どういう意図で使ってんだろう?っていうか、そもそもそんなメジャーな言葉ではないよね?
読み方も「ほんぽう」なのか「ほんほう」なのかもよくわからなかったし(今調べた)。
それで「ほんぽう」で変換すると真っ先に「奔放」って出てきて、そこから「性に奔放」って言葉が脳内に現れ、
「ああ、俺の人生は性の奔放さとは無縁の人生だったなぁ」と陰鬱な青春時代を思い返してダークな気分になってしまった。
「奔放」は自由気まま。
「性に奔放」とはようするに「自由気ままにセックスを楽しんでいる」という事なのだろうけど、そんな事ができる人生でありたかったと思うと同時に、
セックスを自由気ままに楽しむには、それはそれで才能がなければならないのではないか?とも思った。
セックスを楽しむ才能とはなんだろうか?
例えば自分の身体に自信を持てない人は、セックスを楽しむ事はできない気がする。
チンコが小さくて「ああ、俺とセックスしても気持ちよくないだろうな・・・」と思ったりするだろうし、
おっぱいに自信がない人は「この人は私の胸を揉んでてもイマイチ満足できてないのでは・・・挟んだりもできないし」とか悩むのではないか。
いくらセックスが出来る相手がたくさんいたとしても、このように自分に自信のない人は「奔放に」セックスを楽しめないと思う。
そうなると、セックスを自由気ままに楽しむ為に必要なセンスとは、自分自身に対する絶対的な自信という事になるのではないだろうか?
自分のチンコがどうとか、おっぱいで挟めるかとかに悩む事もない、絶対的な自信。
「自分とのセックスはパートナーを悦ばせる事ができる」と何の迷いもなく言い切る事ができる精神。
しかし、もうひとつまったく別のセンスの存在も考えねばならない。
それは傲慢さだ。
セックスパートナーの感情などまったく度外視し、自分の快楽のみを追求する傲慢さ。
自分自身への自信と似ている気もするが、パートナーへの思いやりを捨て去っているという点で、決定的に違う物だろう。
しかし「性に奔放」という言葉のニュアンスを考えると、傲慢さの方がより必要なセンスな気がしてくる。
自分のチンポがデカいとか、おっぱいで何かを挟むとか、最初言い出したのは誰なのかしら?
パートナーの事など考えない、そもそもパートナーという概念が存在しているかどうかすら怪しい、
ひたすら自分自身の快楽のみが価値観の全てで駆け抜けていくという傲慢さこそ、性に奔放に必要なセンスなのだと思う。
傲慢さをひとつのセンス、つまり才能と考えれば、このような傲慢さもひとつの才能と言えるだろう。