はてなキーワード: 軽蔑とは
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「遠藤さん。僕は、先週の水曜日に、遠藤弘美さんの上履きを下駄箱から抜き取り、廊下の角の水槽の中に隠しました。そして、自分でやったことなのに、誰か他の人がやったふりをして、自分でその上履きを見つけました。ごめんなさい。もうしません」
気持ち悪かった。男子なんてこんなもん、って思ってたけど、実際に自分がやられてみると、『こんなもん』じゃ到底気が済まない。私の上履きを、私が見ていないところで下駄箱からとって、それを水槽の中に入れた? こいつが? 自分が目の前にしているものを、到底受け入れられなかった。
でも、こう言わなければならないんだろう。
「いいよ」
せめて、ケン君に軽蔑の気持ちが伝わるように、自分にできる限り最大の軽蔑を込めた声色で、私はそう言った。でも、どうせ『素っ気ない』くらいにしか思わない。男子はそんなもの。まして、こんな変態に、私の気持ちがわかるわけがない。
お決まりの儀式が終わると、私はできるだけ無表情を保ったまま、席についた。
「園田君は、勇気を出して自分がやったことを告白して、三人にきちんと謝ってくれました。間違いは誰にでもあります。でも、間違いを認めて謝るのは、誰にでもできることではありません。園田君、ありがとう。そして、高橋さん、広瀬さん、そして遠藤さんの三人も、園田君の話をきちんと聞いて、許してくれてありがとう。人を許すのも誰にでもできることではありません。みなさんも、間違いを犯したり、悪いことをしたりして、だれかを傷つけたり、また誰かに傷つけられたりすることが、これからたくさんあると思います。そういうときは、高橋さん、広瀬さん、遠藤さん、そして園田君のように、間違いを認め、きちんと謝り、そして、誰かが謝ろうとしているときは、きちんとその話を聞いて、できれば許してあげてください」
くだらない。先生だって、「ごめん」の一言で許せることと許せないことがあるのはわかってるだろう。ただ自分がクラスを指揮したいから、こんな風にしているんだ。
「園田君、こんなことをしたのは、理由があるんですよね? それをみんなの前で話してくれますか?」
「クラスのみなさん、僕は、高橋さんと広瀬さんと遠藤さんの上履きを隠して、それを自分で見つけてヒーローになったつもりで楽しんでいました。豊島さんの上履きがなくなって、それを山崎君が見つけたとき、山崎君がみんなに褒められて、豊島さんに喜んでもらっていたのが羨ましくて、自分もああなりたいと思って、やってしまいました。みなさんを騙して、不安にさせて、それを今まで黙っていて、本当にごめんなさい」
どうして当事者じゃない他のみんなが、「いいよ」、「いいよ」と言っているのか。本当にくだらない。迷惑をかけたというけど、だったらそれは、当事者の問題をクラスみんなの問題に仕立て上げた浦木のせいだ。『先生』という立ち位置は、そんなに気持ちいいんだろうか。
周りのみんなを見渡して見ても、本心で「いいよ」なんて言っているやつはいないだろう。いや、ひょっとしたら、ケン君と仲良しのタッ君くらいは、本心かもしれない。
そう思って彼の方に目をやった時、私は自分の耳を疑った。
アヤちゃんだ。ケン君が犯人じゃない? アヤちゃんは、何かを知っているの?
次の瞬間、タッ君が立ち上がって叫ぶ。
「僕じゃない!」
状況が理解できなかった。
「犯人は……」
「だから僕じゃないって言ってるだろ!!」
「黙って。タカヒロ君疑ってな……」
「黙るのはそっちだ!」
「だからそうじゃないって言って……」
「うるさい!」
「私はケンジ君じゃないって……」
「違う、違う、違う! 犯人はケンジなんだ。それでいいんだ。ほら、本人がそう言ったじゃないか! あいつは、アヤネの上履きを見つけたユウヤが羨ましいって言ったんだ! 『ヒーローだぜ?』って言ったんだ! あいつは、みんなに褒められて、女子に感謝されるのが羨ましくて、自分で上履きを隠したのに、それをまるで、『俺は頭が良いから見つけられるんです』って言うみたいに、わざと知らないふりをして、自分で隠したのを自分で見つけて、自慢げに『先生、あった!』なんて言ってたやつだ! あいつは、表では優等生ぶって、裏では女子の上履きを盗む変態だ!」
そんな言い方しなくても、と心の中で言いかけた時、自分もそう考えていたことに気づいて、ゾッとした。でも、タッ君のいうことは間違ってない……はず。じゃあアヤちゃんはなんでケン君をかばうの?
「園田君待ちなさい!」
割って入るように先生が叫ぶ。思わず教壇に向き直ると、ケン君がいなくなっていた。状況に耐えられなくなって、逃げ出したのかもしれない。弱い奴。あいつは私の上履きが隠された日もこうだった。いや、隠された、じゃなくて、あいつが隠したんだ———アヤちゃんの言うことが、本当でなければ。
「みんなは静かに待ってて」
音の方に向き直ると、涙目のアヤちゃんがタッ君を睨みつけ、タッ君はほっぺを抑えて俯いていた。
「上履きを隠したのは、私なの!」
「マジかよ」
私にだって、にわかには信じられない。アヤちゃんが私たちの上履きを隠した? ケン君がやったって、さっき言ったばかりなのに。
私はあの時、ユッちゃんとアユちゃんと一緒に、体育館で遊んでいて、上履きは体育館の下駄箱に置いたままだった。アヤちゃんは、いつも一緒に遊ぶのに、あの時はいなくて、私が上履きがなくなっていることに気づいて、二人と一緒にギリギリまで探した後教室に戻ったら、自分の席に座ってた……ような気がする。だから、アヤちゃんにアリバイは、ない……の、かな。でも、アリバイがないのはケン君だって一緒……。
「私は、ユカちゃんと、アユミちゃんと、ヒロミちゃんの上履きを隠しました。でもそれは、三人が私の上履きを隠したからです」
はっとした。アヤちゃん、まさかあの時のこと……。でも、それは違う。
「アヤちゃんそれは違うよ」
私の思ったことをそのまま言ったのは、私の口ではなくユッちゃんのそれだった。
「何が違うの!? あの時私の上履き袋を持ってたのはあんたたちじゃん!」
そうだけど、と私が言う間も無く、口の早いユッちゃんが続ける。
「アヤちゃんが途中でいなくなっちゃうから、私たち、ずっと体育館で待ってたんだよ。でも、用具のおばさんがもう体育館閉めるよって言うから、仕方なく、アヤちゃんの上履き袋も一緒に持って出たんだけど、アヤちゃん戻ってくると思って、用具のおばさんに言って、上履き袋を体育館の入り口のところにおいておいたの」
体育館は普段、授業とか式典で使う時以外は閉まってるけど、昼休みに校庭が使えないときは、昼休みが終わる10分前まで解放してくれる。その日はちょうど、光化学スモッグ警報が出ていて、校庭が使えなかった。
「でも私、体育館に戻ってきたら、もう閉まってて、入り口に上履き袋なんてなかった」
アヤちゃんが嘘をついているとは思えなかった。でも、ユッちゃんのいうとおり、私たちは確かに、アヤちゃんの上履き袋を体育館の入り口に置いて教室に戻った。あとでユウ君がそれを見つけたのは、体育館のそばにある、西校舎の給食用エレベーターの脇だ。だから、アヤちゃんの上履きを隠したのは、私たちじゃない。
「私たちは体育館の入り口に置いたんだから、アヤちゃんが戻ってくるまでに、誰かが移動させたんだよ」
「じゃあ誰が!?」
……
「俺なんだ」
沈黙を破ったのは、ユウ君だった。
「は?」
「お前、自分が見つけたって言っといて、隠したのも自分だったの?」
「こいつがほんとのジサクジエンかよ」
ユウヤは立ち上がって言った。
「俺、アヤネさんに、良いとこ見せたくて……ごめんなさい」
信じられない。こいつがアヤちゃんのこと好きなのは薄々知ってたけど、上履き隠して見つけたふりしてポイント稼ごうとするなんて。
……
「黙って!」
アヤちゃんの声。
「へーんたい……」
「私、嬉しかったのに……」
教室に先生が戻ってきてからは、みんな何も言わなかった。先生がいない間にわかったことは、アヤちゃんの上履きを隠したのがユウ君だったってこと、ユウ君はアヤちゃんの気をひくために、自作自演をしたと言うこと、私とユッちゃんとアユちゃんの上履きを隠したのは、アヤちゃんだったってこと、アヤちゃんは、自分の上履きを隠したのが私たちだと思い込んで、仕返しのつもりでそれをやったこと。わからないことは、どうしてケン君と仲良しのタッ君が、ケン君を犯人だと言ってあんなにキツく罵っていたのかと言うこと。
先生はそのままホームルームを解散して、放課になった。ケン君が犯人じゃないってアヤちゃんが叫ぶのを、先生は確かに聞いていたはずなのに、何も言わない。結局先生は、偉そうなことを言って私たちを指揮することにしか興味ないんだ。
放課後、アヤちゃんと話がしたかったけど、ユウ君と何か話してたから、また今度にすることにした。アヤちゃんだって、被害者なのはわかる。でも、自分の思い込みで私たちを一週間も振り回しておいて、まるで自分ばっかりが悲劇のヒロインみたいなあの態度は、ちょっとムカついた。何も水槽に入れなくたって良いのに。自分のは、上履き袋に入って出てきたくせに。
ユッちゃんとアユちゃんにバイバイした後、駅の近くの電話ボックスに向かった。ケン君にはちゃんと伝えておかないといけない。ママにもらったテレホンカードは、まだまだ度数が残ってたはず。ママの前じゃなく、落ち着いて話がしたかった。
向こうは彼氏が居たりするが、二人で飲みに行ったりもする
向こうからは男と見られてないだろうが、自分は向こうをうっすら女性として見てしまうことが最近増えてきた
夢を見て改めて考えたが、後ろから抱いて体を密着させた上で髪の匂いを嗅ぐくらいのことは実際したい
こんな妙な夢を見てしまったおかげで
そのうち酔った勢いで唐突に体を触りに行って、軽蔑され社内で立場を失ってしまいそうだ
憂鬱だ
ヨーロッパの町の中心には必ず教会がある。教会の鐘の聞こえる範囲を教区と言い、キリスト教における統治の最少単位だったからだ。
朝な夕なに聞こえる鐘の音、そして町のどこからでも見える教会の尖塔、それこそがコミュニティの象徴だった。
かつてのキリスト教会は行政機関であり、司法機関であり、軍隊であり、教育機関であり、医療機関であり、福祉機関であった。
そして何よりも思想の中心であった。
人々は己の知的能力を超える判断を迫られた時には、「神の御心に沿うかどうか」と己に問いかければ良かった。あるいは聖書を開き、あるいは聖職者に問うた。
神の御心にさえ沿っていれば、理不尽な要求を突っぱねようが、相手を怒らようが、死後に天国に迎えられるのは自分である。
現代ではどうだろうか。街が発展して行く中で、中心にあるのは行政機関か、高層ビルディングかか、大規模なショッピングセンターか、資本主義社会にふさわしい姿に変容しているだろう。
しかし、欧米人の心の中心にはいまだにキリスト教がそびえ立っている。町中のどこからでも見え、目を背けていても鐘の音で存在を知らせる、教会の尖塔のように。
これは欧米人の全てがキリスト教の教義に従って生きている、と言う意味ではない。生きて行く上でキリスト教という存在と対峙しなければならないのだ。
Christian=キリスト者としてキリスト教の教義に沿って生きるか、他の宗教を信仰するか、無神論あるいは他の思想信条を信仰するか、あるいは無視するか。
おのれの精神的立ち位置を決定することを強いられるのだ。そして彼らは自分の選択した思想に沿って生きて行く。
さて、翻って本邦ではどうだろうか。信仰と教育が分離されて久しい現代の日本では自分はナニナニ教を信仰している、と明言できる人はかなり少数派なのではなかろうか。
むしろ明言できる人はおかしな思想を押し付けてくる人、と言うイメージさえあり、何かしら信仰していたとしても、自分から言いにくい空気すらある。
中には「無神論です」などと知った顔で言う御仁もおられるが、無神論というのはある種の信仰であり、理論武装が必要な類である。
では、そんな曖昧な、信仰を持たないものをなんというか。「無信仰者」である。ちなみにこれはキリスト教圏であれ、イスラム教圏であれ、信仰の篤い社会では最大級の軽蔑を受ける。
さて、そんな「無信仰者」が多数派となった本邦において、己の能力を超えた判断を迫られた時には、何を基準にすればいいのだろうか。
もうおわかりだろう。
「みんなと同じ」
である。とりあえず周りと合わせておけばいい。周り、と言ってもごく狭い範囲、顔見知りのレベルである。
みんながキックバックを受け取っているから自分もキックバックを受け取る。
……
そしてもう一つ。
「怒られたくない」
である。とにかく怒られるのが怖い。否、怒られた時に思想、あるいは倫理といった、精神の背骨がない。だから声の大きなものが押し通ってしまう。
特に人文系において、大学や研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。
* * *
研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。
例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。
このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日の日本においても、同様である。むしろ、人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識したからに他ならないが——に直面している極東の島国の方が、研究生活を取り巻く環境は過酷であるといえるだろう。
博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しかも低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である。
日本より恵まれた研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単である。しかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語、文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国の研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマの選択が制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである。
当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである。
ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学や官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクス、そもそも学歴のなかったピエール・プルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在である。しかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要な研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである。
尤も研究者も所詮人間であるからして、研究そのものの「客観性」や科学の位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。
* * *
さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働(自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである。
収入がないなどもっての外であり、亡命や収監、失踪や放浪なども、家庭生活とは相容れないものである。
歴史を顧みれば、自死や発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。
できれば平穏無事に、昭和時代に理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満で子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。
しかし今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームもマイカーも持たず、年金制度の破綻を前に怯えながら年老いるのである。
もしあなたが結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナーが無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。
さらに子供がいるとすれば、当然あなたは研究生活を放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制と時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれているかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖」である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)
多くの研究者たちにとって、結婚と出産は研究生活の首にかけられた縄である。
女性研究者の研究生活は性別的役割分業的発想や家庭生活に対する支援をパートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別的役割分業的発想や金銭的支援をパートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。
いずれにしろ、他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである。
だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である。穂積陳重以来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するものと定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である。
しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。
その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。
実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである。
当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。
あるいは「家庭」という理想像の崩壊、高齢者二人世帯や単身世帯、シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体が空虚なものになっているという批判があるかもしれない。
しかし反面で、なお結婚と出産を経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚と出産を前提とした私的領域の生活のモデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。
* * *
収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。
では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究者であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。
前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性に人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法を採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。
後者の方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラーが炭水化物の摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活の否定でしかない。
研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学の研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。
そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日の言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである。
家事労働、ワークライフバランス、長時間労働の問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働は時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大である。ワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないから低賃金かつやることのない中途半端な余暇をもたらすだけである。長時間労働を改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである。
とにかく、家庭生活の求めるものを根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである。
* * *
では、解決方法は何か。家庭生活の問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働を女性が支えるという構図が出来上がった。
しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族からの支援で収入の不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。
もし家庭生活に関与してからも研究生活を継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からのリソースが調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分の研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)
ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソースの調達先である。大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達が個人の能力に帰せられることで、研究の能力とは別にそれに取り組む環境が規定されてしまうということである。
この二つの問題を解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。
どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである。
アカデメイアやリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティが形成されていたはずだ。修道院のようなものである。
いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なものは国外へ出て行ってしまっている。もう最後のタイミングである。
いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間的猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に人文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。
タイトルの通り
待ち合わせの約束してはいじゃあここで会いますねって言って車入ったら警察ドアあけてきた 自分やけに冷静だったな、今思い返すと
普通に警察署連行されて親呼ばれて、まあ怒られたっていうか諭されたよね
「本当にこれが初犯?」って何回も書かれてあぁそんなに繰り返してきた人いるんだって変な感想出てきたりして、めちゃくちゃ笑顔で対応したりとか、もう自分が怖かったな 本当に
円光しちゃダメだよって言われた そりゃそうだよね ヤクザみたいな人に捕まるかもしれないんだよって うん そうだよね 危なかったなぁ でもさ、気持ちいいことできてお金もらえるのってもしかしてサイコーじゃない?そう思うのは私だけ?未成年はなんでセックスしちゃだめなの?親の庇護下だから?子供だから?私が馬鹿なの?私がおかしいの?私が異常なの?皆そう思ってるの?お金足りないから円光しようって思った私のことを皆軽蔑する?私は何が異常なの?思考?思考ならどう変えればいい?私は何がダメで私の何が悪いのかわからない 円光しちゃダメなのは知ってる 理由もうなづける 理解できるけど納得はできない 危ないから?それだけ?なんか、ちょっとよくわからなくなってきた 死にたい 父親が迎えにきたけどこれから母親にいうって 私は今家出て近くにあるスーパーのフードコートで勉強しようと思って出てきた もう終わり 何もかも終わり 母親は私を軽蔑する 人間だと思わなくなる もともと母親は私に興味ないし 署員のお姉さんも皆「お母さんはあなたに興味ないわけないよ」っていうけど興味ないんだよ 愛されてないんだよ 愛ってなに?何がどうなったら得られる?私が好きな人作ったら得られるのかな?彼氏いたことあるけど苦しいだけだった 愛って何かな?好きって何?私は異常者?なにもかもわからない 頭がぐちゃぐちゃ 親に合わせる顔がない 死にたい とにかく死にたい 殺してほしい ついに推しに会えないまま死ぬのは悲しいけど、私が死んで母親が安心できるならそれでいいよ 私が死ぬよ だから誰か早く殺して 死にたい 消えたい
教員やってるけど、思想教育なんてできないと思ってるよ。ただ、ポジティブな思想教育によって生徒が「そう思えない自分が悪い」と思って「矯正」されるというのはあるかもしれない。
辺りを見回せば、倫理観や道徳観、時代感覚まで狂った軽蔑すべき同僚や上司なんざわんさかいる。人権教育しながら生徒の人権踏みにじってる。あの人たちには迷いがないし、弱者の声は甘えやわがままに聞こえるんだろう。色々考える人は淘汰されたり自ら離れるから少ないかもしれない。つまるところ真っ当な「大人」が少ない。私も例に漏れず。
「前向きにならないと将来大変だろう」っていうのはある面では確かにそうだけど、「そもそも前向きじゃないと生きていけない社会がおかしい」って方向に持っていけない所が心苦しい。こういう処世術は一時的な処方箋でしかない。
学校は無難な一つの型に子供をはめ込むようにできているからと言い訳できるけど、実際は、集団でも個々を尊重して動けるような教育をしていかなかったつけを後回しにし続けてるだけなんだろうなとひしひし思うよ。すまない。
もういまさらであるが、デレステの「デレぽ」というミニコーナーにおいて、杏BOTと言う代物をめぐり、このコーナー内でのキャラのやり取りが話題となった
その内容は「ズルをしていた杏のBOTを、なくなって寂しがる満開組かな」というもので、なぜか最終的にBOTを中止させたキャラ(通称委員長)が
そしてこの一連の流れが「陰湿なリアルな女のイジメにみえる」と言及したツイートがバズッたことにより、騒ぎは一気に拡大した…と言うもの。
これだけみると「キャラアンチの難癖かよバカ乙」なのだが、事はそう簡単ではない。
なぜなら杏と言うキャラがBOTを作るきっかけが、毎月あたまに「だるい」「もうだめだ」などと鬱陶しい事を書いて
それを年下のキャラ達(同じユニットの仲間)に呆れられたり(またいってる)注意されたり(イメージ悪い)心配されたり(不真面目にみられるぞ)して、
そこから思いついた代物であるからだ。にもかかわらず思いついた内容が、毎朝決まった時間に「おはよーございまーす!」と書き込むBOTであったのだ。
この時点で杏が小梅ちゃん達の忠告を捻じ曲げ、さらにばれた時の彼女達の落胆や軽蔑買う可能性について等の負のイメージを想像できないアホになっているのだが
(所謂初期モバマスの怠け者が前面アピールされていた頃の二次創作杏に近い)
まぁこの際ソレは横においておこう、で、このBOT意外と長く稼動してしまっており、世話役兼仲良しの「きらり」年下ゲーム仲間の「サッナ」
健康スポーツ美少女「晴」などが見事騙されてしまい、このBOTを本人だと思って褒めてしまっているのである。
この時点でBOTを本人だと思って褒めた3人というあらたな犠牲者が増えることになった。
だからこそである、大半のユーザーは「さぁこれからどう杏が制裁されるのか…」と想像していたのだ。
「きらりにばれてルーム送りだにぃ」「Pが早い時間の仕事取ってくるようになった」「大人組による制裁…」大体このあたりである
つまり眺めてたユーザーも杏BOTの無条件存続など期待していなかったのだ。
そういうオチになるんだろみたいなコラ画像もそれなりに作られていた。
そもそも長くやりすぎて、てるこあたりはもうBOTである事を見抜いた(多分)上で「いつまでつづくのかな…」と楽しそう(ズルだと知ってて、いつばれるのか楽しみにみてる)に眺めてる様すら垣間見える。
んが、杏BOTを注意しに来たのは清美(委員長)ただ1人である、それもBOTの製作に関わった泉(チャージはしない)から情報を得て
(チクリか聞き出されたのか話の流れで教えたのかは不明)「なにズルしてるんですか!!即刻中止です!!」
とその場の勢いでやめさせているのである…まぁ自身含めて数名が騙された反応をしてるので当然であるが、この時の杏、委員長を茶化しただけで反省せず「ばれたからやめる」
としか反応してないのである…まぁこれも横においておこう、こういて杏BOTは「あちゃーばれたか」でその姿を消した…
なんだあっさりだな。
何故か突如卯月と桃華が「無いと寂しいですね」「お茶会に席が開いた」などと意味不明な弁護をかまし
コッヒ「清美ちゃんの言うことも判るけど」ままゆ「正しい使い方(なんだそりゃ)すれば許してくれますよ…」
と怒涛のプレッシャーをかましにきたのである、何故かそこには「真面目アピールのために作ったBOTがBOTであることがバレてもう続ける意義がなくなった」
のに杏が「正しく使うよ(チラッ」などとあてつけがましい悪乗り便乗をかますのである
委員長思わずこのプレッシャーにMPが0になり「相談させてください(なんの?)」
そして杏BOTについて「私の一存で停止させて申し訳ありませんでした」などと言わせ、さらに卯月の言葉の先が
「BOT再開を認めてくれてありがとう清美ちゃん」ではなく「よかったね杏ちゃん」なのである
なんなのこの人たち…
つまり、「杏が年下組に注意されて意趣返しのようなBOTを作った」「3人ほど騙された」「委員長に怒られても謝罪せずただ止めた」「いままで杏BOTに関心も触れもしなかったキャラが急に寂しがったり圧力(悪気はない)かけたり杏が便乗した」「委員長に1ミリの非もないのに謝罪させられた(同じ文章内で強く杏にBOT運用についての注意を促してはいる)」
という、誰も想像しなかった「杏が仕事仲間を欺いたBOTを長々と運用しておきながら何一つ制裁されず、自ら謝罪もせず、不自然なまでに弁護されてBOT再開、委員長絡み損」
というか…作中では卯月メンバー達と杏しか得してない、ここまで来るとキャラを過剰に持ち上げる事で嫌悪感を抱かせんと杏と満開組のアンチが描いたのか、それともただ杏をメアリースーにでもしたかったのか…そんなレベルの話なのである。
無論このやり取りに違和感を持ち「イジメに見える」という「キャラアンチが叩きたくて言ってるように見える(無論意味不明な流れなのでアンチでなくともそう見えてふしぎではない)」意見のほかにも「卯月達いきなりこんなこというか?」「なんでいきなり出てきてるの?」という、「キャラが今まで積み重ねてきた言動や設定」の観点での疑問や批判、つまり「アンチではないファン」も当然の如く言及した、主にツイッターで
しかしここで…
「このやり取りがイジメに見える奴は陰キャ」「卯月や杏たちらしくでいいじゃないかいいじゃないか」「ほほえましいやりとしでしかない」という
この一連の流れを弁護・擁護…どころかただ疑問を抱いただけの人間すら全員無差別に攻撃するという、味方ごと議事堂を攻撃したジェリドのごとき書き込みがツイッター等であふれてしまったのだ。
(晒し上げのつるし上げ含む)
おまけにこの杏BOTを擁護するときの書き込みで「該当部分しかみてないけど」と、杏が小梅達にアレコレ言われてることすら把握していないのを
書き込むエアうっかりさんまで発生した。それはよくない。
そして散々に言われた連中は「公式が出す描写ならなんでも受け入れなきゃいけねーのかファック」となって不満を急速に募らせることになる
さらに最悪なのはここからである、以後アプデでの不具合やイガラッシーのあれこれとかが連続コンボで決まるのである
既にデレぽの件で人格攻撃されていたり、「文句言う奴はPではない」「嫌なら辞めろ」「お前の幻想を押し付けるな」「今杏BOTの話題出す奴はアフィかアンチ」みたいなこと言われた連中はもう容赦も遠慮もしない、公式やこれらを弁護(というか批判者批判)した人間達に不満を公然と言い出すようになるのである
そもそもデレステでのキャラの描写や台詞は、メインストーリー(主に初期)やイベントシナリオでも一部キャラがアレになってて「???」と首をかしげさせる人間は多かったのだ。
何?ソース?グーグルで「デレステ ライター」とかで検索したときのサジェストでいいっすか!
それらに対してデレステ運営・公式に「ガマンだ…まだガマンだ…(プルプル」としていた連中にさえトリガーに指を置かせたのがこの杏BOT事件なのである。
尚、現在デレぽはツイッター上でお手軽に台詞がみれる「デレぽBOT」が稼働中なせいか、はたまたこの騒動でデレぽを見るのがみんな怖くなったのか
アイドル達の投稿に対するいいね(☆)が、写真(ぷちの新規イラスト)がついてないと滅多に9999+行かなくなってしまったとさ
「恋は麻薬と同じだ」って、たまに聞くフレーズだけれど、今までは、そういうもんなんだなあという認識で済ませていた。
常に恋愛のことが頭にあって、暇さえあれば恋人を募集しているような人のことを、内心、ちょっと軽蔑していたかもしれない。
どうしてそこまで、「恋」にこだわるんだろう、って。
想いが通じなかったら辛いだけだろうし、想いが通じたら通じたで、解決しないといけない現実が立ち塞がってくる。人間がふたりいる以上、どこかで妥協は避けられない。
特に、「ビッチ」とか「ヤリチン」とかって言われるような、出会ってまもない人とセックスしちゃうような人のことは、本当にわけがわからなかった。
愛してもないような人とセックスしたって、そんなに気持ちよくもなければ、幸せでもないだらうに、って。
でも、気が変わった。というか、気付いた。
ああいう人たちは、「恋」がしたいだけなんだ。「恋」の麻薬にはまってしまって、どうにかして、またあの気持ちを得ようと、必死になっているだけにすぎないんだ、とわかった。
* * *
今までそれが理解できていなかったのは、俺が「恋」をしたことがなかったから。
ただ、それだけだった。
2017年の11月。俺は、ある女性に恋をした。正真正銘の、初恋だった。それまでは、自分が誰かに恋をするということさら、信じていなかった。
12月。気付いたら、告白していた。あんなに大好きになっちゃうなんて、思っていなかった。ほんと俺チョロすぎ。
それから、しばらくお付き合いをして。それはそれは幸せだった。
恋人を持つ、というのは、本当にかけがえのないことなんだと思う。自分を、自分だけを、褒めてくれて、励ましてくれる相手がいるというのは、それだけで素晴らしいことだ。相手が自分に注いでくれた以上の愛情を返そうとするから、そのふたりの関係は、ふたりだけの「やさしい世界」になる。
くだらないことを言いあって、それだけでちょっと幸せになって。楽しいことは2倍楽しくて、辛さも分け合って半分にする。オンゲの課金アイテムもびっくりのブースト率だ。
ちょっとお互い思うところがあって、しばらく距離を置くことにした。
別に、お互い嫌いになったわけじゃない(と信じてる)。ともかく、一旦、ただの友人関係に戻ったわけだ。
しばらくは、大丈夫だった。
結構な頻度で通話をしていたからだと思う。くだらないこと、なんでもないことを話せる相手というのは、やっぱり得難いものだ。
* * *
ところが、最近。
彼女の方が忙しいらしく、なかなか通話の相手をしてくれなくなった。まあ、仕方ないんだけだね。
そうしたら、俺の方に異変が起きた。
なんというか、端的に言ってしまえば、彼女に対する色々な欲求、要求が、常に体の中から溢れ出してくるのだ。
たぶん、今まではある程度ずつ発散できていたから気にならなかったんだろうけど、それが行き場を失ってしまったんだろう。
「自分はこんなに彼女を好きだったのか」と改めて思うと同時に、自分にドン引きした。
いくらなんでも、彼女に依存しすぎだろうって。執着しすぎだろうって。
思ったところで、この想いが止まるはずもないんだけど。
* * *
彼女の顔が見たい。
彼女の声が聞きたい。
彼女のにおいを感じたい。
彼女といっしょに歩きたい。
そんななんでもないような思いが、たくさん湧き出てくるのだ。
彼女と会って、だらだらして、思う存分話したい。
彼女と真面目な話がしたい。
彼女とどうでもいいような話がしたい。
恋という麻薬の、幸せの中に、ずっとずっと、浸っていたくなってしまう。
恋は、麻薬だ。
* * *
俺の場合は、フラれたわけではないから、まだこうして冷静(?)な分析をする余裕があるけれど。
もし仮に、一度はとっても幸せな関係を築くことができた相手からフラれてしまうようなことがあったら。そういう人が、世の中にいたら。
その相手にまたアタックするわけにもいかないし、でも、きっとまた、その人は「恋」の麻薬を求めてしまうのだろう。
世の中の、恋人をとっかえひっかえするような人は、結局、「恋」という麻薬を追いかけているのだと思う。
一度幸せになれた記憶が忘れられずに、もう一度だけ、あの幸せが欲しくて、残滓でも、かけらでも、なんでも追い求めてしまうのだろう。
俺も、そうならない保証は、どこにもない。
普通の人は、どこで、どれくらいの年齢で、何をきっかけに、この「恋」という麻薬の存在を知るのだろうか。俺は、成人してから、やっと知ったわけだけど。
それを追いかけて、追いかけ続けて、それでもそれを捕まえられなかった人は、どんな人生を歩んでいくのだろう。
こんなに大きすぎる幸せを、一生知らないままならよかったのに。
そうしたら、それ以外の、趣味とか、仕事とか、そういう中でのささやかな幸せだけを追って生きていけたかもしれないのに。
こんな幸せを知ってしまったら、もう、追いかけずにはいられない。
* * *
真夜中に、ふと思い立って、こんなことを勢いのまま書いてきた。
妄想の中で、俺は彼女に、長い長いキスをする。彼女をぎゅーっと抱きしめて、舌をたくさん絡ませる。
しばらくしてから唇を離すと、ぷはっと熱い吐息が漏れる。彼女は耳まで真っ赤になっていて、潤んだ瞳でこちらを睨みつけて、小さく「いじわる…」と言うのだった。
しあわせが、ほしい。
しあわせに、なりたい。
* * *
『ゼロの使い魔』で、アルビオン戦の後、サイトを失ったルイズの様子を思い出した。
あれを読んだときには、死ぬほど誰かを愛せるのはフィクションの中だけだ、なんてことをぼんやり思っていたけれど。
ずっと、幸せな夢に浸っていられるとしたら。
それはどんなに幸福なことだろうか。
女性が差別されず痴漢されず抑圧されずしょーもない男や慣習のために人生ドブに捨てることがない社会が来たらそりゃあ僕だったて嬉しいよ。そのための議論がたくさんなされてるのも進歩だと思うよ本当に。だけどさ、社会のあり方とかみんなの認識をどう変えようっていうお話と、男の人と女の人が互いに憎み合うことって、全然違うでしょう?どうして近頃は一緒くたになってんだ。そこが悲しいんだよ僕は。
インターネットの世界を見るとさ、「女は〜〜、だから〜〜」とか真っ当な根拠なくしかも平然と偏見を語る男は論外だけど、フェミニストを自称する女の人(男の人でも!)でさ、田舎の親族の古い結婚観を心底軽蔑したり、出会った男の性差別的発言を「まだこんな愚かな人間がいる」と鬼の首を取ったかのように嬉々として自分のSNSに書込んだりさ、そんなことをしたって本当に何になるってんだよ。
そりゃあ苦しんでる女性がたくさんいるわけだし、苦しみのはけ口、感情の共有としてそういった営みが必要なのかもしれないけどさ、でもさどうしてそんなにも憎む必要があるんだよ。
あなたが今信じるフェミニズムは他の人々に比べたら確かに進歩的で現在抑圧に苦しむ多くの人々に救いを与えるかもしれない。けどじゃあ未来では?あなたがいくら時代に合わせて考え方をアップデートしようとしても、それには限界があるでしょう?確実に追いつけなくなる日がやってくる。あなたが今正しいと思うことも、あなたの子供や孫の時代では違うかもしれない。とのときには今度はあなたが軽蔑される番になってるかもしれない。それなのに今、どうしてあなたは自分の親や親族を軽蔑できるんだろう。
異性の気持ちを思いやれない人がなぜこんなにも多いのかってあなたは考えているかもしれない。けどそもそも他人の気持ちを全て汲みとれる人なんていやしないし、汲み取れる具合だって千差万別だし、育ち方によっては性別に関することだけじゃなくって、生きやすくなるために必要なあらゆる種類の事柄を学べずにここまで来てしまった人なんて星の数ほどいる(それこそ男女限らず!)それがこの社会であり、地球なんだよ。あなたの理想とかけ離れているからって、その人を見下したり否定したりする権利があると思う?
正論と言われようが何だろうが、僕はただ誰かが誰かを憎むことが悲しいんだよ。そんなことをなくすために今色んな議論がなされているのに、どうしてまた新たな憎しみが生まれてんだよ。虚しいと思わないの、みんなさ。
コトノハ〇×(http://kotonoha.cc/)において、現在問題となっている大量の複垢を用いて大量連投を行うユーザー(以下:複垢連投オヤジ)と闘って感じた支離滅裂な理論に関して言及していく。複垢連投オヤジに関してはanond:20180217203415の記事を見てもらえれば詳しく分かるはずである。
私は、このコトノハ〇×において、複垢連投オヤジから最も個人攻撃を受けてきた被害者のひとりである。
迷惑なことに、複垢連投オヤジは自分の理論は押し通すのに他人の理論には常に批判しかしない。
ここで、私に対しての批判、暴言に対して言及していくことにする。
記事が長くなり、字数制限が厳しくなったのでPart.2を作成。
それくらい、複垢連投オヤジの思考が言い出したらキリの無いくらい滅茶苦茶であるということであるが…。
私はボランティアを趣味のひとつとして挙げているが、これに対する複垢連投オヤジの一方的な批判や暴言に関してである。
複垢連投オヤジは私の行ってきたボランティア活動に対し、「公民館レベルのボランティアで良い気になっている奴」というような内容の投稿を行ってきた。
最近は平成30年7月豪雨(西日本豪雨)が起こったこともあり、その水害ボランティアに行っていないのに、ボランティアを趣味と言っている、要するにやるやる詐欺ではということでそのような旨のコトが相次いで投稿されるようになったが、勿論それに賛同する〇側に回答するのは複垢連投オヤジのアカウントだけである。
更にはとある俳優がこの豪雨の被災地でのボランティアに参加し、Twitterで称賛されたとの内容のコトも投稿された。
複垢連投オヤジは全くボランティアをするということは無く、以前は自身がやっている献血が凄いと投稿し、私のボランティア活動を馬鹿にするようなコトも投稿してきた。
ここで考えてみる。
そうではなく、実際は様々なボランティアがあり、私が行ってきた地域清掃や地域のお祭りにブース出展するボランティアや伝統的なお祭りのボランティア以外にも、子どもと遊ぶボランティアや老人ホームのボランティアなどもある。
しかし、復興支援はタイムリーなものであり、ニュースで取り上げられることが非常に多いため、ボランティアに関心が無い人でも情報として入って来やすいため、これだけがボランティアだと思っている人も少なからず居るようである。
次は、複垢連投オヤジが今回の豪雨の被災地に住んでいるであろうユーザー名を出し、コトノハフレンズ(複垢連投オヤジが運営を名乗る時に使うアカウントのひとつ)が対策委員会を立ち上げて全力支援するというようなコトを投稿し、そのコトのコメントでその活動の一環で私(この記事の筆者)を派遣するという内容を投稿したことに関して言及する。
まず、その名指しされたユーザーもこのコトの内容に対して全否定しているため、コトの内容は捏造で出鱈目である。
ボランティアは、基本的に謝礼金は出ず、個人の意思で行う慈善事業、奉仕活動である。
見返りを求めるというものではなく、徴兵のように本人の意思に反して無理矢理派遣するという性質のものでもない。
それなのに勝手に上記の内容を投稿しているので、もう滅茶苦茶であり、複垢連投オヤジはボランティアとは何かを理解していないのも同然である。
そこまで水害ボランティアに重要性を感じるならば、人に押し付けず黙って自分が行けば良いのではと思う。
見返りを求めないので、前述したTwitterでの称賛や表彰は求めていないので、これを過度に推すのも正直どうかと思う。
複垢連投オヤジは、最近私が東日本大震災の復興支援ボランティアに行けなかったことに対して言い訳だということを投稿したが、非常に腹立たしいことである。
私は学部時代は理系というのもあり、通学時間が長いことと授業で忙しいこととで中々バイトに就けず金欠で復興支援を含むお金が掛かるボランティアに行けず諦めてきたのである。
そんな中、唯一行けた復興支援ボランティアが4年生後期の熊本地震の復興支援ボランティアであり、東日本大震災の被災地となった各県(福島県、宮城県、岩手県)は一人旅で訪れたという事実がある。
しかし、これを言い訳と言われても困る。
人には人の事情、時間があるということを全く考慮しておらず、一方的に批判するために繋ぎ合わせただけの支離滅裂な理論そのものである。
複垢連投オヤジが、私がボランティアを趣味だと言っていることを売名行為だと言ってきたことに関して。
これも、なぜそのように言うのか根拠は全く不明である。前述の通り、複垢連投オヤジにとってのボランティアは「被災地の復興支援」だけであり、それをやっていないのにやっていると言っていることに対してなのだろうか。実際は様々なボランティアがあり、ボランティアを趣味と言っている方は大勢居るはずだがそれらも売名行為であると言えるのだろうか。
ボランティアを始める目的は様々であるが、少なくとも売名目的で始める方はほとんど居ない。私の場合は浪人中、新しいことを始めたくて友人の勧めで始めたことが一番最初のきっかけであるが、活動を続ける中で、ボランティアチーム、また周りのボランティアラーも様々な目的でやっているが、売名が目的という人にはひとりも会ったことがない。多くの方は社会経験や交流など、または子どもが好きなど純粋な理由からである。
ボランティア関連全ての項目に対して言えるけど、複垢連投オヤジは全くボランティアをやったことがない、浅いどころか無に近い知識で語らないで欲しい。
複垢連投オヤジが「就職活動などでの経歴で有利になる為に、自称ボランティア活動をしていると思う」と言ってきたことに関して。
勿論、これが理由でボランティアをやっているという人も多く見てきたので、上記の「売名行為」とは異なり、これが理由で活動しているボランティアラーが存在することは否めないが、ボランティアを始める理由、する理由は十人十色であるため、これはあるひとつのパターンに過ぎない。
この記事を他の項目も含めて読んでいただいたら分かる通り、複垢連投オヤジは常に自分の考えが正しいとして押し通そうとする性質がある。
そのため、それが100%だとして私(筆者)もそうだと思って決め付けて言っているとしか思えない。
そもそも、私は浪人生だった頃から大学院生である今まで、ボランティア歴は7年を超えているが、単なる実績目的だけの人がそこまで長く続くだろうかよく考えて欲しい。
今まで数回体験で来ただけの人、実績や単位目的だけでインターンシップで来た人など短期だけだった人は多数見てきた。
何も知らない浅はかな知識で、これ以上ボランティアについて語らないで欲しい。
2018年9月上旬、台風21号で近畿地方が被災、その数日後に北海道胆振地方で震度6強の地震が発生した。
この中の「北海道地震」に関して複垢連投オヤジが地震関連、ボランティア関連のコトを複数投稿したことに関して。
前述の通り、被災地の復興支援だけがボランティアではなく、ボランティアは原則的に人に強制して行わせるというものではなく、自分の意志で行う慈善活動であるが、複垢連投オヤジは何度言っても聞く耳持たずなのでそれを理解する脳は無く繰り返し機械的に投稿しているようである。
特に自然災害に対してこのように書くことは、被災地や被災者への冒涜とも取れる。
もう、言いたいことは上記で言い尽くしたので言うことは無い。
何も知らない浅はかな知識で、これ以上ボランティアについて語らないで欲しい。
複垢連投オヤジが「〇〇(私のユーザー名)は尾畠春夫を冒涜していると思う」と言ってきたことに関して。
これは、北海道地震発生後に複垢連投オヤジが投稿されたコトであるが、上記のTwitterでの称賛等に関する内容のコトだと思われる。
まず、今までの経験上、ボランティアラーが他のボランティアラーの活動を馬鹿にする、批判するという人に会ったことがなく、友人やボランティアでの友人から聞いた話でもボランティア活動に関して批判する人は自らボランティアをやっていない人ばかりである。言葉を少し付け足すとすれば、ボランティアラー、チームの活動交流会において意見交換や討論をすることはよくあり、そこで出た悪い意見(改善点等)のことを「批判」と言うかもしれない。複垢連投オヤジの意見をこの「批判」と考えると、内容はもってのほかであり、全く理論として成立していない。勿論、尾畠氏は活動が評価され、表彰されており、それだからと言って他のボランティアラーや活動を一方的に批判するようなことはまず考えられない。特に尾畠氏は「スーパーボランティア」として新語・流行語大賞にノミネートされたとき、自分の行動は当たり前であり、スーパーではないという旨で辞退したほどである。
複垢連投オヤジは懲りずに「公民館レベル」とか「生ぬるい生活」とか色々言っているが、自分がボランティアを全くやっておらずボランティアのイロハの「イ」も知らないのに知った気になって出鱈目を語るのはいい加減もう止めてもらいたい。
私は男性ながらあんさんぶるスターズ!(以下あんスタ)をプレイしており、その中で可愛い系のキャラを推していることに対し、複垢連投オヤジが「ホモショタ (ショタコンなホモ)」であると決めつけていることに対する言及である。
まず、考えて欲しいが、男性があんスタをプレイすることがそこまで不自然で可笑しいことなのだろうか?
私があんスタをプレイすることに踏み切れたのはあんスタをプレイしている男性のニコ生主やYouTuberがきっかけである。
また、ゲーム内の公式掲示板やTwitterでもあんスタの男性プレイヤーは見掛ける。
それらも不自然と言えるのだろうか?
あんスタに限らず、男性が男性アイドルゲームや男性キャラ中心の育成ゲームをプレイすることを批判する人に言いたいことがある。
これに対して誰もが納得できる回答が出来るだろうか?
出来ないだろう。
女性のラブライバーは多いのに、男性のあんスタプレイヤーは少ない、また批判されることもある、これは正直可笑しい話であるので、これを書かせて頂く。
もし、男性のあんスタプレイヤーがホモであるなら、女性のラブライバーもホモということになってしまう。
経験則であるが、あんスタ、アイナナを始めとした男性キャラ育成ゲームをプレイしている男性を批判する女性を全く見たことがなく、寧ろそのようなゲームをプレイしている女性は、男性プレイヤーを歓迎する傾向にある。
それ故、女友達に勧められて始めたという男性プレイヤーも多いそうである。
私もリアルで女性プレイヤーとあんスタの話題で盛り上がったことは何度かある。
あんスタ等の男性プレイヤーを批判する人は偏った価値観を持った男性が多数を占めるのではと思う。
私にとって、あんスタの男性プレイヤーをすぐにホモだと決めつける人は短絡的で世界が狭い、頭が固い人だという評価を下さざるを得ない。
最近は複垢連投オヤジが私に関して過度な粘着、ストーカー行為を働いており、ホモと思われるような発言も見られることから、複垢連投オヤジ側がホモであると見られており、新たに「ホモオヤジ」という蔑称で呼ばれるようになった。
複垢連投オヤジは37歳、私は26歳であり、私が複垢連投オヤジ等と言った軽蔑した発言をすることに対し、複垢連投オヤジが年上なのだから敬語使えと言ってきたことに対する言及である。
まず、年上ならば必ず目上なのだろうか?
それは間違っており、上司が年下、部下が年上ということはよくあり、私は浪人していた時期があったことにより、私が4年生の頃の研究室の大学院生は私より年下であった。
このように、年齢は必ずしも位に一致しない。
コトノハの一般ユーザー間においてこのような位は存在しないため、本人の人間性や評価による部分が非常に大きいと言えるが、複垢連投オヤジは私を含む他のユーザーにとって信頼される存在だっただろうか?
全くそうではなく、大量のアカウントを用いて尋常ではない量の連投を行う、更にはそれを批判してきたユーザーのアイコンを盗用し、小学生レベルの低俗な落書きを加えたアカウントを作成して使用するなど、多くのユーザーにとって極まりなく不快な存在であった。
それ故、コトノハでは「複垢連投オヤジ」や「連投バカ」、5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)のコトノハスレ界隈では「漫湖」等と言った蔑称で呼ばれるようになり、多くのユーザーに嫌われてきた。
私や一部のユーザーに関しては趣味や価値観を全て否定されて嫌がらせを受けてきた。
果たしてそんなユーザーを尊敬し、敬いたいと思うようなユーザーは存在するだろうか?
全く居ないはずである。
複垢連投オヤジはそんなユーザーであるので、幾ら年上でも軽蔑すべき要素しかない。
年相応に扱ってほしければ年相応の態度で居て欲しいものである。