はてなキーワード: 合理化とは
「学者になるような人間はそもそも普通ではない」ので「学者及びそれを目指す人を差別するのは自然な感情」と合理化するとして
女性相手だと自然な感情が原因でも差別的取扱いをしてはいけない、が最近のトレンドだった気がしたんだけど。
よくわからない。
以下の記事に寄せられたコメント(ブコメではない)を読んだ。苦々しい思いがあふれた。
不振のAV業界で彼女たちに起こっていること | ファッション・トレンド | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
これだけ記事が丁寧かつ慎重に時代の流れを書いているにもかかわらず、
旧来の「常識」による善悪に囚われて、賤業と決めつけたい人ばかり。
彼らは逆の発想ができない。
そうやって卑しめているから、AV業界がいつまでも性的搾取だとか
日本はそういう保守的な風潮ひいては性への価値観を転換し、プラス方向へ合理化できる可能性がある国。
色々書き連ねたい気持ちはあるけども、めんどくさくなった。
以下、メモ書きだけ。重複も多いし読まなくていいよ。
禁酒法 大麻合法化 マフィアから正規へ 市場の制御下に、品質も改善
スタンフォード監獄実験 後ろめたさがある人(囚人・俳優)が(看守・業界人に)支配・搾取される構造
性への意識や価値観すら変わる未来 野放図に堕落してはいかない、また別の倫理へ オランダ
アイドルとの類似 価値観の多様化 職業に尊厳をもてるようにすることが環境の健全化につながる
表現者として 一部の尖ったエロ同人にみられる思想性に類似 表現の自由
「お前みたいな~業についたことのない人間に社会の大変さが解るか!このあまちゃんめが」
とかやたらと特定の業界にだけ社会の本質だとかそういうのがあると押し付けてくるやついるけど
社会が甘くないものだなんて、特定の仕事につくなんてしなくてもどんな仕事してても普通感じるだろ。てかもっと言ってしまえば、学校にいる段階から多少は気づくべきだろ。
学生時代なんの苦労もなく生きてきて、社会人になってから初めて辛さを知るようだから自分の業界が特別なのに違いないとか合理化してしまうんだろうか。
こちとら保育園児の段階でいじめられて精神病んどるんじゃ。40過ぎて転職先の会社で初めて社会の辛さを思い知ったとかいう人にそんな説教される言われないわ。
俺のことなんだけど。
多分男の20%くらいは、そうじゃないか?
女に縁がないことを前提に考えると、色々悟りっていうか、合理化、スリム化できるように思った。
多分、俺みたいなやつって、見た目が悪いとか身長が低いとか、若いころから禿げてるみたいなのがあると思うわ。
芸人のホンコンくらいの見た目の奴ね。
そりゃ、見た目よかったら、おそらくあちら側に行くだろうし。
で、そういう奴って、一般社会から見たら、障碍者とかそういう感じの「ちょっと避ける人」なんだよね。
話したら、普通とかでも、第一印象というか、電車に乗ったらっつーか。「少し避ける人」という。
そういう人と、ワザワザ知り合いになるってのすら、ハードル高い。
何が言いたいかって言うと、「社会に参加させてもらってる人」なんだね。
普通の人のセックスって、もう一生縁がないから、動物園でパンダがセックスするのを見ていても、人間がセックスしているのを見ても、同じような気分。
手に入らないものをどうこう言ってもしょうがないという感じか。
で、風俗なんかでは、世の中の上位5%くらいかな、『クラスで一番かわいい』くらいまではやれる。お金さえ出せば、中田氏でもなんでもできる。
しかし、上位2%みたいな、『ダントツでかわいい』は無理かな。
あとあれだ、クリスマス近くなるから、町中にカップル増えるけどさ。
女の子が全力でおしゃれしてるんだよね。自分に対して全力で向かってくれることは厳しいかな。もちろん、風俗で1日貸し切りとかやれば別だけど。
いやまあ。なんつーか。
そういう方向に考えが進むものだね。
・疑惑について「報道が出る可能性」があり,それを知ったのであれば,
・かつ「このまま竜王戦に入れば七番勝負が中断になる可能性もありますし、将棋連盟にとって最悪の展開は後に隠していたと言われること」が告発の理由なのであれば,
その時点で行動すべきではないのだろうか。
これについては、その時点では「黙殺する」「無視する」という可能性も考えていたのだとすれば合理化できる。
なにせ物証はないんだ。だったら週刊誌による憶測記事として黙殺したっていい(今年の文春の将棋報道なら森内と竹俣の師弟関係破綻とかもあるが、中村記者の力量もあっていい記事になってるが所詮はゴシップの域を出ていない。もちろんそんじょそこらのクズゴシップ記事とは比較にならん出来だが)。
ところが、いざ対局してみて「挙動不審の相手に」「思いもよらない好手を連発されて」完敗し、自分でソフト検証したら「一致率が高かった」。
おそらくこの時点で理性は吹っ飛んだと思うのよね。それで逆に文春を利用して洗いざらいぶちまける手に出た。
このへん、確かに合理性は欠くと思うよ、物証はない、根拠は超一流棋士のカンと、この時点では本人の主観ではそれなりの根拠になると考えていた一致率だけ。
だけどそもそも理性が吹っ飛んでいたとしたら、逆に理解可能だと思うのね。
これも常識的に考えればそうなんだが、しかしこの件は発端からして常識の範囲をはみ出てる。
三浦がシロだったとしても、そもそもは三浦の常軌を逸したレベルの挙動不審が発端なんだし、後から後から出て来る報道を見る限り、ほとんど芥川の『藪の中』のレベルで、関係者が残らず、何らかの嘘をついているとしか思えない(全員が本当のことを言っているとしたら何らの整合性もなくなってしまう)。
だから、この件で誰がどんな嘘をついていて、その理由はなにかということを考えるのはあまり意味がない気がする。
その上で敢えて言うと、俺はこの件、Aであったとしても渡辺はそのことに関する限り嘘をついていないと思う。
それは上記の通り、自分が「被害者」になるまでは黙殺も可と考える合理性がある点、それと竜王戦に関しては、渡辺三浦両者の合意のもと金属探知機で対局前の調査を行うことの決定が10/5付で連盟より発表されていて、おそらく打診と合意は10/3以前に取れていたはずで、渡辺としてもそれで十分と踏んでいたのではないかという点。
毎日新聞に掲載された三浦渡辺の順位戦の観戦記を読むと(これも図書館で確認できたら可)、とにかく渡辺の対局中からの意気消沈が半端なくて、三浦相手に完璧に読み負けていることにすごいショックを受けているんだよね(むろん観戦記者は観戦し執筆した段階では疑惑のことは知らない)。だから、この対局でスイッチが入ってしまった、ということは、それなりに合理性があると思う。
人は理由があれば人を責めてもいいと考えている。
学生時代にあいつはみんなを不快にするから責めてもいいという主張は
深く考えずにまかりとおり、そう思っていなかった人間をも巻き込む。
時には先生すら巻き込んで、誰もその異常さを疑わなかっただろう。
ブサイクがひどい扱いを受けているのを見ても、仕方がないと考えるようになる。
その考えが内面化され、自分にブサイクの要素を感じてしまった時、人は2つの行動をとる。
1つは防衛機制・合理化であり、自分でなく他人を責める方法である。
世の中は自分よりブサイクばかり、だから自分は相対的にブサイクではないと考えるようになる。
また、ブサイクであることは叩かれる要素ではないと、そこだけを例外扱いする。
こうなるのが多数派であり、ほとんどはこの考え方で自分の容姿については深く考えない。
よく問題になるのが、美形なのに理想が高すぎて自分を責め、整形を繰り返すパターンだ。
しかし、それは氷山の一角であり、その下にはたくさんの本当にブサイクである人々が存在する。
本当のブサイクは整形をしても美形はおろか、まともな顔になることも難しい場合がある。
こうしたブサイクなのにブサイクを責めてしまう人々は、自分自身が不遇な扱いを受けるのは仕方がないと考える。
更に厄介なのが、彼らは自分自身を客観視する力が備わっている。
多くの人間は自分の本当に気にしている欠点を認めることができないだろう。
時にはその欠点の妥当性よりも「傷付いた!」という主張をし、被害者であろうとする者も出てくる。
だが、彼らは客観視ができるが故に、自分の姿に補正をかけることができずブサイクだと妥当に捉え、
世間がブサイクに冷たいという事実が変わらないということも理解しており、解決策は容姿の変化しかないと考えるようになる。
このように、人を責めない人間でないからこそ醜形恐怖症へ至る。
内省的で、自分に原因を求めることは素晴らしいが、それが解決不能である場合にこうした行き詰まりが生じる。
うつ病に至る人間も自分に原因を求めてしまう場合が多く、彼らも「いい人」である場合が多いだろう。
こうした人間を救うには、理由があれば叩いてもいいという風潮を変化させるしかない。
ブサイクだから、貧乏だから、背が低いから、英語が話せないから、低学歴だから。。
叩いてもいい理由はどんどん追加されていくであろう。
岡井ちゃんがはじめて私たちの前に姿を現した2002年6月のハロモニを
当時20歳だった私は、一人暮らしのワンルームマンションの14型のテレビデオでぼんやりと見ていた。
8歳の岡井ちゃんはアイドルとは無関係に思える「カントリー・ロード」をたどたどしく歌っていた。
その姿はどうしても有名になりたい才気あふれる特別な女の子というよりは、
大人が笑ってくれたり褒めてくれたり叱ってくれたりすることがうれしくてしょうがない、
ただの人懐っこいひとりの子どもというように見えた。
私はハロプロキッズに対して得体の知れない忌避感と哀れみを感じた。
あんなにもかわいい子どもたちにも関わらず、なにかマズいことが起きているという直感は
それをどういう言葉で表したかは人それぞれだが、ネット上ではそれなりに共有されていたように思う。
ただ、彼女たちが成長し魅力を増していく過程のなかで、それは杞憂だったと誰もが手のひらを返した。
私もその一人だ。
ところで、「今2016年にアイドルになろうとしている15歳くらいの女の子」がいるとして
(それに何を感じ、どう行動するかは個人差はあれど)
私やこれを読んでいるあなたと大きく違わないのではないだろうか。
どうしたって突き付けられる事件が多すぎる。
そしてそこに無頓着なのは私だけではなかったのではないかと思う。
モーニング娘。がブレイクする1999年まではアイドル冬の時代と言われていた。
諸説あるだろうが、その始まりをおニャン子クラブが解散する1987年とするなら
もはやその連続性のなかでアイドル文化を捉えられる人たちはきわめて少数になっていた。
多くの人々が祝福し、「CAN YOU CELEBRATE?」が日本中の結婚式で歌われた。
ジャニーズでも20代になれば結婚してアイドルのまま家族を持つ時代がやってきたのだと誰もが思った。
そのようなおおらかな空気の中でモーニング娘。が女性アイドルを復活させ、岡井ちゃんはオーディションに合格した。
意志をもってアイドルになった、というより気づいた時にはなっていたというほうが近いのかもしれない。
ハロプロが女性アイドルに再び春を呼び戻した頃も、恋愛は絶対的な禁忌ではなかった。
週刊誌報道はスルーされ、ファンのため息がなにか風を起こすようなことはなかった。
今とあまりにも違う。
その時代の空気の変化の中に一番最初に巻き込まれ傷ついてきたのが
実は℃-uteであるということはもっと知られてもいいと思うし、
℃-uteのファンでも忘れてしまっている人もいるのではないだろうか。
詳しくは書かないが、ファンや事務所の締め付けが厳しくなる中で
実績のある先輩たちはある種の図太さを見せながらサヴァイヴしていったが
℃-uteのメンバーはいきなり力尽きるように表舞台から次々と姿を消していった。
℃-uteやBerryz工房のことを、きれいな空気のなかで大切に育てられ
人生の大半をアイドルに捧げた純粋性の高いエリートであるように言う人は多い。
長い時間をかけて深く引き裂かれてしまったのもまた彼女たちなのではないだろうか。
そして、岡井ちゃんやまいまいや梨沙子のような、本当に幼い頃からキャリアをスタートさせた子ほど、
その欺瞞を合理化するような術をいまだ持てず、混乱の中にいるのではないだろうか。
「今2016年にアイドルになろうとしている15歳くらいの女の子」や
ここ数年でアイドルを好きになったファンたちとは見えている世界があまりに違うのだ。
舞美ちゃんのブログの更新を待っている間、夢幻クライマックスを何回も聴きながら
岡井ちゃんにとって「強くなりすぎた」とはどういうことなのか、
なにが舞美ちゃんを「さみし」くさせているのか、私はずっと考えていた。
もう限界だ。
自己肯定感が低いのは確かにそうだ。
だが、客観的に見たスペックと社会が自分を低いカーストへと固定化しようとする。
それが嫌で嫌でたまらないのに、なぜそれを甘えというのか。
結局勝ち続けている人たちは負けている人から搾取する事をベースに考えている。
努力や能力を免罪符に自身を合理化し、負けた人たちは生活できるだけでもありがたいと思えという。
それはシステム上そうならざるをえなかっただけであり、システム自体に疑問を抱かない。
彼らの言う大人であるくらいなら、まだ堀江貴文氏のように問題提起をしてそれに立ち向かう人間の方が人間らしい。
そうすることすらできない自分の能力の低さと病気が生きる気力すら奪ってしまった。
でもそれはもうできない。
悔しい。
結局GDPを向上させるための消費装置を政府は失いたくないだけなのだろうか。
頼むから、この世に絶望し、死ぬ事でしか救われない人たちの負担を軽減する手段を模索してほしい。
【サイト終了のお知らせ】 当サイト「THE HARDWORKERS」は2016年8月15日をもって 終了させていただくことになりました。 長らくご愛顧いただきまして誠にありがとうございました。
なにかあったんだろうなとは思っていた
閉鎖したからなんだと言うほど
注目していたサイトではない
「いつ閉鎖するのかな」的に
「ああやっぱり」というのが率直な感想だ。
いろいろと感慨深い
たとえばコレ
だが社畜が居なくなると
処理できないジョブがどんどん押し寄せてきて
業務が滞りはじめる。
そして・・・
合理的になっていく
社畜を全員クビにすればいい
いつまでたっても組織は良くならない
ほんのちょっぴりだけ寂しい
労働人口は急速に減少し希少になっていく
以下に書くのは
・2004年1億2784万人いた日本の人口は2100年に4771万人に激減する(中位推計)
・65歳以上の人は2004年に5人に1人だったが2100年には2人になる
・1980年に12%だった高齢者単身世帯率は2050年に55%になる
・2050年日本の国土の98.1%で人口が減り1.9%の地域に人口が集中する
・2050年首都圏では610万人近畿圏では586万人の人口が減る(2005年比)
・2050年日本の全人口の56.7%が三大都市圏と東京圏に集中する
・人口が増加する都市雇用圏は全都市圏の3.3%わずか8都市圏のみ
・中国と四国では首都の3倍(24.4%以上)の居住地域が消滅する
・2050年に老齢従属指数1未満の地域は対2010年比で3倍に増える
・2050年に高齢者一人に対して働く世代の人口は1.31人まで減る
・2050年に東北北陸中国四国北海道の生産年齢人口は-50%を下回る
・2050年に日本の生産年齢人口は総人口の減少よりも大きく減る
・2050年までに人口減で国民総仕事時間(労働力)は4割減少する
出典・典拠
国土交通省国土審議会政策部会長期展望委員会 2011年2月21日
労働人口が少なくなるということは
良い人材が集中するということだ
幕開けに過ぎない
どんな社畜も
いつか限界を迎える
どんな社畜も
働けなくなる
社畜たちよ
お疲れさま(笑)