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2023-02-03

失笑してしま

ここ2年くらいかな、失笑するくせがついてしまった

自分でも謎すぎる

シリアスなのがトリガーなわけでもなく

何かの感情と笑いが結びついてしまってるような

 

例えば女性におねだりされた時とか失笑ちゃう(嘲りの気持ちはない)

あと震災動画見てる時に悲しみと共に失笑してしまった

 

なぜ失笑なのか、

たぶん脳の中で違和感なければ笑えてしまうんだと思うけど、抑えるから実施になって変な顔になる

うーんわけわからん

失笑恐怖症かな?

2023-01-30

自殺しきっておけば

13歳の頃、鬱で自殺しようと思った

だけど震災のせいでなんか死ねなかった

そっから人生、やっぱおかしかった

自分死にたいと思った事はやっぱり間違ってなかった

死のう

増田は俺に反撃のチャンスをくれた

最近、何をするにしても怯えていた

Youtube無断転載のせいでオリジナル動画収益剥奪された

Twitterアカウント愚痴を吐いたせいで永久凍結された(Twitterが生んだストレス

もう外界から情報を受け取って何かを感じることさえ怖くなっていた

怒ったら負け、怒らされたら負け、悲しんでも負け、苛つかされても負け、そう思わなくてもそんな状況に陥るのが負け

でも増田に来てからは、また情報を得るのが楽しくなってる

何故なら、受け取った情報を必ずしも好意的解釈しなくてよくなくなったからだ

悪いなら悪いなりに、どう悪いのかを流布すればいい

増田で得た不快画像が出てこない時点で取るに足らないレベルだが)は増田で返せばいい

自分Twitterで嘆いてたのは単純に見た目が気持ち悪い人間気持ち悪いと吐いていたのがほとんどなので、そういった類いのストレス増田では起こらない

文章によるストレス文章で返せば良い

Twitterクソリプ文化が根強すぎた

特にオタク特有テンプレ画像リプなんかがそれだ

最近増田のおかげで情報に触れるのが楽しい

すぐ増田に話せるし、共感性の高いものはそれなりに言及される。

震災きっかけにはじめたTwitter以来、12年ぶりに落ち着く場所に行き着いたと思う

anond:20230130091654

犯罪率は男性の方が確かに高い。性犯罪過半数以上が男性によるものらしい。

だけど逆のベクトルは、男性性犯罪リスクと考えるのは、なんか奇妙だと思う。ううーん

例・

震災当時被ばく者はほとんどがフクシマ関係者だった。そんな中で…

都内寿司屋被災者の方の入店はご遠慮ください」

これが同質のおかしさだ。被災者からといって被ばく者とは限らん。

リスクゼロにするなら確かに断るしかないが。しかし実際にそんな非道な振る舞いをした寿司屋はないだろう。イヤなら客自身があらゆる外食を避ければいいだけ。シンママも同じ。

2023-01-27

anond:20230127171031

なぜですか?

人間はあらゆるものに興味をもっておくことはできないし、震災ロシアなどもっと悲惨なことはいっぱいありますよね。

言い訳ではなく無関係であり今後とも興味を持つことが不可能なので今後も何らリアクションはとらないとおもいます

それよりこうやって何の関連もない他人に興味をもてだのやさしさをもてだのを他人にしつこく強制することこそ脅迫であり今回の悲劇のもとになった行動なのであなたこそSNSでの粘着行為を今すぐやめてください。

anond:20230127163822

そもそもその先のタイミング温泉に行けるかわからないのに?

今行けるから検討するんでしょ

来年行こうとか考えて震災が来たら2度といけないとか想定できるよね

年齢上がるまで親子共々生きてるかわからいからなるべく早く多くのことをしたい・してあげたいのは理解できない?

2023-01-23

anond:20230121232346

パッと思い浮かぶところだとこんな感じかな

資金の準備とアメリカへの影響力確保
日本政財界への影響力確保
日本投資環境改善IT技術者の発言力向上

2023-01-22

anond:20230122134254

左派言論劣化要因

被害者弱者ポジションにかまけて言論力が落ちた

民主党政権の失敗及び挫折

震災ウクライナ戦争という現実危機に際して左派が全く機能しなかった

・ラディカルフミニズムへの接近

安倍政権長期化に伴う孤立先鋭化

あとなんかあるかな

2023-01-21

コロナ歴を作って欲しい

コロナ元年 2020年 令和二年

3月くらいかコロナ世界拡散する

ステイホーム開始

 

コロナ歴2年 2021年 令和三年

オリンピック一年遅れで始まる

ワクチン接種が始まる

 

コロナ歴3年 2022年 令和四年

各国行動規制緩和

ウクライナ戦争が始まる

中国ゼロコロナ政策続行

株価暴落

安倍晋三が撃たれる

 

コロナ歴4年 2023年 令和五年

国内行動規制緩和

 

2010年代って平和で何も覚えてないんだけど

コロナ歴は結構記憶に残り続ける気がする

 

ーーー

 

最近「あの出来事って2年前だっけ?3年前だっけ?」って考えるときコロナ元年からストーリーを頭で追ってる

例:まずコロナがあって、自粛になって、そのあと7月に歯の矯正始めて、次の年にワクチンがはじまりオリンピックがあって、その後戦争が始まったのが去年だから、歯の矯正初めてのが3年前の7月から今2年半かー

これを「歯の矯正初めたのはコロナ元年の7月で、今は4年だから、今度の7月で3年かー」となると良い

 

震災は覚えてるよ、でも「2011年からもう12年かー、じゃあ小学生って生まれないんだな」と考えると脳が破壊されるので忘れることにした

 

え、コロナの19って2019の19なの??

マジか、もっと第19使徒みたいな感じかと思った

 

令和何年って見るたびにコロナから何年かーって分かるの呪いみたいだな

2023-01-18

医療現場のひっ迫ガー」とかいう前にただの発熱やのどの痛みで病院行くのをやめろよ

コロナ以前からインフルエンザでいちいち病院に来るな」というのは医療現場から何度も提言されてたのに

会社が求めるから」とか「万が一大変な病気だったらどうするんだ」とか言い訳して無視してきたのがお前らだろ

医療現場心配ならいちいち病院行くな。水も飲めないほど衰弱してるわけじゃねえんだろ。

救急車など言語道断

軽症であればインフルエンザ心配から病院に行くのはおすすめしない - NATROMブログ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/natrom.hatenablog.com/entry/2019/01/30/113000

インフルエンザで「早めの受診」は間違いです!(新潮社 フォーサイト) - Yahoo!ニュース

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180131-00543278-fsight-soci

レ点🧬 on Twitter: "某ウイルス検査に限らず、インフルエンザ救急受診震災地域甲状腺マススクリーニング人間ドック腫瘍マーカー議論を聞いていると、日本人には「アウトカム改善寄与しない検査は行う必要利益)はない」ということは永遠に理解できないのではないかという気がする"

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/m0370/status/1231051940903043072

インフルエンザについて,救急外来より愛をこめて

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20191207173529

anond:20230118091335

12歳なら2011年生まれでは?震災と無縁とは?

12歳まで東京で、震災と無縁で生きてきたというのも大きいか

中部地方在住だと阪神淡路大震災東日本大震災もふんわり体験なので忘れやしないけどなんか微妙な感じ

中部地方ってかぶっちゃけ愛知県民なんだけどさ。

阪神淡路大震災の時、住んでいるあたりの震度は確か2か3だった。

やべー速報映像を尻目に登校し、クラスメイト

「起きた?」「いや寝てた」「信じらんねー」「高速倒れてるのビビったよなー」

みたいな能天気な会話をしたはずだ。

俺にはたまたま兵庫在住の親戚がいたので、震災の翌週末だったかな? お見舞いに行ったのだが、具体的に何駅だったか忘れたが、電車がギリ動いてた駅から親戚の家まで3時間とか歩いた。

歩く途中で見た瓦礫の山は流石に忘れられないし、親戚の家・家具にもそれなりの被害があって大変そうだったが、本人たちは元気だった。

あと、同学年で一人か二人、親戚がお亡くなりになったみたいな奴がいた気がする。

俺にとっての阪神淡路大震災とは、決して忘れることは無いが、その程度の思い出である

らくだが、直接の家族・親戚がお亡くなりになったとか、あるいはもう働いていて関西支社・支店とか取引先がどうこうとかいうような人を除いて、大多数の愛知県民にとっての阪神淡路大震災ってこんなもんだと思う。

一方、東日本大震災はどうか。

確か震度3だったと記憶しているが、ちょうど仕事の休憩中で、取引先の営業マン

「今のけっこう揺れましたよねー」

とか話していた。個人携帯仕事中に見られる環境じゃなかったし、テレビもない場所だったから、まったく情報を把握していなかった。

夕方になって事務所に戻って、その時初めて「やべー地震だったんだ」と知った。

その後、主にニュースで流れたショッキング映像の数々や原発関連のあれやこれやは、10年以上経ってもそれなりの生々しさと共に思い出される。

東北の支社が大変だけど素人が行ってどうこうできる状況じゃないから、まずは自分たち職場東北の分まで働こうみたいな訓示があったような。

既にTwitterとかはあったか東北在住の知り合いにカンパしたりした。いきなり連絡つかなくなって、多分お亡くなりになったのであろう知り合いもいた。

俺にとっての東日本大震災とは、決して忘れることはないが、その程度の思い出である

今年、主に関東東北方面東日本大震災被災者にとって阪神淡路大震災はもう忘れられてるというか震災東日本大震災みたいな投稿を何件か見た。

中部地方在住俺、どっちも忘れてないし被災された方はそれぞれ大変だったよなあと思うのだが、身の回りでどっちも大した被害もなく過ごしていたので、なんか微妙な感じ。

万が一にでも起きてほしくないが、南海トラフって生き残れた場合には、俺の中でも震災南海トラフということになるのだろうか。

anond:20230118011244

広島8月6日まれ長崎8月9日まれもこんな気持ちなのかも。

仙台福島にも3月11日まれはたくさんいる。

12歳まで東京で、震災と無縁で生きてきたというのも大きいか

東日本大震災当日に産まれた

今日東日本大震災の日を気仙沼で過ごした方の投稿を見てふと思い出したことがある。

私は2011年3月11日東日本大震災の当日に産まれた。

ただ、産まれ場所大阪でその後12年間を府内で過ごした。

12歳になった頃、親の転勤で宮城県気仙沼市に引っ越した。

LINE交換をする際にアドレス帳誕生日登録することがよくあったり、QRコードLINEを交換すると自分で設定した誕生日がそのまま向こうにも登録されることから相手自分誕生日が伝わることが多々あったのだけれど、私が2011年3月11日に産まれたことを伝えると、皆口を揃えて「震災の日!?」と驚いたような反応をしていた。

その後驚きは好奇心に変わるようで、どんな状況で産まれてどうやって震災を乗り越えたのかを矢継ぎ早に聞いてきた。

私はその度に申し訳ない気持ちになりながら「産まれ気仙沼ちゃう大阪や。」と答えていた。

すると相手は突然興味を失い「んだらば」とか「なんだもねえ」とか言ってこの話を終わらせた。

他の誕生日の人は「〇〇と誕生日近いっちゃ!」とか「有名人で誰と誕生日一緒?」とか言われてるのを見ていたから、中学生だったこともあって毎度少しへこんだ。

これは大人たちも同様いやむしろ私にしてみればもっと冷たく感じられて、私が誕生日を伝えたあとに大阪出身であることを伝えると、「んだばえがっだべ」のような、震災過酷さを身をもって知っているからこそ、知らない者を部外者として扱うようなニュアンスの反応がよく返ってきていた。

どう表現したらいいかからないがとりあえず、私の身を案じて「危ない目に遭わずに産まれることができてえがっだべ」と言ってくれている感じではなかったのだった。

さっき読んだ投稿にもあった「しあわせはこべるように」という曲は転校先の学校でも毎年歌われており、その後黙祷を捧げるのがお決まりだった。

そんな空気から、登校しても他の友人たちと全く同じようには祝ってもらえず、なんかしんみりした誕生日を毎年過ごした。

もちろん、誕生日ではなくて私自身の問題で友人たちのように祝ってもらえなかった可能性もあるかもしれないけれど、、、

それにしても、12歳になるまでの誕生日は周囲からの邪気のない祝福も含めてクリスマスと同じくらい明るく楽しい日だったのに、12からの数年間は全く違うものになってしまったと感じていた。

こんな体験を重ねるうちに、私は極力誕生日他人に伝えないようになっていった。

最初から大阪で産まれたので震災とは関係あらへん」と言えればいいのだが、誕生日を聞かれただけなのに「大阪まれであることも自分から伝えるのは嫌な奴だと思われそうでできなかった。

当時すでに、東日本大震災被災者のことを思えばこんな感情を周囲に吐露することも憚られるだろうという分別も流石につく年頃だったので、今までずっと誰にも話さずに生きてきた。

18歳からまた大阪に戻ってきたので、しばらくそんなことも忘れていた。

今日読んだ投稿で当時のことを思い出し、「震災がなければ一緒に大人になっていたかもしれない人の存在をふと思うことがある」といった主旨の文言を見て、「あの時の大人は私との会話の中でそういった人たちを思い浮かべてたんやろなあ」とひとり合点した。

なんとなく書き留めておく。

阪神淡路大震災当日に産まれ

今日阪神淡路大震災の日を神戸で過ごした方の投稿を見てふと思い出したことがある。

私は1995年1月17日阪神淡路大震災の当日に産まれた。

ただ、産まれ場所東京でその後12年間を都内で過ごした。

12歳になった頃、親の転勤で兵庫県神戸市に引っ越した。

メアド交換をする際にアドレス帳誕生日登録することがよくあったり、赤外線通信メアドを交換すると自分で設定した誕生日がそのまま向こうにも登録されることから相手自分誕生日が伝わることが多々あったのだけれど、私が1995年1月17日に産まれたことを伝えると、皆口を揃えて「震災の日!?」と驚いたような反応をしていた。

その後驚きは好奇心に変わるようで、どんな状況で産まれてどうやって震災を乗り越えたのかを矢継ぎ早に聞いてきた。

私はその度に申し訳ない気持ちになりながら「産まれ神戸じゃないんです、東京なんです。」と答えていた。

すると相手は突然興味を失い「そうなんや」とか「なんや」とか言ってこの話を終わらせた。

他の誕生日の人は「〇〇と誕生日近いやん!」とか「有名人で誰と誕生日一緒?」とか言われてるのを見ていたから、中学生だったこともあって毎度少しへこんだ。

これは大人たちも同様いやむしろ私にしてみればもっと冷たく感じられて、私が誕生日を伝えたあとに東京出身であることを伝えると、「じゃあよかったな」のような、震災過酷さを身をもって知っているからこそ、知らない者を部外者として扱うようなニュアンスの反応がよく返ってきていた。

どう表現したらいいかからないがとりあえず、私の身を案じて「危ない目に遭わずに産まれることができてよかったね」と言ってくれている感じではなかったのだった。


さっき読んだ投稿にもあった「しあわせはこべるように」という曲は転校先の学校でも毎年歌われており、その後黙祷を捧げるのがお決まりだった。

そんな空気から、登校しても他の友人たちと全く同じようには祝ってもらえず、なんかしんみりした誕生日を毎年過ごした。

もちろん、誕生日ではなくて私自身の問題で友人たちのように祝ってもらえなかった可能性もあるかもしれないけれど、、、

それにしても、12歳になるまでの誕生日は周囲からの邪気のない祝福も含めてクリスマスと同じくらい明るく楽しい日だったのに、12からの数年間は全く違うものになってしまったと感じていた。

こんな体験を重ねるうちに、私は極力誕生日他人に伝えないようになっていった。

最初から東京で産まれたので震災とは関係ありません」と言えればいいのだが、誕生日を聞かれただけなのに「東京まれであることも自分から伝えるのは嫌な奴だと思われそうでできなかった。

当時すでに、阪神淡路大震災被災者のことを思えばこんな感情を周囲に吐露することも憚られるだろうという分別も流石につく年頃だったので、今までずっと誰にも話さずに生きてきた。

18歳からまた東京に戻ってきたので、しばらくそんなことも忘れていた。

今日読んだ投稿で当時のことを思い出し、「震災がなければ一緒に大人になっていたかもしれない人の存在をふと思うことがある」といった主旨の文言を見て、「あの時の大人は私との会話の中でそういった人たちを思い浮かべてたんだろうなあ」とひとり合点した。

なんとなく書き留めておく。

2023-01-16

みんながLINE使ってるのも宗教だよなぁ

バックアップすらまともに復元できないのは不便なんだけど

やっぱ震災とか天災であぁいう宗教流行るんだな

それこそ震災きっかけに始めたTwitter教に11年も入信してた

フォロワーうん10万までいったけど、結局は数字という宗教だよなぁ

2023-01-15

https://newspicks.com/news/7996713/

登録しなくても読めたり読めなかったりするのはなぜだろう


予想インフレ率も上がり、円安になり、株価も上がり、物価も上がって、あのままで行けば2014年の夏頃にはインフレ目標2%を達成していただろう」「それに水を差したのが2014年4月消費増税だった」

現在リフレ派は物価が上昇しても、それは円安等による輸入物価上昇によるもので彼らが望む物価上昇ではない、と言っているがそれならば2013年当時にデフレ脱却したように見えるのは同様に円安による筈だ。当時の方がインフレ問題視されなかったのは、幸いな事にエネルギー価格が下がっていたかである円安も今回と同様に当時もアメリカ長期金利がの上昇と連動しており、それは異次元緩和の始まる2012年から既に起こっている動きだ。

リフレで当初の需要不足によって起こるデフレを解消して景気を回復させたはずだが、それが消費税増税のために失敗したと言うなら、何故か消費税増税によってできるデフレギャップだけにはリフレ効果は及ばなかったというおかし理屈だ。デフレ貨幣現象であり通貨を増やせばインフレ期待が起こって景気がよくなるという話には大した根拠はなかった。要するにリフレ効果なんてないのである(金融緩和効果ではなく、当初も輸入物価によって物価が上昇したのであり、また今現在のようにインフレ目標を達成したところで景気に大きな変化はない)。

アベノミクスで最も改善したのは雇用

アベノミクス雇用改善したとは言えない。リーマンショック後に団塊世代退職期を迎えた分の補充が、大震災の後にようやく始まったのだが、生産年齢人口が減少した事で、労働供給側の事情非正規賃金が上昇している。だいた物価目標が達成できないのに、雇用けが改善する波及メカニズム説明する事がでない。

参考

https://supplysideliberaljp.hatenablog.com/entry/2019/06/14/175108

anond:20230114181434

しか日本募金活動して日本国内でそのお金を使うのは止める方がいいよな

すぐに癒着してお金をチューチューしようとするやつが出てくるから、集める国と使う国は分けないとダメ

本当に日本必要募金活動があれば海外からやって来る

実際に大震災の時には各国から暖かい募金と声が届いたからな

2023-01-14

シンママ、大震災被害者交通事故被害者法曹被害者ワクチン被害者振り込め詐欺被害者統一教会被害者って、人数はどれが一番多いだろうな

国の生活保護予算などに影響があるのもある

 

ところで男性用のシンママ保険があったら加入者はセックスがし易くなるんじゃないか?それとも離婚流行るかな(オロセはなしだ)

2023-01-12

anond:20230112005507

10年前って大震災後で放射脳が溢れかえった時期だろ

twitterが賑やかになりだしたのもその頃から

最初から党派性まみれの地獄じゃね?

今日、30歳になるオタ。

俺も、1993年1月に生まれた。1歳から大学までは、千葉県船橋あたりで生活していた。千葉県カスだ。東京まで微妙距離のせいで、逆にオシャレを履き違えているやつらだらけ。茨城ゴミ共もいるおかげで、余計に田舎者ムードは高まっていた。特に地元船橋民が嫌いだった俺は、三国志大戦などをやるためにわざわざ津田沼エースまで行っていた。今思うと津田沼津田沼ゴミみたいな街だったが、船橋よりはマシというところだろうか。あと、俺はオタなので秋葉原微妙に遠いのが嫌だった。総務線で一本とはいえ微妙に遠い。かといって千葉のオタショップはやはり、品揃えの面で大きく劣る。飲食店は何一つとしてとりえのない、個性のない「退屈な街」だ。この街で人生3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。

私が住んでいた地域には大学があったのか覚えていない。競馬場はあって、薄汚いおっさんが娘の給食費無駄にするために通ってきていた。市立船橋高校スポーツが盛んで、イキリ散らした民度の低いカスみたいなスポーツマンたちが船橋不快な街に育て上げていた。あと、船橋高校のゴミもももっと渋幕とかに行けばいいのに頭いいような面してイキリ散らしながら歩いていた。自然豊かといいつつそれは小室かい飛び地の話で、友達がそのへんの団地に住んでいたのだが、子供心に「こんななにもねえ田舎に住んで何が楽しいんだか」と考えつつ、スマブラをやりに行っていた。俺も競馬場に通うおっさんたちと同じ、人生無駄にするのが好きな人間だったと言えるだろう。

小学校の時は色んな道徳教育を受けた覚えがあるが、ある日、うちの親戚のおっさんが登壇して「阪神淡路大震災記憶」を語っていた。俺は幼心に、いや、お前関西住んでたっけ?と思ったが、無事に講演は終わり、無意味感想文などを書いた。のちに親戚の集まりで、おじさんは講演会の人が来れなくなったので代打で登壇したと聞かされた。「わかりゃしねえよ」とのことだったが、まあどうでもよかったのでそんなもんか、と思い今日まで忘れていた。俺と震災には深い結びつきがあったと言えるだろう。

高校生にもなると、俺は自由だった。エスカレーター式の東京学校入学していたので、誰も受験勉強なんかはしていなかったのである。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。そう。割れ厨であるエロゲ音楽無料あるいは格安で手に入れてくれることは後輩の俺達にもすぐに知れ渡った。サブスクの走りみたいなものだ。ちなみに、その先輩は生徒会長だったので、なんか体育祭で頑張った的なスピーチをしていたことを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。

震災当時、俺は秋葉原にいた。試験も終わり、余裕綽々でカードショップ萌え萌えスリーブを買い漁りに行っていたのである。その時、震災が起きた。スリーブはあたり一面に散らばり、混乱の中、店員さんに言われ、店の外に出た。駅に行くと、そこには人が沢山いた。だがしかし電車は動いていなくて、そこで東北で大震災があった、という情報を聞いた。

震災なんてものはどうでもよかった。ただ、俺の心配は家に帰れるかどうかだった。録画していなかったのだ。その日、放送される「まどか☆マギカ」を。深夜だしリアタイ視聴余裕という慢心があったのだ。しかも、当時は確かものすごく盛り上がる10話の放送を控えていた時で、まどかを見られるかどうか、というのは俺の死活問題であった。あと、まどマギとか略すやつは当時のオタ仲間の間ではにわかの象徴だった。

さらなるハプニングが俺に起きた。ゲームのやりすぎで俺のガラケーは充電がなかったのだ。その上、萌えスリーブを買いすぎていたせいで、財布には100円の金もなかった。コンビニで充電器も買えやしない。もちろんクレカキャッシュカードなんて持ってなかった。電車が動く気配はない。俺は、仕方無く歩いて帰ることにした。ぞろぞろと、他の帰宅難民秋葉オタクたちと共に。

途中で、公衆電話を見つけたので、並んで家族に無事である旨を伝えた。だが、当時オタバレを嫌っていた俺はプライドから、録画を頼むことはできなかった。まどかマギカくらいで何を、と今の世代は思うかもしれないが、当時はまだオタ差別は著しく、まどかマギカなどという萌えアニメを見ていることがカミングアウトできなかったのだ。

数駅くらい、歩いたところで俺の体力は尽きた。帰るのがダルくなったと言ってもいい。周りの人間たちから漏れ聞こえる被害状況を聞くに、心のどこかで動くと思っていた電車も、動かないことがわかってきたからだ。俺は近くのスーパーでなけなしの金でバナナを買って、フードコートの水を飲んで飢えと乾きを満たした。まどかマギカの10話が見られるかが心配で、その次にそもそも今日、どこに泊まるんだ?という思いがあった。

ということで、俺は近くの駅のポッポ屋さんに聞いて、避難所小学校を紹介してもらった。たどり着いたのは、夕方ごろだろうか。そこには、俺と同じ帰宅難民リーマンが何人かいた。俺が一番若くて、寝床マットレスを運んだり、先生たちの手伝いをした。教室備え付けのテレビで、炎に燃える気仙沼を見て「関係ねえな、明日仕事行かなきゃ」と語っていた、リーマンのおじさんの茫漠とした表情をよく覚えている。夕飯は乾パンだった。

夜。少し冷静になって。俺は件の割れ厨の先輩のことを思い出した。学校近くの公衆電話からまどかマギカの録画を頼むために、俺は駆けた。「大丈夫だよ増田くん。MBS版はもう放送されてるからね。違法うpされたデータ回すよ」。先輩は、相変わらず元気そうだった。俺は大いに安心して、また気仙沼火事を見に学校に戻って、ちょっとまた先生たちを手伝い、制服のブレザーをかけて、教室で眠った。

翌日、なんとか帰宅したが、普通にまどかマギカは10話以降放送延期になった。あ、あと親戚が2人ほど死んだ。例の阪神淡路スピーチをした親類もそこには含まれていた。

そして大人になったある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東北出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。親戚や家族が死んだこと、放射線関係差別されたこと。

その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は東京から、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。俺も被災者から分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。歩いて駅まで帰ったんやぞ、まどかマギカのために。と嘘をつくと、彼は気まずそうに「なんやアンタ」と呟いた。

彼は俺より少し年下だったから、もしかしたらまどかマギカのことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。劇場版から入ったにわかかもしれないし。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。

俺は今、違う場所暮らしているけれど、今でも自分が育った千葉ゴミクズだったと信じている。そもそも秋葉原から遠くなければ、俺も簡単帰宅してまどかマギカの録画云々なんて悩まなくてよかったし、千葉のオタショップの品揃えさえ充実していればよかったのだ。

俺も、30歳になった。平成初期に生まれ私たちは、Z世代氷河期世代両方から馬鹿にされる「最悪の世代」だと言われている。確かに地震は俺にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まあ今になるとまどかマギカとか大した作品じゃねえな、と冷静な評価を下すこともできる。でも、震災の時にふと過ったあの感情を、たまに思い出したり思いださなかったりするのだ。リーマンってなんで震災翌日も働くねん、という。

まああれだ。震災は一時のスリルというエンタメとしては面白かったが、アニメ放送延期からわかるように日常生活に大きな影響を与えるのは間違いない。

そして、俺は思うのだ。

震災さえなければ、もしかしたらまどかマギカの叛逆篇の続きも出てた未来もあったのかもしれない、と。

とはいえ、おかげでシン・ゴジラやすずめの戸締まりといった名作も生まれたのだから、イーブンといったところではないか…と。

2023-01-11

anond:20230111171031

東日本の奴らは他人事からなぁ

自分たちしか震災に遭ってないのかような振る舞いをする被害者意識の塊

今日、30歳になった

私は、1993年1月に生まれた。1歳から大学までは、神戸市生活していた。神戸はとてもいい場所だ。街の中心部である三宮はおしゃれな街で、大阪駅までも直通で30分。中華街で有名な豚まんを食べ、旧居留地優雅建築を抜ければ、港から海を見渡せる。中心部から少し足を伸ばせば、B級グルメを出す飲食店が立ち並ぶ下町長田六甲山の麓に日本屈指の酒蔵を擁する灘などにも行ける。どの地域個性にあふれた「退屈しない街」だ。この街で人生3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。

私が住んでいた地域には大学があった。このキャンパス自然豊かなことで知られていて、敷地内に公園や池があったので、私は物心ついたときから時々家族とこの大学内を散歩していた。子どもだった私は漠然と、大きくなったら私もこんな学校勉強するのかな、なんて思っていたものだ。

私が小学校にあがる前のある日、父とふたり大学の中を歩いていた。ふと父が「父さんは今日こっちの道に行きたいんだ」と言って、普段は入らない芝生の中へ私を連れて行った。杉の木立の中には、小さな茶色の碑があった。父はその石碑の前で足を止め、静かに手を合わせた。「これは何なの?」と尋ねると、父はこの石碑が、阪神淡路大震災で命を落とした学生たちを追悼するための慰霊碑だと教えてくれた。銘板に刻まれ名前の中には、地元教員をしていた父の教え子がいるという。父は何十年も教員として勤務していたが、彼が家庭内で教え子の話をすることはほとんどなかったので、少し驚いた。

小学校にあがると、音楽の授業で「しあわせはこべるように」という歌を習った。この曲は阪神淡路大震災のことを歌っており、神戸市内の小学校では震災学習の一貫として習うのだ。たぶん、1995年以降に神戸市勉強した人間なら、誰もが諳んじて歌える一曲だろう。小学校でも中学校でも、毎年1月17日には黙とうを捧げ、校長先生お話を聞いた。ある年の学校新聞1月号に、同級生とその妹のことが書かれていたことも覚えている。2学年下に在籍していた彼の妹は、まさに阪神淡路大震災の混乱の中、1月17日、被災直後に生まれたという話だった。

高校生にもなると、「しあわせはこべるように」を合唱する授業はなくなった。進学校だったので受験勉強は忙しく、みんな志望校に入るため必死だった。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。先輩は部活でも目立っていて、関西の超有名大学への現役合格を果たしたことはすぐに後輩の私たちにも知れ渡った。卒業式の日に卒業生代表挨拶担当したその先輩は、両親を阪神淡路大震災によって亡くしたことをみんなの前で話してくれた。10年以上が経った今でも、あのスピーチを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。

高校卒業すると、私は自分実家から一番近い大学に進学した。それは、子どもの頃から家族散歩していたあの学校だった。私の学部はかつて父と散歩したキャンパスからは少し離れていたのだが、それでも時々あの慰霊碑を見に行くことがあった。いつのまにか、私は父の教え子だったという誰かより1歳年上になり、成人を迎えた。成人式の会場に向かう途中のタクシーでふと「私たち、本当はもっとたかもしれないな」と思った。

大学卒業して上京すると、色々な地域出身のさまざまな年齢の人と関わりあうようになった。地元神戸なんです、と言うと、ほとんどの人が「おしゃれなところだね」なんて言ってくれるので鼻が高かった。しかし時々、50代くらいの人と話すと「震災の時、もう生まれてた?」と聞かれることがあった。生まれてたけど2歳になりたてで記憶はないんです、と返すとだいたいそこで話は終わるのだが、ごく稀に「実は僕は当時大阪に住んでいて…」と、当時の記憶を話してくれる人もいた。

ある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東京出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。乗っていた電車が止まったこと。復帰のめどが立たず、線路を歩いて帰ったこと。その時、自分の前を歩いていたお姉さんが泣いていたこと。

その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は関西から、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。私も被災者だから分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。阪神淡路の時に2歳だったよ、と告げると彼は気まずそうに「そっか、そっちか」と呟いた。

彼は私より少し年下だったから、もしかしたら阪神淡路大震災のことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。小学校社会教科書にはきっと地震のことも載っていたはずだけど、自分高校生の時に体験した東日本大震災の方が記憶としてはハッキリしているに違いない。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。

私は今、違う場所暮らしているけれど、今でも自分が育った神戸はとてもいい場所だと信じている。街の中心部である三宮駅前には、かつて「神戸阪急ビル」という名のビルがあった。この辺りは震災で大きな被害を受けてめちゃくちゃになったという。街のランドマークだったというビルは取り壊され、それからずっと低層のビルが駅舎に繋がっていた。このビル2021年高層ビルとして生まれ変わり、震災前の姿を模した外観でリニューアルオープンした。私より年上の世代は新しいビルを見て「元の神戸の姿だ」と喜んでいたが、私には正直良く分からなかった。私が毎日のように遊んだ三宮は「仮の姿」だったのか!それでも、西洋風のモダン茶色ファサードは、「私の好きな神戸」の姿に近いような気がしていいなと思った。

私は今日、30歳になった。平成初期に生まれ私たちは、阪神淡路大震災記憶とともに生きる「最後世代」だと言われている。確かに地震は私にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まだ2歳になりたてだったから当日の記憶もまばらだ。でも、成人式の時にふと過ったあの感情を、誕生日のたびに思い出すのだ。阪神淡路大震災がなければ、私たち、本当はもっとたかもしれない。地元同級生は、実はもっと多かったのかもしれない。自分人生のどこかのフェイズで、あの時いなくなった誰かが私の大切な人になっていたかもしれない。

記憶も年をとる。誤解を恐れずに言うと、阪神淡路大震災のことは、これからどんどん忘れられていくだろう。神戸と縁のない人たちにとっては、もうすでに阪神淡路大震災のことは別の災害記憶に塗り替えられているかもしれない。はっきり言って、これはどうしようもない、誰が悪いわけでもない、日本に住んでいる限りは、大きな地震が定期的に起きることは避けられないのだから。でも、少なくとも私は― 傷ついた神戸の街に育ち、ゆっくりとその傷が治っていく中で青春を過ごした私は、これから阪神淡路大震災を忘れることはない。「最後世代」という言葉は、「私たちは本当はもっといたのかもしれない」とリアルに思える「最後世代」だということなのだろう、と今は思っている。30歳になった今日も、またふと考えた。私と一緒に年をとってくれる誰かが、本当はもっといたのかもしれない。

2023-01-10

エンタメ震災で死んだ

まぁYoutubeの登場で死んだって言い方

ガキが直接エンタメを選ぶことが愚か

ヒカキンかいうやつが流行って終わった

ヒカキン流行るとヒカキン編集手法流行り、ヒカキンテレビに出るようになった

しかテレビというのは親が選んだり、家族で共有して見るものであるのが普通ゴールデンタイムは大抵は食事時間なので、出演には向いていない。

すべてはYoutubeテレビマンの間違ったマーケティングが原因だ。

今の最適化されたYoutubeヒカキン最初から流行ることは恐らくない

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