常々、寛容であるってすごく難しいことだなあって思う。というか、いまいちわかっていないのかもしれない。
とづまりすこ、相対主義と寛容の両立如何の問題になるんだろうけれど、ウィキペディアでチラ見した程度で、これまたいまいちわからない。
それでもジレンマには陥ってしまっているらしい。故に、無関心な態度に落ち着いてしまうのだけれど、それが自分にとって善いことなのか、やっぱりわからない。
そもそも、自分にとって善いこととは何なのか。利己的に捉えて、同時に社会的な客観性をも踏まえて判断すべきなんだろうけれど、なんだかわけがわからない。
普遍的な善もわからないし、そもそもそんなものが存在しているのか疑問だし、わからないから相対主義に下るのだけれど、そこでもやっぱり善いことは見つからないし。
なんか寛容についての書き出しから善へと移行してしまったけれど、判断とか評価とか論説とか、決定づける行為って難しいなと思うわけで。
優柔不断な人というのは、価値基準の天秤がものすごく繊細で、些細な振動でも目盛が振れてしまうから大変なんだろうなと、どうでもいい結論のようなものに達してみたりする。
何にも考えていないために優柔不断になっている人も多いのだろうけれど。どちらも私がそうだというわけじゃなくて、一般的に。
でも、一般的な傾向を、個人の認識で述べてしまっていいのだろうか。それは本当に一般的なものなのだろうか。
共通認識を口にするとき、それは本当に関係の中で胸中している物事なんだろうか。相手も見つけられずに投げかけ続ける共通認識に、正当性など皆無なのではなかろうか。
当たり前だけど、そのとおりなんだろうな。認識が共有されるためには他者が必要で、共有されたかどうか確認するためには相手の反応が不可欠なんだ。