はてなキーワード: 青春時代とは
セックスしたい..
俺は30代も半ばになる。結婚もしている。こんなことで悩んでいるのは馬鹿げている。だけども匿名の殻に閉じこもり、あえて主張したい。それでもセックスしたいのだ。飽きるほど。
昔からモテず、彼女が初めてできたのは20代後半だった。見た目への自信がなかった。体力も自信がなかった。
足が速ければモテる小学生時代。サッカー部やバスケ部に入ればモテる中学生時代。髪型を整え制服を着崩せばモテる高校生時代。どれも見事に縁がなかった。唯一人並みにできたことといえば勉強くらい。良い大学に入ればモテるとおもっていた。
かくして良い大学に入った。ところが何のアピールポイントにもなりはしなかった。就職して稼ぐ大人になれば今度こそモテるとおもっていた。そして同年代よりは稼ぐ大人になった。しかし結局童貞を捨てられたのは魔法使いを目前にした29のときだった。
結局全て言いわけだった。
別に見た目が悪くても、金が稼げなくても、可愛い彼女がいるやつはいるのだ。
未だに若い美男美女のカップルを見ると狂おしい。別に顔や外見が全てじゃないと強がってみるも、あのかわいい女の子と毎晩ヤリまくってるんだろうなと思うと情けなくも嫉妬する。
中学生のときの初キスだとか、高校のときにセックスしたとか、たとえフィクションでも話を聞いただけで気分が落ち込んでしまう。中高生への性教育の現場なんてのも胸糞悪い。クラスの女子とはなかなか話せず、家では黎明期のインターネットで収集していた画質の悪いエロ画像を妄想で補完しながら抜く。そんな暗くじめじめした青春時代を送っていた俺。女子どころかクラスの陽キャ男子とも疎遠だったため、リアルな恋愛事情なんて情報が入ってこない。今、当時のリアルな恋愛事情を聞くとフィクションではなく本当にあったなんて裏切られた気持ちになる。次節イジってくる陽キャどもを敵視し、恋愛にうつつを抜かしている隙に勉強し見返してやりたいと思っていた。大学・就職は非常にうまくいった。でも、やりきれない。風俗にいっても、やるせない。今さら何を経験したところでもう青春時代のトラウマを塗り替えることはできない。今からどれだけやりまくったところで、10代は巻き返せないのだ。
俺は結婚はした。美人ではないが毎日話していて楽しい妻と一緒にいると、結婚してよかったと思う。ところが典型的なアラサー夫婦で、結局セックスレスになった。結婚したらセックスフルな生活を送れると思っていた矢先だ。
「今さら何を経験したところで」なんて強がってみたところで満たされない事実からは逃れられない。
夫婦でセックスレスだろうが、やってるやつはやってる。コロナでリモートワークで昼は家に俺ひとりだ。同じ状況の男は不倫だとか浮気相手とよろしくやっているのだろう。
もう後悔したくない。性欲枯れてからもっとやりたかった人生だったなんて情けないことを考えたくない。10代は巻き返せなくても妻と精一杯楽しめばいいじゃないか。たとえ暗い青春時代を送っていても、飽食すれば多少は浮かばれることだろう。
そう思いながら、そっぽを向いている妻と冷たいベッドで寝るのであった。
この増田を出汁にするようですまないが、女性は一生ソコソコの待遇で働きたければ機械系エンジニアを目指すのも考えて欲しい。
俺自身は高専→大学編入→さらに院で修士号取得というコースで母親以外の女とは架空の生き物かな?という青春時代だったが、
社会人になって会った女性エンジニアたちはバリキャリってほどカリカリしてもなく、家庭も持ちながら地道に働き続けている方が多かった。
人生の中で仕事を離れる時期があるのは出産・子育てする女性だけでなくて、自分の大学や会社での同期だった男連中だって鬱や不摂生からの病気やらでしばらく療養となった者はいるが、エンジニアとして再就職はまあなんとかなってる。
これもまた出汁にするようだが、女性に人気の一般事務とかアパレル小売とか、または大卒でも転勤が当たり前だったり一旦退職すると戻りにくい文系総合職よりも、エンジニアの方が充実した職業人生になる(可能性が高い、と思う)。
13人の客、その12人目は杖をついた老人だった。
「『愛のリコーダー』の尺八奏シーンは、若い頃に見たミュージックビデオを髣髴とさせる。写真を何枚も撮ってパラパラ漫画みたいに動かしている、随分と凝ったミュージックビデオだった」
「“パラパラ漫画みたいに”言っただろ!」
若者は経験も語彙も少ないから中身のない話をしがちといわれるが、実際は老人のしてくる話も中身がない。
経験や語彙があっても、それらを整理整頓する処理能力が衰えているからだ。
結果、言葉が足りなさ過ぎたり、余剰過ぎて要点が分かりにくかったりする。
「“えむびー”なんぞの話なんてしとらん。ミュージックビデオで聴いた尺八の音色が、どこか別の場所で聴いたことがあると言ってるんだ」
「『愛のリコーダー』の話は終わっとる! 今はあの尺八の音色が、どこで使われてるかって話をしてる!」
しかも、こちらが会話に参加しないと不機嫌になるし、参加したらしたで不機嫌になってくる。
いずれにしろ面倒くさくて、疲れるのは同じだ。
「なんかテレビでやっとった! ふほほ~ん、ふふ~ん……こんな感じの音色で」
「ふほほ~ん、ふふ~ん!」
「いや、そんなに強調されても」
この話の何がキツいって、一向に話がまとまらない割に、最終的な実りが少ないことだ。
せめて戦時中の体験談だとか歴史的な話だったり、含蓄に富んだ話をしてくれるなら甲斐もあるんだが。
老人に“無人島に何を持っていくか”レベルのナンセンスな話をされるのは、実際に無人島で生活するよりも大変だ。
「分かんねえかな~!? ふほほ~ん、ふふ~ん、じっしょく~」
「“じっしょく”……あ、ひょっとして『食わず嫌い戦』のことですか」
「食わず嫌い? ワシは何でも好き嫌いなく食べてきたぞ!健啖という言葉はワシのためにある」
「いや、そうじゃなくて……」
「言っておくが、自分から健啖なんて吹聴したことはないぞ。自然と周りが呼び始めただけだ。気に入らない飯だってあったし、そもそも質が悪くて不味いものもあった。それでもワシの青春時代は、ただでも少ない栄養を摂り続ける必要があったんだ。それに対して、近所に住んでいたケンちゃんは偏食家だった。4階建てに住む小金持ちだったから甘やかされていたんだろうな。4階建てといっても屋根裏部屋はカウントしていないぞ? 」
「あの、『食わず嫌い戦』ってのは番組コーナーのことで、お客さんが聴いたであろう尺八の音色は、その番組で使われていたんじゃあ……」
「黙らっしゃい!」
こうなってしまっては、もうどうしようもない。
初めから会話はマトモに成立していなかったが、ここまでいくとその体裁すらなくなる。
「そんなケンちゃんとは学校で何かをやる度、いつも一緒だった。仲が良いのもあったが名前順の関係で一緒になりやすいんでな。ケンちゃんは偏食家で体に栄養が足りていないんで、100メートル走とかやってもワシがいつも勝ってたよ。不憫に思って一度だけ手加減したことがあるけど、それでも余裕しゃくしゃくよ。運動以外のことも苦手で、共同で行事とかやると必ず足を引っ張って周りに疎まれとったよ。まあ、これは同じ能力じゃない人間に同じことをやらせようとする共産主義の遺産も原因だろう。ケンちゃん自身はトロくさかったけど悪い子ではなかったしな。お昼の時間には、白と茶色しかないワシの弁当に彩りを加えてくれたし、たまに家に招待されてお菓子を振舞ってもくれた。あの時に食べたお菓子の名前をワシはまだ知らないが、人生で一番おいしかったことだけは確かだ」
こんな話に俺が学べることは何一つない。
強いていうなら、歳をとっただけで人の価値は上がらないってことくらいか。
年月を重ねただけで価値が上がるのはハイブランドのビンテージだけである。
古いアニメの曲にももちろん素晴らしいものはたくさんあるけれど、自分が青春時代にリアルタイムで聴いて好きになった曲だけ3曲選んだ。
・こどものおもちゃ「パニック!/Still Small Voice」
当時好きだった女の子に「1話はだまされたと思って我慢して見て。3話まで見たらきっとはまるから」とビデオテープを貸してしてもらったのが「こどものおもちゃ」だった。
確かに1話はピンとこなかったのだけど、2話か3話か、羽山の弱みか何かを紗南が握り、
探偵の衣装に扮した紗南が羽山に迫るときにこの曲が流れてきてきたところで、「あ、これは間違いなく面白い」となぜか確信したことを今でもよく覚えている。
Bパートの最後からシームレスにエンディング曲がかかるのって、アニメではおしゃれだと感じたんだよね。
アニメのエンディング曲はいわゆるBパートが終わりきった後に始まるものだと思っていたから。
どこまで狙ったていたのかは分からないが、自分にとってこの曲のイントロは「この後どうなるの?どうなるの??」という期待感を高める、最高のイントロだ。
ちなみに、好きだった女の子とこの後どうなったかというと……言わぬが花というものだろう。
アニソン史的な位置づけとしては、NOIRで梶浦由記は「発見」され、その後の活躍につながるわけで、
そのきっかけとなったのは「salva nos」と「canta per me」で間違いないだろう。
そんなごたくはともかく、
salva nosは霧香やミレイユが手を汚して斃した者たちの魂を救済する歌だとしたら、
canta per meは、その汚れた手をもってなお、お互いを求めずにはいられず、そして手を汚して斃していく二人の魂の歌(その象徴が25話でこの曲が使われたシーン)であり、
自分はただ好きと言うほかない。
この曲は誰が歌っても名曲になるのだけど、おすすめはEmilyのカバー。聴く機会があったら圧倒されてほしい。
・フルーツバスケット「For フルーツバスケット/岡崎律子」
どれだけこの曲が好きかということを、言葉で表そうとしたけれど、どうにもまとまらない。言葉では言い尽くせない。それほど好き。
私はブリーフが大好きだ。
日替わり下着が毎日白いブリーフならいいのに…使い捨てブリーフがないのは近くのコンビニの早く修正すべきバグである。
それは「全裸ブリーフ」であるとブリーフ論者(私)から結論が出されている。
まず全裸とはなにか。
人間というのは生きる課程で「汚ねぇなゴミが!」っていう部分がでてくる。
例えば乳首なんて見せる文化もあるけど大体は「ゴミが!」隠される部分である。チク毛が汚いのだ。
大体、乳首・チンポ・腹(毛まみれ)、地域によっては顔周りなど毛が多かったり、エグミがあったら、とにかく「人の目にはまず触れさせねぇ」ってところは恥部と呼ばれブリーフの場合は身体全体が恥部になる。
デザインがダサく、布地が少なく、チンポも浮き上がる。
おまえらが好きな「パンティー」も下着になることもあるがそんなものとは大違いの見るに堪えなさだ。
もちろんブリーフの切り身でつくるワイシャツはかっこいい。なぜならワイシャツはかっこいいからだ。
しかしブリーフワイシャツとブリーフそのものの違いはチンポが関係してくるということである。
チンポ(ぶらぶらちんちん)というのはふんどしだとかボクサーパンツやトランクスを想像してもらえば分かる通り腰から出る。カッツォは別だ。イタリア語はすげーよ。あの時は死にかけていた俺も…いやこの話はまた今度だ。
つまり漏らしたうんちにブリーフのうまテイスト成分がガッチリと凝縮される。
神様にゆるされるなら俺はパンティーでつくったベッドでブリブリとうんちを出したいね。
ブリーフ大根なんて料理あるだろ。あれもブリーフだけで作るのとうんちを入れたものでつくるので天と地ほどの…いやそれだとブリーフに実力がないみたいな話になっちゃうから天と高層ビル最上階ほどの違いがある。
しかしこんなパンティーなんて布地が少なかったら嬉しかった青春時代なのだ。
神様はチンポを皆に見せびらかすためにブリーフの構造を作ったんだね。
毎日祈ろう。
お前らさ、焼き殺されるのわかってて何でブクマするんだよ。
そんなキラキラな青春時代なんていくら望んだって絶対に帰ってこないし、何ならもとから自分たちになんて全くの無関係だってわかってるんだろ。
それなのになんでそんな漫画ブクマして人の目につくようなところに持ってくるんだよ。
読むよ。ときめき取り返せるような気がして読むよ。
でもその後の虚無感は何だ。自分は一体何者だと問いたくなる気持ちは何だ。
みじめ。圧倒的なまでにみじめ。
何も取り返せないし何も戻ってこない。そしてこれからもない。
読んだら自分にも何かいいことがありそうな気がして読んじゃうんだからやめてくれよ。
コロナの影でひっそり生きている今が最高なんだよ。
ほんとはみんな外にでられなくてざまーみろって思ってるんだよ。
エイズが流行ったときも神様に深く感謝したような人間なんだよ。
全員幸せになれって願っても自分は幸せになんてなれないって知ってて見ないふりしてんだよ。
これ以上なめくじに塩をふるような真似はしないでくれよ。
個人サイト全盛期から追ってる字書きが浮上しなくなって数ヶ月経つ
独特な感性の言葉選びや、フワッとしているのにメリハリを感じられる童話みたいな話、表現のセンスが好みだった 何より性癖がすごく合った
ただその字書きはわりと有言不実行が目立つ人だったから、無駄な期待をしないようTwitterをミュートし、サイトに直接通っていた
サイトセンスも良くて、ネットの隅の隠れ家のようだった そんなサイトに通って気持ちよくなる感覚も好きだった
気になって字書きのTwitterを覗きにいくと、数ヶ月前から浮上がピッタリ止まっていた
確証もないのに不思議だけど、もう二度とあのサイトが更新されることはないような気がしている
けどきっと数年経てばアッサリ忘れてしまう気もしている
それが1番悲しい
https://anond.hatelabo.jp/20210103010808
友達の恋話聞いてると「3回目のデートで告られた」ってのが多いのに、なんで私がいいなと思う男性は、回数を重ねるごとだんだん盛り下がってフェードアウトしたり、突然ヤリモク人間に変化したりする人ばかりなのだろうかとずっと思ってた。
でも、やっとわかった。友達の恋バナは嘘だよ。
「(全部のデート私から誘って、いっぱい褒めて、いっぱい話を聞いて、割り勘して、LINEも私からマメに送って、◯◯くんのXXがいいなとかもはや会いたいなと言っちゃうとか好き好きアピールダダ漏れして、ようやく)3回めのデートで告られた」が正解。
こんだけセクハラが問題視される世の中で、男性も「あ、俺が好きって言っても大丈夫そうだな」って感じる安全性が無いと、じゃあお付き合いしましょうってならないんだと思う。
青春時代に恋愛をいっぱいして、基礎練ができてる子は、「ギリギリキモいと思われないラインの最大限好きアピール」の加減を人によって調節ができる。
でも、そういう青春を送らなかった私はそれができなかった。全く好きアピールをしていないのに告白されると思い込んだり、顔がどタイプの人と近づけばメンヘラめいた追いかけをしてしまいドン引かれたり…七転八倒してようやく相手の男性をちゃんと見据えて、好きだと思ったら素直に好きを表現することができるようになった。
増田さんは、文章だけだとかなり受け身の仕草だったのかなあ?と思ってしまった。そもそも男性のこと好きだったのかな?彼が告白してきたらOKした?会ってるうちに好きになるかも…なんて悠長に構えてると、いい人からどんどん百戦錬磨の女性たちに取られていってしまうよ。
多分男性は、「俺は誠実に対応したけどこの子全然俺のこと好きそうじゃないなあ。付き合うとか全然想像できない。でも誘ったら来てくれるから、俺のこと嫌ってはないんだろうなあ。何回もご飯奢ったし(←憶測)最後ぐらいヤらないとなんか損した気分。俺のこと好きじゃないなら後腐れなくて丁度いいや」って感じじゃないかなあ。
某レビューサイトで、今読んでも面白さの色褪せない、おすすめの古のBLとして紹介されていた。タイトルのセンスがすごく良いと思ったので買って読んだ。
私が買ったのは文庫版を電子書籍にしたものらしく、本編以外に同人誌として頒布されたらしい短編がいくつか入っていた。
確かに面白いんだが、初版が出た年(1998年くらいだったかな)から見ても文化的に地味に古かったんじゃないだろうかと思う。作者の青春時代が窺えるというか……バブル時代に学生だったの? のわりにJKがルーズソックス履いてたりして。ルーズソックス、確かちょうど98年頃にスーパールーズに超進化した挙げ句に広末涼子大人気の辺りにスパッと誰も履かなくなった記憶がある!
脇役のコンサバ女子が主人公の入ったゼミの面子を見て、こんな奴らが将来社会を支えるオヤジになるんだから日本が悪くならない訳がないとかなんとか言っていて、その予言は見事的中した昨今ですなと、思わずこめかみを抑えてしまう私だった。
あれっ、BLの話をするんだったのに何話してるんだろう私、気が付いたらノスタルジーどっぷりになっててヤバい。
メインカップルに『きのう、何食べた?』のケンジとシロさんの面影を感じる。作者さんはこういう優しい攻めと強気の受けが好きなのね、なるほどなるほど。
白泉社文庫だし、同人誌ぶんも同時収録とはいえ派手なエロとかないでしょと思ったらめっちゃエロある。半分くらいエロなんじゃないかなと思うくらいある。びっくり。
古のBLなせいか、修正箇所と思われる部分が少ない。というより、構図が工夫されているので、そもそも修正の必要なブツがあまり画面に出てこない。こういうのいいなー。私は画面に「何が描いてあるのかわからない謎の空白」のあることにストレスを感じてしまうので、最初から修正が必要なブツをわざわざ出さない方向性、わりと歓迎する。
メインカップリングの恋愛よりは、攻めの人の父親や弟との関係性とか、受けの人の同僚の恋模様とかの方が、興味深く面白かったかもしれない。
大人・子供間に対しては条例やその厳罰化で足りてるからここでは省く。
・未成年は不純異性交遊なんかせずに勉強してろ!年齢引き上げに賛成だ!←暗い青春時代だったのかな?まぁ言いたいことはわかる。
・対象年齢の絶対値で決めるのではなく、年齢差で決めるべき!←子供の判断能力が違法性の根拠になっている以上、大人相手だと判断できないが数個上の先輩だと判断できるようになるというのは苦しい気がするが、そういう点も含めて法改正、場合によっては憲法改正も視野に入れるというならわかる。
・子供間は”大丈夫”にしろ!←何を根拠に”大丈夫”とするのか理論だてられるならわかる。
・13歳という設定に科学的根拠はない!←引き上げにも科学的根拠なんてないんだが。だから大半が「欧米は~中国ですら~」って話をしてるんだが。
・同意があれば不問にしろ!←未熟故同意する能力がないから、同意を無かったことにするというのがこの問題なんだが。
・子供同士の行為で判断力の未熟さゆえの行為を罰するのはおかしい。引き上げに賛成!←引き上げ範囲の子供が強姦で逮捕されるようになるんだが・・・
これだけ丁寧にまとめられた記事を読んでこんなコメント・トラバが付くんだから、大人もまともな判断能力があるか怪しいところ。
新サクラ大戦が発売されてから一年が経った。発売日に買ったゲームのパッケージは、封を切られることなく本棚の中で埃を被っている。
私は15年近くサクラ大戦のファンを続けている。いや、続けて「いた」と言っていいかもしれない。2006年にPSPで発売されたサクラ大戦1&2にドはまりし、ドリキャスとPS2を買って3,4,5をプレイした。一日の受験勉強を終えた後、深夜0時~3時までドリキャスを起動し、3時間だけ睡眠を取って学校と塾へ行き、帰ってからまたサクラをやる。大学受験という過酷な生活の中で、サクラだけが生きがいであった。
ゲームをプレイした自分は次々に派生作品へと手を伸ばしていった。OVAと旧アニメ、活動写真を鑑賞し、小説と漫画を買い漁り、CDを聞いて武道館ライブにも足を運んだ。あらゆる公式作品では飽き足らずに、ネットに転がっている二次小説を片っ端からガラケーで読んだ。サクラにはまって宝塚も鑑賞した。私にとってサクラとは、自分の青春を賭けたコンテンツであったのだ。
サクラに熱を挙げていた私とは裏腹に、サクラ自体にはほとんど進展がなかった。Vの発売以降も定期的なショウは開かれていたものの、公式的な動きはパチンコや他ゲーとのコラボ程度であり、ジャンルを前進させるコンテンツ――本編の続編は止まっていたに等しかった。1年、また1年と歳月が流れるにつれ、私も他のジャンルに手を広げていく。サクラは依然として好きであったが、あくまで懐かしい思い出の中の1つという立ち位置になっていった。
しかし、2018年4月のセガフェスでついにその瞬間が訪れる。
「新サクラ大戦始動」――太正29年の帝都東京を舞台に新しい花組が復活する。Vから13年経ってのナンバリング続編が満を持して発表されたのだ。
あの瞬間の興奮を今でも覚えている。アパートを着の身着のまま飛び出し、家の前の川沿いを下流のほうへ歩いては折り返し上流のほうへ歩いてはまた折り返し、何度も何度もあてどなく歩き続けた。頭の中に溢れて来る激情が身体をじっとさせてくれなかった。
私がサクラ大戦を初めてプレイした時は、すでに当時のシリーズ最終作であったVが発売されていた。私にとってサクラ大戦は出会った瞬間から最終回であり、ずっとナンバリングの続編を望まれながらも、決して叶うことはない幻のゲームであった。
それが、ついに、叶う。サクラの続編を遊べる日が来るなんて、本当に夢だと思った。忘れかけていた青春時代の熱狂と興奮が心をかき乱す。たまらずに開いたTwitterのタイムラインは狂乱の渦に包まれていた。
2019年3月末、セガフェスにてサクラ大戦の続報が発表される。メインキャラクターデザインを久保帯人氏が、ストーリーをイシイジロウ氏が、そして音楽を田中公平氏が手掛ける。檄帝にコーラス等のアレンジを加えたメインテーマは、今までのイメージを踏襲しながらも新しい風を吹き込もうとしている。私の心は歓喜と期待に溢れていた。Twitterでは友人がPVを見て考察を巡らせていた。発売日は2019年12月12日――もう一度あの世界が味わえると思うと自然と気持ちが昂った。
同年の6月から、「帝劇宣伝部通信」というコーナーがセガのyoutubeチャンネルで始まった。公式が新規情報を発売日まで随時公開していく番組である。プレイ動画、キャラクター、世界各地の華撃団の紹介、グッズとメディア展開など、様々な情報が発信されていく。
私はそれらを欠かさずにチェックしていった。しかしながら、一か月、また一か月とカレンダーをめくるにつれ、自分の心の中には言い知れない不安のような影がよぎっていった。
「果たしてセガは、サクラ大戦を未来へと続く作品にできるのだろうか?」
今の時代、美少女たちと触れ合えるゲームはそこらに無料で溢れている。歌う少女も戦う乙女も、20年前とは比べ物にならないほど多くなった。群雄割拠のゲーム業界でサクラというジャンルは生き残ることができるのだろうか?
サクラ大戦は時代とともにあった。当時のアドベンチャーゲーム、ありていに言えばギャルゲーの中で、サクラは独特の地位を占めていた。歌劇とスチームパンクの融合、セガサターンという機種だからこそできた恋愛ゲームの一般向け展開――あの頃のサクラを不動の地位に置いていたものと言えば、新規性と物珍しさによって時代を先取りしたコンテンツ力であったことは疑いない。
しかし、時代は変わった。ゲームは何でもアリになった。アイドル物のゲームが世間一般にまで浸透するとともに、きちんと遊べるゲーム性を核としてギャルゲーさながらの恋愛要素を取り入れる作品はいくつもリリースされている。
サクラ大戦は初代から24年の歳月を経た。その年月は時代性という重りになってサクラ大戦にのしかかっている。
気づけばそう問いかけていた。プレイ映像が公開されていくにしたがって、自分の中の情熱が冷静なものに変わっていくのが分かった。
そして2019年12月12日、私のもとにAmazonからパッケージが届いた。そのときは仕事が忙しく、届いてから3日ほどやる時間が取れなかった。
極力ネタバレは控えていたものの、つい気になってTwitterを覗いてしまった。
そこには、「熱」がなかった。
新作発表、主題歌公開のときに賑わいのあったタイムラインは嘘のように静かであった。ストーリーに言及するどころか、面白さやつまらなさを語る人もいない。ぽつぽつと流れる呟きは、まるで腫物に触るような言葉の数々であった。
好きの反対は嫌いではなく無関心である。本当に面白いコンテンツであれば、人々は誰に先導されるでもなく自然と語り始める。それはネタバレであれ考察であれ妄想であれ、大きな熱となりジャンルを強く後押ししていく。しかし今は、その熱がどこにも見えなかった。栄華を極めたかつてのコンテンツを前にして、友人たちは出来の是非を問うこともなく、ただ当たり障りのないことを呟くばかりであった。
――ああ、そういうことなんだ――
その様子を見た私の心の中に、言い知れないほどの寂しさが襲った。それは悲しみや怒りといったハートを揺れ動かす激情ではなく、まるで亡くなった親友を前にした時のような、涙も出ない喪失感であった。
私はそれを見て、新サクラ大戦を遊ぶことを止めた。プレイしたらそこで終わりになってしまう。20年以上続いたシリーズの行く末を見届けてしまえば、「いつか続編が発売されたらいいなあ」と心を躍らせることもできなくなってしまう。
「ああ、こんなもんだったよなあ」という気持ちで終わらせることが嫌だった。ゲームの面白さに興奮することも出来の悪さに嘆くこともなく、ただただ現状を受け入れて観念することがたまらないぐらい恐ろしく感じた。
こうして私は、サクラ大戦というシリーズを思い出のまま取って置こうと決めた。私にとってサクラ大戦は、続編を望まれながらも決して作られない希望のゲームである。あのころのノスタルジーを終わらせもせず続かせもせず、優しい思い出のままそっとしておこうと心に決意した。
そんな私とは対照的に、漫画、テレビアニメ、舞台と、次々にメディア展開が進められていく。ユーザーとの熱量の違いは目に見えており、ゲームの中古価格がそれを如実に表していた。
そして2020年12月15日、新サクラ大戦から約1年後、ゲームアプリ「サクラ革命」がリリースされた。開発はソシャゲ業界最大手のFGOを手掛けるディライトワークス。リリース初日にも関わらず、タイムラインでは話題にすら挙がっていない。PVを見て考察を巡らせていた友人は、FGOのカルナサンタに熱を上げていた。
もう、誰もいなくなっていた。
そして私はまだ、「新サクラ大戦」をプレイできていない。15年前の思い出にずっと閉じこもり、夢の続きを見ることを拒否しているのだ。
「秋元康案件ばっかりかよ!」と言われるかもしれないけど、結果的にはこうなってしまった。
自分が見つけきれていない曲やMVもあると思うので、個人的な推しで良いので(そもそもそういう企画だ)教えてくれると嬉しい(意外と年末のこの時期に発表された曲も多くて追いかけきれない)。
部門はさらに追加するかも(細かく部門を追加すると各グループ1曲ずつは選びそうなのでとりあえず厳選してみた)。
【企画賞】
「世界中の隣人よ」
コロナ禍の重い空気の中でアーティストがメッセージや楽曲を発信する特別企画は沢山あったが「現役メンバーだけでなく一部卒業メンバーも歌唱および映像参加」という特別感はアイドル企画の中でも群を抜いていた。
「各自が自宅で素材を撮影」という要素も含めて、この状況だからこそ生まれた奇跡。
【タイアップ賞】
タイアップ前提の楽曲は、基本的にタイアップする企業や商品のメッセージが優先され、アーティストサイドの色や個性は薄れがちであるが、本作はFPSゲームとのタイアップで、結果としてタイアップのイメージを最大限に尊重しつつ、最近のBiSH楽曲の中ではもっともBiSHらしさが出たのでは、と思える傑作。
【MV賞】
日向坂46
「アザトカワイイ」
楽曲のコンセプトだけを考えれば、MV冒頭や随所で挿入されるシリアスな表情(笑顔ではない)のシーンは一見不要なようにも思えるが、日向坂46がひらがなけやき(けやき坂46)だった時代の楽曲「期待していない自分」のMVでは笑顔を封印したシリアスな表情だったこととの対比、その時以来、久しぶりに(日向坂46としては初めて)佐々木美玲がセンター復帰という物語として捉えると、エモい。
MVの制作チームは違うので、狙ったものかどうか真相は不明だが、その物語を連想させた時点で勝ちである。
【大賞】
「君のことをまだ何にも知らない」
発表やライブ披露は2019年末から行われていたが、発売は2020年1月なので2020年にノミネート。
今年これを超える女性アイドル曲は出てくるのだろうか……とずっと思ったまま、結局1年が経過してしまった。
番組内での楽曲の仮歌による音源発表時にNGT48の中井りかが悔しがっていたように、アイドル曲としてあまりにも完成度が高すぎて嫉妬したアイドルや「推しのアイドルグループにほしい!」と思ったアイドルファンも多いのではないだろうか。
青春時代のせつない片思いの物語を描く歌詞だけでなく、それを支えるせつなさ全開のメロディ、ただせつないだけでなく、イントロやサビ前、コーラス(ボイス)など、随所にライブでの盛り上がりを期待させるアイドル曲らしい味付けが丁寧に加えられている。
さらにラストの落ちサビからラストサビは、メロディの盛り上がりと共に楽曲の中の物語の進展を連想させる仕掛けになっており、最後まで完璧。
いわゆるアイドル曲としてはベタ中のベタだが、丁寧な仕事をするとベタも傑作になるという良い見本だと思う。
しかし、青春高校3年C組、テレビ東京ローカルからスタートした番組企画ゆえか(現在は5局ネット)、MV含めたYouTubeの再生数が他のメジャーアイドルと比較すると明らかに少ない。
そう言われれば青春時代に生きてる