝のこころを忘れずに」「おかげさまの気持ちを忘れずに」「にごりのないこころ」「純粋なきもち」「気が利かないやつだ」「おもてなし」「マナー」など。
目的を検討せず、それ自体が目的となってしまっている集団主義の賛美。「力をあわせて」「一致団結」「一体感」「こころを一つに」「みんなでひとつのものを作り上げるよろこび」「声をひとつに」「協力するのはいいことだ」など具体的でない標語で必要のない集団行動まで強要し美化する。
空疎なスローガンやイメージなどで政治を語る。「安心して暮らせる」「人に優しい」「希望の持てる」「安定した社会」「着実な成長」など。
そのほとんどが相手の発言を封じる「だまれ」や、責任回避の「 自分は悪くない」に言い換え可能。議論の切り上げに使われる場合が多い。「自由には責任が伴う」「権利には義務がともなう」「多数決は民主主義の原則」などは抑圧的な「だまれ」に、「日本人はトップは無能で現場は優秀」「自分にも表現の自由はある」「差別と区別はちがう」「戦争は政治の延長だ」などは「 自分は悪くない」に言い換え可能。
例え話のディテールの整合性などに議論の焦点がうつってしまう。インフォグラフィックスにもトピックの理解をかえって妨げるものが多数あるように思われる。
「○○代、既婚子なし。このあいだ同僚が~」「○○生まれ。学生の頃は××で△△していて結構□□していた~」など。「友人が~」「知り合いの~」「マックの女子高生」「戦争帰りの祖父」「姉の描いた絵が見つかった」などの前置きは、伝聞話法でそれらしく聞こえるようにする作り話率高し。または「女だけど~」「男だけど~」「おっさんだけど」「十代だけど」など予防線を張ったり、特別に注目してもらうための意味のない前置き。「○○の俺が○○した結果www」「ちょっと聞いてくれ」「すこし話は長くなるが~」「~で、それが今の嫁なんだ」などもほぼ創作。
周囲との会話やエピソードを使ってネットで注目されるために、本人が見たら嫌であろう事も、評価も含めてくわしく書き込む。「出来ない○○を相手にしている。××だがやる気はなく、何度言っても変わる気はないようだ。結局○○することになるだろう」「○○で××を見かけた」など。注目してもらうために話を盛ったり、創作にはしる場合もある。
いつの時代、どの場所で、どのような発言主の、どんな文脈から得た知見なのかが不明。「外国では~」「アメリカじゃ」「ネイティブは~」「アフリカ人は」「江戸時代の日本人は」「戦前の国民は」「○○人に日本の××を見せたら『△△』だって。日本ってやっぱり□□みたい」など。
「○○くらいは常識で、××がないとこれからはやっていけない」「○○ぐらいで自慢できる時代は終わった」「まだ○○を使ってる人はかわいそう」「まだ○○で消耗しているの?」「○○が大したことないという人は、せめて○○してから文句を言ってほしい」など。
排泄、生殖器、残酷な行為、変態行為などの話題を場所をわきまえないで書き込む。
勝手な病気診断。精神科医(もどき)が個人・社会を印象で語る。俗流心理学者。「なぜ未熟な○○が増えたのか」「大人になれない○○」「○○は狂ってる」「現代社会の病理」「○○を蝕む××」「○○先生案件」「お薬出しときますね」「プリントアウト案件」「人の印象は見た目が○○割」「声が印象の○○割」。「何気ないしぐさでその人の心理がわかっちゃう」など。
具体的な問題解決や実践的なアドバイスではなく、精神主義的な心構えに終始。
「○○ユーザーって××ばっかり」「○○利用者の特徴」などに反応して内輪向けのコメントを残す。
本題とは外れたところでうまい事を言って注目を浴びたいコメントのこと。
本題とは外れたところでうまい事を言って注目を浴びたいコメントのこと。
研究レベルでなくとも、好きレベルであっても自分の感覚を頼りに自分のテーマを探求している人の話のほうが概して面白い。
自分の場合はこういうのが非表示・ブロック・スルー・読まない基準になっている。項目によってはあまり重視しないものもあるが、上記コメントが多い場所には近づかないよう心がけている。たまたま好奇心に負けて引っかかっても、「ああ、またやってる」と素通りすることにしている。雑コメントに時間をとられず、義憤を無駄遣いせず、時間を有効に使いたい。
私のクラスにはみんなからバカ扱いされている女性がいる。特に話は関係はないがちょっとぽっちゃりしているものの可愛い容姿をしている。
最初はちょっとずれたことを言ってるが時々鋭いことも言ってる、程度の評価だったか今では完全にバカだと思われている。
原因は、明らかに間違えたことを言って、それを指摘された時に相対主義を持ちだして逆ギレしたからだが、
それ以上に問題だったのが、その時に優しい言葉をかけてくれた人を大げさに持ち上げて、人間は優しさが大事とか話をすり替え、結局最後まで自分の間違いを認めようとしなかったことだ。
それ以来、まともに話をしても無駄だ、という扱いを受けるようになってしまった。
バカというのは、ちょっと頭が悪いとかテストの点がとれないとかそういうことよりも、ちゃんと話が出来ない、特に、意見が違ったりちょっと間違った時に訂正できない、ということなのだと思う。
権力があれば馬を鹿といってゴリ押しすることも許されたのかもしれないが、普通のクラスの一人でしか無い彼女が言い張っても無駄であろう。
一度バカだと思われだすと、今まではズレたけどそいつなりの考え方がある、と思われていたものが、ただのバカ、で片付けられてしまうようになってしまう。
その結果、その人はクラスの人間から相手にされなくなり、自分の話を聞いて持ち上げてくれる人ばかりとつるむようになっていってしまった。
その駄サイクルの中で最初はうまく行っていたようだが、ある時その中の一人が彼女のちょっとした意見の誤りを指摘したら、彼女はまたキレた。
彼女はその人を敵扱いし、今までその人をさんざん持ち上げていたのに、一転して何でもかんでもけなすようになった。
クラスのみんなは、彼女はただ話が通じないだけでなく、自分の意見を尊重してくれるかどうかだけで相手を判断しているのだ、ということがだんだんわかってきた。
彼女の判断基準=自分のことをわかってくれる人が賢くてそうでないやつはバカということなのかもしれない。
そう思うと、ますます彼女のことがめんどくさくなってきたし、見下す気持が強くなってきた。
言葉遣いや行動が激しく情緒不安定で何をしでかすかわからない怖さがあるからいじめられはしていないようだけれど、もう誰も彼女のことをまともに扱おうとしなくなった。
ある時、クラスの人が本を読んで調べてきた話を聞いた。こういう人を境界性人格障害というらしい。
自分に都合の良い時だけはとても優しいが、そうでない場合は容赦なく叩きのめそうとするらしい。
まんがで読んだメンヘラ女ってこんな感じの人をよく見かけたが、彼女たちも恋愛のせいでおかしくなったのではなくてもともと人格障害だったのかもしれないと思うとなんだか怖くなってきた。
それ以来、ますますみんな彼女を避けて、遠巻きに陰口をいうようになってきた。
http://anond.hatelabo.jp/20140913030928
間違っている。
我々は常に間違う生き物だという前提は正しい。しかしだからといって、間違うことを正当化してはいけない。
間違い続けることで人は成長するかもしれない。だが、そんなものは本人の利益であり、間違われることで傷つけられる他人にとってはなんの関係もないことだ。
やりなおすな。リスクをヘッジしろ。ハリネズミのごとく慎重になれ。
そもそも、俺達はニュースを判断するのに値するだけの情報を、知識を、知性を、想像力をもっているのだろうか?
ウクライナとロシア、どちらに味方すべきなのか。イスラエルとパレスチナではどちらにつくべきなのか。ISへの爆撃は妥当か。スコットランド独立にはいったいどういう歴史的文脈があるのか。南京で死んだのは何人か。右なのか左なのか、どちらかであったとして、どういうふうに振る舞うべきなのか。正義とは何か。相対主義は思考停止なのか、それともそう考えること自体が思考停止なのか。知的障害者 vs. 全盲少女。
もしかしたら。すべての叡智を兼ね備え常に正しい判断が可能なオズマンディアスかドクターマンハッタンだかは何人か存在するのかもしれない。はてブにも、いるのかもしれない。だが「そういう人たち」が俺たち自身である保証はない。
認めなければならない。俺たちは地元のチンピラにすらボコられるロールシャッハですらない。衆愚なんである、と。
俺達は阿呆であるからして、日常生活を普通に送っているだけのつもりでも何人かを傷つけてしまう。
なぜわざわざ必要もない事柄に首をつっこんで、通り魔的にさらなる暴力をふるってしまうのか。安いスターのためか。馴れ合いのためか。認めてほしいからか。
承認欲求は人間を成長させるかもしれない。だがその人間的成長とやらは他人を殺してまで手に入れるべきものなのか。そもそも本当におまえは成長しているのか。正気か? はてブで誰がいつどうやって成長した? はてブで進行するのは医者の診断が必要な類の狂気だけだ。
人間性を取り戻せ。
おまえは優しいこどもであったはずだ。できるなら誰も傷つけたくないはずだ。今度こそ間違えるな。いまならまだ間に合うかもしれない。
100文字で世界は救えない。世界を少しづつ削り取るだけだ。ネガティブなベクトルであれ、何かに影響を与えることはいいことだなんてお題目は犬にでも食わせろ。それを信じたやつらがどういう悲劇を生み出してきたか、はてブ民であるなら、その目で見てきたはずだ。
11時に寝て、5時に起きろ。朝食前に軽いランニングをするんだ。会社終わりにはジムに通え。身体を鍛えろ。筋肉はおまえに知性を与えてくれはしないが、情操にはプラスに働くはずだ。
しっかり生きろ。
ちゃんと生きろ。
傍で観ていて、ああ、こういう人が60年前にチューリングを殺したんだなぁと実感した。
odakin氏がアニメファンであるということから彼を批判し、反論すれば絶交宣言をした上でセクシストでペドフィリアで性犯罪者だと罵り、あまつさえ公職から追放するべきだとすら言う。
自分を肯定する意見をRTしてリプライの形で非難し続ける。はっきり言って集団サディズムが聞いて呆れる。
こういう人が言うことは決まっていて正義だから、だ。被害者を守らなくてはいけないからこれは正しい行為、だ。
差別の直接の被害者をなくすことは重要だし社会的地位においての平等は重要だと思っていたとしてもアニメファンであればその内心にズカズカ土足で踏み込んで
「この野蛮人が!」
と言ってのける。素晴らしい正義だ。集団サディストはみんな自らを正義だと思っている。
こう言うと彼は、この意見をくだらない相対主義だと言うだろう。
ここに書いたことを彼は卑怯だと指弾するだろうが、私は寛容でなくなった彼があまりに怖いので直接やりとりは出来ない。
書かずにいようと思ったが書かずにおられなかった。恐怖にかられてさっき匿名ダイアリーの使い方を調べて今書いている。
この恐怖はきっと誰かを殺すだろう。
いえ、これは投票世代の格差の是正にもなるし、子供を持った親の政治的強さを一時的に持てるようにもなる(子供や若い世代の代弁者と言う枠組みで)し、
子供を持った親の政治的強さを強くしちゃったら、投票権の平等性は担保されないじゃん?
根本的な道徳的な心があるはずだかよ。それに何十時間も問いかけてみると良い。
人々が本当に不平等でいいのかと。実は罪悪感を感じているのかもしれませんよ。
そうすれば自然と、私の言っていることは正しいんだなぁと分かるようになるはずです。
「説教」はじまっちゃったw
君が「宗教家」だったとは思わなかったよ。
うまく両親と折り合いつけていらっしゃるようで恨めしいです。。。
もうすこし僕の家族もコミュニケーションを頻繁に取れるようになればいいのですが。。。僕にも方法がよくわからないし、めんどくさいなーって思ってるんですよね。実際。
もとい!
僕は子供を作ったことがないので実感はないのですが、確かに性欲によって子供が作られているのですし、その瞬間には理性的な思考が無い以上、その手前で理性的な思考がなされていないのであれば、何も考えずとも子供が作られることは考えられます。
主義とか思想とかは単に価値判断なので、無意識下であるか意識下であるかはあまり関係ないようにも思います。単純にどのように人間が考えて判断しているのかを僕は表現したかっただけであります。もし子供を産む前に考えるのであれば、祖父母のことを思い浮かべるのではないだろうか、もし子供を産んだあとに他の子供を見て、自分の子供とを比べてみた時に、よりよい物を与えたいと考えるのでないかと想像したまでであります。よくよく考える人もいれば、まったくと言っていいほど考えない人(そういうひとでも価値判断は確実に行なっているというのが僕の考えではあるのですが)もいるだろうという、元増田さんの仰る通りのお話であります。しかし、まったく考えない人がどのような判断を下すのかということに言及するのは、非常に難しいように思いますし、明らかに僕が力不足であります。
いずれにしましても、しっかりした思考、計画のもとで妊娠、出産が行われているのかが多いか少ないかは、僕もきちんとした情報を持っていないので、この場では正確な情報は現段階で分からないという結論に至ると思います。もちろん、増田さんの言及していらっしゃる
という点、つまり一体どこの情報であるのか、大都会でとられたデータなのか、小さな田舎町でとられたデータなのかで、その意味合いも変化してくるのだとも思いました。
それにしても、上記の発言で僕が仰るとおりだと言及したのですが、
動機や考えなんて人それぞれです。あくまで私はこうである、という話です。
この考え方は。。。
本当に倫理学を学んだばかりなので、教科書と同じことが言及されるだけで興奮します笑
と主張する人に違和感を感じているのでしょう?そうなんですよね???
もっと別の視点があるはずだ、相手が相手の倫理観、道徳観を押し付けるだけではなく、(つまり説教というコミュニケーション方法ではなく、)自分の倫理観、道徳観を聞き入れて欲しい、そうすることによって新たな、自分の納得できる倫理観、道徳観を生み出したいとは、、、
いや、思わないからこそ、匿名ダイアリーに投稿しているのでしょうか、、、いや、お思いのはずだ。ただ、別に新たな倫理観、道徳観を作り上げるまで研究に研究を重ねなくてもいい。とにかくあなたは、それ以前にどんな物語があったにせよ、子が産まれてしまった以上、子育てに対する義務感を両親は持つべきだし、子供にも教育を受ける権利や、もっと簡単に言えば、育てられるという権利があるのだと主張をしたい。そして子育てが一定程度行われないならば、子供は親を批判しうるのに、
親を否定すると叩かれる風潮
が世の中にはある。さらには、一定程度の子育てが行われたら行われたで、親の説教というコミュニケーション方法によって、私(親)の施した子育てに感謝せよ、と子供は言われる。あなたの価値観(権利観といったほうがいいのでしょうか)からしてみたら、こうした世の常識はおかしい、そう仰りたいんですよね。
もしこれが僕の妄想であってもいいんです。これは子供の権利の問題にも関わってきますね。面白い。しかし、この問題はどのように解決できるのでしょうか。とりあえずここにお書きになることによって反応をみる、ということにしているんでしょうけど、はてなでは子供の権利は理解されていないようにも見えます。これは僕の見識不足なのかもしれませんが。。。
うーん、すこし自分の勉強不足が見えてきました。どこまで子供は親に対してどこまで権利を行使することができるのか。子親関係で権利が行使されることによって尊敬や感謝は変容するのか。そうした状況下で、尊敬や感謝はどのような性質を持ちうるのか。
もっと親子関係というのは小さくなっても良いのではないか、ただただ権利と義務があるだけであるでも良いではないか。もちろんその関係が前提となって、親子互いの愛に溢れる家庭を築いてもいい。あるいは、そこまで愛には溢れないが、きちんと権利と義務の関係は保たれ、平穏な暮らしを共に歩む家庭でもいい。
右か左か、という話はいったん置いてだね。
世の中、もっともらしい体裁を備えた物語(国民国家とか男らしさとか)というのが色々とある。
それを、素直な心情として、または他の目的があって、周囲にそれを共有して受け入れろと声高に言う人がいる。
いっぽうで、そういう物語への相乗りを簡単にしたくない・できない人、というタイプもいる。
昔のインテリオタクの多くは、そういうふうに「斜に構えるマナー」、あるいは
「間違ったことをしないための、倫理としての相対主義」が身についてる人が多かったと思う。
唐沢兄のようにそれが限りなく上っ面になっていってしまった人間もいれば、
岡田斗司夫のように向き合いすぎてあまり軽やかでない路線に入っていった人もいるけれど。
ゆうきまさみであれとりみきであれ押井学であれ、だいたい既製の物語は疑うタイプだろう。
自分をひととき心地よくしてくれたり、かりそめの居場所を与えてくれるような、安易な物語を拒否する。
特にその物語が人を抑圧したり差別化することで成り立っている場合には。
そうした姿勢は、既製の物語をすんなり受け入れた人にとっては「反体制的」にうつる、ということ。
追記:
ちょうはずかしい! やだ〜! 「これはおしい」タグまでもらってるし!
まぁそれも誤解なんだけどね。実際には、彼らが言う厳格な無宗教・無神論の人間なんてほんの一握りしかいないよね。
(最近は「いただきます」の意味すらしらない馬鹿が増えてるらしいが)
実際、海外と仕事するにあたって、それなりに日本のことを説明できるようになる必要が出たので、日本人の宗教観については英語で聞かれてもちゃんと説明できるつもり。一神教と多神教の違いから入り、日本では8ミリオンゴッズだと言い興味を引き、トイレにすら神さまが宿ると信じられているという話で笑いを取り、そこから「日本人の宗教観は相対主義(relativism)に近く、仏教とアニミズムや太陽信仰がルーズにミックスした状態でどちらかというと日常に暗黙的に(implicit)存在するのだ。だから日本人はあまりあなたがたが言うような信仰の形式は持っていないが、日本の街は比較的(遠慮した言い方)安全だし、おおよそ清潔が保たれるし、時刻にも正確だし、コミュニズムは流行らなかったし、個々の人間も職業倫理が高いのだ(と私は考えている)。」という話までするよ。
日本人はとりわけこの傾向が強いのだが成功術や幸福術に対して猜疑的と言えるほどに否定・反発する風潮が広くみられる。
また、より一般的な話になるが現代人に広く見られる傾向として、絶対的価値観に対する無条件の反発のようなものも広くみられる。
ひるがえって、近代科学が知識人たちにもたらした仮説思考とは、集めた情報、持ちうる情報から検証を重ねて一定以上の確率で正しいと推論される主張を「さしあたり」支持するというものである。
だから、何もその主張を絶対的に支持するわけではないが、「さしあたっては」絶対的に支持しているような「素振り」をとっている、と言えないこともない。
そういったものに対しても、「自分の考えを正しいと信じて疑わない」「自分以外はみんな間違ってると思ってるよアイツ」みたいな言い方を平気で出来てしまうのである彼らは。
いわば、絶対性アレルギーとでも言うか、「絶対なんて絶対ない」から感じる滑稽さに近しいものを感じざるを得ない。
むろん、彼らも絶対的に絶対性を否定しているわけではなく、あくまで「素振り」であると断じてしまうことは簡単である。
しかしながら、素振りであるにしても、幸福術に対するアレルギー反応を観察していると、これは人生簡単にいく方法なんてないから簡単な方法を否定しているといった人生の構造そのものの難しさにだけ帰着できる問題というより、
もはやこれはアレルギー反応を起こす人々に特有な精神性に問題があるのだなあと私は考えるのである。
バイト先の近くのローソンに過剰なサービスを提供するありがた迷惑な店員がいるのだが、最初それは店側の意向なのかと思っていた。
通常おかしな店員がいれば他の店員が注意したり客が苦情を申し立てたりするはずで、とっくに修正されているはずであるから、店側の方針と考えるのは自然なことである。
だが、その店に通い詰めるにつれて、明らかにその店員だけ特殊であることに気づき、これは誰も注意しないだけなんだと判明した。
すると不思議なのが何故注意しないのかである。その店員がおかしいと思っているのは俺だけなのか?いやそんなはずはない。では何故注意しない?
結局導き出された結論は、誰もがそんな些細なことはスルーしているのだ。彼は法をおかしているわけでもなく、あからさまに害を及ぼしているわけでもない。ただちょっとウザイだけである。
仕方ないのだ、そういうキャラなんだから。たまには迷惑そうにする客もいるだろう。実際、おかしな顔で彼をにらんでる女性客を見かけたことはある。「なんだこの馴れ馴れしいヤロウは」みたいなw
だが、否定派の俺が見ても彼はイケメンだから注意する女性も少ないのかもしれない。結局、ハルヒじゃないが最初は「なんだこいつ」と思う人が多いだろうが
「まいっか」の精神で最大公約数的な答えに落ち着いているのだろう。思えば世の中にはGCMを計算してくれる既成のプロパガンダやプロパガンダ機能を有するサービス・機関があふれかえっている。
「こまけーこたぁいいんだよ」とばかりに様々な無数の懸念事項を隅田川に勝手に不法投棄し、東京の街は成り立っている。
表向きは綺麗に見せかけているが水中では足をばたつかせている白鳥のように、クローゼット突っ込み整理術のように、強引に人々の心のゴミを片付け、夢を見させる。
言うなれば、その延長に絶対性への拒絶反応や幸せに生きる方法に対する無条件な否定や猜疑的反発や神経症的激怒があるのだろう。
心のどこかでは幸せに生きたいと願いつつも、その思いは叶わないから「ゴミ」であって削除されなければならないのだ。彼らの中では。
そこで手っ取り早くゴミを片付けて(結局それは先送りしてるだけで片付けには成功してないのだが)夢を見させてくれる既成プロパガンダにしがみつく。
そしてテキトーに組み合わせて自分のためのつぎはぎだらけの不格好な体系をこしらえる。それが彼らの声帯なのだ。
なぜこれが深刻な問題にならないかというと人々はそれなりに幸せだと思い込むことが出来ているからである。いろいろ不平不満を表面では言いつつも、実は大して彼らは困っていない。
しかし、こうも考えられないだろうか?中には本当に困っている人もいると。あるいはまた、困ってはないがもっと幸せになりたいと願っている人もいると。
だから日本に生きる人たちは気をつけないといけない。自分がその該当者だとしたら現実から目を背けてインスタントなツギハギプロパガンダの夢を見るのは得策ではない。
そういった人たちが既成の幸福術を実践したところで、ツギハギプロパガンダの悪影響を強く受けてしまうから失敗に終わることが多いのだ。
そして明日には二の轍を踏むかもしれない人間が平気でそういった人たちをつかまえて、だから無理って言っただろと非難する。そういう構造になっているわけである。
科学を篤く信奉する我々は、彼らの永遠なるごっこ遊びを真似してはいけない。毅然とした大人の態度で、GCM計算から一歩置く必要がある。
絶対なんて絶対ないと言いながらGCMのトリコになってる彼らとは違う。科学者の言う相対主義とは、仮説思考であり、方程式の適用限界の確認である。
ほにゃらかほにゃらかだと念仏のようにとなえるだけではだめで、直接話法を使いなさい。「「おっぽれだからほにゃらかだ」と思う」と言わないとダメ。カッコつけずに括弧をつけろと高校数学で習っただろ?
常々、寛容であるってすごく難しいことだなあって思う。というか、いまいちわかっていないのかもしれない。
とづまりすこ、相対主義と寛容の両立如何の問題になるんだろうけれど、ウィキペディアでチラ見した程度で、これまたいまいちわからない。
それでもジレンマには陥ってしまっているらしい。故に、無関心な態度に落ち着いてしまうのだけれど、それが自分にとって善いことなのか、やっぱりわからない。
そもそも、自分にとって善いこととは何なのか。利己的に捉えて、同時に社会的な客観性をも踏まえて判断すべきなんだろうけれど、なんだかわけがわからない。
普遍的な善もわからないし、そもそもそんなものが存在しているのか疑問だし、わからないから相対主義に下るのだけれど、そこでもやっぱり善いことは見つからないし。
なんか寛容についての書き出しから善へと移行してしまったけれど、判断とか評価とか論説とか、決定づける行為って難しいなと思うわけで。
優柔不断な人というのは、価値基準の天秤がものすごく繊細で、些細な振動でも目盛が振れてしまうから大変なんだろうなと、どうでもいい結論のようなものに達してみたりする。
何にも考えていないために優柔不断になっている人も多いのだろうけれど。どちらも私がそうだというわけじゃなくて、一般的に。
でも、一般的な傾向を、個人の認識で述べてしまっていいのだろうか。それは本当に一般的なものなのだろうか。
共通認識を口にするとき、それは本当に関係の中で胸中している物事なんだろうか。相手も見つけられずに投げかけ続ける共通認識に、正当性など皆無なのではなかろうか。
当たり前だけど、そのとおりなんだろうな。認識が共有されるためには他者が必要で、共有されたかどうか確認するためには相手の反応が不可欠なんだ。
ポップカルチャー評論家宇野常寛「ARBはいかにもな90年代Jロック(キリ」オレ「ARBは80年代なんだが」宇野「ぐぬぬ」http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/237067
この人達勘違いしてるよ。宇野氏はポストモダニスト。歴史実証主義への深刻な懐疑が
思想形成の根底にある。
何故彼がこんな挑発的な主張をしたかといったら、歴史実証主義が現代ではもう「無力」だからだよね。
ポストモダン・フェミニストの上野千鶴子は、従軍慰安婦・南京大虐殺論争に加わった時、
なんとウヨク修正主義者を実証的に批判する吉見義明らを批判した。
上野曰く「南京大虐殺はなかった」と主張するウヨクも、あったとするサヨクも、実証主義を使って
そんな土俵でウヨク批判に実証主義者は無力すぎる。それを第三者が見たら、
「ウヨクもサヨクも同様に確からしくない」という印象を持つでしょう。
重要なのは、過去を生きた人の身になって想像しようとする気持ちと、物言わぬ「痕跡」の声に
戦後生まれのアジア人が、日本軍に殺害された被害者の声を想像して代理できるように、
宇野氏も70~90年代当時を生きた日本人として「ARB」を受容し、語ることができる。
ARBを聴いて「いかにもな90年代Jロック」「いかにもな「虚構の時代(by大澤真幸)」のロック」と感じた
彼の感想は、1個の体験的事実であって、この印象を他人が抹消することはできない。
物知り顔で「あの時代の空気は~」って説教垂れる老人は、自分の感じた空気感が正しいと
独断している事がタチが悪い。偏った体験とセンスを持つ1人でしかなくなんの根拠もないのに。
個別の事実よりも、全体として過去がどのような感じであったかを再構築する想像力が重要でしょう。
相対主義の世界で、ロックやアニメといった個々のコミュニティを正当化せずに、
色んなコミュニティを見て周り、その上でニュートラルであろうとする誠実な意思が必要でしょう。
閉じたコミュニティからの偏見剥き出しの批判に意味はないでしょう。
正しさは正しくあろうとした人物を、未来の人々が正しく判断するでしょう。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1679541.html
http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html
Sexy Zoneも、Not yetも流行ってないし、会話ですらその単語を聞いたことがない。
多分、会話にそれらの単語を出すときには説明が必要となるだろう。
それは別に流行ってない訳じゃなくて、そういったのに興味がある奴が俺の周りにいないだけだ。知り合いのツイッターで話題になってないだけだ。
結局流行ってるもの、常識とされてるもの、普通とされてるものが、それぞれのクラスターで違うってだけの話だ。
俺は去年帰郷して兄弟と会話したときにRadioheadとか宇多丸とかいう単語自体が通じないことに軽く衝撃を受けたが
そういったことはありふれてる。ちょっとくらい前に話題になった「サイコ2割問題」とそう変わらない話だ。
だから、テレビで「~が流行ってるんですよ」とか聞いても、そりゃどっかで流行ってるのかもしんないなと毎回思う。
ほんとに流行ってんのか知りたくなったら、データをどっかからググって調べるくらいすればいい。
思ったより流行ってたり、流行ってなかったり、意外な層に流行ってたり、やっぱり流行ってなかったりする。
ここ最近、韓国関連のことが流行ってますよとテレビで流れると、脊髄反射のかのように毎回ネットでは反発が起きる。
「そんなの流行ってない!」だとか「そんなの普通じゃない!」とか「そんなの常識ってことにするな!」とか。
で、これはマスコミに対するネットからの批判意識として、3%くらいは評価・共感できるものかもしれないが、97%くらいはうんざりする。
「流行ってますよなんてそもそも謳うからいけないんだ!」なんて言うのかもしれないけど
逆に、結局この人達はマスコミが担っていた「普通」や「流行」や「常識」に対する信頼を持っていた人たちなのかもしれないという気がする。
オーソリティに対する信頼とでもいうべきだろうか。
「普通」も「流行」も「常識」も、クラスターによって違うということがもはや「常識」だってことはちょっとネットを眺めれば分かるだろう。
それに従って、「普通」も「流行」も「常識」も壊れてしまった。
マスコミ、メディアが担保していた共同体幻想みたいなもの、一億総クラスター幻想がそれらを作り上げていたし、それが崩壊してしまったのだから。
じゃあ何がマスコミを殺したのだろう。
一億総中流的なものから格差社会という流れもあるが、当然ネットがマスコミを殺した。
つながりあえる環境、「真実」を知れる環境、簡単に島宇宙を形成できる環境、それが可視化される環境がマスコミを殺した。
かくして、「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も、クラスター別に存在することになった。
それに人間は耐えられるだろうか。
「ほんとう」の「普通」も「流行」も「常識」も「真実」も存在しないことに耐えられるだろうか。
だから、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じて生きることになる。
ニーチェは「神は死んだ」といった。
「お前たちに言ってやろう。我々が神を殺したのだ─お前たちと俺が。我々はみんな神の殺害者だ」と。
「我々が信じていた真・善・美なる価値基準や権威を根底において担保していたものは、滅びてしまったのだ」と。
日本人からしたら、「で?www最初から死んでるしwwwつか日本には八百万いるしねwww」ぐらいのもんで
なんで、そんなことに大騒ぎしたのか分からないところがある。
だけど、「メディア・マスコミが死んだ」というのはそれくらいの衝撃が日本人にとってはある。
その影響がじわじわと色んなところで見える。
「みんな」が思ってる一つだけ存在する「普通」や「流行」や「常識」が死んだ。
お前が言ってる「みんな」って「普通」って「流行」って「常識」って何だよってことになる。
それこそ一神教から八百万の神への改宗という衝撃が実は起こったんだということがじわじわとわかってくるだろうと思う。
その過程では、クラスター別に存在する「普通」や「流行」や「常識」や「真実」を「ほんとう」のことと信じることにしたり、
そのクラスターにおける「真実」を盲信して他のクラスターを攻撃したり、クラスター別に違うモードを使い分けたり、
クラスターの中で、あるいは他クラスター同士で「ほんとう」を定めるために対話したり、クラスターを彷徨ったり、
反動として、確固としたオーソリティや序列や権威を求めて、何かに忠誠的になったり、他者に攻撃的になったり
すべてのクラスターに通じるものとして「ほんとう」のことを提唱したりすることが、日常的なこととなるだろうし、すでになりつつある。
表面上は、まとめブログによって、youtubeの再生回数によって、徐々に「大衆」における「普通」や「流行」は担保されていくことになる気はするが
その根底では、価値観を担保していたものの崩壊が徐々に起こっている。
スピリチュアルでも、自己啓発でも、ノマドでも、愛国心でも、ライフハックでも人生の指針となってくれるものを求めている。
これらの価値観でも、宗教でもなんでもそうだが、人生の指針となってくれる価値観を求める欲望は消せないし、否定すべきでない。
すべての価値観をクールじゃないと否定したあとに待っているのは、ニヒリズムか退廃と決まっている。
「ほんとう」の価値観を求めて、匿名のコメントで殴りあうことがこれからもネット上では続くだろう。
それは価値観の衝突とも呼べるかもしれないし、対話とも呼べるのかもしれない。
やべえええええよく分からんがやべえええ俺YABEEEEEE
逃げちゃ駄目だって価値観と逃げていいっていう価値観がぶつかりまくってる
悩んでると何も出来ないフリーズしちゃう
うおおおおおおおおまじでどうしよううううううううう
働きたくねええええええええええええええええ
働きてええええええええええええええええええ
<わたし>の比類なさ半端ねえええええええ
同時に俺ほどちっぽけなものはねえええええええ
やべえええええええええええええ死にたい
でも生きたいいいいいい
訳分からん
訳分からんことだけは分かる
もうどうしようもない
どうにかしたい
どうにもしたくない
何もしない状況がたまらなくいやだ
でも何かをしようとすると途端に逃げようとする
逃げようとするとそれをとめようとする
止めようとするとストレスが溜まるうううう
やべええええええええええええええもうやべええええええええええよおおおおおおおおおおおお
そういった諸々全部くだらないけどくだらないっていうのも一つのモノサシだ。
価値観なんて糞だ「べき」なんていらないってのもモノサシの一つだ。
日本で始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。
シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。
ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範と市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範の適用の仕方を検証している。
サンデル教授はこれまで社会規範の適用されてきた社会に市場規範を適用するという最近の風潮を危惧している。
それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。
そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会の幸福への試金石になるかもしれない。
宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授はコミュニタリアン(共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手に定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。
つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義、自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。
NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授は功利主義、自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義と権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。
5章以降のカントの示した人生観やロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。
人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。
自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語を解釈している。
自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、
物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。
そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアンの正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。
サンデル教授は功利主義、自由主義、共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。
フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。
(フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])
目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。
自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。又、これは、「マズローの欲求段階説」とも称される。
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である。 自己超越者(transcenders)の特徴は
1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
9. 聡明である
10. 多視点的な思考ができる
11. 外見は普通である(very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
(自己実現理論 :wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])
フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的を認識することが重要であることを示しているように思える。
相対主義と言っても学術的な話じゃなくてもっと日常的な意味でね。要するに『人それぞれ』というセリフが好きな人の話。
料理や映画、ファッションの好き嫌いなど日常レベルの相対主義は多いけど、音楽というのも相対主義がリアルに実感できる分野だと思う。自分の好きな音楽は、徹底的に他人の好きな音楽と一致しない。例えば俺は高校時代にロックにハマったが、比較的メジャーなこのジャンルでさえ、クラスで音楽の話をできるのは一人しか居なかった。ずいぶん熱心に布教もしたが、効果は皆無だった(枕に顔押し付けて足バタバタさせたい過去)
ところで、友人に話し上手でモテる男がいるのだが、その男はノイズミュージック周辺のマニアックな音楽をよく聞いてる。ノイズくらいマニアックなジャンルは少ないだろうが、彼の周りには彼に影響されてノイズを聴き始めたという女の子が結構いる。俺には結構な衝撃だった。『そんなもの布教して、なんで大丈夫なの!?』初めて路上に出る初心者の運転をハラハラ見守ってたものの、結果的に無事故無違反の完璧な運転をみせつけられたような、複雑な気分。
しかし今ならば納得出来る。結局、彼が布教に成功したのは布教するのに充分な洗脳力を持っていた、というだけのことなのだろう。それはルックスだったり、表情だったり、声のトーンだったり、相手の話を聞く態度などが関係してるのだ。高校時代の俺はここを誤解していた。こんなに素晴らしい音楽なのだから布教できて当然だ、と。極端に言えば布教できるか否かに、音楽自体の魅力は関係ない。成功している新興宗教の教義を手に入れたからといって、演説をした上で何万人もの信者を洗脳することは、ほとんどの人にはできないように。
逆に言えば相対主義的な言説の好きな人間は、他者を洗脳する力のない、社会的弱者であるといえるかもしれない。言ってしまえばコミュニケーション力などというものは、いかに他者を洗脳できるかという能力である。幸せそうなカップルだって多かれ少なかれ、強者が弱者を洗脳してる関係である。だから『人それぞれだから』のような相対的な言説を多用する人は、本当に対象自体がマニアックすぎる場合(例えばスカトロ)もあるが、他者を洗脳する能力に乏しい社会的弱者である、という可能性も多々あるのではないか?
これが「少々動揺してるだけ」って頭オカシイだろお前w
でもお前だけじゃなく結構居るよ、頭オカシイ奴。
習慣的にそれを繰り返すうちにナンセンスなほどメクラじみた反応が染み付いた人、これが結構いる。
元々この手の人達の動機って、
相対主義と言うか
「世間はヒステリックに騒ぐから、それより賢い私達のとるべき反応は~」
っていう視点だったんだろうと思う。
あとは、問題性を指摘することが誰かの欠点や失点の指摘に繋がりかねない場合に
「世間は安易に差別性を含んだ声を上げるから、それより賢い私達は~」
ってなる。
政治や外交で言えば、ちょっと周辺国家が野心的なこと仕掛けてきた時に
明らかに喧嘩売られてる、もしくは観測気球を上げられてる場合でも、
「相手はそんなつもりはない、過剰反応はよくない」ということを決まり文句のように言う。
これを見て「売国奴」「スパイ」「花畑」って罵る声がよく出るけどそうじゃなくって