はてなキーワード: 全面的とは
これは、ちょっと大きな声では言えないので、増田に書くけどさ…。
超高齢化社会の進展に伴って、これからますます社会保障費が増大していく。
財政赤字の拡大は必至。
国債は、民間が消化しきれなくなり、全面的に日銀が引き受けるようになる。
そこで、いよいよ財政がヤバイことが誰の目にも明らかになり、金利は上昇。
その結果としてのハイパーインフレ。
結論としては、財政破綻→ハイパーインフレという将来しか考えられない。
でも、これって実はそれほど悪い話じゃない。
増税は、日本に住む人は誰も逃れられないのに対して、ハイパーインフレにはいろいろ打てる手がある。
要するに、外貨か金(ゴールド)を買っておけばいいだけのこと。
おそらく、ハイパーインフレは円の価値を毀損するので、名目だけでなく実質ベースでも、外貨は価値が増大する。
ハイパーインフレになりさえすれば、実質の累積債務はあっという間に縮小する。
また、累進課税なので、税収もあっという間に増える。
これは、いままで円貨で資産形成してきた人たちの財産を没収して、財政再建を果たしたのと同じ。
いわゆるインフレ税というやつだ。
だから、こういう円で財産を持っていた人たち(たぶん資産運用とかのリテラシーが高くない大多数の庶民)
には、気の毒に思うけど…。でも、まあ、あまり考えていなかった結果なわけだから、仕方ないともいえるけどね…。
一方で、考えている人たちは、すでに財産の大半を外貨で運用しているんじゃないかな。
一部は金(ゴールド)やビットコインにしてもいいかもしれない。
結論をまとめると、
この単純な結論に気がついてから、私は、財政破綻を恐れなくなった。
まあ、いろいろ面倒ごとも起こる(社会不安とか)から、財政破綻はないに越したことはないけど、
「社畜ってのはどうしてそんなブラック企業を辞めずにしがみつき、心身ともに疲弊したり、下手をすれば死んでしまうんだ。辞めればいいだろ」
という良くも悪くも常識的な意見に対して多分心根の優しい人たちからは
「そんな常識的な判断ができなくなるくらいに頭をおかしくされたり洗脳されてたんだ」
という答えが返ってくることがある。監禁された少女が外出中に逃げなかった話なんかも同じパターンだ。
これに対しては
「そんな何Goだかが裸足で逃げ出すような凄腕メンタリストがこの世にはどんだけいるんだよ。教えを請いたいくらいだわ」
と嫌味の一つも言いたくなることもあるが、はたと思ったことがある。
多分こういう「洗脳」に訴える説明はより自然でもっともらしい説明をするという意図というよりはむしろ、
被害者に原因の一端を負わせてはならないという道徳的な意図に基づいたものなんじゃないか。
もし洗脳という全面的に加害者に事件の原因を負わせる説明が出来なければ「どうせ変化が怖くかったから辞めなかったんだろ」とかいう風に被害者に原因の一端を割り当てることになる。これは道徳的な観点からはマズい。
これを避けるために「被害者に原因がある”べきではない”」という道徳的判断を挟んだ結果が、心根の優しい人たちをして「どこにでも良そうな人が完璧に操れる洗脳を行う」という素っ頓狂な説明に訴えさせたんじゃなかろうか。
思うに「洗脳」に訴える説明は労働者にとっては「じゃあどうやってブラック企業で壊されるのを回避する?」という解決策への道を閉ざしてしまうという点でかなり有害だ。人の心を思いのままに操る「洗脳」には対抗手段が見いだせない。
逆に(企業については言うまでもないが)労働者にできる範囲で何らかの気を付けたり改善する点を(自己責任論にならない範囲で)見出し、教訓を引き出すほうが交通安全における「赤信号の時には横断歩道を渡らないでね」、「見通しが悪いところでは徐行してね」という風な注意事項を引き出して生かすことができるので、道徳的な意図の下で「洗脳」で説明するよりも現実的な改善につながる。
【インタビュー】字幕翻訳者・戸田奈津子さん「エッ?と思う字幕は、どこかおかしいの」
https://www.buzzfeed.com/eimiyamamitsu/interview-with-natsuko-toda?utm_term=.bhpJ8y62dK#.pf3GDwzR2e
を読んだ。全体的には一方的な自己弁護を垂れ流すだけの提灯記事だが、インタビューという性質上これは仕方のないことなのだろう。この記事の良い点は、戸田奈津子という人の見当違いな自己顕示欲を浮き彫りにしているところだ。
「叩く扉もなかった」字幕翻訳という仕事に、その道の第一人者に直接食らいつくようにして取り組んでいった前半生は感動的でさえあるし尊敬もしよう。しかし一人前として仕事を任され、一定の地歩を固めつつあった頃には、質的な研鑽よりも量的なアピールに重きを置く仕事ぶりだったことがよく分かる。
それは時代というか当時の映画産業の要請でもあって、戸田個人に責任を帰すことも出来ないだろうが、何度も立ち止まるチャンスが有ったにも関わらず、過剰な自信に満ちた「職人魂」みたいなもので自分を虚飾したい一心で、本質的には作品に奉仕するべき字幕翻訳者のあり方を歪めた自己像を描出し、直そうともしなかった。それがこのインタビュー記事で表現されている「字幕翻訳の女王」の実態だ。彼女はことあるごとに「文字数は自由だし調べ物にもゆっくり時間をかけられる文芸翻訳とはわけが違うのよ」式の言い訳(師匠の発言の一部を都合よく切り取ったものだ)をして、質を犠牲にしてることを棚に上げて早業自慢を繰り返すが、この記事もまさにその例を一歩も出ていない。ほとんど馬鹿の一つ覚えだ。
せっかく日本一名の売れた字幕翻訳者になったんだから、個人の早業を自慢するよりも、字幕の質的向上のために制作・配給側が用意する時間や予算の拡充をアピールするのが筋なんじゃないのか? と私などは思うのだが、そんなことは自己否定になりかねないのでできない。映画や観客より自分が大事だからだ。徹底して裏方仕事に向いてない性格なのに(だからこそ喰らいついていけたとも言えるが)、なぜか字幕翻訳者になっちゃった人で、その上根っからのダンピング体質なんである。広く「第一人者」と呼ばれるものの最悪の事例として歴史に記録されるに値する人物だろう。
戸田字幕の具体的な問題点については、今ではある種のネットミームと化していて、山のように検証を綴ったページがヒットするので、ここでいちいちあげつらうことはしないが、この記事を読んでそれらガッカリ字幕の根本的な原因を確信できた気がする。戸田奈津子自身の映画作品に対する理解力が低いのだ……というのはあまりにも失礼なので、観客(想定読者)の理解力を低く見積もりすぎ、と留保つきで言うべきなのかもしれないが、とにかく画面に映っているものや脚本に対する読解力が低い翻訳をしてしまっている。軍事用語や「指輪物語」の専門用語に通じてないせいで勝手流に造語しちゃうみたいなことは、専門の監修者をつければ(それさえ不服のようですが)済むことだが、理解が浅いまま手癖で字幕をつける悪癖についてはせめて直そうとする姿を見せてほしいと思う。
どんな作品であれ受け手によって読み出せる情報量は変わるものだが、戸田字幕はその理解力の設定が最小限になってるみたいな字幕なのだ。そんなとこを端折ってしまったら、まるで子供の頃に見た「大人の映画」のように途中で筋が追えなくなるだろうな、と思うことさえある。一通りセリフが聞き取れるとか、背景知識も揃っているような人間が見ると「エッ?」となるような訳を乱発してしまっているのである。これは映画字幕という表現媒体そのものの制約なのだろうか? 単に投下すべきコスト(時間と人員)をケチってるだけじゃないのか? なにしろ理解力が乏しいゆえにかえって回りくどい表現をして、大切な字数を浪費している例さえあるのだ。単にこなした本数が多いから下振れが記録されているだけと擁護することも出来るが、それを言うとかえって早業自慢の露悪性が強調されるというものである。
そして戸田字幕に感じる理解力の低さ、雑さの遠因が、このインタビューでは明らかにされている。ただの映画ファンとして、「作品のファン」としての経験を積まずに映画を見まくった原体験が、映画を十分理解せずに、ざっくりと筋がわかれば(たまにそれにも失敗する)いい、という仕事を次々とこなすことを良しとする「映画字幕の女王」を産んだのだ。それは映画というものの立ち位置が変わってしまった現在には全くそぐわない態度であると私は思う。
多くの人が週末には何かしらの映画を見て、学生なんかは金の続く限り映画館に入り浸って、それ自体が楽しみで、何度かに一回面白いものがあったら儲けもの、といった時代はとっくに過ぎ去った。多少荒っぽい仕事があっても、「まぁそんなこともある」と納得してすぐにまた映画館に足を運んでくれる観客は絶滅危惧種と言っていい状況で、「とりあえず筋の追えるものを今週中に」みたいな品質でつけられた字幕を使う理由はほとんどないと言って良いんじゃあるまいか。なにもタコツボ化したマニアだけが字幕翻訳者の理解不足を責めているのではない。字幕でスクリプトの情報量を100%伝えろという不可能を要求しているのでもない(そんなことを言ったら、原語が完全に理解できても伝わらない部分は常にある)。娯楽が多様化する中で、金と時間を使うに値する丁寧な仕事で競争できているかが問題なのだ。
そもそも多くの映画は長い時間をかけて作られるものだ。製作に着手してから数年かかることはザラだし、驚くべき短期間で撮影が終わったというような作品でも、原作を読み込んで脚本化するのに何十年もかけていることだってある。そしてそれを待つファンも何十年越しで待っていることだってある。それだけの労力と期待を集めて公開される作品の最後の工程に、パッと見の印象を伝えるので精一杯みたいな字幕がついていて良いのだろうか? 日本人の英語力の向上には役立つかもしれないが、自分で聞き取れるようになったからといって問題が無くなるわけではない。「自分は内容がわかっても、あまりにも作品に無理解な字幕がつけられていることに耐えられない」という作品のファンの心理を考慮せずに仕事を続けることは、今や娯楽の王座から落ちて、比較的嗜好性の強いものになった洋画のファンには悪印象しか与えない。それに洋画ファンだけの問題でもない。どんなジャンルの仕事であっても、雑な仕事というのはそれに初めて触れる者に「なんとなく面白くないな」という印象を与えてしまうものである。それを防ぐために必要なのは、十分な準備期間と作業時間を用意することによって得られる翻訳者の深い作品理解だ。翻訳者に十分な時間とリソースが与えられ、一つの作品に使える労力を拡大することのほうが誰にとっても良いことなのではないか? すべての原因を「文字数の制約」や「納期の短さ」に帰することが出来るという甘ったれた足かせを自慢できればそれでいいのか?
戸田字幕の映画理解力の低さが、意図的に設定されているものではないと疑う理由がもう一つある。戸田は字幕翻訳が単独作業である理由として、「セリフの言い回しやリズムを統一するのに余計な時間がかか」るということを挙げている。そんなことを言っていたら、作中でセリフの言い回しやリズムを敢えて変えることで、登場人物の心理的変化や場面転換を表現する映画は原理的に字幕に乗らないことになる。これほど馬鹿な話はない。「こいつは最終的に悪ものになるやつだから、最初は丁寧にしゃべってても荒い口調で統一しとくのが親切」みたいな字幕が付けられた映画を、誰が見たいだろうか? 一つ一つの映画作品の性質をよく理解しないまま、ちぎっては投げみたいな仕事を続けてきたせいで、どんな映画も同じような構図に当てはまるよう訳すのが当たり前になってしまっているからこそ、セリフの統一感があることが「透明な字幕」の必要条件だという勘違いを起こしてしまうのだろう。映画が転調したときには字幕も転調するのが「透明な字幕」で、そのためには複数の視点が必要になることだってある。脚本や演出の意図を読み違ったまま、理解をし損なうことは避けられないからだ。いつまでも「一人の字幕翻訳者が短い期間で理解できた範囲」としての映画字幕が作られ続ける状況を肯定することは、この人の取るべき道ではない。それは決して映画のためにはならない。
「ロード・オブ・ザ・リング」の第二作以降は、原作の翻訳者がスクリプトの全訳を事前に行った上で、それを参照して戸田が字幕を作成し、改めてチェックを受けるという体制が敷かれたようだ(インタビューではその経緯をまるっきり無視していて、結果的に監修者の仕事を貶める傍若無人ぶりが表れている)が、これに似たことが常識的に行われるように働きかけしているんですよ、といった風のアピールをするほうが、「第一人者」としての尊敬を集めるのではなかろうかと私は思う。
現在の洋画の年間公開本数は80年代末以来の第二のピークを迎えている一方、戸田の仕事は当時の1/5近くまで減っている。文芸関係に限って言えば50歳ごろに確立した仕事のペースを守っている80歳なんていくらでもいるので、年齢のせいばかりでもないだろう。その事自体、戸田が翻訳者の待遇改善に取り組んだことの証左だと弁護することも出来るかもしれないし、実際にセリフを聞き取りながら見て「ここをこうやってまとめるのか、上手いなぁ」と思える翻訳者が増えてはいるので、まぁ戸田奈津子の問題ある訳というのも、そろそろ過去の話だよね……と最近は思っていたのだが、私はこのインタビューを読んで気が変わってしまった。やはり早いとこ全面的に後進に道を譲って、ご自身は字幕翻訳の質的向上のために翻訳者の待遇を改善する言論を起こされるなどしたらいかがだろうか。それが名の売れたものの使命と思ってはもらえまいか。いい年してよいしょインタビューに答えて、自分の大ポカで迷惑をかけた監修者の名誉を傷つけるような非道い言い訳を垂れ流している場合ではない。
今さら早業自慢を封じられるのは、自己認識からすれば転向に映るかもしれない。ひょっとしたら一気に老け込んじゃうかもしれない。しかし、昔よりずっと観客同士の横のつながりが強くかつ広範囲で、作品についての情報も手に入れやすい今だからこそ、字幕翻訳に要求される水準が上がっていることを認識し、それに適切に対応するように送り手たちに働きかけをする姿は、映画ファンの心に強い印象を残すはずだ。個人的な快刀乱麻の仕事ぶりを自慢するのはもうやめて、業界全体で作品の質に貢献する、充実した作業環境を残せるよう声を上げる好機なのではないか。それでこそ「字幕翻訳の女王」としての尊敬を集められるのではないか。今のままではせいぜい良くて「時代の徒花」といったところである。
最近になって二次創作の良さを知り、デレマス二次創作同人誌を買いだした人間からひとことふたこと。
わたしがその二次創作同人誌(以下同人誌と表記)を買ったのは、アニメなどからしか見られない、うかがい知れない高垣楓さんの、アナスタシアの、新田美波の「こうであってほしい」という願望が描かれていること(ギャグを含めて)、同人誌を手に入れることで、いつでもそのキャクターを身近に感じられるから、ということだった。それらの作品に、どれほど心慰められたかわからない(かめれおん先生ありがとう)。
こういう二次創作ものを描く側も、同様の理由から作品化しているものと信じている。だから、そういったリスペクトを感じられない二次創作は、消えてなくなっても構わない。特に18禁物の場合、ただただ劣情に訴えるような二次創作は今すぐ消えていい。たとえわたしが、その作品を見たいとしても、やはり消えてなくなれ。それが、二次創作という遊びとコミュニティのルールだと思う。
二次創作で18禁を描く場合(特にデレマスのようなキャラクターものの場合。昨今のやおいものやBLものはわからない)、そのどこにリスペクトがあるのかを探るのはかなり難しいし、書き手もまた「こうであってほしい」という思い以上の熱量と決意が必須であるはずだ。そう信じている。
以上の「前提」を踏まえたうえで、公式側は、その手の「原作レイプ」と思われる作品の作者に対してバンバン抗議し「この二次創作は認めない」と広く公表したら良いと思う。もちろんそれで「前提」なき者たちの手は緩むことはないだろうが、少なくとも安易な二次創作は抑えられるかも知れないし、そんな愛なき同人誌を買う側もそれがアンモラルである、という印象を持つようにはなるのではないか。
何より、今さら当たり前のことを書くが、「前提」があろうがなかろうが、公式が認めない、ロイヤリティーも払わない二次創作は原則すべてアウトである。それを黙認しているのは、法に訴えても見合わない、また多くのクリエイターが二次創作、同人誌から生み出されているからである。
なので、この方の心情をわたしは全面的に支持し肯定する。重箱の隅をつつくようなコメントを書く奴は、この苦さに少しは思いを馳せるべきだ。この苦い思いをわかった上で、ただキャクターへの「愛」だけが、オリジナルへの「愛」だけが、すぐれた二次創作の源泉となるべきだ。もちろんそんな「愛」をもって明確な線引など出来ない。それでもなお、二次創作者もその買い手側も、そのラインを常に問い続けながら描き、問い続けながら購入すべきである。
You may say I'm a dreamer. But I'm not the only one. I hope someday you'll join us and the world will live as one.
1年間、ずっと彼女がいる人のことが好きだった。
そいつとはちょうど1年前、本当にちょっとしたきっかけで仲良くなった。お互いの部屋を行き来するようになり、一緒にテレビを見たり一緒に寝たり、そういうことを何度かしているうちに私はどんどんと彼のことが好きになって、もしかしたら向こうもそうなのかもしれないと、そう思っていた矢先、そいつに彼女ができていたことを知った。
かなり、かなりショックだった。けど、もう私は後戻りできなくて、そのまま1年間、浮気相手のような、2番手のような、今流行りのソフレのような、1週間に1回くらいの頻度で部屋に行き、2人で過ごしてキスをして一緒に寝るというよくわからないふわふわとした関係をずるずると続けてきてしまった。
いつか辞めなきゃいけないということは分かっていて、でも無理だった。彼は彼女と別れる気もなければ私との関係を自分から終わらせる気もないようだった。終わらせるとしたらその役目は私が負わなきゃいけなくて、傷つくのも、私だけ。そう思うとどうしても耐えられなくて、目をそらして逃げ続けて、1年が経った。
もしかしたら、もしかしたら彼も私のことが好きになってくれるかもしれないという期待もあった。私を大事に思ってくれているような感じはあったし、諦めなければそのうち私が1番になれるんじゃないかって、妄想を抱えて現実から顔を背け、関係を続けてきた。
でも、昨日。
私はふと出来心で彼のラインを覗いた(勝手に人のラインを覗くなんてまずそれ自体がクソとしか言いようがないし、そこに関しては私が全面的に悪いとしか言いようがないのだが、そこは一旦目をつぶってほしい)。そこには彼女との会話や私との会話の他に、共通の友人(女)との会話もあった。私は何の気なしにその会話を開いた。それがとんでもない地雷だった。
言ってしまえば、彼はその女の子とも浮気関係にあった。私だけじゃなかったのだ。彼はその子に向かって、「好き」「早く会いたい」とラインを送っていた。キスの写真もあった。
とんでもないものを見てしまったという動揺と、ショックと、怒りと、悲しみとで頭が混乱する中、ふと思った。
私は1年間この関係を続けてきたけど、彼に「好き」って言われたことはなかった。私はずっと2番手にされているのだと思っていたけれど、それすら勘違いだったのかもしれない。最初っから最後まで、私の一方通行で、彼から感じていた私への親愛は、全て幻想だったのかもしれない。
彼にとって、私は、なんだったんだろう。友人だろうか。キープだろうか。それとも、部屋によく来る抱き枕か何かのように思っていたのだろうか。わからないけれど、ひとつ言えるのは、私のこの1年間は全くの無駄だったということだ。
今は彼の顔を見たくないし、もう1人の浮気相手の女の顔も見たくないけれど、大学が一緒なので否応無しに見なければいけない。ていうか今日会うし。耐えられるだろうか。
ほんとにこの1年間、なんだったんだろう。できることならやり直したい。
「そして家族を養えない男。これもやはり劣っている。共働きでやっとですとか無能の告白に等しい。恥を知る脳みそがないんだろうな。」
全面的に認める。
稼ぎが無い俺のせいで生物的にも劣っているので一人で生きて一人で死のうと思う。
つまるところ、葬式の段取りを決めておいて発見が遅れずに大家に迷惑かけなければいいだけだ。
畳の上で看取られて死ぬとか甘え以外の何物でもない、死ぬときはみんな一人だ。
孤独死となんら変わらない。
病院で死ぬとしたら大抵意識がないからこれも一人で死んでるのと同じだ。
そもそも死にそうなやつが意識ハッキリしてるわけないんだけどな。
孤独死を問題視したがるのは常に本人じゃなくて周りってことだ。
実に虚しい話だな。
最近WELQが話題だ。私も前の会社でとあるキュレーションサイトに関わっていた。その時、これはヤバイと思ったから、バレない程度にその話を書く。なお、給料が安いのとやり方が嫌なのと、とにかく嫌なことが多すぎたのでさっさと辞めて、今はその会社にはいない。
まずはキュレーターに対する報酬の安さだ。下手すると1文字1円ないんじゃないかと思う。安いお金で書かせ続けていたらキュレーターが離れるのでは? と思ったから、知り合いのフリーランスのライターに報酬の相場を教えてもらってそれを伝えてみたら「そんなに出す余裕も理由もないよ」って言われて頭痛が痛かった。
事実、量に対して報酬が見合わなくて辞めていったというキュレーターも、報酬を伝えたら音信不通になったキュレーター候補もいるらしい。仕方ない気がする。
キュレーターに対しての指示もなかなかにひどい。このテーマについて、このサイトを参考に書いてください、という指示をしていた。それ自体はまあいいとして、パクリ上等な感じの指示もしていて(引用元は示しているが)、怒られたらどうするんだろうと常日頃から思っていた。
あとは、薬事法ギリギリっぽい表現もしていたような気がする。その時はなんとも思わなかったけど、welqの一件で薬事法について勉強してみたら、思い当たる節がありすぎて困ってしまった。私は法律に詳しくないから分からないけれど、他の法律にも抵触していたかもしれない。
あとは、キュレーターが書いた記事を全面改稿していたこともあった。この記事はアクセスが多いから改善しなければ、という理由らしい。扱ってる内容だけ同じで、文面は全面的に書き換えられているのだ。キュレーターは凹みそうなものだ。まあそんなこと気にしてないかもだが。
アクセスが多いなら該当記事を書いたキュレーターの報酬増やせばいいのに、と思って聞いてみたら、100円だけ増やしたと言われて、そうもなるかなあと思った。
それ以外にもいろいろとそりゃねえだろと思ったことはあったが、多すぎて忘れてしまった。思い出したらまた書く。
実際は2~4万円ぐらいのプラスになりそうだがほぼないも同然。
勉強した分野の仕事を求めて人間よりイノシシやシカの方が多そうな田舎から少しだけ都会に出てきたが、昨年激務と通勤電車に堪えられずパニック障害を発症。
ろくに動けなかったり働けなかったりしていたら僅かに貯めていた貯金はすぐに底をついた。
高校と専門学校に通うのに借りた奨学金を毎月2.7万ずつ返済中。
収入が途切れても前年度の収入がある程度あると返還猶予制度とかが使えないのがキツかった。
地元の恋人と結婚して都会に呼び寄せ、妻も働いていたが、自分が力尽きたのとほぼ同時期に妻も都会に馴染めず体調を崩してメンタル不調に陥り、
生活が全面的に崩壊したので妻は一旦実家に帰って、実家の家事・介護の手伝いや週2でパートに出て実家に入れる食費と小遣いを稼ぎながら療養中。
今年に入って勤務先が移転したことで自転車通勤に切り替えてなんとか休職から復帰したが、相変わらず電車にはあまり乗れないまま。
投薬で体調が安定しなかったり、通院で定期的に早退する日があるので、仕事の負荷を下げることになって収入が30%ぐらい減った。
これから3年ぐらいかけて元の水準に近づいていくらしいが、現状としては二馬力前提の家賃が重い。
しかし貯金が底をついた後なので、引っ越すための資金が捻出できないでいる。
身内から引っ越し資金を借りようにも自分の親は片親で持病を抱えつつ生活保護ギリギリの水準で介護職しながら田舎で一人暮らしをしている感じなので頼れず、
妻の実家の方も介護の必要な祖父と定年を迎えて収入が途切れた内臓の悪い義父に数年前にガンになって働けない義母に加え、まだ私立大学在学中の年の離れた兄弟もいて、
体調を崩して帰ってきた娘に食費を入れてもらわないとやって行けない程度には金銭的に余裕がない。
付き合いのある親戚は数軒あるが、ここ数年で何かの呪いのようにバタバタと大黒柱が急死していてどこも頼れそうにない。
そんなこんなで独り暮らしに見合わない家賃に圧迫されて、割と切りつめてもほとんど貯金ができていない。
負荷を下げたはずなのにしれっと命じられた休日出勤帰りの財布の中身は137円。
東京大学総合図書館が来年度一年間閉鎖になるということらしい。蔵書もほとんど使えなくなるということだ。
東京大学図書館の工事は段階を追って進めていくことで、図書館の全面的な閉鎖を避ける計画であった。
しかし国からの予算が来年度突然出ることになったのである。そのような予算は来年度中には使わなければならない、というのがお役所の仕事だ。
こうして、来年度中にその予算を使ってしまうために、工事の予定を早め全面的な閉鎖ということになったのである。
その年の予算はその年のうちに使わなければならないという、慣習、構造が起こした悲劇だろう。
予算が増えて、図書館が閉鎖、なんてまるでディストピアである。いつのまに私たちはこんな国に住んでいたのだろうか…。
せめて図書館の蔵書は全面的に貸し出し可能な状態にしてほしい。そうでなければ、東京大学が大学と名乗ることすら恥ずかしいことである。
まず、このような事態になっていることを大変遺憾に思います。そして、このような事態に対して意見を申し上げなければいけないということ自体も遺憾に感じています。このような事態というのは、「もしかすると総合図書館の蔵書が利用できなくなるかもしれない」という事態のことを指しています。
大学として図書館の本が利用できないというのは、あり得ない選択肢でしょうし、それがあり得てしまうかもしれないという状況になっていること自体が、おかしいのではないでしょうか。図書館の閉鎖は大学の閉鎖と同じくらい重大な事態だと認識しています。
研究者や学生あっての図書館であり、図書館という施設が主体ではなかったはずです。それにもかかわらず、施設を中心に考え、施設のためには利用者を犠牲にしても仕方がないという立場には反対いたします。
なによりも要求したいのは、図書の引き続きの全面的な貸し出し可能です。これが守られる限り、図書館は図書館としての機能を果たしているといえるでしょう。今でさえ、辞書・辞典コーナーを一部使用できなくしていますが、そのような基礎的な資料をないがしろにする図書館の姿勢はおかしいのではないでしょうか。
↑証拠がないという意味であって、高卒というレッテルが間違っているとは言っていない。だから「俺は大学出ているぞ」とは絶対に言わない
↑一言一句完全一致する発言はしていないという意味であって、ほぼ同じ意味の発言をしたことがないとは言っていない。だから「俺の意見は正しくはこうだ」とは絶対に言わない
↑反原発グループに属している自覚はないという意味であって、反原発の主張に全面的賛成していないとは言っていない。だから反原発に否定的なことは絶対に言わないし、うっかり「反原発は責められるいわれのあることを全くしていないぞ」とか漏らしちゃうこともある
つまり、99%正しいけどまだわずかに否定できる余地があるような場面で繰り出す技が「デマ」のようだ
それでも「レトリックでごまかすのはセーフだが、はっきり事実と反対の嘘を言うのはアウト」というマイルールを持ってるあたりかわいい
これを書いた元増田です。
http://anond.hatelabo.jp/20160924144051
これを書いた後、電通の過労自殺事件があり、電通の組織や体質の問題が社会的に批判され、同時に広告業界のブラックっぷりを多くの人が知るようになった。自殺をした高橋さんには大変申し訳ないが、この流れはとてもいいことだと思う。社会全体で過剰なサービスや過重労働が批判されて改善に進みだそうとしている今、広告業界もその流れに乗らないといけないし、しかもその流れを牽引していく存在になるべきだと思う。そのような力が広告にはまだまだ残っていると思う。
ただし、非常に不満がある。
今回の問題の批判のほとんどが電通や広告業界に対してのもので、過重労働を引き起こす元凶である「クライアント」はほとんど批判されていないことに対してだ。
確かに広告業界の過剰労働は相当な問題だ。これは業界全体に粘着のようにまとわりついていて、未だに「残業時間の多さ」を誇るようなところがあるし、新人の成長と残業時間は比例するみたいな考えも根強かったりする。中には給料いらないから働かせてくれ、みたいな人がいるのも確か。
だけど多くの人は仕事がない日は早く帰って家族に会いたいし、週末は遊びに行きたいし、休暇をとって旅行にも行きたい。
彼らは自分の仕事はだいたい「広告代理店にぶん投げれば解決する」と思っている。おれ自身も経験があるが、そのような人物は「上司に報告するための資料作成」から「年間の予算管理」、「他部署との折衝」、「クライアントの社内行事の余興」まで何でも代理店にぶん投げる。深夜に飲み屋に呼び出され、飲み代を「接待費」として経費精算しろ、と言われたこともある。広告代理店は今や「何でも下請け屋」になってしまっており、過去のおれの経験上、業務の半分以上はクライアントが本来やるべき仕事だったり、クライアントの尻拭いだったりした。そうして広告代理店が本来やるべき仕事の一部が子会社に行き、子会社が本来やるべき仕事の一部が下請けに行き、と玉突き事故のように業務が流れていき、業務量が雪だるま式に増えていく。しかもそういう業務は当然のように「タダ働き」だ。請求できない。クライアントとの良好な関係を維持するための犠牲なのだ。
何でこんなことになってしまうかというと、人格が終わってるようなクライアント担当者がいるというのもあるけど、構造的な問題を言えば「クライアント側にプロがいない」ということがあると思う。これは広告業界だけでなく、他の業界にも言えることだと思うけど。
いわゆる大企業はジョブローテーションが基本で、これまで生産管理をやっていたような人が、突然広報担当になったりする。そうやって幅広い分野で知見をためて、会社のことを知り経営ノウハウを身に着け、将来的には幹部候補生を育てていくという考えなんだろうけど、広告のことをまるで知らない担当者がクライアントの窓口になった時の広告代理店の苦労ったらない。曲がりなりにもクライアントの担当者だから、彼らの指示を仰がなければいけないのだが、それまで生産管理をやっていた人だから全く感覚が分からず支離滅裂なことを言ってしまう。だから新任担当者のために勉強会を開いたり(これも無償)、資料にも素人が分かるように滅茶苦茶細かく説明を加え、根気よく彼らが一人前になるまでフォローしなくてはいけない。本来はこれもクライアント側の仕事なのだが、今すぐにでも決定しなくてはいけない広告制作の世界で悠長に教育してる暇なんぞない。だから手取り足取り教えていく。それが現場の担当者レベルだったらまだいいけど、決裁者に違う畑の人物が来たときの苦労は並大抵ではない。
クライアント側も自分の無知は理解しているので、全面的に広告代理店を頼ることになる。なんせ、分からないことは全部教えてくれる。無茶で無知な要望や質問にも応えてくれる。大変ありがたい存在だ。そこにクライアント担当者と広告代理店の信頼関係が生まれるのだが、ある一線を越えてしまうと、担当者は何でも広告代理店に頼るようになってしまう。そっちのほうがラクだから。別に自分がカネを払うわけじゃないし。広告代理店は信頼を失いたくないから、無茶な要望も全部受け止める。そうなるともう歯止めが利かなくなる。
クライアント企業と広告代理店との付き合いの中に、「ここからここまで」という契約は存在しない。そこは曖昧な不文律で、各社によって千差万別だと思う。おれはクライアントの社内行事の余興までやってたけど、そんなことあり得ないという所もきっとあるだろう。
今回の問題を受けて、電通を始め広告代理店各社、過重労働の対策を打っているようだが、だいたい「深夜になると明かりが消える」「早朝出社を推奨する」「残業○○時間を超えると労働時間をこれ以上付けられなくなる」みたいな小手先の対策が主で、売り上げ下げたくないけど社会的な批判にも応えなくてはいけない、という意識から生まれた全く効力のないネガティブなものだ。形骸化するのが目に見えている。
問題の抜本的な解決のためには、広告代理店は「クライアントとの付き合い方」をそもそも変えなくてはならない。それまでの担当者間の情の付き合い方をやめて、冷酷にならなくてはいけない。「それは弊社の業務ではありません」と言わなくてはいけない。
そしてもっとも大切なことは、クライアントが変わることだ。クライアント側が変わらないと、広告代理店も変わらない。「私、これよくわかんないんです。電通さん、やっといてもらえます?」という乱暴な依頼の仕方を今すぐやめてほしい。自分の業務に責任を持ってほしい。そうでないと「何でも下請け屋」が再度はびこってしまう。
無責任に何でも丸投げするクライアント担当者と、「何でも下請け屋」的な方法でクライアント担当者の信頼を得てポジションを得る広告代理を撲滅しないと、本当の意味での広告業界全体の改善はなされない。
何ヶ月か前、ある人にめちゃくちゃ怒られたことがあって、その時の映像が某国営放送で、この前の日曜日に放送された。
まあ、炎上するだろうなと1ヶ月前から憂鬱だったのだが、ネットを見ると予想以上に燃えまくっていた。特にコメントをするつもりはなかったが、知り合いからも、「かわんごさん(仮名)が正しいと僕は思っているから」というような、よくわからない励ましのメッセージがたくさん来るので、一言、ここで書いておこうと思う。
まず、あのシーンにおいて、どちらが正しいといったことはないと、僕は思っている。それぞれ違う考え方、違う感じ方を持つ別々の人間であるというだけの話だ。
事実としてあるのは、僕が「ある人」を不快にさせることを、「ある人」のテリトリーでやってしまったということだ。それについては全面的に僕の失敗であり落ち度だ。
そもそもあの場はなんだったのかというと、CGの世界でどういう技術が開発されようとしているかを知って欲しかったからだ。放送で使われたのは、自社で作った映像の一部が映っていたが、実際は他社も含めた事例紹介の中の一部が切り取られてテレビには放送されたわけだ。
おそらくは否定的な反応だろうというのは事前から予想はしていたが、まあ、なんらかのヒントや刺激になれば十分だぐらいに思っていたのだが、想定していたよりも、かなり、めちゃくちゃ怒られた。
さて、放送されると炎上するだろうというのも予想していたわけだが、こっちの方も想定以上にネットは燃えた。事前から分かっていたのに、なぜ、あのシーンを放映することを許可したのか。事実をいうと一旦、断った。当たり前だ、なんの得もない。
でも、再度、どうしてもと頼まれた時、結局、いいよ、と言ってしまったのは、頼んできたAさんの気持ちになると、そりゃ、あのシーンは使いたいよな、と思ったからだ。自分でもドキュメンタリー映画の制作に関わったから分かる。撮影してもどうしても使えない映像というのが存在する。本当はそれを使うともっといいものが作れるのに使えない。あんな美味しい映像をAさんが使いたいと思うのは当然だよなと思えた。
そして、もう一つは、別にAさんは何か映像を捏造しようとしているわけではない。実際にあった映像を撮影できたんだから使いたいと言っているだけである。本当にあったことをそのまま放送したいと言っているだけだ。まあ、できるなら使って欲しくないけど、彼が本当に使いたいと思っているのであれば、それを断るのは卑怯であり、僕の我儘であると考えたからだ。
実際にどのように映像が使われたのかは、まだ見ていないので知らないが、ネットの画面キャプチャーや感想を見る限り、そこにあったのは本物の僕自身であったと思う。
怒られて、本当に困ってしまって半笑いを浮かべている僕、なんとか言い逃れようとしている僕、そして、でっぷりと突き出したお腹も含めて、全て、本当の僕が映っていたのだろう。
放送を見て、僕を心配してくれている周りの人は多いようなのだが、本当のありのままの自分が映し出されたとして、それで情けないとか、醜いとか、嫌悪感を持つ人がいたとして、まあ、しょうがないよねとしか思わない。誤解されたわけでなく、本当の僕を見てそう思ったんだから、諦めるより他にない。
本当の僕を見て嫌う人間に、嘘の僕を見せて好感を持ってもらいたいとは思わない。
というわけで、僕を心配している人に、一言いっておきたいのだが、心配は無用です。
ただ、今回、僕を攻撃している人たちをがっかりさせても悪いので、正直にいうと、今回の炎上で本当に傷ついたことがひとつあることを告白する。
月曜日から糖質制限を始めた。今回の炎上で改めて、人間は外見でそのひとの人間性を判断するということを確認した。どうやらデブは醜い心の現れであり、人間性を否定するに十分な根拠らしい。そう考えている人間が多いことは認めなければいけない事実だろう。
今回は本気で糖質制限をしようと思う。倒れても、また、立ち上がり、ぼくは前に進み続けるだろう。実際、月曜日の夜は、ついお菓子を食べてしまい、昨日の夜もシュークリームを半分だけ食べてしまった。その度に、僕は立ち上がり、再度、糖質制限を再開している。僕は今度は諦めるつもりはない。
そうだ。最後に書いておくと、放送ではめっちゃ怒られていたが、もちろん、僕は今でも毎週月曜日は、僕を怒ったひとの会社に出社している。まるでジブリのように素敵で暖かい職場だ。むしろジブリそのものといってもいい。特に最近は怒られることもなく平和に暮らしている。
今回は思いつきばっか書くので、あんまり本気にしないでください。
日本語の「信じる」「信仰する」という言葉は重いと思っている。
自分の神に対するスタンスは、(本当はいるかどうか良く分からないが)①いてくれたら良いな、②いる方に賭ける、③いてくれなければ困る、という幅で気持ちが揺れ動いている状態だ(その理由は以前書いた)。
「信」という漢字は「人」+「辛」+「口」の組み合わせから成るという説があるらしい。
ここで、「辛」は入れ墨に用いる針の象形で、入れ墨による刑罰を示す。「口」は誓いの文書を表す。
この説によれば、「信」という言葉は「その発言に嘘があれば、受刑することを前提に誓う様」を意味するとのこと。
他方、英語の"believe"は、allow(受け入れる)を意味する"be"と、to hold dear(愛しく思う)を意味する"li"から成るとのこと。
この説によれば、"believe"の意味は「対象を受け入れて愛しく思う」というところか。
これらの説が本当なのか文献を当たってないので分からないが、もし本当ならば英語の方がしっくりくる。
聖書の文言というのは非常に抽象的で、中には矛盾するように読める個所もある。
そのため、人生で直面する問題に対して聖書の規定を適用しようとする際、人によって全く違う結論が導き出されることがある。
このことが顕著に顕れるのが同性愛の問題で、①同性愛は全面的に罪だよ説、②欲求を持つのはOKだけど行為に及ぶのは罪だよ説、③ノンケの人が男色に走るのが罪なだけで生まれながらの同性愛者は罪ではないよ説、等々、バリエーション豊かな議論が展開されている。
(ちなみに自分は、どの説に立つにせよ、自説をもって他人〔同性愛者〕を裁くことは「人を裁くな」〔ルカ伝6-37〕に抵触するのでイカンと思っています)
また実際にも、(a)同性愛を罪と考えて信仰に励む同性愛者、(b)同性愛を罪と考えず積極的に差別と偏見と闘う同性愛者、のどちらも間違いとは言えないだろう。
そうなると聖書解釈というのは単なる主観の表明じゃないのか、客観的に正しい解釈というのはないのか、という疑問が湧いてくる。
この問題を考える際に参考になる議論として、法律学で似たような議論がある。
議論状況は泥沼に陥っている上に難解なのでとても要約なんてできないのだが、論者で議論が一致している点として「裁判官は法律家としての直感で結論を決めており、法解釈はそれを検証・正当化するために用いられる」ということが挙げられる。
このことから、法律家はこの「法律家としての直感」を育てることが肝要であるとよく言われる。
大事なのは「キリスト者としての直感」を、信仰と聖書研究を通じて育てることであり、聖書解釈はその直感を検証・正当化するために用いるものなのではないか。
上述した同性愛の問題でいえば、①同性愛者が直面する問題点、苦悩などをよく勉強したうえで、②キリスト教的な価値観に照らして直感で結論を出し、③それを聖書の規定に照らして検証・正当化する、というプロセスになる。このプロセスを経た結論は、いずれの立場にせよ、聖書的と言える(と勝手に思っている)。
なお、「法律家としての直感」の土台には、無神論と(マルクス主義的な理解における)資本主義がある。
「キリスト者としての直感」の土台には、キリスト教的な価値観(人間は堕落しているという人間観、成功より正義を重んじる姿勢、死後の世界の肯定、愛)がある。
「〔パウロ〕の手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています」(ペテロ後書3-16)
「あなたは、適格者と認められて神の前に立つ者、恥じるところのない働き手、真理の言葉を正しく伝える者となるように努めなさい」(テモテ後書2-15)
「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(コリント前書2-14)
#ブコメ返信
・いつもありがとうございます。教理問答買って読んでみます。今は詩篇を読んでいるのですが、終わったらコリント前書も読もうと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20161108134523
Facebookのいいね!が異常に多い割にそのコメントを見れないのが大変残念ですが。
まず印象に残ったのは、"R"や"L"の発音の説明だったり、いややっぱりラリルレロは"L"だ、だったり、そもそもの基本的な部分で多くのご指摘を頂いていた点です。
これに関しては全面的に私の説明ミスor勘違いによるものです。すみませんでした。
上記の情報が全て正しい訳ではございません。
各自トラバやコメント、Google、Wikipedia等で正しい情報を得てください。
そもそも、発音、特に舌の動きが重要な発音を、説明に慣れていない者が動画も図解も無く説明できるはずがないんですよね。
次に、「ローマ字はそもそも何のためにあるのか、誰のためにあるのか?」という点についても知識不足でした。
自分の知識不足で色んな誤解を生んだのは間違いないのですが、その結果色んな方々からご指摘を得て、この場で自分以外にも多くの方がローマ字やその長所・短所について考える機会を与えられたのであれば、この記事は何かしらの役割を果たせたのかな、と思っています。
また、「英語の話者のことしか考えていない」という指摘もありました。
この記事では主に英語のネイティブスピーカーのみを対象にしていたつもりでしたが、ローマ字表記をどこの国の人に見せるかで、議論は全然違ってきますね。
あとは、「どうでもいいじゃん」というコメントも多かったんですが、これは実際に外国人に正しく読まれづらい名前を持った人と、そうでない人で大きく意見が別れているように感じました。
結局個人の価値観にも依るのでしょうが、私としては自分の名前ってやっぱり正確に読んでほしいんですよね。
一方で、正式な文書で記載されている名前は発音されづらい、というジレンマは経験してみないと伝わらないものなんだろうな、とも思います。
実際に、特にTwitterでは「自分もそうだったわー」「自分はこうしてたわー」というコメントが多く、『ですよね!!』と膝を叩きたくなるような気持ちでいっぱいでした。
今後としては、ローマ字表記を変えよう!という意識は無く、パスポートに記載されているローマ字表記と英語のネイティブスピーカー向けの発音しやすいスペルを上手いこと共存させていく予定です。
例えば、自分の名前がタナカリュウイチだったら"Ryuichi (Liu-ichi) Tanaka"というように、ローマ字と読みやすい表記を併記する方法を考えています。
実際にこういう書き方をしている方を仕事でも見たことがあります。その方は中国人でしたが。
この記事によって、こういう表記・併記方法がより一般的になれば幸いです。
ただし、これも地域によって要・不要を判断する必要があると思います。
コメントによると、例えばフランス語圏やロシア語圏に行くときは(Liu-ichi)の表記はいらないと思います。
何にせよ、ここ数年ずっと自分の中でくすぶっていた"Rya,Ryu,Ryo"問題がここまで話題になって多くの方の頭の片隅に残ってくれたこと、そして自分自身も色んな気付きを得られたことが何よりの収穫ですね。
唯一の心残りは、2016年にもなって「ワープロ」という言葉が思わず口をついて出てしまったことですね。
おっさんですね。
http://d.hatena.ne.jp/shouh/20161107/1478521182
ただこういう、性的だったりルサンチマンなモチベーションの方が
強い制作の動機になることってあるんじゃないのって思ったんですよ。
私が目をつけたのは以下でした。
キモさ(キモイことは(負の意味で)注目される)
IT 界隈は情報発信が活発であること
女性エンジニアが盛り上がり始めていること
受け取られ方は大きく違ったとはいえ、性的なモチベーションがないとは言えないと思います。
たぶん「佐々木希の例とGGCは被害者女性が存在しているかどうかで根本的に違う」というような意見も出ると予想します。
とはいえ写真集で公開しているものの入浴シーンを3D化されて(少なからず)性的なコンテンツとして消費されるということは
佐々木希さんも必ずしもネガティブな印象を受けないとは言い切れないと思います。
リストに掲載されて、コメントをつけられ嫌な気持ちになった方もいることは確かです。
ただこの一件を「キモい」「理解できない」とただ批判するのはなんだか違うのではと思い、
shouhさんがひどく傷ついているとしたらなんだか切ないなあと思って書いてみました。
作って情報発信することは素晴らしい事だし、それを注目されたいという気持ちももっともなことだと思っています。
mattnさんのツイートにあった過激にこだわるなら技術でとがればよかったのにねというのは正論すぎてぐうの音も出ませんでしたが。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/news/html/20161104/k10010756371000.html
ブコメの反応が思った以上に否定的で驚いたんだけど、よく考えたら、なんの前知識もなければ私も文句つけてたと思う。
記事の中に
「ほかの学校で応用する場合、当事者本人の意向を丁寧に確認して対応していく必要がある」
私は愛媛に住んでいて、丹原東中の挑戦を割と近いところから見ている。
2014年度、文科省人権教育研究指定校となった丹原東中は、当時の校長の発案で「性的マイノリティ」を題材に取り上げた。
独自に資料、書籍を集めたほか、愛媛のLGBT当事者団体と連絡をとり、教材作りから全面的な協力を受けている。
当事者団体の代表は、最初に「生徒さんの中にもいると思われますが、当事者探しをするようなことにだけはならないように」とお願いした。
中学生の中には「マイノリティ」の意味もわからない段階の子もいる。繊細な問題を、焦らず段階を追って教えることに、先生方は大変な努力をして取り組んだ。
私は、LGBT当事者サイドからその取り組みを追っていた。正直最初は不安だったが、日を追うごとに生徒の様子が変化するさまを見ると、素晴らしい経過をたどっていることがわかった。
それは実際の生徒の言葉からも感じられると思う。段階を踏んで、このように変化した。
「最初は、どうせ『道徳の時間』を作るための授業だろうと軽く考えていた」
↓
「世の中にはそういう人もいるんだ」
↓
「社会に偏見があるとわかって、家族や友人に、言えなくて苦しんでいる人がいるかもしれないと思った」
↓
「今はまだわからないだけで、自分が『性的マイノリティ』の可能性もある」
周囲の人を思いやる段階さえ過ぎて、自分のこととして捉える感性が育っているのだ。
丹原東中の性的マイノリティ学習は、「性的マイノリティの知識を身につけ差別をなくしていく」という趣旨で始まったが、学校側や関わったLGBT団体の期待した以上の良い変化を生徒にもたらした。
精神的に安定し、穏やかになった。
セクシャリティに限らず、相手が何か問題を抱えている可能性に配慮し、また、自分の抱えている問題を相手が暴くことはない、という信頼関係が生まれ育っている。
こういった学校であるから、まだ教育を受けておらず差別的な言動をしてしまう新入生がいても、徐々に人権感覚を身につけていく。
3年にわたる連続した学習があって「思いやりトイレを使ってもいじめられることなどにはならない」と、確信を得て今回に至ったのだ。
また、元記事中で使われている「LGBT」という用語は、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー(トランスセクシュアル)の頭文字からきた言葉ではあるが、そのほかにも様々にある性的マイノリティの総称だ。「トランスジェンダーの方に配慮」といった時にこぼれ落ちてしまう性的マイノリティを含むという考えでこの言葉を使っているのだと思うので、LGBには関係ないなんて責め方しないでやってください。
http://b.hatena.ne.jp/entry/nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1610/31/news130.html
ブコメだと、メルカリが(当該ゲームの)規約違反のゲームアカウント売買の解禁を明言したかのようになっているけど、そうではなくない?
①従来、禁止していたゲームアカウントの出品を認めるようになったこと
②ゲーム側が禁止している行為を容認するのかという批判については、「法令違反などがあれば削除など然るべき対応を行っております」と述べていること
③電子データ類の出品について、「権利者が禁じているもの等については引き続き出品を禁止いたしております」と述べていること
④メルカリ上では現在も「パズドラ」や「モンスト」「ポケモンGO」など多くのゲームアカウントが取引されていること
である。
①のとおり、ゲームアカウント売買を解禁したことは明らかだが、規約違反のものについては明言されていないように思える。
②については、「批判」と「回答」が直接対応しておらず、この回答がどのような質問に対してされたかが正確には分からないこともあり、メルカリの姿勢はよく分からない。
少なくとも、これだけでメルカリが規約違反のゲームアカウント売買を容認しているとはいえないと思う。
また、「法令違反など」に当該ゲームの規約違反が含まれる可能性がある。
③については、当該ゲームの規約違反のアカウント売買を禁止しているようにも読める。
④やあいまいな②の回答からして、メルカリがメルカリの規約上又は事実上、当該ゲームの規約違反のアカウント売買を容認している、ということは言い得るかもしれないが、少なくとも明言はしていないだろう。
なお、本題からは逸れるが、個人的には、規約違反のゲームアカウント売買は禁止されるべきような気はする。
もっとも、あらゆるゲームの規約を常に把握していなければならない、というコストをメルカリが全面的に負うというのも少し違和感がある。
追記
>mashori mashori そもそも「取り扱わない」事が前提になっていた物が「メルカリユーザーからしか受け付けない」「運営側からの申し出は受けない」になっており、しかもユーザーからの申し出があっても無視し始めた事が切欠だぞ。
文字数の関係か分かりませんが、ちょっと何言ってるか分からないです。