はてなキーワード: 仏像とは
時天空をご存知だろうか。時天空はモンゴル出身の力士で、土俵上での華麗な足さばきによって知られている。かく言うわたしも時天空の足技が好きだ。本人には申し訳ないが時天空が一番好きな力士というわけではないけれど、しかし、彼が勝つと思わずにやりとしてしまう。
土俵の上で時天空はいつも、仏像のようなふてぶてしい顔をしている。立ち会い、ぶつかって両者まわしを取る。相手力士の真っ赤な顔。だが時天空は、素知らぬ風に足をかける。相手の力士は、しまった!という顔でバランスを失い倒れる。
時天空の相撲は、わたしが相撲だと漠然と思い描いているものの輪郭から、時折大いにはみ出す。だからわたしは時天空が好きだ。柔道のようだと思うかもしれない。モンゴル相撲のブフは、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。時天空の相撲は、イマジネーションを広げてくれさえする。あの器用な足でまた何かやらかしてくれるのでは?そんな期待をこめて、毎場所テレビを見る。
そこまで言うなら時天空の相撲を見てみたい、もし可能であれば生で国技館で見てみたい、と思っていただけた方がもしかしたらいるかもしれない。願わくばいてほしい。しかしその望みは叶わない。なぜならば、時天空は引退してしまって間垣親方になってしまったからだ。では親方として、警備をしたり解説をしたりチケットをもいだりする、あの仏像のようなご尊顔を拝せるのでは?しかしながらその望みも叶わない。なぜなら元時天空、間垣親方は亡くなってしまったからだ。時天空は2017年の1月31日に亡くなってしまった。今日はちょうど一周忌だ。だから上の文章は、本来ならば動詞を全て過去形にしなければならない。
昔から相撲が好きだったわけでなく周りに詳しい人もおらず、面白そうだしいっちょ見てみますか!と思って見始めたわたしのようなミーハーな若輩者にとって、時天空はありがたい力士だった。なぜなら、時天空と言えば足技だと覚えておけばいいから。とりあえず時天空が来たら足技が出るのを待てばよかったので安心だった。本当は足技が失敗することもあったし足技は特に出ず押し出しで勝つこともあったけど、とりあえず時天空といえば足技。これで間違いがなかった。
力士の立ち会いはよく軽トラックの衝突にたとえられるが、ぶつかられて上半身はその対応をしておきながら、よくもまあ器用に足をかけられるな、バランス感覚はどうなっているんだと常々思っていた。
それに時天空は、四股名もSFみたいでスケールが大きくて格好いい。旭天鵬(現友綱親方)に似てるという意見も散見されるが、土俵上の時天空は、旭天鵬からお母さんみたいな雰囲気を全部抽出しきったあとみたいなおっかない顔をしていて、でもどこか荘厳で、鎌倉後期の仏像みたいで、思わず拝みたくなってしまうようなところがあった。
同僚と国技館で相撲を見ていた時のことだ。幕内の取り組みが始まって当時は平幕の下の方にいた時天空が出た。
「この人は足技がすごくて!」
などと僭越ながら紹介した直後、時天空が裾払いを決めて勝ったことがあった。同僚は普段から大相撲を見る人でなかったからピンと来てなかったようだったが、わたしは嬉しかった。思いが通じたような、どこか共犯者めいた気持ちが満ちた。むずがゆくなるくらい嬉しく、誇らしかった。これからも応援しよう!と思った。
でもその時はまさか、その場所とその次の場所が、土俵上で時天空を見られる最後になるとは思わなかった。
肋骨の骨折で休場というニュースを見て、時天空がケガなんて珍しいな、十両落ちちゃうのでは?と思ったが、その後実は悪性リンパ腫だと知りショックを受けた。場所のたびに休場の発表があり、十両に落ちているのを国技館のチケット売り場の電光パネルで見て、やっぱりと思うと共に早くよくなってほしいという気持ちが募った。
わたしは、時天空に手紙を書こう!と思った。もしかしてあまり読めなかったりして?と思ったが、時天空は日本語がペラペラだし、たとえ読めなくてもそういうのは気持ちだから出そう!と身勝手なことを考えた。ふりがなをふったら逆に失礼か?などと考えながら文面を考えていた矢先、ツイッターで久しぶりに時天空という文字列を見た。リンク先には引退と間垣襲名会見のニュースがあった。
引退はさみしかったがその何倍も復帰が嬉しかった。丸坊主になった時天空は、痩せていたけど想像していたほどではなかった。しかし、目を真っ赤にして涙を流しながら会見していてはっとした。わたしのなかの時天空は、土俵の上のむすっとした顔でしかなかった。しかし仕事だからそうしていただけであって、こんな心許なさそうな表情もするんだと思ったらこみ上げてくるものがあった。でも同時に、モンゴル人力士のなかで真っ先に日本国籍をとり年寄名跡を持っていたことを知り、さすが時天空だと思った。ぜひ後輩を指導してあの足技を継承してほしい。引退はとてもさみしいことだったけれども、帰ってきたことに対する嬉しさのほうが何倍もある。
お相撲さんやっぱり違うな!と思った。元々の体力があるから病気も治るんだな!よかったよかった!わたしは安心してはしゃいでいた。
その後すぐ元時天空、間垣親方は大相撲中継で向正面で解説をしていた。名前を呼ばれると「ハイッ」といい返事なのがかわいくて、それと現役時代と比べて顔が少し穏やかになっていた。時折満面のスマイルを見せるので、うおー時天空こんな一面もあったのかー!とさらに好きになった。解説も日本語が上手なだけでなく的確で詳しく、ついこの間まで幕内にいただけあってこの人と組んだ時はこうだったああだったと、話が尽きないので、聞いていて楽しくためになった。力士たちは「時天空関ととるのは嫌だった」とか「もう二度ととりたくない」とか「足技だけは教えてくれない」とか言っていて、声に出して笑ってしまった。
時天空という力士が幕内からいなくなってしまったことは残念だったけれども、これだけ解説も上手だったら楽しみなことが増えたと思っていた。当時は大島親方だった旭天鵬も、もう一度断髪式すればいいって言っていてその通りだと思った。
わたしはそれからすっかり安心しきっていて、その次の場所で間垣親方が休場していることを全然知らなかった。テレビの映らないところで警備とか協会の仕事をしているんだと思い込んでいた。でもそんなことはなかったらしい。元時天空の間垣親方は、2017年1月31日に亡くなってしまった。
時天空が好きだった。全く知らない人の「時天空サッカー」というツイートを見たときに、なぜだか明確に好きだと思った。モンゴルの平原をまわし姿でサッカーする時天空。似合う!足技はブフで培ったものか柔道で東農大にスポーツ交換留学に来た時のものかと思っていたが、柔道部だったころはそこまで足技に力を入れていたわけではないらしいとも聞く。ではあの足技はなんだったのか?やってみようと思ってやってみたらできたのだろうか。乗馬で鍛えたインナーマッスルが、相撲にも活きたのだろうか。
朝青龍のことを知って、自分もいっちょやってみようと来日して入門。稽古をしながら大学にも通い、卒論を日本語で書き上げたというスーパーマンぶりには目を見張る。卒論のテーマは「ダイナミックモデルを利用したモンゴル国の人口動態に関する研究」、興味深い。
わたしはにわかファンなので、相撲を見始めた頃の時天空はすでに30代なかばのベテラン力士。幕内下位定着たまに十両陥落くらいのイメージだったが、三役経験もあるし前頭一桁代だった時期も長い。時間前に立ち会いをしたり、まわしがとれかけたり、なかなかにバチバチだった時代があったようだ。
亡くなったことがどうにもショックで、当時は巡業の写真などをずっと探しては見ていたのだが、土俵の下ではにこにこしている写真ばかりで意外だった。名古屋場所でトゥクトゥクに乗っている写真。赤ちゃんをだっこしている写真。後援会の人たちとじゃんけん大会をして負けているところ。ウインク。
解説の動画を探していていたときに、酔った時天空が「iPhone4で彼女の顔を見ながら電話したい」と言っている動画を見つけてしまったりした。時天空はとても楽しそうで明るくていつも笑顔で、すごく人生を楽しんでいるように見えた。幸せそうだった。解説の時もそうだった。見ているこっちが笑ってしまいそうになるくらいだった。
一年経った今でも時天空のことを思い出す。病気さえなければまだ幕内で相撲をとってたのではないかと思ってしまう。足で足をバーンと蹴ったりひっかけたり、器用に相手のバランスを崩して勝っていたと思う。
時天空が亡くなってすぐ、入門直後はきまり悪くなると日本語がわからないふりしてごまかしていたこととか、部屋が世論で問題視されていた時に懸賞金を手紙と共に返したこととか、時天空の人となりが感じられる話が世に氾濫して、そのどれもに心動かされ泣いてしまっていた。でも、亡くなってしまってその話を知るくらいなら、知らないでいていいから元気でいてほしかった。じゃんけんが弱いのもお酒が強いのも知らなくてよかった。おっかない顔の足技師としてにやにやさせてほしかった。40歳までは関取だと思っていた。やっぱり、あまりにも早すぎたと思う。
日々、自分の頭の中を好きなものでいっぱいにしていないとやっていけない。時天空もまさにその一部だった。でもその部分は時天空の形の穴になって、他の力士で埋めようとしてもなかなか埋まらない。時天空は、お腹は出ていたけれども膝下が不安になるくらいほっそりしていて、他の力士はそこがひっかかってしまうから駄目だ。
時天空は膝下に脂肪がなくてひきしまっていて美脚だった。その脚が器用に動いていた。またあんな足技が得意な力士が出てきたら面白いけれども、でもたとえ出てきたとしてもそれはまた別の力士で別の魅力があるんだろう。だから時天空の形の穴は埋められないのかもしれない。埋めなくてもいいのかもしれなくて、埋められないことそのものが、時天空という力士が代え難い魅力を持っていたということの証明なのかもしれない。
追記:ニュースで相撲関係の悲しいことばかりが続いてつらくなる。口に出すのもおぞましいような表現で特定の力士を侮辱する言葉はもう見たくなくてインターネットが縁遠くなる。協会のこととか理事長選とか、にわかファンのわたしにはよくわからないしあまり興味もない。わたしはただ、土俵の上で色んな力士がそれぞれの最高の状態で相撲をとっているところが見たいと思う。それを見てわくわくしたいと思う。
博物館は昨日もやさまでみたイタリアミラノのドゥオーモみたいな内装してて、もろにテレビの影響受けてる夢だった
仏像とか絵がたくさんあった
日本でよく見るようなのもあった
でもそれ以外の展示品が不気味だった
仏像っぽい絵・像なんだけど、肩から上がボウリングのピンみたいな形してて、細長い顔してる
普通にまっすぐ立ってる絵・像ならまだいいんだけど、
それが横向きに倒れたりしてるのもあって、どうも見てて不安になる感じだった
隣にいた妹に、これなんかおかしくない?不安になるんだけど・・・って言ったけど、
別にふつう・たいしたことないと言われたのでなんとなく不満に思った
岸は草原が30度くらいの角度で海?川?に接してて、結構角度は急だったけど、
のび太のお祖母ちゃんをタイムマシンで現代に連れてきて、泥酔したのび太のパパ(=お祖母ちゃんの息子)に会わせたところ
パパが泣きながら仕事の辛さを訴え始めたシーンで、ドラえもんがそっと口にした感想だ
のび太のお祖母ちゃんは故人だけれど、亡くなっていなくてもこの年になると、
親と言えど弱く小さい、何ならもう自分よりも体も小さく頭も古い、頼りない一人の人間でしかない
親がそうならそれ以外の他人は尚のことだ
無邪気に不満や繰り言を訴えて受け入れてくれるような、大きく頼れる存在はどこにも居ない
神様というのはきっと、大人のそんな寄る辺ない気持ちに応じて生まれた、必要不可欠な発明なのかもしれないと思う
俺はどの宗教も特に信じていないが、心の中で神様に語り掛けたいと思うことが増えた
奇跡や裁きは与えてくれなくていい
とりとめもない泣き言や愚痴を、苛立たず、心痛めず、無理もせず、ただ静かに聞いてくれるだけでいい
神社で手を合わせるのは、少しの間だけそういう気持ちを叶えてくれる
けれど、そういった偶像や象徴だって誰かが維持管理しているのだし
行ったことはないが教会の懺悔室などは、もっと直接的に神職の人が懺悔を聞いてくれるのだろう
20歳前ぐらいまでかなりのデブ、本と漫画好きで見た目にほとんど気を使って無かった。ていうか私服がジャージだった、紫の。親も健康であればいい、あっはっは!って感じだったし。
初めて恋に落ちて、体重半分にして、化粧や服も覚えた、妄執的に。立ち居振る舞いも女性的に変えて、世界が完全に変わってしまった。主に自分の周りが。
まずモデルとかイベコンに誘われた、詐欺じゃないやつ。お礼付き合コンにも呼ばれるようになって、とにかくチヤホヤされるようになってしまった。
元々他人と喋るの好きだし、人を笑わせることに対してのプライオリティ高いからコミュニケーションは苦にならないんだけど、「美人だね」「素敵な女性だね」という形容が未だに慣れない。
分かんない、どう返したらいいのか分かんない。これ言われると高確率で変顔するか、エッ生まれて初めて言われた…と仏像拝む真似をしてしまう。
そりゃ美人に少しでも近づけるように、街中美人ウォッチングとか、キラキラ女子会潜入とかして一生懸命勉強したけど、中身は完全にジャージであんバタコッペパンもっちゃもっちゃ食ってるデブスのままなんだよ。
最近ようやく「ありがとう、嬉しいな」と笑顔で返すという高度なテクをキラキラ女子から学んだ。キラキラ女子会は心辛すぎてなんか理由つけて1時間で早退するけど。ありがとうトップキラキラ女子。
色白だねって言われても休日布団と仲良ししてるだけだし、目が大きいねって言われても元々肉壁に圧迫されたゴマ目だったからよく分からんし、背が高くてモデルさんみたいだねって言われてもそりゃ身長170もありゃ足も26あるウドの大木系女やぞコラ。
卑屈になってる訳じゃなくて、やっぱり努力した過去があるから、それなりに嬉しいものはあるけどとにかくずっと違和感がまとわりつく。
君たち肉団子って呼んでたやん…。走るより転がった方が早いんじゃね?って笑ってたやん…思わず転がってみたわボケ。
肉団子って言ってた小学校の同級生から、年末帰省したら二人で飲もうよ!って突然優しくしてきたから吐き出してみた。デブ無情。
ほかに書くところがなかったのでここで。怒りに任せて書いてるので文が乱れるかもだがご容赦いただきたい。
タイトルの通り。
もうずっといわゆるネトウヨが大嫌いなんだけど、ヘイトメーターが振り切れてしまったのでここで発散させてもらいます。
なんなんだお前らは。
お前らに言わせるとTBSもフジもテレ朝も反日の偏向報道だらけなんだろ???
報道ステーションとか嘘の塊だとかずーっと騒いでたよな。
なのに自衛隊の予算削減についてはそっくりそのまま報ステの報道信じて画像を無断転載ですか。あーそうですか。
バラエティ番組を漫然と見てるのはバカな女子供かヒマなジジババって言ってたな。
なのにマツコがちょっとインスタ女子を揶揄するとマツコ様は神ですか。(これはネトウヨとちょっと違うか。でも層が一緒だったぞ)
とにかくな、俺は正義の味方、自分だけは騙されない、自分だけは正しい政党を信じてるお前らはバカだのスタンスが大っっっ嫌いなんだよ。
気持ち悪いんだよ。
自分のこと客観的に見えてるつもりなんだろ?いつぞやの総理と一緒だな。
これを読んだお前らがなんていうかわかるぞ。
そうだよ、左翼もどうかしてるんだよ。
沖縄の過激派とかな、アッベヤッメッロのコールとかな、俺も大嫌いだ。
だがな、お前らも気持ち悪いんだよ。同等なの。
よくお前は○○よりはマシとか平気でのさばるよな。
え、○○よりマシってだけであんたらも十分おかしいけど???って案件ばっかだからな。マシ=自分たちはセーフとか思ってるんじゃねーぞ。十分どうかしてるからな。
その通りだな。俺もそう思う。
だが今回は個人的なネトウヨへの怒りだ。ツイッターでフォローしてるリアルな知り合いがま〜〜〜アホみたいなリツイートばっか回してくるからイライラしてたんだよね。
左翼(お前らはパヨクとか気持ち悪い呼び方してるんだっけ?)へのヘイトはヘイトメーターが溜まり次第投下するからな。待っててくれよ。
話を戻そう。
次にお前たちがなんていうか。
はああああああああああ?????
え?君たちちゃんとニュース見てる?
テレビ嫌いな君、ネットニュースでもいいよ。今アメリカどうなってる?
自称愛国者が世界中から叩かれてるよな。いいか、あいつらは"自称"愛国者なんだよ。お前らと一緒。
あいつらが好きなのは祖国じゃなくて祖国を愛する自分なんだよ。
本物の愛国者は自分たちの行動が他国から見たらどう思うか考えて行動してるんだ。みっともなく見られないようにってな。決してそれは卑屈なわけじゃないぞ。
ネトウヨと完全にイコールではないけどほぼ層が被ってる嫌韓厨ども。
「そんなこと言うお前は朝鮮の工作員に違いない」って書き込もうとしたろ。
俺も別に韓国が好きなわけじゃあない。俺も日本人として、慰安婦の問題(慰安婦自体がいたかどうかの論争はややこしくなるからこの際やめておこう。今言いたいのは像を並べちゃったりするやつね。あれは慰安婦の存在うんぬん置いといてもヘンだと俺は思う)とか、仏像盗んじゃったやつとか、オイオイオイと思うことはいっぱいあるよ。
でもな、だからっつって気にくわない人間を朝鮮人扱いするやつ、俺は双方の国に失礼だと思うぞ。
まとめサイトのコメントとか犯罪者はすーーーーぐ韓国人にしちゃうもんな。今までお前が書き込んだコメント、母ちゃんの前で読めるか?
自分が信じたい情報にすぐ飛びつく。その情報をなーんの確認もせずに拡散する。嘘松とかすぐ見破って騙される奴はバカだとか言うくせにな。テレビの情報を鵜呑みにしてる奴は選挙に行くなとか言うくせにな。
今まで「お前ら」ってずっと言ってたけどな、これ昔の自分なんだよ。
中学生の時にお前らみたいなネトウヨでな。選挙で民主党が第1党になった時は君らと一緒に絶望したもんだよ。懐かしいなあ。
俺が何かおかしいとふと気付いたのは高校のころまとめブログ運営していた時。
ネトウヨ、嫌韓を煽る記事はま〜PVが伸びるんだよ。いい気になって気づけばネトウヨ御用達ブログになってた。
そこでな、あまりにもコメントの偏りが酷くて気付いたんだよ。俺はこの波に飲まれてるんじゃないかって。自分で考えて自分で左翼を嫌っている自分こそ愛国者だと思ってたこの感覚は、この波にさらわれているだけなんじゃないかって。
気づいたその日にブログは消した。
つまり俺は君たちのようなモンスターを生み出した一因なんだよ。
ネトウヨ思想の波を作り出したのは君たちでもあり、僕でもある。
御察しの通り仕事は相当きつい。間違いなく世間で言うブラック企業だ。その点ではこの会社、業界が嫌いだ。
それでもこの業界でなんとかやってるのは、みんな誇りを持って仕事をしてるからだ。俺もあんなディレクター、プロデューサーになりたいなって思いながら日々クソみたいな雑用をこなしてる。
どんな誇りか。「絶対に正しい情報を伝える」っていうプライドだよ。
そこらの飲食店のメニューの値段一個テロップで出すだけでも何重にもチェック入るんだぜ。
だからフジのガリガリくん問題とか、ちょっと話は違うがTBSの借りた資料無くしちゃいました問題とか、そういう適当な仕事してるやつも大嫌いだ。
こういうやつも世の中にはいる。だからテレビを信用してくれなんて言わない。
テレビを見なくてもいい。だが見ずにテレビを嫌いと言わないでくれ。番組を批判しないでくれ。
お前らが大好きな絵師は安請け合いとか仕事をバカにされるツイートするとすぐ同情されていいよなあ。
絵師に同情してるやつがテレビ屋には一律に厳しいんだぜ。辛いよなあ。
まあ仕事辛いの話はここまでだ。あんま言い過ぎてもカッコ悪いからな。
今回言いたいこと、やっと言うぞ。
その結果自民党に入れても、希望の党に入れても、全く文句はない。言う筋合いがない。
だがな、そこのネトウヨ、お前は自分はテレビの情報に騙されないぞ!って言ってネットのみんなが入れてる自民党に入れるだろ。
それ、お前が言うところのテレビに騙されて希望の党、立憲民主党に入れてるっちゅうやつとやってることが全く一緒だからな。
その自覚があって好きな政党に入れる奴はもう勝手にしてくれ。何も言うことがない。
ただ、これを読んで、あれ?と思った奴、よくよく考えろ。一晩考えて、自民党に入れたいと思ったら自民党に入れろ。もちろん他の党に入れたければ入れろ。
ネットを使いこなしてるってことはもうお前らは大人だ。選挙に行ける奴は全員大人だ。
ここまで付き合って読んでくれた人、本当にありがとう。ぐちゃぐちゃな文ですまない。
書いててイライラが収まったよ。
彼とは友人の紹介で出会った。前情報から趣味も合いそうだし、写真も好みだったし、早く話してみたいなと思ったうえで顔合わせ。
うん、やっぱり好みだった。なんというか、ピンときた。彼の頭のてっぺんからつま先まで全部いいと思ったし、一晩にして惹かれてしまった。人を好きになったのなんて、いつぶりなのか。
彼とは連絡先を交換して何回かデートした。おしゃべりは毎回はずんだ。劇場でミュージカルを観た。おいしいクラフトビールを飲んだ。不思議なかき氷を食べた。少しお高いオムライスとハンバーグを食べた。デミグラスソースかトマトソースかで言い争った。美術館に仏像を観に行った。海辺の花火大会へ行った。終電に2人して駆け込んだ。東京のど真ん中でベロベロに酔っ払った。帰り道に初めて、ほんの少し手をつないだ。
そうして、ひと夏で我々は仲を深めた。両思いだった。お互いそう確信していた。口にはしないけれど。
お互いに20代後半。
私のほうは恋人とか結婚とか諦めてた。でも、こんなふうに突然、こんな恋愛ができるなんて、人生捨てたもんじゃないって思った。毎日楽しかった。彼のことが好きで、彼といるととても楽しくて、知らない自分にも出会えた。
単純なことに、仕事にも張り合いが出て、新しいプロジェクトを任されたり、自分から積極的に手を挙げたりした。何もかも意欲的。うん、人生順風満帆。
しかし、何事も終わりは突然やってくる。
彼とは一緒にいられなくなった。私のとある一言がきっかけで「自分たちはこの先、うまくやっていけないね」と言われた。
意外にもこれは、私も同じ意見であった。そういうところも気が合ってしまうんだなー、と冷静に思う。
私のとある一言はここでは明かさないが、紛うことなき本心であったので、そこで食い違うならばこの先は一緒にいてはいけないと、私も判断した。発言したのは意図的ではない。だからこそまさに本心だったわけだけれど……。
(ここで自分を庇っておくけど、友人いわく「たしかに、どっちが悪いということでもなくて、お互いに譲れない信念なんだろうね……」とのことです。毎年誕生日には100万の指輪くれなきゃイヤ!とか言ってないです)
すごく好きになった相手と、その相手から好きだと思ってもらえても、付き合ったり結婚したり、というわけにはいかないのだと、20代後半にして気づいた(もちろん私が特殊なだけだとは薄々……。好きな人と結婚して幸せそうな人はたくさん見てるし)。
だから?私にはもう恋愛結婚は無理だと諦めて、おととい結婚相談所に登録してきた。担当の方に「一緒にがんばりましょうね!」といわれた。そうだね、がんばらないとね。
正直いうと、未練がいまになってわいてきてしまった。だからここに書いた。「思い出」として昇華してしまいたい。向こうの連絡先はもう全部消したし、共通の友人にも(ぜんぶ終わった後だけど)事の顛末はすべて共有済み。友人には結婚相談所に登録したことも言った。後戻りはできない。彼のことを好きだったことも良き思い出とする。
大人の恋、っていうか自分勝手な私に恋は難しすぎた。まじ無理ゲーだろ。お互いに好きなのに!一緒になれないとか!なんなの!!!頭ではね、わかってますよ!でもね!そんなに簡単に割り切れるかよ!!!あーあ!ばーかばーか!!!
とか思うけど、まだひとこと何か伝えられるなら、
大阪なんて嫌い、穴モテできないから。根暗のガキは大阪人にとってはただのブスらしいよ。てか美醜の価値観が下品やわ大阪、黒髪で裸眼でつけまもマツエクもしてないんが気に食わんのか、そのくせ若干男を出しながら、「何歳児~~??w」とか言いよる。ガッサガサした飲み屋街以外いいとこあらへん、ガッサガサした飲み屋街は最高に楽しいけど、ガッサガサが活かせるとこなんて飲み屋街しかあらへんのに、ガッサガサした気分でコミュニケーションを図ってくるやろ。嫌やねんあれ。シラフでそれなんですか?下品ですね。その点奈良は神だよね。京都は陰湿で嫌。オカマの立ちんぼのナワバリに迷い込んで噛み付かれたことあるもん。わざわざ繋がってないアイフォン耳に当てて、何らかの人に連絡してますよみたいな感じで、東京から来た女がなあ!自分から誘ってはるんよ!じゃあ、ないんだよ。誘ってねえわ。ただスマホいじってるだけで入れ食いやんけ。ば~~か!!先斗町はいいとこだけど。おでんが旨いし、冬におでん食って熱燗いくやろ、最強。神。陰湿以外は神の京都。奈良はすべてにおいて最強の神!!仏像がいっぱい、鹿もうじゃうじゃいる。曼荼羅とか、阿修羅像とか、国宝とかがいっぱい見られて、他はなんもない。ドンキすらない。ドンキない以外は神だけど、補って余りあるほど、東大寺が、サイコー!!奈良は神。神戸は見習え。神戸はバカ
日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、
天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、
大聖人様の御教示ではないのです。
迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、
決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。
大聖人様は『治病大小権実違目』に、
「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、
本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています。
法華経本迹二門は、
その説かれる法体においても勝劣があり、
しかし日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手な解釈を加え、
「本迹一致」の邪義を主張していますが、
宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。
それを要約すれば、
二、釈迦一体仏
三、大曼荼羅
四、一尊四士
五、二尊四士があり、
このうち一、と三、を法本尊、
二、四、五、を仏本尊とし、
その中心は三、の大曼荼羅と、
四、の一尊四士であるが、
祖書の教示等に照らし、
『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。
末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、
「仏像出現」の語句によって本尊は仏像が正意であるとしています。
末法の仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。
後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、
あくまで現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。
「此の時地涌千界出現して、
「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、
一尊四士が正意であるとしている。
しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、
との御教示ではありません。
法本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」
「妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅は文字は五字七字にて候へども、
三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅は仏滅後二千二百二十余年の間、
十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」
日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、
【補足】
(二、)釈迦一体仏
あいつらは「批判」をすっごい悪いことって意味で使ってるの。
「批判」は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。
批判は、すごくネガティブな、ピースフルでない、縁起の悪い行いなわけ。喧嘩とかケチ付けってことなわけ。
と、ここのコメントの1つ
研究者の頭脳と時間を、違うことに使いすぎている - 日経テクノロジーオンライン → ブコメ
基礎研究と応用研究、政治家はアカデミズムと算数ドリルがまだ区別できておらず「基礎なんかすっ飛ばして最初から応用問題が解けた方が効率よいし偉くね?」って本気で思ってそうなくらい、基礎研究軽視だからなー
2017/06/24 17:10
なんで歴代ノーベル賞受賞者の面々が口を揃えて異口同音に「日本は基礎研究に予算かけなさすぎ」って叫んでるのに、政治が一向に基礎研究への予算配分増に対して及び腰なのか、
一方で金欠だ振興費はもう頭打ちだと言う割に「チョコレートで脳が若返る」とかいう、明治のPRにノせられスライドだけ無駄に立派なトンデモ似非研究に内閣府が飛び付いて、予算がすんなりタンマリ通るのか、自分の中で勝手に謎が氷解した。
いつもなら「選ぶ側の政治家が科学や研究学問に対して無知無理解だから」「真偽を判断するだけの科学リテラシーと知識が無いから」で済まされて、最終的に「日本の政治家がバカばかりなのが悪い」と結論づけられるが、
多分それだけじゃない。使ってる言語体系と価値観の相違も勘定に入れるべきだったんだ。
つまり、内閣府の皆さんや現行の政治家の皆さんの多くが「基礎研究」「応用研究」の頭に付く「基礎/応用」という修飾語を、我々と違うニュアンスで捉えてるかもしれない、ってことだ。
・「基礎研究」と「応用研究」(大学や研究機関)
・「基礎問題」と「応用問題」(数学の問題集)
似てるようで全く異なる両者を、同じ意味でイメージしていらっしゃる可能性が非常に高いかもしれない…ってことだ。
つまり
「基礎研究というものは、延々と3+(-4)=-1… みたいな、計算ドリル初歩の練習問題を繰り返してつまづいている段階であり、それすらすぐ正答できないという事は無知で後進的で恥ずべきこと。
基礎なんかはもうとっくに出来てる前提で、応用研究(問題)がスラスラ解けるようになる事が到達目標であり良いこと。だから限られた研究予算は、基礎研究(問題)なんかをいつまでもダラダラやってる子(大学)よりも、
成果がすぐ見える応用研究(問題)をいっぱい手がけてる優秀な子(大学)に優先して配分するよ!」…という盛大な勘違い価値観のまま、表彰対象を選んでる可能性がある。
…いやそれも「連中が無知なのには変わりないだろ」と突っ込まれるかもしれないが、純粋に知らないのと、知ったつもりで誤解したままなのでは話が別だ。
もし「基礎<応用」という上記のニュアンスで捉えている人が多かったら、科学者の"基礎研究を大事にしろ"の声が政治家に届かない理由も分かる。
"基礎研究なんて膨大な無駄の中からほんの少し凄いものが出てくるって世界(id:k_oniisan)"っていう正論も、「基礎の段でつまづいてるような出来の悪い子が、こづかい減らされるのを恐れて出来ない理由と言い訳を並べている」
としか受け取られていないかもしれんわけだ。たまーに偉いノーベル賞受賞者の先生が擁護して同じことを言っても、「出来の悪い子を、自分の身内やお友達や生徒だからって庇い立てしてるだけだ」と見做されているわけだ。
他方、基礎を終わらせて、もしくは基礎を飛び級して、成果の出る研究、金になる研究、応用研究に軸足を移し、先駆けて沢山手がけている子こそが優秀であり、高効率であり、限られた科研費の優先投資先として
相応しいのだと。そういうロジックで選んでるのだとしたら、民間企業協力のキャッチーな予備実験や仮説もどきの方が最先端研究だと持て囃されるのも実に納得だ。
そりゃ平行線にもなるわ。
書いてて絶望的になってきた。自分だけの思い込みかもしれないけど、これで科学立国とかマジで無理ゲーじゃね?
思った以上に賛否色々とブコメ、トラバを頂き、話題をすぐ畳むのが勿体なくなったので折角もう少し風呂敷広げてみよう(広げた後に収拾する気があるとは言ってない)
・id:outalaw 「予算」という言葉がすれ違っていそう。科学者たちは恒久的な人件費を含めているが、行政は一時的な雇用費や物品費こそ予算と捉えており、行政のいう予算は横ばいだが科学者のいう予算は減り研究時間も減っている。
・id:death6coin トランプアメリカはもっと低い次元にいそう/http://www.nistep.go.jp/archives/32530によれば予算的には減っていないが出どころが変化しており、研究者に成果へのプレッシャーがあるのではないかとの分析がされていた。
確かにその可能性も高そう。年度毎に補助金申請書を書き直さなくてもよい永続的フローが保障される事を要求する研究者サイドと、◯期活動分のキャッシュを確保することに奔走し、科研費増なんて出来るわけがない現実を見据えてる政治家サイド。
かたや「基礎研究への予算が増えない」と嘆き、かたや「予算は水準維持してる」と主張するのも、どちらかが嘘付きって事ではないはず。おなじ「金」のことを話してるんだからすれ違うはずがないと思いきや、両者の中で定義が違うままと。
で、河野太郎の研究者の皆様シリーズもまた、ブクマ上位によく来る人気エントリだが、結局できる事は"成果を生まない大型プロジェクトをつぶしてほかのことに振り替えるか、または成果を生まない研究者の予算をほかに振り替えるか"
実際上記の通りプレッシャーかかってますね
*id:kaeuta 馬鹿にしたい気持ちはわかるが、今の政権は経済産業寄りという点に尽きる気が。国民感情的に「膨大な無駄」が許される状況ではなく、基礎研究がすぐに金を生まない以上、金になりやすい応用研究が推進されるのだろう
*id:mainasuplus 増田にもあるけど、短期的に金になると想定される分野にしか研究費を突っ込みたくないのだろう。基礎研究や文系学問に研究費が落ちてこないのはほぼこれに尽きると思う。
予算は限られてて、社会保障費並の伸び率で野放図に増やすわけにはいかない。じゃけんせめて、振り分ける対象の厳選仕分けと優先順位付けくらいきちんとしましょうね~ という大筋は正しい。
が、それでも「基礎研究に割り振る比率はもう十分与えたから、与えられた枠内で工夫するか減らすかしてね」には強く反対する。
また抽象的な例え話に飛ぶが、国民も政府も喉が渇いてて、収穫すればすぐ生食できて喉が潤う万能フルーツ『成果』の大規模栽培を皆が渇望しているわけで。
収量予想や収穫期限コミットまで厳しくガン詰めされているので、使える湯水(金)も限られ、なおさら『成果』を優先栽培する以外に選択肢はないわけで。
でも、その『成果』を栽培するにあたって必須となる土づくりと肥料、その名も『基礎研究』…これは今すぐ食えるモノじゃないし成功の保障も低いから、金かけるのは後回しにしてね。そう言ってるわけだ。
もしこれから科学事業を再び仕分けていくにしろ、まかり間違って奇跡が起き科学振興予算が倍増するにしろ、上記の思想ベースである限り、どれだけ湯水の如き金があっても、きっと土壌と肥料は最後まで後回しで、
皆こぞって効率良い『成果』の密植技術開発に明け暮れるのだろうね。やがてサイエンスという土壌は、キャパを超えて過剰密植された『成果』に養分を吸われて徐々に痩せてゆき、追肥もされないので
最期は何も生えない不毛の大地だけが残りましたとさ。めでたしめでたし。
これには強く同意する。事業仕分けとかで管轄範囲の権益を侵さない限りは、知った上で正しく確信犯として野放しにしてる感
「ボケ、痴呆→認知症」っていう事例もあることだし、たかが言葉遊されど言葉遊び、形からでも変えてみる意味はあるかもね。
但し、「障がい者、子ども、メクラチビゴミムシダマシ」のように、無理に言葉狩りして理念が追い付いてない、仏像彫って魂入れずだと反感を買うおそれもあるね
ほんとこれなんだよね。
関西に住んでいた人に、「埼玉に古墳あるから」といっても響くわけがない
石舞台古墳や百舌鳥古墳群あたりの有名どころが日常にあった人に対して、
関東の古墳提案されても「へーじゃあ足を延ばして見に行こうか」なんて思う人は
よほどの古墳好きだし、そういう人はすでに行ってるだろう。
確かに価値ある展覧会は東京でしか見れないものも多いので、私も上京した当初は楽しみにしていたが、
人気館は、土日は死ぬほど並んで、やっと入れたら大混雑、立ち止まってじっくり見ることすら許されない。
ベルトコンベア状態の観覧なんか落着けないので行かなくなった。
増田が言いたいのは本人も書いているけど、「特別凄いものがあるわけでもないところに人だけが凄い」ところで
場所にしてもイベントにしてもお店にしても食べ物にしても、実は大したことがないものを「これは凄い!」と煽って大行列になるのって
じゃあ何がおすすめできるかというと、
もし増田が寺社や仏像が好きなんだったら、関東では期待に応えられないから諦めろ。と言うしかない。
ただ、東京のお神輿が出てくるお祭りは、江戸っ子って感じで関西では味わえない魅力があるし
旧伯爵侯爵が住んでいた西洋建築物、赤坂の迎賓館(事前申込制だが)などの明治時代の建築物や庭園はお勧めできる。
関東に来たら、地域にある小さな神社や寺を楽しむ術を身につけることをお勧めする。
たとえば神社の境内には、縁起の碑、末社、御神木、忠魂碑、ほかには伊勢神宮参拝記念碑、何か地元の偉い人の銅像などがあったりする。観光地の寺社のようにわかりやすい歴史はないが、その地域の歴史に対する想像力をかきたてるものがそこかしこにある。
たまたま人がいれば、気軽に話しに応じてくれることが多い。ある小さな町の観音堂で、管理している地元のおじさんから、お茶をもらいながら2時間くらい、堂の管理方法から息子の自慢話までを延々聞かされたこともある。観光地ではこういうことは基本的に経験できない。
寺社の建築や仏像などが好きだとか、門前町の賑わいが好きだとかいう場合はまた話は変わってくるけど、歴史が好きなのであれば、小さな地域の寺社も楽しみ方次第だと思う。
昭和の集合住宅に住んでいて平成不況と人口流出で空室が多いんだが、火災報知器が昨日誤作動して消防出動の事態になったからか、工事をしていてうるさい。うるさくてつらいので、ヘッドフォンで昔に買った音楽を聴いている。それでふと思い起こしてこの人のブログを見たんだが、いまも死んだペットのことに執着しているらしい http://ameblo.jp/mariko-kouda/entry-12243053638.html
さて、私は仏教徒だから遺骨には執着しない。遺骨に後生大事に執着するのは儒教徒だ。ちなみに中国で仏教と儒教が習合してしまって渡来したから日本では混同されている。
私は数年前にもペットが死んだけど、遺骨は残さずにパアッと処分してしまった。私は、片親殺されているが、親の遺骨を相続したくないし、親の遺産も相続したくない。
遺骨が残るのは、超高温でもなければ燃え残るからだ。火葬にするのは、インドではおそらく、遺体が腐ってむごくなるのを避けたかったから火葬にしたわけで、そうやって火葬された人の霊魂は報われていいとこに生まれかわると信じられていた。だから、偉い人、偲ばれている人は、火葬にされる。火葬にもされなかった人はいいとこに生まれかわれないと思われていた。
遺骨は残さない方が本当はよい。遺骨に執着するのは凶相だ。ちなみに世の中には「お焚きあげ」というのがあるが、捨てるに捨てられないものを焼却処分してもらう、ごみ処理である。以前流行った(流行らせた)ことばでいえば「断捨離」である。例えば写真にしても、焚きあげて処分してもらう。それを、いまでも世の中にはなんでもかんでも写真に撮りたがる人々がいるが、画像データが大変だ。そして、見て記憶に残すことを忘れて、カメラで撮るのに必死になっている。
「千の風になって」ではないが、遺骨はナノ単位にでも砕いて風葬にでもした方がよい。それとも、処分に困ったら一心寺にでも持っていけばいい。遺骨を墓碑か寺院にでも納める人は多いと思う、遺骨を手元に置いて仏壇にでも納めていると大変だ。ましてや、遺骨や位牌に執着して逃げ遅れて死ぬ人がいるが、正直に言って客観的にみて、滑稽だ。
遺骨は生きていないし、生前のものでもない。古代エジプト人ではないから、ミイラにしたらいつか復活するとも思っていないし。
生きているというのは状態であって、実体ではない。生きものというのは状態である。
死んでもうこの世にない生きもののことは、記憶には残る。忘れられない。しかしその記憶も所詮は細胞の状態でしかない。記憶している人もそのうち死ぬ。残された記録もデータであって、実体ではない。
日記であろうが、枕草子であろうが徒然草であろうが愚管抄であろうが、経典であろうが、データである。日本では驚異的なまでに昔の経巻が保存されているそうだが、それも経巻の内容より経巻そのものに執着し信仰してきたかららしく、「御真影」ではないが火事になっても必死に経巻を運び出したからだそうだ。しかし経巻を後生大事にとっておいてもしかたがない。それなら中村元の岩波文庫のやつでも読んだほうがよい。
そうならないのは、貴重な経巻が残っているということが寺院の資産であり「箔」が付くからでもあり、それで檀信徒から財施(供養)をもらっている。法要にでもなれば、漢訳経典を暗誦するんだが、聞いている方は意味不明だ。我々は漢文のネイティブではないし、そもそもその漢文はいま「生きている」言語ではなく中国に行っても話さないだろう、ラテン語みたいに学術上のものでしかない。それでもその檀信徒が財施をするのも、彼らがモノに執着しているからであり、だから古い仏像とか経巻とか建物とかをみて大したもんだといい、布施をするのである。そして、経典の中味ではなく、経典を読むこと自体が目的化している。
あの人も、遺骨もアロマドームも生きていないしうまくすれば朽ちないだろうから、後生大事に持っていれば何十年後かわからないが自分が死ぬ方が先だろう。
忘れられないのはわかるし、忘れてはいけないのかもしれない。死なないと消えない記憶というのは、ときには快いかもしれないし、ときには残念かもしれないが、ある。空襲だか「鉄の暴風」だかに遭ったり、ベトナム戦争だかイラク戦争だかに行ったりした人は、忘れられないトラウマが残ってつらいものである。ヘタすれば人は80年とか100年とか生きられてしまうから大変である。しかしその記憶もデータであって、細胞の状態である。
本当に火事になったら私は死ぬかもしれないし、そうでなくとも私もいつか死ぬ。いま聴いている音楽も、データでしかなく、ディスクがクラッシュでもしたら消える。人類が滅亡したらヒトの遺伝子も失われる、それがいつのことかは、ちょっと、わからないけど。
それにしても、あの人もそのうち50である。どうなんだろう。たしか40を「不惑」とかいったと思うが。当人も、未だに残っているファンも、互いに執着して、共依存して、期待される姿を互いに演じて定着してしまっているということもあるかもしれない。しかしそうした姿は、私の望んでいることではなかった。
文化大革命は中国共産党主導による中国の倫理論の変革だ。下層階級を党主導部が利用し、寺院や仏像などの古来の文化を破壊する事件が相次いだ。多数の死者をもたらしたとされる。
中国の文化大革命は主に政府にとって目障りなインテリ層を中心に粛清された。技術者・富裕層、一部の農民・・・そしてそのような政治劇が1976年まで繰り広げられた。そしてこれは、実は日本ではいつ起きてもおかしくないのかもしれない。
日本の中にある貧困崇拝は非常に内向きの古臭い発想だが、これが日常生活の中に持ち込まれたのが日本版ラテン思想だろう。これはまさに文化大革命時の毛沢東思想に近い。文革期の中国共産党の富裕層に対するの敵対意識と、現代日本のインテリ・富裕層叩きは、私には非常に類似点が多いと思うのである。
日本のこういった発想は、とある大学生によると富裕層でない階級で青年期を過ごした人間が富裕層になり、彼らの振る舞いに不満を抱いた人の思想が広がったことに由来するという。この思想はそもそも古くない考えである。私の知る限り、2000年当時にはありえない考え方であった。
それ以前の日本(今でもそうかもしれないが)は金持ちを目指すことが美徳とされ、貧しいことはむしろ恥ずかしいことであると言われていた。ちなみに、この考え方は2010年代前半ですら通用した常識である。
私は月に1000円~2000円払ってロト6やロト7を買っており、億単位の賞金が当たることを見越して様々な研究をしていると、富裕層叩きを見るたびにないと思う。昔は無機質な中間層と違う趣のある文化に憧れていたが、後で知ったのだが、今増えている富裕層は最近まで中間層は貧乏人だったもので、もともと富裕層の資質がなく、富裕層叩きのメインターゲットとされている人達だ。
今日本各地に行くと、そういう外国水準の所得単位での分別すら無理になっている。文化面での貧困化が徹底されている。デモ行進を見ると、以前は都市部だから許されたような右派系の排外デモがある。中国で外交危機があって反日デモがにわかに活発化したのと同じだろう。
実際街頭で往年の宗教勧誘のように日当を対価にデモ行進に参加させるケースも増えている。地方都市に多い。現在起きているデモ行進などは思想の左右問わずに日当で集めて頭数をそろえているのが多数であるというのが現実ではないだろうか?
中国人は過去に同じことを難解も経験していることだからそれを熟知しているんだろう。だから日本人の私はこんなことは発言をしたくないのだが、2017年、日本でも「文化大革命」が起こるのだろうと、ガックリしてしまうのである。トランプ政権になってからアメリカが日本と同じ道を辿り始めたように、70年以上平和を守り続けた日本が、中国と同じ道を辿ろうとしてる。
日本にノンポリ層が健在であることが救いだ。毀誉褒貶ある。こういった精神すべてを賛同することはない。あの地域には外国ではPC問題になるような文化が多すぎだ。しかし私は、世界で当たり前の対応のできる者が健在であることにほっとする。「政治的中庸がいなければ日本は存在しない」と言われるほどの現状がどこまで持つのだろうか?
オタクの姿勢もかっこいい。この集団は、昭和末期時代からも宮崎事件の余波で権力とたたかった。反骨姿勢は今も生きている。彼らについては私も言いたいことはあるが、それでもこういうことは本当にスゴイよ。
一方、非ノンポリ階級の対応はよくないよね。でもこれは「腑に落ちて」しまった。彼らは多数派になりつつある。日本を見てほしい。強い先祖返りを髣髴とさせる。一人ひとりの威圧感も凄まじいが、実際にデモにいくと左翼や右翼の兵隊みたいな感じが不気味でしかない。
この日常を経て、キビキビと「塩生活」に明け暮れる彼らがファシズムの片棒を担ぐわけだ。ノンポリは非国民と。逆に強烈なイデオロギーを持つ層は、左翼や右翼を見ると「ホッ」とするわけだ。日常を感じるから。
プロ市民のイデオロギストっぷりは私も批判し続けているが、ついにマジでノンポリを嫉視するようになってしまったんだなあと、本当にガックリきてしまう。ある意味、戦争前夜臭くて不快だったが。
私は民主主義そのものの社会的価値は否定しない。事実70年以上も守り続けてきているし。それ以上に豊かな生活にあこがれている。1995年に両親の転職(貧乏職から転身!)で関西から関東に越してきたとき、新しい生活に胸を膨らませた。1990年代から2010年代までオタクとしての経験もある。家族代々鉄道好きでもあった。
しかしそのような「豊かな」暮らしを経験した私だからこそ、その風情とか肯定的な表現を守ること、また新しく築くことはあっても、根本にある負の因習は打破しようと、そう訴えたいのである。守る価値のない因習を拒否し、破壊する発想が必要だ。残念ながらそれと矛盾するのが、「所謂畳精神化するアメリカ」であり「日本の文化大革命の兆し」ではないか。本当に私に未来はあるのだろうか。
日本人に問いかけたい。貧乏人だらけの国と同レベルの発想に恥ずかしく思わないのかと。君たちの憧れる今では黄昏の国の日本は江戸幕府をぶっ壊して新しく国を作り、経済的・科学的・文化的豊かさを受け入れたのではないかと。そして、そもそも何故貧乏を恥じ、お互いに豊かになることを目指したか考えてみよと。
近いうちに21世紀版の文化大革命が日本でも起きる。願わくばそれが起きないように努め、万が一起きても自分自身が巻き込まれないようにしたい。