「社畜ってのはどうしてそんなブラック企業を辞めずにしがみつき、心身ともに疲弊したり、下手をすれば死んでしまうんだ。辞めればいいだろ」
という良くも悪くも常識的な意見に対して多分心根の優しい人たちからは
「そんな常識的な判断ができなくなるくらいに頭をおかしくされたり洗脳されてたんだ」
という答えが返ってくることがある。監禁された少女が外出中に逃げなかった話なんかも同じパターンだ。
これに対しては
「そんな何Goだかが裸足で逃げ出すような凄腕メンタリストがこの世にはどんだけいるんだよ。教えを請いたいくらいだわ」
と嫌味の一つも言いたくなることもあるが、はたと思ったことがある。
多分こういう「洗脳」に訴える説明はより自然でもっともらしい説明をするという意図というよりはむしろ、
被害者に原因の一端を負わせてはならないという道徳的な意図に基づいたものなんじゃないか。
もし洗脳という全面的に加害者に事件の原因を負わせる説明が出来なければ「どうせ変化が怖くかったから辞めなかったんだろ」とかいう風に被害者に原因の一端を割り当てることになる。これは道徳的な観点からはマズい。
これを避けるために「被害者に原因がある”べきではない”」という道徳的判断を挟んだ結果が、心根の優しい人たちをして「どこにでも良そうな人が完璧に操れる洗脳を行う」という素っ頓狂な説明に訴えさせたんじゃなかろうか。
思うに「洗脳」に訴える説明は労働者にとっては「じゃあどうやってブラック企業で壊されるのを回避する?」という解決策への道を閉ざしてしまうという点でかなり有害だ。人の心を思いのままに操る「洗脳」には対抗手段が見いだせない。
逆に(企業については言うまでもないが)労働者にできる範囲で何らかの気を付けたり改善する点を(自己責任論にならない範囲で)見出し、教訓を引き出すほうが交通安全における「赤信号の時には横断歩道を渡らないでね」、「見通しが悪いところでは徐行してね」という風な注意事項を引き出して生かすことができるので、道徳的な意図の下で「洗脳」で説明するよりも現実的な改善につながる。
ストレスやうつ状態で正常な判断ができないことを指していたりするんだが他人をうつに追い込む人間なんて存在しないとかサイコパスっぽくてウケる