はてなキーワード: 震災とは
ジェンダーニュートラルの風潮に乗って様々なジェンダー語が言い換えられている。
中でも男性配偶者を意味する「旦那」「亭主」「主人」はもう絶滅種と言っていい。
アナウンサーは、インタビューで婦人に「旦那様はどんなお仕事を?」とは訊かない。
今やNHKのアナウンサーでも「夫さんはどんなお仕事を?」と訊く。
今日は東日本大震災のあった日なので、震災関連の報道が多かった。
老齢のご婦人がインタビューに答えて「津波で亡くなった主人の遺志を継いでいきたい」というようなことを語った。
当事者が自分自身の配偶者を主人と呼ぶことすらNHKは許さないのだ。
この老婦人にとって夫は主人と呼ぶべき人物だったのであろうし、この世代の人々にとって「人前で自身の男性配偶者を呼ぶ場合は自分がへりくだる」というのは当たり前の価値観である。
たとえ家庭内ではカカア天下であったとしても、ともあれ人前では、自分は夫を立てる身だというポーズをとることが彼らには自然であるはずだ。
世の中が家父長制を否定しつつあるという風潮と、ある一個人が家父長制を受け入れているかどうかは、まったく別次元の話である。
耳の聞こえない人がこの報道を見たとき、「ああ、このご婦人は主人とは呼ばず夫と呼んだ」と思うだろう。
夫という言葉には、主人という言葉に込められていた思慕や崇敬の念が抜け落ちている。
主人と呼んだか夫と呼んだかで、在りし日の夫婦の関係性のニュアンスの受け取られ方が変わってきてしまうはずだ。
主人って呼んだのに。
世の趨勢に合わせてNHKが言い換えを進めるのは別にかまわないと思う。それを迎合とは思わない。
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。
3月11日は東日本大震災が起きた日だから日本人にとっては特別な日の筈だが
テレビは先日開催されたWBCの話題だらけで殆どその事に触れてない
以前は3月11日だけでなく、その前後にも特集や最低でもニュースで触れる程度の事はしていたんだがな
結局こうやって震災の記憶とか教訓はどんどん忘れ去られていくんだろうな
今でも復興費の使われ方とか除染や処理水の問題とか被災地の問題とか原発の問題があるのに
大半のテレビメディアにとってはそれよりも野球の方が大事らしい
震災のちょっと前にデパートの女子トイレに侵入した男が女の子を殺害した事件あったよね
凶悪事件なのに日本がそれどころじゃなくなって報道されなくなったけど
「研修生」の件だってここでも話題になったし動画は今でも残り続けてるのに日本でトイレでの犯罪なんて起きてない、気のせいだ、冤罪だとか言っちゃう人はどうかと思うわ
311の地震があった当時、まだ子どもだった私は兄と父方の祖父母を亡くした。友達も亡くなった。
親戚や母方の祖父母の協力もあって大学まで進学でき、就職もしたが、あの地震と津波は子どもの私のアイデンティティに影響を与えた。
大学は関東に行ったが出身地について話すと(ああ、津波の…)みたいな反応があったし、これからもそういう印象を持たれ続けるんだろうなと思っていたし、311のことを忘れてほしくないからそれで良いと思っていた。
今でも思い出さない日はないし、地震や津波に対する意識が低いというか、当事者意識のない人に苛つくこともあった。自分だって被災するまで当事者意識の欠片もなかったのに良いご身分だとは思っている。
就職して半年くらいの頃に出張で関西の支社に行った。上司に連れられて関西支社の人たちと話して、軽い自己紹介の折、出身地とかを聞かれて答えると、
「ああ、地震とか津波があったとこ…」と言った人がいた。ちょっとデリカシーがないぞ、みたいなことを誰かが嗜めるように言ってくれてた気がする。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
あのとき声をかけてくれた人は自分も神戸の震災の被災者でデリカシーのない人に出くわしたときの気持ちは分からんでもないよ、と気を使ってくれていたのだ。
なのに私は自分が被災者だという自意識から抜け出せず、東北の震災は忘れてほしくないと考えてるくせに、他の被災者のことは簡単に忘れていた。
すごく恥ずかしく申し訳なくなった。
今はもう簡単に他人に東北の震災を忘れてほしくない、とは言えない。
どんなに限局的な災害でも、被災した人にとっては、たぶん東北や阪神の震災より大きな出来事なのだ。
私は規模が大きい災害に遭遇したから大変ではあったが今でも色んな人が気を使ってくれたり、たぶん限局的な災害では受けられなかった支援を受けられたところもあった。(被災したものの自分の努力と保険でなんとかするしかなかった人の話を聞いた)
忘れないということも大事だし、そのための活動も必要だけど忘れた人を責めたくない。忘れていても教訓が生きていればもうそれで良いと思っている。
当時高校生だった私は、とある理由で全校生徒が体育館に集まっていました。
ある時、携帯電話から聞いたことのない音が鳴り響きました。校内持ち歩き不可のはずの携帯電話は男子生徒の制服の内ポケットから、スマートフォンは女子生徒のカーディガンのポケットから、そして渡り廊下の奥の教室から、けたたましく鳴る不快な音。
そしてズズズというこれまた聞いたことのない大きな低い地響きの後に、突き上げるような揺れが起こりました。体育館という建物はバネが効いているので、観測された震度の何倍もの揺れを身体に感じていました。
女子生徒の悲鳴、頭を覆えという教師の怒号、ギシギシと動く体育館の壁、そして見たこともないくらい左右にぶらんぶらんと揺れる天井の照明、何が起こったか分からないと口を開けたままの友人の顔。
大きな揺れは収まりましたが、集会は中止になり即座に帰宅の指導がありました。地元が同じ人間は一緒に帰って欲しいと先生が言っていました。電車は動いていなかったので、電車で通っている人たちは親の車を待つことになり、しばらく校内に残っていたといいます。
この時、電波はなく、また不幸なことにこの地域だけ停電と断水が起こっていました。私たちは大きな地震が近くで起こったのだということしかわかりませんでした。
私は比較的学校の近所だったので、歩いて帰りました。雪が残る道を必死に帰りました。家に帰ると、祖母が外で近所の人たちと話をしていました。咄嗟に外に出たと言います。着の身着のままで、寒さからなのか、揺れの怖さなのか、身体が少し震えていました。それは私も同じでした。あの体育館で感じた恐怖がまだ残っていました。
家の中はぐちゃぐちゃでした。食器棚が全て開き、割れた皿はなかったものの、倒れたものが床に散乱していました。
祖母は病気の後遺症で目が悪く、なにも触らなかったと言います。私はそれを片付け、両親が帰るのを待ちました。父も母も小学校教諭でしたので、我が家にすぐ帰ることは出来ませんでした。2人とも、自分の学校の生徒をすべて家に帰し、家まで送り、その後に家に帰ってきました。
私の住んでいた県は断水が少なかったと、後から言われましたが、私の家のある地域は断水しました。そして停電も続きました。
雪国の3月上旬、オール電化だった我が家は非常に冷たく、静かで、怖かったことを覚えています。家がこんなに寒かったのだと、靴下を履いて眠ったことは初めてでした。
それまで肌が乾燥することはありませんでしたが、寒さにより乾燥し、頬が粉を吹きました。クリームを塗りなさいと親に言われたのは人生で初めてで、そこで寒いと肌は乾燥するのだと知りました。
全く暖房がないわけではありませんでした。石油ストーブがありましたが、この後どうなるかが分からないので、居間でひとつだけ点火し、大事に使おうと決めました。
父が帰宅して、仏壇用の蝋燭の火を囲み、家族4人でスープを飲みました。
その時に、宮城県が揺れたらしいと教えてくれました。父も母も私も、携帯電話の電池が惜しくてネットを見ていませんでした。電波はかろうじて復活していたようでした。
明日になれば電気は戻るだろうと、その日は早くに寝ました。何もすることができず、寝るしかなかったのです。
眠る前、ストーブの灯油を入れるために外に出ました。その時、見上げた空を一生忘れないでしょう。私の住んでいた土地は田舎で、普段でも晴れた夜は星が綺麗に見えていました。何度か旅行に行った東京の何倍も星が綺麗だなと思ったものでしたが、その日だけは違いました。星しか見えないのです。大きな星が爛々と瞬き、小さな星たちが埋め尽くし、いつもの星空とは全く違うものでした。
あんなに暗い田舎でも、明るかったのです。真に光がない夜はこんなにも星空を輝かせるのだと、心が震えました。そして、とても怖くなりました。知りたくなかったのです。こんなに星が美しいことを、災害で知りたくなかった。冷えた空気が鼻腔を凍てつかせたので、早く家に戻りました。
家に戻ると、父と母が携帯電話を見つめていました。母は手で目を覆っていました。ほら見ろ、と見せられたのはワンセグ放送でした。そこに映し出された映像を見て、足がすくみました。津波の映像でした。仙台空港が波に飲まれていく、その映像でした。私は仙台空港自体には行ったことはありませんでしたし、仙台市にもあまり行ったことはありませんでしたが、石巻や名取市閖上地区、気仙沼には何度も行っていました。仙台空港がこのような状況なら、私たちが旅行に行っていたあの場所はどうなっているのか、これはどんな被害なのか、何が起こったのか、全ては分かりませんでした。父の充電はギリギリで、それ以上は見ることができず、その日は諦めて横になりました。私はしばらく寝られませんでした。
閖上のサイクルセンターのどでかい合宿所みたいな部屋に家族4人で泊まり、その施設の飲食店で晩ご飯を食べたことが昨日のことのように思い出され、その建物は、そこの人たちは、どうなってしまったのか、怖くて怖くて堪りませんでした。
人が死んでしまうような災害だったのだろうかと、それすら曖昧でした。
情報がないというのがこんなにも不自由なのだと思ったのもこの日でした。
翌日電気が復活し、テレビの報道で津波の被害を目の当たりにしました。
あとはもう、ご存知の通りです。
断水復活までは少し時間がかかりましたが、私の地域はそんなに被害がありませんでした。建物に大きなヒビが入ったり、道路が割れたり、といったところでした。余震は続きました。
ただ、普段明るくおちゃらけた雰囲気の友人が、宮城県に単身赴任をしている父親と連絡が取れないと瞳と口の端をぶるぶる震わせて話す姿が目に焼き付いています。彼女の父親は津波で亡くなったと聞きました。
私は大学生を経て、社会人になり仙台に転勤してきました。もっと生々しい震災の話を聞くことが多くなりました。
南三陸や女川出身の子達は皆、口を揃えて言います。家は流されて実家はないのだと。仕事がなくなって仙台の街中に出てきたのだと。避難中に津波に巻き込まれて、電柱にしがみついて生きながらえたという人もいました。
私の仕事もスーパーゼネコンの施工管理でしたので、震災復興事業が主の時期でした。真新しいコンクリートの壁が海を阻みます。防波堤は高く高く、そびえ立っていました。ひび割れだらけの建物が、そこらかしこらにありました。そして、本丸と呼ばれたあの地にも行きました。人の住まなくなった家は、あんなにも朽ちるのが早いのかと今も恐ろしく思います。
なにより、この地域はよく写真展を開きます。震災前の写真、直後の写真、今の写真、それらを並べて展示するのです。私はその写真を見て泣いてしまいます。イオンの一角で、震災を知らない子供たちが走り回るイオンの中で行われていた写真展を見て、泣いていました。
今でも、その地に行くと、津波最高到達点という線が刻まれた建物があります。ここまで津波が来たぞという標識があります。
どうか忘れないで。風化しないで。思い出して。
今日だけでいいです。
お願いです。
忘れないでください。
民間の非営利団体による社会的課題に対する(時には発見するところからの)アクションにはいろいろ細かい種類がある。管轄官庁の違いであったり。ボランティア活動とイコールではないが連続していたり。そのへんをひっくるめたズバリの一語がないので、ここではざっくり「非営利団体(の活動)」と呼んでおく。
日本で「NGO」と言うとなんか国際的に活動してるニュアンスがつくし。
非営利団体の役割は、行政による社会福祉の補完であるという。近い所で、官民パートナーシップとか新しい公共といった枠組みも近年提示されているな。
行政の補完的存在というのは勿論それはその通りなのだが、枠組みとしてはごもっともでも、補完という言葉のイメージから「安上がりな下請け」と捉えられかねない危うさについては注意喚起しておきたい。
ボランティア団体やってる人で「行政のしりぬぐいをしてやってる」みたいなことを言う人がよくいる。これは「下請け」の裏返しみたいなものだ。行政がやるべきことを自分が善意で肩代わりしてやってるという意識は活動の可能性・想像力をあらかじめ縛ってしまう。
行政に従属的でも対立的でもなく、必要な連携をとりつつ自由に動いた結果が相補的相乗的効果を生むというのが一番理想ではある。
もともとの出自として地縁による互助システムの後継的存在というのも無論誤りではないのだが、非営利団体の活動って別に「助け合い」的なことに限るものではない。それもまたイメージによる桎梏の一つではある。
自分としては、非営利団体活動とは単純に社会の中の余力的なリソースをかたちにする手段の一つであると捉えている。政治行動(投票とか)、経済活動(起業とか)に並列的な位置づけのものだ。
たとえばオープンソースのソフト開発、リナックスコミュニティみたいなのがまさにその代表例と言っていいだろう。政治の論理や商売の論理とはちょっと違うルールで、人々の持つリソースを結集させて社会に役立つ形にすること。
地域の助け合いとか「顔の見える活動」「心に寄り添う活動」とか、「非営利団体活動シーン」でよく言われるそういうものばかりが非営利団体のあるべき姿ではない。
さて、あなたは非営利団体が活きるフィールドの例として災害ボランティアを挙げている。
ある意味ではほんとうにそう。民間有志の力がうまく使われれば災ボラくらい非営利活動に「向いてる」分野はないだろう。でも実際のところ、言うほどうまくは行ってない。
めちゃくちゃもったいないことになっている。
現にあれやこれややってるじゃないか、みんなの骨折りを全否定するのかと言われればもちろんそういうことではない。リソースを活かすシステム(の不在)の話だ。神戸の震災時が本邦災ボラの黎明期だとしたらいまはせいぜいが中世の暗黒時代というところだ。
まあこのことについて具体的に詳論しだしたらキリがないので…。
非営利団体の情報公開のありかたについて、ネットの鵜の目鷹の目でやいのやいの監視するのがアホらしいのは全くその通り。
DX的なことだとかの、テクニカルなフォーマット作りの議論が必要というのも全く同意。
そういう具体的方策以前のちょっと理念的な話として、以前増田に書いた記事中で「情報公開は非営利団体活動の命綱」「コンプライアンスは足かせでなく指針とすべき」といったことを述べた。
https://anond.hatelabo.jp/20221206001603
例えば、ウクライナとロシアの「情報戦」「宣伝戦」の巧拙の格差を見よと言いたい。
ウクライナはまさに「情報公開」を命綱として支援を呼び込んで戦い続けている。
(もちろん後々色々と醜いものも明るみに出てくるだろうが)
ウクライナはお涙頂戴で各国の慈悲にすがっているのではない。率直に要求を述べているし、率直さによって一定の信用を得ている。
ものすごく不謹慎な言い方になるが、ウクライナはコンテンツを生んでいるのだ。命を引き換えに、だけど。ウクライナが公開する情報は、我々にとって価値あるものだ。そこで我々は納得して支援の金を出す。
非営利団体は監視されていやいやながらに情報小出しにするんじゃなくて、攻めの姿勢で情報出しまくってそれを「売り」にするべきだ。
社会貢献的な活動に興味はあってもそれに割く時間や労力は捻出しにくいという人は多くいる。直接参加できない人が、実際の支援の現場でどういうことが行われているのかという情報を受け取った上で、活動に対する投資の意味で寄付をする。
そういう経路を作り出すことができたら「どうやって見張るのか」なんていう問題は問題ではなくなる。
個人の直接の寄付と公の補助金とはイコールではないけど、間にワンクッション入るだけで出どころはみんなの懐なんだし話の骨子はかわらない。
■ブコメ指摘「ロシアはデマ攻勢仕掛けてるだろうが!」あ、それはほんまにその通り。例え話として、持論を述べる上で都合がいい部分だけのつまみ食いになってる。ツッコミアザス
■追記
いわゆるソーシャルグッドな活動の資金調達方法としてクラファンがある。
エモいストーリーがくっついてたりしてバズったものにだけ支援が集中するのではないか、そのせいで俗受け狙いのアピール合戦になり、活動そのものも歪んでいくのではないか。同情の集まりやすい「ウケる弱者」の取り合いやウソつき合戦になるのではないか。あるいは分断を煽ることである陣営からの集金を狙う、邪悪なハックが行われるのではないか。
そういう危惧は当然にあるし、実際そういう状況は生じている。
でも、マスの生理としてそういう(エモいものに殺到する)傾向があるからと言って、世の全員がそうなわけではない。
世間的にそこまで話題でなくても、自分の興味あるニッチな分野で、何をどうしようとしてるのか具体的によくわかる(情報公開がしっかりなされている)活動に支援したいという需要だってある。
震災などで家を失った人が「かわいそうに」なんて他人に見下されるのが嫌だと言っていたが
実際は世の中の障害にあった、家族に不幸があった、病気になった人達ががんばっている姿を見て、「自分達はこういう人たちに比べたらまだマシだからがんばろう。健康なからだがある当たり前の生活があることに感謝しよう」という風潮がある
障害がある、難病をかかえている、不幸な目にあった人たち自身が「私たちはこんなにがんばってるんだから、あなたたちだってがんばれる」と言ってるならともかく
他人に勝手に見下されて「あいつより自分の方がマシだ。あいつより自分は恵まれてるんだからがんばらなくちゃ」って思われたらいやじゃない??
別に五体満足でも、帰る家があっても、金持ちでも、容姿端麗でもそれぞれの人の地獄があるんだから、それぞれの地獄にひたって「自分はなんて不幸なんだ」とネガティブにひたってもいいと思う
他人に迷惑をかけなければ、ネガティブメンヘラになっていいと思う
自分より不幸な人の姿を見て「この人に比べたら私は幸せだから、あたりまえの日常に感謝しなきゃ」なんて思わなくてもいいと思う
それぞれの地獄があるんだから、私はなんて不幸なんだ!!ウワァァァ!!ってかわいそうな自分に酔いしれていいと思う
SNSやブログにわたしはこんなに不幸なんです。と痛々しい文章をのせたり
赤の他人の時間を拘束して「わたしはこんなに不幸なんです」というエピソードトークをするのはやめよう。迷惑だから
それから親が子供に愚痴をいうのはやめよう。子供は親の都合の良いサンドバッグじゃないから。子供が親にすきなだけ愚痴をいうのはいいと思う
親とかお悩み相談をきく仕事をしている人や占い師やキャバ嬢やホストには好きなだけ自分はかわいそうポルノをぶちまけたらいいと思う
自民党を脳死で支持してたアホども喜べよ。お前の嫌いなジャップランド滅亡しそうじゃんw
えっもしかしておまえらって愛国者のつもりないよね?天皇に土下座させるべしっていってる韓国カルトの統一教会とべったりの壺自民支持しといて愛国者面しないよね?
途中民主政権が起こったが、その3年だけで少子高齢化になったわけじゃないのでね。ずっと前から叫ばれてたことだよね
民主は所得制限のない子ども手当を主張していたけど、自民は恥を知れ(笑)とか言って反対していたよね?
結果ジャップは貧しくなって産み控えが進み順調に人口は減っていきましたあ~後になって岸田が民主のパクリ政策しようとしてきたけどあの時反対してたやつらって売国奴だよね?ん?
恥を知れよ、恥を
実際に投票しているのはジャップ民族だよね?鼻をつまんで野党に入れるということをしなかったのはお前だよね?政治に興味を持たずにスルーしてきたのはお前だよね?
DD論振りかざして最後に自民選んでるんだからジャップの自業自得なんだよなあ
あっ俺は自民の少子化対策はクソだと思って(ほかにもクソなところあるけどね消費増税とかここでは割愛)自民には入れてこなかったんだけど
統一教会とべったりの自民党が日本人のための政治をしてくれるとでも思ってた?
あっちなみに俺は民主政権が誕生したときには共産党に入れてたんでwだから民主政権の時の責任(俺はそんなに悪い政権じゃなかったと思ってるね。リーマンショックと震災が重なっちまっただけ。安倍が政治は結果だと言っていたけど、ならウクライナ戦争とかいう言い訳は使わずに物価高どうにかしてみろよ岸田www結果出せよwwリーマンの時より市民生活に影響出てるよね?)なんてもんは俺はかぶる必要はないのでw
まあ、なんか、ジャップにお似合いの末路だよね
ゆでガエルになってんのに近視眼的というか、もはや感情だけで野党を投票先から排除した結果こうなってるっていうね
このまま滅びればあw
あっ俺の一票はジャップの方針に寄与してないのでwおおよそ政権に対してはNOを突きつけていたんでw
なので未来の若者たち!後世の歴史家!当時のジャップはバカばっかだなあって思うかもしれないけど、俺はそうじゃないんで(笑)そこんとこよろしく(笑)
90年代か2001年ごろまではギリギリ成立していたものの、今では難しくなってきたテーマが少なくない。
先生本人の祖父母は戦争体験しただろうけど、今の小学生の祖父母なんてもう青春時代がバブル絶頂期だったりして、戦争エピソードを捻り出すにもかなり無理しなくちゃいけない。
そういうわけで先生も妥協するしかなく、しょうがないから津波でも震災でも地下鉄サリン事件でも良いから、何か平和に関係ありそうな体験をしゃべってもらってきて、となる。
というか平和学習以前に、晩婚化が進み、パパが既に定年迎えたりするもんだから、祖父母自体が滅びていて体験の聞き取りができない子もいる。
それどころか先生のなり手が不足して授業自体が成り立たない学校もある。
さらに少子化しすぎて小学生がいなくなって学校自体が成り立たないエリアもある。
平和とは何か。
家に帰ったら父ちゃんがいて、母ちゃんがいて、じいちゃんもばあちゃんもいて、みんなでご飯を頬張りながら平和について語り合う時間。
結局あれってなんで今の俺達にとって不自然に感じるかっつうと破壊の規模が意外に小さいことなんだよな。
富野も安彦も最大の破壊は広島、長崎でそれ以上の本当の人類滅亡の破壊に関してはフィクションの世界だった。
馬鹿でかい質量をおとして主要国の首都を消し飛ばしても所詮は他人事だろと。
911とかウクライナを経てそれはある意味真実だったということもそうでもないこともあきらかになったわけで、これからのフィクションの作家はそれを踏まえて作らないといけないことになった。
シン・エヴァンゲリオン劇場版とかすずめの戸締まりとかで東日本震災をやっとなんとか消化できたわけだけど、これからはそれプラスこれなわけだ。
超一流はやりがいがあるっておもうのかな。
Twitterくんがバタバタしているので、万が一に備えてどこかにアカウント持っておこうと思い色々探してみた。
最終的に misskey.io が色々使いやすくて居心地も良かったので、しばらくはここに落ち着こうと思っている。
同じ感じで移住先や保険のアカウント確保先を探している人がいるかもしれないので、備忘録的に残しておく。
2023年2月現在Misskeyについて調べるとどうしてもエンジニアなどIT勢向けの記事が多いため、意識的に非IT勢が読めるように書いてみた。
用語などを意図的に公式の物から変えて、わかりやすさ重視で記載していくのでその点はご容赦頂きたい。
向いてそうな人
向いてなさそうな人
向いてそうな人に当てはまるなら、この先を読んでみて欲しい。
Misskeyは日本人エンジニアのsyuiloさんが開発したSNS構築ソフトウェアのこと。
Webサイトを簡単に構築できるソフトウェアとしてWordpressがあるように、それのSNS版だと思って貰えれば良い。(超ざっくり
Twitterの移住先として数年前や最近話題になっていMastodonも同様にSNS構築ソフトウェアのお仲間だ。
Wordpressと言って特定のサイトを指すわけではないように、MisskeyやMastodonとだけ言う場合は特定のサイトではなくソフトウェア自体を指す。
これを使って、いろんな人が自分のSNSを作っている。これが「インスタンス」と呼ばれる。
Discordで言うサーバーみたいな物と思って貰えればだいたい良いと思う。
それぞれのインスタンス(サーバ)にはそれぞれのユーザがいて、それぞれが別々のSNSとして成り立っている。
そしてここからがMisskeyやMastodonの特徴的な所なんだが、各インスタンスは別々のSNSとして成立しているがお互いが連携しあっている。
サーバ同士でフォロー/フォロワーの関係が作られているようなイメージだ。
なので"Aさんが作ったSNS A"と"Bさんが作ったSNS B"がそれぞれ連携している(F/F内にある関係)なら、SNS Aのユーザが SNS Bのユーザをフォローしたりすることもできる。
独立した各サーバそれぞれにアカウントを作らないといけないわけではなく、どこか一箇所住処を決めて、他のサーバのユーザさんをフォローしに行くという使い方も可能だ。
MisskeyやMastodonは同じActivityPubっていう連携ルールを採用しているので、MastodonのサーバとMisskeyのサーバの間でも上記のようなことができる。
少し前のニュースだと、いずれTumblrがこの仲間に入るらしい。
基本的にはTwitterライクな時系列順に投稿が流れていくタイプのSNSと思ってもらえれば良い。
その中で今のTwitterと特に異なる点をいくつかご紹介したい。
これはMisskey/Mastodon共通の仕様ではあるが。
前述の通り、これらのソフトウェアを使ったサイトはそれぞれが独立したSNSとして成り立っている。
その各SNSサービス内の全ツイート(とあえて書く)が見れるのがローカルTL(LTL)だ。
おそらくMisskey/Mastodonのユーザの大半はここを見ていることが多いのではないだろうか。
登録したてでテストツイートをしたら、フォロワー0なのに速攻で反応が来てびびった…みたいな話があるが、理由はローカルTLに流れてきてみんなそれを見ているからである。
連合TL(またはグローバルTL)は、前述の連携しあっているサーバのツイートが全て流れ込んでくるTLだ。
凄まじい濁流なのでおそらく追いきれないことが多いと思うが、他所のサーバのユーザやそのツイートも見ることができる。
通常の各種絵文字に加えて、[いいね]とか[おはようございます]とか[偉業]みたいな組み文字スタンプ、果ては[レターパックで現金送れ][はすべて詐欺です][官営八幡製鉄所]みたいななんだこれっていうものまで。
misskey.ioでは風呂に入った報告をすると何故か[偉業]スタンプが大量につくのだが、なんかこの感じに初期のTwitterみを感じて楽しい。
同時に、ツイートの公開範囲をフォロワーのみ、ローカルTLまで、グローバルTLまで と毎回設定することが可能だ。
つまり、Twitterでいう鍵垢とオープン垢を1つのアカウントで両立させることができる。(もちろん誤爆注意だけど)
オープンのツイートでも、投稿の本文を隠す(CWというらしい)機能が存在している。
ふせったーとか使って配慮するタイプのものも、ネタバレに配慮しながらツイートできる。
Twitterでは画像は4枚までだが、Misskeyだともっと沢山添付できる。
そして音声ファイルやその他形式の物も、単体で(動画などの形にせずに)添付が可能だ。
さらに添付ファイルは1つ1つ個別に閲覧注意の設定ができるので、えっちなイラストとそうじゃない物を一緒にツイートしても片方は見せたまま・・・みたいなことができる。
さらに添付したファイルはユーザそれぞれに与えられた数GBのストレージスペースで管理される。
フォルダを作って整理したり、ギャラリーとして公開したりもできるので絵師さんなど創作をされている方には便利かもしれない。
選択肢が大量に設定できるアンケートや、Markupでいじれる文字装飾、そしてプロフィール設定からネコチャンになれるなどなど、おもしろ機能が盛り沢山。
Mastodonの開発者はTwitterがだいっきらいだという話だけど、Misskeyの開発者shuiloさんはツイ廃らしいので、その辺がソフトウェアの色の違いなんだろう。
あと流石に限界まで使う人は見かけないけど、一応文字数限界は3,000文字に設定されている。
繰り返しになるがMisskey本体はあくまでもソフトウェアなので、SNSとしての運営はサーバの管理者それぞれが行っている。
だいたいは個人運営なので企業運営サービスのような手厚いサポートは受けられないし、私財の持ち出しで運営されているところが多いと思うのでスペックや挙動にはあまり大きな期待はしないほうが良い。
ええんやでの心で応援しつつ見守るくらいの気持ちで利用すると穏やかに過ごせると思う。
また連携している他所のサーバのユーザをフォローはできるが、アカウントを知っていないと見つけることは難しい。
(前述の通りグローバルTLは超濁流なので、そこから見つけるのは至難の業だ)
基本的にどこかのサーバに入って新しいコミュニティで知らない人たちとワイワイする感じになるので、Twitterで仲の良かった特定の人と話したい場合は一斉に移住するか相手のアカウントとサーバを把握しておく必要がある。
よっぽど壊滅的なことが起きない限りは、おそらく自分はTwitterと両方を運用する形になると思う。
ただmisskey.ioのTwitter初期的な緩い感じや、Slackライクな絵文字でリアクションがガンガンくる感じをとても楽しんでいる。
もしこの増田で興味が湧いたら、ぜひどこかのインスタンスにアカウントを作って体験してみてはいかがだろうか。
他に行き先の選択肢ができると、Twitterくんの色々への憤りも少し収まるんじゃないかな。
おれの死んだ爺さんはウクライナで強制労働させられていた。あの世代は同年代は全員幼馴染で、同業者で、一生ご近所さんだから
全員が全員を下の名前にちゃん付けで呼んでたしプライベートのどんな些細なことも筒抜けだった。
今のジジババは戦後生まれの団塊で、個人的に親しい同士はベタベタに親しいが、そうでない同士は関わりなしに暮らしている。
で、現おっさんの俺世代になると二軒隣の家族構成は正確にはわからない。
「田舎は良くも悪くも人間関係が濃いから」みたいなの、どこの世界の話かなと思っていつも聞いている。
もちろんそういうムラもどっかにはまだあるんだろうよ。
ただ、移住者の方から「田舎はそういうとこだから頑張って溶け込まなくちゃ」って必要以上に関わって行って、めんどくせえジジイとかに自分から関係持っちゃってる面もあるんじゃないかと思う。
うちの近所に福島から震災を機に移住してきて一人で細々と有機農法やってるあんちゃんがいる。俺はたまたま会えば会釈くらいするが親しくなる気もなければ邪魔する気もない。
他のジジババとかもみんなそんな感じだ。
ふむふむ。5回読んでなんとなくわかってきた。
朴は朝鮮人の無政府主義団体である黒濤会を結成して中心となっていたが、大正天皇の写真を壁に張り、ナイフで刺したのを尾行の刑事に見られたことから、関東大震災後の1923年9月3日に金子とともに検挙され、上海から爆弾を入手し天皇暗殺を計画したとして1925年10月20日に起訴された。
1923年9月1日に起きた関東大震災の2日後、戒厳令下に朝鮮人が民衆によって私刑を受けた
震災後の混乱期に、朝鮮人無政府主義者・朴烈と愛人の文子が治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙され、東京淀橋警察署に連行された。
当時の警察・司法当局は、かねてから朝鮮民族主義と反日運動を主催してきた
朴烈が「朝鮮人暴動」を画策し、爆弾テロを企図していたとして、
朝鮮人殺害に対する国際的非難を浴びた場合の弁明や私刑に参加した日本人が起訴に至った場合の情状酌量を与える大義名分とすることで事態を収拾する
ことを計画していた。
阪神大震災は笑えた!
死者1000人ごとにカウントしてたのってオレだけ?(よっしゃー2000人突破!よーし次は3000人突破しろーって)
でも結局は6000人しか死んでねえんだよね。全然、騒ぐほどじゃないし。
阪神大震災は笑えた。まじで
ニュースで知って、手を叩いてわらったなぁ。
アホだなーこいつらって思いながら
でも阪神大震災のおかげで何かしらの利益を得た人だっている訳だし結果的には良かったんじゃないかな。
たしか知事や市長が自衛隊の救援要請を渋っていたけどさ、あそこらへんって部落が多いからそのまま全滅させたかったんだよね。
今でも仮設住宅に住んでるやつがいるらしいけど、せこいんだよ!俺らの税金なんだよね。むかつく。
ところで震災直後はあいつらってトイレどうしてたの?もしかして野グソ?汚ねぇなぁー。
どちらにしろヘリからの映像はまさに温泉町のようで壮観だった!
気持ちの良い夕刻でした