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はてなキーワード: 部活とは

2023-03-24

非婚化の原因は金より容姿スペックだと思う

年収でも、中学時代カーストが高くチームスポーツ部活に入っていたタイプ結婚できてる。

年収でも、デブ結婚できてない。実は最も女性に避けられてるのってデブなのでは?デブの既婚者は交際開始時には太っておらず結婚したあとにどんどん太っていった騙し討ちタイプばかり。

結婚できるできないの差が、容姿のように思えて、それを肌で感じてるZ世代ルッキズム強めてんじゃねとも思う。

同じ程度の職能なら、容姿悪い男性は大幅に低い年収になるというデータもあるらしい。ブスよりブサイク男への差別のほうが程度が酷いのだとか。

AIホワイトカラーの職を破壊しまくるならあとは容姿くらいしか差別化できるポイントが残らんだろというのもあるし。

なんかスポーツスター選手も昔と比べると顔やスタイルが随分良くなったよなぁ。

2023-03-22

anond:20230322184503

よし分かったかeスポーツ部活が増えている現状についてお前の意見を聞こう

anond:20230322175138

横だけど、海外興行として成り立ってて、賞金億越えもあるし、1000万円超えなんてざらな業界だよ

一般向けの定義わからんけど、

 ・国外興行として認められている

 ・国内でもプロプレイヤー何人もいる

 ・高校部活もある

 ・スプラ甲子園は1万単位参加者が見込まれコンテンツ

これだけの事実があって何がお前をそこまで批判的にさせるのか

野球って限られた国でしかやってねえじゃんと同じレベルの主張だぞ

anond:20230322141441

コンビニレジで弱男が働けると思う?

20年前と違ってレジでやらなきゃいけないことのバリエーションが相当増えたから、発達には無理な仕事になってるよ。

介護も体力とコミュ力がないといけないから、ネットで息巻いてる体力皆無弱男にはこなせないと思うな…。

介護学業成績はいまいちだけど運動部活をやっていたタイプの人が多くない?

帰宅部不登校のようなガチインドア弱男には介護もできないと思う。

待遇がよくないから「やりたくない」のではなく、「低能すぎてできない」。

恋愛は怖い

恋愛は怖い。

俺はスポーツでも習い事でも勉強でも事前準備を欠かさなかった。勝てる戦いしかしてこなかった。

小学校高学年では中学英語数学を、中学校では高校英語数学を、高校では大学範囲勉強をした。

小学生の時からインターネットが使える環境だったため、スポーツ習い事を始める前にも必ず徹底的に道具、ルール技術についての知識競技人口を調べあげてから挑んだ。マイナースポーツマイナー分野ばかりに挑戦してたくさんの賞を獲得し、高校大学では部活レギュラー都道府県代表となってきた。

職場に関しても、入るにあたって倍率の高い業界や例え入れたとしても競争の激しい業界は避けた。安定、出世収入バランスが最も良い環境自分なりに選んでその業界に参入した。

ただ、恋愛に関しては小学校中学校、高校大学で何の事前準備もしてこなかった。事前準備をしたところで恋愛できたかからないが一度くらいはデートに行けたかもしれないし、失恋であっても経験にはなっただろう。

しかし、今の俺は社会人恋愛するつもりで女性と関われば事前準備(経験)前提で挑まなければならない。向こうも当然、こちらが経験であるという前提で関わってくる。そして初心者、未経験であることが発覚すれば0ではなくマイナス評価だ。恋愛は俺にとって負け戦である。俺は負け戦はしない。

2023-03-21

没落した京大生の話を聞いてほしい


かつては大学生だった。今から20年前のことだ。地元公立高校必死勉強して、勉強して、勉強して、青春のすべてを犠牲にして京都大学法学部合格した。一浪だった。いわゆるイカ京みたいな京大生がたくさんいる中で、自分もその1人から脱出しようと頑張ってみたが、結局だめだった。

40歳が間近になった今では、没落というか、いや元々高い位置はいなかったのだが……今は、普通に非正規労働者をやっている。契約社員みたいな仕事に就くこともあるが、あまり続かない。1年くらいで辞めることが多い。結局、学歴って大したことはないんだよなぁ、と実社会で働くようになった今では感じる。

これから大学時代の話をさせてほしい。暗い話になる。みんなジメジメした話は嫌いだろう。だから、すぐに終わらすよ。頑張って五千字以内に収める。リアル一人称が僕なので、以降は僕でいくことにする。



入学式を終えて大学生になった僕は、どこかのマンガで見たようなサークル勧誘活動を眺めることになった。どういう風に勧誘があったか、さすがにまったく覚えていないが笑

でも、僕にはあまり声がかからなかった。ルックスはいまいちで、特にスポーツからは全く声がかからなかった。浪人生活がたたって不健康に見えたのだろうな。

文科系からは何度か勧誘された。漫画研究会とか、小説を書く倶楽部とか、山登りの会とかも見学に行ったっけ。結局、どこにも入らなかった。高校時代バリボーをやっていたが、大学部活はいわゆるガチめのところが多い。通用しないとわかっていた。

それで、大学1年生(※正しくは1回生)の時は、ごく普通に講義に出て、帰りに図書館に寄って、たまに帰り道にラーメン店を巡っていた。実家美山町の貧しい農家だったが、親が優しかったので仕送りをたくさんくれていた。月に8万ほど自由に使えるお金があった。

アルバイトを始めたのは、かなり後になってからだ。大学2年生の春だった気がする。退屈に負けて繁華街にあるマクドに応募したんだっけ。

そんな時だった。1年生の秋頃、学内であるチラシを見かけた。『みやこ音楽祭』なるものの開催案内だった。京都学生有志で集まる大学サークルで、くるりとかの有名バンドを呼んで京都音楽を発信しよう、みたいな団体だった。

チラシには第1回の文字はなかったけど、結局第8回まで行われることになった。僕の時は、西部講堂という古めかしい場所があるのだが、そこでライブをやっていた。

いろんな大学学生が集まる、しかライブイベントスタッフなんて、こんな体験は二度とできないと思った。小学校中学高校も、文化祭リーダーをやるタイプではなかった。下働きだった。

数年前のアニメだと、『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』で、高校生だけでアメリカ風プロムをやろうみたいな場面があって、ゆきのんが実行委員長で、八幡が陰の立役者で、いろはす現場リーダーだったと思うんだが、僕はその現場下働きだった。

それで、みやこ音楽産業みたいな名前団体があって、そこに電話をかけて参加申し込みをした。もうほとんど覚えてないが、西部講堂付近カフェ面接があったのかな、その場で誓約書みたいなやつを書いてスタッフとして登録した。

若い人達がやってるんだろうなぁ、と思っていたら、みやこ音楽祭を立ち上げたのは20代半ばの人達だった。とっくに卒業年齢だったのだが、京大にはあえて留年をして大学看板を使っている人もいる。ハタチくらいの有志が集まって~みたいな団体ではなかった。

まあ、そうじゃないと、第1回目からくるり向井秀徳矢野顕子は呼べないはずだ。伝手があるのだろうなと察したのを覚えている。

もう想像できると思うけど、ここでも下働きだった。現場で机とか、椅子とかを運んだり、他大学へのチラシ配りとか、やはり音響機材を運んだりとか、ライブ中の警備とか、掃除とか、そういう下働きをしていた。

いろんな学生が集まるサークルなだけあって、多様性に富んでいた。僕は4年分すべて参加したけど、僕のような中核ではない臨時スタッフまで入れると軽く50名を超えていた。なんだかんだでマーケティング活動は抜群だった。もし、経営の才能がある大学生がここで活動したなら、きっといい経験になったと思う。

思えば僕は、アニメ漫画でいうところのモブキャラだった。その団体の中核メンバーほとんど京大生だったけど、中には同志社とか、立命館とか、京都産業とか、龍谷とか、いろんな人が揃っていた。

僕は京大生だったけど、4年間活動してもずっと臨時スタッフだった。そういうところには潜り込めなかった。かと思えば、才覚のある大学1年生(仏みたいな名前大学女子だった)が入ると、次の年からは中核メンバーとしてスカウトされていた。

そういう光景を目にして、つくづく自分が嫌になった。自分臨時スタッフなので、次の年も参加したいと思えば、またチラシを見つけて応募する必要があった。

それで、イベント初回の時は、その1ヶ月後には打ち上げ会があった。その会では、今の自分から見ても相当気持ちが悪い光景が繰り広げられていた。京大の近くにある居酒屋での開催で、和室座席を貸し切っていた。席の配置は自由だったけど、大体男女が別々に固まる。40人ほどだった。

ただし、主催者の方で誘導して、男女がある程度向かい合わせになるようにする。それで、京都大学学生のうち、女子と向かいになった人達が、飲み会が盛り上がっている半ばでこういうアピールを始める。※京都方言標準語に直している。

「俺、浪人して経済(学部)に行こうと思ってたけど、総合人間でもまあいっかと思って」

高校の頃の模試は全国で二番だった。医学科行きたかったけど、キツそうだからやめて看護(保健学科)にした」

「昔は全然勉強しなかった。奇跡が起こって合格した」

「お前らまだ若いからいいじゃん。俺こないだのTOEIC220点だったぞ。大学入ってから頭が悪くなっていく一方だよ」

(3/21追記コメントを受けて。以上は飲み屋での会話だから、卑屈な謙遜がかなり混ざっていると思う。会話自体は確かにこのとおりだ。

こんなノリで会話を始めて、自分の財布から京都大学学生証を取り出して、目の前の女子に見せびらかす。こんなことを彼らは四年間ずっと続けていた。見ていて情けなかったけど、かくいう自分も、隣の人に振られる格好で一度だけやったことがある。

目の前の女子からは、こんな反応が返ってきた。

「え、え、自分京大なん? リッツ(立命館大学)かと思ってた」

法学部なんですね!! すごーい」

「機材を運んでる時、気遣いがすごかったですね。警備中もずっとお客さんの方を見てた。ほかの人はサボってライブ見てたのに」

今思えば、女子は気を遣ってくれていた。こんなに恥ずかしいことを、当時は若かったとはいえ自尊心に負けてこんなアホみたいな、つまらない、人間として三級品にも等しい、救いようのない子どもじみたことをしていた。トイレの手洗器に張り付いたタンカスの方がまだ魅力的だった。

で、そんなことをしていると、向こうから中核メンバー乾杯にやってきた。すると僕の周りにいた京大生は、借りてきた猫みたいに大人しくなる。それで、女子は彼らの方を眩しい視線で見つめるのだ。目のキラキラ感が違う。

……でも、当時の僕は受け入れていた。これが正しい形なんだって思っていた。強い人間モテて、強い人間がいろいろ持っていくのは当然だと思っていた。僕だって京都大学合格した時は、中学校や高校先生や後輩から神扱いだったし、親族からもすごく褒められたし、母親は泣いていた。

でも、違うのだ。大学保証する個人能力というのは、実社会必要な力のせいぜい20〜30%だ。ほかの能力面がダメだと社会では通用しない。



結局、在学中に目立つことはできなかった。自信が持てるような体験はなかった。学業成績は中の中ほど、アルバイト先は今は亡きマクドナルド河原町三条店で、そこでは全スキルをほどほどに鍛えた。就職活動はコツコツとやって、結果は京都銀行内定した。しかし、自分という存在確信がもてないまま、あっという間に四年間が終わっていた。

銀行でのことは話したくない。嫌な思い出だし、気が付けばすごい文章量になっている。増田でこんなに書いたのは初めてだ。

掻い摘んで話すと、社会一年から地獄だった。地方支店からキャリアが始まったのだが、預金口座とか、金融商品営業がまったくできなかった。

営業としての適性がなかった。ぜんぜんだめだった。当時の成績はゼロに近かった。ほかの同期は、月にひとつ以上は契約を取ってくる。高卒で入った男の子女の子ですらそうだった。

同期に馬鹿にされて、上司には激詰めされて、居場所がなくなって、しかしクビにはならない。いっそクビにしてほしかった。京都山間部に住んでいる親には「うまくやってる」と嘘をついていた。

三年目のある冬に、メンタルが完全にダメになって仕事中に交通事故を起こした。運転中に手が震えて、ハンドル操作ができなくなった。それで免許停止になってしまって、人事との面談では……もう雇い続けることは難しい、次やったら本当にだめだ、みたいなことを言われた。クビにはならなかった。

まだ次があるのかと思った。上司からは、「お前は京大からな!! 地銀に入る京大なんか珍しいからな!! できる!! なんとかしてみろ」と何度も言われた。

結局、次の交通事故を起こす前に辞めた。退職手続きはあっさりだった。相応のレベル会社らしく、有給消化や退職その他の手続きは出社しなくても全部やってくれた。今でも感謝している。



それから坂道を転がるみたいだった。どの仕事でも2年以上続かなかった。期待していた仕事でも、やってみるとぜんぜんダメだった。先日は、市役所会計年度任用職員をクビになった。現業仕事をするポジション剪定、伐木、廃棄物処分)で募集があったので応募した。

書類選考が通って、市役所役職者が面接をしてくれた時に、「え……京大なんですか……?」と愕然としていた。自分以外に応募者が10人以上いたけど、現場仕事経験自分でも内定を取ることができた。

もうわかっていると思うが、結果は散々だった。口頭での指示を理解できず、とんちんかんな行動を繰り返して、何度も怒られて、1ヶ月も経つ頃には役職の人に呼ばれて三行半を付きつけられた。

すんません……こないな自分が言うのもなんですけど、事務職やったら……」

事務職はもうパートさんがおるさかいあんたには任せれへん」

すんません

「頑張っとるのはわかるけど、次の職場ではもっと~」

会計年度任用職員の試用期間は1ヶ月だった。こういうわけで、先日見事にクビを切られた。情けない限りだ。いや、もう僕はこういう状態に慣れてしまった。これでいいのかもしれない。

これからも、アルバイトで日銭を稼いで、スーパーで閉店近くに八割引きになっている惣菜を買って、コンビニストロング無糖ドライを買って、二級品の梅干しを入れて、ウィルキンソンで割って飲み続けるんだと思う。



最後に知っておいてほしい。学歴仕事の結果には関係がない。最近読んだ『科学的な適職』という本で、アメリカ研究学歴仕事の結果の相関係数が0.1とあった、との記述を見た。つまりほとんど関係ないのだ。マイナス相関でないところは皮肉に感じる。

そろそろ仕舞いにしよう。こんなおっさん愚痴を聞いてくれてありがとう。適度なところで死ぬようにする。いつも布団に入る時に思う、「目が覚めた時に死んでいればいいのに」って、本当にそう思う。

 ――ああ! 誰かがあの肉からあの魂を取除いてくれないかなあ!――「造物主」が何かのはずみで手違ひをしたとしか思へませんからね!

未來のイヴ ヴィリエ・ド・リラダン (著), 齋藤 磯雄 (翻訳) P.99

3/21追記 この本の引用が上の言葉の元です。こんなところまで自分言葉じゃなくて申し訳ありません。



もし若い人がこの日記を読んでいるのだとすれば、学歴仕事能力関係ないって、それだけでも心に刻み付けてほしい。そうすれば、僕のような人間を少しは減らせるかもしれない。

映画『THE FIRST SLAM DUNK』を見てきた

Twitter感想を呟こうとしたら、長くなりそう、かつ、深夜に書いた手紙のような気持ち悪い感じになりそうなので、こちらに書くことにする。

リアルタイム漫画は全巻読んだがアニメは見なかった程度の緩いファンだったので、ほどよく忘れており、試合展開を楽しめた。

宮城リョータ

実は、漫画を読んでいた時は、ちょっと便利屋というか都合のいいキャラだと感じていたのだ。

他のキャラよりもバックグラウンドが描かれていなくて、普通に性格とノリが良く、バスケも熱心で上手、という、とても緩衝材的な役割キャラで、逆に何を考えているのかがわかりにくい。

インキャラの中では、流川も何を考えてるか描写されない不思議キャラなのだが、流川は行動で『偏屈』が示されている。

そして、私が大人になったので、流川のことを『バスケが好きで負けず嫌いで、初心者花道にしゃしゃられるのをウザイと思っている高校生』と認識できるようになっていた。

普通に漫画で描かれたそのままだ。

こいつにも複雑なバックグラウンドがあるかもしれないのはさておく。

この2人の部活以外での描写が少なかったのは、映画の中でもわかる。

山王応援団のすごさに対し、晴子たちが「妹と友達と敵(三井友達)」と言うが、そこに宮城流川関係者はいない。

モブの中にいたかもしれないけれども、それまでのストーリーの中に出てこなかったから、そこで隣に座っていないのだ。

今、思えば、インターハイに出ているのだから、親くらいは来ていてもいい。

昔の少年漫画なので、本筋に関係ないところはサクサク飛ばされているのだな。

そんな漫画イメージからすると、宮城リョータ過去は意外だった。

かなり重め。

しかし、プレッシャーを表に出さない、平気な顔をしている、という人物造形と合わせると、実は漫画の裏でもこうだったのか、という納得感がある。

出来のいい兄の影のように感じていたのか、そのあたりの描写はあまり直接的ではなく、試合の中で昇華される。

兄が倒せなかった山王を倒すというのはかなりベタな展開だが、スポーツものなので、そのくらいのほうがスッキリしていて良い。

惜しむらくは桜木花道との試合前の絡みが薄いと感じられるところだ。

漫画主人公桜木花道なので、彼は試合展開で何度もとても重要役割を果たす。

先入観がなく映画を初めて見た人には、そのあたりは唐突に感じられるのではないだろうか。

映画主人公である宮城リョータが、入部してすぐくらいの時期に花道に一目置くようなシーンがあってもよかったのではないかと思う。

そしてそれは、花道がこつこつ練習をする姿ではなく、破天荒な明るさ、突破力的なものであったほうが、後半の展開と合う気がする。

同じ試合の中で、主人公が違うというのはなかなか難しい。

ところで、漫画山王戦で赤木が「俺は間違っていなかった」と思うシーンがとても好きだった。

彼のひたむきな努力が報われたと思った。

しかし、あれから30年近くたって大人になると、先輩や同級生が間違っていたわけでもないよな、とも思う。

先輩はとても感じ悪い男に描かれてはいたが。

高校生活の一部として部活を楽しむ、という選択肢普通にあっていい。

これが高校野球なら、本気で甲子園を目指す生徒は、最初から甲子園が射程距離にある高校に入るだろうと思われるからだ。

甲子園を目指す生徒と、3回戦突破目標野球を楽しむ生徒は、入学の段階で住み分けができている。

そう考えるとバスケというのはなかなか微妙だ。

近所だったり偏差値だったりで選んだ挙句住み分けが出来てないことになりそうだ。

漫画でも、県大会で有名な強豪校が出てきていたので、やっぱり赤木のほうが空気読めてなかったというのは十分にありうる。

なので、「間違っていなかった」ではなく、一人ではなく志を同じくする仲間がいるという描き方になったのだろうか。

とても良かった。

でも、弱小チームに安西先生がいて、流川入学してくるという不思議は、私の心の中での疑問として残る。

流川、おまえ、なんで弱小チームに入ってきたんだ。

漫画には描かれていたかもしれないと思うと、一度は手放したコミックスを再度買おうかという気になる。

ああ、漫画が読みたい。

そして、もう一度映画に行きたい。

最後試合の結果を知ってたのにドキドキして見守ってしまった。

名作だ。

2023-03-20

追記あり自分の家にしかないメニュー

実家には「焼肉どんどん」というメニューがある。

甘辛いタレに絡めた豚肉ご飯に乗せ、その上に大量の海苔、卵を乗せたシンプル丼物だ。

シンプルからこその美味さがあり、特に夏バテしている時、部活練習クタクタな時などに食べると絶品である

こんなにも美味いメニューなんだから当たり前にみんな知っていると思っていた。

今日晩ご飯について友人と話していて、やっと極めて局地的な創作メニューであることがわかった。

友人には「焼肉丼と何が違うねん」と言われたが、焼肉のタレとは少し味付けが違うのである

甘辛のバランスがやや甘いに倒れており、その甘さが果物などの甘さではないご飯に合ううまさなのだ。

実家を出て2年が経った今、親に作り方を聞いてみたところ「スーパーの味付け肉の味やで」と言われた。

なんやねんそれ……

サンディかアルプラで買ってる味付け肉らしい。そんなスーパー大都会東京にない。

実家オリジナルメニューの味がスーパー精肉担当の手で作られていたことに愕然としたが、東京で作れない現実の方が何倍も私をがっかりさせた。

今度帰る時に作ってくれと頼む予定。

追記

書き忘れていたが卵は生!

ブコメスクランブルエッグみたいなやつも美味しそうだと思った

ちなみに家では全卵派と黄卵派がおり、全卵派の母は「卵は卵白の方に栄養あるんやで」といっていた。

そういえばメニューというほどでもないが、自分の小腹を満たす用に「きな粉砂糖ご飯」というものも母は食べていた。

正月の餅用に買ったきな粉砂糖と合わせてタッパー保存されていたんだが、それの消費用のためだ。

意外に美味く、私も時々食べていた。気になった人がいたらぜひ試してほしい

学生の頃朝ごはん家で食べてた?

小学生の頃は朝よくパンを食べてた。母親トーストを用意してくれることもあれば、袋から直接バターロールみたいな小さなパンを食べてた時もあった。あ、チョコスティックパンもよく食べてたっけ。片親パンとか呼ばれてるんだっけ。確かに片親だったけど。

休日の朝はカップラーメンとか適当に食べてた。早起きしてゲームしてた。親は朝遅くまで寝てた。

中学生になると反抗期うつで朝泣きながら怒りながら部活朝練に行ってた。自分に人の心がなくて人間関係がうまくいかなかった。朝ごはんが用意されることはなくなった。

高校時代の朝はinゼリーとか食堂で売られてるおにぎりとか食べてた。ご飯代はレシート集めて後から請求してた。それが普通だった。

大学時代自由にしてた。コンビニで買える物が多かったかな。

大学はいわゆるお嬢様大学みたいなところに通ってた。そこで育ちの違いを痛感した。みんな朝ごはんが出てくる家に住んでて、作ってもらったお弁当を持ってきてた。休日も当たり前のように朝ごはんが出てくるものらしい。びっくりした。

早寝早起き朝ごはんとか言うじゃん。うちはそうじゃなかったなって常々思うんだよね。みんな朝ごはんって出してもらえてたの?

2023-03-19

風呂の習慣がない

高卒になる(なった)女です。

毎日風呂に入ることができない。というより、3日ぐらい空いても問題なくない?と思っている。高校通信制だったので、たまに人に会う時には入ってたけど基本3~7日に1回のペースで入る。7日空くとさすがにかゆいので仕方なく入る。

中学以前はどうだったか覚えていない。たぶん2~4日に1回とかだったんじゃないか?一度部活の人にバレて引かれたことは覚えてる。文化部だったので、夏など汗かいときは必ず入ると言って誤魔化した。

毎日風呂に入らないのが人に知られたらまずいとわかっているのに、入れない。バカみたいだけど自分自分のことが嫌いになってストレス。じゃあ入れよ……。

なら家族は何も言わないのかって、家族も入らないんだよ。いや、父は入ってる。母は自分と同じように入らない。両親とも何も言ってこない。悩みを相談するにしたって、母は汚いと言うようなもので。それを言う勇気はない。

別に風呂は嫌いじゃない。入った後は入って良かったと思うし今まで入らなかったことを後悔する。でも、次の日は入らない。めんどくさいから。

4月から親元を離れるので、この機会に毎日か、せめて2日に1回は風呂に入れるようになりたいけど自信がない。元々習慣付けが苦手なので、今度もうまくいかないと思っている。誰か、風呂の習慣を無から有にした人いませんか。

2023-03-16

anond:20230316224416

部活指導なし保護者対応なし担当教科のみ担任なし

空いた時間研究に充てて良いと聞いたのですが、やっぱりつらいものですか

教師部活などあって激務だけど残業代がでない」

→ じゃあ部活やめよう

 

これ

anond:20230316165656

ナヒ・行秋or夜蘭・忍の超開花にぶっこむのが一番丸い

3人で完成してるとかよく言われるけどあと1枠としての熟知祭礼ディシアはかなり理想に近い

中断耐性と肩代わりででナヒ殴りが安定するし超開花の邪魔をしない程度に烈開花で上乗せできる、燃焼から蒸発過負荷も馬鹿にならんダメでてる、ついでにナヒ爆発の3元素パッシブ部活かせる

2023-03-15

「その脚、見られてますよ」おっさんによるJKへの警告

JKは脚を出し過ぎだ。

膝上まで上げたスカートはもちろん、ギリギリ見えない限界までスカートを上げているJKもいる。

そんな脚を誰が見ているかおっさんだ。

おっさんJKの脚を見る。前からジロジロ見るのではなく、後ろから見るのである

階段の後ろで。エスカレーターの後ろで。向かい合った車内の椅子で。

おっさんJKの脚を見ているのだ。

「やっぱり若い子は綺麗な脚してるな。ちょっと太いけど」

「焼けている脚だ。部活してるのかな」

「引き締まっててかつ白い脚。見てるだけで元気が出る」

そんなことを、言葉にはしないが無意識に品定めをしてしまっているのだ。

これは本能に近い思考で、内心の自由を考えれば表明しなければ許される範囲である

ただ、表明しないだけであって実際はJKの脚をおっさんは見ているのである

JKの脚を見て、仕事のやる気を回復させ、疲れを癒すのである

JKの脚は動く回復ポイントである

通勤・通学時間帯は特に回復ポイントが多く、回復ラッシュである

セーブすらしたくなるが、それはできない。

心にその脚のイメージを抱え、仕事中のふとした時に思い出し、ポーション代わりに体力を回復させるのだ。

からJKよ。

もう脚を出すな。

こんなふうにおっさんに君の脚を使われたくないだろう?

多くのおっさんが君たちの脚で気力体力を回復させてるなんて、そんな世界地獄だろう?

JKの脚が日本経済を支えてるなんて、嫌だろう?

から脚を隠しなさい。

せめて膝下までスカートを下すように。

スラックスもいいぞ。

おっさんとの約束だよ。

ドラえもんのび太と空の理想郷ポスター

芸大生が口々に「空気感も何もなくてヤバイ中学生部活レベル

っていってるんだけど、実際どうなの?芸大生の人からすると

2023-03-14

なぜクズ男に引っ掛かるバカ女は一定数いるのかを考える

私は人生の中で、周りが女の人ばかりの社会でずっと生きてきている。

兄弟しかいないし、部活吹奏楽部だったし、仕事女性向けの商品を扱う会社で働いている。

当然、友達は男より女の方が圧倒的に多い。

その周りにいる女友達統計的に考えると、クズ男に引っ掛かっている女がめちゃくちゃいる。

「私、なんでクズ男ばかり付き合っちゃうんだろ」と自覚していながら前進するつもりもない悩みを抱えているバカ女が一定数いる。

から「”なぜ”バカ女はクズ男ばかり付き合ってしまうのか」を個人的主観のみで色々と考えてみたので、備忘録用にここに書いておく。

クズ男に引っ掛かるバカ女の特徴

まず、個人的感覚としてバカ女は総じて「可哀想に見える」ことが特徴だと感じる。

親のDV頭が悪い貧困ブサイクデブ、など。。。

どんな理由であれ、オーラや話し方で「この女は可哀想に見える」と思われてしまう女は、基本的バカ女だと感じる。

これを前提として、バカ女に近寄ってくる3種類の男(全員がクズ男では無い)を挙げてみる。

バカ女に近寄ってくる男の種類①「ヤリチン男」

これはもう完全にクズ男。

可哀想に見える」ためその女の隙に手を出すクズ男。

幸せ定義を「お互いが好き同士で、ある程度付き合って、結婚する」とするならば

この男を好きなった場合基本的幸せになれない。

ヤリ捨てポイするセフレ男、もしくは「ずっと好きだよ」と甘い言葉で誘ってくる既婚者の2パターンほとんどだ。

バカ女に近寄ってくる男の種類②「同じ可哀想な人」

これはクズ男ではない。

ただ、バカ女はこういう同じ種類の男とは仲良くなれない。仲良くしたくないのだ。

なぜなら、”気持ち悪い”から

いわゆる弱者男性で、金もなけりゃ見た目も悪く、性格も捻くれている。

類は友を呼ぶとはよく言ったもので、バカ女は自分境遇や見た目や考え方を棚に挙げて、同じ可哀想な男を”気持ち悪い”と判断をする。

そのため、付き合うことな幸せにはなれなない。

バカ女に近寄ってくる男の種類③「優しい性格を持った男」

これもクズ男ではない。

いわゆる理解のある彼くんで、一見「優しい男なら良いではないか」と思いがちだがこれはイケメンに限った話なのだ

イケメンで優しい男は基本的に既にパートナーがいる。

そうなると市場にいるのは優しい性格のブス男しか余っていないのだ。

こうなると「黙って妥協して優しい性格のブスでいいじゃん」と言いたくなるが、ここであの”ヤリチン男”が効いてくるのだ。

ヤリチン男はやっぱりイケメンが多い。

そんなイケメンにも私は好かれるのだ、と勘違いをしてしまう。

そうなると「なぜ、イケメンにもモテる私が、優しいだけしか取り柄がないブスと付き合わないといけないんだ」という思考になる。

ただ、そのイケメンヤリチン男は、可哀想な女とは付き合いたくないし、生涯を共にしたいとは微塵にも思っていない。

だって、どうせ付き合うならもっと可愛くてお金を持って安定している人がいいんだから

これによって「可哀想な女」は他の種類の男には魅力を感じず、クズ男に振り回されながら1人で孤独に死んでいく”バカ女”になってしまうのだ。

以上、これが私による「なぜバカ女はクズ男ばかり引っかかっているのか」の考察だ。

結局一睡も出来なかった

アラサーニート

わかってる。今からでも就ける仕事に就くしかないことを。エージェントさんから紹介された分野の中から選ぶしかないことを。就職先がないまま大学卒業した時から4年間、ずっとわかってた。でも無理なんだ。

物流

大学生で一人暮らしをしていた時、住んでいたマンション担当する宅配の人が随分愛想がよかった。受け取り時間に不在でも電話一本ですぐ来てくれた。しかしある日見しまった。

炎天下中大汗をかきながら荷物を運び、肩と頬でスマホを挟みながら、

「おい!何やってんだよ!お前のところのエリア遅れてんぞ!バカ!いーよもう!事務所戻ってる暇なんかねーよバカ!あ、待て!かけなおす!」ガチャ

はいもしもし〜!あ、そうだったんですね!いえいえ!お気になさらず!すぐにお届けします!」ガチャ

「おい!今センターにある分だけでいいからすぐに巻きで配達しろ!いいな!」ガチャ

「あ!おつかれ様です〜!はい電話中で申し訳ありません!はい!〇〇エリアドライバーが出勤してない⁈すぐに誰か向かわせます!いなければ僕いきます!」ガチャ

「おい!誰か今日手空いてるやつすぐに〇〇に向かわせろ!」ガチャ

そのやりとりを聞いて以来、その人の笑顔が怖かった。こんな仕事無理。

土木

大学時代日雇いで、警備、荷物運びをやった。どちらにせよ上司の口が悪い。仕事が不出来で説教や怒られる事は仕方ないが、ヤンキー口調の大声で「バカ、お前」なんて叫ばれちゃたまらない。中年のくせして茶髪に染めてタバコなんか吸ってるお前の方がバカだよ。部活顧問にすらお前なんて呼ばれた事ないぞ。あと明らかに物理的に運ぶのが不可能な重さの物を物理的に不可能時間内で運ばされた。お前よりも20個年上の〇〇さんは持ててる?〇〇さんがおかしいんだよ。

介護

歯がなくなり必然的クチャ食いになってしま祖母との食事苦痛中学以降子供部屋で食事をし、高校時代祖父病気で排便のコントロールが出来なくなった際には大騒ぎして喚いて施設に入れてもらった位には糞尿やクチャ食いに抵抗のある俺には不可能派遣事務職として介護施設に入った際に「若い男性には事務より介助や作業メインでやってもらう」と言い放たれ、その場で人材会社電話し抗議して帰宅した。

営業

ある日うちに保険営業マンが来ていて、「爽やかで好青年なお兄さんだな。営業は考えてなかったけどエージェントからも紹介されてたしいいな」と思った。

しかし、お兄さんが我が家を出た瞬間に電話をかけ「はい…。申し訳ありません…。まだ回りきれておりません…。はい!必ず今日中には…。お手数おかけして申し訳ありません。回りきるまで事務所には帰らないつもりで頑張りますはい!」と言っていたのを聞き、断念。

結論

就職を諦めるしかない。即ち、恋愛結婚貯金文化的生活趣味も、全て諦めるしかない。親が働けなくなればその先は…。苦しい。

漠然とした。多分私の人生の話。

急に昔の話をしたくなったので衝動ではてぶに登録した。

多分春だからだと思う。これは花粉症の症状の一つ。

そもそも、真夜中にこのブログを開設するあたり、私はもう正気じゃない。

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漠然とした。多分私の人生の話。

5歳の頃、家族旅行アメリカへ行った。国外旅行へ行くのはこの20数年間でこの一度だけ。知らない言語に囲まれて、知らない文化に触れた、初めての経験

私はそれまで、父親よりも背の高い人間がこの地球にいるなんて知らなかった。

幼稚園キリスト教系だった。でも園の中に十字架とかそういう「偶像」がなかったので、私が日々の中に神の存在を感じる機会は非常に限られていた。お弁当を食べる時になると手を合わせて祈りを捧げた。「神よ、日々の糧に感謝いたします。アーメン」。この時間くらいじゃないだろうか。

先生たちは定期的に聖書の話をしてくれたけれど、当時の私には理解できなかった。そして多分先生たちも私たち理解することを求めていなかった。卒園式で綺麗に装丁された聖書記念品にもらった。字が読めるようになり、心に哲学概念が沸いた年齢になった時に初めて読み返した。そしてようやく何かしらは理解できたと思う。多分。…。時間差があるね。

でもこれだけは覚えているのがある。園長先生という方は非常に柔らかいお話の仕方をなさる方だった。わかるようなわからないような、でもそれはそれとして言葉がスーッと染み込んでいくようなお話をなさっていた。

先生はいつもこうおっしゃっていた。唇に歌を忘れずに。光の子として歩みなさい。

前半は知らない。でも後半は聖書の一節だ。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意正義真実とが生じるのです」

小学校の頃は全く覚えてない。

中学時代勉強はできるような、できないような子供だった。

英語音楽国語だけできた。でも国語担当教師と年がら年中喧嘩してたので評定に定期テストの点数が反映された記憶がない。

英語は楽しかった。小さい頃漠然定型分だけ覚えて旅行に行ったあの「英語」が、形ある理論知識として目の前に再び現れた。いうなれば、旧友との再会のような。互いに少し成長していたけれど。

音楽は、心の拠り所を得るために気まぐれで合唱部に入ったら急に歌えるようになった経緯がある。何それって話なんだけど、私もよくわからない。ただ、ある日ある時急に突然「声の出し方、響かせ方」が分かった。2年生の時、ソプラノソロパート担当させてもらった。嬉しかった。あれは、私が自分の実力だけで勝ち得たもので、そして私にもできるものがあるのだという証明になったから。音楽先生卒業式の日私の母をとっ捕まえて手を握ってこう言ったそうな。

お嬢さん音大に行きたいと言ったら、どうか止めないで入れてあげてください」と。

周りの子供たちは「自由」が増え、レンタルショップビデオを借りた。麓の街に行って、友達同士で服を選び合った。私にもそんな自由が欲しかった。漫画の貸し借りをしてみたかった。アニメ情報を共有してみたかった。

ある日、一緒にピアノを習っていた友人から楽譜を借りた。

彼女は「あなたが弾きたい曲が入ってる楽譜、家にあるから貸してあげる。家まで来て」と言った。彼女の家は私の家とは少し離れていた。やや逆方向寄りなのだ。でも私は彼女について行った。そして楽譜を借りた。

家に帰ると母は非常に機嫌が悪かった。ただいま、という挨拶に対して返ってきたのは「どこほっつき歩いてたわけ?」だった。確かに帰宅時間は通常より20分ほど遅かった。

正直に話した。友人の家に寄って楽譜を借りてきた、と。楽譜没収された。

ちなみにその友人は時々漫画も貸してくれていた。しかし母はそれを目敏く見つけて隠した(母はよく私が学校にいる間に私の部屋に入って物を漁っていた)。そして3週間ほど経った頃にクロゼットから出してきて「あの子に返してきなさい、今すぐに」と言ったのだ。

少し考えればわかること。この家は、何かが少しずつ狂ってる。

私にも自由が欲しいとゴネた事がある。他の女の子みたいにガーリーな服(当時は少し露出があるのが流行っていた記憶がある)が着たい。髪を伸ばしたい。休日友達とお出かけをしたい。バレンタイン友達チョコレートの交換をしたい。

ことごとく跳ね除けられた。

おしゃれがしたいなら家でやらないで外で自己主張して頂戴。学校お菓子を持ち込むのは校則違反でしょ?(それをバレンタインの日だけは黙認されてるから私にもやらせてくれと言ったのだが。)お出かけして遊ぶ暇があるならピアノ練習して勉強したらどう?アンタは目の前の遊びを取って将来を失うつもり?それに私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ。

そんな言葉で私の心はポッキリだった。でもその時はまだ幼かったので「高校生になったらきっと変わる」と思っていた。

ちなみに上記言葉を言われた後で私は一度だけ地域お祭りに友人と行ったことがある。

一言で言えば、つまらなかった。目に映る何もかもがくだらなく見えて、そんなくだらないものにはしゃげる友人たちが寧ろ一周回って羨ましく思った。その日の私はピアノ練習もしなかったから、鍵盤が恋しかった。結局皆より一足早く帰宅したはずだ。

…そんな私の感想に、母は非常に満足げだった。こればかりは癪にさわる。

高校私立女子校入学した。良い大学に行くことだけが目標だった。それさえ達成できたなら、きっと私の人生は報われると思った。おしゃれらしいおしゃれをしなかったことも、友人と行ったお祭りを楽しめなかったのも、バレンタインの日にお菓子作りをしなかったのも、全部全部。

周りの友人は有名らしいアイドルにどっぷりとハマっていた。週末になれば電車に乗って遠くへ行き、グッズを買い、ブロマイドを買い、皆で見せ合って楽しんでいた。

街のお祭りを楽しめなかった女は、アイドルの良さもわからなかった。女の子たちが「ねえねえ、このひとカッコいいと思わない?」と見せてくるのを適当に「ほんとだ、カッコいいね」と返した。

ちなみにミュージカルをやる部活に入ったが、言わずもがな母は私がそこに入部するのを死ぬほど嫌がったし、門限は昔よりもシビアになった。当然遊べなくなったし、部活も毎回早退していた。それは舞台本番の1週間前でも変わらなかった。先輩も同期も私の家の事を理解してくれていたことだけがいである。あの人たちは皆優しかった。でもその優しさに永遠に甘えるわけにもいかなかった。当時私はスマホを持っていなかったから「今日だけは門限を伸ばして」と公衆電話から家に電話をかけた。「それなら家に入れてやらない」とだけ返されて電話を切られた。私は職員室の前で泣きながら「どうしろって言うんだよ!」と叫んだ。

その部活は1年生の冬に廃部になった。まあ色々あったのだ。晴れて私は本当に勉強しかすることの無い暇人になったのである

英語にのめり込んだ。きっと海の向こうの人たちが喋ってる言語は私の住む世界を広げてくれると思った。

音楽は私の心の拠り所だった。親には「私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ」と言われていて、それでよくピアノが嫌いにならなかったな、と思わないでもないが、それはひとえにピアノ先生の教え方が非常に上手かったからだ。あの先生は一生の恩師と言っても良いだろう。ピアノ技術だけでなく、音楽を体全体で楽しむことの大切さを教えて下さった。

必死勉強して、そこそこ良い大学に受かった。当時は大学入試の定員規定が厳しくなったばかりだったか絶対浪人すると思ってたけど、受かった。第0志望、希望希望通りの学科

高校生の頃(というか小学校中学から)ずっと母は私に「アンタみたいに頭の悪いやつは、私の時代なら商業高校に行ってたよ。今はいいね、アンタみたいなバカでも人並みに高校に入れて受験できるんだからさ」と言っていた。

何度も娘をバカだと言わなくて良い。言われなくても本人がちゃんと分かってる。

大学は色々な地域から色んな人たちが入学していた。

同じ地域に住み、同じ景色を見ていた小中、その延長線上にあった高校とはまるで違っていた。私のような実家住まいもいれば、一人暮らしで頑張る人もいた。

でもこれだけは断言したいが「明日屋根心配しなければならない人」は私以外あの空間には存在しなかった。

大学講義は遅くて6時に終わっていた。母は言った。

「7時半には返って来れるでしょ」

まり、7時半が門限だということだ。大学生の、門限が、7時半。

あんまりだよ、と泣いた。父を説得しようとし、父方の祖母を説得しようとした。大学生なんだよ、大人だよ?と。でも父は母のイエスマンだったし、祖母(と叔母)は如何せん価値観が若干古かった。「7時半は十分遅いよ、お母さんは譲歩してる方だと思う」と言って譲らなかった。

遊ぶことはなかった。化粧もしなかった。ファンデーションだけだった。化粧なんてね、若いうちは要らないの。それが母がいつも言うことだった。

少し考えれば分かること。あの時の母は、私を完全にコントロールたかったのだ。

大学2年生の時、母に内緒彼氏を作った。

その年の秋、私はこれまた突然、手首を痛めた。関節炎だった。ピアノの弾きすぎ、PCの打ちすぎで利き手ではない左手に過度の負担がかかったらしい。もうピアノは弾かないでください。と言われた。

あの時の絶望といったら。私は身近な人を突然亡くした経験はないけど、多分親友がある朝突然死んだらこういう気分なんだろう、と思った。うまく使えない左手、もう弾けないピアノ。虚無感、なんて言葉じゃ補いきれないものだった。

私にとってピアノはそれほど大きな存在だった。嬉しい時も辛い時も一緒にいたのが、ピアノであり、音楽だったから。

その時急に現れたのが昔の知り合いだった「彼氏」だった。

少しずつお互いのことを話す中で私は小さな打ち明け話をした。休日が大嫌いなんだ、と。

当時母は土日のたびに癇癪を起こしていた。やれ私の歩き方が気に食わない、やれ私の話し声が気に入らない。どうしてアンタは私の気に入るように振る舞わないの?と。当時私は土日の早朝6時〜9時でコンビニアルバイトをしていたので、その早朝勤務の後に母の喚き声を聞くと言うのはどうにも「来る」ものがあった。

さて話を戻すと、私の打ち明け話を聞いた彼は私を週末のお出かけに誘った。電車の向こうの街でかれこれこういう催し物があるらしい、行ってみようよ。気分転換にさ。と。そういう具合に。そして私はその誘いに乗った。

母には「友達と出かけてくる」とだけ言った。情報は不足しているかもしれないが、嘘はついていない。少なくとも当時は彼はまだ「友達」だった。

そしてその友人は彼氏になった。

から告白された時、私は一種のチャンスを感じた。きっと私は自分証明できるとお思った。私の人生は私のもので、私の人生の決定権は私が握っているのだと。

しかも、当時の私が心から欲していたのは「絶対的な安全」だった。そして痛めた手首によって失われた「心の拠り所」だった。

きっと彼ならそれらをくれるだろうと思ったので、私は彼の告白同意した。

まりにも、身勝手


彼はそれ以来ちょくちょく私を外へ連れ出した。

その度に私はまるで世間一般に溶け込んだ気分になっていた。世間一般の「普通の子」になれたように思った。そしてその時私は心から喜んだ。「生きてる!」と無邪気に思えた。

私が勝手に出かけ、挙句彼氏まで作ったので、母は怒った。最初父は「別にいいんじゃないか?」と言っていたが、母があまりにも怒るので父も手のひらクルリと返した。

彼の名前学歴を言わされた。ひどく侮辱された。

母は私から家の鍵と財布の金、銀行カード没収した。お前に鍵と金を渡すと碌なことにならない、と言いながら。(ちなみにこの銀行カード、取り返したら今度は月に3万、家に入れる事を要求された。当然今度は私の生活費が足りなくなってバイトを増やしたら、要求される金額がまた増えた)

母は、アンタがどこへ行ったか全部わかってるんだからね!と怒鳴った。最初意味がわからなかったが、どうやらあの時の母は私をスマホGPS機能で追跡していたらしい。それが判明した時、私は泣いて彼氏に詫びた。どうしようもないものに巻き込んでしまったと思った。ざっくり言えば、母のやったことは犯罪に近いのだ。

彼は「気にしてないよ」と言った。

私は「いや、そこは気にしてくれ」と思った。というか、そう言った。

彼は「お前がかわいそうだ、どうにかして救いたい」と言った。

その心はありがたかったが、ありがたがると同時に私はそれを拒絶した。

「かわいそう」と軽々しく言えた彼はどこまでも温室育ちだった。4人家族ペット付き、平均的かそれよりも幾許か上の環境で、ぬくぬくと、二親に愛されて育ち我らが王子様のような扱いを受けてきた彼が言ったのは、永遠に「かわいそう」な立場にはならないであろう人間の、無意識傲慢だった。

「救いたい」と言った彼は、きっと人間人間を救えると信じていたのだろう。確かに信じるものは救われるとは言うけれども、彼氏とはいえ第三者立場人間他人を救えるのなら、今頃イエスキリスト聖母マリアもこの世から用済みだろうし、仏典聖典も要らない。でも世界にはそういうもの存在するのだ…。彼はそれをちゃんとは理解していなかった。

私の状況も、世界の状況も、「聞いて知ってはいる」けど「理解」はしていなかった。

彼氏母親という人は、息子から私の家の状況を聞いて、こうコメントした。

「あそこの大学の子だと聞いて安心していたのに。それじゃあ全く、訳アリのお嬢さんを拾ってきたってこと?」

…ってうちの母がいうんだ、面白いよな、訳アリだなんて。と彼は笑いながら言った。少なくとも彼の中で「訳アリ」という言葉一種ネタとして消費されたらしい。

私は彼氏ができた、とか勝手に出かけた、とかそういう「罪」で度々家を追い出された。そんな時私を匿ってくれたのは大学の友人たちだった。

追い出されるたびに顔色が悪くなる私を見て友人は私の目を閉じさせ耳を塞がせ、その間に家中刃物という刃物を知らない場所に隠した。彼女曰く「今のアンタに刃物を見せたらすぐさま死んでしまいそうで怖い」。当時の私は一体どんな顔をしていたのだろう。

結局、私は彼と別れた。

彼は普通の家で育った普通人間だった。そんな温室の彼を「私」という人間に巻き込み、異常なものを見せ、その一部だけでも経験させてしまたことは、私が負うべき「罪」のように思った。そして、そんな異常な場所から彼を一刻でも早く遠ざけようと思った。「かわいそう」という言葉も「訳アリ」という言葉も、ネタとして理解できる世界に戻そうとした。

それが正しいかどうかは本当にわからない。でも身勝手だったとは思えど、あの時の私にできた「最善」の判断は、それだった。

どうか彼には「普通」の彼女ができていてほしいと思う。そして、私の視界に入らないところで幸せになってほしい。

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大学3年生になり、2つの喪失、「普通」の概念について考える日々、加えてコロナ禍。最悪だった。それでも秋までは保った。そして秋になって体調を崩した。

感情がわからなくなった。楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか。

指先から血の気がひいた。四六時中まるで体全体が後ろから引っ張られているような感覚だった。

ほんの少し正気に戻ったその瞬間に病院に行き、うつの診断を貰った。ついでに精神安定剤も貰った。(本来抗うつ剤をもらう予定だったが、そういう精神に効くタイプの薬を飲んだことがなく不安だったため、安定剤からスタートになった)

家族はまるでお手本のような否定言葉をぶつけてきた。

仮病だ、とか、考えすぎだ、とか、甘えだ、とか。診断をした医者はヤブだ、とも言った。そして私から保険証現金没収した。よって私は途中で治療が止まっている。


正直、大学3年4年をどう過ごしたか記憶がない。

ちなみにかの「原神」を始めたのは4年の最初だったか、それくらいだったはずである。(タブレットデバイス様様で、こういうゲーム自分スマホに入っていれば「実体」が無いので、両親は私が流行りのゲームを始めただなんて夢にも思っていない)





うつの診断を受ける前だったか後だったか、とにかくその辺りの時期に私は数回手首を切った。そのうちの一つだけ、鮮明に覚えている。

衝動に任せて切って、うっすらと血を滲ませた。最悪だったのはそれが金曜日で翌日にはバイトがあったということだ。(※この時は体調の限界やらシフトの都合やら色々なものが重なって、私のシフトは早朝6時〜9時ではなく、9時〜12時に移っていた。そこには私の幼馴染の男の子も一緒に働いていたので、早朝から働いていた時よりは幾分気が楽ではあった)

さて左手首を切って血を見て1時間、なんとなく冷静になった時に気が付く「待てよ、明日バイトじゃん」は本当に最悪だ。急いで薬をぬり(強めのステロイドだった気がする)、ガーゼを乗せて包帯を巻いた。

翌朝幼馴染の彼は「それ、どうしたんです」と聞いてきたので、私は笑って言った。

「関節炎の湿布


この幼馴染、私が怪我をしたとなるとまるで問診か何かのように問い詰めるのである。どこで怪我をしたの、どうして怪我をしたの。その時何があったの、いつもと変わったことでもあったの。

手首は数回掠った。そしてもし、もう一度でも金曜日にそれをやった上で「どこで、どうして怪我をしたの」と問い詰められたら、私は誤魔化せる自信がなかった。

そもそもコンビニアルバイトなんて、いつヘルプ要請が入るかもわからないものなので、それが金曜日じゃなくても、手首を切るのは普通にアウトだった。いつか誤魔化せない日が来ると思ったし、その調子で切ってたら取り返しのつかない事になるのは目に見えていた。

それ以来、手首を切るのは自制している。少しばかり、褒めてほしい。

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先日、この幼馴染と少しばかりの遠出をした。

出かける予定を作ったことを正直に母親に白状し、許可を得た(これがまたハードルが高かった。)母は私たち電車で行ったと思っているが。

私は彼が運転する車に乗って遠出した。





帰りの移動だった。彼は、夜の暗闇が一番好きだと言った。

私も夜が好きだと返した。夜は良いなと思う。あの暗闇も、程よい明るさも好きだ。

その日すっかり疲れてしまっていた私はぼんやりと、彼に少しばかりの昔話をした。

まだ私が早朝6時のバイトシフトに入っていた頃、5時に起きて支度をしていたから冬の早朝は真夜中みたいに真っ暗だったのだと。そして少し季節が春に近づくにつれて日の出時間も早くなり、西の空は暗く、東の空は明るくて、私はその真ん中に立っているような錯覚を覚えたのだと。まるで、昨日と明日の境目にいるような気分だったと。

ある時私は親に家を追い出されて、月曜火曜ならまだしも金曜日に追い出されたのなら翌朝のバイトは始発電車に乗らないと間に合わなかった。まだ空が真っ暗な時間にそっと友人の家を出て、電車の窓の外がうっすらと明るくなるのを見ていた。

そう言った。話し終えてからようやく自分が一体なんの話をしたのか、一体彼に何を聞かせていたのか気がついた。

変な話してごめん。私の家の騒動を知ってて私を家に泊めてくれた友人くらいしか知らない話だ、多分他人に初めて話した、幼馴染の女の子ですら知らない話だ…。と途方に暮れながら謝罪したところ、彼は「そうだろうね」と言い、こう続けた。

「よく、怪我しませんでしたね。危ないでしょう、色々と」





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今も私は「普通ってなんだろう」と考えている。

家では相変わらず母がつまらないことで喚き散らしているし、私の髪の一本一本にすら執着し干渉している。そして相変わらず父は母のイエスマンだ。


幸せになりたいな、と思う。

でもまず私は「幸せってなんだろうな」から思考を巡らせなければならい

そもそもはいまだに感情の生成についての問題解決していない。

たぶん私という人間も私の家族も、私の家の一族も何かしらが「おかしい」のだ。皆が皆で、それぞれ違うベクトルで狂ってるから、その異常性に気がつきにくい。

でも気がついた人が気がついた時に「終わらせなければならない」。母は自分自分母親と絶縁した。もしかしたらそれはいつか来る自分未来だと思う。

それはそれとして、もし誰かが私の幸運をほんの少しでも願ってくれているのなら、多分、私はまだ幸せだ。

2023-03-13

合格最低点前後の点数を取った受験生層は高校までの経歴で入れ替えられるべきか

合格最低点プラスマイナス数点の点数帯の者に履歴書を書かせて点数化し判定し勉強部活以外にも複数のことを頑張ってた人が受かるべきか

高校野球21世紀枠のように

2023-03-12

トランスジェンダースポーツ参加問題

これですが、解決策は簡単だよね。

https://www.afpbb.com/articles/-/3455010

男女平等かつLGBTQ解放観点から解決策は、スポーツにおける性別情報の取扱の禁止だと思います。つまりあらゆるスポーツにおいて男女LGBTQ混合で行いますが、守旧的な「混合」、つまり男子2女子2」とかそういう意味ではありません。真の意味性別無関係に、いか競技で勝つか、もしくは、いかスポーツを楽しむか、だけが目的となるでしょう。

女子サッカーなんて、「女子」だなんて、いかにも伝統的価値観だしな。ダメです。

ただし新しい価値観の定着には時間がかかりますし、現時点の女子トッププロ選手キャリア破壊してしま可能性があります。これは良くない。

ただ、スポーツは、20代後半〜長くても40代くらいまででトップクラスとしてのキャリアを終えることがほとんどと思うので、他の職種と比べてターンオーバーが速いというメリットがあります

まずは初等教育において全ての体育科目部活を男女混合とすることから始めて、小学一年生から男女混合でやっている世代が入っていくごとにその競技を男女混合にしていくではないでしょうか。

ところでそれをする上で、更衣室やトイレはどうしましょうか。と、このことを考えること、それも、教師、生徒、そして社会ちゃんと参加した議論で決めていくことで、社会としての男女平等やLGBTQへの国民の態度の取り方がきちんとしていく、ということではないでしょうか。

ただし、現時点の女子トッププロ選手キャリアを守るために変革のスピードを緩めると、現時点のLGBTQスポーツ選手が苦しむということがあり、この点をどうすれば良いのか、識者のお考えを教えてください。

私は一市民で、この問題専門性全然ありません。

アハァン❤️部活イクゥッ!!

2023-03-11

最近友達が無理になった話

10年来の友人が無理になった話をします。

◼︎登場人物

 私…時間はきっちりしたい派。

 A子…遅刻多め。(数分)

 B子遅刻多め。(数分)

 C子…遅刻多め。(数時間ドタキャンもする。

学生時代、A子、B子、C子は同じ部活で私は別の部活だったが、全員同じクラスで仲良くなった。

遊ぶ時にA子もB子も待ち合わせ時間には着いていないことが多かったが、とりわけC子はドタキャンや数時間超の遅刻が多く、当時から私の中では看過し難い人物だった。

C子はグループから、とかではなくサシで遊ぶ時にもドタキャンをする。本当にやめてほしい。

私は両親に待ち合わせ時刻の10分前には着け、と言われて育っていたため基本的彼女らとの時間は合わず、一人でみんなが来るのを待つことが多かった。

大人になれば変わるかな、と思っていた。

社会人になってからも年に数回は会う仲で、以前よりはA子B子遅刻癖は減ったように感じる。C子はあまり変わらずだった。

数ヶ月前、みんなで会おうとグループLINEが動いた。

A子、B子不定期の休みのため日程調整を作った。

A子B子は率先して回答を行い、私もすぐに回答をした。C子は既読だけつけ、回答はなかった。

仕方なくA子とB子と私だけで遊んだ。当然、C子の話が挙がる。

A子はC子に対して「ムカつく」と話していて、B子はC子に対して「心配から個別で連絡してみる」と話していた。私はB子は優しいな、と思いながら「もう無理かも」と答えていた。

日経ち、「今月映画を見に行こう」とまたグループが動いた。

A子は予定が詰まっていたらしく、すぐに日程を決めたがっていた。

A子はC子にメンションを行い、「〇〇観たことある?」と聞いた。すぐに「ない」と返事が来ていた。

メンションしたら返事するのか、と思い私もC子にメンションした。「B子とC子の行ける日教えてね。」「ところでC子は行けるの?」と。

ところがメンションしたにも関わらずすぐに既読はつかなかった。

今まで既読だけはついていたはずなのに、と私はかなり腹が立っていたが、忙しいのかもしれない、と3日は待つつもりだった。

5日経っても返事も既読もなかった。

私はそのグループLINEでC子を非難し、B子とA子で日程合わせてくれとお願いした。

すると1時間もたたずにC子から既読つけなかったんじゃなくて付けられる状況じゃなかった」と訂正が入った。

はいや、どんなに忙しくてもいまいそがしい、の数秒が打てないことあるのか?とめちゃくちゃキレていた。そのように指摘した。

その後はC子から謝罪されようが上の空で、私の中でC子は友達から「もう遊びたくない、連絡もしたくない人」に降格した。

私はA子、B子の3人のライングループを作った。そこはほぼ毎日のように連絡が行き交っている。

C子の内心はよく分からない。

私達と遊びたくないのか、縁を切って欲しかったのかもしれない。

もうこれからは4人で会うことは無いのかもなと思ったが、あまり寂しい気持ちもなくスカッとしている。

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