はてなキーワード: 合理化とは
スーパーのレジで、誰も並んでいない自動レジと行列のできる有人レジがあったとして、俺はたいていの場合、有人レジを選ぶ。自動レジなんかに並んで、店の効率化や合理化に貢献するなんて反吐が出そうだ。どうせ同じ結果(代金を支払う)なら、俺は合法的に、より相手に迷惑をかける方を選ぶ。同じ代金で郵送と手渡しなら手渡しを、同じ代金で熨斗なしと熨斗アリなら「アリ」を選ぶ。必要がなくても領収書をもらう。別に手渡しも熨斗も領収書も必要としていない。ただ相手に、合法的に手間をかけさせることになんとも言えない卑屈な喜びを覚える。小さい頃から、俺はずっとこうだ。
冒頭のレジの例のように、そのせいで自分の時間などを損することが多々あるから、全く合理的ではない。でも俺は、たった数分待つだけで相手に迷惑をかけられるのだからかなり「お得」だと感じる。
昔は歌詞検索がなかったから一部しか知らない音楽を求めて関連ありそうなCDを片っ端からレンタルしたり雑誌を買ったり消費していた
今は音楽どころか漫画すら10ページくらいネットで試し読みできるよね
漫画の表紙とタイトルと出版社の説明だけで面白そうだから買って全然つまらない騙されたと後悔する分が子供でも年間三千円程度はあったと思う
あまりに世の中が効率化されすぎたけどこれが日本以外の国ではこの合理化が普通なのかな
息が苦しくならないのか
つい最近もコインチェックが問題を起こして、巷では「靴磨きの少年」の小話(靴磨きの少年=最後の市場への参加者が投資する頃になったらもはや相場も末期というアレ)が飛び交っている。
しかし、ビットコインはそもそも株やFXとは市場への通貨供給システムが異なるし、ニ度目の暴落は単にアジアの仮想通貨規制に起因するのでその話と関係があるとは思えない。
今回のコインチェックの件も単にハッキングで盗まれただけで、楽に儲けていた(これも思い込みだが)人間にバチが当たったわけではない。
そもそも、なぜ、誰でも出来たのに手を出さなかったのか、気づかなかったのか…
この件に限らず、最近は説教するという決定事項が先に来てしまって、こういった論点も論理関係もズレた説教をする人間が多く見受けられる。
どうして、今まで単純な中学・高校の勉強においてでさえ論理性も理解力も欠いて、その都度テストなどで自信満々に導いたものが誤りであるという現実を叩きつけられてきたであろう人間たちが。
どうして、社会・道徳的な説教(政治の見解や放射能などの科学知識なども、今回の論旨とは異なるが当てはまるだろう)においては自分の正しさを信用できてしまうのか。不思議でならない。
元増田だけど、行ったのはアメリカで、留学&学校の事務室でバイトしてた。
例は本当に数え切れないくらいあるけど、例えば仕事場の非効率なところを改善したい場合。
アメリカでは:こんなの資料があったら便利だなぁ→どう見ても役に立つんだから上司もOKって言うだろ→勝手に資料作りをする→上司にこれ使ってもいい?と聞く→たいていOK→改善終わり。私が何か口だしすることで上司のプライドを傷つけるとかいう思考回路がない。全てのプロセスが自分の「やりたい」という意志を軸に一直線に進むようなイメージ。途中データが足りないとか誰かの許可が必要だとかいう障害があっても苦にならない。一個一個片付けて「やりたい」という軸に戻る。
日本では:こういうところめっちゃ無駄だなぁ・・・改善したいなぁ・・・と思いつつ、新入りがこんなこと言ったら絶対上司の機嫌悪くなるなぁ・・・周りの人からも否定的に見られるかもしれない・・・と考えて何も言えない→イライラを紛らわせるために「でも、こういう無駄に見える仕組みもきっと長年の試行錯誤から生まれたものだろう」とか「こうして日本人の忍耐力が鍛えられるのだ」などと頭の中で合理化しようとする→考えの方向がぐにゃぐにゃあっち行ったりこっち行ったりして脳溶ける。ちなみに非効率的に思えることを実際に「なんでこうなってるんですか?」と聞いてみたことがあるけどマジで上司にムッとされたのがトラウマである。
ちなみにどちらの場合も他人を巻き込むタイプの改善ではなくて私個人がやることに関しての改善。日本の例は底辺企業なのであしからず。
とはいっても日本人が書くもの読んでると頭が溶けてるのはどの階層でも同じなのかなと思えてくるけど。
アメリカも常に言いたいことを言えるというわけではなくて、日常生活でも、ネットや本の文章でも、防衛線張ってるような言い方が増えてきてるらしい。
本人の事情もあると私は思う。
まず、そもそもの疑問だけど、産休の人がやってた仕事ってそんなに重要な仕事なんだろうか?
それを誰かがイヤイヤやらないといけないのは、重要な仕事でないからではないのか。
通常、会社/管理職としては、そんな仕事は速やかに合理化すべき対象だし、やらされる人は合理化を会社に提言すべきだ。
誰もがやりたくないけど、誰かがやらないといけない仕事をやる場合は、自分は追加的なご褒美があるとやる気が出る。
ご褒美は、別の面白そうな仕事だったり、給料アップかもしれない。
それを会社に言えないのは、その嫌な仕事を押し付けられる人の問題もあるように思う。
評価が高い人に嫌な仕事は回ってこない。評価の高い人は、評価されていないと感じてやめてしまう可能性があるから。
管理職としては、評価の高い人が辞めると管理職としての評価が下がるので、辞めても困らないが辞めそうにない人を選ぶことになる。
結局は、常に自分の価値を上げて、いつでも転職できるようにしておく。それがサラリーマンが取れる手段ではないのか。
外部から見て価値がなくなったとき、他人(会社)の言いなりの人生になる。
自戒を込めてそう思う。
民主主義という制度は、ほかのいかなる制度より大衆の知恵と道徳を必要とする制度である。
もし、知恵と道徳心をもたない大衆が多数となれば民主主義が崩壊することを意味する。
弱者とは、知恵も一般的な道徳をもてないかわいそうな人たちである。
弱者ほど知恵や道徳をもつインセンティブは乏しいなどという合理化をする。
https://anond.hatelabo.jp/20171011081045
となれば民主主義にとって弱者とは爆弾であり、排除すべき敵である。
集団にとって敵である存在を救う集団などこの世には存在しないのでないだろうか?
そもそも知恵も道徳も持ち合わせておらず、民主主に対するほのかの敵意をもつ人間が
民主主義に頼るというのは、もはやジョークの域に達しつつある。
弱者は民主主義をよく思っていないだろうが、民主主義もまた弱者をよく思っていない。
では、弱者はどうすればよいだろうか?
二つはあると思っている。
民主主義に好ましくない人間は排除されることが弱者にとって道徳心をもつインセンティブになる。
道徳心をもてば、弱者は民主主義において救われる可能性が少なくとも出てくるというものだ。
こう考えてみれば左翼思想とは人を排除する論理を内包する思想であるとするならば
民主主義とは極めて左翼的であり、民主主義を肯定しつつ左翼を批判するなどは道理が通っていない。
左翼的な思想を除いていきしていけば結果として、民主主義は取り除かれる。
食料の内容は市町村に任される
良い物が食いたければ田舎行け
これで餓死することはないだろ
あとはインターネットや冷房暖房の光熱費分を計算して毎年予算を出す
当然最低限の生活を送れるだけのお金しかもらえないので働きたくなる
物欲の激しいやつほどよく働く
やばいぞ
有能なやつがどんどん活躍していく
そして有能な奴は稼いで納税してくれる
エリートは豪遊できる
いいことづくめじゃん
なんでやらないのこれ?
やばいぞ
国全体で毎日毎年絶対消費される金銭が決まっていて基板が安定化されるし
本当に競争したい人間同士が競争し合理化を目指して活動するので
これはやばいぞ
親は子供の物欲を刺激してエリートの条件を整える準備を始めるだろうし
例え能無しでも最低限生きていくこともできる
出生率が低ければニートが結婚して子育てできるようにしたらいい
これで日本は立て直せるぞ
プロッグラミングやコディーングで諸般の問題をソルートすることを生業としている、所謂ITキーーボーード戦士の端くれである。
世の中には我々ITキーーボーード戦士が、己の精神や健康や、場合によっては人生を代償として生み出されたアップリケーシヨンやサビースが、
有償無償様々な規模で溢れ返り、あなたの日々の生活を少しだけ未来的にするためのソルーシヨンとして提供されている。ここまではいいな?
で、我々ITキーーボーード戦士も当然、プロッグラミングやコディーングを未来的に行いたい欲望つまりデザイーアを持っており、
当然のように、その欲望つまりデザイーアをソルートすることに、喜びとビジネッスチャンスを見出すITキーーボーード戦隊αみたいな連中も、
己の精神や健康や、場合によっては人生を代償として、我々ITキーーボーード戦士向けのアップリケーシヨンやサビースを生み出し提供している。ここまではいいな?
で、そのITキーーボーード戦隊αみたいな連中の生み出した、我々ITキーーボーード戦士向けのアップリケーシヨンやサビースを利用して、
我々ITキーーボーード戦士は、日々の業務の効率化・合理化をソルートすることに成功し、未来的にに欲望つまりデザイーアを解消できた暁にアセンシヨンできるという算段だ。
ただここで一つ誤算があって、残念なことに人類はまだまだ未熟であり、我々ITキーーボーード戦士やITキーーボーード戦隊αみたいな連中もまた未熟なため、
種々の問題をソルートしているつもりが、余計な問題提起や、新たな問題も潜在させながらローンチしてしまう。
すると、我々ITキーーボーード戦士は達成感とともにアセンシヨンすることを許されず、また己の精神や健康や、場合によっては人生を代償として、新たな問題をソルートすることになる。
予断を持たずに事件に取り組み、判決などで具体的な理由を示すにあたっては、最終審としての説明責任を果たす内容になるよう、力を尽くしたい。最高裁には多様な紛争についての不服が申し立てられ、どの事件も最終的な決着が求められている。社会的に影響の大きな事件も少なくなく、責任の重さを日々痛感している。
広い視野の下で、公正な判断を行うことが期待されていると感じる。その期待に応えるためには、判断の内容を説得力ある分かりやすいものにすることが大切である。また、裁判所の存在が国民に身近なものとなるよう、情報発信や手続きの工夫などといった面にも一層留意する必要がある。
地裁や高裁で勤務した時代、3人の裁判官の間でさまざまな議論を重ね、充実した判断につながったと感じられた事件は、著名かどうかを問わず長く記憶に残っている。最高裁においても同じだろうと思う。
任命権限に関わる事柄であり意見は差し控えたいが、現在、バックグラウンドの異なる同僚裁判官とさまざまな角度から率直な意見交換ができる環境にあり、日々の仕事にとって大きな意義があると感じている。
裁判の中で憲法判断を示す立場にあり、お答えは差し控えたいが、憲法は、我が国における「法の支配」の基盤となるものであり、普段からそのありように国民の目が注がれていることは、大切なことであると考える。
前項と同じ。
これまでに関与した定数訴訟についての私の意見は、大法廷判決の中で示してきたところであり、これからも個々の事件の判断の中で示していきたい。
注:16年参院選の「1票の格差」を合憲とする多数意見(17年9月)
法的判断が司法に求められている大きな問題の一つであるが、今後訴訟が最高裁に係属する可能性があるので、意見は差し控えたい。
国民の皆さんの理解と協力に支えられて、制度が定着しつつあることを、刑事裁判に携わってきた者としてうれしく思っている。大改革であり長期的なものさしで改善を図っていくべき課題もなお残っているが、刑事裁判が、「開かれた司法」の方向に大きく変わったことは確かである。
誤判を防ぐためには、一つ一つの事件において、当事者が適切な訴訟活動を行い、裁判官が曇りなき目で判断を下すことが、何より重要である。制度や運用の改善点については、法曹三者の間で、実情をもとにして、率直で冷静な検討を深めることが欠かせない。
国民の間で議論を深めていくべき重要なテーマであると思っているが、具体的事件に関与する立場にあるので、立法論に関わるご質問についてはお答えは差し控えたい。
重大な刑事事件は裁判員裁判によって審理されており、今回の新制度の運用については、裁判員裁判の証拠調べにおいてどのような評価が示されるかが、重要なポイントになると思う。裁判員裁判と同様に、長期的なものさしで検討すべき問題であると考える。
さまざまな課題を抱えていることは認識している。法曹養成制度も教育制度の一つであり、時間をかけて行うべき人づくりの土台だといえる。長期的なゴールを見定めて、じっくり検討していく姿勢も大事だと思う。
国際的な経済活動が原因となった訴訟はこれからますます増加すると思う。裁判官は、紛争の背景にある実情も視野に入れた上で、判断を下すことが求められる。そのためには、研修、人的交流などの機会も一層充実させる必要がある。
「開かれた司法」を推進していく上で、テクノロジーの活用は重要な柱の一つだと考える。それだけに、単に「便利かどうか」というのにとどまらず、司法へのアクセスや裁判手続きの将来のあり方も念頭に置いた上で、総合的に電子化などの改革を進めていく姿勢が大切だと考える。
個人的には、今年は名演と観客席の熱気が一体となったライブに出会う機会が多く、終演後はその場の一員であった幸福感を味わえた(例えば、ロシアの劇作家チェーホフの「ワーニャ伯父さん」)。
「尊敬」という意味とは少し違うように思うが、強さ、弱さを含めて、人間的魅力に富んだ人物として、最近興味があるのは、森鷗外。趣味はコンサート、観劇。好きな言葉はゲーテの「人間は努力する限り迷うものだ」。
千葉聡の「歌うカタツムリ」。身近な生物を手のひらの上に乗せながら、生物進化に関するダーウィン以降の研究の歴史が物語られており、科学読み物として非常に新鮮だった。
約40年間、弁護士の活動から培った経験や市民感覚を踏まえ、弁護士出身の裁判官であることの自覚と誇りを持って、正義と公平にかない、かつ、健全な社会常識にかなう法律の解釈・適用に努めていきたいと考えております。最高裁裁判官に就任して約1年3カ月経過しました。最終審としての判断の重さを更に自覚し、一つ一つの事件に謙虚に向き合い、よりよい判断・解決のため、誠実に職責を果たしていく覚悟です。
裁判所に対して、一つ一つの事件について、迅速かつ適正妥当な判断を期待していると思います。最高裁判所としては、主な事件の判決などについて、ホームページなどでも公表していますし、法廷の傍聴人の方々にも事件の争点など概要がわかるような工夫を積極的に進めています。
個別事件の判決の中で示した意見のとおりであり、これを離れてお答えするのは控えさせていただきます。
いずれの質問についても、憲法で定められている任命権者が判断する事柄ですので、お答えするのは控えさせていただきます。
憲法の改正は、国会の発議により国民投票を経て行われるもので、主権者としての国民が判断される事柄であり、各国民が真剣に考え議論すべきものと思います。
国家存立の基盤である国の安全保障政策については、各国民が自分の問題として真剣に考えるべき事柄であり、司法の立場にある者として、個人的意見は控えさせていただきます。
注:16年参院選の「1票の格差」を合憲とする多数意見(17年9月)
裁判所は、どのような訴訟においても、法にのっとり公平かつ適正妥当な判断をしていかなければならないものと考えております。
裁判員制度はおおむね順調に運営されてきていると思いますが、問題点もご指摘のとおりあります。更なる審理の工夫や制度の広報に努める必要があると考えております。
誤判は絶対にあってはならないものです。刑事事件の事実認定においては、思い込みを排し、様々な視点から十分に証拠を吟味することが大事です。刑事司法に携わるすべての者が、誤判防止に向けて、それぞれの立場で誠実に職務を行わなければなりません。
死刑制度の存廃や終身刑の創設などは、最終的に国民の意見により決められるべき立法の課題であり、司法の立場からの意見は控えさせていただきます。とはいえ、死刑は究極の刑罰であり、その適用は極めて慎重に行われるべきものと考えております。
新制度は、捜査・公判が取り調べ及び供述調書に過度に依存している状況にあるとの指摘を受けて立法化されたものであり、これにより、刑事手続きにおける証拠収集方法の適正化及び多様化がされ、公判審理の更なる充実が期待されます。
具体的な政策についての発言は控えさせていただきますが、法科大学院で5年間教壇に立った者として、法曹養成の理想に向けて開校した有力な法科大学院で募集停止が相次ぐこととなり、残念でなりません。社会の様々な分野で法律家が活動することは、法の支配する公正な社会を実現するために必要であり、大変意味のあることだと思います。わが国社会の今後の発展を支える有為な人材として質の高い法律家をいかに計画的に養成するかという観点で検討されることを望みます。
国際取引事件、家事渉外事件をはじめとする国際的紛争事件に十分対応できるよう、裁判所における人材の育成が求められるものと考えております。
裁判手続きのIT化のあり方としては、裁判手続きの利用者の利便性の向上だけでなく、本人訴訟への対応を含む関係者の手続き保障、情報セキュリティー、事務の合理化を含めた費用対効果などの諸般の事情に配慮しつつ、裁判手続きにとって真に望ましい姿を探る必要があります。
趣味は、歌舞伎鑑賞です。尊敬する人物は自分を育ててくれた両親で、感謝と尊敬をしています。好きな言葉には「道を伝えて、己を伝えず」という言葉があります。日本の幕末から明治にかけての動乱期に、キリスト教の伝道を行った宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズの生き方を表現した言葉です。私はキリスト教の信徒ではありませんが、ウィリアムズは、幾多の困難に全身全霊で立ち向かいながら人々の心を一つにまとめ、教会や学校・病院を造り、社会や世界を動かしました。そのような信仰の姿こそが、「『道を伝え』ることではないか」と思われます。そして「己を伝えず」。真の意味はいまだ計り知れないものの、「自分の考えを相手に独善的に押しつけようとしない」とか、「自分の名誉や欲望のためにけっして人を利用しない」と解釈されています。事実、ウィリアムズは一介の宣教師に過ぎない自分の名が記憶されることを徹底して拒み、日記や手紙の多くを燃やしまでしたとも言われています。
1 弱者男性とは
1.1 機会不平等
1.2 経済性なし
1.3 利己的
2.1 利他性
2.2 姉弟愛
3.2 VS
4 お姉さんキャラの超越
4.1 姉弟愛の超越
5 まとめ
5.1 お姉さんキャラのススメ
機会平等の仕組みであるクラウドファンディングでさえそうなのだ。
機会は平等であってほしいと私たちは思っているが、機会は平等に与えられることは
何か違うような気がする。
自堕落な生活を送っているものに千載一遇がやってくるわけがないと思っているし、
そんな者にチャンスがやってくることこそ機会が不平等である証拠として私たちは受け取る。
それか自堕落な生活を送る者に何か人とは違うものを求め、実は機会を得るのに相応しい人物であることを見つけようとする。
弱者とは機会を得ることができない者であるが、それは弱者が弱者たるゆえなのだ。
機会を得ることができるような人生を送っておらず、また恵まれないていない、余裕もない。
弱者男性にとって機会とは他者が必ず勝手に取っていくものであり、恨みの対象である。
現代においては、お金がないことが弱者を象徴するものではなくなった。
人とのつながりがあれば、支援者を見つけることもできるだろう。
お金という物に縛られている弱者男性は、容易に操られてしまう。
操られた結果は悲惨であり、お金の存在は弱者男性にとって恐怖対象である。
その日のお金を稼ぐことに人を蹴落とし、自分が恵まれていない状況を短期的に打破しようとする。
弱者男性にとって利己的は合理化されているが、常に利己的に振舞うことはできない。
なぜなら人を蹴落とす際に逆にやられてしまうのは弱者側だからである。
そして利己的であることを拒絶される世界において、利己的であることを合理化してくれる他者を求める。
弱者男性にとってお姉さんキャラとは、利己的である弱者男性を包んでくれ、
(本来はお姉さんキャラが得たものである)機会を与えてくれるものであり、お金という恐怖を跳ね除けてくれる存在である。
弟はその庇護を受けるか、また跳ね除ける。
その利他性は無条件の愛に近い。
弱者男性を弟のように庇護してくれるのはお姉さんキャラだけである。
ツンデレキャラに好かれる男性とは、利他的であることが条件に入るだろう。
男性にとって利他的であることは、すでに恵まれた状態にあり、やっと他者に分け与えられる状態になったということである。
つまり強者男性の証である。ツンデレキャラがそのことを理解し好意を寄せているわけではないだろう。
そして弁舌がたち、人心掌握術に優れ、コミュニケーション強者でもある。
彼らの弱点としては肉体面であったり、一般的な学問には疎いというのがあるのだが、
ツンデレキャラに好かれる男性が利他的である証拠としてエヴァンゲリオンのアスカというツンデレキャラの存在である。
同作品の主人公が利己的な考えを露にした際に、発する言葉が「あんたバカァ?」である。
弱者ゆえの利他性が剥がれ落ち、主人公が一気にツンデレキャラに嫌われた、これが証拠になる。
ツンデレキャラのアスカと本当に付き合うなら強者男性になるしかない。
お姉さんキャラとツンデレキャラが衝突する時は悲劇でしかない。
お姉さんキャラにとってみれば、弱者男性を応援し、ようやく実ってきた男性が
ツンデレキャラに好かれる属性を持ち出すというのは皮肉である。
この状況で弱者男性は道理を通すなら、お姉さんキャラを選ぶべきだが
弱者男性がまだ移行期の状態なら、半弱者男性に道理を求めるのは不可能のように思える。
弱者男性が強者男性になるようにお姉さんキャラもお姉さんキャラを超越する。
それは姉による庇護を拒絶する弟とは当然別物であり、利己的であった弱者男性が
お姉さんキャラに利を分け与える状態になったことを証明するものである。
傲慢な希望をかなえ様とする弱者男性に、手を差し伸べる、または背中を押してあげるだけでよかった。
その状態からお姉さんキャラは脱し、無償の愛から有償の愛へと変貌しなければならない。
弱者男性は(もはやその状態であっては弱者でもないが)当然、それに答えられる。
そうなったときに姉弟愛という状態を超越し、お姉さんキャラも超越する。
それは利己的であれば、姉弟愛も成り立たず、弱者男性もそれに答えられないからである。
だが、お姉さんキャラを超越するとき、利己心を持たなくてはいけない。
その利己心は、次のステップに進む可能性のある弱者男性に影響しており、
弱者男性がそのままならお姉さんキャラは利己心を持たないだろう。
まさにそのとおりだ。
だが、二次元なら話は別だろう。
東方とはソシャゲのように思えるだろうが、PCゲームで縦シューティングゲームなのだ。
そしてステージ制をとっており、各ステージごとにボスを配置している。
このボスは一般的に、他のボスと何らかの関係を持っていることが多い。
そしてシューティングゲームという特性上、勝ち負けがあって、キャラクターに強弱が存在しており
これはもうどういうことかというと、お姉さんキャラ優位の世界観なのである。
全キャラクター数(124人:http://lineq.jp/q/18378763)にしては、お姉さんキャラの宝庫の東方だが、注意点としては
東方は二次創作による影響が強いため、今後どうなるか不明な点である。
お姉さんキャラは原作にも雰囲気はあるが、過度に強調されている。
東方の二次創作が下火になり、さらに東方の公式活動がやや活発化しているため
今後は原作設定が優位になるだろうと思われる。
この手の犯罪者が、心理的に犯罪を正当化する場合、反動形成、合理化で自らの心理を改ざんする自己性愛人格障害のような症状が発現する。
昏睡レイプを行った後の「パンツ貰っていいかな?」「君をロサンゼルスに連れて行きたい」の新潮で暴露された、性犯罪者的な発言の後、打って変わって、「中出しはしましたが、精子が弱いので妊娠しません」「あなたから誘った」などの多数の証拠、犯罪から逃避するために、自己正当化の未来的思考に切り替える精神病質者の分類、情性欠如型に相当すると思われる。
この型は例で上げると、「バラバラ神隠しマンション」の星島貴徳。附属池田小事件の宅間守など。
数多の証拠と、途中の逮捕中止騒動であまりにも見え捨てた忖度だったが、今更考えてみれば、安倍政権はよくこの犯罪者を匿った者である。
現在、総選挙解散中の安倍政権では森友学園の不祥事、隠蔽事件などの不信から小池内閣への期待がなされている。
与党であることで隠蔽された事件なら内閣が交代されることで強姦犯罪が露呈されるのでは?という疑問に突き当たる。
海外に逃亡中である、山口敬之はどんな青白い顔でこの行方を見守っているのか。
「自分は楽しんでいる。楽しいから続けているんだ」。これは自分の趣味活動を継続する上で容易に手を伸ばせる結論だ。しかしゲーム制作という分野でエンターテイメントをシステムとして捉え続けてきた自分に言わせれば、続くのは楽しいから、というのは大間違いである。身も蓋もない言い方をするなら、続くのは『続けさせるようになっているから』でしかない。楽しいかどうかは続けさせるための一因でしかないのである。
限定された期間でしか得られない報酬を短周期で繰り返すソーシャルゲームは、ユーザに継続を強要させるためのシステムとして分かりやすい例だろう。自覚が無さそうところで言えば、体育会系的部活動にも同様の傾向がある。子供たちは、いつでも自分の意思で「楽しくないから辞めます」と言える心理状態にあると言えるだろうか。否、体育会系のコミュニティが自虐的な鍛錬の継続を美化する指向性を持っているのは明らかだ。転部や兼部は新たな楽しみの発見のためには合理的なはずだが、ひとつの部活動に一途に取り組むのに比べてイメージが悪い。他の選択肢を試すことすらなく、青春の大半を辛い練習に費やし、時には試合のレギュラーにすらなれないまま過ごしながら、その日々を合理化している、というのはおそらくそう珍しい事態ではあるまい。
コンプリート願望やコレクター願望、勝利至上主義、達成感、ストレスからの解放、不利益を被ることを美化する価値観、など、楽しくないものを継続させるためのシステムは境界こそ曖昧だが多岐に渡る。しかし、これらのシステムには概ね一貫したひとつの性質がある。それは、「参加者はシステムに従わないことでそのシステム上での価値を失う」ということだ。「時期限定のアイテムを取り逃せば、そのゲームで将来に渡って不利になる」「部活を辞めればスポーツマンとして価値が失墜し根性無しの烙印まで押されてしまう」などがこれある。こうしたシステムは強迫的にプレイヤーに継続を要求する。システムへの参加が自由意志であり、得られるものがシステムの上の価値でしかなくても、システムから脱するという決断を困難にしてしまうのだ。
言うまでもなく、楽しくないことを続けてしまうとしたらそれは不幸である。そして継続を誘発するようにデザインされた趣味はこの商業主義社会において決して少なくない。人は自分の幸福を守るために自分が本当に楽しんでいるかを常に感じ取れるようでなければならないと言えるだろう。
(当然のことではあるが予防線として言っておくと、ソーシャルゲームにしろスポーツにしろ、その楽しみを全面的に否定する意図は勿論ない。ここで言及したいのはシステムが持つ指向性によって楽しくないものを続けてしまうリスクについてのみである。本当に楽しんでいるなら何の問題も無い)
小学校では転校してから4年間、クラス中の女子に囲まれどつかれ、
そして、それでも自尊心は失わなかったことに気づいた。
と振り返って思うことがあったので、
誰か一人でも役に立ったらいいなぁと思い、書くことにした。
いじめをする人は、心も貧しければ自分に自信もない、かわいそうな人達だ。
相手がどんな気持ちになるか想像し、心に痛みを覚えることすら出来ない。
そして、わざわざ人を見下さなければ心が安定しないのだ。
例えば自分は中学時代受験期にクラスの男子一同(?)から問題集をボロボロにされた。
お手洗いに行き戻ってきたら、一面に、死ねだのバカだのなんだの、そして署名、
うるせー。バカはお前らだ。
全員の 全 が 金 になっとるやないかーい。
さて、
なぜいじめなんていう下らないことをするのか。
彼らは、自分自身の直面する課題・困難に立ち向かうことができず、
大人になれば、多くの人は、人を苦しめずに自分自身を落ち着かせる方法を習得する。
自分自身を高めることで解消することもできるし、
いずれにせよ、彼らはまだ未熟で、受験期の自分たちの不安に対処できなかったのだろう。
私がターゲットになった。
冴えない不細工なメガネガリ勉だから狙われた、などと思うことは簡単だが、
そこから更に一歩踏み込んで、
相手は一体何に苦しんでいるのか、
なぜわざわざ、自分の好きなことややるべきことに打ち込まず、
その苦しみの根源について思いを巡らせるのだ。そして倍返しだ!
それはすぐに気づくことができたし、
そこでかえって一層勉強している姿を見せつければ、
一層苦しむことになる。
力で応えるのでもない、
口で応えるのでもない、
思い通りの(相手が不安を一時的に解消するための)反応を返さず、
反撃するのだ。
「やれやれ。下らない人たちだな。」
二度と同じことは起こらなかった。
(でも逆にいじめる側に回っちゃだめですね。あくまで、やめてもらうために反撃するということ。)
もし、
殴る蹴る、万引きを強要するなど、自分では立ち向かえないようなことがあれば、
それは
出来るだけ早く、
いつ、
どこで、
だれに、
何を
どのようにされたか、
証拠を残し、
証拠を残し、
警察に持って行きましょう。
いじめはただの悪ふざけじゃなくて深刻な犯罪・犯罪予備軍だと捉えるべきで、
同じ組織にいる先生になんとかしてもらおうとするよりも、社会の手を借りたほうがより良いこともあると思う。
いじめの原因の1つに、いじめっ子自身が家庭内での虐待を受けていることも多々あるらしい。
もし、その相手の子の親も虐待などしていそうな雰囲気があったら、
ひとつの案としては、児童相談所に電話して、いじめを報告すると共に、
その子のご家庭で虐待の疑いがあるんじゃないかと状況を通報したらよいのではないだろうか。
ひどければ家庭に調査が入る。
自分はこんなひどいことをされたが、これくらい普通だから我慢しろと言っていた、という風に伝える。
これが普通っていう環境はとんでもない、虐待されているのでは?!と。
同じ組織の中にいる先生以上に相談に乗ってくれる可能性もある。
一番だいじなのは、助けは出来るだけいろいろなところに求めたほうがいいということ。
親がダメなら先生、先生がだめなら児童相談所、いじめ対策団体、
地域の人(でも危ない人もいるかもしれないので、誰に会うかは必ず記録に残し、まずは公の団体などに相談し、慎重に。。)・・・など。
1人だけに頼ろうとすると、スルーされて対応されないリスクが高い。
本当にどうしようもなかったら、
オススメは最寄りの国公立大学に行き、事務に行き、なんとか相談できる大人の人が必要なんです、
と伝えて、探してもらってみてもいいと思うんだ。
国公立の大学であれば、どの都道府県にもあるし、その都道府県で一番しっかりした大学であることが多い。
苦労しながら一生懸命勉強して、人生を切り開いてきた人たちが沢山いると思う。
フラフラ遊んでいる人もそんなにいない。
苦しい状況を切り抜けてきた大人の人たちは親身になってくれると思う。
話を聞いてくれる温かい人に出会えることが、何より救ってくれる。
いろんな人を救うシステムを、事務の大人の人たちも、大学の学生さんも、知っていたり考えてくれると思う。
(特に大学の事務の方々は、いろんな社会の仕組みをよくご存知なので、力になってくださるのではないかな。。
事務は人も多いし、職場だから、そこの場所でまたいじめられること/ 追い返されることはなかなか起きにくいと思う。)
(いきなり大学内の学生に声を掛けるのは、犯罪に巻き込まれる危険がないとは言えないので、しないほうが良いです。。。
できれば、同時に二人以上いるところでお話をすること。変な人に巻き込まれる危険が減ります。)
ひたすら楽しくてのめり込んだし、
足を引っ張り合うことよりも、自分を高めることが好きな友達に囲まれるようになった。
音楽でもいいし、小説でもいいし、マンガでもいいし、オムライスを作ることでもいい。
それを見つけるために、何かにとことん打ち込んでみる。
たった1人で何かに向き合えば、
わざわざ周りの空気を読まなくても良くなり、1つのことに徹底的に向き合える。
徹底的に向き合えば、どんどん面白くなってくる。
今はインターネットがあるから、同じように極めている人たち同士で会話が出来る。
生まれつきのものだけで勝負して得られる自信なんて、ほんのちっぽけな、狭い世界で終わる話だ。
いじめっ子も、もしかしたら自分の存在のちっぽけさに直面して、もがいているのかもしれない。
いじめに走る人たちがフラフラとくだらないことをしている間に、
お先に!と言って、一生懸命何か好きなものを極めて、いち早く、自分の人生を切り開いていこうよ。
そもそも、まだ中学生なのに、ブスだのデブだのバカだの死ねだの言っていじめている奴ら…!!!!!
輝かしい未来が待っている原石たちを前にして何を言ってるんだお前ら!!!!!
お前らどんだけ偉いねん!ただの中学生やぞ!!!!!子供やぞ!!!(中学生を仮定。小学生でも良い。)
何も分かってないくせに人のことアレコレ言えた身か!!!!!!
(でも子供だからこそ処罰されにくいのが非常に悔しい。やっていることはかなり残酷なことなのに。)
そうなんです。今、いじめられて、落ち込んでいたとしても、
大きくなったらどんどん変わって、輝いていくんだよ!!!!
勉強だけでもないし、スポーツだけでもないし、この世の中には沢山の面白いことがある!!!!
いじめている奴らに、
うるせーお前ら!かっこよくなるんだから!素敵になるんだから!今に見てろ!!!!
将来ビル・ゲイツやぞ!!!!!!同窓会が楽しみやな!!!!!行く気もないけどな!!!!
と思っておけばいいのさ。きっとなる。
なんだか段々とつい熱く書いてしまいました。
NHKの受信料徴収を巡るトラブルで男性にけがを負わせたとして、広島県警呉署は17日、NHKの集金業務を請け負う同県熊野町神田の自営業の男(55)を傷害容疑で現行犯逮捕したと発表した。
http://www.yomiuri.co.jp/osaka/news/20170617-OYO1T50019.html
昔からNHK集金人の犯罪がある。トラブルを禁止するために集金を禁止にすればいい
見たい人だけカネを払うペーパービューにすれば良いのだ。
金を払いたいと思うような良い番組を作れば良いのだ。
全てのニュースのバックナンバーも、国会中継の動画も、大河ドラマもバラエティーも、視聴料さえ払っていればNHKアーカイブスで見放題にすれば、国民の知る権利を満たすことにもなる。
元増田だが、追記しないほうが盛り上がりそうなのでこっそり書く
よく考えれば不思議なもので、私はモバイルアプリエンジニアなので、最も変化があった立場にいると思う
しかしPC世代な者にとって、スマホの登場で生活が劇的に変わるかというとそうでもなく
それまでの延長線上で「より便利になった」という感覚の方が強い
(スマホやアプリというのは基本、それまでの時代にあったものやサービス、コミュニティなんかを
再現するのが仕事である。新しい何かではなく、最適化・合理化の機器であると言っていい)
どうしてもアレと比べると見劣りしてしまう
この感じは、個人的に90年台も似ていると思う
確かに伸びた時代ではあったものの、70年台80年台に普及した物がより便利になっただけで
俯瞰で観ると
という構図が浮かび上がる
改善の10年は、予測できる範疇で今あるものをより便利にするような時代
進歩しているようでいて、やってることは発明ではなく最適化なので
ふとした時に「あれ、それほど変わってないな」と我に返ることがある
そういった理由で10年の差が感じられずもどかしさがあるのかもしれない
ちなみに災害や戦争や経済危機はいつの時代もあるので、特別なことではないと思う
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もう一つ追記
(規模が小さくなっているという意味では悪い意味で差はあるのだが)
10年前とコンテンツの素晴らしさが変わったかというと、どうなんだろうか
これも考えてみると、コンテンツのレベルが10年前くらいにヒトの認知の限界に来たのだと思っている
解像度が上がっても、fpsが上がっても、奥深さが更に奥深くなっても、それ以上良くしても人間の感じ取れる範疇を超える、あるいは超えそうな域に近づいている
簡単な例で言えば、320x240の時代から、1920x1080の時代ですごい変化を感じたが、それが4K、8Kの時代になっても同じような感動は中々得られない
そういったことが色んな業界で起きていると思う
10年前のコンテンツが今も通用してしまうのは、私がおっさんになったからだけではないと思う
こういうことを考えてると、逆に70年台80年台や、00年台の方が特殊だったのでは? というような疑念に行き着く
00年台で劇的進化は終わりを告げ、これからは似た時代がずっと続くのではないかと
それはそれで悪くない世界だと思う一方で、得も言われぬ息苦しさを覚えてしまうんだ
残業禁止の議論をすると、いつも「残業するやつは無能」とかいい始める輩が表れるけど、
毎回、必要以上の努力が出来ない雑魚がイキってるな(笑)としか思わない。
君ら、そもそもを勘違いしてるようだけど、仕事ってのは本質的に不合理なものだ。
ルーチンワーク化された事務"処理"なんかの話ならまだしも、企画や開発や営業なんかの新規を開拓する業務の本質的な合理化は不可能だ。
そのあたりを上手くやるためのいろんな上手い方法(統計学やビッグデータや機械学習やなんやかんや)もあるけど、それを使いこなしたところで本質的な合理化が果たせるわけではない。
どうやったって最後の最後には、解があるのかわからない中で総当りで潰していかなきゃならないような泥臭い非合理にぶち当たる。
しかも、その泥臭い総当りは必要最低限の努力であって、「新規を開拓する」ためには総当たりの外側に対して、如何にアタックしてくかが重要になる。
勝手に悦に浸って残業する人を見下す雑魚。お前らのその残業への卑下の裏返しは、残業をしたくない(できない)、必要じゃない仕事をしたくない(できない)自分の性格に対するコンプレックスだろ。
直接には自分の業務と関係ないようなことにもとりあえず興味を持って手を広げてみるとか出来ないだろ。
なぜ君たちは、必要以上の努力がいらない、お得意の合理化()で業務を完結できる一般職やバイトにならずに、総合職を目指してしまったんだろう…。
最後に予防線引いとくけど、体や精神ぶっ壊すような長時間労働の話は別だし、経営側の問題でクソみたいな業務が糞詰まりになった挙句の残業の話とは別な
先日、元官僚で現在は社外取締役をつとめる方に経営のお話を伺った。
数年前から知っている方だったが、きちんと考え方を聞くのは初めてだった。
どうせワークライフバランスの話だろと、高をくくっていた。
話の内容は、日本人としてどうやって、グローバル社会で戦っていくかという話だったが、目から鱗だった。
その人はそれなりの立場にも関わらず、日本人は日本人としての個性で戦うべきだと言い切った。
グローバリゼーションは世界の標準と同じことをするのでさなく、世界レベルで、日本人の特性を活かすことだと言った。
仕事が面白くないから合理化が必要なんであって、仕事が面白かったら何故合理化しなければいけないのか。
遊びを合理化しようなんて、思わないはずだ。
確かに終身雇用は崩壊した。年功序列も崩壊しつつある。だからって欧米人の得意な方法で、日本人が戦う必要はない。