2017-07-01

人間は楽しくないことでも続けてしま

自分は楽しんでいる。楽しいから続けているんだ」。これは自分趣味活動継続する上で容易に手を伸ばせる結論だ。しかゲーム制作という分野でエンターテイメントシステムとして捉え続けてきた自分に言わせれば、続くのは楽しいから、というのは大間いである。身も蓋もない言い方をするなら、続くのは『続けさせるようになっているから』でしかない。楽しいかどうかは続けさせるための一因でしかないのである

限定された期間でしか得られない報酬を短周期で繰り返すソーシャルゲームは、ユーザ継続強要させるためのシステムとして分かりやすい例だろう。自覚が無さそうところで言えば、体育会系部活動にも同様の傾向がある。子供たちは、いつでも自分意思で「楽しくないから辞めます」と言える心理状態にあると言えるだろうか。否、体育会系コミュニティ自虐的な鍛錬の継続を美化する指向性を持っているのは明らかだ。転部や兼部は新たな楽しみの発見のためには合理的なはずだが、ひとつ部活動に一途に取り組むのに比べてイメージが悪い。他の選択肢を試すことすらなく、青春の大半を辛い練習に費やし、時には試合レギュラーにすらなれないまま過ごしながら、その日々を合理化している、というのはおそらくそう珍しい事態ではあるまい。

コンプリート願望やコレクター願望、勝利至上主義、達成感、ストレスから解放不利益を被ることを美化する価値観、など、楽しくないもの継続させるためのシステム境界こそ曖昧だが多岐に渡る。しかし、これらのシステムには概ね一貫したひとつ性質がある。それは、「参加者システムに従わないことでそのシステム上での価値を失う」ということだ。「時期限定アイテムを取り逃せば、そのゲームで将来に渡って不利になる」「部活を辞めればスポーツマンとして価値が失墜し根性無しの烙印まで押されてしまう」などがこれある。こうしたシステム強迫的にプレイヤー継続要求する。システムへの参加が自由意志であり、得られるものシステムの上の価値しかなくても、システムから脱するという決断を困難にしてしまうのだ。

言うまでもなく、楽しくないことを続けてしまうとしたらそれは不幸である。そして継続を誘発するようにデザインされた趣味はこの商業主義社会において決して少なくない。人は自分幸福を守るために自分が本当に楽しんでいるかを常に感じ取れるようでなければならないと言えるだろう。

(当然のことではあるが予防線として言っておくと、ソーシャルゲームしろスポーツしろ、その楽しみを全面的否定する意図は勿論ない。ここで言及したいのはシステムが持つ指向性によって楽しくないものを続けてしまリスクについてのみである。本当に楽しんでいるなら何の問題も無い)

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