映画『スオミの話をしよう』を観た。稀代の脚本家、三谷幸喜氏がメガホンを取ったとは思えないほど、つまらない作品だった。何故、これほどつまらないのだろうか。端的にいえば、寒川しずお以外の人物像に説得力がないからである。
もっとも説得力がない人物像は、主人公のスオミである。何故スオミは結婚を繰り返すのか。何故、多重人格のように出会う男に合わせて性格だけでなく、話す言語さえも完全に変えることができるのか。なぜ、身代金要求の狂言誘拐を起こしてまで生まれ故郷のヘルシンキに行くための資金を捻出しようとしたのか。
本来、これらの問いに対して観客を説得するようなエピソードを描くべきだった。しかし脚本は「そういう設定」といって長澤まさみ氏の演技力で観客を説得しようとし、失敗した。寒川しずお以外の他の登場人物も同様である。
なぜ、設定と演技力による人物像の説得に失敗したのか。その理由は、スオミの人物像を連想させるステレオタイプが十分に確立されていないからであろう。例えば、本作品で唯一、人物像に説得力がある寒川しずおはエキセントリックな有名詩人だが、エキセントリックな有名文学者というステレオタイプが文学史やフィクションを通して十分に確立されているので、設定と坂東彌十郎氏の演技力だけで観客を説得することができた。しかしスオミのような人物のステレオタイプは、史実にもフィクションにも見出すことができない。
この映画と比較すると、ドラマ『地面師たち』はエピソードによる説得と、ステレオタイプに乗っかって設定と演技力だけで行う説得を優れた形で組み合わせている。辻本拓海がなぜ地面師になったのか、石洋ハウスの青柳隆史は何故港区の土地を喉から手が出るほど欲しいのか、これらの経緯を説明するエピソードを描いて視聴者を説得している。他方でハリソン山中の場合、『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターなどの極めて高い知性と身体能力を持つ超人的な快楽殺人者というステレオタイプに乗っかって、設定と演技力だけで視聴者を説得することにも成功している。
個人的には、フィクションには説得力が重要と考える。フィクションなのだから、エキセントリックな有名文学者や超人的なシリアルキラーだけでなく、人間のような意思を持つおもちゃや超能力者など物理的に存在しえない人物さえ設定で盛り込むことができる。しかし、これらは観客に対して説得力を持たなければならない。その方法は、既に確立されたステレオタイプに乗っかって設定と演技力で観客を説得するか、エピソードを描いて「だからこの人はこういう風になったのです」と説得するか、これらのいずれか(又は両方)をしなければならない。
単純な話、五等分の花嫁の逆なんだよ 五等分の花嫁がカレー味のうんこなら、じゃあうんこであることをカレーにしてやろうじゃないかと組んだのがあの作品なんだよ
「事実は小説より奇なりって言うけどよおー、当たり前じゃねえかー、だってよー、事実は辻褄を合わせる必要がねえんだからよー」ですね
事実は辻褄を合わせる必要がねえんだからよー って作品が増えるといいな ドラマはやはり作られた物語感がどうしても気持ち悪い
小林聡美のおかげで面白かったんじゃね?と思ってる。
フィンランド好きだからフィンランドの話かと思って期待したら「スオミ」って名前の日本人だと知ってずっこけた
なんかステレオタイプという言葉を誤解してない?要は想起しやすいパターン、様式美ってだけやろ。
ドラマと映画では時間の長さが全然違うんだから『地面師たち』と比較するのはアンフェア そこはちゃんと同じ映画作品で比較しないと
長澤まさみのクボタCMと「花腐し」を重ね合わせたようなお話だと思っている(観ない)
三谷幸喜は「自分の家族が勤務先の人と接してる時、いつもと違うふるまいをして別人のように感じる時がある、それを映画にした」と言ってたけどおかしみまで昇華しきれなかった感...