はてなキーワード: スパークとは
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
……三十歳で亡くなるように繊細で、厳しい感性を持つ、地球上のすべての女性に向けて……
prologue
いま砕け散ったすべての彼ら彼女らの全員が、けっして自分以下ではなく、自分以上の精神によって成し遂げようとし、表面だけは目新しい今日という時間に内在している本質的にはポテンシャルの可能性が縮小していくこの世界に生まれる喜びを相手取った、苛烈で、疲弊し、それでも均衡を取りながらも、ある一瞬のスキを付いて世界の価値を刷新しようと繰り広げる闘争の中でくずおれていったすべての魂たちを目撃したわけだが、この敗北のすべてに共通するものがあるとすれば、それは、目に見えないものの価値が、目に見えるものの価値に負けてしまったことを意味しているのだ。微調整
人生のシンボル世界とアレゴリーの冒険(または旧式の劣悪的価値観を盲目に信奉し続けている中身の無い老若男女による日頃の盲従とその殺人——と殺される人間精神の本来の豊かさの立体的構成について)
「“あたくしは、永遠にあなたを愛するという揺るぎのない強固な意志をもってます。“
このうわべは月並な文章を注意深く読んでみたまえ。[愛する]という言葉よりも、[永遠に]と[意志]という言葉のほうがずっと重要なのだ。」
—ミラン・クンデラ『不滅』
1 - verse
宇宙全体を満たす闇。実は、そこには光もまた満ちている。
それは、真空であるために太陽の光を反射するものが無いことで、肉眼では感知できない光だ。地球では空気の粒子による反射によって、人間は光を認識出来るのである。
感情は字面上では、喜びの対義に悲しみが、怒りの対義に笑いが記されている。しかし実際問題として、この二つは同時に抱えることもある。なぜなら感情は、単一の感情よりも、もっと多くの感情と連動しているからだ。
映画を観た時に、小説を読んだ時には、その人物の感情をひとつで考える私たちの把握能力には、いまだ未知の領域が広がっている。同時に抱えた感情は、いくつもが比例や反比例の連動的であり、また相対的でもある。
人間は存在することが1で、存在しないことが0であるならば、人間は産まれた時の1から0へと向かっていることになる。生きているという状態を前方向だとするならば、一日一日前へ進むごとに、死という後ろ方向へと歩んでいるという矛盾が内在している。
そのように、史上空前の前向きさというものは、中途半端な前向きさの中にあっては、後ろ向きに進んでいるように見られてしまうものである。
ジャンケンを心から面白いと思って行う者は、たぶん、あまりいないと思われる。僕は簡単に持ち出せるツールとして、ジャンケンを使っている。
たとえばチョキの指の数が三本で、パーの指の数が四本で、グーの握り拳を半分の力で握るといったジャンケン2や、ジャンケンのその他のAnotherバージョンがあっても、それが最も面白いと思って行ってはいないことだろう。ジャンケンがこの世で最も面白いと思って満たされれば、ジャンケンよりも高次のものを発明する必要はなくなる。
それと同様に、世の中の九割以上のものが面白いと思えなくなってから、この話は始まる。それはつまり、物語が面白いと思えなくなってから、しかし同時に物語以外が面白いと思えなくなったところから始まる物語、でもある。
トロフィーを獲得することを目指すのであれば、どんなに簡単なゲームソフトのゴールでも、トロフィーは獲得出来るのだ。
人間の願いは、たった一つに集約出来る。と言うと、金や異性やその他諸々、人の数だけたくさんの夢があるだろう、とあなたは思ったはずだ。
もったいぶっても仕方がないのであっさりと言ってしまうが、そのひとつの願いとは、自分が産まれてきてよかった、と思いたいのだ。もちろん、それは一瞬のことではない。なぜなら、その一瞬は、次のニ瞬目には覆されてしまうかもしれないという不安が、常に内在しているからである。これが現在という本質自体の中にある、癒すことのできぬ不完全性である。
最初にどんな断りを置いたとしても、本来、こんなことは書きたくない。いつの世にあっても、本当のことを考えれば、好きな人からは嫌われ、嫌われるべき相手からは好かれ、招待状もなく価値を殺す人はやって来るし、招待状をいくら出しても価値を殺される人には届かないことだって多い。
往々にして悪魔は自分自身を天使だと思い込んでいるものだし、天使は引け目を感じていつでも自分を捨てようと画策している。本当のことを追えばそれは自然と哲学に近づいていき、でも僕は哲学者になりたくないし、哲学者が遺した書物に書かれているものはSNSの内側では見られないものだし、ツイッターで流れてくるものではないし、マッチングアプリのコツでもないから、SNS基準である以上の思考が溢れることのない世の中で生きることは出来なくなってしまう。
探検家にはなりたくないし、革命家にはなりたくないし、伝道師にはなりたくない。なぜなら、その肩書きという断絶によって精神の分断が発生し、無責任の肥料が撒かれ、その土には何も育たないからだ。
自分が変わらないように相手を変えようとするパワープレイの中にあって、お互いが同時に変わるという正解を見つけることなど難しい。
日本人のモラルの一つとして、危険を犯さないということを前提としている。だから、誰も言わなかったことは言えない。誰もやったことがないことはやらない。ああだ、こうだ、それはこうだ、と後からもっともらしいことを言う奴はいるけど、誰もやったことはないとか、誰も言ったことがないようなことを、言ったりやったりするということはない。
日本では個性的なことをやると嫌われる。日本でオリジナルなことをやったら協力者はいない。あらいいわねえ、と言われる程度の表現の範疇でしか成立しない。
一般の人たちの芸術観は、ふだんはいろんな壁でもって遮られている。それが協力者たちのおかげで枠がサッとはがされて、みんなの心がひらかれる。しかし多くのことは、このようなプロセスを踏めないがために、人々の初歩レベルの心はひらかれることはない。もちろん、芸術という言葉は、人間存在そのもののことである。なぜなら、命とは、生まれてきた(アウトプット)からである。
今までの社会では、すべての人がそれをはっきりと自覚するまでにはいたっていない。しかし自覚さえ持てば、そこには芸術がはじまるのである。
安心できたことのない世の中で人間精神に道をつくるような前進とは、感性を揺さぶらないがために波を立てることもまた無いといった類いによる社会権威のような安心ではなく、圧縮した密度を柔らかい感性で紐解けば空間を満たすことの出来るストリームの粒子を包んだものによって開いていくのである。なぜなら、安心できない世の中に対して、無風という誰からも嫌われなさそうな自己主張による社会的人生の流通権力は、結局、人間を排除する社会の固さにひれ伏し続けているからである。安心でさえ、安心の風が吹かなければならないからだ。
たとえその時は無風であることに安心しても、その時を過ぎればまた窒息し、社会という強制参加で誰しもの元にいつもやって来る未来に対して、ほとんど勝てないギャンブルのような傷付き方をしているのだ。
物語というのは、ガラスケースの向こうだけで収まり安心出来るもののことを言うのではない。作品の向こう側が物語であると同様に、作品のこちら側こそが物語だからである。あなたが人生という言葉を使う時、その人生は乾パンのようなすべてを削ぎ落とした最低限の生活をイメージするだろうか。乾パンと乾パンが出会って、乾パン家族にでもなるのだろうか。乾パンに味は染み込まない。精神の荒廃の目配せをしながら、社会という徒党を組んで人間を捨て、不安を払拭するのだろうか。普通とはなんだろうか、大人とはなんであろうか。それらは人間の外にあるのだろうか。そもそも日常という言葉も欺瞞であり、それがあることで非日常が生まれ、それらはまるで交わることのない別の直線のように思い込んでしまうが、日常という言葉の意味が乾パンであるならば、DVをし続ける会ったことのない両親に税金という仕送りを送金し続けるためだけの頭数の数合わせである。そのために産まれた時からあなたの脳内に刷り込まれ続ける、数々の人生認識を胸に抱きながら死を迎えることだろう、おめでとう。改めて言うが、人生とは全部である。段落
芸術と名付けられた一系統の固さが残り、その人間がその時に立ち向かったであろう、作品を超えた形なきストリームの柔らかさは残らなかったのである。そして僕たちはそれと向き合ったときに、社会での自分をそのまま変えそうにないから不快ではない、として表面を見るのである。
今の時代からすれば、これは自分の部屋に飾れるくらいに、なんでもないからいいね。その状態にあっては、たいていの美術館は5分で出ることができる。それがいつでも時代の限界だったのだ。段落改訂
そして感性とは、思考と同じくらいに姿勢のことである。思考がそれひとつであれば、姿勢というのはそれひとつの外にまで開かれているということだ。この両輪が表示するものは、画面いっぱいに並んだ細かい違いのパーツというよりは、パーツの持つ目に見えない特性である。段落改訂
そして、これこそがポテンシャルの方角を決める判断に繋がるものである。ポテンシャルが無くても、ポテンシャルへの方角が合っていれば、前に進むごとにポテンシャルへと近づいていき、ポテンシャルがあっても、ポテンシャルとは明後日の方角を向いているのであれば、前に進むごとにポテンシャルは消えていく。段落改訂
趣味的だからだ。趣味というのは自己満足だから、自他に挑んで自分自身を乗り越える、自分をも否定するということにならない。ちょっと面白いものをつくったり、変わったことをやるのはいても、¨遊び”と、”趣味”は違う。”遊び”と、”お遊び”は、むしろ正反対のものだからだ。趣味は危険を犯さない。自分によりかかっている。甘えてる気配がある。自分を敵としてやってない。強烈に自分と闘ってない。自分の好みに乗っかって自足してる。趣味に溺れるのではなく、自分と闘い、同時に他とも闘う。段落改訂
ほとんどがニューヨークやパリや海外の国なんかで発表された二番煎じ三番煎じみたいなものが多い。何だこんなもの、と言いかけて、海外のどこどこの国ではこういうのが流行っている、と言うと、見るほうも、ああそうかというようなところがある。誰もやらなかったことをやるというのは、日本じゃ絶対に認めない。
これは作品論で終わる話ではなく、この国で日々の思考を縛りつけている価値観のことである。
ゴッホの絵画は生前には一枚も売れなかった、という話を引き合いに出すまでもなく、人々の自分に対する感覚の自信は傲慢である。しかし、人生を理解出来てないのだ。1+1=2、1×1=1、納得した、僕が納得出来るってことは、これはいいものだね。しかし、IQ10の人間が納得することなど、IQ9までである。そして人生にたえず付き纏う問題の数式は、誰も解こうとしないのである。だが人生とは、往々にして1÷1=1程度には難しい。
本番には使えないその練習で埋め尽くす時間の消耗とは、なに? 消耗が人生であるのなら、解決もまた人生である。この世で起こることのすべてが人生であるように、この世で起こすことのすべては人生である。段落
人間の生活は、ほとんどのものを借りてきている。つまりは、全員が「借りてきた人間」だ。
ピカソはシステムだ、愛はシステムだ、お〜いお茶はシステムだ。このように、この世のすべてのものは「システム」である。システムは、名前が付いた瞬間から駆動し始める。このシステムを借りているのである。
システムそれ自体には、自己反省性や自己批判性が無い。日に日にすり減り、衰退し、レベルの低くなっていくパワーゲームが起こるのは、このためである。それはひとつの部類と部類の間にも起こり、ひとつの部類の中にある区分と区分や、なにかとなにかでも起こる。この世に存在するすべてで発生する。
イチローがホームランを打つこともシステムである。観客は指先ひとつ動かさずに、ホームランを打つ感覚だけを、その時に借りてくる。システムには固体と液体が存在し、それを紐解くのが感性である。固体よりも液体の方が紐解きづらい。
イチローがホームランを打つ、ということにおいての固体は、バットにボールが当たった、ということだ。そして液体は、バットの振る速さ、バットのどの部分に球が当たったのか、イチローのその試合までの日頃の練習、その時のプレッシャーなどである。
食べ物でいえば、ハンバーガーそのものは固体であるが、ハンバーガーの牛肉パテ一枚は液体である。ハンバーガーには、何が挟まっているか。肉、トマト、レタス、ピクルス、ソースなど、まだわかりやすい。それは固体だからである。
では、牛肉パテがどうかといえば、牛のどの部位の肉なのか、どのようにミンチにして他にも保存料などを混ぜるのか、あるいは冷凍する方法はどうかなど、液体なので難しくなる。
飲み物の場合であれば、それ自体がすでに液体である。いくら沢山お茶を飲んでも、お茶の葉の摘み方はわからないし、茶葉からの抽出の仕方もわからない。
そして肝心の乗り越えることは、紐解くこと、ともまた違う。乗り越える方法とは、決意である。つまり、感性によって液体までを紐解き、それを決意によって乗り越えるのである。
もし感性によって紐解き、そして乗り越えなければ、借りてきた人間であるわれわれの精神はその借りているシステムに回収され、その枠内で縮小していき、ボーリングの球を投げる人間ですらなく、ガーターに落ちないようにレーンを直線に転がることを反復するボーリングの球そのものとなって、日に日にシステムは低次のレベルに向かって下降していく。
世界の見え方は、ひとりひとりの感性による紐解きによって見えるものである。遠近法(パースペクティブ)は、人によって異なるということになる。
実際にあるものよりも多くの秩序を想定してものごとを単純化したり、大きな衝撃からとても些細な衝撃までとにかく様々な衝撃によって人間は多くのものごとを見落としてしまったり、個人が持つ関心や愛好の傾向によって視野が狭められてしまったり、人間たちが交わす言葉が歪められ適切に定義されていないことに由来して私たちの思考に弊害を生んだり、上手にまとめてしまう際に人を欺くことになったり、など様々である。微調整
この見え方が、感性の鈍感な体系的や表面的でしかなければ、そのものの本質のポテンシャルを判断することが不可能になる。言うなれば、開封されないゲームソフトのパッケージのようでもある。段落改訂
沸騰していく社会
小市民的な枠の中で、安穏な生活をして、たとえばたまにごちそうを食べて、遊びに行って、楽しいかもしれないけど、あとの日常というのは、会社に行ってせいぜいおしゃれな格好をして、夜になると酒飲んで、上役の悪口を言う程度のことで、あとはもう毎日毎日システムの中に組み込まれちゃってる。段落改訂
なぜなら大多数にとっては、矛盾を解決することではなく、長い大通りが隙間のない道であるかのように表面からは矛盾を見えなくすることが、幸福の前提だからだ。
ある人間が、自分の生活だけしか生き得ないようなら、彼は自分の生活も生き得ないはずだ。なぜなら、彼自身の生活というのが、その各々が、他の生活にも属し続けるアクシデントの連続から成っているのだから。段落
このようにしてわれわれは、目の前の温度が昨日よりも苦しくなっていることが、わからなくなってしまうのである。
社会で良いものとされている礼儀であっても、ポテンシャルを持っていない礼儀であれば、それは良いものとは言えない。同様に、ポテンシャルを持っていない褒め言葉も、けっして良いものとは言えない。罵倒や批判にいたっては悪いイメージが自動的に付くものであるが、ポテンシャルを持っている罵倒や批判は良いものである。
歳をとるということが、物理的にも、精神的にも、〜のセーフラインではなくデッドラインに近づいていくことだとしても、今はまだ大丈夫という感覚を持っている人もいるかもしれない。しかし、トラックに轢かれて腕を失ったとき、心が重くて起き上がれなくなったとき、あの世よりもこの世に Permalink | 記事への反応(0) | 18:41
俺気づいてしまったんですよね。
なんでダラダラとインターネットでいつまでもレスバしてしまうのか。
それはリアクションが期待できる状況で人間の脳がスパークするからなんですよ。
これが自然界においてどんな優位性を持つのかは知りませんが、とにかく人間っていうのはなにかをして動作が帰ってくると脳がダラダラと同じことを続けるんです。
逃げる必要がある物はソレなんですよ。
何故ならそれが人間の悪癖に由来しないなら人間は正常な判断を下せるからです。
誤った判断を下し続けるようなものから人は距離を置くべきなんです。
つまりは、雑談、いいね、アルコール、ギャンブル、ゲーム、オナニー、セックス、競争、宗教などです。
では私は旅立ちます
オイルも変えたばかりだし、ベルトやウエイトも交換してまだ1万キロも走ってない。
原因はわかる。バッテリーだな。
先輩が壊れた2stのYB-1を持っていて、修理できたら1万で譲ってくれとお願いした。
完全初心者だったが見様見真似で手を入れ始めた。
約束通り譲ってもらい、だましだまし乗っていた。
本当に金がなくて、タンク洗浄剤とキャブクリーナーを買っただけで金欠状態。
いつも悩まされていたのは、エンジンをかけてしばらくはアイドリングが安定しないこと。
だが20~30分くらい走っていると急に良い子になる。
俺は2stという言葉すら聞いたばかりの素人だったので、エンジンが温まらないと普通に走れないのだと思いこんでいた。
今ならわかるけど、アレはバッテリーが死んでいたな。
今はアイドリングストップ車用の高性能バッテリーをなんの気無しに買うようになってしまったな。
車も軽だし、バイクも110ccだし。
でも、あんなに貧乏でも歳を取ると普通に生活できるようになるもんなんだと、なんかしみじみ思っただけよ。
さて、それじゃあバッテリーの交換でもするかね。
そのあと飯くったら、ちょっと走ってくるか。
結婚を前提に同棲していた彼女が寝取られた。しかも私の友人に。
心から愛していて未来を誓い合った女性が、他の男とキスやセックスをしたという事実、そして今この夜もセックスをしているかもしれないという想像は、私の心を地獄に落とした。
一日中その光景が脳裏に浮かんでしまい、食事も睡眠も取れない日が続いた。体重は7kgも落ちた。
乗り換えられた事によって己の存在価値を全否定されたという思いに取り憑かれ、いっそこのまま消えて無くなってしまおうというところまで心が追い詰められた。
生きるエネルギーがスポイルされ寝たきりの日が続く中、私は様々なアダルトコンテンツを消費して自慰行為に没頭した。アダルトビデオでのセックスを見ることによって、寝取られの想像も必然的に起こるが、涙を流しながら自慰をした。ある種の自傷行為だったのかもしれない。倒錯した復讐だったのかもしれない。
アダルトコンテンツを徘徊している時に、ハプニングバーの存在が目に入った。そこでは社会的に関係性を持たない様々な男女が集まり、気が合えばプレイルームでセックスを行うと書かれていた。
セックスはある種の神聖な行為だと無意識下で捉えてしまっていた私は、そのような場に抵抗感があったが、女性との嫌な記憶は他の女性で上書きするしか無いという考えと、神聖な行為を淫らに行うことによって己も罪を犯し、罪を犯した彼女を許す事ができるのではないかと考え、ハプニングバーに行く決意をした。
結果、
現代の駆け込み寺!!!自己肯定感がメーターを振り切るほど回復!!!
綺麗な女性が想定以上に多い!!!(人気のない女性は男性からあまり声がかからず淘汰されているのだと思う)
たくさんキスやハグをして、愛情ホルモン「オキトキシン」がドバドバ分泌された!!!!
普段の生活では決して繋がることのできないタイプの美女が私の上に跨り、恍惚とした表情で「最っ...高...」と喘ぎ続けた。
その女性との1時間にも及ぶセックスを終えた直後、小動物のようにピュアな顔立ちと佇まいをした美女が入店してきた。幸運な事にライバルとなりそうな男性が店内におらず、すぐに私の隣に座ってくれた。女性はコスプレをすることでフリードリンクになるので、私はその女性に似合う衣装を選んであげた。普段はロングスカートしか履かないという彼女の脚はミニスカートによって露わになった。9年間運動を続けていた彼女の足はとても美しかった。しかしその美しさを知っているのは私だけだ。彼女の身体の美しさを心から誉めた。恥じらいながらも、彼女は私がその足に触れる事を徐々に許し、同時に可愛らしい吐息が漏れ始めた。そのピュアな顔立ちの童顔の美女は、ついにら私との体の密着を求めてきたので、プレイルームに移動し、熱いキスをしながらふしだらなセックスをした。私は過激で自分を快感で追い込むような自慰行為を繰り返してきたため、女性への快感の与え方も自然に習得していたらしく、「脳がスパークするほど感じちゃった..たくさんのはじめてを体験させてくれてありがとうね」と優しく抱きしめてくれた。
なんなんだこの楽園。
私はその強烈な体験の虜となり、本日で2度目となるハプニングバーを体験してきた。今度はS気質の女性に、おかしくなるほどの快感を与えられた。
なんなんだこの楽園。
たった2日のハプニングバーの体験(滞在時間は合計8時間程度)だけで私のセックス観はひっくり返った。セックスは気楽に行う事も可能であり、神聖な行為というのも幻想で、人生において大して重要な事ではないと思い至る事ができた。
まだ強がりも含まれているかもしれないが、寝取られた事も、もうどうでもいいやと思えた。
精神の健康のためにはパートナーからの承認が大切だというエントリが数日前にあったと記憶しているが、パートナーに裏切られた者はどうしたらいいんだよ、救いは無いのかよクソっ、という思いで読んでいた。
そのような思いを抱いた人は是非ハプニングバーにチャレンジしてみて欲しい。うまく運べば私のように、マイナスまで落ち込んだ自己肯定感を、メーターが振り切れるほどに満たせるかもしれない。
ただし注意点はある。恐らく、ルックスやパーソナリティが、女性からの視点で中の上以上の人じゃないと相手にしてもらえない可能性が高い。
私は2回の参加で合計3人の可愛らしい、愛しいとすら思える女性と充実したセックスをすることができたが、自分の価値を高く見てもらえるように想像力を働かせ万全の準備をして挑んだからこその結果だと思う。
ハプニングバーのスタッフ曰く、初来店の男性のうち7割は何事もできずに店を後にするらしい。
私は職業柄、女性から好感を抱いてもらえる術を考えて実行する必要があるので、それを行なってきていない多くの男性陣よりも圧倒的に有利な状況でスタートを切れたのだと思う。(それでも初参加の日は、自分なんかが果たして相手にしてもらえるのだろうかという不安でいっばいだった)
後半は自慢話のようになってしまったが、自死を覚悟するほどに追い込まれた人間が一つのきっかけで救われた話として、大目に見ていただけたら有難い。
普段から身嗜みと女性への誠実な態度を取れるように心がけてはいるがパートナーに恵まれていない男性は是非ハプニングバーに挑戦してみて欲しい。
事が上手く運べば、セックスなんて些細な事だと思えるようになり、セックスに心を蝕まれる事も減り、私のように、生きるのが少し楽になれるかもしれない。
「少し未来の古民家」を品川で公開 家が人格を持ったような空間に 大和ハウス、バンダイナムコらが「XR HOUSE」で検証
https://news.livedoor.com/article/detail/22269945/
これ電極スパークの家でしょ。
正確には電極スパークの家は古民家というよりは外観がボロ家だけどまあハイテクだったな。内装は普通に綺麗だったと思う。
記事のは外観が古民家だけど内装は和モダン(障子+デジタルのところ)が見られるな。
和風SFというジャンルがある事からも和と最新コンピューターやメカってとにかく相性が抜群に感じる。
是非ともこのような路線は追及して欲しい。
スラッシュキル 俺はサムライこの先行く手に待ち受けるものはなんだ
空にサンライズ でもマジ暗い
なら俺がぶったぎろう この先を切り裂き
とめどない自殺者 誰もみないや
助けてやろうや それが武士の心だ
俺は勇敢だ 悪に立ち向かう
金と権力その他諸々
お前ら何してンだ それが実力か
まずは一階 軽く蹴散らす
これで終わりかい?
スラッシュキル 俺はサムライこの先行く手に待ち受けるものはなんだ
話を現代に戻す
差別はまだ消えぬ
レイシストマジ消えろ
国も国だ マジなんなんだ
下への格差は埋まってねえ 俺は助けてえ貧民を
恐怖を断ち切る 悪は全てKILL
今俺はここにいる それが全てを物語る
ダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュ…
五等分の花嫁を読んでたのは数年前なので記憶があいまいだし、そもそも読んでる当時も女子がかわいいという点に集中していて、ストーリーの把握はおろそかだった者の意見として聞いてほしい。
四葉が嫁に選ばれた瞬間というのは、120分の映画でいえば90分~100分目くらいの最高潮、すべての伏線が結論にむかって収斂する場面であるはずである。連載第1話から提示されていた最も重要な謎の答えがでる瞬間である。
それでは読んだ当時のおれの反応が「なるほど四葉だったのか!!」だったかというと、なんかそんな感じでは全然なかった気がする。過去の連載でちりばめられてきたものがここで全部スパークした高揚感みたいのはなかった。
現在、五等分の花嫁は弁当屋「ほっともっと」コラボをやっているが、そのポスターを眺めていて去来する思い出というのはやはり四葉が選ばれた場面ではなく、連載中間でさまざまな女子と恋愛寸止めみたいなことをやっていた場面ばかりである。
この感想は普通なのか、なにか重大なものを取りこぼしているのかどっちだと思いますか?あなたは四葉というオチについてどう思いますか?
「スーパーモンキーズ」初期メンバーが明かす“アムロの圧倒的才能”
「(安室)奈美恵は最初、友達の付き添いでアクターズスクールに来たんです。第一印象は、色が黒くて、すごく細くて、ごぼうのよう」
そう語るのは、ダウン症の子どもたちのためのエンタテインメントスクール「LOVE JUNX」の創設者・牧野アンナさん(46)。父は、あの安室奈美恵を見いだした沖縄アクターズスクール(以下・アクターズ)の創設者で校長のマキノ正幸さん(76)。アンナさん自身、スーパーモンキーズの結成メンバーとして、安室とともにデビューした元アイドルだ。
引退後も、アクターズのチーフ・インストラクターとして、MAXやSPEED、三浦大和、黒木メイサ、満島ひかりなどを育ててきた。現在は、AKB48やSKE48の振付指導も担当。SKE48のファンからは、その厳しい指導ぶりに「鬼軍曹」「クラッシャー・アンナ」などと呼ばれている。
安室がアクターズに現れた’87年当時をアンナさんが振り返る。
「どちらかというと暗い感じで。レッスン場でも隙間に隠れるようにしているし、発声練習のときも手で口元を隠すような女の子でした」(アンナさん・以下同)
ニコリともせず、事務所の隅でモジモジする10歳の安室に、誰もがスター性など感じなかった。ところが、正幸さんは違った。安室の歩き方だけで、輝くオーラを感じたのだ。一度、帰りかけた安室を呼び戻し、母親に電話を入れ、「特待生にします。授業料はいりません」と、その場でスカウトしてしまう。
そして、正幸さんはアンナさんやアクターズの生徒たちに、「俺は奈美恵を特別扱いする。おまえたちとは才能が違う。奈美恵は絶対、スターになる」と宣言した。当初、アンナさんは、半信半疑だった。
「後になって、奈美恵を後のMAXのミーナと一緒に『ちびっこのど自慢』に出したんです。ミーナは歌がうまいと評判で、私たちの間では断トツの優勝候補でした。ところが本番になったら……」
無口で、いつも隅っこにいた安室が、ステージの上で突然、スパークした。明るくはじけて、踊り、歌った。
「驚きました。その姿に、私も『イケる!』と思いました」
歌と踊りがとにかく好きで、無類の負けず嫌い。母子家庭だった安室が、往復260円のバス代を浮かすために、片道1時間半の道のりを歩いて通っていたという話は、アクターズの伝説になっている。
「難しい子ではありましたね。まず、言うことを聞かない」
練習をサボるのではない。練習をしすぎてしまうのだ。「練習しすぎで、喉の状態がおかしいから控えなさいね」とアンナさんが言った直後に、レッスン室から、安室の歌声が聴こえてくる。慌てて、注意をしにいくと、聞かないふりをして、まだ、続ける。
「人から指示されてするのは嫌だったんでしょう。嫌なことは、絶対に嫌。何時間、説得しても、横を向いてツーッと涙を流し始める。後年、本人が言っていました。『言いたいけど、うまく説明できないから』と。言われたことが理不尽だと感じていても、それをうまく伝えられなくて。葛藤の涙だったんでしょう」
やがて、20歳のアンナさんをリーダーに安室、後のMAXのナナとミーナ、そしてヒサコ(新垣寿子さん・振付師)の5人で、スーパーモンキーズが結成された。’92年1月、5人で上京。大田区の3DKのマンションで共同生活を始め、9月には、第1弾シングル『ミスターU.S.A.』がリリースされた。
だが、すぐに売れたわけではなかった。東京のスーパーマーケットのレジ前で、パフォーマンスをしたことも。
「私なんて、胸のうちで『サイアク』と思いながら踊っていたのに、奈美恵は『歌えて踊れて、楽しかった』って、ニコニコしながら言うんです。私とは違うなと思いました」
デビュー前は、アンナさんがセンターだったが、デビュー後は、安室に代わった。
「ステージで一緒にパフォーマンスをしていると、わかるんです。観客もスタッフも、みんなの視線が奈美恵に集中する。技術も大事だけど、もっと大事なのは、人を引きつける魅力。奈美恵にはそれがある。でも、私にはなかった」
圧倒的な才能の差を目の当たりにして、アンナさんは、父の言葉を思い出していた。
《スターになるのは、才能を持った人がさらに努力した結果だ。おまえは裏方。裏方として輝く道だってある》
’92年年末。アンナさんはスーパーモンキーズをやめて、沖縄に帰った。スターになる夢はきっぱり捨て、指導者として生きる道が定まった。
「奈美恵は、できる子なのに、チヤホヤされてもてんぐにならず、もっと努力できる。あ、でも、彼女のは、努力じゃないのかもしれません。道を歩いていても、奈美恵は自然に体が踊っちゃってる。私だったら、どんなに楽しくても、『さぁ、やんなきゃ』になる。でも、奈美恵は自然に踊っちゃって、歌っちゃってる。『やんなきゃ』じゃない。それこそが才能なのでしょう」
○ご飯
○調子
マリオもいいけど他のものね、ということでサクッと始めてサクッとクリア。通して遊ぶのは2回目なのもあるし、カービィは強いからサクサク遊べて楽しい。
あと最終面にいるカービィのコピー体みたいなやついるけど、あれは何者なんだろう。
半年前ぐらいにデデデの前まで遊んでたのだけど、急に辞めちゃってたのを再開して、クリア。
面白かったー。ストーリーとかわかってなかったけど、デデデは悪者じゃないんだね、可愛い、しゅきい。
それにしても、今ではもう当たり前だけどやっぱコピー能力は楽しい。
どの能力も強いから雑魚敵をサクサク倒しながら進めるし、ちょっとした謎解きにも使えてそれも楽しい。
マリオは割と道中苦戦してボス戦はイベントって感じだけど、カービィは道中は無双できてボス戦で苦戦する感じで、同じ2Dアクションでも全然違うなあ。
一応これも好き好きランキング作るか。
とは言っても、まだ2作品なので、こんな感じ。
というわけで、早速購入してプレイ開始。
コピー能力もあるし、リック、カイン、クーの三匹の仲間と組み合わせることでそれがパワーアップする仕組みなのかな、素の数は夢の泉より少ないけど仲間との掛け算でそうとは感じなくて楽しい。
特に気に入ったのが、スパーク×カインの組み合わせ。電球を使った可愛らしい見た目だけじゃなく、全身のビリビリに加えて電球も発射できて遠距離にも対応できて楽しい。
あと調べればすぐわかるんだろうけど、仲間がいるときに仲間が閉じ込められてる袋を開けた時に出てくる中華っぽい女の子は何者? カービィの世界にアドレーヌ以外の人間のキャラいるんだ。
Newシリーズ特有なのかな、妙に滑る感があってまだマリオとアジャストできてない。
加えて、ギャラクシーのときと全く違うスピンの感覚にも戸惑ってる。
あとWiiUをテレビに繋ぐのがタルくてゲームパッドで遊んでたんだけど、2回ぐらい処理落ちして転落することがあったので、テレビに繋ごう。
そうえば昨日書いた好き好きランキング、NewDS追加する前のやつをコピペしてデグレードしてたので、戻した。
サンシャイン>ワールド>ランド2>3>1>ランド>ギャラクシー>64>2>NewDS>USA
ただこれ、NewDSが下の方の理由はコンプリートをしたときの面倒臭さが大半だった気がしてて、ギャラクシーはその辺を放置したら楽しかったから、フェアなというか、一貫性のある好き好きにしたいな。
俺もコンビニで箱で買えた
ポケカ転売騒動というか、ポケカが投資になるよみたいな話はひとまずここで終わりを迎えそうで非常に嬉しい
そしてパックをむきたい
それがイーブイヒーローズ発売の5月あたりから1年近くできていなかったので、ようやく日常が戻ってきて嬉しい
2018年11月発売のウルトラシャイニーの時は社会問題化、は言い過ぎかもしれないけど、ポケセンのビル中に列ができる様子がネットでも書かれた
だってウルトラシャイニーは箱買いしてそれを全部カード屋に持っていけば、中身の当たりはずれに関わらず必ず買い取り額がプラスになる、という話だった
過去パックは壊滅して、ポケカを新しく始めようにもなにひとつ買えない、という状況だった
それでも、ブイズGXのスターターキットや、12月発売のタッグボルトなどは、発売日にイオンに行けば普通に買えた
一週間もせずに売切れたりはしていたような気はするけど、発売日に仕事帰りに買って帰ろー、仕事はよ終わらんかなー、みたいなワクワクはあった
2019年に入ればウルトラシャイニーもぼつぼつ再版され、過去パックも再版されて、迅雷スパークを見つけてはたくさん買ったのが懐かしい
そんな騒動はもう終わったのかな、と思い始めた2019年の5月末、エーフィ&デオキシスGXの構築デッキが発売され、そこに入っているプレシャスボールを転売するだけで儲けになる、ということが起きた
お店で60枚カード買って、その1枚(プレシャスボール2枚収録だったから2枚か)をカード屋に持っていくだけで58枚のカードとお小遣いが手に入る現象
で、それから半年、ポケカ品薄はもう過去の話と思っていた2019年11月、サンムーンが終わってソードシールドが始まった
という限定セットが発売された時だった
これもまあ、発売日にポケセンには売ってたんだけど、すぐになくなった
そしてこの中に入っている限定プロモ1枚が、セットそのものと同じ値段以上で売れる、という話になっていた
おいおい、またあのエーフィデオキシスみたいじゃん、とか言っていたら
2021年4月発売の漆黒のガイスト、白銀のランスは仕事終わりじゃ1種類しか残っていない、という事態に遭遇した
あのウルトラシャイニーのころだって、発売日の仕事終わりでパックは買えたんだぞ?
どういうことだ?
と思っていたら、その次に出たイーブイヒーローズは完売でついに手に入らなかった
そこから抽選販売に申し込まないとポケカは買えないという生活が始まった
なんで改善したかというと、ポケモンのカードの封入率が上がって、女の子のイラストのレアカードの封入率が下がったらしい
女の子のイラストのレアカードが50万だかバカな値段で取り引きされるらしく、それが減ってポケモンやボールのレアカードが増えればプレイヤーには影響なく転売ヤーにだけダメージがいく仕組みらしい
スラッシュキル 俺はサムライこの先行く手に待ち受けるものはなんだ
空にサンライズ でもマジ暗い
なら俺がぶったぎろう この先を切り裂き
とめどない自殺者 誰もみないや
助けてやろうや それが武士の心だ
俺は勇敢だ 悪に立ち向かう
金と権力その他諸々
お前ら何してンだ それが実力か
まずは一階 軽く蹴散らす
これで終わりかい?
スラッシュキル 俺はサムライこの先行く手に待ち受けるものはなんだ
話を現代に戻す
差別はまだ消えぬ
レイシストマジ消えろ
国も国だ マジなんなんだ
下への格差は埋まってねえ 俺は助けてえ貧民を
恐怖を断ち切る 悪は全てKILL
今俺はここにいる それが全てを物語る
ダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュダッシュ…
エコバッグを可愛いからって何個も買ってるのって本当にセクシーなのかしら?って思うんだけど、
一瞬心躍らされるけどこれって本当にセクシーなのかしら?って
もちろんそれを使っているんだけど、
前にも何度か書いてみたりしてるかも知れないけど、
汁、
たくさん敵が寄ってくるのよ!
困ったもんでしょ?
やっぱりスーパーの袋をスパークしそうな漏れ問題がある食材を買うときは予めもう袋を買うことにしているわ。
それだとさ、
あんまり宇多田ヒカルさん級のレヴェル99まで余裕でやり込めるテトリスプレイヤーでないし
エコバッグだと順序を考えなくちゃいけないし、
少しでも傾けたら肉のルーシーがこぼれちゃったりするので
慎重に袋詰めしなくちゃいけないの。
汚れてもお寿司以外多少斜めになっても躊躇なく入れられるじゃない。
あれが私最大のメリットだと思うし、
汚れても次の人生はゴミ袋として彼らは燃えるゴミとして昇華されるわけだから、
しかも、
レジで有料で買う袋はもう一回レジに並ばなくちゃいけないのかしら?
そこもややこしくない?
だからエコバッグプラス手持ちのレジ袋を両手持ちで2丁拳銃にしててにもって、
あたかも映画のバイオハザードのポスターのミラジョボビッチさんみたいになれるじゃない。
予備袋を持っていく偲ばせておくとかも
それって予備で持っておくってことは、
もしか設楽を想定して頭の中にとどめておくメモリーの無駄使いだと思うし、
何も考えてない分空いたメモリーに夢詰め込めるって訳じゃない。
一番コスパがいいのは結局、
今日のお昼ご飯は海老天にしたいな!って思う理由でもあるのよ。
50枚入りのレジ袋を単品で買うよりも高い単価で買うのもセクシーじゃなくない?
なんだか馬鹿らしいというか、
結構滑稽というか、
そう言うこと面倒なこといっさい開放するためにはやっぱり普通にレジ袋は現地調達したほうが、
一番効率が良いのよね。
そう思ったわ。
まあ何が一番セクシーかって言うと
一糸まとわぬ姿にレジ袋を武田久美子さん方式の貝柱三点方式の水着のようにした方がセクシーだと思うわ。
そうは思わない?
うふふ。
今週はおにぎりお手製のやつです。
私思ったんだけど
おにぎらずを握ったら美味しいレシィピになるんじゃないかしら?って思うのよね。
違うかー。
なにか新しいおにぎり用のグッドスメル且つグッドテイストなフレーバーを探してみるわ。
まあ鮭に敵う物は無いと思うけど、
鮭な!ベイビー!って内田裕也さんが言ってました!
ホッツ白湯よ。
積極的に水分補給はした方が中からも潤いが潤いに与えられるわよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
圧(あっっっっっっっ)倒的に画力や構成力が進化してるやないけ。
https://comic-days.com/episode/3269754496441951198
こっちがジュウドウズじゃい!
ぜんぜん違うやろがい!
作風の癖は一緒だがぜんぜん違うやろがい!
ジュウドウズの頃から一貫した視線誘導により画面に動きを見せる作風!
だがジュウドウズの頃には動きの流れは読みやすいが、あくまで流れる動きを見せやすくすることに専念した画作り。
モーションの中割部分を見せることにより前後を想像させるスタイル。
そこから、忍極では動きの中にある一番カッチョイイ部分で画面を止めながらも構図や集中線による誘導で動きを見せている。
さながら最高のカメラマンによって手ブレ一つないパーフェクトなシャッターが決められたか如き一瞬の美。
バトルの展開は変わらず読みやすいがそれだけでなく「なぜ、漫画としてその絵を描くのか?カッコイイからだ!」がひと目で分かる。
これをお前「こんな天才を見抜けなかった馬鹿がいるらしいですよ?」だと?
ここまで育つことまで含めて才能なんじゃい!
途中経過だけで「これはのちのち高くなりますよこの株は」とかやるのは単なる山師やんけ!
展開もみてみい。
友情パワーの集大成でパワーアップすることで敵キャラに主人公的説得力をもたせて無理くりな理論を完全補強。
今までは単に最強にして天才ってだけで王子様よばわりされてる3枚目だけど強キャラってポジションやったがこのキマった顔を見てみい!
割れた子供達(グラスチルドレン)の目に映るガムテがこれじゃい!
王子様なんじゃい!
亡国の王子が滅びゆく世界に国民たちの生きた証として御旗を突き立てる姿じゃい!!!
お前らわかっとるか?
王子を演じとるんじゃ?
悪魔に唆され愛を見失った割れた子供達(グラスチルドレン)、無数に飛び交う白鳥その一羽一羽がそれぞれのオディールなんじゃい!
そのオディール達に、命を賭して愛を示す王子ジークフリードなんじゃい!
殺しという悪魔に魅入られ、返り血の中で純白の翼を心に広げ、愛を求めて死地へと飛び込むオディール達の王子様なんじゃい!
この物語が!
死線のなかに現れる一瞬の沈黙のわずか2ページで読者の脳裏でスパークするんじゃ!!!
この圧倒的パワーが!!!!!!ジュウドウズの頃にあったか!!!!!!!!!!!!!!!!!!
圧倒的成長!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
才能を評価するはよし。
だがな、それを評価する己に酔って目の前にある漫画のみかたを見失うなよ。
なんだか今日は忙しそうよ。
予定をダブルブッキングキングにダブルブッキングされてしまって、
どうしようかしら?って今更思うのよ。
私が予定を決めて入れたんじゃなくて、
ビデオミーティングしながら積極的に接客できるのかしら?って思うわ。
ダブルブッキングキングに予定をダブルブッキングされた日の晩ご飯はいつもこうよ。
だからあんまりナポリタンスパゲッティーにいいイメージがないわ。
夜飲むお酒の味が美味しく感じなかったら
疲れている証拠なので、
そんなドイヒーなときは
でもそう言う時に限って
調子良くなかったりして連敗を決め込んだりするから余計に腹が立つのよ、
とは言ってられないので、
今日はしっかり頑張るわ。
予定午前中だけが忙しいので、
午後からはまたピクミンにおつかいを出すお仕事の続きをします。
うそうそ。
ペキカン!を決め込めるように頑張るわ。
今日は手短にいきたいところだけど、
また何か現場に動きがあったら
動きがあり次第お伝えすることにするわ。
この忙しさのあまり
てーかさ、
今日の積極的な接客にせっかく挑もうと思っていた予定はあ予め分かっていたはずなのに、
なのによ、
でね
今日このダブルブッキングキングにダブルブッキングかまされた瞬間に
私の作るナポリタンが酸っぱいのはなぜなのかしら?ってよくよく考えてみると
炒めというか焼きが足りないのかしら?と言うのと
基本が分かってないとどうにも調整できないと思うし、
美容院でどうですか?って最後仕上げ終わった後後ろとか鏡で見せてもらうけど、
あの市販のナポリタンソースも酸っぱすぎるのはキツネさんの隣のブドウの話しに通ずるのかしら?
なんか私が食べてみてる自作自演のナポリタンはレトルトの市販のソースを使っても酸っぱかったりするのよね。
もうこの瞬間ダブルブッキングキングにかまされたダブルブッキングが解消されたので、
私は諦められないわ!
きっと検索でも「自作自演 ナポリタン 酸っぱい」ってサジェストされるぐらい検索しまくって
解決に至ったらいいわね。
本当になんだか私に作るナポリタンスパゲッディーは酸っぱいのよね。
酸味豊だと言えば豊かだけど
それは山川豊さんとは違うまた味わいで歌い上げたいところよね。
いつのまにかさー
知ってた?復活していたってこと。
私しばらく気が付かなくて、
キーワード録画の設定が「のど自慢」ってサジェストしまくっていたから
何週間にわたって
のど自慢の録画が溜まっているのよね。
世間は「おかえりモネ」ロスで最終回迎えてもう3週間経とうとしているのに、
私はまだ最終回まで見終わってないあと録画が30話ぐらいまで迫ってきていて、
もう3週間分録画が溜まっていて、
またぞっとする次第なのよ。
消化できないよーって
人はサブスクリプションで読みたい放題観たい放題!って言われても
もうどうにもこうにも
とりあえず、
ハードディスクレコーダーが壊れかけるラジオの徳永英明さんになる前に
全部録画しているものを観きる!ってのが私の使命でもあり使命であるわ。
なかなか骨のある使命よね。
もうダブルブッキングキングにダブルブッキングされる方が楽チンだわ。
うふふ。
サクッとあっさりズーチートムーハーがいいハーモニーを奏でているわ。
ぶち壊して違うものを味わうべく味わわないとって
だから同じ物ばかりでなく
たまには違うものも食べた方がいいらしいわよ。
って私がいまそれを決めたので、
たまには飲むと
ノンフレーバーのもイケるわー。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
『金田淳子氏の刃牙に対する主張はそれほど間違っていたんだろうか…?という疑問の日記。(anond:20210729090330)』
『フェミニストと会話する上での困難ポイント(anond:20210729143953)』
この増田の筆者はそれぞれ別人だと断言出来る。
何故なら、自分はanond:20210729090330を書いたけど、anond:20210729143953は書いていないからだ。
というか、自分はこういう攻撃的な意思が伝わる文章は他人に対しても自分に対しても、書かないし書けない。小心者なので、性格的には向いてない。
自分に書ける事は、自分の思っている事を自分の内面から引き出して書く事くらいだと思う。
金田淳子氏の刃牙に対する主張はそれほど間違っていたんだろうか…?という疑問の日記。(anond:20210729090330)
を書こうと思った切っ掛けは、今期放送されたアニメ「平穏世代の韋駄天達」の1話の感想をTwitterで調べた事が切っ掛けだった。
ネタバレになるけれど、このアニメは1話のラストで衝撃的なレイプシーンが始まった。
原作漫画はあの「ベルセルク」が連載していた青年漫画雑誌・ヤングアニマルらしいので掲載誌的にはそれほど驚く事でもないだろう。
ただ、現在絶賛二期が放送中の「小林さんちのメイドラゴン」と原作者が同じ作品という事で期待していた人にはショッキングだったと思う。自分がそうだった。
1話の視聴を終えた後、すぐさまTwitterで作品名+レイプというワードで検索し感想を調べた。アニメの感想をリアルタイムで調べるにはここが一番反応が速くて良いから。
原作未読でこのアニメを見た殆どの女性がレイプシーンに猛烈な嫌悪感を示していたと言っても何の誇張表現でも無いと思う。
それはそうだ。番組の最後でか弱い女性が複数人の男に突如性的暴力を振るわれたのだ。どうしてこれを見た女性が快い気持ちになるだろうか。
「刃牙」シリーズの最新話で範馬勇次郎が一般人に性暴力を振るった事、「刃牙」のファンである金田淳子氏がそれを見て範馬勇次郎に抗議の意思を示した事。
「勇次郎は元からそういうキャラだし今更何を言っているんだ?」という意見も多かったが、刃牙をよく熟知して居る金田氏が何故今になり勇次郎の悪行に抵抗感を持ち始めたのか。
平穏世代の韋駄天達とグラップラー刃牙への非難、そこに共通する物とは何か。金田淳子氏の「刃牙」への、範馬勇次郎への主張はそれほど間違っていたのか。
この疑問を、自分は日記に書いてみたいと思った。自分がBLやレイプに対してどういう考えでどういうスタンスなのかは、中立であるために伏せさせてもらいたい。
ニコニコ大百科に『あたまゲームスパークなの?(https://bit.ly/2V1K4Ux)』
という記事を投稿した『!?(https://www.nicovideo.jp/user/54150114) 』
というユーザーと、
はてな匿名ダイアリーに『フェミニストと会話する上での困難ポイント(anond:20210729143953)』
を投稿した増田は、同一人物かあるいはそうでなくても非常に近しい存在ではないかと自分は思っている。確信は無いので違うかもしれないが。
大体、増田についさっき投稿されて日記の中で使われた造語が増田と直接関わりないニコニコ大百科に記事として投稿されるなんて事があってたまるか。
という訳で、自分が知る限りの事は増田に開示してみた。これが今後増田が推理する上で何らかの参考になる証拠になれば、この日記を書いた甲斐もあるな…と自分は思う。
上記3つのサービスにおいてきな臭い動きが観測されたので記録を残しておく。
最近よく見られる「フェミニスト」を攻撃するための何らかの工作ではないかと疑っている。
2021年7月29日9時3分30秒、はてな匿名ダイアリーに以下の記事が投稿される。
『金田淳子氏の刃牙に対する主張はそれほど間違っていたんだろうか…?という疑問の日記。(anond:20210729090330)』
その後、この記事といくつかのトラックバックが立て続けに非公開3ブックマークされ注目エントリ入りする。
しばらく間をおいて『フェミニストと会話する上での困難ポイント(anond:20210729143953)』も同様に注目エントリ入り。
その様子は『非公開3ブックマーク記事の記録(anond:20210729100618)』でも触れている。
ハッキリ言っておくが、ごく短時間のうちに複数の記事に対して非公開3ブックマークがつくような事はまず起こらない。
しかも注目エントリ入りしたのは「腐女子」「フェミニスト」という特定のワードを含むエントリばかり。
この時点で誰か(複数人の可能性もある)が騒動を起こそうとして工作しているのではないかと疑い始めた。
また例の記事につけられたいくつかのトラックバックも炎上を盛り上げるための自演を疑っている。
最近だと弱者男性関連の話題でもこういった工作まがいの動きが見られたのでマッチポンプの可能性も否定できない。
また「金田淳子」というキーワードで過去のエントリを見てみると、このきな臭さの予兆に触れることができる。
『フェミニストと会話する上での困難ポイント』が注目エントリ入りした後の7月29日19時32分。
ニコニコ大百科に『あたまゲームスパークなの?(https://bit.ly/2V1K4Ux)』という記事が投稿される。
『金田淳子氏の刃牙に対する主張はそれほど間違っていたんだろうか…?という疑問の日記。』
はてな匿名ダイアリーに投稿された上記二つのエントリを引用する内容となっている。
この大百科記事の不可解な点は初版が投稿されたタイミングとその理由。
まずこれを書いている7月30日13時4分現在の二つのエントリのブックマーク数は以下の通り。
『金田淳子氏の刃牙に対する主張はそれほど間違っていたんだろうか…?という疑問の日記。(49件 https://bit.ly/3j4Iqtm)』
『フェミニストと会話する上での困難ポイント(83件 https://bit.ly/37nWY1T)』
いずれも100ブックマークにも満たず、はてなのごく一部でしか話題になってないような状況だと思う。
しかもニコニコ大百科に初版が投稿されたのが19時32分なので執筆時点ではもっとブックマーク数は少なくなる。
まだネットのごく一部でしか認知されていなかったエントリの大百科記事がこれほど素早く作られた理由は何なのか。
『フェミニストと会話する上での困難ポイント』も初版投稿時点では人気エントリ入り(50over)していなかったはずなので、
普段からある程度はてな匿名ダイアリーを見ている人間が大百科記事を執筆したのではないかと推測する。
ただし非公開3ブックマークしている勢力と大百科編集者が関連しているかは現時点では不明。
全く無関係の他人同士が好き勝手動いてそうなった可能性も大いにある。むしろそのほうが自然だとは思う。
とりあえずこの動きは今後も注視していくつもり。
ちなみにこの大百科記事を書いたのは『!?(https://www.nicovideo.jp/user/54150114) 』というユーザーで、
編集履歴(https://dic.nicovideo.jp/u/54150114 )を見る限りアニメ、ゲーム、特撮について書いている模様。
Game*Sparkの大百科記事編集にも参加しており関連項目に『あたまゲームスパークなの?』を追加している。
よほどこのワードを広めたいらしい。
また上記の件とは無関係だが大百科のGame*Spark記事掲示版においてこのような書き込みを見つけた。
406 ななしのよっしん 2021/07/29(木) 15:51:44 ID: mcy8SvVfNt
お前ソース見ずに語ってるだろという意味で「あたまゲームスパークなの?」と煽る人を見た
汎用性高い
『フェミニストと会話する上での困難ポイント』が投稿されてからおよそ一時間後の書き込みである。
(15:52追記)『フェミニストと会話する上での困難ポイント』投稿後わずか20分でついたトラックバック全文がこれ。
(16:13追記)『フェミニストと会話する上での困難ポイント』が初ブックマークされたのは「2021/07/29 14:44」と確認。