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2024-09-26

anond:20240909000111

のび太と竜の騎士」までは藤子不二雄名義で、「のび太日本誕生」以降、 藤子・F・不二雄なんだけど、

個人的には、「日本誕生」以降はどうも物語スケールが小さくなって、迫力が落ちている感があるのだけど、(敵役が小物すぎたり、話のまとまりが弱かったり、テーマ設定が弱かったり)

「竜の騎士」以前だってFとAは別々に活動していたはずで、

ただのネタ切れなのか、体力の低下なのか、脚本プロットに関わるスタッフなどの制作体制に違いがあったのか……なんなんすかね?

「竜の騎士」と「日本誕生」の間の年に、体調不良原作描けずに作られた映画パラレル西遊記」があるのだけど、

やはり体力の低下が大きかったのかな。

まあ、「竜の騎士」以前が良い!ってのは主観的感想だけど、そこまではやっぱり物語エネルギーが満ちてると思うんだよね。

宇宙西部劇とか、海洋冒険とか、秘境冒険映画とか、スター・ウォーズみたいな話をやりたいとか、恐竜隕石での絶滅説で一本やりたいとか、素直な創作衝動があってよいのだ。

作家としての成長、老成から、関心がよりファンタジーな方向に行っただけかもしれないけど、それもよくあることか。

海のはじまり-看護師としてみてみる-

ヤフコメとかTwitterとかで水季勝手すぎ!とか振り回されすぎ!こんな脚本ありえん!もうこの脚本家のドラマは見ない!!!っていう意見が沢山あった。

自分医療職でありまぁ歴はそれなりにあってドラマを見てるとあーそーそーこれこれ!って思える場面がかなりあり家族言葉かにはもうほんと納得していた。

人の死の場面に立ち会うとほんと綺麗な終わりなんて全くない。そもそも死ぬ人は自分死ぬなんて思ってないし最後の瞬間まで生きてる。

最後の瞬間まで生きて生きて止まるっていうのに近い感じ。

死に向かって生きているはずなのに誰もかれも死ぬって思っていない。水季だってそうだったはず。

からせっかく宿った命を自分が育てていきたい。でもこれからある大好きな彼氏の将来を決めてしまうようなことはしたくない。

水季と夏がその判断をしたのは大学生。そんなあと先のことまで考えてはいないだろうしこれからの将来なんてそんなまだまだ子供の2人に想像できるはずがない。

産みたいけど彼氏のこれからのこととを考えた時にもうあの判断しかなかったはずだ。

これから彼との人生は違っていくけど自分子供の2人であれば生きていける。

そしてようやく好きな人もできてこの長い長い先にもしかすると津野くんとの未来も見えた矢先に病気の判明。

ほんと告知を受けたら頭真っ白だったはず。そして真っ先に考えたことが子供のことだったろう。

死を宣告された人たちは子供がいると子供第一に考えてた。私が死んだら子供大丈夫かな。。。ってもう何度も何度も聞いた。その度に医療者としてとても辛かった。

あの手紙子供のことを思って書いたのだろう。

かに勝手に産んだ。でも死ぬなんて思ってなかった。残された子供がいつか父親のことを知ろうとするだろう。自分の死だってきっとどんな形であれ夏は知ることになるだろう。

なら知った時のために手形を残すというのは自然のことじゃないだろうか。血のつながった子が孤立しないようにしてあげたかったはずだ。

2024-09-23

武狭漫画について簡単説明

簡単説明すると中華武道バトルという感じの特殊ジャンル漫画カテゴリーです。

ピッコマLINEマンガなど、韓国主体ウェブトゥーン(Webtoon)などで読める漫画作品カテゴリーです。


アニメに詳しいオタク説明する場合は、「虚淵玄」が脚本担当した人形劇Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀シリーズを観た方なら、なんとなくそ雰囲気世界観想像できるかと思いますベースとしての知識Wikipediaの「武侠小説」にある説明や有名な作家代表作があるのでそれらを参考に……というにはちょっと面倒かもしれません。

もう少し詳しく説明すると、時代背景的には日本の(鉄砲が伝来する直前の)戦国時代ぐらいの雰囲気かつ、力を持った忍者グループ大名に近い存在で(ただしその1グループ集団数は千人以下程度)、その力を持ったグループ中国中華)で覇権を争ったりしている感じの世界観です。


闘いの舞台基本的には中国中華)で、その場所は「中原(ちゅうげん)」「江湖(こうこ / ごうこ / えこ)」などと呼ばれています

中原」に関しては日本で言えば「京都」に近い感じの意味言葉で、当時の中国文明文化政治の中心地的な意味合いもありつつ、漠然田舎とは反対の都会的な意味合いもあるかもしれません。

「江湖」という言葉のもの意味は「世の中」「天下」または「武力で競う社会」のような意味で、作品によってはその辺りの意味微妙ニュアンスは変わるので、なんとなくで把握してもらえればOKです。ある意味では「裏社会」とも読み取れるかもしれません。なぜかと言うと、「官林」と呼ばれる皇帝存在する政治支配体制側は存在しているのですが、基本的には「江湖」で争う武功を持った「武林人」には(ほとんどの作品では)不干渉という立ち位置です。ただし国を支配しようとする野心を持った「武功」を使う「武林人」が現れた場合は、「官林」側の戦力も出てくる場合もあります(凄く強かったり、たいして強くない場合もあり、作品によって色々です)。


そして武狭漫画では、「武林人」達の有力派閥などが集まった「武林盟」という組織存在する作品が多いです。

「武林盟」の一番偉い存在が「盟主」と呼ばれ、作中最強レベル存在の人が多いですが、「盟主」が年老いている場合もあるので、かつては最強レベルだったという感じの名誉職としてそこに居る場合もあったりします。

そして「武林盟」に対抗する勢力として、「邪派」や「魔教(神教)」が存在していたりします。

多くの作品場合は、野心を持った「邪派」や「魔教(神教)」の対抗する為に、正派が集まって「武林盟」を創設したというパターンが多いです。

多くの作品場合、一から「武林盟」が創設されること余りなく、主人公が産まれた時から「武林盟」が存在しているパターンが多いです。

「武林盟」は多くの名家・有名派閥存在し、超有名どころだと「少林寺」がメジャーですが、武狭漫画においては主人公所属する派閥ではないパターンが多いです。

他に主に登場するのは「華山派」「武当派」「崑崙派」「唐家」「諸葛世家」「南宮世家」「慕容世家」「丐幇」などです。

作品的には(使う武功ビジュアル的に映えるからか)「華山派」の主人公が多い印象がありますが、成り上がりを描き易いからか弱小派閥や、かつては強かったが没落した派閥主人公が多いかもしれません。


集団戦闘よりは個人の「武功」、個人戦闘力の方が重視される感じで、また強者個人戦闘力が一騎当千という感じです。

その強者戦闘力は、悟りで開かれた境地などにより、ある種の階級制みたいに分類され、基本的には境地に差がある者達が一対一で闘った場合は、上の境地の者に勝てることはほぼ無いという感じになります

大体の作品において、「化境」と呼ばれる境地が最強、もしくは最強の一歩手前ぐらいの境地というかレベルで、大まかに分けると

「一流」→「絶頂」→「超絶頂」→「化境」→「玄境」

という感じに分けられますが、もっと細かく細分化している作品も多々あります


主な用語に関しては下記のリンクや、ネット情報を参照してみて下さい。

武侠小説あるいは武侠漫画における用語解説
https://ncode.syosetu.com/n9752ic/
武侠/仙侠漫画を読む時の語彙・単語まとめ - フラミナル
https://blog.framinal.life/entry/2021/06/14/035654



近年はこの「武狭」をベースにし、武狭の世界に生きてきた人間現在に転生、もしくは現代人が武狭の世界に転生、または武狭の世界で最強になったが誰かに嵌められて殺された後に強くなる前に戻るやり直し系や、同じく殺された後の数年後に別人に転生など、なろう系的な要素を加えた作品も多くなっていると思います

転生要素はありますお話的には、武狭漫画としては王道お薦めやす作品は、『華山帰還』と『華山転生』あたりでしょうか。

メインヒロインが顔芸していると評判(?)の作品の『天下無双大師兄』あたりも内容的には王道系で面白いです。

初期設定はSFな要素がありますが、『ナノ魔神』は多くの人に読まれている人気作だと思います

「華山派」と言えば基本的には剣を使った「武功」ですが、内容的には「華山」要素は薄いけどタイトルになっている『華山拳魔』。

設定的には変わっているのは、『父無双』や『墨香 DARK LADY』なども作品も人気の作品だと思います

武狭漫画は本格的になればなるほど迫力を出す為に、絵柄の線が太かったり、線が多くなる作品が多いのですが、絵柄的には日本少年漫画少女漫画中間ぐらいの見やすタイプの『飛雷刀』あたりは比較的に初心者向けかもしれません。


色々な用語意味世界観などをなんとなくでもクリアしないといけないので、初めて触れる方には読み始めるにはそれなりに初期ハードルが高いのですが色々と面白い作品も多いですし、ウェブトゥーン(Webtoon)の作品の多くはかなりのお話を終盤近くまでは無料で読むことが可能なので、ちょこちょこと合間の時間にチェックしてみてはどうでしょうか?

UNDEADが良い曲で悔しい。

YOASOBIはアニソンしか知らんが、特に嫌いではないが好きと言うには何か抵抗がある。

というのもあまり作品に合わせすぎているから。いやイメージソングとかなら別にいいんだよ、雰囲気合わせてみました的な。

だけどYOASOBIのはあまり踏み込みすぎているんだよな。原作至上主義である自分から見ると、もはや二次創作に等しい。

それがアニメのOPorED担当という一次創作二次創作狭間ぐらいのところにいると、ちゃん原作サイドのお墨付きを得たということでいいのか、それとも「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」(誤用)なのか、受け止め方にどうも悩んでしまうところがある。なんで嫌いではないが好きかと言われるとちょっと違うみたいな微妙位置付け。

そしてUNDEAD、アニメEDで聞く分には特に何ともだったのに先日公開されたMVで見るとめっちゃ刺さってきて悔しすぎる。

幸せになろうとしないなんて卑怯だ」とか普通な説教くせえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!ってなるような歌詞が、斧乃木余接CV早見沙織)がキメ顔で言ってそうというだけでご褒美になる。

なんだよこれ反則だろ。早く斧乃木余接CV早見沙織)にカバーして欲しい。

あーもう本当に悔しい。

スオミの話をしよう』は何故つまらないのか(ネタバレあり)

映画スオミの話をしよう』を観た。稀代の脚本家三谷幸喜氏がメガホンを取ったとは思えないほど、つまらない作品だった。何故、これほどつまらないのだろうか。端的にいえば、寒川しずお以外の人物像に説得力がないかである

もっと説得力がない人物像は、主人公スオミである。何故スオミ結婚を繰り返すのか。何故、多重人格のように出会う男に合わせて性格だけでなく、話す言語さえも完全に変えることができるのか。なぜ、身代金要求狂言誘拐を起こしてまで生まれ故郷ヘルシンキに行くための資金を捻出しようとしたのか。

本来、これらの問いに対して観客を説得するようなエピソードを描くべきだった。しか脚本は「そういう設定」といって長澤まさみ氏の演技力で観客を説得しようとし、失敗した。寒川しずお以外の他の登場人物も同様である

なぜ、設定と演技力による人物像の説得に失敗したのか。その理由は、スオミ人物像を連想させるステレオタイプが十分に確立されていないからであろう。例えば、本作品で唯一、人物像に説得力がある寒川しずおはエキセントリックな有名詩人だが、エキセントリックな有名文学者というステレオタイプ文学史フィクションを通して十分に確立されているので、設定と坂東彌十郎氏の演技力だけで観客を説得することができた。しかスオミのような人物ステレオタイプは、史実にもフィクションにも見出すことができない。

この映画比較すると、ドラマ地面師たち』はエピソードによる説得と、ステレオタイプに乗っかって設定と演技力だけで行う説得を優れた形で組み合わせている。辻本拓海がなぜ地面師になったのか、石洋ハウス青柳隆史は何故港区土地を喉から手が出るほど欲しいのか、これらの経緯を説明するエピソードを描いて視聴者を説得している。他方でハリソン山中場合、『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターなどの極めて高い知性と身体能力を持つ超人的な快楽殺人者というステレオタイプに乗っかって、設定と演技力だけで視聴者を説得することにも成功している。

個人的には、フィクションには説得力重要と考える。フィクションなのだからエキセントリックな有名文学者超人的なシリアルキラーだけでなく、人間のような意思を持つおもちゃ超能力者など物理的に存在しえない人物さえ設定で盛り込むことができる。しかし、これらは観客に対して説得力を持たなければならない。その方法は、既に確立されたステレオタイプに乗っかって設定と演技力で観客を説得するか、エピソードを描いて「だからこの人はこういう風になったのです」と説得するか、これらのいずれか(又は両方)をしなければならない。

2024-09-22

anond:20240921174729

キャラ勝手に動くというか、漫画絵コンテサクサク書ける瞬間とか、明らかにゾーンに入ってる気がするんだよな

よくわからんけど、ゾーンに入るぐらい集中してると、キャラ勝手に動いてるように錯覚する、コマが次々に埋まってくんだよね

でも、自分場合、何にもない状態からコマが埋まるみたいなことはなくて、

一度、脚本みたいなものを描いて、少なくともセリフだけでも並んでいるような文章を書いてからだと絵コンテコマが埋まる

というか、その脚本みたいなのも、ゾーンに入らないと勝手登場人物が喋ってくれない

あと、どっかで我に返ってしまうと、大した人生経験もないし、友人知人も少ないのに、こんな会話をするものだろうか、みたいに考えてしまうので、

そうならないように、妄想をひたすらブーストして最後まで行くしかない、個人的には長距離水泳してる気分に近い

ギター演奏でもプロゾーンに入るらしいけど、過集中?というか、ゾーンに入って冷静にならないのが大事なんだよね

冷静になると恥ずかしくなったり、常識にとらわれるようになってしまうから

から舞台に上がる前に酒を飲むようになってアル中になるとかドラッグにハマる人の気持ち分からんでもないという…😟

舞台に上がると演奏能力は良くて50%、普通に10%とかありうるから…

そのへんとか、ヴァイオリニストだと、「あがり」を克服する―ヴァイオリンを楽に弾きこなすために、という本が詳しかったと思う

とにかくテンションを上げて、ゾーンに入る

個人的には無音がいい、プログラミングとか特に無音でないと自分作業できない

あと、文章を書く場合は、もっといい言い回しがあったはず、とか、同義語の辞典とか見ると、そこで思考が止まってしまうから

ゴミみたいな文体だろうが、稚拙だろうが、拙かろうが、ガリガリ最後まで書いていってしまって、

文でも絵でも録音した音でもそうだけど、時間を少し置いてから、一番いいのは一度寝てから、再度読み返したり、聴き返したりすると、

他人視点で冷静にジャッジできるようになるんだよね

そのとき、何でこんなゴミを作ってしまったんだ、と思うことも多いけど、プロでもそれは普通にあることなので、ゴミはバッサリ捨てる、

良い所があるんじゃないか修正すれば良くなるんじゃないか、と思ったら、それで継続する、みたいにやっていく

ゾーンに入ってるときは、ガリガリ作業が進むと同時に、間違った方向にもガリガリ進んでいってしまうことがよくある…😟

2024-09-19

anond:20240919120613

おまえがだれもに納得いかせられる脚本書けば丸くおさまる

2024-09-16

タイムスリッパーを見た。侍ストリッパーではない

ストリッパーという映画流行っている、と風の噂で聞いた。

風の噂はやはり信じないほうがいい。

タイムスリッパーを見てきた。下ネタは一切ない。安心してほしい。

結果として大満足だった。

事前情報自主制作映画ということ聞いていたので「素人大学生」が「iPhoneや小型カメラ自撮りする」「大どんでん返し!」系の映画かと思ったら、主演は山口馬木也。知る人ぞ知るイケメンミュージカル大河ドラマおじ山口馬木也

脇役も「多分どっかで見た」人たちである

カメラワークは固定手法。これは「時代劇」を撮影するには必須なのだが、この手法からこそ「あの時代」の時代劇を描ける。

あらすじだが「侍が現代にやってくる」という、どっかで見る設定だ。記憶では映画だと「ちょんまげぷりんドラマだと「サムライせんせい」…どっちも錦戸亮がやっていたが、まあ大きくテンプレからは外れたりはしない。

しかしそこに「時代劇愛」をぶち込んだことで、この映画成功に向かったのだろう。侍が時代劇にハマることでシナジーが生まれた。

ストーリーもさることながら作品全体から時代劇愛が伝わってくる。

殺陣自主制作ながら本格的だ。というか大手配給作品であっても適当殺陣はたくさんあり、時代劇も例えば「るろうに剣心」のような現代アクション殺陣が好まれだしているので、忘れかけていたドラマ時代劇でよく見た「殺陣美学」みたいなものを再認識できる上で、さらに一段上に行く殺陣を見せてくる。

侍はやはり殺陣うまい俳優には勝てない…みたいなストーリーと画面の説得力の裏にはフィクションがある。その構造が見事だった。

ここで自分時代劇が好きなのか?という話をすると、そうでもない。嫌いではないが、正直時代劇を毎週見ていた世代ではない。

しかし、なにかを好きだと叫ぶほどの愛がこもった作品はなんだって心地いい。時代劇に想いを馳せるのも悪くないと思える。

さらに一つ、幕末の侍の運命も描かれる。典型的お笑いシーン(客のお子様大爆笑)が全編に散りばめられた中で、グッと作品を引き締める効果が最大限に発揮されていた。

粗さはある。東映撮影所協力なので自主映画っぽさが消えてしまうのだが(時代劇撮影所ってすごいな)なんたって脚本カメラ編集も一人でしているのだから助監督役のヒロインが実際の助監督だしメインスタッフが少人数にもほどがある。ただ、確実に素人が作ったようなものではない。

見てよかったと思わせるだけの作品力は確かにあった。

見逃すには勿体無い。なんだか応援したくなる。そんな映画でした。

2024-09-15

anond:20240915093154

知らんけどフェミが女しか出てこないアニメ脚本なんてやる訳ねーだろ。頭狂ってんの?

2024-09-10

anond:20240908192541

用語

肴→「種死までのガンダム声優を肴に雑談スレ」のこと。やがて肴の1文字けが残りガンダムに限らず男性声優を中心として語る場になった。平野綾AYA STYLE事件日野聡の既婚隠し(騒がれて発表)など多くの声優スキャンダルの発信地となった

肴子→肴に書き込む者 増田と似たようなもの

肴男→女だらけのスレで殊更に男アピールしたり男っぽい浮いた書き込みをする者

病気子→発狂連投したりレスバの中で狂ったことを言う者

⭐︎きゅん保志総一朗 昔は愛されていたが近年は話題にならない

あー様→石田彰 愛されている

ちゃま→鈴村健一 愛されている

ぱっくん→櫻井孝宏 パクリが由来 劇団脚本盗作をしたため

ジャスコ諏訪部順一 高級品身につけが多いが、顔が悪いせいでジャスコで買った安物のように見えることが由来

けがない→木村良平 毛が薄いから+主演作の略称はがないから

ムッシュ遊佐浩二 ムッシュかまやつが由来。カツラかぶっているかのような変に膨らんだ髪型連想させるから

禿鳥→鳥海浩輔 ハゲしなのか常に帽子をつけているため

禿→小野坂昌也 毛が薄いため

禿田→杉田智和 毛が薄いため

わがしや→斉藤壮馬 声優になる前にネット上で「わがしや」と名乗っていたため

ハナゴエ花江夏樹 声優になる前にネット上で「ハナゴエ」と名乗っていたため

タマ梅澤裕一郎 声優になる前にネット上で「キンタマアイデンティティ」と名乗っていたため

ぱんぱん→梶裕貴 顔がパンパンなため

ぶう→中村悠一 太っているため

斜め→前野智昭 斜めのキメ角度でばかり写って中々正面顔を見せないため

トンゴ→石川界人 なんJ民だと公言しており、カイト+ンゴ

顎→宮野真守 顎が長いため

ナッツ森川智之 プロフィールに瞳の色はヘイゼルナッツと書いたため

2024-09-05

主にアビドス三章とプロジェクトKVについて

色々と情報錯綜しているプロジェクトKV関連について、内情に関する不確定な情報に関しては正直何とも言えない。

ただ一連の話の中でクリエイターは良い物さえ作ってくれれば構わない、という意見を見ることがある。これに関しては問題の内容にもよると思うのだが、出された物で評価するのであればライターの方が最後に携わった対策委員会編三章に関しても作った物であるし、アニメテキスト差し替えがあったイベント等への影響等も同様に評価するべきではないか

 

まず、対策委員会編三章に関して

ストーリーの根幹部分は本当に良かったとは思う。クジラのように息を止めていた=本音吐露できないでいたホシノ(アニメ水族館回のシロコとの会話より)が先輩に弱音を吐いた上でこれからも進んでいく覚悟をしたし、シロコ*テラーやプラナは自分たちが元いた世界では守れなかった人たちを守ることができた。最終編の続編的なストーリーとしては本当によかったと思う。

 

ただ、気になる箇所がいくつかある。これが単に尺や締切の問題ならまあ仕方ないとは思う(明らかに話数が多く、可能な限り設定にケリをつけようとしたことは分かるので)。ただ退社と新プロジェクト立ち上げの一連の流れを見ていると、その描写に関して何か含みがあるような気がしてしまう。

 

私募ファンド、ネフティスの執事さん、プレジデント対立のくだり

この辺りに関しては敵対者コロコロ変わるし執事は心変わりしたかと思うと反省してフェードアウトするし、プレジデント大人のやり方というわりに子供の癇癪めいた方法で話を反故にする。

この辺りは直近のイベント等でちゃん説明すれば協力してくれるアクアパークのオーナー反省してサオリを気遣ってくれるようになるDJ等が出てきていたのもあって、アビドス関係だけこうなの?となってしまう(エデン条約編三章〜四章のトリニティモブトラブル担当にされていたので、モブNPC性格が悪いのはライターの手癖なのかもしれないが)し、エピローグにも居たこともありコレがアビドスの生徒にとっての今後の隣人かぁ…と思うとなんとも言えない。

アニメや最終編でノノミ描写から実家問題の掘り下げを期待していたので肩透かしを喰らったのが正直なところだ。シナリオ単体だとそのくらいなのだが、退社の件と合わせて考えるとプレジデントとのやり取りは退社のきっかけとなる社内でのトラブルが元になっているのではないか…?という疑念が湧いてしまう。もちろんそんな明言はされていないし、退社の経緯に関しては知る由もないのだが。

 

シロコ*テラーがみんなの武器を捨てるシーンに関して

スチルを見た時の第一印象は捨て方が雑すぎないか…?というところで、ホシノがユメと言葉を交わして前に進む=きちんとお別れをする、大切な人を弔うというのがこの章の話であるなら、尚更砂漠に打ち捨てるのではなく、綺麗に埋めるとか溶かして別の武器にするとか、やりようはあったと思う。

果たして乱雑に打ち捨てる必要性があったのか、古巣を離れることに対する表現だとすると切り捨てられた感があるし、お話のコアになるキャラクター大事なシーンに変な文脈が乗ってくるのは正直かなり嫌な気持ちになる。

 

地下生活者に関して

今回の章での先生結論は、本当にざっくりした纏め方をすると大人として自分が今やれることをやる、というものだった。それに敵対する存在が、子供のように癇癪を起こし、無敵の空間から一方的に何の責任も負わず干渉し、チートめいた現実干渉本来あり得ない現象を起こすというのは対比がバッチリと決まっていたと思う。

だがその上で、どこまでが地下生活者仕業で、どこまでがそれぞれのキャラクターの動きなのかがハッキリ説明されておらず、よく分からない。先述の私募ファンド執事プレジデントに関して、心変わりが早すぎるのもあり、この辺りは操作されていたんじゃないか?と予想することはできる。朝霧スオウの挙動も、プレジデントを裏切って以降はホシノの強さ(キヴォトス最高の神秘としての、ゲマトリア視点のホシノの解釈しか見ていない様子で、地下生活者台詞呼応して動いているので何かしら干渉されているのは間違いない。ホシノへの精神干渉がどの程度なのかは分からない。テラー化直前かもしれないし、三章の合間に頻繁にホシノの回想が挿入されるのはこの時点で干渉を受けていて夢と現実認識曖昧になっていたのかもしれない。

しかし実際どこからどこまでがキャラクター本人の挙動なのかは明言されない。自己顕示欲の塊ゆえに全部説明してくれたベアトリーチェや暗躍しているシーンをキッチリ映している申谷カイなど、方向性の違う黒幕でもどこからどこまでが黒幕仕業でどこが本人の問題なのかはわかりやすかったのだが、単純に説明不足だ。

先生の爆破というファンコミュニティではさんざんアロナバリア無効化されてきた手段意気揚々と繰り出してきたり(よりにもよってそこで一旦シナリオ更新ストップするし)、先生の指揮の人数制限問題に関しても制約解除決戦以前からストーリー戦闘内で操作不可の味方が援護してくれる演出なんかもあったわけで、先生が打倒するにあたってのカタルシスが異様に弱かったように思う。対比構造とかモチーフにこだわるあまり動かし方が稚拙ではないだろうか。

メタ的な攻めをするわりに解釈が雑ですぐ癇癪を起こす大人なのに子供みたいなキャラクター、というとファンコミュニティでたまに見かける過激ユーザー揶揄しているようにも思える。先生への攻撃に関してもファンコミュニティでたまに発生する死ネタ・負傷ネタ風刺であるがゆえこういう手段になったのかもしれない。二次創作へのお気持ちで作られたキャラ造形、と言ってしまうのはさすがに邪推が過ぎるだろうが、ゲマトリアというメタ的な属性を与えられている立ち位置を考えればプレイヤー元ネタになるのも自然な話だし、それ自体別に良いと思う。しかユーザーの層を考えると、ある種の「チー牛」的な属性キャラを繰り出すのは不用意すぎるし、最後に関わったシナリオでそのキャラを地下へと追い返して退社というのはちょっと危険メッセージ性が生まれてこないだろうか。

ただ問題キャラクター設定よりもむしろシナリオ上での動かし方で、地下生活者が三章においてもたらしたもの説明不足なゴチャついた展開と列車砲やセトなどの扱いに困って途中で流れでサクッと処理した設定ばかりで、ホシノやシロコ*テラーの苦悩と決断など、三章の良かった部分とは関りが薄い。シロコ*テラーとプラナとは元の世界悲劇に関して因縁があるわけだし、アビドスの問題を一段落させたうえでプレナパテスの関係者メインできちんと対決するお話を用意してあげてもよかったのではないか

表現したいことがあるならそれでいいと思う。けれど実際何がしたかたかそもそもどこまでやらかしてるのかが分かりにくいし、ユーザーへの不快感の表明だけが文脈としてハッキリしてしまうのだとしたら、ちょっとさすがにどうなんだという感じだ。

 

朝霧スオウに関して

よくわからないといえば朝霧スオウだ。エピローグでの出番を見る限り確実に何か彼女彼女で設定がある筈なのだが、ホシノの台詞の通り本当に何だったのかよくわからないまま終わってしまった。最初対立関係にあると言われてたノゾミとヒカリ対策委員会との交渉時には遠ざけようとしていたり、ノノミ誘拐時には思うところがありそうだったり、なんやかんやノゾミとヒカリが助けているあたりホシノへの執着だけのキャラではないのは確かだろう。

ただ結局地下生活者がどこからどこまで操っていたのかわからないので、対策委員会編三章の動向だけでは本当によく分からないとしか言いようがない。雷帝関連が今後掘り下げられることもあり、シェマタ建造ぐらいの時期の話に関わってくるのかもしれないが……。

ただまあ思い返せばエデン条約編三章でも先の話を知らないとアツコを傷つけられて激怒するサオリのシーンなどはどの口で言っているんだ、と捉えられても仕方のない描写だったりするし、先のシナリオで裏事情を明かすキャラに関して事前には特にフォローが無い描き方をしているだけなのかもしれない。

 

セトに関して

ホシノのテラー化のついでに副産物のような形で出てきて、ホシノが復帰した後は何故か地下生活者切り札のような扱いになって、なんか凄いらしいけどそのまま倒されたのでよくわからなかった。

セトに関しては戦闘フィールド名前元ネタから明らかにアビドスに関係するボスとしてデザインされているし、新規コンテンツとして無からまれボスではなく三章実装にあたってデザインされたボスだろう。

それが新規コンテンツボスとしてはあまり歓迎された仕様ではなく、シナリオ的にもホシノの復活ついでに処理されているのは単に要素が渋滞したせいなのか、それともわざとなのだろうか。どちらにしろ無茶振り的な実装で調整不足なボスだと思う。

 

ホシノとヒナの対決に関して

スチルもアニメーションも潤沢な頂上決戦……の割には直前でホシノがシロコに一度競り負けているし、決着としても列車破壊による無効試合なので、演出は凄いのに脚本上の盛り上がりからは妙にズラされている。

ホシノの話に終始すると暗くなってしまうので派手なバトルでバランスを取ろうとしたのかもしれないが、心情的にそれどころではないタイミングで熱いバトルをされても集中できないというのが正直なところだし、その本人を巻き込んでるとなると尚更だ。

ヒナに関してはホシノのテラー化直前の台詞回しに関して、事実に即した言葉淡々提示して諭そうとしている。これは単にシナリオ上の都合の台詞ではなく、水着衣装のボイス等から推定するとヒナというキャラクターが確かな事実を礎にして動いており、不確定なものが苦手であるがゆえ、こういう台詞回しになっているわけだ。

事実真実に関する話はクライマックスでも再度言及されるわけだが、今回の章を経てホシノが辿り着いたのが真実であり、ヒナ重要視しているのは事実である。おそらくはこの対比関係を前提にした上でホシノとヒナをぶつけたかったのだろうが、戦闘時のホシノは絶賛迷走中で、ヒナゲヘナ編のシナリオがまだ来ていないので、関係煮詰まってないけどスケジュール的に不可能なのでとりあえずノルマでバトらせたようなバトルだ。正直なところ現状の描写だけではアニメで謎に往年のライバルキャラみたいな扱いをされていたシロコとアルと大差無い関係性だと思う。

頑張っていることを認めてくれると嬉しい、人助けが生きがい、確固たるものが心の拠り所……という、今は先生が適切な距離感で接しているので安定しているものの、ヒナ精神性はもともとコミュニケーション不安を覚えやすい子のそれだ。そういう部分でヒナの人柄を見て仲良くしてるキラキラ部の二人やまあ……偏愛を向けてるアコちゃんあたりの、頑張りとかが関係ない人間関係大事になってくる気がするのだが、その辺りは来たるゲヘナ編に期待したい。

 

後輩の成長に関して

ホシノを止めるために雨雲号を持ち出したり生徒会長立候補したりと、アヤネの凄さを感じさせるシーンが幾つかあったわりに、普通にそのまま撃退されたりプレジデントには発言無効にされたり結局会長職は返上したりとなんというか不憫描写が多かったように思う。

セリカに関してはあまりにも派手でスケールの大きいシナリオと相性が悪かったように思う。アニオリの水族館回でのノノミへのフォローなど、日常パートだといい立ち回りができるだけにもう少しなんとかしてあげてほしい。

今回の章で後輩メンバーたちがしっかり成長してしまうと、ホシノの未練が無くなってしまうので後輩の力で助ける・問題解決するというストーリーにしにくかったのだろうという推測はできる。だが見せ場を作った上でそれに水を差す形で否定する、という見せ方をする必要はあったのだろうか?

 

ユメに関して

ホシノの物語登場人物としては特に文句は無いのだが、プレイヤー視点としては先生として世界観測するゲームで、生徒には無限可能性があると示したのと同じ口でどうすることもできないと言うのは果たしてどうなのか。

全てを許してくれる聖母のような立ち位置先生として庇護すべき生徒を配置した上で、先生には責任がないと許してもらう(しか先生と会話したユメは本編の状況を何も知らず、先生とホシノと三人でアビドスにいるパラレル存在だ)のは些かグロテスクな構図に思える。ヒナの件も後出し列車砲の件で招集した、という描写で「先生は地下生活者と違って自分の生徒同士を将棋の駒みたくぶつけるようなことはしませんよ」と説明してるわけだが、そこを説明するより地下生活者干渉範囲ネタばらしとかもっと描写するところがあったんじゃないかと思う。

どうも三章は生徒に対する先生よりも「シャーレの先生」という立ち位置世界の命運を左右する存在としての在り方に寄った描写が多く感じた。描きたいお話と相性が悪かったんだろうか。でもまあ確かに最終編でアリスが命を賭けるシーンとかもプレイヤーとしては分かった上で生徒を送り出してるわけだし、セカイ系先生概念が相性悪いという話なのかもしれない。

ユメの死因に関してはそんなに明確に言及する必要があるか? と思うのだが、動いてないのに暑いよのミームへのカウンターとして描写したという説がどうもあるらしい。眉唾な話ではあるが仮にそういう意図だとすると三章完結後の現在、露悪要素のない二次創作に対して面白がってユメの死因をネタにしたコメントを書き込んで不謹慎大喜利をする風潮がミームの代わりに蔓延っているのだが、果たしてこれが望んだ光景だったのだろうか。結局ネタバレや不謹慎な内容を避ける流れでホシノサクサク代替としてバズったりしていたし、ミームは変わらず蔓延り、残ったのは悪ノリキャラを愚弄して面白がる空気感だけ。

しかギャグパートシリアスパートで同じ台詞がぜんぜん違う文脈になる、というのはブルーアーカイブお家芸なので何かしらの目的でわざとやってるのはそうなのかなぁとは思う。

ミームの件も合わせて考えると自分シナリオ以外で動かされるのが嫌だったから完全に死人として扱ってるんじゃないかと思わないでもない。そういう都合でキャラクターの結末が歪められたとしたら、三章の根幹部分のお話の受け取り方も変わってくる。

 

対策委員会編二章とエデン条約編の焼き増しではないか

対策委員会編に関しては正直初期のストーリーということもあるし、ホシノをメインに据えた話をするにあたってストーリーラインが似通ってしまうのは仕方ないのかもしれない。そこはおそらく三章の問題ではなく一章二章の方が未来でやる話と被ってしまった、というのが正しいのだろう。

ただ、先生の負傷による一時的退場でその間に加速する情勢、精神的に不安定な強い生徒が暴れてるけどそれとは別に対処しなきゃいけない問題がある、という構図はエデン条約編三章と四章そのままの構造だ。対策委員会編だけならまあホシノの問題は二章では何も解決していないから…と言えるのだが、これに関しては単に話のレパートリーが少ないだけではないだろうか。

本筋以外の部分はスケールが大きいが列車砲+スオウやカイザー軍勢は裏で片付けられているのもあり、ワンパターンを外そうとして派手な設定を入れ、結局扱い切れずに諦めた感もある。頻繁に挿入されてるスチルもこの後負けて即落ちするんだよな…とかカッコつけてるけど後輩の静止振り切って突っ走ってるだけなんだよな…と、シナリオを合わせて見ると微妙感想になるものが多く、手間と内容が釣り合っていない。

 

最近イベント

細部が気になるのは退社とプロジェクトの件だけが原因ではない。直近のイベントストーリーでは出来ている部分が出来ていないからだ。

ーve Alive!ではアイリ意図勘違いしながらもがむしゃらに手を伸ばすメンバーの姿が見られたが、このイベントでのアイリがいなければスイーツ部が存続する意味がない、という言葉こそ対策委員会編三章でユメの意思を継ぎアビドスの為に自分犠牲にしようとしていたホシノに対して、目的否定より何より先に掛ける言葉であったのではないか

say-bing!ではコノカ副局長の立ち回りがブルーアーカイブの根幹となるコミュニケーションであったように思う。カンナにとって大事ものを本人の意図関係なく尊重し、しかアクアパークから帰ってきたカンナが楽しそうだった理由はよく分かっていない、というのは他人はどこまでいっても他人である、だけどそれでも、という古則への回答そのものだ。

seaside outsideでは、人殺し教育しか受けてこなかったような生徒に居場所はあるのかという問いに対してアリウススクワッドのメンバーがそれぞれのやり方で他人と関わる様が見られ、彼女たちにも居場所はあるのだということが示唆されていた。栗浜アケミとそれを慕うスケバンが出てきたのが象徴的で、道を外れた生徒でも受け入れてくれる人がいるというお話を立体的に表現していたように思う。

月下夢騒に関しては続きがある以上結論は出せないし、実質的卒業済みの生徒=大人であるカイの処遇に関しては大きな不安が残る。しかし、黒幕であるカイが何を仕組んでいるかは明白であり、カグヤの暴走もキサキ門主就任仕事が手順を無視してのカイの追放だという部分を加味すると山海経の生徒がキサキ Permalink | 記事への反応(1) | 19:52

anond:20240905010408

ほぼ同意見。逃げ若と赤猫は完走すると思う

真夜中ぱんチは見てないんだが、見なくてもよさそうだね

異世界失格はもうちょっと展開するかな?ギャグが無い絶望先生だと思って見ている

現代誤訳は当たり脚本の回は面白い

デリコズナーサリーは絵が綺麗。ストーリーもこれからだろうという感じ

改めて今期のアニメ一覧を見てみたけど「これも見てみるか」という気が起きる様なものはやっぱり無いなあ

2024-08-28

anond:20240828165857

zenkamono 女年上・男年下(マクロン夫婦等)には「素敵な交際」「頼りがいがある女性」等と称えるくせに、男女逆の男年上・女年下(ハライチ岩井夫婦等)になったとたんに「気持ち悪い」「グルーミングだ」等中傷する人が多い

明らかに状況違うのに、論点ずらししてるの何なん?問題なのは相手が成人する前から交際してたのでは?という点だというのに。



ブリジットとの出会いマクロンが15歳(10年生)のときに遡る。

ブリジットは当時40歳で、マクロンの通う学校国語フランス文学教師であった。

またブリジットは既婚者で子供も3人おり、うち長女のローランスはマクロンと同級であった[109][110]。

マクロン天才少年として知られており、ローランスは自宅で母のブリジットに「なんでも知っているクレイジー少年がいる」とマクロンのことを紹介していた[109]。

ブリジットマクロンが初めて会ったのは、15歳のマクロン学校劇『Jacques and his Master(英語版)』の主演を務めたときであった。

ブリジット演劇部顧問でもあり、マクロン演劇脚本を書き直したいとブリジット相談した[109]。

二人は脚本を書くために毎週金曜日に会うようになり、親密になっていった[111]。

ブリジットは「マクロン10の子供らしい話し方や行動をせず、大人と対等に接していた」[110]

「私は少しずつ彼の知性に魅了されていった」「私は自分が落ちていくのを感じた。彼もそうだった」とのちに語っている[109]。

マクロンの両親は当初、マクロン恋愛をしていることに気づいてはいたが、その相手ブリジットの娘のローランスだと考えていたという。

ところが恋の相手がその母親であると知った両親は、ブリジットに「マクロンが18歳になるまで近づかない」ことを求めた[110]。

両親とブリジットは苦悩し、両親は17歳マクロンに「ブリジットと別れ、アミアンからも離れて、パリの名門学校アンリ4世校へ転校する」ことを命じた。

だが、マクロンブリジットに「あなたが何をしようと、私は必ず戻ってきて、あなた結婚する」と約束し[109][111]、二人はキスを交わしたという[112]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/エマニュエル・マクロン

anond:20240828111827

アニメ漫画を超えることはない

2.5次元の誘惑を見て思ったけど神作画とかでも漫画を読んだときの感動を超えることはないな

漫画って「コマ割り」っていう技が使えるのと、最近Web系だと「カラー化」っていう技が使えるし

ワンパンマンであったけど一部だけ「動画化」ってのもできてしま

そういった組み合わせで至高の感動体験を得られるからもはやアニメではどうにもならないな

実写化なんて以ての外で世界観を実現する手段として漫画は一番なんだと思う

リサについてはテンポが遅いのは仕方ないとしても

「私はコスプレイヤーです」

の名シーンが全然ダメ監督原作読んだのか疑うレベル

とはいえあのシーンって原作だと「コマ割り」で1ページ丸々使った演出しててアニメでは無理でしょ

次のリリサ覚醒シーンも期待できないんだよな

最初からアニメ前提の作品とかアニオリの脚本なら別に良いんだろうけど

漫画原作になってるといつまで経っても漫画を超えることはないと思う

2024-08-22

恋愛ハック

.hack//G.U. やってるんだけどさ、登場人物ほとんど承認欲求デカすぎる女みたいなやつらなんだよな。

昔はなんとなく冗長脚本だなーと思ってただけなんだけど俺も危険物取扱者になってわかったんだけど、日本の「脚本」っていう作業ってテーマにそって承認欲求デカい女を喋らせることを意味しているんだよな(岡田斗司夫)。

今なら俺でも書けるぜ台本が!まず「仕事と私どっちが大事」みたいなこと言うんだよな「そんなに密度の高い関係性を築きましたっけ」って段階で。要するに彼女メロドラマを演じたくて、それに付き合ってあげるのが恋愛なんだよね。

逆説的か。メロドラマメンヘラ恋愛フィードバックループが起きてるのでハウって煩くてかなわないんだよな(シン・岡田斗司夫)。

.hack//G.U.ネタバレ注意!


相手浮気を許容することで「禁断の恋」というシナリオを潰せるんだよなぁ

悪魔の名を看破することでモヤッとした姿が明らかになるんだよなぁ、だからソロモンの書を暗記しとくべき

2024-08-20

セクシー田中の作者の自殺理由わからんのだが

作品を変えないでほしいと言ってて

違った脚本がくるそしたら脚本家に

「お前話聞いてた?担当が悪いの?お前が悪いの?」dmして終わりじゃあないでしょうか。

担当の人にも文句を行ってドラマ化は白紙に戻しますね。秒で終わりそう。

自分で書き直したりはしないんじゃないか

めんどう

2024-08-18

煮詰まる」はいかにして「結論が出る」という意味になったか

それでは夏休み自由研究を発表したいと思います

最初

現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである

注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである

白樺派の例

調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたこである。そして同じく白樺派有島武郎長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブ意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。

大正10年 武者小路実篤自分脚本に就て』

僕は脚本はどうしても人間精神のあらわれである上に、煮つまったものであることを要求します。


大正10年 有島武郎『筆頭語』

心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。


大正11年 木村荘八『泰西名画家伝』

長官デリニのあやが「うまく」かかるもかからぬもなく、競技――即(すなわち)対抗の空気は忽ち煮つまるばかりであった。


大正13年 長与善郎『書斎より』

牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである


昭和5年 岸田劉生演劇美論』

全体として、一つの美しさを出すけれど、旧劇の如く煮つまった味はなく、その美は甘く、低級である


白樺派以外の例

もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブ用法も多かったようだ。

明治40年イヴィッド・パーリー『くらげ』

この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。

『じゃ、この国では、宗教煮詰まって了ったのですネ。』

もとは『The Scarlet Empire』というタイトルアメリカ小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。

大正9年 ドストエフスキー白夜

私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ

こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。

大正10年 岡本一平へぼ胡瓜』

何処かに法華宗があると見え、この熱気の世界の中へ煮詰まった声でお題目をいきみ出してる。

真夏暑い日に遠く法華宗お題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。もの煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。

大正12年 佐々木味津三『呪はしき生存

単にそれを考えるだけでも、彼は天地が煮つまるように感じていたたまらないような震撼を覚えた。

「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。

昭和2年歌舞伎 第三年第十三号』

森金之丞は正直にこれに答えるが、だんだん議場(公議所)の空気が煮つまって行き怒声、罵声騒然たる裡に第一場は閉じて行く。

議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか

昭和6年 大高巌『近代支那文学史上の先駆者

かるが故に自己生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度採用することは一に権力者に反抗する意志学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護有為なる人材を作ることになる。

こちらは「集中させる」「浪費させる」ようなニュアンスか。

昭和9年 式場隆三郎バーナード・リーチ

高村光太郎は余り外に出ない。併し仕事は煮つまってきていると思う。暫らく作品を見ない。

この式場隆三郎白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか

昭和10年 丸山幹治『黒頭巾を脱ぐ』

勿論コチコ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所認識する感服癖さえある。

こちらは「頭が固い」というような用法

昭和10年 ギュスターヴ・フローベールジョルジュ・サンドへの書簡

では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。

翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。

戦後の例

戦前武者小路実篤を中心に、小説詩歌戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論交渉煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。

それに関してわかりやすいのは「国会会議検索」で、戦前の「帝国議会会議検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。

となると次に気になるのは「議論煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブ文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。

昭和34年週刊現代

しか日本側は表面上は「朝鮮総連相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから問題は煮詰ってしまった。


昭和44年『先見経済

やはり人間災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのとき判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。


昭和47年ミュージックライフ

ハイスクールからジュニアカレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジライフ煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである


昭和50年キネマ旬報

その後の二本は結局むしかえしのドラマをやるしかなくて、無残な作品になってしまった

あれも、会社方針企画貧困の為せる業で、プロデューサー監督も完全に煮詰まってしまったんですよ


昭和51年レコード芸術

あい自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。


昭和53年スイングジャーナル

でも、いつか自分のやりたいことをやらないと苦しくなるというか煮詰まちゃうわけだよね。


昭和54年ジャズ批評

昔は、自分が何をやっていいかからなかった。やり過ぎると煮詰まってしまうし。


昭和56年週刊読売

「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まちゃう」「煮詰まちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」


昭和60年 毛利子来岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』

たとえば原稿書いてて、もう煮詰まっちゃって、しょうがない、寝よう、横になると、ア、と思いついちゃう


昭和60年 チャールズ・シェフィールド放浪惑星

その問題ととっくんでいるうちにわたしの頭は煮詰まってしまい、あとをマッカンドリューにゆだねた。


昭和60年 松浦理英子いちばん長い午後』

実はそれは性的遊戯の一環ではなく、二人の交際煮詰まってしまったあげくのもがき合いであった。


結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法議論交渉文脈しか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか

ちなみに、この「行き詰まる」用法誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰ま誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。

まとめ

といったところか。

煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。

それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブイメージ適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブイメージ適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。

もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然感覚である。当初から煮詰まる」は多義的比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。

発表は以上となります。ご清聴ありがとうございました。

2024-08-16

anond:20240816194445

オンライン英英辞典「Merriam-Webster」では名詞の「playback」は録音した音や画像を「reproducing=再生とある

国会図書館でを検索すると「playback」の説明に「再生」と出てくる最も古い書籍は『映画脚本二十講 : トーキーサイレント』(森岩雄1930年)だ。

プレイバック(Playback)試聴。吹込みたるものを、ワックス(「ワックス」を参照)により再生し、それを聞きて良否を定む。


ここでの「ワックス」とは蓄音機で音を記録するための蝋板もしくは蝋管のことだ。

「蝋管」はWikipedia英語版では「Phonograph cylinder」であり、その説明では「medium for recording and reproducing sound」とあり、やはりreproducing=再生である

推測に過ぎないが、『映画脚本二十講 : トーキーサイレント』の「Playback」の引用元とした英語資料でも「reproducing」が使われていて、それを上記のように「再生」と翻訳引用ものがいつの間にか「playback=再生」と誤認され、さらに「play=再生」としても使われるようになったのではないだろうか。

追記

よく考えたら、英英辞典でも「playback」の説明に「reproduce」を使っており、そもそも蝋を使って科学的に音を「reproduce=再生」することが元の意味ということであれば、「playback」を日本語で「再生」としても問題ないように思う。

anond:20240815160832

いまだにvがどういうものなのか分から

配信って何を配信してるの?物語

ならその脚本は誰が書いてるの?

2024-08-14

anond:20240814171858

脚本賛否ありだけど、映像表現に関しては制作側の意欲が感じられるよね

あれぞ良い意味アニメって感じ

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