「自分は楽しんでいる。楽しいから続けているんだ」。これは自分の趣味活動を継続する上で容易に手を伸ばせる結論だ。しかしゲーム制作という分野でエンターテイメントをシステムとして捉え続けてきた自分に言わせれば、続くのは楽しいから、というのは大間違いである。身も蓋もない言い方をするなら、続くのは『続けさせるようになっているから』でしかない。楽しいかどうかは続けさせるための一因でしかないのである。
限定された期間でしか得られない報酬を短周期で繰り返すソーシャルゲームは、ユーザに継続を強要させるためのシステムとして分かりやすい例だろう。自覚が無さそうところで言えば、体育会系的部活動にも同様の傾向がある。子供たちは、いつでも自分の意思で「楽しくないから辞めます」と言える心理状態にあると言えるだろうか。否、体育会系のコミュニティが自虐的な鍛錬の継続を美化する指向性を持っているのは明らかだ。転部や兼部は新たな楽しみの発見のためには合理的なはずだが、ひとつの部活動に一途に取り組むのに比べてイメージが悪い。他の選択肢を試すことすらなく、青春の大半を辛い練習に費やし、時には試合のレギュラーにすらなれないまま過ごしながら、その日々を合理化している、というのはおそらくそう珍しい事態ではあるまい。
コンプリート願望やコレクター願望、勝利至上主義、達成感、ストレスからの解放、不利益を被ることを美化する価値観、など、楽しくないものを継続させるためのシステムは境界こそ曖昧だが多岐に渡る。しかし、これらのシステムには概ね一貫したひとつの性質がある。それは、「参加者はシステムに従わないことでそのシステム上での価値を失う」ということだ。「時期限定のアイテムを取り逃せば、そのゲームで将来に渡って不利になる」「部活を辞めればスポーツマンとして価値が失墜し根性無しの烙印まで押されてしまう」などがこれある。こうしたシステムは強迫的にプレイヤーに継続を要求する。システムへの参加が自由意志であり、得られるものがシステムの上の価値でしかなくても、システムから脱するという決断を困難にしてしまうのだ。
言うまでもなく、楽しくないことを続けてしまうとしたらそれは不幸である。そして継続を誘発するようにデザインされた趣味はこの商業主義社会において決して少なくない。人は自分の幸福を守るために自分が本当に楽しんでいるかを常に感じ取れるようでなければならないと言えるだろう。
(当然のことではあるが予防線として言っておくと、ソーシャルゲームにしろスポーツにしろ、その楽しみを全面的に否定する意図は勿論ない。ここで言及したいのはシステムが持つ指向性によって楽しくないものを続けてしまうリスクについてのみである。本当に楽しんでいるなら何の問題も無い)