はてなキーワード: 流川とは
Twitterで感想を呟こうとしたら、長くなりそう、かつ、深夜に書いた手紙のような気持ち悪い感じになりそうなので、こちらに書くことにする。
リアルタイムで漫画は全巻読んだがアニメは見なかった程度の緩いファンだったので、ほどよく忘れており、試合展開を楽しめた。
実は、漫画を読んでいた時は、ちょっと便利屋というか都合のいいキャラだと感じていたのだ。
他のキャラよりもバックグラウンドが描かれていなくて、普通に性格とノリが良く、バスケも熱心で上手、という、とても緩衝材的な役割のキャラで、逆に何を考えているのかがわかりにくい。
メインキャラの中では、流川も何を考えてるか描写されない不思議なキャラなのだが、流川は行動で『偏屈』が示されている。
そして、私が大人になったので、流川のことを『バスケが好きで負けず嫌いで、初心者の花道にしゃしゃられるのをウザイと思っている高校生』と認識できるようになっていた。
こいつにも複雑なバックグラウンドがあるかもしれないのはさておく。
この2人の部活以外での描写が少なかったのは、映画の中でもわかる。
山王の応援団のすごさに対し、晴子たちが「妹と友達と敵(三井の友達)」と言うが、そこに宮城と流川の関係者はいない。
モブの中にいたかもしれないけれども、それまでのストーリーの中に出てこなかったから、そこで隣に座っていないのだ。
今、思えば、インターハイに出ているのだから、親くらいは来ていてもいい。
昔の少年漫画なので、本筋に関係ないところはサクサク飛ばされているのだな。
そんな漫画のイメージからすると、宮城リョータの過去は意外だった。
かなり重め。
しかし、プレッシャーを表に出さない、平気な顔をしている、という人物造形と合わせると、実は漫画の裏でもこうだったのか、という納得感がある。
出来のいい兄の影のように感じていたのか、そのあたりの描写はあまり直接的ではなく、試合の中で昇華される。
兄が倒せなかった山王を倒すというのはかなりベタな展開だが、スポーツものなので、そのくらいのほうがスッキリしていて良い。
惜しむらくは桜木花道との試合前の絡みが薄いと感じられるところだ。
漫画の主人公が桜木花道なので、彼は試合展開で何度もとても重要な役割を果たす。
先入観がなく映画を初めて見た人には、そのあたりは唐突に感じられるのではないだろうか。
映画の主人公である宮城リョータが、入部してすぐくらいの時期に花道に一目置くようなシーンがあってもよかったのではないかと思う。
そしてそれは、花道がこつこつ練習をする姿ではなく、破天荒な明るさ、突破力的なものであったほうが、後半の展開と合う気がする。
ところで、漫画の山王戦で赤木が「俺は間違っていなかった」と思うシーンがとても好きだった。
彼のひたむきな努力が報われたと思った。
しかし、あれから30年近くたって大人になると、先輩や同級生が間違っていたわけでもないよな、とも思う。
高校生活の一部として部活を楽しむ、という選択肢は普通にあっていい。
これが高校野球なら、本気で甲子園を目指す生徒は、最初から甲子園が射程距離にある高校に入るだろうと思われるからだ。
甲子園を目指す生徒と、3回戦突破を目標に野球を楽しむ生徒は、入学の段階で住み分けができている。
近所だったり偏差値だったりで選んだ挙句、住み分けが出来てないことになりそうだ。
漫画でも、県大会で有名な強豪校が出てきていたので、やっぱり赤木のほうが空気読めてなかったというのは十分にありうる。
なので、「間違っていなかった」ではなく、一人ではなく志を同じくする仲間がいるという描き方になったのだろうか。
とても良かった。
でも、弱小チームに安西先生がいて、流川が入学してくるという不思議は、私の心の中での疑問として残る。
流川、おまえ、なんで弱小チームに入ってきたんだ。
漫画には描かれていたかもしれないと思うと、一度は手放したコミックスを再度買おうかという気になる。
ああ、漫画が読みたい。
そして、もう一度映画に行きたい。
最後、試合の結果を知ってたのにドキドキして見守ってしまった。
名作だ。
リョータメインだから原作のあらゆる熱いシーンがカットされててガッカリした
魚住が赤木を諭しにこないで先輩の胸糞シーン入れるなら赤木が泣いて木暮の「こんな仲間が欲しかったんだもんな」のセリフ残す方が良かったと思う
ダブルチームとは言っても沢北とマッチアップしてたのは流川の印象が強かったから最後アメリカ行ったのが宮城で流川の「今日ここで倒していく」みたいなアメリカ宣言がなかったことになって驚いた
何より花道と晴子さんが無でショックだった
「湘北に必要な男になったぞ」と「いつか救世主になるかもしれないよ」がなかったの悔やまれる。レイトショーで見たから「大好きです。今度は嘘じゃないっす」て肩掴んでいうシーン寝てて見逃したかもしれないな
彩子さんは可愛かったし沢北が試合前に試練が欲しいってお参りしたの思い出して泣くところはよかった
漫画読み始めた
・山王のキャラ、映画だとストイックな高校生たちって印象だったけど、漫画は丸ゴリが序盤はモテを意識するキャラだったりエースの人がいじられてたりキャラクター感があっておおってなった
・とにかく名作すぎてネットミーム的に使われてるコマがすごくあるから、感動のシーンで胸熱と赤ペン先生感が同時にくる
1番これは!ってなったのは「退屈なんだよお前らなんて」を蛸壺屋さんがけいおんで描いたところ
・三井さんがボコられながら「 されたくなかったら体育館出てけ二度とくんな」的な声掛けに「ちくしょう…ちくしょう…!」ってなって意地でも出ていかないシーン、感情が揺さぶられた
・桜木軍団、漫画がバスケ漫画路線確定した以降は出ないのかな?と思ったら割とたくさんでて驚いた
スラムダンクは桜木君がバスケットマン覚悟完了までを描く物語でもあるから、変化前の桜木君側を知ってる人、旅立たれる側の人がいると変化がよりエモーショナルになるのかごにゃごにゃ
覚悟完了までで全国行けるのすごすぎる
洋平君がカードキャプターさくらのともよちゃんと言われてていとおかし確かに
谷沢→日本では敵なしでバスケを深いところで舐めてるが、そこを安西に咎められ基礎漬けにされて殺害された。
沢北→日本では敵なしでバスケを深いところで舐め始めたところに、
親父がアメリカ人チームとの対戦をお膳立てしてくれて自分の現在地を知った。
安西の過去のしこりである谷沢にならなかった谷沢として、谷沢の後を追う流川の前に立ちはだかる
という、結構重要な役割を任されてるんだなと読み返してて思った
作中で見ると沢北って正直、プレイヤーとしては仙道のほうが上に見えるというか
脅威度でみたら河田のほうが怖い感じがして、案外最強の敵ポジ感が薄いんだよね
どうしたって作品自体の主人公が桜木だとしたら、そこにはあんま壁にならないのもポイント低い
・初ベスティア
音がいい気がする?
足踏みの音とかボールが弾む音とか
合っててすごくよかった
すごく面白かった
・キャラがみんなかっこよかった
好まれそうだな」って思ってた主役扱いで驚いた
「流石に映画だし負けることはないと思うが
負けエンドも微レ存…?」って
・最後の5秒の息を止めるような緊張感すご
主人公や…
・流川くんの顔が出るたびに
いちいち「おお…顔がいい…」ってなった
カッコイイし見てよかった
(視聴理由→
たくなった
(花流と流花は逆カプ界隈が仲良しだったという
当時の話を知ってたから当時一斉を風靡した
できなくなっていたんじゃ
ハマってたじゃろうな)
見させて頂いてどうなっちまうんだ…
良すぎて2回めIMAXでみた
漫画も読み始めた
安西先生は優しい監督のように言われているが、実は才能がない人に対して極めて冷淡で、ほとんど興味すらないと思う。調べると同じような意見が結構出てきたので、スラムダンクファンの間では長く語られていたようだ。
スラムダンクをリアルタイムで読んでいたころ、おれは10代だった。40代になり、自分には才能も何もない、安西先生に無視される側の人間だと25年かけて思い知らされたいま、当時は気づかなかった安西先生の冷酷さが浮上してきた。レギュラーを取れない補欠としての人生が確定したような、苦い鑑賞体験だった。
スラムダンクを美化しすぎなんだよ。たくさん張った伏線を回収せずに終わらせちゃったのと同じで安西先生の人間性のことなんて作者が何も考えてなかっただけのことだろ。
「井上雄彦は一貫して安西先生を才能にしか興味のないキャラとして描いていた」「当時は気づかなかったが、その後の人生経験を経てそのことに気づいた」という話をしており、この人は真逆のメッセージを受け取っている。まあおれ含め、読者は読みたいように読むもんである。
この手の意見が多いことに困惑した。「いまの価値観から見ると違和感がある」みたいなことは想定していなかったので、なぜ大勢がそう受け取ったのかと不思議だった。
「ケガを放置するなんてありえない」という点を「令和の価値観」と受け取ったのかと考えたが、おれの感覚は異なる。例えば沖縄水産高校の大野倫投手が怪我を押して投げたことで全国的にバッシングされたのは1990年のことで、当時からして「怪我人を強行出場させるなど監督失格」という価値観は定着していたであろう(そもそも安西先生本人がそう言ってる)。「令和の価値観で批判するな」という人とは、この点の見解が食い違っているのかなと感じた。おれからすると「君らは平成のことがわかってない」となるのだが、まあどっちが正しいかは検証が必要であろう。
個人的にあの桜木が怪我した状況はいらなかったと思うんだよな。桜木の選手生命を失うかもしれない自己犠牲の上に成り立たせた感動の試合みたいな展開にはして欲しく無かったんよ。
半分は同感なのだが、山王戦は感動ポイントもりもりのデラックスパフェで、そこにさらに「怪我を押して強行出場」という沖縄マンゴーを乗せて蜂蜜をかけるようなことをしたため、あれほどのエモーションを生んだことは否定し難い。おれが編集者なら(嫌いな展開だが)桜木の怪我は切らない。サービスサービス。
安西って谷沢の一件で指導者を実質引退したんだろ。で、公立高校の顧問でのんびり隠居してたとこにとんでもない才能が現れて、急に昔を思い出してやる気になっただけ。
安西先生やる気全然ない監督で、流川という才能が入ってきたからやる気出したんだよね。そんでさらにまさかの赤毛素人が同じくらいの才能持ってた。
この手の意見は同感。
“安西先生は優しい監督のように言われているが、実は才能がない人に対して極めて冷淡で、ほとんど興味すらないと思う。”昭和生まれが高校生の頃のの強豪校の運動部はほとんどそんなイメージ。レギュラー以外無視
ブコメでも描かれているが、海南の高頭監督なんかはかなり選手のことを見ていて、神や宮益といった人をきちんとフックアップして戦力に育成している。こういうバランス感覚のある監督を敵将として配置している一方、自軍の大将にいびつな才能の悪魔を置いているあたり、井上雄彦の面白い点だと思う。作品の瑕疵だと言いたいわけではなく、むしろプラスの評価をしている。
自営業で半分FIREしてる親父が60過ぎてからシルバー割りで映画を見まくっている。
基本的には実写専門でアニメはほとんど見ないのだが、見るものがなくなったそうで
話題の「THE FIRST SLAM DUNK」を見てきたらしい。
ちなみに原作は未読。
2.最初三井と流川の見分けがつかなかった。他のキャラは個性的なのに。
4.宮城が主人公なのにちょいちょい桜木が存在感出してくるアンバランスさはある。
5.チビでもNBAで活躍できるけどロングレンジ前提だから宮城じゃダメじゃない?
全体としては非常に満足して帰ってきたようで、今年見た中では3本の指に入るくらい良かったとのこと。
親父は昔からBSでNBAを見ていてバスケ自体はかなり好きなので
作中のバスケの試合シーン表現に関してめちゃくちゃ満足度が高かったと絶賛していた
ストーリーに関しても普段から別にバックストーリーありきでバスケ見るわけじゃないし
回想とか台詞とかで大体この選手はこんな感じってのは分かるからおおむね問題なかったとのこと。
この辺は原作未読のほうが柔軟性がある見方ができるんだろうか。
チビでも宮城じゃダメって件に関して俺は「アイバーソンがおるやろがい」と反論したのだが
「もし宮城がアイバーソン級なら山王相手に一人で50点取ってる」と言われて何も言い返せんかった。
予告見た時はペラペラの変なアニメかと思ったら、その感じはほとんどなかった。あの映像表現はボールの重みも感じるし、立体感がすごくあった。素晴らしい。今年のベストはトップガンマーベリックだと確信してたがこちらだった。全く期待してなかったのに。
あと観客の熱量がすごい。映画館でみんなポスターの前で写真撮りまくり。私は2組から写真撮ってくれと頼まれた。
あえていうなら
二日前くらいに同じ内容のエントリを適当に書き散らしたけど、結論めいたものが出てこなかったんだけど、ちょっとだけ反応があったのでもう一回書いてみる。
いちおう結論ぽいのは出てくると思う。
まずロボットアニメにおけるロボットってなんなん?っていうと、これは例えばスポーツ漫画でいえば競技になる。
スラムダンクならバスケットボールだし弱虫ペダルならロードレースだ。スポーツじゃないけどゆるキャンならキャンプでもいい。
それで、このスポーツ漫画における競技は物語でどういう役割を果たすか?というとキャラとキャラを繋げる仕掛け、媒介になる。
スラムダンクなら流川と桜木花道で、ゆるキャンならしまりんとなでしこというキャラを繋げる役割がある。
普通は現実では人間は、嫌いな人間、合わない人間とは積極的コミュニケーションをしない。気の合った仲間と遊ぶものなんだけど、漫画や小説ではそれは面白くない。
性格の合わない人間、水と油のようなキャラたちが交流したりぶつかり合ったり、そして理解しあえたりあるいは決別してしまうこともある そういうものが見たい。
スラムダンクでバスケットボールがなかったら桜木花道はただのヤンキーのままで冴えないままで終わっていただろう。
バスケがあったから流川は桜木というライバルに出会えて、刺激されてバスケットボールに対する姿勢をもっと真摯なものした。
キャンプという共通の趣味があったからなでしことしまりんは友達になって、しまりんは、なでしこを通じて世界を広げていった。
ここで「スポーツ漫画の競技の理由は分かったけど、じゃあロボットなんて出さずに既存のスポーツとかでよくない?」という疑問が出てくるんだと思う。
ここでは作家の描きたいものが「スポーツで勝ちたい!」とか「アウトドアを楽しみを伝えたい」とかならそれでいいんだけど、もっと複雑で表現の難しいものになることがある。
たとえば世界に対する考え方とか政治とか生き方とか。ようはガンダムで扱われるような要素。
最初に「スポーツ漫画の競技はキャラとキャラを繋げる媒介」と書いたけど、じゃあ、ロボットアニメのロボットはキャラと何を結びつけるのか?というのは、まずは考え方、生き方、政治、つまり「世界」になる。
そして考え方や生き方の違うキャラ同士のぶつかり合いを表現するのに「ロボットで戦う」という絵的なインパクトが必要になる。
この絵のチカラというのは重要で、たとえばベルセルクっていうファンタジー戦記があるけど、あれは色々壮大なストーリーはあるけど本筋を雑に言うと「ガッツとグリフィスのキャスカをめぐる恋愛ストーリー」だ。
でも三浦健太郎の画力で片手と片目を失ってまだモンスターと戦うガッツの姿がないと「ガッツのキャスカに対する思い」や「グリフィスに対する愛憎」という情念を描き切れないんだと思う。
さらにもう一つ、ロボットが主人公を結びつけるものがあって、それが「女の子」になる。ようはヒロイン。
ロボットアニメのストーリーって主人公がいて、それを繋げるロボットが居て、半分は世界に関する物語があって、残りのもう半分は主人公とヒロインに関する物語のふたつでできてる。
どのロボットアニメでも物語のなかの「世界」と「女の子」の価値は同じで、それくらい女の子というのは重要な要素になる。
なんでロボットがつなげるのがヒロインなのか?というと、まず「ロボット」というのは「人の形をしているけど人ではない」ものだ。
年頃の男のにとって、同世代の女の子というのは謎な存在だ。ついこないだまで同じ「子供」だったはずがいつのまにか体つきが変わって、考え方もなんだか大人びた感じがする不思議な存在だ。
自分たちと同じ「子供」ではない。大人のように完成されている「人間」でもない。女の子は一日ごとにどんどん変わっていく。
男の子にとって女の子は「人間のようで人間でない」存在で、そういう意味でロボットのようなものなのだ。
ロボットアニメは主人公の男の子がロボットにはじめて乗るところから始まる。同時に、ヒロインの女の子との出会いが始まりでもある。
ボーイミーツガールというお話の型があるように、男の子が女の子に出会うことは、それだけで一つの物語が生まれるほど衝撃的な体験になる。
男の子にとって、女の子はそれくらい未知の存在で、知らない世界そのもの。ロボットのような理解できないもので、同時に魅力の存在なんである。
ここで、女性からすると、なんでそんなロボットを通じて男の子と女の子を繋げる必要がある?と思われると思う。「男の子と女の子の話を書きたいなら単純に恋愛を描けばいいじゃないか」と。
そこは悲しい話でエロの話だ。年頃の男の子はエロ抜きに女の子を見ることができないのだ。
少年向けの漫画や小説に純粋な恋愛作品がないのはそれである。あっても"恋愛要素のある探偵もの"みたいなおまけになる。
あるいはラブコメみたいに「主人公には意中のヒロインがいる。主人公はモテるけど、ほかのヒロイン候補のエッチな誘惑を跳ねのけてヒロインと結ばれる」というものになる。
男の子は恋愛するのにエロをどうするか?というのは避けられない問題なのだ。
そこでロボットを通じて女の子と分かり合うという仕掛けが出てくる。男の子とヒロインの間にロボットが立ってくれることで、ようやく男の子は繊細な感情や機微、言葉のやりとりができるようになる。
たとえばエヴァではシンジが「なぜエヴァに乗るのか?」という問いをアスカとレイから出されて、同時にシンジも二人に向けてなぜ乗るのか?という対話が発生する。
バスケがあるから性格的に合わない桜木と流川が一緒に試合に出たり練習したりするように、「ロボットが居る世界」があるから男の子はエロ抜きに女の子と向き合えるのだ。
とりあえずここまでのことをまとめると「ロボットアニメのロボットは作家の描きたいことを描くための必要な舞台装置」「男の子とヒロインの恋愛を描くための媒介」とかそういうのになる。
と、書いてきたけど、この内容を全部のロボットアニメに当てはめることはできない。あたりまえだけど。
水星の魔女はガンダムが作中でどう扱われるのかよくわからないし。
そもそも「日本のロボットアニメ」のようなものって海外では無いのだ。
アメリカでパワーレンジャーとかパシフィックリムとか、あるいはベイマックスとかアイアンジャイアントとかあるけど、アメリカのロボットって日本とは違うし、そもそもウケがあまりよくない。
海外ならティーンの恋愛は普通にドラマでササッと描いちゃう。アニメのスパイダーマンバースでマイルスとグウェンがしっとりとした大人ぽい恋の駆け引きみたいなやりとりをしてて「やっぱ恋愛先進国のアメリカは違うなあ」って思った。
日本みたいに奥ゆかしくて恥ずかしがり屋の国民性に恋愛は難しいのだと思う。
あとはとにかく男だから男の視点でしか書けなかった。「女の子だって男の子が不思議な生き物に見える」とか「女の子だってロボットが好き」とかあると思うけどさすがに回収は無理だった。
原作の山王戦はスラムダンク連載全体のクライマックスだったから、試合の中でそれ以前のストーリーをくみ取る必要があった。
だから、原作を知りすぎていると、本作は一部を切り取られたように感じるし、文脈がわからない箇所も出てくる。
なぜバスケなのか。サブキャラとの人間関係。流川と桜木のライバル関係。
些末な回想シーンだけなので、原作主義だと物足りないかもしれない。わたしもそれだけ?と思った。
試合最後のシュートは桜木流川の有名な協力プレイであるが、その前にリョータがチームに円陣を組む場面がある。
「おれたちはできる。」
だったのかなと思った
桜木と流川のライバル関係、赤木と木暮の3年間、三井の挫折と復帰、
これらに比べると原作では宮城のバックボーンは無いも同然だったし描きたくなるのはごく自然だなと
山王戦はとにかく映画1本の中で1試合をぴったりやり切る方針なのはよくわかった
魚住のかつらむきや桜木vs美紀男はモノローグ多めのシーンだからカットしたっぽい
コートの中はともかく観客席からのカメラワークは実際にカメラを置ける通路からのアングルだったり
得点が入ったら必ずスコアボードが写る演出だったり徹頭徹尾「試合」を映す意思は感じられた
下手に原作のシーンを全部詰め込んで上映時間4時間になったり前後編になったりするよりは
仕事でクソな事が続いた。彼氏が濃厚接触者になりデートの予定も消えた。
モヤモヤして眠れずにいた夜、明日は一人でラブホに行ってみようと決めた。ちょうど今は本場所中、好きな大相撲を非日常的空間で観たらいい気分転換になるんじゃないかと突然思いついた。
元々一人行動が好きだけど、ラブホにソロで入ったことはなかった。ヒトカラやひとりライブはよく行く。
私の住む地方のラブホは大体国道沿いのガレージ式。フロントで誰かと鉢合わせしない分、ヒトカラより敷居が低いはず。緊張しながらも一人で入室。
向かったのは彼氏と来た事のあるホテル。料金はそれなりだけど小綺麗で、ビジホ代わりや女子会利用も推奨してる所。
一人でラブホに来たことに舞い上がってしまい、まず自販機で大人のおもちゃ購入。バイブとローターの中間みたいなやつ。
シャワーを浴び、大画面でAV流し、さっそくおもちゃを試してみた。初めての体験に興奮して3分くらいでイってしまった。一回で満足してしまい、一気に虚無感に襲われた。
大画面で巨乳の子がアンアン突かれてるの観て、AVはスマホでこっそり観るくらいがいいなぁと思った。一人で大きい画面で流すと「さあ観ろ!」と迫られてるようで逆に興奮しない。音も大きいと、男優の言葉攻めが生理的にやだなぁとか気になってしまった。
幕ノ内土俵入りまでまだ時間があった。持参したお菓子食べながらVODで昔の劇場版スラムダンクを観た。
緑川さんの流川の声かっこよかった。新しい映画は評判観てから行くか考える。
頃合いをみて浴槽にお湯を入れた。泡の入浴剤も入れた。
家ではなかなかできない特上の泡風呂が出来上がったところで浴室のテレビをNHK総合に。前頭下位の取り組みが始まっていた。
脚を伸ばせる大きな浴槽、ふわふわの泡、ラブホらしいギラギラの照明。その中でテレビから響き渡る行司の声。
泡風呂の中で取り組み観戦ってどうよ…という気持ちもあったけど、異空間でニコニコと勝ち越しインタに応える関取を見てるとすごく癒された。
後半の取り組みで推し関取が押し出しで圧勝し、泡まみれのままガッツポーズした。
職場のお局ウザいとか、日頃の些細なイライラが吹き飛ぶくらい楽しい経験になった。