はてなキーワード: 冗談とは
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○第1章『序論』
p.10 子供を産むことの決断には様々な理由があるだろうが、そこに存在することになる子供の利害が含まれているはずはない。
●『誰がそんなに幸運なのか?』
p.12 「生はあまりにも酷い。生まれてしまわない方がよかっただろう。誰がそんなに幸運なのか?」(ユダヤ人の格言)
「決して誕生しないことは、死ぬ運命にある人間にとっては最善の事柄だろう。しかし、このことは十万人のなかの一人の人間にだってほとんど生じない」(フロイトのジョーク)…「非同一性問題」→私たちはたしかに非存在がよりよい状態にあるとは言えない。しかし、存在するものについては、存在することは当人たちにとって悪いことだと言える。「これは哲学的なゲームでも冗談でもない」
p.15 生殖をするカップルは、苦しみを生みだす氷山の頂点にいる。遺伝的な起源の責任。=デレク・パーフィット「起源説」
p.16 反出生主義の偏見…子供嫌い、子供を持つことによる自由と財産の制限
p.17 出生の偏見…子供をもたないことは利己的で未発達→①子供は別の人間なのだから、子供をもつ動機は利己的でしかありえない。②(1)子供をもつことはしばしば不注意の結果でしかない。(2)生殖の衝動は原始的なものである。
p.19 全体主義者の政治団体は軍事的な理由で生殖を奨励する。民主主義国家も、つねに生殖を支持する層が勢力の大半を占めている。…あらゆる国家は移民より生殖により人口が構成されている方が正当化される。
●『本書の概要』
●『読者への指針』
●『存在してしまうことが害悪であるということがあり得るか?』
p.27 「非同一性問題」「未来の個人のパラドックス」…(ex)遺伝性の障碍
p.29 非存在は存在と比較できないため、存在することがしないことよりも「より悪い」と言うことはできない。…存在の害悪は単に「悪い」というだけで十分だ。
…誰かが死んだ方がマシだと考えるとき、自分の状態が良くなると考えるわけではない。存在しなくなる方が良いほど人生が悪いものである可能性と同じく、はじめから存在しない方がいいほど人生が悪いものである可能性はある。
p.31 誰かが存在していることとしないことを比較するのは、2つの状態を比較するのではなく、まったく別の事態を比較することだ。…障碍が耐えがたいにしろ人生を生きるに値しないものにするほどではない場合は、そうでない場合より難しいと考えられている。=生きるに値する人生において、存在するよりしない方がいいというのは矛盾だ。→これは「生きるに値する人生」という表現の多義性が原因だ。
p.32 「生きるに値する人生」は実際には「生き続けるに価する人生」だ。だが、問題は今はまだない人生であり、これに「生きるに値する人生」という表現を使うことはできない。「始めるに値する人生」を始めない方がいいというのは矛盾だ。
p.34 道徳的な問題に関わる意味で、人が存在するようになる過程は長く、段階的だ。
p.40 非存在に苦痛がないことはいいことだと言える。可能性において存在する誰かの利害で判断することができる。我々は、自分たちについて存在しなければよかったのにと仮定することができる。
p.42 人々を幸福にする積極的な義務があると考えている人でも、幸福な人々を存在させる積極的な義務があると考える人はほとんどいない。
p.44 非対称性は思考実験「遠く離れた(異国の住民の)苦痛と、無人の場所(無人島・火星)」(…非対称的な判断)で実証できる。
p.46 積極的な功利主義者は幸福を増加させようとする。そこにも①人々を幸福にすること、②幸福な人々を生みだすこと、の違いがある。①は倫理の要請だと言える。しかし、②を倫理の要請だとすると、個人の価値は幸福の価値から派生することになり、人々を幸福を生みだす手段だと見なすことになる。
p.52 つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人を比較すれば、存在しないことの利点がつねに勝ることは明らかだ。回復するのは手段的な善であり、内在的な善ではない…という批判は成立しない。実在する人物について善がないことに「奪われていない」という判断ができるのは手段的な善のみだ。この区分は意味がない。
p.54 楽観主義者の快楽と苦痛の費用対効果分析…は「存在しない」場合との比較でなされていなく、無意味だ。…快楽に苦痛の2倍以上の値がある場合、「存在する」ことの費用対効果分析は成立する。しかし、QOLを決定する快楽・苦痛の割合、苦痛の下限の問題がある。何より、思考実験「つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人」はつねに相対的に前者が勝る。
・『別の非対称性』
p.59 シフリン:より大きな害悪を防ぐために小さな害悪をもたらすことはいい。しかし(純粋な)利益をもたらすために害悪をもたらすことは悪い。よって、生殖は悪い。存在が利益をもたらすとしても、あらかじめその存在の承諾を得ることは不可能だ。また、その仮想上の承諾を想定することもできない。…①存在しなければ害悪を被らない。②存在することの害悪は耐えがたいものでありえる。③人生という害悪を逃れるには大きな代償を支払わなければならない。④仮想上の承諾はその個人の人格を無視している。…そもそも、出生が利益をもつことはない。
p.63 出生された人物の権利を生殖が侵害するということは、その権利を請負う人間はその時点で存在していないためにありえない…という議論は生殖の特別な特徴を無視している。害悪を被り「得る」ということで、特別な権利を認めるべきだ。なぜなら、存在しない権利がないということはありえない。…自律していない存在(=子供)にはより大きな利益をもたらすために害悪を与えていいというパターナリズム的な議論…は、子供とまだ生まれていない子供は異なり、出生は絶対に悪いということで否定できる。
p.64 フェーイゲ「反失望主義(antifrustrationism)」:選好が充足した場合も選好がない場合も等しくいい。悪いのは選好が充足しない場合だけだ。よって、出生は悪い。
p.68 自らの人生を楽しんでいるという理由で、存在してしまったことを良いことだと考える…もし存在してしまわなかったら、その楽しみを逃す人はいない。しかし、存在してしまわなかったことで、苦しみがなくなるのは良いことだ。
p.69 存在して良かったかどうかを間違うはずがないと考える…存在してしまった当人の存在が良い/悪いということは、存在してしまったことが幸福/不幸ということと同じではない。
p.72 人生の良さと悪さの差は、順番、強度・頻度、人生の長さ、閾値、で人生の質とは変わってくる。
p.75 ①ポリアンナ効果:楽観主義。人生の質を改善するらしく思われる要因のほとんどは、人生の質の自己判断にあまり影響を与えていない(例:体の各症状に対する自分の健康状態への判断がほぼ一致するのに、幸福への判断とはあまり一致しない)。②適応。③比較:幸福の自己判断は、実際は相対的な指標による。
●『人生の質に関する三つの見解のどれをとっても人生はうまくいかない理由』
・『快楽説』
p.81 人間は人生の大部分をマイナスの精神状態で過ごす…空腹、渇き、便意・尿意、疲労、ストレス、暑さ・寒さ。前述の3つの心理学的効果で無視されているだけ。さらに…持病・加齢:痛み・苦しみ、眠気、挫折感。災厄:アレルギー、頭痛、挫折感、苛立ち、痒み、寒気、生理痛・閉経後の火照り、吐き気、低血糖、発作、罪悪感、恥、退屈、悲しみ、憂鬱、孤独、無力感、喪失感、その他、被害感情全般。
・『欲求充足説』
p.84 精神状態について判断を間違うことはなくとも、欲求については間違うことがありうる(単に快楽を追求している場合は除く)。…欲求は当然、満たされていない時間の方が長い。また、欲求が満たされるのは一時的で、そもそも、欲求が満たされないことも多い。現状維持の欲求さえ、実現は不可能だ(老い、死)。
p.86 マズロー「つねに新たな欲求が生じる」。イングルハート「人間が永遠の幸福を得ることができるなら、何ら行動しなくなる」。マズローは人間はおおむね幸福で、不満足は病的状態だと言うが、ショーペンハウアーは不幸こそ人生の当然の状態だと言う。
p.88 欲求の充足までに困難があった方が、あるいは充足の過程そのものが良いという議論…は明らかに不条理だ。
p.92 「客観的リスト」は「永遠の相のもとに」ではなく「人間の相のもとに」構成されている。…40歳で死ぬことが不幸だとして、90歳でそうでないのは何故か? 「色んな芝生に生えている草を数えることに人生を捧げている男」(ロールズ)の人生は無意味だが、その視点と人類の視点は大差ない。
p.93 人生の質は「人間の相のもとに」判断すべきである、あるいは、具体的な背景に応じて判断すべきであるという議論…は明らかに不条理だ。
p.98 害悪に満ちた人生を、①すでに存在している人のためでなく、②功利主義的な目的でなく(また、そうであっても)、生みだすことはできない。人生の質の判断は当てにならず、よって、人生を続けるに値するかは別論だ。
●『子作り』
・『子作りの義務はない』
p.103 子作りの義務…①射程:子供を(1)何人か、(2)できる限りたくさん、持つ。②正当化の理由:(1)存在させられる人々の利害関心、(2)その他(他者の利害関心、功利性、信仰、等)。…存在させられる人々の利害関心によれば、子作りの義務はあり得ない。それ以外の理由ならあり得るが、それにしても相当に疑わしい。とくにできる限りたくさんの子供を持つべきだという場合は。
p.105 生殖衝動、子作りへの関心…「性交への関心」「親になることへの関心」と「子作りへの関心」を分ける。前2者に子作りは必要ない。
p.107 他者の関心…両親、部族・民族、国家。しかし、こうした他者の利益を適えることは、それによる当人の利益を適えることと表裏一体だ。
p.109 子作りへの関心は…これまでの議論から権利を制限されるべきだ。
p.113 子供を持つべきでない道徳的義務があるなら、子供を持つ道徳的権利はあり得ない。よって、子供を作る権利は(愚行権を含む)法的権利だ。
p.114 法的権利は道徳的義務と対立する場合、そうした方が良いという仮説を必要とする条件付きのものとなる。そして、阻却可能条件(子供を作るべきでない)がつねに適合する場合、その法的権利は妥当ではない。
p.115 政府が子供を持つべきでない道徳的義務を認めると、施策としてあり得るのは①権利を与えず自由放任する、②禁止する、のどちらか。①は権利を与えず容認するというのは矛盾で、いずれも積極的な②を包含する。②はその道徳的代償が子作りの禁止による利益を上回ることはないと思われる…非最大化主義的非帰結主義者の見解。
・『子どもを作る権利を意見の相違があるということに根拠付ける』
p.116 法的権利とその正当化にはこのことだけで十分だ。危害原理の必要条件:ある行為が害悪であるかどうか意見の相違がある場合は、危害原理の射程の外にある(例:人工妊娠中絶)。…ただし、奴隷制のように、ある行為が害悪か議論の余地があるだけでは許されないものもある。
p.118 危害原理の例外となる意見の相違は妥当/無条件のどちらか。奴隷制やアパルトヘイトは明らかに妥当ではない。
p.120 少なくとも反出生主義が最も優れた反論と比較して十分に検討されるまでは、妥当な判断のできる理性的な人々によって、意見を妥当に違えることができるかは結論付けられない。
p.121 少なくともリベラルな社会において子供を作る法的権利が撤回されるのには長い時間がかかり、そのときにはその意見は広く認められているだろう。それまで、新しい人間を存在させてはならない道徳的義務を認めつつ、子供を作る法的権利を認めることはできる。…実際、テイサックス病やハンチントン病のような遺伝性の病気、エイズのような感染病など、他の場面では許されないほどの害悪を与えることが、子供を作る場面では容認されている。
p.123 障碍…障碍は社会に構成されたもので、実際には障害(disability)ではなく不能(inability)だ。また、障碍の出生前診断は政治的に悪いメッセージとなるという「表出主義者」の議論…障碍が不能ということは、「より悪い」ということを否定するものではない。健常者と同じQOLを持つ障碍者も、さらなる障碍についてはQOLを低く見積もる。また、反出生主義はむしろ平等主義だ。
p.132 ロングフルライフ…訴訟は①子供を持つ法的権利に関する妥当な意見の相違。②QOLの評価は個人的なものだ(とくに現在のロングフルライフ訴訟は代理人によることが多い)。もし判例ができれば、もうQOLの評価は個人に独特なものではない。の2点の課題がある。
p.135 セックスは子作りの目的でなされる場合のみ道徳的に容認されるという多くの反論がある見解(オーラル・アナルセックス、レイプ、不倫、不妊症)を、反出生主義は「性倫理の反生殖的見解」として完全に退ける。
・『誕生の悲劇と婦人科学(gynaecology)の道徳』…『悲劇の誕生』と『道徳の系譜(genealogy)のもじり。
p.140 1人の子供を救うために新たに子供を持つという場合は…(a)自分たちの関心(interest)を満たすため、(b)今存在する子供に弟妹を与えるため、(c)家族、部族、民族、種族を大きくするため、(d)何の理由もない、という場合よりはるかに良い。これらは、他人を手段として扱ってはならないというカンティアンの命題によりいっそう当てはまる。
・ツイッターで何年もフォローしてたらいつの間にかフリーランスとして結果を出していた
・その間に自分も正社員になってるし戦っている場所が違うだけで大差はないのかも
それはまだ私達が大学生だった頃、お互いが大学を中退する前ぐらいのことだ。
インターネットではSNSという新しいサービスがナウなヤングにバカウケだったので、私達もアーリーなマジョリティの一団に紛れてそこに移住してきた。
現実では誰からも面白いと言われない下品な冗談と自己憐憫の繰り返ししかできない者たちが、クリック一つで手に入るふぁぼを求めて日夜レス乞食をしていた。
そんな中で私達は出会い、そしていつの間にかお互いにリアルでの交流もないまま十年来の友とも親しいなにかとなっていた。
ツイッターのブームが去り、やがて世間の流行りはLINEへと移っていく中で、私達は大学を中退したまま何者にもなれず相変わらずツイッタラーでクズのフリーターだった。
もしも違いがあるとすれば、彼にはゲーム・アニメ・漫画・インターネット以外の趣味があり、私にはそれが無かったことだ。
ろくな趣味もないくせにダラダラと時間を浪費し大学から消えていった私は、ニートとフリーターを往復する生活にも飽き、就職活動を本格的に再開することにした。
大学を中退した理由である所の卒業論文にまつわる苦労を薄く広く伸ばしながら上手い具合に過去研究の成果を自分がやったものであるかのように捏造しながら面接を繰り返すうちに、いつしかそれらは真実味をおび、その中で私は流暢に自分のやった研究を喋れるそれなりの理系人間であるかのようになっていくのだった。
そうしていつしか私は年収300万円ほどのしがない正社員となった。
その会社の片隅で、どこへも行き場のなくなった人生を抱えながら、いつしか年収450万円ほどのしがない係長として野原ひろしの凄さに感嘆しながら死ぬ人生のレールの上をゆっくり進みだしていた。
私が自分の人生を虚無の塊と見切りそれなりの人生へと落ち着いた頃、件のツイッタラーも別の場所で結果を出していた。
私がフォローする前から続けていた趣味の世界で10年20年とかけて十分な力をつけた彼は、自分の創作物を価値あるものとして世に売り出せる所にまで来ていた。
彼の作った作品のウチ1つ目が小さくバズったあと、彼は自身をつけたのかフリーランスとして仕事を取り始めるようになった。
フリーとして働きだしてからは、単純労働のバイトも辞め、いよいよその趣味一本で生きる人生を確定させていくのが遠くから見て取れた。
2つ目の製品がバズっていく頃には、一部界隈ではその製品名が彼の名刺代わりのようになっているようだった。
そして、業界内で普通に仕事を取り、ただただ好きなことだけをして暮らす人生のレールの上を走り続けていくのだった。
差がつきすぎていた。
大学でやっていた勉強のウチ、好きなことの抱合せでついてきた好きでもない分野を武器として、好きではないが出来なくもないことをして働いている。
得意なわけではないし経験があるわけではない、正直言えば興味もないしやる気もないので今後その中で一角の人物になることもないだろう。
虚無だ。
栄光を人生に求めるならどこにもたどり着けなくなったあとの人生だ。
ただ生きて死ぬだけのいまを生きている。
彼はどうだろう。
同好の士とリアルでも繋がりを持ち、公私の人脈を広げるなかで確実に居場所を確保していく。
手に職があることの強さを思い知らされる。
だが、ふと自分の素性を振り返ってみれば、私だって仕事がクソなだけでその仕事の中で人との付き合いはある。
居場所がないという訳ではない。
平日は楽しくもないが、土曜日と日曜日はあっという間にすぎる程度には楽しめている。
結局、アニメとゲームぐらいしかない人生だが、それらはどんな無能でも受け入れてくれる。
何も生み出そうという気持ちがないから、何も生み出せずに過ごしたことへの後悔は気の持ちようだけで晴らすことが出来る。
楽な人生だ。
彼の人生は、遠くから見る分には楽しそうだが、その中では苦労もあるだろう。
会社員のようにいざとなったら会社そのものが持つ人脈によって仕事をフォローしてもらってあとはいつの間にかどうにかしてもらうという必殺技もそうそうは使えまい。
私が椅子に座って自動で流れてくる仕事に手を付けていく横で、彼は営業活動をしたりフリーランスの募集に応募をしている。
お互いがお互いに人には見せないウンコを自分の人生の中でそっと一人どこかの便座に腰掛け下水道へと流しているのだろうか。
誰もが腹にウンコを抱えて生きている。
クソ袋達が街をゆく、その人生は平等にその腹の内側からクソにまみれていく。
そんな中で人が人と比べあって何になるのか。
パンティー
個人的にひとつ言いたいのは、厚切り牛タンは絶対にNOということだ。
仙台の名店と言われる店の多くが厚切りで牛タンを出してくるが、はっきり言ってありえない。
厚い牛タンなんてゴムみたいな食感で、あごは疲れるし味はボヤけるしすぐに飽きるし、全然牛タンとしての旨みを活かせていない。
サクサクと噛みきれる厚切りは、それはそれで不気味だ。肉としての威厳が無い。
あんなものを店で食うなら、土産用の薄切り味噌漬けを家で焼いて食ったほうが100倍美味いと、俺は思う。
こう思うにいたったきっかけは、20年ほど前、仙台に出張した際に地元の人に連れられて入った牛タン屋である。
夏の日だった。
地理には疎いが、仙台駅の西口から10分ほど離れたところだったと思う。ビルが並ぶ通りから少し裏道に入った場所だった。
ここで出された牛タンが薄切りで、その完成された味に驚いたのだ。
焼き魚を乗せるような長方形の皿に、飾り気無く盛られた牛タン。薄切りとは書いたが、普通の薄切りよりは厚めだ。だが厚切りではない。そして一口が小さい。
同じ皿には、意外なほど大量に添えられた漬物がある。
そしてサイコロ状の肉が一個と、白髪ネギが浮いたテールスープ。
麦飯。トロロ。(案内してくれた人にこれは後半に食べろといわれた)
まあ、牛タンだし普通に美味いんだろ程度に思いながら肉を口に運び、そして打ちのめされた。
小さく薄切りにされた肉の一枚一枚に、牛タンの味が凝縮されていた。
肉は硬すぎず、適度な噛み応えがある。
噛むとジュワっと肉汁が噴き出す。
厚切りになどしたら下品で間抜けな味になるところを、美味さが一口にまとまるように絶妙のバランスで計算された分量だった。
今までの人生で食べてきた牛タンのコクがすべてここに集結したかのような味である。よく出来たアニメの最終回と同じ感動だ。
試しに二、三口分をいっぺんに食べてみたらこれはもう方程式が狂ってしまい、途端に「違う」と感じた。
この店は牛タンだけでなく定食としての完成度も恐るべきクオリティだった。
薄い一切れの味が濃厚で、一口食べるごとに「牛タンを食べた!」と満足できる旨みの強さなので、他の食材にも箸が進む。
まずは当然麦飯。
塩加減が強い牛タンと一緒に食べると、少しパサパサめの麦飯が、まるで砂漠で飲む水のように喉を通過していく。
気づけば食事開始3分で茶碗は空であり、当然おかわりを注文する。
そして名前がわからない手作りの漬物と、よくダシの取れたテールスープ、ここまで温存しておいたトロロ。
以前の俺は漬物が嫌いだった。しかしこの定食を食べた時から漬物を愛するようになってしまった。食前に残したらどうしようなどと思っていた自分が馬鹿らしい。
一口分の漬物を牛タンで巻いて口に運び、麦飯とともに十分に咀嚼する。
笑いたくなるほど麦飯が進む。
夢中でほおばった勢いで軽くむせそうになりながら、それをあっさり味のテールスープをすすって流し込めば、ピリリと効いたコショウで食欲がさらに増進される。
これを何度も繰り返す。
牛タンの旨みを常に新鮮に味わい続けることができる、黄金の食事だ。
汗をかき喉が渇くが水を飲んでいる暇などない。
至福である。
すでに麦飯を二杯平らげているので腹もそれなりに膨れかけているはずだが、ここでトロロを投入だ。
この手順をはじめて聞いた時は、牛タンの美味さと余韻をトロロが壊すのではないかと恐れた。しかし杞憂だ。
刻み海苔が添えられ甘めのダシで味付けされた冷たいトロロは、牛タンの油と旨みでギトギトになった口と食道に、これまた清涼剤のように染み渡る。
例えるなら、大学時代にサークル仲間と一緒に行った海水浴だ。小学校の友達とプールの帰り道に飲んだラムネだ。
晴れ渡った青空とギラギラと照る太陽のイメージが脳裏に広がる。
夏だ!! 俺は今夏を味わい尽くしている!! そう心から確信した。
行儀など気にする余裕もなく、とにかく目の前の牛タン定食を味わい尽くすので精一杯だった。
あまりの美味さに食事中はほとんど口も聞かず(案内してくれた人は食べる順番などを細かく指示してくれた。はじめは鬱陶しかったがあとから本気で感謝した)ガツガツと定食をむさぼり、店を出てからはひたすらに美味かった、本当に美味かっためちゃくちゃ美味かった、と連呼することしかできなかった。
案内してくれた彼は、特には言葉を返さずに、しかし心からの笑顔で静かに頷いていた。
それ以来、牛タンは薄切り派になった。
何年か経ち、また仙台に行く機会があったので当然のごとく牛タン屋に向かった。
一人だったので、とりあえず有名店なら外さないだろうと思って適当な店舗に入った。
しかし、出てきたのは厚切りのブサイクな牛タンで、タン特有の味や匂いがぼんやりと口中を漂うだけで美味くもなんとも無く、噛みきれない肉にイライラするだけであった。
テールスープもギトギトしているだけでアブラ水を飲んでいるようだった。
漬物だけの方がよっぽど食が進んだ。
しかし、これが有名店であり、地元民や観光客などから歓迎されているという事実に、さらに絶望した。
あれから何件か牛タン屋をめぐっているが、どこも厚切りのものばかりで、あの奇跡のような薄切り牛タンにはめぐり合えていない。
俺は少し牛タンを嫌いになった。
できることなら、あの店、あの奇跡の牛タン定食を出す店に、もう一度行きたい。
もう一度あの薄切りの牛タンを堪能したい。
そしてみんなにも行ってほしい。
ご存知の方がいたら、どうか店名を教えてほしい。
店はもう残っていないのかもしれない。
「結婚していません」
と答えてもモヤモヤするし、
「バツイチです」
って答えるのも相手も困るだろうし、(周りに真面目な人が多い)
なんて答えるのが良いんでしょうね?
冗談で返すように2、3、ネタを準備しておこうと思ったんだけど思い付かず。
だれかアイデアあったら教えてください。
・ええ、少々
- 清潔感がある
- 挨拶やお礼がちゃんとできる
- 常識があり、人の目が気になるようなことはしない
- 素直である
- 人に気が使える
- 計画性があり、全体のことを考えられる
- 男尊女卑ではない
- 話し合いができる
- 尊敬できるところがある
- コンプレックスが強くない
- 金銭感覚が合う
正直、他にも色々あるかもしれない。
でも一番重要な要素を挙げるとこうなる。
つーか、マメな男がモテることくらい、割と多くの男が知ってるわ。
決まってんだろ、マメなだけの男なんて、男社会じゃ全然評価されないから。
別の言い方するなら「気が利くだけ」の男なんて、邪魔じゃないけどつまんねーヤツとして軽く見られるんだよ。
気合とか士気とか、あるいはこだわりとか克己心とかでもいい、そういう良い意味での「イキリ要素」が皆無の男は、それだけでヘタレ扱い。
むしろ虚勢の一つも張れない奴に出る幕はない。
そりゃ表向きは「○○くん」みたいな呼ばれ方で「一応は」目をかけてくれるだろうけど、裏では「ベタベタ、ナヨナヨくん」みたいな感じでバカにされる。
言い換えるならマウンティング込みで、動いてるアピールも含めてわかりやすいアピールをして、初めて相手にされる。
自分で動かない奴は相手にされないのが当たり前、それどころか動いても相手にされない可能性がある。それが男社会。
こういうホモソーシャル臭が充満した環境は、上に書いた孤独死や自殺の発端となる、支配と服従の構図を容易に作り出すという欠点があるんだわ。
それこそ、そのグループで誰が偉いかを見極めるのは基本というくらい、男の世界は縦社会。
でも、こういう社会のほうが多分外敵には強い。
例えば「吹奏楽男子」や「甲子園のジャイアンツ」みたいな完全アウェーで周り敵だらけな状況だと、男はメチャクチャ結束する。そして超仲良くなるんだわ。
俺「ウチのメンズは仲いいんで」
女「は?ダメンズじゃん」
みたいなノリでやってやる!という、おバカだけどマジな雰囲気になる。
というDNAを持って生まれてきた男って生き物が、なおかつ連綿と続いてきた、こういうくっせー社会で生きることを余儀なくされるんだよ。
そこでマメなのを取り柄にして生き延びる男なんて、冗談抜きの出来杉君か、最初に書いたようなヘタレ枠という両極端しかいなくなるってわけ。
悲しい生存戦略だな。
普通の男がどうこうの話題でコンプレックスについても言及されてたけど、
コンプレックス云々はなんか異常に「あいつにはコンプレックスがある」って言いたがりな人に無理やりな認定をされるって話もあるあるな気がする。
当人は別に深刻なコンプレックスのつもりではないからこそ頻繁に冗談のネタとかにしてしまって、そういうのに敏感な人に誤解される的な。
こういう何も予定のない日遅く起きた朝は
のんびりどこかに何冊か本やノートパソコンを持って車で出かけて
今日はそんな1日にしたいわね。
まあやっぱりなくて、
ゾンのアマで見たら売り切れで入荷未定ってなってたわ。
なんかそういう時すぐ手に入って読める電子版は便利だったりするけど、
結構動画再生する前は見てから買ってみようかなと思ってたけど、
前編後編再生して見終わって、
ネットでと思って見に行ったら、
売り切れだったのよ!
スゴいわねネッツの力って。
もちろん私の近所のみかんの花咲く丘公園前の商店街の書籍屋さんもあつかってなくて、
どうも大型書店屋さんだと
まわりの本屋さんに浸透して置き始まるのは
半年ぐらい先だったりするのよね。
離れていくほど、
なんかそういう時の流れが止まったような感じもするわ。
まあ古書とかは別よ。
ネットにはない直に古書の本屋さん巡りしなくちゃいけないじゃない。
私は言ったことないんだけど、
なんかそういう所でこだわりのある感じの客を演じてみたいわ。
まあそう言うことで私は今日一日お利口さんをキメて読書に勤しみたいわ。
みんなもよい休日をね。
アミーガ!
遅く起きたのであとでカレー屋さんでナンでもテイクアウツするわ。
普通のズーミーよ。
やっぱり浄水器付けてみた方がなんとなく気持ちがいいような気がするし、
水を磨く!って思うと職人技っぽくない?
水道処理施設は今は日本変態級のらしく美味しい水道水が作れるんだけど、
水道設備施設の老朽化問題のそういうところはどうしようもないので、
ああそこで浄水器なのね、
と合点がいったわ。
なくてもいいけどあった方がいいって感じ。
じゃないと反対に付けたら噴水になっちゃうじゃない!
うふふ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
普段、外部で研究しており、先月久々に学校へ顔を出した。すると同期2人に根も葉もない自分に関する話を後輩に噂されている状況が広がっていた。内容はセックス時の前戯の仕方。そんな話、他人にしたこともない。
流石に悪意を感じたし、2人に直接注意したが聞く耳を全く持たない。むしろ、あまり学校に来ないお前が学校で馴染めるようにイジってやってるのだから感謝しろと逆ギレされた。セクハラ機関に訴えたとこで痛くも痒くもないと。
今まで顔を合わす度に「化粧が濃い」「太った?」「前の髪型のが良い、今微妙」「もっとミニスカとか可愛い格好をしろ」「どうせマグロ」とか散々セクハラを受けてきたが、「ほっとけ」と流して来たし、冗談の範囲ならと放置してた自分も悪いのかもしれない。
言い返そうと思えば、いくらでも言い返せる。
「ボコボコに汚い顔して毎日油ぎってるけど、顔洗ったことある?」
「クサいし、肩にふけ盛ってるよ?髪の毛いつから切ってないのみっともない」
でも、人の外見を馬鹿にするぐらい卑しくなりたくない。
周囲に同性が居ない研究室で自分が我慢していたら、場が収まる。
けど、もう辛くなってきたなー
職場のおばさんが上司のおじさんに向かって顔が気持ち悪いからあっち言ってとか言っていた。半分冗談なんだろうけど、やんわりとそれはセクハラですよと指摘したら「いやいや、私女だから!」と爆笑された。まだこういう認識の人いるんだなぁ、しかも自分の職場に。と暗い気持ちになった。
https://anond.hatelabo.jp/20191019021148
を書きました.たくさんのコメントありがとうございます.もう食傷気味かもしれませんが,追記します.
ただ,この追記は基本的にコメントに対するものではなく,前増田が長文になりすぎたために書けなかった部分についてです.論点はここ数日で既出のもの(リンク)に近いかもしれないです.
https://anond.hatelabo.jp/20191018230535
結論は,「フェミニズムが性的な表現を非難する時には,非モテ男性に与える不平等感について自覚・配慮し,主張をするべきである」というものです.いわば,私が前増田で書いた主張と対になる主張をします.
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前増田では,「『公的な場で,女性を男性目線で性的に描くことには,女性の規範に悪影響を与えるリスクがある』という認識が共有されるべき」と主張した.これは,当然,絵のみでなく,コンパニオンや女子アナ,芸能等の実在人物にも平等に主張されるべきだ.一方で,「では,なぜ絵には、とりわけフェミニズム的非難が集中するのか」を疑問視する立場がある.この論点は重要だ.
まず,前増田で説明したフェミニズム的非難の内容を再確認する.公的な場で,男性目線で性的に女性を描くことは「女性は,男性から見て性的な存在であるべき」という社会的な規範を強化する.この規範の例は,
だ.男性目線で性的な存在として女性を繰り返し描くことで,それが『通常』と認識され,規範となる.規範は,そこから逸脱する女性の自由を制約する(例:「女性は皆,お酌をしている.自分もお酌をしなければ,普通じゃない,生意気な女だと思われそうだから,お酌をする」).
規範が特に問題となるのは,相手の男性に性的魅力がない場合である.例えば,「女性は,通常,『好意がある男性には』お酌をする」という規範と,「女性は,通常,『好意がない男性にも』お酌をする」という規範では,後者の方が,女性の意思に反するだろう.このような規範を強化するのは,「性的に魅力のない男性(非モテ男性)目線で,性的に描かれる女性像」である.件の献血の絵の問題点は,前増田で述べた通り,公的な場における性的表現であるため,「女性の存在は(一般に)男性目線で魅力的であることが『通常だ』」という規範を強化することである.しかし,それだけではなく,オタク絵であるために,「女性は,非モテ男性にすら性的に振る舞い,消費されるのが『通常だ』」という規範を強化しうることも問題なのだ.このように,非モテ男性向けの性的表現が,一般向けの性的表現よりも忌避されるのは、感覚として自然である.(これは、「単に非モテ男性や作品自体を嫌っている」のとは似て非なることには注意が必要である)
このため,ある性的な絵がフェミニズム的に非難されるとき,「性的表現の程度(例:胸の大きさや強調され方)」だけではなく,「画風,タイトル,セリフ,知名度などを総合して,一般人にとって,『非モテ男性向け』なイメージがある絵かどうか」によって非難の程度が変化する.しかも,判断基準は客観的事実(実際に非モテ男性がそれを性的に消費するか)ではなく,主観的事実(一般人にとって,非モテ男性がそれを性的に消費しているイメージが湧くか)である.なぜなら,その社会の誰かが,非モテ男性が女性性を消費するイメージを持った段階で,その人の主観においてその規範が繰り返され,強化されると想定されているからである.峰不二子,セーラームーンや芸能人の有害性よりも,オタク絵の有害性が強調されるのは,一定数の人は,知名度の低いオタク絵に対し「非モテ男性向けの性的表現」というイメージを持つからである.
ここで最も重要なのは,上記のフェミニズム的文脈におかれた,非モテ男性の立場を配慮することである.上記を雑に換言すれば,「モテ男性の好みの女性像は,多少性的に表現されても問題になりにくい」「非モテ男性の好みの女性像は,少しでも性的に表現されれば問題になりやすい」ということだ.しかも,それは,しばしば,事実と異なるイメージにより一方的に判断される(例:「実際にはエロの要素が少ないマンガでも,作品を知らない人から一方的に,絵柄からオタクが性的に消費する姿が想起されるために公的な場には不適切だと判断される」).つまり,男性の間には,女性にモテる/モテないの格差に上乗せして,好みの女性像が持つ市民権にさえ格差がある.非モテ男性の立場からすれば,これは控えめに言って不平等であり,もっと言えば差別的である.社会から女性差別的な規範を排除する試みは,自然に,非モテ男性差別的な側面を持つことを認識するべきである.
フェミニズムがこの差別的側面を無視するのは得策ではない.無視するための手段としてよく見られるのは,性的な表現を非難する際,もっぱら「性的表現の程度(例:胸の大きさや強調され方)」だけを議論し,「表現の対象(非モテ男性向けか,一般向けか)」の影響は無視するというものだ.一見,これは,非モテ男性だけを問題視しない,公平な態度である.しかし,表現の対象に依らず,同程度に性的な表現の全てを非難するのは現実的でない.なぜなら,主張する本人すら必要性を実感していない様々な対象を非難する必要があるからだ(例:オタク絵への非難を正当化するために,峰不二子も非難する.しかし,本人も実際には,峰不二子には不適切さを感じていない).すると,フェミニズム的非難は無関心層・中間層には実感として理解されにくく,建前や自己目的化、更には単なる嫌悪表現と誤解される.当然,社会から性差別的規範を排除するためには,この無関心層・中間層からの理解が必要である.フェミニズムは,非モテ男性向けの表現を特に問題視するということを認めなければ,社会から女性差別的な規範を排除することは難しい.
以上から,フェミニズムが性的な表現を非難するときには,まず,「非モテ男性向けの性的表現を特に問題視する」という立場を認めるべきである.その上で,非モテ男性に与える不平等感について自覚・配慮し,主張をするべきである.どちらの立場にとっても,一面的な正義を主張することは,火に油を注ぐだけである.
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いや、代表なんてしてなくて一サンプルとして個人の意見を述べたまでですよ。あと最初のレスは半分冗談みたいなものであり、当たり前ですがぼくも何も考えず片っ端から性器を擦っているわけではないです。
ちょっと読解に自信がないですが、宇崎さんの巨乳は今回の企画に関わった方々のセクシュアリティの表現なんですかね…?
なかなか一般の人々からそう見なされることは難しい気もしますが、100歩譲ってそうだとして、なんで献血のポスターでセクシュアリティを開陳した?という疑問は残るのではないでしょうか。
微妙な問題ですが、今回の件で言えば、苦情を述べている女性側からすれば「献血の女性がレースクイーンみたいな格好してる」的な事態に近いんではないでしょうか。例えばそのレースクイーンは好きでそういう格好していたとしても、そういう制服を公式に採用しプロモーションの一環にするというプロセスにはやはり別の意味が発生すると思います。
今回の件でも、作品そのものに罪はなかったとしても、それを一般性のある場に採用しプロモーションの一環とすることは「これを一般的に受け入れよ」というメッセージを伴うと解釈されてもおかしくないのではないでしょうか。
これが秋葉原など特定のオタク向けターゲッティング広告であれば文句はないですがそうではないようなので、オタク的嗜好やリテラシーを共有しない方々から違和感の声が上がっても不思議はないと思いますよ。
もし「オタクのやっていることは全部好きでやってることだしセクシュアリティの一部だから詮索するのすら失礼ですべて容認すべき」というご意見でしたら、ぼくは意見が違うとしかいいようがないです。
あと、そもそも「オタクという集団の統一性や特殊性などもはや瓦解し誰もがうっすらオタクなのである」というお話でしたら、まだ世界はそこまで行っていないというか、行くこともないと思います。現実にはちょっとかわいい系のSFの表紙ぐらいでも手に取りづらいという人々がまだ大勢いるぐらいですので。
ぼくは”古のかっこつけたオタク”ですので、これはあくまで特定の人々の趣味的な表現体系だし、全人類に認めてもらう必要などないと思ってます。なのでこうしたタイアップなどでいちいち炎上させてじわじわ圏域を広げたりしなくていい、ぶっちゃけ静かにやりたいと思ってます。同意していただく必要はないです。
今風に言えばいわゆるクソリプね
冗談や皮肉でなにか言うと飛んでくるあのクソ真面目なだけの全てをつまらなくするアレ
ほとんどの場合この手のは正論なんで言われたほうも「はぁまあそうですね」みたいな返ししかできなくなる
あとこういうのが来るってのはさ自分の力量が足りないんだと思い知らされるよね
もっとハッキリと冗談だとわかるように書くべきなのか、しかしそれはネタとしてのクオリティを下げる事になるのではないか
と悩むよね
どんだけ上手いこと言ってもさ、くるのよクソリプは
ブコメでもそう、「いやもう豆腐の角に頭ぶつけて死ね」「豆腐の角に頭をぶつけて死ねると思ってるとしたら相当なバカですよ?それともそういうソースでもあるんですか(嘲笑)」
何故ならこういう事言う奴はどこかで他人を見下したいという欲望があるから
まあ誰でも多少はいあるさ
でもあまりにそれが強すぎて相手が冗談で言ってようがそんなのはおかまいなしにろくに考えもせずにクソリプするやつ
こういうのが年々どんどん増えている
ここまで一切ジョークなし
バカバカしい
女性は,通常,就活で女性的な服装(スカート,化粧等)をする.
お前らが批判してる先は、オタクという現実では何の力も持たないクソだって事な
海外に買春旅行に行ったり、中高生と援助交際したり、パパ活のスポンサーになったりするクソどもだよ
んでな、こういう言い方すると、「オタクは一大勢力だ」とか言い出すんだよ
アホくさい
ガルパンとかで経済効果がどうだのとオタクがイキると、否定するだろ?
大したこと無いって言うだろ?
女に相手にされないコミュ力のないクズで、ろくに人付き合いの出来ない草食系とバカにしながら
都合よく、女性差別を補強するらしい
性犯罪となると野獣になるらしい
てめぇみてぇなクズの方こそ黙れ
弱者を縛るだけなんだよ
てめぇが批判してることと、全く同じことを、正義ヅラしてやってんだよ
氏ねよ
今回も端から「公的空間」だとか「性的消費」だとか決め付けている人がいるが、ちょっと待って欲しい。
それを理解していない相手のことを思考停止だフェミだオタクだお気持ちだとレッテルを貼るので、
不幸である。
「指定公共機関」でもある「民間企業」の赤十字社で使われたポスターが「性的」で
まず、日本では性的だとされている「女性の乳首」だって、世界各国地域ごとに考えが違うのだ。
異性愛者や同性愛者、無性愛者や動物性愛者(冗談じゃないよ)も存在し、
それぞれに趣味嗜好や価値観もちがうなかで、実は「性的基準」を設けるということが難しいのはわかると思う。
さらにその中で、ポスターなどの表現された「結果だけ」を問題視する人もいれば
このように、「一般に見せても許される性的の範囲」と「許されない性的の範囲」が人によってかなり違う、という前提の確認が必要だ。
そんなものに議論の余地はない、という態度の人は多様性を理解する気がないのだから、
そもそも話に加わるべきではない。
これも「官製」なのか「一般に開放された空間」なのかでも意味が変わるので難しい。
「災害対策基本法により規定されるカテゴリで、災害時に官民が一体となった取組の強化を図るためのカテゴリ」らしい。
この前までエッチな漫画を売っていた「あのコンビニ」も含まれているのだ。
イオン内にだって書店はあるし、当然「宇崎ちゃん」も売っているだろうし、なんならポスターも貼ってあるかもしれない。
献血ルームはお菓子や食品を提供していたり、カフェ風だったり、漫画を置いていたり、内装や形態もかなり自由だ。
清潔感は重要だろうが、アットホームであること、気軽に利用できる気安さを重視する利用者もいる。
狭義では、「青少年保護育成条例」(条例なので、都道府県ごとに呼び名も内容も違う)に基づく区分陳列をさす。
エロの話題になるとすぐ「暖簾の向こうに置け」などという人がいるが、
もちろん、自治体によっては区分の方法が違うので、暖簾の向こうに置かなくてもいい県もある。
広義では、まあ「棚を分ける」とか「売り場を離す」とかそういうことか。
今回の場合は当然後者の話だが、なかには前者の前提でポスターを撤去しろと主張する人もいて驚いた。
今回の件はだめだけど、「コミケでの配布ポスターとしてならあり」「秋葉原や池袋の献血ルームで貼るならあり」という人もいた。
こういった切り分けをして一々考える必要があるのだ。
以上のように、ネットの議論では「当然共通認識があると思っていた言葉」が、
実はそうじゃないことも多いのである。
そういう時は要素を分け、ひとつひとつ自分のスタンスを確認してみるのが確実だ。
さらに「これがいい/だめなら他の表現はどうなるか」という他の具体例まで考えを広げてみれば、また新たな発見があるかもしれない。
個人的に思うところについて何個か横を入れて見たい.
一方で、仮にあのイラストが性的な視点を含むものだったとして、それを掲載することが生む具体的な問題とは何か、という点も議論が必要です。
困惑する、不快感を覚える、性的消費を連想させてトラウマが蘇る、性的消費を助長する、子供に見せたくない、教育上不適切である、などの意見があるでしょうか。
問題の本質はもっと曖昧なところにあると思う.それは,公的な場で,男性目線で性的に女性を描くことで,「女性は,男性から見て性的な存在であるべき」という社会的な規範を間接的に強化することだと思う.
この規範の具体例は,
など.(やや古典的だけど)
この規範が問題なのは,女性が規範を外れ,上記の行動を取らないこと(「就活で中性的な格好をする」「お酌を断る」「男性に反論する」)が,本人が意図しない記号となってしまう(例:「フェミニスト的価値観を持っている」「強情だ」「普通の女性でない」)可能性がある,という状況だ.このような規範が存在すると,女性は自分自身の価値観ではなく,男性目線に合わせて行動すせざるをえない場合が増える.結果,社会的に不自由になる.
規範は,繰り返しによって強化される.例えば,ある国で,女性が就職活動で女性的な服装をすることが繰り返されれば,その国では,それが「通常の状態」と認識されるようになる.すると,その国で,ある女性が中性的な格好をすると,それは「通常の状態」からの逸脱と見なされる.そして,「他とは違う何らかの事情があるかもしれない」という暗示を持つ記号になる.このため,女性は,よほどの事情がない限り,女性的な服装をすることが合理的な意思決定になる.ここで,規範は,その集団における繰り返しによって強化されるのであって,ある個別の事例(特定の個人の女性的な服装)によって決定的に形成されるとは限らない.
ようやく献血イラストの話に戻る.私は,この一つの事例だけによって,「女性は,男性目線で性的な存在であるべき」という規範が決定づけられるとは思わない.ただ,類似の事例が反復されることによって,この規範が強化される可能性がある,とは思う.献血のような性が関係のない文脈で,「女性が男性目線で性的に描かれる」ことが繰り返されれば,規範の強化に繋がりうる.例えば,「女性の服装は男性目線で魅力的であることが『通常だ』」と思う人が増える可能性がある.
問題は,「女性を男性目線で性的に描くことで,女性差別的規範を間接的に強化する可能性がある」ということだ.ではどのような解決策があるかというと,良い解決策はないと思う.少なくとも規制はデメリットが大きい.仮に上で書いたことが正しかったとしても,一つ一つのイラストに関して言えば,規制されるべきというほどの大きな罪はないだろう.あれやこれやの観点で規制ばかりしても息苦しい.その作品の文脈を知っている人からすれば,差別的規範の強化という指摘がそもそもナンセンスに感じられるかもしれない(そんなキャラじゃない,等).何より,好きな作品にダメ出しされるのは腹がたつ.広告主は経済効果を逃すかもしれない.規制の基準も明確に設定しにくい.これらのデメリットを打ち消すほどのメリットは,規制にはないと思う.
では,最初から何も問題がなかったと思うかというと,そうでもない.一番大きな問題は,「広告主は,上記の問題点・リスクを認識していたのか」ということだ.男性的社会の規範に苦しむ女性からすれば,「献血の広告で,必要もないのに,わざわざそんな性的な絵を使わないでくれよ」と思えるような広告を出している,という自覚はあるのだろうか.日赤も広告を見た一般人も,この点に無自覚に感じられるので,件の女性弁護士みたいな人が「類似の事例が増えていくかもしれない」と苛立ち,声を上げる必要性を感じるのだろう.逆に,「日赤も,広告を見た人も,上記の問題点を自覚した上で,この件についてはXの事情で許容している」みたいな認識が共有されれば,件の女性弁護士みたいな人もそこまで苛立たないだろうなと思う.
以上から,「公的な場で,女性を男性目線で性的に描くことには,女性の規範に悪影響を与えるリスクがある」という認識(が共有されていると言う認識)が共有されれば,問題は緩和されると思う.逆に,「表現の自由だ」「経済効果があるからいいんだ」「それはお気持ちだ」「根拠がない」「基準がない」みたいな正論をかざすと,溝を深掘りするだけだし,不要な性的規範を残す結果になるだけだと思う.
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