はてなキーワード: 冗談とは
でも、腐女子ははっきり言って女子オタの代表じゃない。これを間違って議論してる人が多い。
男子オタの中で百合大好きクラスタが別に男性オタクのすべてじゃないでしょ? なのにみんな腐女子ばっかりスタンダードに語ろうとするのはなんでだろう。
なんか腐女子ばっかりクローズアップされて、腐女子を基準に女子オタを全て語るのはマジに嫌だ。
冗談としては面白いけれど、現実に即してはいない。むしろBLが嫌いな女子だってたくさんいるのだ。
だけど、「本当は好きなんでしょ? 家には一杯隠してるんでしょ? 腐ってるんでしょ」という同調圧力のような存在はあるのだ。
BLには興味なく、萌えアニメが好きな女子オタだっていっぱいいるのだけど、なかなか女子オタ=腐女子みたいなステレオタイプの存在を、結構感じるのだ。
どうしてだろうね。
あいつがやった
遺憾だ
裏目に出た
えー
大げさだ
勝手に
君が悪い
苦渋の
潔白
誤解だ
さも
冗談だ
すまないね
そのようなに切り取られては困る
つまらない
手を焼く
とんでもない
何様のつもりだ
似合わない
糠に釘
狙い通り
能書き
は?
暇なの?
ふーん
へ?
本気で言ってる?
間違いだ
見損なった
難しい問題
面倒を見る
問題ない
やる気があるのか
夢
よくやった
悪ふざけだ
行けばいいじゃん
まぁそれは冗談としてスーツじゃなくていいところは多いと思うけどな
急遽会議が入ったり、外で打ち合わせ入ったりするので、
でもそれは女さんも一緒やで
本人は冗談のつもりで書いたのだろうか…?
誰に向けるともなく、だらだらと吐き出させてほしい。増田の流れがどうとかは知らんので、「空気読め」とか言われても知らん。増田ってそういうとこなんだろ、知らんけど
さて、自分はホモセクシャルだ。ついでに言うとXジェンダー寄りのシス。体の性は女。
纏めると、「女が好きな女のような何か」。お前らにとっては未知の生き物だと思う。それは大体の人間において共通の認識みたいで(当たり前だが)カミングアウトの際は決まって、苦笑いのような、何かよくわからないものに出会ったような、そんな顔をされる。自分も同じような人を知らない。いたら教えてほしいくらい。例えば、
学生の時更衣室で友達のブラジャーがチラ見えして少なからず性的興奮を覚えてしまったときの割とでかめなショックとか。
カミングアウト前の友達に「付き合って」とか言われて、冗談だなんてわかってたけどときめいてしまって(その子は運動ができて、どうしようもなくかっこよかった)反応がおかしくなって、「冗談だよ」と返された時の懐疑的な目がずっと頭の中に残ってるのとか。
男友達ともだいぶ仲良くなったのに、ふとした時の異性として扱われた時の喪失感とか。
ブラジャーなんて気持ち悪くて着けたくないのに、胸だけは女でスポブラじゃ間に合わなくて、泣く泣く毎日女物の下着を着けて生活する毎日は、まあ、はい。理解なんてされるわけないでしょう。そんなのわかってる。理解してほしいわけでもないし、されるとも思ってない。共感だって、そりゃ欲しいけど。本当に欲しかったらこんなところで書かない。
でもさ。日本国内のLGBTの割合は、8.9%。自分らは少数者で、いつまでも"異物"だけど、11人に1人なんて見回せばどこにだっている。理解なんてされずとも、受容というか、「ああ個性なんだな」ってテキトーに流してくれる人が増えれば、それが一番嬉しい。自分は自分でいたいって思えるような意識の変容がたくさんの人に伝播して横並びの社会がもうちょっと崩れて、自分みたいな"ふつう"じゃない人たちが生きやすくなればいいなあ!
なんて言うのは簡単です。夢を見てしまってごめんなさい。現実に戻ります。どうか、今"ふつう"である人がそのまま、幸せに生きられますように。ゴミ箱の中から、願っております。
逆方向で似たような経験があるんだよね
ゲイだとは知らずに、お互いに共通の趣味があるもんだから、年に何度か二人で泊りがけで旅行する位、仲が良かった知人がいた
ある日、自分はゲイであることを告白されたんだけど、その時の俺は「なんだ、そうなんだwまぁ俺は気にしないよ」と言いつつ
「こいつに恋愛対象として見られてたら、どうしようか・・・」という恐怖しかなかった。
「こいつのことをゲイだとしってる他の誰かに、あいつらは付き合ってると思われたら・・・」という嫌悪感しかなかった。
なもんだから、いつかの、そいつがいない飲み会で、「最近、絡んでんのみないけど何かあった?」的な話の流れから
「あいつ実はゲイらしいんだけど、それ知らなくって、ずっと二人で旅行してたんだけど、今思うと寒気しかないわ。なんでカムアウトしたんやろな・・・」
って話してしまったんだわ。
まぁ、自衛だよね。俺は自分がゲイだと思われたくなくて、ゲイに好かれたくなくて、自分はゲイではないしゲイは嫌いだと主張したかったんだよな。
そうしておかないとって怖さが強かった。
悪い事をしたなって気持ちもあるよ
だけど、関係が切れた今でも、そいつにたいする怖さは残ってるよ。
アウティングした同僚が許せないだろうけど、ゲイではないのに、それと知らずにゲイと泊りで旅行して、なんなら一緒に温泉に入って
その後にカムアウトされた側の戸惑いと恐怖は理解して欲しいもんだよ。正直言って、くっそ気持ち悪いよ
ゲイだと思われることに、そんなに恐怖しなきゃならない状況が間違っているのでは。これが苦手な女性なら冗談じゃないとかなんとか一蹴して終わりだろ?告白されても断ればいい。出来ないのは、自身の闇の反映では。
あんたは何も分かってないと思うけど、ゲイだと知らなかった同性と二人で泊りがけで旅行して、あまつさえ一緒に温泉に入ってしまったことが怖いんだ。
恋人同士にしか思われない状況が、黙っていることで作られた事が怖いんだよ。
その後も普通に接してやる事で、必要以上に受け入れたと取られかねないくらい、黙ったままで近い距離に来られたことが怖いんだよ。
明確に言葉で否定しておかないと、恋人だと噂を立てられた時に自分を守りようがない状況が意図せず作られたことが怖いんだよ。
異性同士なら、恋人になれそうもない好きでもない、むしろ嫌いですらある相手と裸で温泉に入らないし、泊りで旅行はしないだろ。一蹴する必要すらないよ。
断ればいいとか、断れないのはお前もゲイだからだろとか、そういう次元の話では全くないことが分からんかな。
これ
いつ結婚するのかと両親から言われ続けて数年だけど結婚したくない
その同性とは友情の延長線上の関係でもいいし、恋愛関係でもいい
だけど成人して数年経ってみて、男性と付き合いたいかといえばそうでもなく、自分が惹かれる女性と親密な関係になりたいと思うことが多くなった
だから自分はレズビアンかもしれない!と考えたものの、男性を好ましく感じる瞬間も無いではない
未だにレズビアンかバイセクシュアルかパンセクシャルかは迷っていて、まあその辺は迷い続けているままでもいいかなと考えているのだけれど、結婚しろと言ってくる外野はそうはいかない
一度、同性愛者のニュースがテレビから流れるのに合わせて冗談っぽく「自分も相手が女の子の方が気楽だから女の子と暮らしたい〜」みたいなことを母に言ってみたけれど、母からは呆れつつ否定された
父親は同性愛者を頭から否定して嫌悪しているから冗談でも言えやしない
このまま一人で生きていくのはさびしいからいつかパートナーを見つけたいとは思う
それを考えるといつも憂鬱になる
ワイはこれだと思う
ただし世界的企業でも財閥でも割とどうしようもないのでまともな職場とは?と常々思ってるよ
ワイが思うにまともな職場とはリーダーが責務を果たしなおかつ部門だけで独立してもやって行ける粗利を出しているところと定義するわ
辞書引くと、「(比喩として)人を威圧して従わせようとする力のこと」らしいので、強制するつもりがない時点で圧力と呼ぶには弱いと思う。
圧でないとまでは言えない(欲望や要求は概して圧力的だから)が、少なくとも結婚やお布施の例を「圧力かけてくる」と呼ぶのは一般的には冗談交じりに茶化してる用例に分類されるのでは。
ポスターの例は「営業に支障をきたしてる」点の具体的な点がわからないと何とも言えないけど、圧力になる例もありそうだね。
そして宇崎ちゃんとの赤十字コラボは第2弾やるそうだから、抗議は一般的なご意見(お気持ち)表明として受け止められた訳で、圧力ではない、となる。
死んだことを上手く消化できなくてよくわからなくなったからはてなに初めて書いてみる。
やっていると言ったったのは、経営しているというほどのものじゃなくて
ほんとにただ生き残っているだけだから。起業してから約10年。
そして、ホンダやソニー、パナソニックといった日本を支えた経営者たち、
IT企業を始めとしたベンチャーで成功してきた人たちの本を読んだり
記事や動画を見たりして、いつかこうなりたいって思いながらやってきた。
おれなりに必死に頑張ってきたつもりではあるが、能力も運も何もかも足りなかったね。
もちろん、諦めて自暴自棄になっているわけではないよ。これからも一生がんばっていくつもり。
そんなおれを起業した時から、いや生まれた時から見守ってくれていた人が死んだ。
死ぬ少し前にもおれのことを心配してくれていたことを人づてに聞いた。
その人は自分のことを犠牲にしてでも人のためにやさしくできる人だった。
世渡りもうまくはないと思う。まじめで優しい人だった。
親の介護のために一人で頑張っていた。
遺品を整理していたら、日記をみつけた。
最後にその人に会った9月21日の前日に体調が悪かったが少し良くなったと書いてあった。
最後に会ったその日、友達がなくなったりして「おれも死んじゃうかもしれないな」と冗談で言っていた。
よく考えれば以前に比べて痩せていたが、その時は「大丈夫だよ」と笑って答えてしまった。
あの時、強引にでも病院に連れて行けばよかった。
ずっと前から具合が悪く、疲れていたようだ。
死んだ後の手続きや片づけをしていると、本当にいろんなことをしているようだった。
地域での活動、小学生の見守り、町内会の仕事…こんなにやってたらそりゃ大変だよ、今年の夏は暑かったし。
誰にも弱音を吐かず、他の人のために頑張っていた。
もっと自分のための時間を楽しめばよかったのに。ずっとそういう人生だった。
自分でもよくわからないし、その解決策やそういう人にとってほんとに何がいいかはわからない。
おれに力があったら、世の中の役に立てるような仕事やサービスを作れたかもしれない。
「おかげでこんなことできるようになったよ」って報告できたかもしれない。
自分の無能が情けなく、力不足がほんと辛い、吐きそうだ。誰にも言えないけど。
だって中年だし、一応、対外的には会社の社長でもある。こんな愚痴こぼしてはいけないよね。
まとまらず、何を言ってるか読んだ人はわからないかもしれない、ごめんなさい。
別に誰かに読んでほしいとかではないんだけど、ここに書けばその人のことが世界に残る気がして。
話しを戻して、これを読んでくれた人にとって役に立てばよいなと思うことを
最後に少し書かせてください。もちろんただのたわ言です。お気になさらずに。
「明日死ぬかもしれないと思って今日を頑張る」って思って頑張っている人いると思う。
ステイフーリッシュ的なやつね。
でも、「明日大切な人に報告ができなくなる」と思って今日頑張って報告するようにした方がもっと力湧くよ。
そして、当たり前なんだけど、後悔はしても意味がない。
少しでも時間があるうちに、時間を無駄にせず後悔しない行動をするといい。偉そうでごめん。
みんなも後悔する前に大切な人と大切な時間を過ごすといいよ。
今まで増田に冗談でうんこ漏らしたとか書いてたけど正直、うんこなんか漏らすかよwwwとか思ってたごめんなさい。
そう、昨日はお酒を飲んで寝たんだよ。レモンサワー2杯だけ飲んできもちよく寝たんだけど思いのほか効いてしまい朝から調子がよろしくなかった。炭酸水のせいなのかお腹がピーピーしてる感じっていうのかな。とにかくうんこを漏らす準備は整ってしまってた。
倉庫で仕事してるんだけど事務作業してる時にカタカタカッターンブリュブリュピュシって感じで出た。うんこが。倒置法。出たのはうんち砲。下痢ぎみで水っぽかったからズボンに染み出してしまい、うおーーーと焦って立ち上がったら椅子にうんこついてた。ティッシュでふいたら茶色かった(笑)あの椅子みんな座るんだけどな、うんこ漏らしたなんて言えないし。もう32だよおいら。うんこ漏らしたって言える?そんなこと。言えないよね。
だから黙ってたんだけどその後26歳の女性がうんこ椅子に座ってるのを見てしまった。心の中で懺悔したけどうんこ乾いててインビジブルになってた。椅子に鎮座したままだった。ごめんね小木曽さん。
その後休憩中に昼飯買いにコンビニ行ったらパンツ売ってて買ってはきかえた。コンビニにパンツ売ってるなんて知らなかったよ。今日ほどコンビニが便利だと思ったことないね。うん。
「匹夫の勇 生活保護受給者!」
進行「勝負は3本勝負の2本先取した方の勝ちです ただしジャッジマンの審査が5人満場一致だった時クリティカルとなりその時点で勝利が確定 試合は即終了」
進行「それでは1stバトル第1ラウンド 先攻後攻の選択権は全てチャレンジャーにあります 1stラウンドはどちらでいきますか?」
生活保護受給者「後攻で」
進行「先攻 三流大学卒、後攻 生活保護受給者、 DJ CELORY ぶっかませ!」
三流大学卒「うわ臭ぇ、ニオイえげつねぇ、中卒っぽさも臭うな、小が臭いニオイしてる 小学生にも石投げられてそうだな 糞みたいなお前と石 一緒に海に流れちまえ」
生活保護受給者「学校の話が出たので言っておきますが 私、東京大学出身なんだけど……」 (観客から歓声が上がる)
三流大学卒「…っていうのは嘘で、軽い冗談みたいなw ちょっと格好つけてみただけで、いいねそのセンス。」
進行「終了!」
進行「さあそれでは第1ラウンドの判定に入ります Let's judge お願いします!」
審査員(女)「この生活保護受給者さんはセンスが違いますよね。1つ1つの言葉が博識に感じられますし、輝いて見えますね。この人と一緒にいたいって思っちゃいますね。」
ところで、議論を混乱させるもう一つの問題として、アファーマティブ・アクションの話と、男女同権が達成されたその後の世界の話を混ぜて話している人がいるように見受けられる。たとえば、「必然性なく女性のみをアイキャッチ的に使うべからず」というのは、過渡期における一種のアファーマティブ・アクションとしては、一定の妥当性を持つと考える。一方で、真に差別が解決した世界では、そのような配慮は逆に不要になるかもしれない。たとえば、「必然性なくA型の人のみをアイキャッチ的に使うべからず」というガイドラインは、馬鹿げている。そもそも血液型など誰も気にしていないからだ。性別の問題も、真に男女差別がなくなった世界では、最終的にはそこに行き着くのかもしれない。類似の例として、アメリカなどでは、商品パッケージに人物を複数掲載する場合、人種の割り振りに対して神経質になるところがある。これは、特定の人種のみをアイキャッチに使う場合、人種差別を助長しているとみなされる可能性があるからだ。現在ガイドラインとして策定されているこのようなルールが、既存の不平等を是正するための措置であるという事実を無視して議論を展開することは、好ましい姿勢とは言えない。また、このようなガイドラインを「女性をアイキャッチに使うべからず」と極端な方向に誤読したり、「男性をアイキャッチ的に使用するのはいいのか」と、誤読を元にしたミラーリングを行うことは避けなければならない。
このようなアファーマティブ・アクションそれ自体が不公平あるいは不正義であり、そもそも認めない、という姿勢はあり得るかもしれない。また、単純に過度な配慮は不要であるという意見もあり得る。例えば、過去に発生したNHKにおけるキズナアイ騒動や人工知能学会誌の議論では、性的役割の固定に対する議論が行われたが、性的役割の是正を求める批判派(アファーマティブ・アクション派といえるだろう)、とそこまでの配慮は必要ない、あるいは(その後の世界では)むしろそのような配慮こそが差別である、とする擁護派の間で、意見の対立が見られた。個人的には、この2つの個別の事例に対しては、過度の配慮であると考えている。一方で、批判派の言いたいことも理解できるので、批判自体には問題がないと考えているし、耳を傾けるべき指摘であろう。なお、特にキズナアイ騒動については異なる論点もあったようだが、その点についてはここでは議論しない。
議論の多くは、おそらく件のポスターが性的、あるいは過度に性的かどうかに帰着するように思われる。そして、この点について、両陣営の合意は、ほぼ得られていない。
擁護派の多くは、件のポスターは性的ではない、あるいは性的な要素はあるとしても、問題になるほどには過度に性的ではないと考えている。一方で、批判派の多くは、乳袋や表情を理由として、ポスターは過度に性的であると見なしている。ポスターが過度に性的であると認められた場合、女性差別につながる表現であり、セクハラにもなるかもしれない。一方で、そもそも性的でないのであれば、セクハラにも女性差別にもならないだろう。
巨乳それ自体がいけないわけがない。また、ごく一部の過激派を除いて、大多数のポスター批判派も巨乳自体への攻撃はしていないように見受けられる。この点を議論するのはあまり意味がないし、ごく一部の過激派の意見のみを根拠に、相手陣営全体に対して「差別主義者」といったラベル付けを行うのは、誠実な姿勢とは言えないだろう。
これは全員にとって非常にクリティカルな指摘である。正直なところ、私自身も自分の認識が社会の平均と合致しているかどうかの自信がない。ポスター擁護派のうち、オタクを自認する人たちの意見が気になるところである。
例えば、「ビキニアーマー」は恐らく今となっては性的な表現のように思われる。肌に密着した黒タイツはどうだろうか。乳袋も本当にセーフなのだろうか。境界線は自分の中でもあやふやである。セーフな気もするし、性的な気もする。あるいら性的な要素はあると認めたとしても、過度に性的かどうかと言われると、過度ではなさそうか。みなさんはどうだろうか。
何を性的と見なすか、あるいは、何を過度に性的と見なすか、は個人どころか社会においてもあやふやであり、時代の変化にしたがって変化してく。
ポスター批判派は、(仮に今現在は認められていたとしても)今後このような表現は社会的に許されなくなり、状況は是正されていくべきだと考えている。これは、過去には普通に存在していた、水着の女性が(無意味に)アイキャッチとして使われていたビールのポスターが、近年ではほぼ絶滅した経緯と相似形である。
一方で、私は別の未来も想像している。それは、このような表現が、むしろ緩く認められる社会になるのではないかということだ。近年すでに指摘されている通り、「オタク」自体が一般化しているらしい。それに伴って、乳袋のような表現に過度の性的な要素を見出す層が減っていく可能性がある。言うなれば乳袋ネイティブ世代の誕生である。こうなった場合、乳袋は広く認められた表現になる可能性がある。
宇崎ちゃんは性的であるが、ワンピースのナミやセーラームーンは性的でない、という意見が見受けられる。これはポスター批判派からも出ている意見で、ナミは性的ではないという意見が見受けられた。
ポスター擁護派は、ナミも宇崎ちゃんもどちらもが乳袋を表現として用いていることから、仮に宇崎ちゃんが性的なのであれば、ナミも同じく性的であり、ナミを公共の場で用いることは認めら得るべきではないと考えている。同じくして、ナミを認めるのであれば、宇崎ちゃんも認められないと一貫性が失われると指摘する。
ここで興味深いのが、ポスター批判派の中でも、この点については意見が別れているということだ。これは、ポスター批判派が用いている「性的な表現に無自覚になっている」人々というのが、ポスター批判派の中にも存在するという事を意味しているように思われる。ワンピースは非常に歴史がある作品であり、オタクだけでなく、社会的にある程度の知名度を持って受け入れられている。好きな漫画といえばワンピースという人も多い。そのため、本来は過度に性的な表現を持ち合わせているはずのナミも、ワンピースという作品と共に社会に受け入れられてしまっている。ポスターに対して批判的であるが、ナミについては認められるという人は、乳袋ネイティブ世代に染まりつつあるといえる。私自身は、もし宇崎ちゃんのポスターが「乳袋は女性を性的に消費する表現である」として認められないのであれば、たとえナミであろうと、乳袋は許されないという姿勢を維持するべきであると考えている。ここで一貫性が崩れてしまうと、「(過度に)性的な表現」の定義が非常に困難になってしまうため、合意が得られにくい。「ナミは(見慣れているから|みんな好きだから|明るいから|強い女性だから)セーフ」という話になってしまった場合、個人の「お気持ち」と揶揄されるのは避けられないだろう。
セーラームーンについてはどうだろうか。すでに指摘されている通り、セーラームーンも公開当初はブルセラを想起させるであるとか、露出が多いであるとか、性的な表現についての批判が女性からもあったようだ。現在では市民権を獲得しているため、このような批判が行われることはまず見かけないが、たしかに絵面だけ見た場合、肌の露出は大きい。セーラームーンを使用した表現が公の場で許されるとしたら、なにが理由だろうか。
ポスター批判派からは、男性からの人気を得るために胸が強調された(宇崎ちゃん|ナミ)に対して、女性が良いと思う服装を女性に着せただけのセーラームーンは、性的消費には当たらないという説が挙げられている。これは、一理あるように思われる。セーラームーンは単に綺麗だったりかわいい格好をしているだけで、それを性的と見なすのは、見る方に問題がある、という考え方になる。韋駄天の例では、靴下を脱いだだけなのに、勝手にそれを性的と見なす男性陣によって問題が発生していたが、セーラームーンも同型だと言えるだろう。人には好きな格好をする権利があるのだから、女性がどのような格好をしても、他人にどうこう言われるのは好ましくない、というのは理解できる。
ここで、本人が望む格好は、どこまでなら許容されるべきであろうか、という議論がある。仮に、ある女性が自分にとっては裸がもっとも自然であると考えた場合、その女性を公の場に掲示されるポスターに使用することは妥当であろうか。そして、その裸のポスターを過度に性的であると誰かが見なす場合、それは見る側の問題であろうか。これは、冗談ではなくて、例えばヌーディストビーチの議論においては、既に似たような議論が起こっている。現在の日本において、恐らく多くの人は、裸の女性の写真を公の場に掲示することは、本人の意志はどうであれ、過度に性的であると見なすであろう。裸は極端としても、例えば胸の谷間が強調された服装はどうだろうか。このような服装を自発的に好む女性は存在するが、公共の場でポスターに使用することは適当であろうか。もし、そのような服装は適当でないと考える場合、あるポスターを評価する上で、本人の意思は、具体的な表現に劣後すると言えるのではないだろうか。つまり、本人が望んでいようとも、性的なものは性的であると見なされるということである。
ところで、海外の識者に宇崎ちゃんのポスターを見せたところ、ネガティブな反応があった、という情報がある。ここで、気になるのが、同じ人物にナミやセーラームーンのポスターを見せた場合、どのような反応があるか、である。宇崎ちゃんに対して否定的な反応がある場合、ナミやセーラームーンに対しても、これらの作品を知らない人からは同様の反応が帰ってくる可能性が、それなりに高いのではないだろうか。セーラームーンも、背景情報がなければ、過度に肌の露出が多い若い女性をアイキャッチに使っているだけのポスターに見える可能性がある。漫画やアニメに馴染みのない人たちにとっては、ナミも宇崎ちゃんもセーラームーンもどんぐりの背比べに映るのではないだろうか。そのような人にとって、セーラームーンを許容するあなたは「性的な表現に無自覚」であると見なされるかもしれない。
こういった観点を踏まえた場合、本人の気持ちや、背景情報といったものは、表現が性的であるかどうかを判断する上では、必ずしも重要な要素ではない、と考えることは可能である。「勝手に性的に見ている」という見方もできるが、多かれ少なかれ、だれもが自分の中の基準をもとに、ある表現が性的かどうかを判断している。そのため、「勝手に性的に見ている」こと自体を悪とする言説は、筋が悪いであろう。これは何も男女間にだけ発生するわけではなくて、世代間や宗教間にも発生する。そうであるならば、性的な表現の基準を考える上では、本人の意志や背景の文脈を考慮するよりも、物理的な要素(肌の露出度など)を用いるのが妥当である、という見方もできる。
ツイッターに流れてきたのがきっかけで、それまではタイピングが得意どころかパソコンはyoutube専用機と化していてキーボードも寿司打をやる前までは人差し指で打っていた。
自分は大学にも行ってないし、出た高校は工業高校でもちろん勉強ができなかった(別に工業高校にも頭がいいやつはいた)。なので今流行り(?)の教養なんてこれっぽっちも持ち合わせていない。日本史なんて勉強してなんになるの?と思っている人間の一人だった。
けど、寿司打をやってちょっとそういうことにも興味を持ち始めた(暗記などは相変わらず苦手なままだが)。寿司打をやっているとたびたび意味、読み方のわからない単語が出てくる。その中には有名なお菓子源氏パイもあった。さすがに商品自体は知っていたが恥ずかしながらずっと「げんしパイ」と読んでいた。そのセットのタイピングが終わった後、「そもそも源氏ってなんだよ」と思い「源氏」について調べてみた。するとなにやら昔のお偉いさんらしい。源氏物語というのも検索候補にでてきたので調べてみたら、日本最古の長編小説(!)と出てきた。こんな事実周りにいる人は知らないだろうと当時は本気で思っていたので、妻にそのことを自慢げに語ったら「いや小中学校でやったじゃん」と返された。え、まじ・・・?なにも覚えていない・・・。図書館においてあるだろうから読んでみたら?と本人は冗談のつもりで言ったらしいが、なんかくやしかったので人生ではじめて本を借りに行った。人生で本を借りたことなどなかったので正直とても緊張してしまった。
結果・・・とても面白かった。なにがどう面白かったのか語彙力がないなりに書きたいが、ツイッターに感想をツイートしたらここ間違っていますよと指摘されてしまって(とてもありがたいことだが)、それがこわいので今回は書かないことにする。なにより、自分がこんなに長い物語を読み切ったことが一番衝撃だった。読み終わった後は、同じコーナーにあるものを読み漁るようになり、妻に「なに?最近はやりの教養ってやつ?(笑)」と言われてしまった。正直教養の意味はよくわからなかったのだが、古いものを読むことなんだろうと勝手に自分の中で決めた。
高校でも古典なんてものはやったが、内容は何も覚えていない。こんな面白いものなら授業をまじめに受ければよかったと少し後悔もしている。皆さんもタイピングゲームをして源氏物語をよんでみてはいかがであろうか。
本稿の著作権・著作人格権は完全に放棄する。無断での利用・転載はむしろ推奨する。
○第1章『序論』
p.10 子供を産むことの決断には様々な理由があるだろうが、そこに存在することになる子供の利害が含まれているはずはない。
●『誰がそんなに幸運なのか?』
p.12 「生はあまりにも酷い。生まれてしまわない方がよかっただろう。誰がそんなに幸運なのか?」(ユダヤ人の格言)
「決して誕生しないことは、死ぬ運命にある人間にとっては最善の事柄だろう。しかし、このことは十万人のなかの一人の人間にだってほとんど生じない」(フロイトのジョーク)…「非同一性問題」→私たちはたしかに非存在がよりよい状態にあるとは言えない。しかし、存在するものについては、存在することは当人たちにとって悪いことだと言える。「これは哲学的なゲームでも冗談でもない」
p.15 生殖をするカップルは、苦しみを生みだす氷山の頂点にいる。遺伝的な起源の責任。=デレク・パーフィット「起源説」
p.16 反出生主義の偏見…子供嫌い、子供を持つことによる自由と財産の制限
p.17 出生の偏見…子供をもたないことは利己的で未発達→①子供は別の人間なのだから、子供をもつ動機は利己的でしかありえない。②(1)子供をもつことはしばしば不注意の結果でしかない。(2)生殖の衝動は原始的なものである。
p.19 全体主義者の政治団体は軍事的な理由で生殖を奨励する。民主主義国家も、つねに生殖を支持する層が勢力の大半を占めている。…あらゆる国家は移民より生殖により人口が構成されている方が正当化される。
●『本書の概要』
●『読者への指針』
●『存在してしまうことが害悪であるということがあり得るか?』
p.27 「非同一性問題」「未来の個人のパラドックス」…(ex)遺伝性の障碍
p.29 非存在は存在と比較できないため、存在することがしないことよりも「より悪い」と言うことはできない。…存在の害悪は単に「悪い」というだけで十分だ。
…誰かが死んだ方がマシだと考えるとき、自分の状態が良くなると考えるわけではない。存在しなくなる方が良いほど人生が悪いものである可能性と同じく、はじめから存在しない方がいいほど人生が悪いものである可能性はある。
p.31 誰かが存在していることとしないことを比較するのは、2つの状態を比較するのではなく、まったく別の事態を比較することだ。…障碍が耐えがたいにしろ人生を生きるに値しないものにするほどではない場合は、そうでない場合より難しいと考えられている。=生きるに値する人生において、存在するよりしない方がいいというのは矛盾だ。→これは「生きるに値する人生」という表現の多義性が原因だ。
p.32 「生きるに値する人生」は実際には「生き続けるに価する人生」だ。だが、問題は今はまだない人生であり、これに「生きるに値する人生」という表現を使うことはできない。「始めるに値する人生」を始めない方がいいというのは矛盾だ。
p.34 道徳的な問題に関わる意味で、人が存在するようになる過程は長く、段階的だ。
p.40 非存在に苦痛がないことはいいことだと言える。可能性において存在する誰かの利害で判断することができる。我々は、自分たちについて存在しなければよかったのにと仮定することができる。
p.42 人々を幸福にする積極的な義務があると考えている人でも、幸福な人々を存在させる積極的な義務があると考える人はほとんどいない。
p.44 非対称性は思考実験「遠く離れた(異国の住民の)苦痛と、無人の場所(無人島・火星)」(…非対称的な判断)で実証できる。
p.46 積極的な功利主義者は幸福を増加させようとする。そこにも①人々を幸福にすること、②幸福な人々を生みだすこと、の違いがある。①は倫理の要請だと言える。しかし、②を倫理の要請だとすると、個人の価値は幸福の価値から派生することになり、人々を幸福を生みだす手段だと見なすことになる。
p.52 つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人を比較すれば、存在しないことの利点がつねに勝ることは明らかだ。回復するのは手段的な善であり、内在的な善ではない…という批判は成立しない。実在する人物について善がないことに「奪われていない」という判断ができるのは手段的な善のみだ。この区分は意味がない。
p.54 楽観主義者の快楽と苦痛の費用対効果分析…は「存在しない」場合との比較でなされていなく、無意味だ。…快楽に苦痛の2倍以上の値がある場合、「存在する」ことの費用対効果分析は成立する。しかし、QOLを決定する快楽・苦痛の割合、苦痛の下限の問題がある。何より、思考実験「つねに健康な人と、病気がちだがすぐ回復する能力をもつ人」はつねに相対的に前者が勝る。
・『別の非対称性』
p.59 シフリン:より大きな害悪を防ぐために小さな害悪をもたらすことはいい。しかし(純粋な)利益をもたらすために害悪をもたらすことは悪い。よって、生殖は悪い。存在が利益をもたらすとしても、あらかじめその存在の承諾を得ることは不可能だ。また、その仮想上の承諾を想定することもできない。…①存在しなければ害悪を被らない。②存在することの害悪は耐えがたいものでありえる。③人生という害悪を逃れるには大きな代償を支払わなければならない。④仮想上の承諾はその個人の人格を無視している。…そもそも、出生が利益をもつことはない。
p.63 出生された人物の権利を生殖が侵害するということは、その権利を請負う人間はその時点で存在していないためにありえない…という議論は生殖の特別な特徴を無視している。害悪を被り「得る」ということで、特別な権利を認めるべきだ。なぜなら、存在しない権利がないということはありえない。…自律していない存在(=子供)にはより大きな利益をもたらすために害悪を与えていいというパターナリズム的な議論…は、子供とまだ生まれていない子供は異なり、出生は絶対に悪いということで否定できる。
p.64 フェーイゲ「反失望主義(antifrustrationism)」:選好が充足した場合も選好がない場合も等しくいい。悪いのは選好が充足しない場合だけだ。よって、出生は悪い。
p.68 自らの人生を楽しんでいるという理由で、存在してしまったことを良いことだと考える…もし存在してしまわなかったら、その楽しみを逃す人はいない。しかし、存在してしまわなかったことで、苦しみがなくなるのは良いことだ。
p.69 存在して良かったかどうかを間違うはずがないと考える…存在してしまった当人の存在が良い/悪いということは、存在してしまったことが幸福/不幸ということと同じではない。
p.72 人生の良さと悪さの差は、順番、強度・頻度、人生の長さ、閾値、で人生の質とは変わってくる。
p.75 ①ポリアンナ効果:楽観主義。人生の質を改善するらしく思われる要因のほとんどは、人生の質の自己判断にあまり影響を与えていない(例:体の各症状に対する自分の健康状態への判断がほぼ一致するのに、幸福への判断とはあまり一致しない)。②適応。③比較:幸福の自己判断は、実際は相対的な指標による。
●『人生の質に関する三つの見解のどれをとっても人生はうまくいかない理由』
・『快楽説』
p.81 人間は人生の大部分をマイナスの精神状態で過ごす…空腹、渇き、便意・尿意、疲労、ストレス、暑さ・寒さ。前述の3つの心理学的効果で無視されているだけ。さらに…持病・加齢:痛み・苦しみ、眠気、挫折感。災厄:アレルギー、頭痛、挫折感、苛立ち、痒み、寒気、生理痛・閉経後の火照り、吐き気、低血糖、発作、罪悪感、恥、退屈、悲しみ、憂鬱、孤独、無力感、喪失感、その他、被害感情全般。
・『欲求充足説』
p.84 精神状態について判断を間違うことはなくとも、欲求については間違うことがありうる(単に快楽を追求している場合は除く)。…欲求は当然、満たされていない時間の方が長い。また、欲求が満たされるのは一時的で、そもそも、欲求が満たされないことも多い。現状維持の欲求さえ、実現は不可能だ(老い、死)。
p.86 マズロー「つねに新たな欲求が生じる」。イングルハート「人間が永遠の幸福を得ることができるなら、何ら行動しなくなる」。マズローは人間はおおむね幸福で、不満足は病的状態だと言うが、ショーペンハウアーは不幸こそ人生の当然の状態だと言う。
p.88 欲求の充足までに困難があった方が、あるいは充足の過程そのものが良いという議論…は明らかに不条理だ。
p.92 「客観的リスト」は「永遠の相のもとに」ではなく「人間の相のもとに」構成されている。…40歳で死ぬことが不幸だとして、90歳でそうでないのは何故か? 「色んな芝生に生えている草を数えることに人生を捧げている男」(ロールズ)の人生は無意味だが、その視点と人類の視点は大差ない。
p.93 人生の質は「人間の相のもとに」判断すべきである、あるいは、具体的な背景に応じて判断すべきであるという議論…は明らかに不条理だ。
p.98 害悪に満ちた人生を、①すでに存在している人のためでなく、②功利主義的な目的でなく(また、そうであっても)、生みだすことはできない。人生の質の判断は当てにならず、よって、人生を続けるに値するかは別論だ。
●『子作り』
・『子作りの義務はない』
p.103 子作りの義務…①射程:子供を(1)何人か、(2)できる限りたくさん、持つ。②正当化の理由:(1)存在させられる人々の利害関心、(2)その他(他者の利害関心、功利性、信仰、等)。…存在させられる人々の利害関心によれば、子作りの義務はあり得ない。それ以外の理由ならあり得るが、それにしても相当に疑わしい。とくにできる限りたくさんの子供を持つべきだという場合は。
p.105 生殖衝動、子作りへの関心…「性交への関心」「親になることへの関心」と「子作りへの関心」を分ける。前2者に子作りは必要ない。
p.107 他者の関心…両親、部族・民族、国家。しかし、こうした他者の利益を適えることは、それによる当人の利益を適えることと表裏一体だ。
p.109 子作りへの関心は…これまでの議論から権利を制限されるべきだ。
p.113 子供を持つべきでない道徳的義務があるなら、子供を持つ道徳的権利はあり得ない。よって、子供を作る権利は(愚行権を含む)法的権利だ。
p.114 法的権利は道徳的義務と対立する場合、そうした方が良いという仮説を必要とする条件付きのものとなる。そして、阻却可能条件(子供を作るべきでない)がつねに適合する場合、その法的権利は妥当ではない。
p.115 政府が子供を持つべきでない道徳的義務を認めると、施策としてあり得るのは①権利を与えず自由放任する、②禁止する、のどちらか。①は権利を与えず容認するというのは矛盾で、いずれも積極的な②を包含する。②はその道徳的代償が子作りの禁止による利益を上回ることはないと思われる…非最大化主義的非帰結主義者の見解。
・『子どもを作る権利を意見の相違があるということに根拠付ける』
p.116 法的権利とその正当化にはこのことだけで十分だ。危害原理の必要条件:ある行為が害悪であるかどうか意見の相違がある場合は、危害原理の射程の外にある(例:人工妊娠中絶)。…ただし、奴隷制のように、ある行為が害悪か議論の余地があるだけでは許されないものもある。
p.118 危害原理の例外となる意見の相違は妥当/無条件のどちらか。奴隷制やアパルトヘイトは明らかに妥当ではない。
p.120 少なくとも反出生主義が最も優れた反論と比較して十分に検討されるまでは、妥当な判断のできる理性的な人々によって、意見を妥当に違えることができるかは結論付けられない。
p.121 少なくともリベラルな社会において子供を作る法的権利が撤回されるのには長い時間がかかり、そのときにはその意見は広く認められているだろう。それまで、新しい人間を存在させてはならない道徳的義務を認めつつ、子供を作る法的権利を認めることはできる。…実際、テイサックス病やハンチントン病のような遺伝性の病気、エイズのような感染病など、他の場面では許されないほどの害悪を与えることが、子供を作る場面では容認されている。
p.123 障碍…障碍は社会に構成されたもので、実際には障害(disability)ではなく不能(inability)だ。また、障碍の出生前診断は政治的に悪いメッセージとなるという「表出主義者」の議論…障碍が不能ということは、「より悪い」ということを否定するものではない。健常者と同じQOLを持つ障碍者も、さらなる障碍についてはQOLを低く見積もる。また、反出生主義はむしろ平等主義だ。
p.132 ロングフルライフ…訴訟は①子供を持つ法的権利に関する妥当な意見の相違。②QOLの評価は個人的なものだ(とくに現在のロングフルライフ訴訟は代理人によることが多い)。もし判例ができれば、もうQOLの評価は個人に独特なものではない。の2点の課題がある。
p.135 セックスは子作りの目的でなされる場合のみ道徳的に容認されるという多くの反論がある見解(オーラル・アナルセックス、レイプ、不倫、不妊症)を、反出生主義は「性倫理の反生殖的見解」として完全に退ける。
・『誕生の悲劇と婦人科学(gynaecology)の道徳』…『悲劇の誕生』と『道徳の系譜(genealogy)のもじり。
p.140 1人の子供を救うために新たに子供を持つという場合は…(a)自分たちの関心(interest)を満たすため、(b)今存在する子供に弟妹を与えるため、(c)家族、部族、民族、種族を大きくするため、(d)何の理由もない、という場合よりはるかに良い。これらは、他人を手段として扱ってはならないというカンティアンの命題によりいっそう当てはまる。