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はてなキーワード: 青春時代とは

2020-10-22

本邦という言い方がなんか嫌。

どういう意図で使ってんだろう?っていうか、そもそもそんなメジャー言葉ではないよね?

読み方も「ほんぽう」なのか「ほんほう」なのかもよくわからなかったし(今調べた)。

それで「ほんぽう」で変換すると真っ先に「奔放」って出てきて、そこから「性に奔放」って言葉脳内に現れ、

「ああ、俺の人生は性の奔放さとは無縁の人生だったなぁ」と陰鬱青春時代を思い返してダークな気分になってしまった。

そもそもからして「性に奔放」とはどういう事なのだろうか?

「性」つまりセックス

「奔放」は自由気まま。

「性に奔放」とはようするに「自由気ままにセックスを楽しんでいる」という事なのだろうけど、そんな事ができる人生でありたかったと思うと同時に、

セックス自由気ままに楽しむには、それはそれで才能がなければならないのではないか?とも思った。

セックスを楽しむ才能とはなんだろうか?

例えば自分身体に自信を持てない人は、セックスを楽しむ事はできない気がする。

チンコが小さくて「ああ、俺とセックスしても気持ちよくないだろうな・・・」と思ったりするだろうし、

おっぱいに自信がない人は「この人は私の胸を揉んでてもイマイチ満足できてないのでは・・・挟んだりもできないし」とか悩むのではないか

いくらセックスが出来る相手がたくさんいたとしても、このように自分に自信のない人は「奔放に」セックスを楽しめないと思う。

そうなると、セックス自由気ままに楽しむ為に必要センスとは、自分自身に対する絶対的な自信という事になるのではないだろうか?

自分チンコがどうとか、おっぱいで挟めるかとかに悩む事もない、絶対的な自信。

自分とのセックスパートナーを悦ばせる事ができる」と何の迷いもなく言い切る事ができる精神

これこそが性を奔放に楽しむ為に必要センスな気がする。

しかし、もうひとつまったく別のセンス存在も考えねばならない。

それは傲慢さだ。

セックスパートナー感情などまったく度外視し、自分快楽のみを追求する傲慢さ。

自分自身への自信と似ている気もするが、パートナーへの思いやりを捨て去っているという点で、決定的に違う物だろう。

しかし「性に奔放」という言葉ニュアンスを考えると、傲慢さの方がより必要センスな気がしてくる。

自分のチンポがデカいとか、おっぱいで何かを挟むとか、最初言い出したのは誰なのかしら?

パートナーの事など考えない、そもそもパートナーという概念存在しているかどうかすら怪しい、

ひたすら自分自身の快楽のみが価値観の全てで駆け抜けていくという傲慢さこそ、性に奔放に必要センスなのだと思う。

傲慢さをひとつセンス、つまり才能と考えれば、このような傲慢さもひとつの才能と言えるだろう。

その才能が自分にあるか?と問われれば、やはり無いと答えるしかなく、

またそのような才能を身に着けている人が本邦にどれほど存在しているか?と考えると、それほど多くないと思える。

2020-10-09

anond:20201008193323

普通社会人は力による暴力を振るわなければ何しても構わないのならより闇の深い社会になってるんだなと感じた

俺は昭和の生まれからビーバップハイスクールとかの直接的な暴力青春時代だったけどその昔のままの方がより生きやすいね

2020-09-08

アラフォー男子ジャンプマガジンサンデー履修率は異常

三国志は意外とみんな読んでない。光栄のも信長のほうが人気あった気がしないでもない。

ガンダムリアタイだとΖ、ΖΖ(1985年40歳だと5歳とか)もハマらず、OVAや劇場版挟んでV(1993~)になる。

再放送経てVガン見る、Vガンスタート過去作に触れるは当然あろう。

ジョジョも3~6部くらいからのにわかだったりする。(年や環境によるが、1部や2部の頃は絵柄やストーリが好みにあわず幽波紋から相応年齢になる&作品雰囲気も変わって親しみやすくなるという感じ。


ドラゴンボールキン肉マン聖闘士星矢男塾北斗の拳を上げてない時点で増田は真にアラフォー付近、あるいは30代後半なんだろうな。

ウィングマンゴッドサイダーとかは触れてない世代

だが、この近辺数年に共通するのは、ずっとジャンプサンデーマガジンを読める世代だったっていうこと。

床屋の待ち時間、親と行くテーブルが赤い中華料理屋などでもジャンプ必須でおいてあり、店主のこのみマガジン、あるいはサンデー、もしくはチャンピオンもある。

それ以前に、友人宅、特に兄などが居る家庭に行けば、遭遇率が高い。ファミコンコントローラ2つしかないので、3人以上集まれば、漫画タイムになる。

単行本も読み放題で、連載途中から読み始めた漫画最初から読める。

余程の陰キャ出ない限り、教室、友人宅等でジャンプマガジンサンデー読み放題、運が良ければチャンピオンも付くという青春時代を過ごしたはずだ。

コロコロ読者は絶対数が少ない、ボンボンは輪をかけて。

アニメも見れない家庭はある。

が、週刊少年誌は常に手の届くところにあった。逆に、なんで読んでいないのか。


その後、人気作が終わって、その作家たちが迷走時期に入る。

いわゆるジャンプ黄金期(ファミコンジャンプ現在作品)の後続作品短期で終わる時期。

ジャンプひとりがち状態からマガジン派、サンデー派に分かれつつヤング誌との競合。



8割とはいわんけど、半数以上は同じ道通ってた印象なんだけど。




anond:20200907090841

2020-09-05

anond:20200904215143

批判側の意見は「ゾーニング問題である」という方向に収束しているらしい。子供の目に入ったらどうするんだ、と。

しろフェミニストミサンドリストの目に入ったら騒がれて面倒だから」という程度ではないでしょうか。「子供に見せるのはヤバい」と言う人がいたとしてもせいぜい建前で、実際にそんな心配をしている人がそれほどいるとも思えません。「という方向に収束しているらしい」というのはあなた思い込みか、あるいはそんな大人の建前論に引っかかってしまったがゆえに(あなたが「〝子供〟の立場からこのトピックで論を立てたい」と考えるあまり採用してしまった間違った(あるいはあまり意味をなさない)前提なのではないかと言う気がします。

18禁レーティングを、子供を守るためのものなんて本気で考えている大人は、ごくごく少数でしょう。それは「なにも考えてないから」ではなく、「大枠としてある子供と性という真の問題解決コストと労力を費やして社会全体として傾注するつもりがなく、といって当該のイシューが原因または遠因となって実際に子供が傷ついたとき責任も取りたくないから」といったところだと思います(まあ、そういうのはなにも性に関することだけではないです)。

大人というべき立場の人たちが、当事者である子供の性欲の「安全かつ倫理的」な解消に無関心なのはそもそも彼らに当事者性がないからです。彼らの中にも青春時代に異性や同性との関係を求めて煩悶した人はいるでしょうが、それでもどうにか切り抜けたり、あるいは同じような片割れをうまく見つけて乗り切ったり、それでどうでもよくなってしまったのです。放っておけば今の子供たちも適当よろしくやって育つだろうみたいな、一種生存バイアスですね(青春時代にしくじって身を持ち崩した人は、ここには含まれません。そんな人たちのなかには、次の世代の子供たちに同じ思いをしてほしくないと活動する人もいれば、逆に同じ目に遭わせてやろうと引きずり込んでくる人もいることでしょう)。

だいたい、そもそもみんながみんな若いからといってそこまで性欲に支配されるわけでもありません。そこを間違えると、単に個々人のフェティシズムを満足させるためというだけの成年向け創作を、隠された人間の本性を暴き描いて禁忌の扱いを受けた真実みたいに思い込むことになりかねません(そういう人こそ、本来「成年向け創作」を鑑賞すべきではない人だと個人的には思いますし、成年向け創作はそういう人に多かれ少なかれ実際に悪影響を与えていると思います)。性は究極のプライベートなので、親しい仲でもそうそ意見を述べ合ったりすることもない問題ですから、知見もたまりにくい。娯楽としての偏った性知識勝手に変な方向に積み上がっていくんですけどね。

ところで思ったのですが、

このnoteでは「フィクションに影響されてロリコン子供に手を出す危険性がある」という主張と「ロリコン子供に手を出さないのにその努力台無しにするな」という正反対の主張が混ぜられている。

このあたり以降であなたが書いていることを読むに、ペドファイル(ここに「ロリータコンプレックス」を含めるとしても、未成熟身体性を持つ少女への愛好のことで、成年女性に対しての性衝動は皆無か、あっても薄い)と、いわゆるロリコン趣味者(社会倫理としては許容されていない、制服を着た女子高生なども性の対象にする成年男子。機会があれば同世代女性とも普通に性的接触を行うし、また女子小中生であっても「女体」であれば性的対象となる)の意味の切り分けができていないので、話が通らなくなってしまっているように思います。後で出てくる「子供に手を出す人の7割はロリコンじゃない、という話、あれは信用していない」というあなたの考えありき――Wikipediaでいうところの独自研究――で話を進めているからですね。

そもそも大元ネタは成人男子男児型の人形を買って性衝動を語っているという話から始まっており、「ロリコン」の話ではありません(元ネタの人は自分男児ではなく女性が好きで、単にネタとして言っただけ、みたいな話になってるようですが)。このあたりも、あなたが書きたいことを書くチャンスが来たと前のめりになりすぎて、周りが見えなくなっているのではないかと感じた理由です。

2020-09-02

書き殴り。

東大とは言え文学部卒なのでイキることは出来ないが、あそこにいる時から、「この国にはノブレス・オブリージュ存在しないのだな」と思っていた。

リーダーシップ教育もままならず(GLPという希望者のみのクラス存在したが)、世界的に見れば最高学府の者が持つべきであろう「弱きを助ける」姿勢が全くない。

これは恐らく海外の有名大学とは入試形態が異なり、実情はともかく、家柄や裕福さと学歴とが(少なくとも本人たちの中では)分かりやすく繋がらないかなのだろうと思う。もちろん喜捨宗教観のこともあるが。

しろ青春時代、ろくな恋愛も出来ず勉強させられてた俺」「東大に来たのに非モテ」みたいな弱者根性を感じる時すらある。

そもそも東大に行ったからといって億万長者になれる訳じゃない。東大卒の平均年収すら700万程度。

この国には弱者に手を差し伸べる余裕がある人間がいないのかもしれない。

2020-09-01

anond:20200901132146

オタクとはゾンビーのようなもの青春時代に得られなかったもの(あるいは得られたはずのもの)に執着して彷徨い続ける。

オタクの好む絵柄がみんな同じなのは青春時代に見かけた絵柄だからゾンビーが生前の思い出に反応を示すようなもの

オタク過激コンテンツの読み過ぎで感性麻痺しているが、ゾンビさながらに「欲しい」という欲求だけは失われていない。

青春時代に叶えられなかった欲」という呪縛が、オタクゾンビーにする。

2020-08-31

まるで青春時代のようだ

今日はいつもより随分早い時間に来たな。

仕事休み、または夜勤などあるのだろうか。

あるいは実はコロナ婚してて、生活時間が変わったのだろうか。

私は従業員という立場上「今日は随分早いですね」の一言くらいならまだ許される余地があったのかもしれないが、意気地のない私は彼女の姿が視界に入っただけで心臓バクバクになり、声をかけることもできず、事務的に受付を済ませるだけで精一杯であった。

甲斐もなく一目惚れをしてしまった。

その人のことで頭が一杯になるし、その人の姿を見ただけで緊張して心臓バクバク

いい歳して思春期中高生のようで恥ずかしい。

そもそも何にそんな惹かれたか

はっきり言って見た目が自分の好みドストライクなだけ、だが相手に興味を抱き始めるきっかけとしてはそれで十分だ。

いくつになっても恋って素敵。

2020-08-28

学歴(勉強できた)自慢がご法度であるつの理由

学歴アレルギー

この前ツイッター

「なんで運動や他の特技はアピールしても、それほど嫉妬されないのに、学歴だけ妙にみんな過敏に反応するんだろう」と

つぶやいていた御仁がいた

言いたいことはわからんでもない。

でも、学歴を他のスキルと同等に扱えないのはそれなりに明確な理由がある。

学力試験は全国民参加の強制レース

2019年大学進学率は53.7%。

全入時代で、定員割れしてる大学も多いから、全員がガチ勉強して進学する訳でもない。

それでも中卒・高卒・専門卒・大卒(四年制・短期)・院卒と、基本的に誰もがどこまでの教育を受けたか区分けされる。

勿論、大卒の中でも、というより大卒の中でこそ、旧帝早慶駅弁March(最近Smartなんだっけ?)・日東駒専なんやらかんやらと、細かいヒエラルキーというか、序列意識存在する。

そりゃ、義務教育高等教育期間と、正味12年(以上)かけた上でのレース結果である

ある意味しょうがないって言えばしょうがない。

でもこれだとある意味、全員に"学歴"という属性強制付与されてるようなものだ(非常に気持ち悪い表現だが)。

シグナル(フィルタリング)としての学歴

紙切れ一枚に夢託す

サインコサインなんになる

受験戦争過熱していた受験生ブルースの一節だが

実際、紙切れ一枚で頭の良し悪しなんて、簡単判別できるものではない。

そんなの、みんなわかりきっている。

わかりきってるし、学歴信仰偏差値信奉者は一般的にはクソダサいので、学歴で頭の良さが決まるなんて、皆さん口に出して言わない。

でも、実際の所はどうだろう?有名企業就職率は技術職の理系ならまだしも、文系でも明らかに全体のうん%しかいない一定以上の高偏差値層で固められている。

場合によっては、就職後の研修まで大学ランク別に分けられている。なんだよ、企業なのに、予備校と一緒かよ。という感想である

もちろん、これにもある程度はちゃんとした理由はある。

学歴=頭の良さではないが、高学歴の方が勤勉性が高かったり、論理的な(座学的な)思考能力が高かったり、まあそれらを測るシグナルとしてはそれなりに信頼性は高いわけだ。

人間外見より中身のが大事だが、これだけ肥大化した社会ではそこまで丁寧に中身を見ることはできないので、大数の法則的に学歴を足きりの条件として使わざるを得ない。

これだけでも、お勉強できましたアピールは、運動できた、楽器弾けますという類のアピールとは、殊更性質が違うことはお解り頂けたであろう。

(優秀で高学歴増田諸氏からはわかりきったことほざくんじゃねーよ、と切れ味鋭いツッコミが返って来そうであるが)

そして学歴コンプレックス非情に拗らせやすいのは、加えてややこしい要因があと二点程挙げられるからである

人生の早期における進路決定

増田のような過ごした田舎公立校では、若くて楽しい青春時代に、机に齧りつくのはダサいと考え、学業に重点を置かなかった層も一定数(というかかなり)いる。

就職やその後、たかテストの点数でこうも扱いが違うの?阿呆じゃね?ということを痛感したときには既に遅いのだ。

もう少しだけ、勉強にステ振り分けてれば、後の人生もっと楽だったのに。妥協して滑り止めに入るべきではなかった。

そうした意識学歴コンプをよりややこしくする。

働きながら、資格を取ったり、通信などを含めて学び直すことも可能ではある。

が、正直それは、学業に集中することが許された時期に比べると、かなり余裕を持つことが難しいと言わざるを得ない。

特に通常の大学進学なら、合格後も4年間まるまる勉強に専念することになる。

結婚育児職場責任あるポジションを任されると言った事情があれば、尚の事これは難しい。

④家庭環境出身地などにおける格差

そして、学歴の獲得は所得の再分配、などと言われながらも、

なんだかんだで家庭環境出身地など他のデリケート要素が絡んでくるからである

文科大臣が新受験制度における教育格差について指摘されたときに、「身の丈発言」で物議を醸したこと記憶に新しいだろう。

だが、失言だったには違いないが、家庭環境及びその収入、或いは予備校進学校の多い都市圏で暮らすか否か

これが学力に大きく影響するのは残念ながら事実なのである

都市圏に多い私学の中高一貫校は、難しい試験を課して入学者を選別する。

その試験突破するにもやはりある程度家計に余裕がなければ、合格は厳しいだろう。

そしてレベルの高い生徒が集まる環境で、難関大学合格目標に塾や学校で、合理的で進度の早いカリキュラムが組まれる。

無論、地方だろうが、世帯収入が低かろうが、ストイック学習に励むことは可能だし、賢い子どもは幾らでもいる。

だが、都市圏でかつ富裕層の方がそれだけ選択肢に恵まれている。この点は否定のできない事実である

そして、何よりデリケート問題なのが、やはり不向きな人はそれなりにいる、という点だろう。

ケーキが切れない非行少年たち」という児童精神科医が書いた本が話題になったが、

境界知能と呼ばれる、IQ70〜84の知的障がいに該当しない人の割合は実は人口の約14%に当たると言われている。

IQ学力相関性は、増田は実際のところ門外漢なので、少し言いづらい部分もあるが、スポーツがどうしても苦手なタイプがいるように

勉強がどうしても苦手だという人もそれなりにはいるような気がする(公立小中で過ごした時期を振り返って)。

増田スポーツがどうしても苦手だが、かろうじて学業だけは人並の成績ぐらいはおさめられた。

スポーツが苦手なのは子供の頃からコンプレックスだが、歳を重ねれば、学生の時に比べ、そう比較には出されない。

勉強だって基本的にそうだ。だが、別に努力しなかったわけでもなく(あるいは努力する機会がなかったために)、勉強が不得手であった人に

そうしたコンプの瘡蓋を刺激するようなことをすれば、話がややこしくなるのは当然である

加えて、社会的な記号として、長い期間付いて回る問題でもあるから、二重にややこしく、なるべく人と比較しない方が無難話題である

2020-08-22

皆に好かれるウェイ系オタクから距離を置いた話

ただの腐女子お気持ち構文です。長いよ。

ウェイ系オタク彼女は、小説書きだがTwitterでは専ら絵師へのリプに徹している。好きな絵師がいたらすぐに感想を送ってふぁぼりつする良質な腐女子である絵師のはしくれでもある私もその対象となったらしい。1年ほど前から彼女にたくさんリプを頂いた。本も買ってもらった。

そんな素敵な彼女と私がなぜ距離を置いたのか。一番の原因は彼女が愛されすぎているからだろう。そう、単なる嫉妬だ。

美人で明るい彼女オフ会などで何度か会ったことがあるが、私が青春時代敬遠していたタイプ女性なのだチア部やテニス部所属してそうな感じの、スクールカースト上位のウェイ系だった。片や私は陰気なデブス。かれこれそういう人種とは極力関わらないよう努めてきた人間なのだ恋愛経験豊富彼女喪女の私。社会人お金持ちな彼女貧乏学生な私。推しカプのこと以外は全く話が合わない。彼女ときどき口にする「大学時代に飲みサーで〜」とか、「推しに〇〇万課金した‪w‪w‪w」とか、そういうステータス持たざる者には逐一グサグサと突き刺さった。何度も言うが、彼女は全く悪くない。私と180度違う人生を送ってきたリア充なだけなのだ。私の醜い嫉妬も甚だしい。

極めつけは、このコロナのご時世。周知の事実だが大学生はほぼ全面的に登校を禁止させられている。様々なイベントに行かなくなったし、家に引きこもる時間が大幅に増えた。しか彼女は違った。在宅勤務をフル活用し、ここぞとばかりに様々なフォロワーさんと会って食事カラオケオフ会をしているのだ。感染症対策は怠っていないというのでそれを咎める気はないのだが、もともと人脈が狭い私は、彼女がTLにアップする飯テロ写真を見る度に複雑な気持ちになった。

そして先月。比較的近場に住んでいるため、私にも彼女から遊びの誘いが来た。久しく誰かと会って話せる機会。私は二つ返事でOKした。

けれど、彼女を見る度に自分の情けなさを痛感し辛くなる。私も彼女のように美人だったらな。彼女のように神絵師ともたくさん話せたらな。それが積もり積もって、気づけば私は彼女の事ばかり考えていたのだ。恋ではないほうの別ベクトルで。

先週が丁度約束の日だったのだが、その前の日にも彼女フォロワーさんとカラオケ推し映画鑑賞をしてワインを飲んでいた。私が遊びの時間帯や内容やらを聞いても未読無視(結局、遊ぶ当日の10時頃にようやく既読したのだが…)。そりゃそうだ。彼女フォロワーさんと遊ぶのに忙しい。1ヶ月間会うのをソワソワ待っていた暇人とは違うのだ。

そう思ったところで、私の中で何かが吹っ切れた。彼女に嫌われると他のフォロワーさんとのオフ会でも気まずくなるのは目に見えている(彼女は色んなオフ会に必ずと言っていいほど参加している)。それは分かっていたが、もう彼女を見てますます自分が嫌いになるのが怖かったのだ。適当理由をつけて、その日にドタキャンした(最低)。

彼女もそれを暗黙の了解として受け取ったらしい。その日の晩に「嫌われているのかと薄々感じていたが、案の定そうだったと今日分かった。今夜は呑む」とツイートしていた。そのコメントには、多くの絵師からの慰めリプライ。そう、それでいい。もう彼女はたくさんの人に好かれているんだ。こんな嫉妬心の醜いやつとは関わらないでくれ。

支部における彼女作品非表示にし、Twitterではこっそりミュートをかけた。堂々とブロ解しないところにも、私の惨めさが滲み出ている。

2020-08-17

少女小説」を愛するということと、その忘却について

 少女小説が好きだ。

 戦前吉屋信子氏に代表される「少女小説からまり時代の流れのなかでいちどは途絶えそうになるものの、70年代後半にやはり「少女小説」を愛していた氷室冴子さんをはじめとするコバルト文庫作家さん方によって再び脚光を浴び、2020年まで連綿と息づいてきた少女小説が、好きだ。

 昔からずっと変わらず月が愛でられてきたように、百年前から変わらず「少女小説」を愛しているひとたちがいる。そんな長い歴史浪漫の一端に、きっと私もいるのだろう。

 青春時代、「少女小説」というひとつ空間のなかで、ひそやかに繰り広げられてきた世界に没頭し、陶酔し、生涯大切にしようと胸の前でそっと本を抱えながらその思い出を心の奥底にある宝箱のなかにしまったのだ。

 私が初めて少女小説を読んだのは、中学生の頃だった。学校図書室で、静かに置かれていた『シュガーアップルフェアリーテイルシリーズを偶然手にして、優しく柔らかに、そして美しく描かれる銀砂糖師と妖精たちの世界に魅了されたのだ。そこから、『ヴィクトリアン・ローズテーラーシリーズや、『おこぼれ姫と円卓の騎士シリーズ、『英国マザーグース物語シリーズ、『彩雲国物語シリーズなどなど、様々な少女小説に手を出した。あるときには、とある少女小説作家の方に、人生で初めてのファンレターを送ったら、返事が届いた。今もその手紙は、机の引き出しの奥できらきらと輝き続けている。そうした読書体験を含め、少女小説を心から愛している。

 とはいえ、たぶん。現在の若年層は、そもそも少女小説」という言葉を知らないひとも増えているのだと思う。実際、私(※大学生)の周りでも、「少女小説」という言葉を知らなかったというひとは多い。コンテンツに溢れた世の中で、他作品よりも目立つことの難易度は、どんどんと高くなっているのかもしれない。だが同時に、「キャラ文芸」あるいは「ライト文芸」といわれるような作品群や、Web小説なかに少女小説文脈はいまも引き継がれているのだとも思う。

 ある言葉の持つ意味時代と共に少しずつ変化することがあるように、時代に合わせて本もまた少しずつ変化していくのだろう。だから、そうした時代の変化を悲観する必要はないのかもしれない。けれどやっぱり寂しい気持ちもあり、もっと沢山のひとに「少女小説」という存在を知ってほしいと思ってしま自分もいる。

 「小説家になろう」発のWeb小説や、「ライトノベル」という言葉の定着によって、昔なら「少女小説」と呼ばれたかもしれない作品群も、「Web小説」や「女性向けライトノベル」という枠に入ることも増えつつある。その結果、「少女小説」という言葉が再び「知る人ぞ知る」ものになりつつあるのだろう。名前が変わっても、物語が描き出すもの自体は何も変わらないのだから、繰り返しにはなるがきっと悲観することではない。それでもやっぱり、どこか寂しい。その思いから、筆を執った次第である

 「少女小説」という言葉に執着する必要はないのかもしれない。前述したように、物語が伝えたい想い自体は、変わらず在り続けているのだから

 それでも、百年前から愛されてきた、そして私が愛した「少女小説」を、再び世に広く知ってもらえる未来が来ることを祈っている。

2020-08-09

なん中国って今更帝国主義とかやってんの?

あの時代に参加できなかったコンプとかあんのかね

遅く来た青春時代というか。非モテだった男が大人になって金が使えるようになると失われた青春時代を求めて迷走してしまうような

2020-08-03

夏のなんたるか

暑さ

 これにつきる 

涼しさ

 暑さと涼しさは光と影、涼しさは暑さからの落差でしか生じ得ない。夏場のコンビニに入ったとき入店音とともに感じるあの人工的な冷気!エアコンの送風口の下に立って顔で受け止めるあの風!

蒸し暑さ

 家を出た瞬間に感じるあの熱気、温度だけじゃないというか、むしろ湿度がメインかもしれない。まとわりつくような暑さ、扇いだ風が意味をなさな無力感日本の夏は…ゴミ

スイカ

 スイカたいしてうまくないはずなんだが夏に食うと異常にうまい。かつて下宿していた街のスーパーではスイカ4分の1個が200円しないくらいの値段で売られていて、学校帰りに買って食ったものだった。

セミ

 マジでうるさい。遠くで聞いたり思い出したりするぶんには風情も感じられるが、森みたいな密度植物が生えてるところにいくと本当に笑っちゃうくらいうるさい。バカが考えた最悪の虫

夏休み

 夏休みもはや関係なくなったのに世間夏休みムードになるので心に毒。今年はコロナ破滅したみたいでよかったですね。といいつつわりとご愁傷様だなとも思う。6・3・3の12年(+大学なら16年)しかない青春時代の夏が消えるっていうのはドンマイ感あるぜ。

ぬるい水

 水道から出る水がすげえぬるい瞬間にかなり夏を感じる。家にこもってるのを貫通して夏を感じさせてくるので強い

 最近刺されてないが、蚊に刺されるのは夏だよなあ。だいたい夕方〜夜にかけて出歩いて刺されるパターンで、夏の夕方〜夜にかけて出歩くのはわりと青春に直結しているので蚊に刺されることも青春に直結するということになってくる。でも絶滅はしてほしい

花火

 夏にやるなよ

 行かない(むかしクラゲに刺されて溺れたので)

パイン

 パインを筆頭とするトロピカルフレーバーアイスなんかが売り場に乱舞!パイナップル、昔(18世期とか)はものすげえ高級品だったらしい

日焼け

 皮膚が剥がれたことがない。皮膚が強くてよかった

合宿

 行ったことない

肝試し

 死んでほしい

冷やし中華

 うまい。じつは5月くらいには始めることが可能

夏祭り

 夏にやるなよ

陽炎

 これみるとテンション上がると同時にうんざりする

逃げ水

 同上

 体温調節のために体表からヌルヌルした臭い汁を出す猿、最悪

2020-07-27

駅まで走る

高校の頃、好きな子がいた。

中学で同じ部活だったっていうのもあってまあまあ親しかった。同じ高校に入ることになって超ラッキー!と思ったのもつかの間、2人とも帰宅部になるわクラスは違うわで接点がゼロになり、話すこともまれになった。

すると思春期特有(?)の拗れた自意識みたいなのが絡んできてがぜんコミュニケーションが取れなくなってくる。視界に入るだけで心臓が良くも悪くもバクバクし、話しかけるなんて夢のまた夢みたいな感じになった。

同じ中学から最寄駅も同じ、田舎から電車は2両、帰宅部から帰るタイミングはおおむね同じ。となると普通に帰ると結構高い確率で近接することになる。もともとは交流があったんだから完全に無視するのは人間として異常だ。でも俺的に彼女はもはや気安く話しかけられる対象ではなくなってしまっている。

どうするか?

授業が終わるなり早歩きで学校を出て、駅まで走るようになった。まあ体力ないから走るつっても休み休みなんだが、それでも電車を一本ぶんくらい早くすることは可能だった。時刻表をみて、普通に帰ったらこれだというのを確認して、その一本前に乗れるように走る。

今思うとマジで何やってんだ、バカか?という感じがするんだが、まあ拗らせた非モテの考えることはよくわからない。

どうでもいいけどひとつ思い出がある。冬のある日、いつものように走って帰ってる途中、ちょうど休憩として歩いてるところで通行人のオバちゃんに話しかけられた。「今日寒いねえ」俺はわりと走ってきたところだったので身体が暖まっていて全然寒くなかった。「そ…そうですね」イヤ寒くないっスなんて答えるのもヘンだと思ったから話を合わせたが、つかなくていいウソをついている、なんで今その話を振ってくるんだ、間が悪すぎる、いや別にいいんだけど…世間話にしてはたくさんのことを考えさせられた。クソみたいなエピソードだな。

彼女との交流エピソードわずかにある。

偶然他校に行ったほかの吹奏楽部の同期なんかと出くわしたときは、駅でしばらく立ち話をすることが多かった。そうすると俺も彼女も同じ駅を通るんでほぼ確実にふたりとも輪に加わることになる。そうすると昔に戻ったみたいに(というか気まずくなったっていうのが俺の妄想だったんだと思うが)普通に話せる。ある時は俺が言ったくだらないダジャレ彼女がすごい反応してツッコミとしてベシベシ叩いてきて、「実は俺のこと好きなのでは?!」と思った。ある時は制服の体育服の話になって、俺が「ウチの高校の体育ズボンすげえブカブカなんだけど女子のやつはあんまりそう見えない、なんでだろう」というようなことを言ったら彼女が「そもそも男女でデザイン違うよ」つってスカートをたくし上げて下に履いた体育ズボンを見せてきて、周りにたしなめられていた。

仲べつに悪くなってなかったんだろうな。そうでもねえのかな。ああ……

でも青春時代の淡い思い出性が高くていいと思う。というかヘタに彼女とよく話す関係になってたらうっかり告白なんかして本格的に気まずくなってたんじゃないかと思う。走ってまで避けてたからこそ俺は暴走せずにすみ、致命的なふるまいに出ないで済んだのかもしれない。

2020-07-26

anond:20200726000544

天野喜孝古代祐三大黒摩季LUNA SEAX-JAPAN)のSUGIZO吉田兄弟・・・

ここまでの人材を使って作るものがわざとらしいほどの回顧アニメ

70後期~80初期付近空気をあえて真似る意味は?

この人らってメインファン層が4、50代だよね?

自分みたいなゆとり世代からすると、おじさんにすごく好かれてる人、

スーファミゲームの話やMステスペシャル版のアーカイブコーナーで90年代映像と共に出てくる人ってイメージだわ

吉田兄弟は嫌いじゃないけどどういう人たちに支持されてるのかいまいちわかんね

サムライチャンプルー感出したかたかワールドミュージック枠で有名な三味線奏者を呼んだってことなのかな?

サムライチャンプルーも4、50代に好かれてるアニメって感じだな。

サムライチャンプルー、後追いだとNujabesとか参加しててなんか凄かったアニメって印象で、好きだけどそこまで熱上がらない。

からおじさんほいほいアニメとして考えればおじさんの青春時代である70〜80年代風の回顧趣味にしたってことで、そう考えると真っ当な戦略だと思う。

2020-07-25

ガードレール

夫の身体能力は高く

小さい頃からいろんな記録を持っているそうです

学校で1番から県で1番まで

その地域で未だに抜かれていない記録もあります

でも全国レベルではありません

身体能力関係ある仕事にはついていないし

特にスポーツもやっていないしジムも嫌いです

今年50歳

身体能力を発揮する場はありません

だけど唯一夫が身体能力披露する時があります

植込みなど障害のないガードレールを見ると

手を使わず両足を揃えて飛びこえる事を造作なくできるので

良いガードレールを見るとひょいひょい飛び越えていました

若い時は、かっこいい!と横で喜び

そのうち、ウザいこけろ!と思うようになって

今では歯磨きぐらいなんとも思いません

で先週

肩に留めた車に2人で戻る時、私はガードレールの隙間を探し

夫は良いガードレールを見つけ、いつものように飛び越えたつもりが

とうとう足が引っかかってしまいました

初めて見ました

もちろん体勢を直ぐに立て直して地面には転ばなかったのですが

危なかった

ガードレールを手を使わず飛び越える事だけで

自分身体能力確認していた夫

身体能力に自信があったけど全国までは行けなかった青春時代

俺50だけど全国大会では勝てなかったけど

まだまだこんな事できるしと思って完全にガードレール依存してきた夫

私は一瞬にしてそんな事を思い、夫を数十年ぶりにかわいそうだと思いました

大丈夫だった?

と言うと

夫は、やばい

一言だけ言って車の中であとは無言でした

久しぶりに優しい気持ちになり今は触れずにおこうと特にガードレール飛び失敗については何も言いませんでした

そして今日

買い物帰りに夫は丸い棒状のガードレールを見つけ

満面の笑みで私に

ちょっと見とれよ

と言い

片手をガードレールにかけ

跳馬のように見事に飛び越えました

ガードレールと足の間は余裕で30cm以上ありました

俺手使ったら全然いけるわー

と大喜びで2往復しました

めっちゃアホすぎてビビりました

2020-07-22

ライザのアトリエ精巧青春の再演だ

 君の青春時代を思い出してほしい。部活動サークル活動に明け暮れ、あるいはそうでなくとも仲の良い友人たちと過ごした日々を。同年代の仲間たちが集まって、同じ目標に向かって努力し、でも皆個性的バラバラだった。得意分野も違えば、目標を目指す理由も違って、かける熱意も時間も、家庭環境物事価値観だって違う。ただ同じ場所にいる、同じ目標を持つ、同年代なだけの子供たちが集まった歪な空間青春譚はそんな中で紡がれる。皆バラバラからいつも仲良くというわけにもいかず、時には激しく争ったりして、仲間が去ることもあったろう。対立の末に互いを尊重するようになることもあったろう。決して順風満帆ではないその起伏に溢れる日々は、フィクションの中にとどまらない、現実物語として青春時代支配する。

 青春譚の世界は狭い。子供たちは自分たちの目に見えて手の届く範囲世界を生きる。仲間たちを見て、この先いつか出会う他の集団を思い、自分たちのこれから歩む道を見据える中で、その下に埋もれた大勢に思いを馳せることはない。自分たちと同じくらい努力して、けれど自分たちと今後出会う事のない別の子供たちに対して、仲間意識や同情が芽生えることもない。だからいつも青春譚の主人公は「自分」になる。青春の熱気が、自分こそが物語主人公かのような錯覚に溺れさせる。だから青春時代に、例えば「僕はこんなに頑張っているのに!」とほかの仲間たちも同じくらい、あるいはそれ以上頑張っていることを知っていたとしても、つい思ってしまうのだ。クラスメートGでも部員その16でもない、自分こそが主人公なのだから、その主人公というまやかしアイデンティティにすがってしまう。子供たちにとっての青春譚は、自分自分たらしめるアイデンティティを探し求め、特別になろうとする物語とも言えるだろう。

 しかしずっと青春謳歌しているわけにもいかない。歳を重ねるごとに見なければならない世界は広がりをみせ、将来という現実が重くのしかかり、広い世界の中で自分いかにありきたりで普通な存在なのかを自覚せねばならない時が来る。受験就職勉強スポーツの成績、資格試験引っ越し失恋、身内の不幸、怪我もっとささいな下らない会話かもしれない、そのきっかけは様々だろう。子供たちは転機を迎える。そうして子供たちは青春を過ごした集団から引退する。「成長」して「大人」になって、青春譚は終わりを告げるのだ。

 けれどそんな期間限定青春譚をずっと紡ぎ続ける者も中にはいる。青春を捨てることな集団から去って「大人」のひしめく社会へ赴く彼らは、その「子供」的な部分をあるときは称賛され、ある時は幼稚だと批判され、けれどそのどちらであれ特別存在であることには変わりない。大半の子供たちが普通大人になる中で、普通ではない者だけが特別存在として「子供」であり続けることができる。選ばれし者だけが終わらない青春譚を謳歌する。

 ライザのアトリエ青春であるしかしライザのアトリエ青春譚として異質な部分がある。

 青春譚の多くは主人公物語の中心に据えつつも、仲間たちにまつわるエピソードを描く。例えば青春を題材にした傑作部活もの響け!ユーフォニアム」はアニメ化成功しており知る人も多いと思うが、この作品主人公久美子を通して物語が進むものの、個々のエピソードの中心には様々なサブキャラクターが据えられていて、彼女たちの問題にぶつかりながら、彼女たちの力で先に進むつくりになっていることが分かるだろう。「響け」ではある種記号的な主体性のないひとたらし主人公を設定することで、疑似的に吹奏楽部全体を主人公として描き、仲間たちの物語を繰り広げる。青春譚は仲間たち「みんなの物語」だからこそ、多くの作品は幅広いキャラクターの幅広い問題を描くことになる。

 けれどライザのアトリエにはサブキャラクターイベントほとんど存在しない。したがって仲間たちの物語ほとんど描かれず、物語の節々からその成果だけが見え隠れするにとどまる。そんな主人公だけにフォーカスした青春譚は、いつのまにか、まるで主人公ひとりの英雄譚かのような様相を呈してくる。そう、青春譚が「みんなの物語なのはあくま大人目線の客観的ものにすぎず、そのさなかに居る子供たちにとってはそれが「自分主人公英雄譚」かのように錯覚してしまうのだ。ライザのアトリエ青春譚だが、ただの青春譚ではない。青春の熱に浮かれた主人公ライザの視点から見た、錯覚英雄譚なのである

 ライザのアトリエはライザの英雄譚だ。自身こそが主人公である錯覚に溺れるライザは、仲間たちにも同じように物語があることに気づけない。例えばタオはどうだろうか。勉強を頑張っている場面が何度かあったかと思えば、いつのまにか遺跡古代文字をそらんじて見せた。他にも、例えばライザとの確執を乗り越えたボオスはあっという間にライザをも超える決断力と行動力を見せるようになった。彼らの成長はそれだけでひとつ物語になりうるほど大きいものに違いなく、彼らは全員が物語主人公たりうるのだ。けれどライザはそのことに気づけない。気づけたとしても気にしない。青春の熱気で仲間たちへの関心さえも浮ついてしまったライザは、自身英雄譚に溺れていく。

 ライザのアトリエファンタジーRPGであり、プレイヤー主人公ライザを操作してゲームを進めていく。走り回り、素材を採取し、アイテムを調合し、依頼をこなし、戦闘をし、そしてテキストボックスをおくって物語を進めていく。そんなゲームとして当たり前な行動に対して、ライザのアトリエもまたゲームとして当たり前の快感プレイヤーに与える。素材採取の爽快感、調合の楽しさと達成感、報奨金を得てうれしく思い、戦闘では調合の成果に一喜一憂する。RPGにおいてプレイヤーゲームシステムから特別感や万能感といった快感享受することになる。

 そしてライザのアトリエでこの快感享受するときプレイヤーは気付かぬまま物語に没入してしまうのである。ライザの英雄譚を進める中で、ライザ本人は自分特別さや万能さといった錯覚を抱えて自分物語主人公だと信じており、一方プレイヤーゲームシステムから特別感や万能感といった快感を与えられながら「ライザが主人公ゲーム物語」を進めることになる。ライザの描く錯覚物語プレイヤーの受け取るゲーム快感はゆるやかに、けれど確実にシンクロしていく。プレイヤーは気付かぬうちにライザの錯覚英雄譚の支持者となってしまう。プレイヤーもまたライザと同じように青春に溺れてゆき、サブキャラクターにも物語があることを重要視できなくなってしまう。タオ古代言語研究も、ボオスの精神的成長も、レントもクラウディアもアンペルもリラのことも、しっかり評価しているつもりでもどこか軽視してしまう。青春譚がみんなの物語であることをつい忘れてしまう。だってライザのアトリエはライザの英雄なのだから

 ライザのアトリエは、誰もが英雄ではないからこそ面白い青春譚を、英雄譚を語るためのフォーマットであるRPGを用いて語った時いったい何を表現できるのかという問いに対して、ひとつ面白い答えを示せているだろう。

 やがて夏が終わり物語エンディングを迎える。けれどそこに訪れたのは英雄凱旋というハッピーエンドではなく、別れだった。自分の将来という現実、親の都合という現実、これから生活という現実、ライザがそれまで見て見ぬふりをしてきた様々な現実が、仲間たちとの別れとともに押し寄せる。英雄譚を共にした大切な仲間たちが「大人」としてライザの前に立つ。青春譚を経て特別になれなかった子供たちが「大人」としてライザに別れを告げる。ここでライザははじめて、仲間たちにも同じように物語があったことを理解する。ライザが青春の熱に浮かれて目の前のことだけに躍起になって満足している間に、仲間たちはもっと広い世界を見つめていたのだ。このひと夏の出来事は、決して英雄譚なんかではなく、仲間たちみんなの物語だったという現実がライザを襲う。自分が見て体験してきたひと夏が一気にひっくり返されて、言葉を失うほどのショックを受ける。

 けれどライザも特別存在でないのなら、現実とは向き合わねばならない。ライザは「大人」になることを決める。皆を引き留めない。隠れ家は解散。遠く離れてもまたいつか会おう。そんなありきたりな結末を選ぶ。ライザは特別にはなれなかった。子供のままではいられなかった。「なんでもない」ライザは青春の夢に生まれ、そしてなんでもないまま「成長」という名の死を迎えた。青春を生きたライザというキャラクターは、青春の終わりとともに消える。ライザは「大人」になっていく。

 ライザが「大人」になることを選んだように、プレイヤーもまた青春の夢から覚めなければならない。ずっとこつこつ積み上げてきた錯覚英雄譚は、エンディングの場にきて一気に崩される。プレイヤーの支持した英雄譚なんて最初からなかったのだ。エンディングプレイヤーに、ゲームシステムからもたらされる特別感や万能感を物語解釈にまで持ち込んでいないか咎めてくる。ライザ視点しか見てないのに物語全体を理解した気になっていないかと冷酷に突き放される。ずっとおだててきたくせにエンディングにきて突然「なんでもない」の世界に突き落としてくる。プレイヤーも「大人」にならなければならない。

 平和後日談もなく物語ピーから急に始まる決してハッピーではないエンディング。いつか訪れることを知っていた仲間たちとの別れ。その別れを祝福したい気持ち。けれど自分だけ取り残された焦燥感もある。どうにかハッピーエンドには行けないのかと歯がゆく思う気持ち自分特別さを否定された時の居心地の悪さ。

 そんな複雑に絡み合ってモヤモヤした、けれど無性に懐かしいあの青春喪失感を、「ああ、明日からこの部室に来ることは無いんだ」と思うあの青春残響追体験したいなら、これほど適したゲームは他にないだろう。

 ひと夏の濃密な時間を過ごして、結局特別にはなれず「なんでもない」まま青春時代を終えた少女、ライザリン・シュタウト。そんな少女に、3年の年月を経て、2度目の夏が訪れるという。

 「ライザのアトリエ2 ~失われた伝承秘密妖精~」は今冬発売予定。アトリエシリーズをよろしくお願いします。

2020-07-21

つらい

どうしてもモヤモヤした思いが消えず増田に書いた。

死を受け入れられない

三浦春馬は私達の青春だった。

思い出を巡ると三浦春馬の顔が思い浮かぶ

彼は私達の青春偶像なのだ

ごくせん

ブラッディマンデイ

君に届け

ドラマ感想学校でたくさん話して、

映画を見てキュンキュンして、

ミュージカル活躍する彼を応援した

あの俳優が好きだねと休み時間友達と話した時、

あなた名前が上がった

私たち青春時代に見た物語にはあなたの姿があって、

あなたの姿は正しく私達の青春の一断面なのだ

どうして死んでしまったのか、と誰しもが思っているのではないか

遠くにいる私たちがそう思っているのだから彼と親しい人はそうだろう、事務所から発表されたメッセージを見てもそのように思う。

愛された人だと思う。

熱烈なファンとは言えない私でもそうだった。

私たち三浦春馬神聖化したくない。

私はまだあなたの死を受け入れられていない。

ニュースを見てからずっと泣いて、またこ文章を書きながら泣いている。

あなたの成長を追いかけて、私たち大人になれるのだと信じていた

でも、いつか私たちあなたの年齢を追い越すことになってしまうことが悲しい。

あなたのことはきっと人生で幾度も思い返すでしょう、

あなたの死を受け入れられず、まだずっと悲しい気持ちでいる

もう届かないけれど、あなたは本当に素晴らしい役者だった。

あなたは本当に素敵な人だった。

2020-07-17

anond:20090717010338

青春時代の傷を深く抉ってくるよな。

One more time, One more chance聴くだけで涙腺が緩むようになった。

カラオケで歌おうとするとぼろぼろ泣いて歌えない。

 

「僕はただ働き続け、気づけば日々弾力を失っていく心がひたすらつらかった」

見た当時、まさに主人公のように日々の仕事で失われる人間性自覚しつつ、行きずりで付き合っていた彼女と別れ、それでも身動きができず擦り減っていく自分傍観しながら生きていた。

山崎まさよしが歌い始めた途端に滂沱の涙を流し、過去の後悔やあり得た未来への羨望も、何もかもが綯い交ぜになりただただ泣いてすべてを忘れようとした。

秒速5センチメートル字面だけできつい俺ガイル

 

ついでに今も下り坂を転げ落ち続けセルフネグレクトを起こし人生ロスタイムをただ過ごす日々。

2020-07-14

推し、燃ゆ」を読んだ

作品を読み進めたいのに、どうしても気になって読み進められない。

野暮な人間自覚はあるのだが、書かせてもらう。

この度話題になっている河出書房文藝文藝受賞作品の「推し、燃ゆ」についてである

この作品主人公推している「推し」の「真幸くん」のモデルが、ほぼ確実に3月下旬謹慎処分を受け、7月1日付で仕事に復帰した、ジャニーズグループSnow Man」の「岩本照」がモデルなのでは、と感じさせる描写が多く、そちらばかり気になってしまっている。

物語主人公推しているアイドル「真幸くん」がファンを殴り謹慎処分が下るところから始まる。

先述の岩本照の謹慎2017年ごろの未成年とのホテルでの飲酒を文春に報道されたためであった。

しかし、彼は2014年ごろに、粘着質なファン(所謂ヤラカシ」と呼ばれる迷惑行為を行うジャニオタ)を殴って謹慎している。

当時はあまり話題にならなかったが、一部ジャニーズファンの間では帰ってこないのでは、と言われていたりした。(また、この度の謹慎は2度目であることから、今度こそ帰ってこない可能性もあるのではと一部で話題にもなった。ファンの皆さんは帰ってきて良かったですね。)

また、子供時代に「ピーターパンミュージカル」に「ピーターパン役」で出演していた「推し」と言う描写がある。

そして、岩本照も子役時代ピーターパン役ではないものの「ピーターパンミュージカル」に「ジョン(ウェンディの弟役。演出により変わるかもしれないがフライングするシーンがある)役」で出演しているのだ。

もちろん様々なアイドルを調べた上で(もしくは作者自体アイドルファンである可能性も十分あるだろうが。)、さらに読者に伝えたいことは別のことだと言うのは重々理解しているつもりなのだが、あまり自分人生の近くにこの物語が横たわりすぎている。

岩本照のファンではないが、青春時代岩本照周辺にいた、もしかしたら炎上するかもしれなかった推しのいちファンとして、誰かとこの想いを共有したくなってしまったのだ。

みなさんの「推し(およびその周辺)、燃ゆ」エピソードは何かも気になる。

なんの脈絡もなく、役にも立たず、面白くもない文章を書いてしま申し訳ない。

書いて満足したので本編に戻る。

2020-07-13

日本人は幼い???

僕は昔からアイドルが好きで、主に10代後半から25歳くらいまでの女性を見て元気を貰っている。

おじさんにはない、溢れ出る若さと初々しさや成長過程を上手く魅せてくれるので応援したくなる。

そして自分の輝けなかった青春時代と重ね合わせている

そんなことを、この間海外の人と食事する機会があったので自分趣味として熱弁してみたら、奇妙がられた。

日本人はどうして幼い子供に夢中になれるの?って

アメリカ音楽シーン流行っているのは誰もが憧れる強くて自信を持った女性達だよって。

アメリカではアイドル流行らないってさ

そんな応援とかしてる暇あったら自分のこと考えた方がいいって。

日本人は働き過ぎだし真面目だからおかしくなってるってさ。

2020-07-04

ノクチルが苦手

アイドルマスターシャイニーカラーズで直近に実装された4人組の幼馴染によるユニット「ノクチル」の空気感およびそのメンバーが苦手だ。

彼女たち一人ずつのSSRTrueシナリオ現在開催しているノクチルが主役のイベントも読み終えたが、この感情が変わることはなかった。

自分おっさんになってしまって、今風のいわゆる「自分が最優先」という感情を隠そうともしないような彼女たちの空気感癪に障る

②よくゲームキャラにあるようなコミュ障ではなく、「自らの意思により、周囲からどう見えるかではなく自分ポリシーにあわせた態度をとっている、たとえシニカルシュールであっても」というように見受けられてしま

アイドルになろうとして自分を磨いていくのではなく、自分を磨いていく、もしくは自分が目指した生き方を手に入れることの一つの手段としてアイドルというスタイルを選んでいるように見受けられてしま

このあたりのような理解の仕方になってしまう為、自分には合わないなと感じた。

③はシンデレラガールズの一部にも見受けられるように思えるが、自分シンデレラ詳しくないのでパス

自分解釈としては、リアルでもバーチャルでも現在アイドルという言葉は「そう、自分の思う姿であろうとする意思」のことを指すと考えている。

そういう意味ではどれだけ過激パフォーマンスをしても未熟であっても奇抜であっても、それぞれがそれぞれに考える

自分にとって最高のアイドルであろうとする姿なら、そこに練度やスキル知名度上下はあっても貴賎はないと思っている。

だけどノクチルのメンバーは、それぞれそうあろうとする意思が少なくともアイドル活動の範疇には存在しないのではないかと、シナリオを読んで思えた。

それこそ名前の通り夜光虫のように、外部からの刺激に反応してアイドル活動という光を(自らの意思とは関係なしに)放出しながら青春時代不安定衝動により自らをゆらゆら漂わせているだけのようだ。

それはそれで良いと思うし、選ばれしものしかできない生き方だと思う。ただ、自分が疑似体験として彼女たちのその生き方の為に

貢献し労力を割きメタ的な意味でいえば課金を行いアイドルプロデューサーというアイマスにおける共犯関係を築きたいかと言われればNoだ。

これからこの情緒不安定に漂っている彼女たちが、決定的に異なる生き方をしている他のアイドル達と絡んで一悶着起こしたりするのだろうか。

それは本当にほんとうに勘弁して欲しい。彼女たちのスタイル積極的否定するつもりはないが、お願いだから自分が好きな他のアイドル達と関わらないでくれ。

2020-06-20

安倍首相原動力

確固たる思想を持った保守派ではない。

祖父岸信介憧憬を抱き、祖父が目指した道筋をたどることで「認められたい」

その一心なのではないか


安倍晋三 沈黙仮面」より

 晋太郎戦争体験を「思想形成に影を投げかけていた」とネガテイプに捉え、岸の青春時代大正期)を「日本が大変飛躍的な前進を遂げた〈栄光時代〉」と憧憬を隠さない。安倍歴史認識の原点がここに読み取れる。しかし、よく考えれば祖父青春時代も父の戦争体験も、安倍はもちろん直接知らないし、恩師や学友が言うように歴史書物を繰って勉強した形跡もあまりない。それでも「祖父は正しい、父は間違っている」と断を下したのは、おそらくは「パパより、おじいちゃんが好き」というようなパーソナルな体験によるのだろう。

 安倍新人議員時代読書も、純粋意味での知識の吸収というよりは、幼心に刻まれた「おじいちゃんは正しい」という思いを確認する作業だったように思える。「おじいちゃんのやったことは間違っていなかった」とする「岸史観」が、首相に就いた安倍をして憲法から安保教科書に至るまで、戦前回帰とも思える戦後体制否定にひた走らせているのではないか


2020-06-18

両親特に母親は過干渉な人でいろいろ耐え兼ね就職と共に家を出た

程よい距離が出来たことでそれまでが嘘のように関係改善した

親の目を伺ってびくびくしてばかりだった精神も驚くほど安定した

自分達がこんなに穏やかな親子関係が築けるようになるとは思わなかった

家を出て数年経った今、もし実家にいるときからこのようなよい親子関係を築けていたなら、自分青春時代もっとよりよいものになっていたのではないかと思うことが増えた

思春期をびくびくしながら生きていた後遺症が今も時おり顔を出すので、後悔に苛まれてどうしようもなくなるときがある

家を出たあと、一度母親に「子供の頃は厳しくしすぎて申し訳なかったと思っている」と言われたことがある

何を今更…とも思ったが「まぁ多少は厳しかったけど別に」みたいなことを言ったと思う

母親もとうに人生の折り返し地点が過ぎ、今ここで何か遺恨を残したらそう長くはない余生を娘とのもやもやを抱えたまま過ごさせるのかと思ったらそれ以上は言えなかった

本当は母親もっと若いうちにちゃん反抗期らしいことをしておくべきだったのだろうな

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